第4話
八月二十一日
次の日、ナギはなんともない様子で映画館にいた。
「葉月ちゃんおはよう。今日は早いんだね」
いつもはお昼すぎに映画館に行っていたものの、今日ばかりは気になって早い時間に来てしまった。午前中でも太陽は出ていたが、外はなんとなく昼間よりは涼しく、ここまで来る道のりで汗はかかなかった。
「ナギこそ、早いんだね」
「皆がいつ来るか分かんないからさ。それに昨日はたまたま学校の水やり当番があったけど基本的には学校に行くこともないし、結局暇だからここに来ちゃうんだよね」
ナギは近くの椅子を引いて腰を下ろした。ここでナギから学校の話を聞いたのは初めてだ。
「ナギに聞きたいことがあるんだけど」
葉月は浩介と湊と三人で初めてフードコートに集った日の夜の出来事をナギに伝える。
「イヤホンから大量の人の声が聞こえた件。今なら答えを教えてもらえる?」
「ああ、それはね」
ナギの説明によると、この映画館内は磁場がゆがんでいるらしい。そのため、ここで耳を塞ぐとスクリーンの向こうの世界の声が全て流れて聞こえてくるようになっていた。ナギはこのことにはずっと前から気づいていたらしく、平然とした様子で語る。
葉月は理解できたような、理解できていないような。そもそも今となってはナギの存在自体が理解しがたいものだ。頭では理解しているつもりでも、なんとなく違和感が残る。この違和感を払拭するのは不可能かもしれないと思い、葉月は理解しようとすることを諦めナギの言葉を全て飲み込んだ。
そこで葉月の後ろから別の足音が聞こえてくる。浩介と湊だった。
「全員そろったな」
浩介がお前もかという顔を葉月に向けながら笑う。
「二人ともお早いですね」
葉月は同じ質問を投げかける。
「昨日ナギが言ってた花火大会の日付、聞き忘れてたと思って。どうせならちゃんと予定開けておきたいだろ。せっかくの花火大会なんだから」
「僕はなんとなく。そしたら浩介に会った」
ナギは二人の来訪を歓迎する。映画館に集まると、また何てことない楽しい日々が始まるのだという感覚に包まれる。いつの間にかここがそんなに居心地の良い場所になっていたなんて。
「そういえば、これ」
浩介がA4サイズのポスターを取り出し、テーブルに置く。
「ここを見てくれ」
それは葉月が七月末に見に行った映画のポスターだった。浩介が指さしているのは、その映画の監督の名前。
「この監督が、ここの映画館の最後の常連客だったらしいよ。ナギがこの映画館に来ることができたのは、この人のおかげなんじゃないかと思って」
葉月はテレビで見たその監督のことを思い出した。
「そういえば、この人がここに思い入れを持ってるってテレビで特集してるのを、私見ました」
ナギがポスターを手に取り、両手でぎゅっと掴む。
「そっか、私はこの人に感謝しなきゃだね」
自分の存在意義を葉月と浩介と湊がくれたように感じた。主人公じゃなくても自分は自分なりの人生を送って、それで楽しければ良いんだとナギは思った。建物の入り口横につけられた風鈴が軽やかに音を鳴らす。
葉月は一番スクリーンの扉を開けた。そのまま中央の座席に座りスクリーンを見上げる。天気は晴れで、交差点は多くの人が行き交っている。ここからでは豆粒ほどのサイズにしか見えないあの人達も、スクリーンの向こうの世界で生きているのだと考えるとなんだか不思議な感じがした。
スクリーンの中で人の流れに逆らって歩く青い物体が目に入る。よく見ると、それは青い大きなリュックを背負った小学生くらいの少年だった。迷子になったのだろうか、それとも家族がそちら側にいるのだろうか、不自然な動きをしながら行ったり来たりしている。
