第3話
八月十一日
薄暗いリビングのソファに寝転んで、葉月はアイスクリームを食べながらぼーっと天井を眺める。今日の天気は曇り時々雨。いつ雨が降り出すか分からなかったため葉月は家の中で静かに時が過ぎるのを待っていた。
電源がつけっぱなしのテレビからは、地元のニュース番組が放送されている。エアコンのついた部屋は涼しく、体感的には何の不満もないといった感じだったが天気が悪いせいか何もやる気が起きない。糖分を補給すれば活力が湧いてくるのではないかと思ったが、そうはいかなかった。
もういっそのこと今日はだらだらする日にしようと決め込んで、テレビの方へとなんとなく視線を移す。動く映像と、芸能人の話し声はするっと葉月を通り抜ける。テレビが視界に入ってはいるが、その情報は一切頭に入ってこない。
アイスを食べ終え、木の棒を袋に戻してフローリングの床に置いておく。ゴミ箱までは距離があったため、あとで捨てに行くことにする。
「暇だな」
忙しい日々と、暇な日々。そのどちらが良いかと問われたら間違いなく後者を選ぶが、暇は暇で苦痛なものだった。葉月はソファのすぐそばの位置にある窓の外に目をやる。曇り空は好みではない。
「さて、本日の特集コーナーです」
テレビから元気な若い女性の声が聞こえる。
「地元出身、今話題の女性映画監督を取材してきました。それではVTRどうぞ」
抑揚のついた、滑舌の良い話し声。葉月はもう一度テレビの方へと目を向ける。画面は切り替わり、たくさんの本が並んだ背景の前でVTRの振りをした女性と、また別のボブヘア女性が現れた。
「あ」
画面の右上に、見たことのある映画のタイトルが表示されていた。八月に入る前、ナギの声を初めて聞いた日に友人と見に行った映画がそれだった。
「地元出身だったんだ」
にこやかに語るその女性を葉月は眺める。
「映画の舞台となったのは、地元の町並み。皆さんの身近な場所も多いのではないでしょうか。実際にその場所を一目見ようと、観光客も増えているということです。地元へのこだわりも語ってくださいました」
女性の仕事の様子を映した映像とともに、アナウンスが流れる。再び映像が切り替わり、今度は女性の幼少期の写真がスライドショーのように映し出される。
「私の家の近くに映画館があったんです。子どもの頃から、家族と一緒によくその映画館へ足を運んでいて、私が映画監督になりたいと思ったのもその映画館の影響が大きかったのだなと今となっては思います」
そこで切り替わった写真に、葉月は目を奪われる。父親と幼い女の子が手を繋いでこちらを向いている写真。その二人の背後には、見覚えのあるガラス張りの四角い建物が存在していた。
「今はこの映画館は営業していないんですけれども、建物自体は残っていて。いつか自分のルーツであるこの映画館を再び昔のように賑わいに満ちた場所にしたいというのが今の私の夢でもあります」
そこで映画館の話題は終了し、公開中の映画について深めていく話が進んでいく。
自分が今足繁く通っている映画館もかつてはお客さんで満ちて、今もなおその映画館のことを覚えている人がいるということに、当たり前ではあるのだが、それでもどこか不思議な感じを覚えた。
葉月は立ち上がり、冷蔵庫からエナジードリンクの缶を取り出す。蓋を開けて、冷たくて甘いその液体を一気に体に流し込んだ。
缶をテーブルの上に置いて、置きっぱなしにしてあったアイスのゴミを拾い上げゴミ箱に入れる。そのままリビングを後にして自分の部屋へ向かう。英語の勉強でもしようかなとぼんやりしながら階段を上っていく。
八月十五日
スーパーの前の自転車置き場の、わずかに空いているスペースにブレーキをかけながら自転車を入れる。ぐっと両手に力を込めると、少しだけ反動を残して自転車は止まった。左側に降り、スタンドを下ろして鍵を抜き取る。カゴに入れておいたショルダーバッグをかすめ取り、そのままスーパーの自動ドアをくぐる。
スーパーの中はかなり冷房が効いていて、寒すぎるくらいだった。葉月は腕を軽くさする。買い物カゴを手にして食品コーナーへと向かった。
夏休みも中盤。世間はお盆だというのに、葉月は今日も映画館へと足を運ぶ。湊の宿題も主に浩介の熱心な指導のおかげで順調で、四人の仲もなんだかんだ縮まったように思える。
今日は八月頭に決めた、四人で集まる日のうちの一日だった。午前中から流しそうめんをして、夜には流星群を見る予定となっている。なんとも夏らしいイベントが詰まった一日だ。葉月は買い出し担当となっていたため映画館へ行く前に、遠回りをして地元のスーパーに立ち寄ったのだった。
左手に持ったカゴを揺らしながら、右手でスマホを持ち、浩介から送られてきた買い物リストに目を通す。買うべき物はすべてそこにまとまっていた。まずは肝心のそうめんを求めて野菜コーナーを通り過ぎる。
麺類が売っていそうな場所へと歩みを進めると、夏だからだろうか、目につく位置にそうめんコーナーが出来ていた。ちょうど目線の高さには、いろいろなメーカーのそうめんが並び、その下にはボトルのめんつゆが積み上げられている。棚の上の方にはわさびや薬味、かけるだけで肉味噌、担々麺、明太子クリームなどの味付けができる変わり種のソースなども並んでいた。
とりあえず、浩介のメモに忠実に品物を手にしてカゴへと入れていく。そうめんはたくさん種類がありすぎてどれにするか迷ったが、名前の聞いたことのあるメーカーの値段の安い物を選択した。
その後も順調に買い物を進め、カゴはどんどん埋まっていく。葉月の足は自然とアイスコーナーへと向かっていた。リストにはないが、余分に買う分には問題ないだろうと箱のアイスを二つカゴに入れる。レジでお金を払って、買った物を袋に詰める。そしてそれを持ってスーパーを出た。外はやはり暑かった。一応ドライアイスを入れておいたとはいえ、アイスが溶けてしまわないか心配になる。
青空の下、自転車を走らせる。部分的に上からコンクリートを重ねられた道路の、そのでこぼこで自転車と体が跳ねる。それと同時に、前カゴに入ったスーパーのビニール袋も大きく跳ねる。ペダルを漕いで、風を感じながら葉月は空を仰ぐ。
天気は快晴。恨めしいくらいの青空には雲一つない。太陽を隠すものも空には存在せず、その光が一心に体に降り注ぐ。
ハンドルを握る腕に目をやる。夏休みが始まったばかりの頃に比べて、確実に肌は焼けて小麦色になっていた。なぜが右腕の方が黒く、今も右腕ばかりに紫外線は降り注いでいる。どうせなら全体的にバランス良く焼けたいものだと、葉月は半袖Tシャツの袖を肩までまくる。袖で隠れていた部分は、露わになっていた部分に比べて白い。