すると、少年の方へ向かって今度はピンクの大きなリュックを背負った、少年よりも小さい少女が現れた。少年は少女に手招きをするが、なぜがその少女は反対方向へ歩いて行ってしまう。少年は少女を気にせず、先へ進んでいく。
離ればなれになってしまって大丈夫なのかと葉月は心配したが、少女の向かった先には黄色の大きなリュックを背負った大人がいた。母親か父親か、ピンクのリュックを背負った少女はその大人の方へ歩いていたのだった。迷子ではなかったことに、ほっとする。最後は、三人が集いスクリーンの端へと消えていった。
自分の人生にナギと出会い、映画館で浩介や湊と出会ったというようなドラマがあるように、彼らの人生にもドラマがあるのだろう。人々の人生を俯瞰できる位置にいながら、彼らには絶対干渉することができないとは何とも変な感じだ。神様がいたとしたら、こんな感じなのかなと葉月は考え鼻で笑う。
後方から誰から近寄ってくる気配がした。葉月は振り向く。歩み寄ってきていたのは湊だった。
湊も一番の映像を見に来たのかと思っていると、湊はそのまま葉月座る位置へと進み、最終的に葉月の隣に座った。
「どうしたの?」
映画を見に来たという感じではなかった。
「ありがとう」
湊はスクリーンを眺めながらひとことだけ言った。それ以上は語らず、ただぼんやりと葉月の隣に座ったまま歩みゆく人々を見つめている。
湊は言わなかったが、葉月にはそれが何のお礼なのかがなんとなく分かった。ナギに集められた三人は皆、本質的には似たもの同士だから。湊の思いも分かるような気がした。
「湊は、そのままで良いと思うよ」
いつか思ったそのことを、お礼への返事として葉月は口にする。
「うん」
二人は正面を向いたまま、会話を交わす。
「夏休みの宿題は終わりそう?」
「もう終わった」
「それはすごい」
「宿題ないの?」
「大学生は夏休みの宿題なんてないんだよ。まああるところはあるかもしれないけど。しかも、夏休みはまだあと一ヶ月以上あるんだよね」
八月が終われば、ここでの日々も終わってしまう。ナギはこちらに来られなくなるし、湊は学校がある。そんな状況で、自分と浩介がここに来るかと聞かれたら、たぶん行かないだろう。
「九月は何して過ごそうかな」
肘掛けに腕を立てて、頬杖をつく。一人旅でもしてみようかなと葉月は頭の中で考えていた。
そこで背後の扉がまた開く。
「葉月ちゃん、ちょっと来て」
ナギが扉を開けたまま、大声でこちらに呼びかける。
「あ、湊君もここにいたんだ。じゃあ二人とも集合」
葉月と湊が部屋を出ると、通路のソファの上に浴衣が並んでいた。
「今度の花火大会は皆で浴衣着たいなって思って、家にあったのを持って来たの。二人はどれが良い?」
色とりどりの涼しげな和柄の中から、ナギは青い花模様のものと抹茶のような緑の生地の浴衣を持ち上げた。
「葉月ちゃんにはこの辺が似合うかなって思うんだけど。あ、でも黄色とかでも良いかもな」
一旦それらをソファに置いて、今度はシンプルなデザインの男性用の浴衣の置かれている方へ移動する。
「湊君には、この辺が良いかなって思う。どれが好み?」
話はどんどんと進んで行く。浩介の姿は見当たらなかった。
「こんなにたくさんの浴衣、どうしたの?」
葉月は問う。
「家から持って来たの。私のおばあちゃんが呉服屋さんをやってるんだ。今度花火大会に行くって話したら、どうせだったら浴衣で行ったら良いんじゃないって言われて」
五番の部屋から浩介が出てくる。
「着方、これであってるか?」
浩介は紺色の浴衣に身を包んでいた。一足先にナギとともに、浴衣を決めていたようだ。浴衣姿の浩介を見ていると、夏だなという感じがする。
「あってるよ、良い感じ。やっぱり紺色が一番良いかな」
浩介とナギがやり取りをしている間、湊は静かに浴衣を眺めていた。葉月もさっきナギが提案してくれた青と緑の浴衣をじっくりと見る。浴衣なんていつぶりだろう。
「ナギは、どれを着る予定?」
顔を上げて問いかける。
「私はピンクか赤にしようかなって思ってる」
それなら、と葉月は一着の浴衣を手に取る。
「私はこれにするよ」
八月二十四日
朝、葉月は大学の講義室へと入る。学部棟の一階、入り口を入ってすぐの位置にある大教室は静かだった。授業開始時刻はまだなため人はまばらだ。葉月は教室の前を通って、ドアから遠い奥の方の席へと赴く。
夏休みということですっかり忘れていた集中講義。必修ではなかったのに、何も考えず履修することを選んだ四月の自分は何を思ってこの講義を取ったのか、今となってはもう記憶にない。今日から三日間行われるこの講義は本来なら一限の時間から始まるはずであったが、教授の粋な計らいで、講義の開始時刻は従来より一時間遅く設定されていた。
「おはよう、先に来てるなんて珍しいね」
普段は講義の開始ギリギリにやって来る友人が端の方に一人で座ってスマホを触っていた。
「それが聞いてよ。一時間遅く始まるってことをすっかり忘れててさ」
友人の一つ席を空けた隣に座る。肩にかけていた、ほぼ何も入っていないトートバックを机の上に置いて筆箱を取り出し机の上に置いた。
「災難だったね」
「でしょ?来たときすでに二人、人がいたんだけど、時間を間違えたと気づいた時には謎の連帯感が生まれたよね」
その二人がいるであろう静かな講義室に、自分達の話し声が響く。明らかにここにいる全員に話の内容が聞こえてしまっているだろう。他人の会話は耳につくものだ。お騒がせしていますと、葉月は心の中で数名の生徒にお詫びをする。
「てか、葉月なんか焼けたよね?」
「そう?」
自分の腕確かめて友人に尋ねる。
「うん、夏休み前に遊んだ時より黒くなって気がする」
そう言う友人の肌は白い。
「どこか行ったりしたの?」
「別にどこにも行ってない」
「えー、嘘だ」
その後に続く、友人の旅行話に耳を傾けながら適当に相槌を打つ。サークル仲間と二泊三日で海へ行った話を聞いて、そういえば自分も海に行ったなと葉月は思う。お金もかからず、時間も取られず。スクリーンを通って一瞬で違う場所へ行けるというのは意外と贅沢なことなのかもしれない。
「それでね、そこで食べたステーキが超美味しくてね」
続く話は、高校の友人と海外旅行へ行ったというもの。写真を見せながら、楽しそうに話を進める。スーパーで外国語が通じたのだという話に差し掛かったあたりで、講義室も騒がしくなってきた。
「結構この講義取ってる人いるんだね」
葉月は腰をひねって部屋の中を見渡す。
「ちょっと、葉月聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる」
「その意味不明な味の缶ジュースの正体なんだけど、実は」
スマホを触りながら、興味をそそられるような、そそられないような微妙なラインのその話に耳を傾ける。今頃映画館には誰かいるのか、ナギは何をしているのだろうか。
ナギが住む世界を映した映画の公式ホームページには上映終了時期の表示がなされるようになった。地域によってばらつきがあり、もうすでに上映を終了している映画館もあったが、一番遅い終了日は八月三十一日となっている。今日は二十四日。葉月は指を折って残りの日数を数える。今日も含めるとあと八日。そのうちの三日間は集中講義のために潰れてしまう。
「もう帰ろっかな」
ぽつりとつぶやく。単位は諦めて、時間を取るというのも悪い選択ではないのではないか。
「何言ってんの。まだ講義始まってすらいないのに」