「お待たせしました」
映画館の入り口前に自転車を止める。そこにはすでにナギと浩介と湊が集合していた。
「お、食材の到着だ」
浩介が顔を上げ、首にかけていたタオルで汗をぬぐう。目の前には真っ二つに割れた長い竹と、それを見守るように膝を抱えてしゃがんでいる湊がいる。
「すごいですね。これが湊の家にあったっていう竹ですか?」
袋入りのそうめんと、ボトルに入りのめんつゆと、薬味と、割り箸とお皿代わりの紙コップなどが入った袋をカゴから持ち上げて葉月は近づく。
「湊のおじいさんの家から貰ってきたんだよ。ついでに綺麗に切ってくれてさ、あとは節を取って組み立てるだけなんだ」
浩介の手にはトンカチが握られている。
「本格的ですね」
「やっぱり流しそうめんは竹でやったほうが趣があって良いよな。なあ、湊?」
「うん、楽しみ」
分かりにくいが、湊が小さく微笑んだ。出会ったばかりの数週間前に比べて湊の表情はかなり豊かになった気がする。そして、浩介も自然に楽しそうに笑うようになった。葉月自身も、他人といることが楽しくなっていることに気づいていた。どことなく、三人は似ている。だからこそ波長が会うのかもしれない。
「ナギは中にいるよ。こっちは順調だから、そうめんをゆでてきてくれ」
「分かりました。湊も浩介さんを手伝うんだよ」
「頑張って応援してる」
湊のつぶやくようなその発言を聞いて笑いながら、葉月は二人のもとを離れて入り口のドアを開ける。室内はやっぱり涼しい。
待合室のテーブルの上にはカセットコンロとガスボンベが置かれていた。葉月はそのそばにスーパーの袋を置く。
「食材、買ってきたよ」
誰もいない空間に向かって声をかけると、どこからか持って来たのか、大きめの鍋を持ったナギが奥から出てきた。
「ありがとう。じゃあさっそくゆでようか」
鍋にはたっぷりの水が入れられていた。ナギは手際よくボンベをセットして、火をつける。
「ナギはもう外の様子見た?本格的な流しそうめん装置が出来上がりつつあったけど」
「見たよ、竹でしょ?浩介君と湊君が竹抱えて持って来たときは私も驚いちゃった」
その様子を葉月も想像する。
「あれを担いで来たのか。結構重そうだけどね」
鍋の中の水がふつふつと泡を出し始めている。葉月はレジ袋からそうめんを取り出して、包装の袋を手で開ける。
「そうめんってすぐにゆで上がるんだ」
袋の裏側にはゆで時間は一分半から二分と記載されていた。
「本当だ。すぐにできちゃう」
沸騰したお湯に出したそうめんを入れる。すぐに割り箸を一膳取り出して、鍋の中を軽くかき混ぜる。
「そういえば、そうめんを流す水ってどうするのかな?外にまく用の水はあまり綺麗じゃないだろうし。ここの水道も長く使われていなかった分、衛生的にどうかとは思うし」
ナギが心配そうに見上げてくる。葉月は先日浩介から聞いた話を思い起こす。
「確か大きめの桶に買ってきた水をためて、氷で適宜冷やしながらそれをホースで循環させるって言ってたよ」
「へー、そういう方法があるんだ」
「湊が知ってたんだってさ」
ナギは箸で器用にゆであがったそうめんを銀色のボールに入れる。全て取り出し終わってから、水で軽く濯ぎに行った。
その間、葉月は第二陣のそうめん達をゆで始める。ガラス越しに、外では浩介が作業をし、湊がそれを眺めている様子が見えた。葉月は背もたれのついた椅子を壁沿いのカウンター席から持って来てそこに腰を下ろす。
結局のところ、ナギが何者なのかということはまだよく分かっていなかった。浩介も確信に至るような手がかりはまだ掴めていないらしい。ただ一つ、この映画館の過去については明らかになったことがあった。時は五年前に遡る。
その頃、映画館は営業の危機に陥っていた。もともと駅からも遠く、車でしか行くことができないというあまり好ましくない立地に建てられたこの映画館は、隣の市に大きなショッピングモールができ、その中に新しく映画館ができたことによって客足が遠のいて行った。
実際、葉月にとっても映画を見に行くと言ったら、そのショッピングモール内の映画館に行く機会の方が圧倒的に多かった。映画を見た帰りに、ご飯を食べたり、買い物をしたりすることもできる。さらには駅から直通の通路まであるその映画館に、小さな田舎の映画館が勝てるはずもなかった。結局この映画館は営業を終了し、その広い駐車場は畑となり建物だけが残されたのだった。
「葉月ちゃん、出来上がったそうめんはこのテーブルに置いておくから」
「分かった」
珍しく一つ縛りにしたナギのふわふわとした髪が揺れる。葉月はあの夜以降、少しだけナギの正体が気になり始めていた。出会った時に、秘密が多い方がワクワクするだろうと言っていたナギの言葉の意味を今頃になって実感する。第二陣のそうめんも完成し、葉月はこの場をナギに任せて再び外に出た。
「こっちは完成しましたよ」
声をかけると、浩介はちょうど細い竹を三本組み合わせて紐で結んでいるところだった。
「俺もあとこれらを組み立てるだけだよ」
竹が何本か組まれた、ビデオカメラの三脚のような形をしたものがもうすでに二つ出来上がっていた。そのそばでは湊が、なにやら水色の新品のホースを持って作業をしている。
「湊は何をしてるの?」
「水を流す装置を作ってる」
足下には二リットルのミネラルウォーターのペットボトルが並んでいた。表面についた水滴が、太陽の光を受けて輝いている。
「手伝うことはある?」
葉月の問いかけに、湊は首を横に振る。その顔は赤く火照っていた。これだけ炎天下のもとにいても湊の肌は焼けて黒くなっている様子が全くない。赤くなるだけで、黒くはならない体質なのだろうなと葉月は少し羨ましく思う。
手伝えることもなさそうだったので、移動して建物のそばのブロックの上に腰を下ろす。そこはちょうど日陰になっていてとても涼しく、見上げた先には白くて分厚いもくもくとした雲がゆっくりと左から右に漂っていた。
どこからか風鈴の軽やかで涼しげな音が聞こえる。葉月は腰を反らして、音のした方向を見た。
映画館の壁のガラスに、吸盤で風鈴が取り付けられている。透明度の高い丸いガラス部分には赤くて可愛らしい金魚の絵が描かれており、その下の短冊のようなものが風に揺れ鈴が鳴る。
「風鈴なんてついてたんですね」
目の前の日向にいる浩介に話しかける。
「ああ、ナギが持って来てつけたらしいよ」
「そうだったんですか」
再び腰を反らして風鈴を眺める。とても夏らしい。
「よし、湊そっちの端を持ち上げてくれる?」