そこでノートパソコンを抱えた背の低い教授が忙しなくドアから入ってきた。教卓にパソコンを置き、黒板の前にスクリーンを下ろす。広い教室に見合うサイズの大きなそのスクリーンは、まるで映画館のスクリーンのようだった。講義室内も徐々に静かになっていく。
葉月は、友人に会ったら言おうと思っていたことを思い出した。
「七月末に映画に誘ってくれてありがとね」
あの日、映画に連れて行かれなければナギと出会うことも、楽しい夏を過ごすこともなかっただろう。葉月が感謝すべきは、この友人だ。
「今更どうしたの。なんかあった?」
友人は興味津々といった様子で、こちらに体を寄せる。
「それは秘密」
葉月はナギのように、少し微笑んでその言葉を口にした。
「何それ?葉月っぽくないなー。もしかしてあの映画を見て葉月も恋愛映画とイケメン俳優にハマったとか?」
「なんでそうなるかな?」
「そうなんでしょ。絶対そうだよ。また九月に上映予定の良い映画があるんだけどね」
小声で話を続ける友人を遮るように、部屋の前方の電気が消された。マイクのスイッチが入るプツっという音がする。
「はい、それじゃあ始めますよ」
ゆったりとした声が講義室に響き渡る。これは眠くなる声だと、葉月は覚悟する。
「仕方ないから、またお昼ね」
友人がスマホの電源を切ってカバンに入れた。葉月はノートを取り出し、シャーペンを握って前を向く。端の席に座っているということで、すぐそばのスピーカーからよく言えば落ち着いた、悪く言えば覇気の無い声が届けられる。
授業が始まって三十分後。どこか後ろの方から誰かの寝息が聞こえてくる。ふと横に座る友人に目を向けると、一見真面目にノートに向かっている様だったが友人も目をつむったまま首をカクカク揺らしていた。そんな生徒達の様子を見て、教授がそっと言葉を付け足す。
「言い忘れていましたが、一日の終わりに小テストをしますからね。それで成績もつけるのでしっかり話を聞くように」
その台詞を聞いて、生徒達が途端にざわつきノートを取り出す。緩い講義だと思っていたがそうでもないらしい。葉月も友人を叩き起こす。ばれないように小さく伸びをしている友人に、最後にテストあるらしいとノートに書いてみせる。すると目を見開いて、ようやくシャーペンを握った。
葉月もこれまで以上に丁寧にノートを取ることを心に決めシャーペンを後かす。何かを書くという動作をしたのはずいぶんと久しぶりな気がした。
八月二十七日
誰もいない一番シアターで一人、白地に大きな青い花がちりばめられた浴衣に腕を通す。スクリーンに映る天気の良い街にはたくさんの人が行き交っている。そうとう暑いのか、日傘をさしたり手や何かしらで自分を扇いでる人がいるのが分かる。
信号が青であることを知らせる音を聞きながら、胸元で浴衣の襟を交差させる。そして椅子に置いてあった紙袋の中から柔らかくて細めの紐を取り出し腰に巻き付け結ぶ。浴衣の丈を調節しつつ、同じ紐をもう一本取り出して胸の下辺りを一周させる。襟を整え、後は帯を結べば完成だ。
花火大会当日。ナギはそのままスクリーンの中の自分の家で着替えて来るということで、葉月と浩介と湊は映画館の部屋をそれぞれ使って着替えを済ましナギの待つスクリーンの中へ行こうということになっていた。
花火が打ち上がるのはちょうど六番シアターに映る川の上にある橋から。湊が偶然スクリーンの中へ入れることを発見した日は、四番しかすり抜けることはできないと思っていたが、実際はそうではなく、どのスクリーンも通り抜けが可能だった。