そうめんを流す部分を台にセットするため湊が召集される。二人で端と端を持ち上げ、竹が緩やかな傾斜を持った状態で宙に浮かぶ。紐で固定して、流しそうめん台の完成だ。
「おお、すごい」
思わず葉月の口から感嘆の声が漏れる。ちょうど正午を知らせるサイレンが辺り一帯に鳴り響く。葉月のお腹も空いていた。
「水を流してみるか」
浩介の指示を受けて湊が黙々と手を動かす。少しして、半分に割られた竹の間を水が流れ始めた。涼しげな音を立てて流れる水がキラキラと光る。竹の節にぶつかって跳ねた水が腕に当たる。流れ落ちた水は桶に貯まり、ポンプでくみ上げられてホースを通ってまた上流へと流れていく。滞りなく水が流れていく様は壮観だった。湊は満足そうな顔をしている。
「ナギを呼んでくるね」
二人にそう告げ、葉月は駆け足で映画館のドアを開ける。
「ナギ、装置はできたって」
「本当?」
ナギの顔が華やぎ、瞳が輝く。
「立派なものができてるよ。めんを持って行こう」
「うん。楽しみだな」
両手に荷物を持った二人はドアへと向かう。ナギの足取りは軽く、スキップをしているようだった。葉月は塞がった両手をものともせず、肘と背中を使ってドアを開ける。
「それじゃあ流すぞ」
準備が整い、浩介が高い位置からそうめんの束を落とす。目の前を水にさらわれた白い束がすっと流れていく。横にいたナギが箸でそれを救い、めんつゆの入った紙コップにつけてすする。
「うん、美味しい」
ナギが箸を持ち上げ、頬を高くする。
「そう言ってもらえると、頑張って竹を運んで来たかいがあるよ」
浩介も嬉しそうだ。
「もっと流してください。私も食べたいです」
「分かった、分かった」
次々とそうめんが流れてくる。それを箸ですくい上げて、めんつゆにつけてすする。「楽しい」それが葉月の率直な感想だった。ただゆでたそうめんを食べるのとは違う、心躍るような楽しみを感じた。
「水の流れはどう?」
「ちょっと早いかなとも思うけど、良い感じだよ」
ナギが浩介に返事する間にも、そうめんはどんどんと流れてくる。取り損ねたものは下流のバケツの上置かれたザルに残るような仕組みになっていたが、そこにそうめんはほとんど無かった。
「代わる」
「お、ありがとな」
湊が浩介と交代して、麺を流す係となった。大ざっぱに掴んだそうめんの塊がちょうど良い感覚で流れてくる。葉月は一塊すくって、それをつゆにつけながら顔を上げる。
青い空と、流れゆく水の音と風鈴の音、手にした紙コップに入っためんつゆとそうめんの冷たい触感、降り注ぐ日差しとにじみ出る汗と人の楽しげな声。全ての要素が重なって存在していることで、心地の良い今を作り出していた。葉月はそんな今を忘れてしまわないように、胸に刻む。
そのまま映画館に滞在し、あっという間に夜を迎えた。
「先に上に行ってて、はいこれ屋上の鍵」
葉月は鍵を受け取って一人で先に屋上へと向かう。丸い銀色のドアノブの中央にある鍵穴にそれを差し込み、ノブを回してドアを押す。
夜風が葉月の体をさらった。ドアノブから手を離しそのまま屋上へ出て行くと、入ってきたドアが独りでに閉まった。正面では映画館の目印にされていた赤い旗が、今も風に揺れている。
そこで、辺りが一瞬にして暗くなった。四方を畑に囲まれた映画館の周りには高い建物もなく、強い光を放つものもない。唯一の光の源であった映画館の電気がナギによって消され、真っ暗になったのであった。赤い旗も黒く見える。
葉月は夜空を見上げる。初めはただ真っ暗な空にしか見えなかったが、暗さに慣れてきたのか、だんだんと星が見えるようになってくる。
屋上の手すりに手をかけて、首をもっと上に曲げる。満天の星空とは言えなかったが、それでもそれなりの数の光が輝いている。家から十分足らずの場所でこんなにも星が綺麗に見えるなんて、今まで知らなかった。
「ここからだと、星が綺麗に見えるね」
電気を切って屋上へやって来たナギが隣に立つ。
「そうだね」
葉月は少しだけ首を曲げた角度を緩める。首の後ろの筋肉が強ばるのを感じた。午後十一時。星は見えるがまだ流星は見えない。
浩介と湊は近くの、と言っても自転車でも割と時間のかかる距離にあるコンビニへ行っている。屋上から下を見てみても、まだ二人が帰ってくる様子はない。星空の下、葉月はナギと二人きりだった。
葉月は思い切って、これまでに気になったことをナギに尋ねてみようと思った。「それは秘密」という答えしか返ってこない可能性もあるが、聞いてみるだけ損はないだろう。頭の中で言葉を整理する。
「ナギにいくつか質問があるんだけど、良い?」
ひとます、前置きをしてみる。
「葉月ちゃんから質問って珍しいね。良いよ」
夜空の下、二人の間に流れる時間のようにゆっくりと葉月は言葉を口にする。
「まず、一週間くらい前の話。夜に映画を見に来たことがあったんだ。その時はナギはいなくて、館内には他の誰もいなかった」
「その時私はどこに行ってのかって、前に聞かれた気がする」
ナギが手すりを持ったままかかとに体重を乗せて、背もたれにもたれかかるみたいに体をだらんと後ろに預ける。
「そう、その日。ロビーでイヤホンをつけたら声が聞こえたんだ。たくさんの人の声。あれは何だったのか説明してもらえないかなって思って」
「もしかして、浩介君と湊君と三人で一緒にここに来て二階に行ってみたいって言った日。どこか別の場所でそのことを三人で推理でもしてたの?」
葉月は肯定する。
「そっか、楽しそうで良いね」
夜空を眺めながら、ナギが少しだけ哀しそうな顔をする。
「イヤホンから聞こえたその声について説明しようとすると、私の秘密を全て明かさなくちゃならなくなるから、それは秘密ってことで」
ナギが一度しゃがみ込み、そこから勢い良く立ち上がる。
「でも、その代わりに別の秘密を一つ教えてあげる」
葉月はナギを見る。
「私はこの映画館からは出られないんだよね」
弱々しく微笑むナギ。こんな表情は会ってから初めて見たかもしれない。ナギの発言よりもそっちの方がなぜか気になった。
「なんでそんな哀しそうな顔をしてるの?」
ナギは右手を頬に当て首を傾げる。
「そんなつもりは無かったんだけどな」
一度うつむいて、それから星を見る。葉月も同じように空を見上げた。いくつかの光が、見えては消える。あの光は幻なのか、それとも本当に宇宙のどこかに存在している光なのか。葉月の視力では、それが曖昧なままだ。
「自分がこの世界の主人公じゃないって気づいたらどう思う?」
「主人公」
葉月はその言葉を復唱する。けれど、その問いが自分向けられているという気がしなかった。きっとナギは自分自身に問いかけているのだと思い、答えを口にすることなく黙ってナギのそばにいる。
「そっか。私は哀しかったんだね」
ナギもナギで何か悩みを抱えているのだろう。葉月はそう悟った。
しばらくの間、ナギとともに星空を見上げる。虫の羽音が近くで聞こえる。その音は強くなっては弱くなり、また強くなっては弱くなるというのを繰り返していた。飛べなくなってしまったのだろか。葉月は広い夜空に目を向けながら、その音のする方向へ頑張れと念を送る。流星群はまだ見えない。
地上を見下ろすと、遠くから二つの光がこちらに近づいてきているのが分かった。おそらく浩介と湊が戻ってきたのだろう。葉月は最後にもうひとつ、気になっていたことを聞いてみる。
「私は記憶にないんだけどさ。私がこの映画館に来る以前に、私達はどこかで会ったことがある?」
「秘密」
ナギはそうつぶやいてから手すりから身を乗り出して、下に向かって声をかける。
「お帰り。何買ってきたの?」
すっかりいつもの調子戻っていた。
「お菓子とかいろいろ買ってきたよ」
二人が地上で自転車を止め、カゴから大きな袋を取り出す。
「それにしても、映画館の電気を消すとこの辺りは本当に真っ暗だな」
「周りに何もないからね」
屋上と地上で言葉を交わす。
「入り口を入ってすぐのところに懐中電灯を置いておいたから、良かったら使って」
ナギがそう言うと、浩介がお礼を言って湊を引き連れて建物の中へと入っていった。
八月十九日
予定していた花火大会の前日。
「ここはこの公式を使えば良いんじゃないか?」
珍しくナギがいない映画館内のロビーで湊は夏休みの宿題のラストスパートをかけていた。浩介の助言を受けて、湊のシャーペンを持った手はスラスラと動く。葉月はその横のテーブルに一人でつき、スマホで天気予報を見ていた。
今日の天気は晴れだったが、台風が近づいてきている影響で明日は雨が降るらしい。特に夜にかけては大雨になると予想されており、花火大会も中止かなと少し残念に思いながらスマホの電源を切る。
「そういえば浩介さんはナギのこと、何か分かりましたか?」
葉月は身をよじらせて浩介の方を見る。
「いや、特には。本人に聞くのが一番手っ取り早いという結論に至っていろいろと質問してみたけど、ナギは何も話してくれなかったよ」
「それは秘密ってやつですね」
葉月はナギに言われたその言葉を真似てみる。
「まあ、いつかはナギがその秘密を教えてくれるって言ってたので、もしかしたら秘密は秘密のままでも良いのかもしれませんね」
葉月はナギの哀しげな顔を思い出す。
「私はその方が気楽で好きですし、何なら浩介さんがどこの大学に通っているかすら知りませんし」
「確かに言ってなかったな」
続いて浩介が口にした大学の名前に葉月は驚く。
「同じ大学じゃないですか」
通っているのは同じ国立大学の、葉月は経済学部、浩介は理学部だった。
「聞かなければ良かった」
葉月は頬杖をつきながら余所を向く。この映画館以外の場所において、葉月はできることならここで出会った人達と接点を持ちたくなかった。期間限定の付き合いだというところが、葉月の思うに四人の関係の良いところでもあったのだ。
「そんなに露骨に嫌がることないだろう。文系と理系なら学部の建物がある場所も全然違うし、偶然遭遇する確率の方が圧倒的に低い」
「そうかもしれませんけど」
湊が問題を解く手を止める。
「僕の志望校、そこ」
「そうなのか?」
浩介の問いかけに湊は深くうなずく。それを見て浩介は声を立てて笑った。
「湊が大学に入学するのは二年後か?二年後に俺達三人が同じ大学に通っていたら面白いな。再会の場面としては最高じゃないか」
「全然面白くないですよ」
「僕、頑張る」
「湊まで」
葉月は気怠げに手をひらひらと振る。
「湊もやる気なんだ、もし湊が俺達と同じ大学に合格したらまた集まろう。その頃俺は大学四年で、葉月は三年だな」
葉月は渋々浩介の提案を了承する。当分先のこと、それにまだ未確定なこと。別にここで頑なに拒否する必要は無いと思った。
「話が逸れてますよ」
「そうだった。どこまで話したっけ?」
今現在もそうなのだが、基本的には映画館の誰の目にも入る場所にいるナギが日中でもたまに姿を消すことがあった。行方を捜索してみても、館内のどこからもその姿を確認することはできず、しばらくするとひょっこりと姿を表す。どこにいたのかと尋ねると、お決まりの「それは秘密」という台詞が返ってくるのみである。
それは、ナギの言っていた自分はこの映画館から出られないのだということと矛盾しているのではないかと葉月は思って二人にそのことを伝えてみる。
「確かに、ナギがこの映画館から出て行くところを俺は見たことがないな」
浩介がうなずく。
「でもそれが本当だとすると、ナギが姿を消す時、ナギは一体どこにいるんだって思いませんか?」
「二階も誰かが出入りしているような感じではなかったし」
湊がそっとシャーペンを置いて話に加わる。
「地下室?」
「可能性としてはありえるな。それかバックヤード的な部屋に籠もっているとか」
そもそも映画館から出られなというのは、どこまでを指すのか。流しそうめんをした時は映画館の建物外に出ることができていた。流星群を見たときも、屋上には出ることができていた。それに出会った最初の日にはアイスをもらったこともある。少々辺鄙な場所にあるこの映画館の近くには、買い物をできるようなスーパーもコンビニもない。ならば、あのアイスをナギはどこで買ってきたというのだろうか。もしかしたら、ずっとこの映画館にあったものだったのか。
「アイスは消費期限がないからな」
「アイス?」
無意識のうちに漏れ出ていた言葉に湊が反応した。
「そこに食いつくか」
葉月は笑って、椅子に座り直す。
「映画館から出られないっていうのは、文字通り受け取るんじゃなくて、比喩というか暗号というか。全ての秘密を解き明かすためのヒントなのかもしれませんね」
「なるほどな」
浩介から心ここにあらずといったような、適当な返事が返ってくる。浩介も何かを考えているらしい。湊も空を見つめている。あれはナギのことを考えているのか、それともアイスのことを考えているのか。
「そういえば、ナギの自転車ってないよな」
外を指さす。そこに停まっているのは三台の大きさのバラバラな自転車のみ。
「葉月の言うように映画館から出られないというのが文字通りの意味ではないとして、そうしたらナギはどうやって移動してるんだろう」