ただしそこには条件があり、ナギが鍵となっていた。ナギは自由にどのスクリーンからも移動できるが、他の三人はナギが通った光の輪しか通ることができなかったのだ。昨日の夜、ナギはわざわざ六番のスクリーンを通って家に帰った。そのため今なら六番スクリーンを通れるのである。
浴衣を着るのも久しぶりだと、葉月は袖を持ち上げて柄を眺める。その後、記憶を頼りに帯を結び下駄に履き替え、ここまで着て来た服を紙袋に畳んでしまう。
扉を開けて外に出ると、シアター前のソファに座って浩介と湊が待っていた。
「お待たせしました」
葉月は声を掛ける。浩介は紺色のシンプルな浴衣を、湊はベージュの涼やかな浴衣を身に纏っていた。
「二人とも似合いますね」
「葉月もよく似合ってるよ」
浩介がそう言ってくれる。
「ありがとうございます」
三人は六番の扉を開けて、六番スクリーンへの中へと向かった。
「こっちこっち」
集合場所である花火大会会場近くの駅の北口へ行くと、淡いピンク色の可愛らしい浴衣に身を包んだナギが待っていた。こちらに大きく手を振っている。その反対の手にはうちわが握られていた。
こっちの世界は少しだけ蒸し暑い。花火が始まるのは午後七時。その約一時間前の現在、すでに川沿いは多くの人で溢れていた。駅からも絶え間なく人が流れてくる。楽しそうな家族づれ、甚平を着た中学生くらいの女子集団、自撮り棒を片手に綺麗に髪をセットした浴衣姿の女性などさまざまだった。
「すごい人」
葉月は思わずそう言う。ここがスクリーンの中の世界だと思うと、自分が見ていたあの映画の中の世界の見えないところで、これほどまでに多くの人が存在していたのだということに驚嘆するほどであった。この中に、あの映画の主人公達もいるのだろうか。
「ここら辺では一番規模の大きい花火大会だからね。遠くから来る人もいるみたいだよ」
「屋台」
湊が指を指した川沿いには、ずらりと屋台が並んでいた。
「お、良いな。あと一時間くらいあるし、屋台を回るか」
浩介と湊が歩き出す。
「葉月ちゃんも、早く早く」
ナギに背中を押されて、葉月も人混みの中へと進んで行く。からあげややきそばのようなご飯系から、わたあめやりんご飴やベビーカステラのようなお菓子系、そして金魚すくいや風船つりやサメ釣りのような遊べるものまで、ずらりと多種多様な屋台が並んでいた。
屋台の数に比例するように人の数も多く、前に進むだけで精一杯だ。葉月とナギはいつの間にか浩介と湊とはぐれてしまっていた。「浩介君達どこに行ったのかな?」
前に歩いていたはずの二人の姿は見当たらない。
「浩介さん身長高いからいたらすぐ分かりそうなものだけど」
葉月も首を左右に振りながら、辺りを確認する。どこを見ても人、人、人。もう気が滅入りそうだった。
「そんなに遠くには行ってないと思うし、私達は私達で祭りを楽しもう。そのうち合流できるよ」
ナギの提案に葉月も同意する。
「ナギはどこ行きたい?」
「うーん、そうだな。あ、あそこに行こう」
ナギが指をさした先にはりんご飴を売っている屋台があった。葉月はナギについてそこへ向かう。屋台にはりんごを丸ごと一個使った大きいサイズのりんご飴と、少し小ぶりなりんごを使った小さいサイズのりんご飴が並んでいた。それ以外にもぶどうや苺の粒を飴でコーティングしたものもある。
「これと、これとこれを一つずつ」
ナギは大小のりんご飴を一つずつと、ぶどう飴を一つ買った。首から下げた小さな小銭入れからお札を取り出しお金を払い終え、葉月に小さい方のりんご飴を渡す。
「葉月ちゃんにあげる。私の腕は二本しかないからさ」
「いくらだった?」
「お金はいいよ。その代わりに、あとで何か買ったときに私にも分けてね。それと、このビニールを取ってほしい」
ナギが大きくて丸いりんご飴を差し出す。かぶせられたビニールを両手が塞がっているナギの代わりに取ると、艶やかな真っ赤なりんごが現れる。