ナギはまだ子どもだ。ということは車を運転することはできず、必然的に自転車が唯一の移動手段と言うことになる。最寄りのコンビニへいくのも、徒歩では少し大変だ。
「要するに、本当にナギが映画館から出られないのだとしたら、姿を消す時にナギはどこにいるのか。ナギの発言をそのまま受け取らないとして、もし外に出ているのだとしたら徒歩で移動しているのか、それとも別の移動手段があるのか。そもそもナギは何時にここに来て何時に家に帰っているのか」
「言われてみると、いつ来てもナギはここにいる気がしますね。どこかへ行ったとしてもすぐに戻ってくるし」
葉月は顔を動かさず黒目だけを動かして、ナギが戻ってきていないかどうか確認する。
「湊はどう思う?」
しばらく考える様子を見せてから湊が口を開く。
「超能力者」
ぼそっとつぶやかれたその言葉に葉月と浩介は黙る。
「超能力か、やっぱりそう考えるのが自然ではあるかもな。ナギがもし瞬間移動ができるなら、映画館から出なくてもいいし、移動手段だって不要。一瞬で家にも帰れるし、一瞬でここに来ることもできる」
「いやいや、冷静に考えてください」
湊が両手をテーブルの上に開かれたノートの上に置いてあるシャーペンにかざす。そしてふんっと力を入れる素振りをする。
その拍子にシャーペンが浮いた、なんてことはもちろん起こらない。
「これが現実ですよ」
葉月は転がったままのシャーペンを指さす。
「それはどうかな」
浩介がそのシャーペンをつまみ上げ、上部の蓋と小さな消しゴムをはずしてシャーペンを逆さ向ける。パラパラと落ちてきたのはバキバキに折れたシャーペンの芯。
「こっちが湊の能力かもしれない」
浩介はマジシャンがコインを消した時のように、さあどうだと言わんばかりの顔を葉月に向ける。
「え、マジで?」
目を見開いて表情を歪める。
「さっき床に落とした」
あっけないネタばらし。湊が散らばった芯を集めながら表情を変えずにそう言った。
「もう、少し本気にしちゃったじゃないですか」
葉月が強く言うと浩介は笑った。
「まさか本当に信じるとは」
その笑い声を聞いてか聞かずか、ナギが三人のもとやって来た。手には丸い大きなスイカを持っている。
「スイカ持って来たけど、スイカ割りでもする?あれ、浩介君何に笑ってるの?」
「ナギは聞かなくて良いから。浩介さんも言わなくて良いですからね」
葉月はそそくさと立ち上がる。
「スイカ割りか、良いね。さっそく始めよう」
スイカを割るための棒などはどこにあるのか尋ね、葉月は映画館の外に出る。浩介の笑い声は止まない。
「えー、私にも教えてよ。気になる」
スイカを抱えたナギがトコトコとその後ろをついてくる。
大きく広げられたブルーシート。その中央に鎮座する、大きなスイカ。じゃんけんの結果、一番手でそのスイカに対することとなった湊はタオルで目隠しをして流しそうめんの時に使った竹の棒を持っている。
「湊君、回って」
残った三人は少し離れた位置に立ち、湊が回転する様子を見守る。十を数えた後、湊はほんの少しだけふらつきながらも立ち止まり、目の前に棒を構える。
「どっち?」
「まずは、右に四分の三回転してスイカの正面を向こう」
浩介が大きな声で湊に指示を出す。右に四分の三とは、また分かりにくい指示である。左に四分の一回転ではいけなかったのだろうか。
指示通り、湊は回転する。
「お、方向は良い感じ。そのままストップって言うまで直進」
ナギが高らかに叫ぶ。湊はそろりそろりと進んで行く。
「ストップ」
ナギと浩介の声がちょうど重なる。湊は動きを止めた。葉月は横にいたナギに問いかける。
「これ一発で割れるんじゃない?」
「ね、いけそうだよね」
湊と浩介は最後の微調整をしている。
「ここ?」
「いや、ほんの少し右に。あ、行き過ぎ。左、左。よしそこだ」
湊は大きく振りかぶって、竹の棒を地面に叩きつける。バンっという音とともに、棒の先端はスイカの端のギリギリの所を通ってブルーシートに当たった。
「惜しい。今のすごい惜しかった」
湊が目隠しを外し、スイカを確認する。
「難しい」
そう言いながら、竹の棒をナギに渡す。次はナギの番だ。長い棒を体の正面に立てかけながら、器用に目隠しをする。
「嘘ついちゃだめだからね。ちゃんとスイカまで導いてね」
「分かってる、分かってる」
「よし」
ナギは意気込んで棒の周りを回る。十数えた後、湊よりも大きくナギはふらつく。その足は止まらない。
「ナギ、止まって」
「止まりたいのは山々なんだけど」
平衡感覚が奪われて、立ち止まることができないらしい。そう考えると、回転後にすぐ構えの姿勢を取ることができた湊は意外とすごかったのかもしれない。ようやくナギのふらつきも落ち着いてきたところで、指示を出す。
「方向はあってるから、そのまま少し前に進んで」
棒を構えたナギが進み出す。その足取りは徐々に左に傾いていっている。
「ナギ、真っ直ぐだぞ」
「え、今真っ直ぐじゃない?」
「左に曲がってるから、右に軌道修正して」
「分かった」
今度は右に流れていく。これまた行き過ぎだ。
「これは、スイカにたどり着けるんですかね?」
「俺らの腕の見せ所だな」
その後、スイカ割りが苦手なナギに言葉を尽くして細かい指示を出し、割られるのを今か今かと待ちわびているスイカへと導いていく。
「こっち?」
空に漂う、薄い雲が太陽と重なる。そのおかげで少し暑さが和らぐ。
「そう、そこ。ゆっくり棒を上げて」
ナギは足を動かさないように踏ん張りながら、ゆっくりと竹の棒を空に近づける。
「そのまま垂直にだぞ」
ナギは頭の中で振り下ろす軌道を思い描き、両手に力を込める。
「行きます」
宣言し、一気に真下に振り下ろす。何かにぶつかった感触がした。暗闇の中、葉月と浩介の歓声が聞こえる。ナギは目隠しを外す。
「すごいじゃん、ナギ」
ブルーシートの上で不格好に割れたスイカ。絵に描いたスイカのようにぱっくり二分割というわけにはいかなかったが、赤い美味しそうな部分が顔を出している。
「やった。嬉しい、さっそく食べよう」
葉月はスイカに近寄ってしゃがみ、手のひらほどのサイズのかけらを拾い上げる。そしてそのまま口を近づける。シャクシャクとした食感と、瑞々しさが喉を潤す。赤いスイカから溢れる、少しべたついた水が腕を伝ってくる。
太陽を隠していた雲がどいて、葉月とスイカは光を浴びる。まぶしい光に目を細めた。
八月二十日
結局、この日の天気は予報通り雨だった。葉月が部屋の窓から外を見ると、台風の影響で生じた強風で木の葉がぐわんぐわん、ばっさばっさと大きく揺れている。その尋常ならざる動きに、葉月も今日は外に出ず大人しく家で過ごすことを決意した。
本日予定されていた花火大会も悪天候のため中止となった。翌日や翌々日に延期するわけではなく中止ということで、今年の夏に花火を見ることはもうできないのだろうと少しだけ残念に思う。別に毎年楽しみにしていたとか、そういうわけではなかったのだが、初めから見る気がなかったのと、見る予定だったのとでは中止という言葉の重みも違ってくる。しかしまあ、この天気の中花火大会を開催しても怪我人がでる可能性もあるため、賢明な判断なのかもしれないと思った。
そんなことを考えながら、イヤホンに手を伸ばし耳につける。また誰かの声でも聞こえないかなと思いながら音楽の再生ボタンを押した。スムーズに音楽が流れる。
数時間後、ベッドの上で寝転がっていた葉月は、電話の音で目を覚ます。近くに置いてあるデジタル時計を片手で拾ってその画面をみると、なんと三時間ほどの時間が過ぎていた。イヤホンは外れて、絡まりながらそばで転がっている。音楽を聴きながら眠ってしまったようだった。もう片方の手でスマホを持ち上げ、電話に出る。
「もしもし?」
電話越しに聞こえてきたのは湊の声だった。湊に携帯番号を教えたっけと思いながらも返事を返す。
「湊?どうしたの」
「やっと出たか」
続いて聞こえたのは浩介の声。
「何度か電話かけたんだけど、一向に出る気配がなくて。もしかして寝てた?」
よく確認すると、電話は浩介からと表示されていた。
「寝てました。今、湊と一緒なんですか?」
「ああ、緊急事態だ。今から映画館に来れるか?」
「今ですか?台風は」
カーテンを開けてみると、空は曇っていたが雨は降っていなかった。その分風が強く吹いている。
「無理にとは言わないが、来れそうならすぐに来てほしい」
何かただならぬ事が起こったのだろか。
「緊急事態って具体的に何ですか?」
葉月は、上はTシャツ下はスウェットという姿のまま髪の毛だけをなんとなくくしでとかして整える。家と自転車の鍵が入ったキーケースはどこに置いただろうか。スマホを耳に当てながら部屋の中をぐるりと一周する。
「映画館の秘密が分かったんだ」
その発言に、葉月は思わず足を止める。そしてスマホに目線を向ける。
「いや、分かったというより偶然発見したと言った方が良いかもしれない。ともかく、言葉で説明するより見た方が早いと思う。来れそうか?」
「十分くらいで行きます」
葉月が電話を切ろうとする。
「あ、ちょっと待った。葉月はナギの連絡先とか知ってるか?」
ショルダーバッグを掛けながら階段を下りる。
「ナギの連絡先は、知らないです。そこにいないんですか?」
「今はいない。まあ、知らないなら良いんだ」
ぱぱっとサンダルを履いて、念の為に傘を持って玄関を出る。
「気をつけて来いよ」
電話を切りスマホをカバンに無造作に入れる。葉月は自転車にまたがり道路に出た。暗い道を照らすライトの光が揺れる。強風で、なかなか前に進めない。せっかく整えた髪の毛も一気に煽られ乱れていく。
やっぱりこんな日に外に出るものじゃないなと思いながら夜道を進んで行く。いつ降り出すか分からない雨を気にしながら出来るだけペダルを漕ぐ早く足を動かした。
映画館につくと、入り口前には自転車が二台止まっていた。屋上に相変わらず据えられた赤い旗は鞭のようにしなっている。そこに浩介と湊の姿はない。葉月もその横に自転車を止め、ドアを押し開ける。
「お、早かったな」
浩介と、制服姿の湊が椅子に座って待っていた。
「かっ飛ばして来ました」
手で前髪を抑えながら二人のそばに立つ。
「それで、何が分かったんですか」
浩介と湊は顔を見合わせ、どちらが話をするかと示し合わせているようであった。口を開いたのはやはり浩介だ。
「このことを発見したのは湊なんだけどな、とりあえず四番スクリーンに行こう」
四番と言われてすぐに葉月は海を想像する。一番は街、二番は学校、三番はのどかな田園風景、四番は海、五番は大きめの駅構内、六番は城と川の映像となっていた。そのすべての映像を何度も見たことがある。
浩介を先頭にして三人はシアター前の通路に踏み入る。葉月は胸元の、ショルダーバッグの紐をぎゅっと握った。浩介が四番の扉を開ける。葉月の耳に、波の音が聞こえた。
スクリーンに映るのは真っ直ぐな水平線と、そこに沈みかけている夕日の映像。砂浜より少し高い位置から見下ろす海辺は人が全くおらず、とても広々としている。小刻みに揺れる水面に夕日のオレンジ色の光が反射し、一定のリズムで波が音を立てながら押し寄せるだけの映像。四番は一番の映像と同じように、同じ場所をずっと映し続けるものだった。
浩介は座席を通り過ぎ、どんどんと前に進んでいく。座って映像を見るという気配は全く無い。一体何の為にこの部屋に入ったのだろうかと葉月は思考を巡らす。
一番前の座席も通り過ぎ、大きな海の映像の前で浩介が立ち止まって振り返る。こう見ると、まるで浩介が海辺にいるみたいだった。
「よく見ていてくれ」
葉月の後ろにいる湊にアイコンタクトをしてから、浩介は自身の背後のスクリーンに手をかざす。その手はスクリーンの中へと吸い込まれていった。
「え、ちょっと」
葉月は思わず一歩踏み出す。その間にも浩介の腕はどんどんとスクリーンの中へと入っていく。湊が葉月の肩に手を置いて力を込める。ここで見ていろと、暗に言っているようだった。
数秒後、湊が手を離す。その頃には浩介は完全にスクリーンの中にいた。葉月は近寄る。スクリーンの中で、夕日と海をバックにこちらを向いて立っている浩介は爽やかな笑顔を見せて手を振っている。
「これが、この映画館の秘密」
湊がか細い声でつぶやく。その直後、シアターに設置されたスピーカーから声が聞こえた。
「葉月、聞こえるか?」
浩介の声だった。葉月はじっとスクリーンの中の浩介を見つめる。そして一歩下がって、上下左右に首を動かしスクリーン全体を見回す。
「こんなの、ありですか?」
苦笑いと共に葉月の口から一番に出たのは、そんな言葉だった。浩介や湊に答えを求める問いかけではなく、もっと大きなものへ疑問を投げかける。
「こっちからは、葉月と湊の姿は見えるけど声は聞こえないんだ」
波の音と重なって、浩介の声がシアターに響く。
「湊が最初にこの事実を発見して、葉月が来るまでの間に二人でいろいろ試したんだけど、こうやってスクリーンの中の世界に入れるのはこの四番の部屋だけだった」
本当にスクリーンの中にいるということを伝えようと浩介が大げさに体を動かす。