「ありがとう」
そう言ってナギはりんご飴をかじる。口元が少しだけ赤く色づいた。
「美味しい?」
歩きながら葉月もナギからもらったりんご飴のビニールを取り、口に入れる。
「美味しいかと言われるとまありんごと飴だなって感じだけど、屋台と言ったらこれだよね。なんか夏祭りって感じがするし」
ナギがりんご飴を少し上に持ち上げる。屋台の光やずらっと並んで張り巡らされた提灯の光が反射してその表面がキラキラと光る。だいぶ日も落ちてきて、空が薄暗くなり始めた。
「りんご飴って食べ方ちょっと難しいよね」
「分かる」
勢い良くナギから同意が返ってきたことに葉月は笑う。人の騒ぎ声と、セミの鳴き声が聞こえる。
「おーい、葉月とナギ」
それとともに、自分の名前を呼ぶ声が聞こえ声のする方向へ振り返る。浩介と湊が二人の後ろから人の間をすり抜けてやって来た。
「全く、急にいなくなるから焦ったよ。ここじゃ連絡を取る手段もないし」
浩介が言う。
「それはこっちの台詞ですよ」
葉月はそこで浩介の横に立つ湊の手元に注目する。右手には棒に刺さったパイナップルとトルネードポテトを持っており、左手に持った袋の中では赤い金魚が三匹泳いでいる。
「また、たくさん買ったんだね」
湊が満足そうにうなずく。感情が分かりづらいようで分かりやすい。
「急に湊が屋台に向かって走って行くから、そっちを追ったら二人とはぐれたんだよ」
浩介の手にもよく分からないキャラクターの絵が描かれたベビーカステラの袋が握られている。
「湊君のそれ何?美味しそうだね」
ナギはトルネードポテトに興味を持ったようで、自分の持っているりんご飴とポテトをお互いに味見しあっている。
「湊は屋台にはしゃぐタイプだったんですね」
「甘いもの好きだしな。葉月もカステラ食べるか?」
「もらいます」
葉月は紙袋に手を突っ込んでカステラを一つつまみ上げる。クマのような形をしたそれを口に放り込んだ。思っていたより美味しく感じたのは、この場で食べているからだろうか。
そこで放送が流れる、市長が花火大会の開会宣言をするとともにカウントダウンが始まった。その後ろでは葉月の知らない、男性アイドルグループの明るくてテンポが早くノリの良い曲が大音量で流れている。
「もうすぐ花火だ」
ナギが大きな声でカウントダウンに参加する。曲とカウントダウンと、葉月の気持ちも自然と高まる。
3、2、1。
タイミング良く暗い空に大きな花火が打ち上がる。すると周囲から歓声が上がった。
赤い大きな光が体を包み込むように上空で伸びやかに広がった。その瞬間、鳥肌が立ち興奮する。葉月の顔から笑顔がこぼれる。やっぱり花火はとても綺麗だ。
ナギと浩介も満面の笑みを浮かべている。湊もいつもよりは大きく笑っていた。
「花火、すごい綺麗だね」
「思っていた数十倍迫力があるな」
周りの声と、花火の上がる音に負けないようにナギと浩介が声を張り上げる。
「来て良かった」
葉月の耳が、湊の小さなその声を捉える。
「私も来て良かった」
目を輝かせている湊に向かってそう言った。
高い位置で大きく花開く花火はとても迫力がある。鳴り止まない、途切れることのない火薬が爆発する音。花火が上がった後の、光の点や線となってとなって散っていく様子もはかなくて良い。一発一発が打ち終わるたびに拍手と歓声が巻き起こる。
「次は10号玉の花火です」
そんな放送が聞こえる。花火が夜空高くへと昇っていく軌跡、どんなものが開くのだろうかというわくわく感。光の後に遅れてやって来る音が、辺り一面に響く。花火と一言で言っても、その上り方、色、大きさ、形などがさまざまで面白い。
「ハートだ」