「ナギはきっとこのことを知っていた。知って、俺達には隠していたんだと思う。じゃあそれはなぜだと思う?」
スクリーンの中の浩介がこちらに近づいてくる。そして葉月と同じ空間に戻ってきた。
「それをこれから三人で調査したいんだ」
スピーカーからではなく、目の前から浩介の声がする。葉月は浩介を見上げる。開いた口が塞がらない。
「そんなアホみたいな顔するなよ。まあ、俺も湊にこのことを教えられたときもそんな反応したけどさ」
浩介は左手で首の右の方を掻きながら笑う。葉月は首を上に傾け、浩介を見たまま後ろに下がり最前列の座席に腰を下ろした。
「信じられない」
湊がそっと葉月の横に座る。
「でも、事実」
右側から湊がそう言うのが聞こえた。
葉月と浩介と湊は三人並んで海に夕日が沈んでいく様を眺める。目に映る光景には、一つの欠点もない。三人のすぐ前には道路から砂浜へと続く幅の大きい階段があった。湊が滑らかな動きでその階段を下りていく。
「せっかく海が目の前にあるんだ。少しくらい遊んでも良いよな」
浩介も葉月に言って湊の後に続く。葉月は二人を追いかけることなく、その場で水平線をぼんやりと眺めていた。
葉月が住んでいるのは、どちらかといえば山際で、海を見たのは久しぶりだった。今年の夏は、何だか久しぶりのことが多かった気がする。広々とした景色は近所の田畑が生み出す地平線と似ているような気もしたが、水面の煌めきと押し寄せる波の音が地平線にはないものだった。
ショルダーバッグからスマホを取り出し、両手で正面に構える。画面に収められる範囲だけでは、水平線の広々とした美しさを捉えることができない。やっぱり本格的なカメラを買おうかなと葉月は考えながらシャッターを押した。
首を曲げ手元の、今撮ったばかりの写真を確認する。夕焼けの空と、それを反射する海の前には浩介と湊がはしゃぐ姿が映り込んでいた。二人の適応力に速さに感服しながらも、そこで葉月はふと思った。
「どこかで見たことあるような」
自分のスマホに表示されたその光景、葉月の正面に広がるその光景に見覚えがあった。もちろん四番シアターには何度も入っているから、スクリーンに映っていたこの光景を見たことがあるというのは何の疑問を抱くことでもないのだが、そうではなかった。どこか別の場所で同じ景色を見た気がする。その時もこうやって海の前には二人の人がいたような気がするが、それをどこで見たのかは思い出せない。出てきそうで出てこない。なんとももどかしい。
一度頭をリセットするため、葉月は浩介と湊が下りていった階段に腰を下ろす。そして後ろを振り返った。
そこにあるのは、大きな光の輪。その中には四連の赤い座席が横に三つ、縦に五列並んでいるところが見える。その場に人はいない。すなわちそこに見えていたのは四番の部屋の様子だった。光の輪の大きさはちょうどスクリーンくらいで、ここを通じてスクリーンの中の世界と葉月達が生きる世界が繋がっていたというわけだ。とすると、一体ここはどこなのだろうか。
再び海の方へと首を動かす。夕日が沈んでいくスピードは驚くほどに速い。あっという間に真っ暗になってしまうのではないか。そう心配したが、まだ浩介と湊がこちらに戻ってくる様子はない。
「もうしばらくは、海を眺めてるのも良いかな」
葉月は目の前に広がる美しい光景をぼんやり眺めながら二人が帰ってくるのを待つことにした。大きなあくびがでる。空にはもう月が出ていた。葉月は両手を大きく広げて伸びをする。良い世界だ。
「制服濡れてるけど、大丈夫?」
しばらくして戻ってきた浩介と湊は満足そうな顔をしていた。もともと半ズボンを穿いていた浩介は良いとして、長いチェックの制服のズボンを軽くまくった状態で海に入っていた湊のズボンは明らかに濡れている。
「大丈夫。放っておけば乾くから」
「湊が良いなら良いけどさ」
ズボンを軽く絞ると大量の水が出てきて、乾いていた階段が濡れる。湊の足下にはちょっとした水溜まりができた。それを見て葉月は笑う。
「それにしても、湊が一番に走って行ったのは驚いたな」
片足立ちで、上げた方の足に履いていたサンダルを手に持って振って水を払っている浩介が言った。
「水泳部だから、水は好き」
「水泳部なの?そんなに肌白いのに?」
湊が水泳部というのは、葉月からしてかなり意外だった。
「体質」
湊はぼつりとそれだけ言って、絞った際についたズボンのしわを伸ばすように手で表面をパンパンと叩いた。
「湊が運動部なのは意外だ」
浩介も葉月と同様な反応を見せた。一方、太陽は沈み辺りは暗くなってきていた。相変わらず映画館とこことを繋ぐ光の輪は輝きを放っていたが、それ以外に街灯などは特にない。
「これからどうしますか?」
葉月は二人に問いかける。
「とりあえず、辺りを散策してみるのはどうだ?ここがどこなのか分からないことには映画館の秘密を解き明かしたとは言えないだろ」
「私もそれは思いました。ここはどこなんですかね。何県か、というより日本なのかどうか」
そこで湊が手を上げて遠くを指さす。
「あそこに止まれの看板がある」
赤い三角形の看板が、光の輪に照らされて光っているのが見えた。
「日本ではあるみたいですね」
三人は歩き出す。海とは反対方向の、少し古い住宅が建ち並ぶ細い道を通っていく。知らない人の家の庭にいた犬が、フェンスの下から顔を出し吠える。その家の前を通り過ぎるまで、ずっと吠えながらついてきていた。
町並みはいたって普通だった。普段葉月達が生活している世界とほとんど変わりはない。家の中からは物音と、料理をしているような香ばしいにおいがする。風格のある立派な日本家屋の広い庭にスケートボードが無造作に置かれている。人間が暮らしている証が確かにそこには存在していた。
「なんか、普通ですね」
葉月はそう述べる。
「そうだな。別に変わったところもない、ただの海辺の田舎町って感じだ」
ここがスクリーンの中だということを忘れてしまいそうだった。
浩介が、近寄ってきた蚊をパチンと叩く。葉月はなんとなくカバンからスマホを取り出す。電源を入れると圏外と表示されていた。まあ、そうだろうなと電源を切って再びカバンにしまう。
「問題はあれだ。映画館の四番の部屋、スクリーンを通った先にあるのは普通の町。二つの空間が繋がっているのは、一体何が原因なのか。ナギがそれをやってのけているのか」
「ナギが超能力者だっていう話、あながち間違いでもないかもしれませんね」
「ナギ、今どこにいるんだろう?」
「家で寝てるんじゃない?台風だし。というか湊はなんで映画館に行ったの?」