横でナギが声を上げる。葉月は空を眺める。
赤い花火が暗い空に美しく映える。
斜めを向いた花火。繊細で大人しい風情のある花火、ただただ大きくてキラキラしていて迫力のある花火。一気にいくつもの花火が同時に開く花火。開かない、しだれ桜みたいな花火。火花が一つ一つ不思議な動きをする花火。
葉月は美しい光景を立ち止まったまま眺めながら、花火の美しさは永遠なものだなと思った。どの世界でも、どの時代でも、花火はきっと昔のまま綺麗なままこれから先もずっと人々に愛され続けて行くのだろうと思った。
次の花火が昇って、大きく開くまでの間に一瞬の間がある。その間に、どんなものが開くのだろうかという期待が高まる。
その次は昇る光が途中で止まり、そのずっと上空で突然花が開いた。どこで花火が開くのか分からない分、楽しさも増す。大きく、そして伸びやかに広がり散っていく。
続いて緑色の花火が上がる。赤やオレンジ色の花火が多い中、珍しい色だなと葉月は思った。
花火大会の開始時刻は午後七時、終了予定は午後九時で、二時間も続くのかと思っていたけれど、始まったら一瞬だ。花火の美しさだけは、写真じゃなくて実際に見るのが一番だとも思う。
その瞬間、ひときわ大きな花火が打ち上がる。バーンと弾けてキラキラと消えていく。このタイプの花火が一番好きだ。思わず葉月も歓声を上げた。
「楽しかったね」
ナギが飛び跳ねる。最後の花火が終わった後、四人は駅に向かう人の流れに逆らって光の輪に向かって歩いていた。
「すごく楽しかった。私、花火を生で見たの久しぶりだったから、光が降ってくるみたいで、迫力があってすごかった」
感じたすごさを言葉で表せないのがもどかしかしい。
「確かに、すごかったな」
しかし、四人は同じ花火を見ていたのだ。言葉で表せなくても、抱いた思いを共有することはできる。
「最後に写真撮ろう」
ナギがどこからか小さなカメラを取り出す。そしてそれを持って近くにいた人に話しかけた。
「はいはい、並んで」
提灯の明りの下で四人が並ぶ。
「取りますよ」
写真を撮ることを快く了承してくれた女性が、こちらに声をかける。葉月は動きを止める。
「はいチーズ」
誰にも言っていなかったが、今日は葉月の誕生日だった。特に祝ってほしいとは思っていない。ただ良い誕生日だなと心の奥で思いながら、約一ヶ月前の自分に頭の中で話しかける。
「今年の夏は、最高の夏だよ」
夏の思い出を切り取った一枚。後日ナギが印刷して渡してくれたその写真は葉月にとって大切な一枚となった。
四月七日、桜が咲く春
葉月は大学の講堂前の広場の端にいた。講堂の中では現在入学式が行われていて、出入り口付近は部活動やサークルの勧誘をする人達で溢れている。揃いのジャージを着た人達、ビラを何枚も持った人達、入学おめでとうという自作の看板を持った人達など。それぞれが固まって、新入生が講堂から出てくるのを今か今かと待ち構えていた。
カバンから一眼レフを取り出し、頭の上に咲いている桜を切り取る。空の青と、桜の淡いピンク。懐かしい配色に葉月は軽く微笑む。
「葉月」
誰かに名前を呼ばれ、振り返る。
「浩介さん」
ここまで走ってきたのだろうか、息の上がった浩介がいた。葉月はカメラを下ろす。
「お久しぶりです。遅かったですね」
「久しぶり。実験が長引いてさ、まだ入学式は終わってない?」
「予定より長引いているみたいです」
葉月は腕時計を確かめる。終了予定時刻を五分ほど過ぎていた。浩介と会うのは二年ぶりである。
大学三年の四月初め。新入生でもなく、部活やサークルに所属しているわけでもない葉月がこの場にいる理由はただ一つだった。
「そのカメラ買ったの?」
「はい、あの後に。今ではすっかり私の趣味です。そのおかげで単位がやばいことになってますけど」
笑い事ではなかったが、浩介は笑う。
「まあ、充実してるなら良いんじゃないか。
それにしても、賑わってるな。天気も良いし絶好の勧誘日和ってとこか」
目の前に点在する集団へ目を向ける。
「そうですね」
視線を見ていると、出入り口からすっとスーツ姿の人が一人出てきた。おそらく新入生だ、入学式が終わったのだろう。
最初の一人を皮切りに、ぽつぽつと会場から新入生が出てくる。勧誘をするために集っていた人々も、やっと獲物が来たという勢いで出てくる新入生に近づき囲んで声をかける。
だんだんと出てくる人も多くなり、二人の目の前の広場はあっという間に人で満たされた。喋り声が至るところから聞こえてくる。
「この中から見つけられますかね?」
浩介が人々の頭の上を見渡す。
「一応集合場所も伝えてあるし、探しに行くよりは大人しく待った方が良いかもな」
遠くを見る二人の死角から、一人の青年がやって来る。
「久しぶり」
急に後ろから話しかけられ、葉月と浩介は勢い良く振り返る。スーツに身を纏い、凛とした姿でそこに立っていたのは湊だった。ずいぶんとまた背が伸びている。
「湊、久しぶり」
「お前どこから来たんだよ」
湊が講堂の入り口横の柱を指さす。
「あの柱の裏を通って、脇道から来た」
そういうところは相変わらずだ。
「入学おめでとう。湊が一番成長してて驚いたよ」
「葉月は背、縮んだ?」
「一ミリも縮んではいない」
三人は並んで講堂から遠ざかる。向かう先は駅。この大学には門がなく、キャンパス内に道路があって車が走っていたり駅やバス停があったりする。
「湊は部活の勧誘とか受けてかなくて大丈夫か?」
足早に帰路へつく新入生は少なく、ほとんどは広場で立ち止まって新入生同士話をしたり、親子で写真を撮ったり、勧誘に捕まったりしている。
「もう決まってる」
湊が足を止める様子はない。
「それより、会いに行きたい人がいるから」
「そうだな」
講堂から少し歩いたところにある大学の名を冠した駅の一番出口のエスカレーターを下りる。
互いの近況について話ながら、大学から地元の駅まで電車に揺られること約一時間半。間に一回乗り換えを挟んでようやく戻ってくる。
「現地集合でも良かったのに」
さらにここから徒歩で二十五分くらいの道のりを行く。
「再会は劇的な方が良いだろ?それに湊の晴れ姿も拝んでおきたかったし」
「湊はすっと隣に現れるし、劇的という感じはあまりしませんでしたけどね。浩介さんはもともと今日大学にいたから良いですけど、私はあのために大学に行ったんですよ」
春休みに大学に用がなかった葉月は、その劇的な再会のためだけに往復約三時間を費やしたのだった。
「葉月には申し訳なかったと、後から思ったよ」
「まあ、綺麗な桜が撮れたんで許します」
葉月と浩介と湊が向かった先は、三人の出会いの場である映画館。ガラス張りの四角い建物は、初めて見たときと全く変わらない。浩介がドアに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
中から物音が聞こえた。駆け寄って来た、変わらぬ姿の少女。ワンピースの裾が揺れている。三人の表情が自然と明るくなる。
「二年ぶり、元気だった?」
「もちろんだよ」
少女は微笑む。
今年の春に、あの青春恋愛映画の続編が公開されることが決定していた。ナギと初めて会った夏から二年が経った。今日がその公開日。
四人の非日常はまたここから始まる。今度は何をしようか。
シネマ・コネクト タマキ @tamaki_
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