「近くを通ったら、灯りがついてたから」
ガラス張りの映画館は、外が暗いほど中の様子がよく分かる。台風だというのに、もしかしてそこにナギがいるのではないかと思った湊はふらっと立ち寄ったのだった。
そして館内を回っている途中で、よろけてスクリーンに手をついた。それがたまたま四番の部屋だった。偶然も偶然、この事実に気づいたのである。
「電気をつけっぱなしで、映像も流しっぱなし。そんなことしてたら電気代がもの凄いことになりそうだな」
「そうですね。今度ナギにあったら、説教してあげてください。それと今私達がこの場にいるこの件に関しても説明するよう問い詰めましょう」
「きっと、秘密」
「湊も何かを尋ねて、その言葉を言われたの?」
湊がうなずく。
「ナギの口癖だな」
自分が言いたくないことを、不意に他人に尋ねられることがある。そういう場合、葉月はいつも適当なことを言ってごまかしていた。しかしいっそのこと割り切って、ナギのように言いたくないことに対して「それは秘密だ」と言ってみるのも良いかもしれないなと思った。その言葉を自分も口癖にしてみようか。
三人のいる位置はみるみる海から遠ざかっていく。知らない土地においてそこがどこなのかを把握するためには、町中に設置された工場や商店の看板や浄水場のような施設の門に書かれた文字などに注目し、手かがりとなる地名をたどっていくのが一番良い方法だろう。その際には、なんとなくの方角を常に意識することが重要だ。自分がどの方角から来て、どちらに向かっているのかを把握しておけば最悪もとの場所には戻ることができる。
今回の場合は、光の輪がある場所さえ忘れなければ何の収穫もなくてももとのスクリーンの外の世界に戻ることができる。浩介はそんなことを考えていたけれど、葉月と湊は目的も忘れて、ただ夜道を散歩しているように浩介の目には映った。
湊が空を見上げる。つられて葉月も同じ動きをする。
「すごいたくさん星が見えますね」
夜空には数え切れないくらいの星が広がっていた。映画館で見た星よりも比べものにならないほどたくさんあって、一つ一つに焦点を合わせるのが逆に難しい。もっと視力が良かったらなと思いながら葉月はその景色を眺め歩く。
「二人とも転ぶなよ」
浩介が下を、ましてや前すら見ずに歩いている葉月と湊に注意する。葉月は口を半開きにしたまま、その注意を聞き流す。
浩介を先頭にして、三人は最初に降り立った場所からぐるっと辺りを一周して再びもとの海岸沿いの道路に戻ってきた。昔懐かしい映画で目にするような、駄菓子などを売っている小さな商店の前に設置された赤いプラスチック製のベンチに葉月と湊は腰を下ろす。浩介は、ベンチの横に並んで置かれていたマイナーなブランドの自動販売機でジュースを三本買って二人に渡した。
「ありがとうございます」
葉月は手を伸ばしお礼を言う。ペットボトルの表面についた水滴で手が濡れる。浩介はベンチには座らず、閉められた商店のシャッターにもたれかかる。ほんの少し向こうにある海からは、心地よい波の音が聞こえる。
「これからどうしようか?」
頭の上から浩介の声が聞こえる。葉月は湊の方を見た。
「もう一周?」
左手の人差し指でぐるっと円を描く。
「私はそれでもいいけど」
今度は浩介を見上げる。
「もう一周歩いたとして、何が見つかるかってところだよな」
三人はそれぞれ別の方向を向いたまま黙る。スクリーンの中に入れたというのは驚くべき事だが、それ以降は特に驚くような出来事には遭遇していない。ただの散歩だ。そばに咲いていた小ぶりな黄色いひまわりが風で揺れている。そういえば、歩いている最中にも同じような小さなひまわりと所々でみた気がする。ひまわりが、この町の花なのだろうか。
「カエルの鳴き声がしなかった」
湊がぽつりと言った。
浩介は首を左右に動かして辺りを見渡す。
「言われてみれば、確かにそうだったな」
浩介はそれがまるで重要なことかのような表情を見せる。葉月には言葉の意味がよく分からなかった。
「カエルの鳴き声がしないのが、どうかしたの?」
「おかしい」
湊の言葉を補足するように浩介が続ける。
「合宿でここぐらい田舎な場所に行ったことがあるんだけど、カエルの鳴き声がものすごくうるさかったんだよ。その時も夏だったな。特に田んぼの近くならそれはもううるさいなんてもんじゃない。それに対してここは静かすぎる」
「波の音はこんなに聞こえるのに」
言われてみればそうかもしれないと葉月は思った。現実味があるようで、ところどころ現実味に欠けている。ここはそんな場所だった。
「そういう地域もあるんじゃないですか?」
一応二人にそう問いかけてみる。
「もちろんそうかもしれないけど、俺達の感覚からしたら変だなって話。そういうことだよな?」
湊は手に持ったペットボトルのラベルに書かれた文字を読んでいた。
「うん、そう」
少し間をおいて返事が返ってくる。
「まあ、そういう細かい違和感が何かヒントになるかもしれませんからね」
葉月は背もたれに体を完全に預けて足を投げ出し、天を仰ぐ。星が綺麗に輝いている。手を伸ばしたら掴めそうだ。
「浩介さんはどうですか、何か思うところはありましたか?」
遠くから自転車のタイヤが回転する音が聞こえてくる。
「ここは結局のところ普通の町だと思う。ただ他のスクリーンからもどうにかしたらその中の世界に行けるんじゃないかなとは考えてた。特に二番の学校とか、現実に存在していてもおかしくないと思うんだよな」
「女子校ですよ?たとえ行けたとしても浩介さんと湊は追い出されそうですね」
葉月がその様子を想像して笑う。
「あれ女子校なのか?」
「トイレとか、職員室近く以外は女子用しかなかったじゃないですか」
「知らなかった」
目の前の道路をふらふらとした光が近づいてきたため、葉月は足を引っ込める。さっきから音が聞こえていた自転車のライトだろう。
「それを聞いちゃうと、二番の部屋は入りづらくなるな」
浩介が頭を掻きながらはにかむ。
「二番スクリーンの中にも入ることができたら、高校の授業を体験したりもできるんですかね」
「夏休みが終わったら、映画館はおしまい」
「そっか。そういえばそうだった」
葉月は湊に言われて、映画館の営業が八月末までだったということを思い出した。あと一週間と半分。なんとなく名残惜しさを感じる。
三人の目の前の道路を自転車が軽快なスピードで通り過ぎる。自転車に乗っていた少女の髪とセーラー服の大きな襟が風で大きく後方に広がる。紺色のスカートが自転車を漕ぐ足の動きに合わせて揺れ動く。その制服に見覚えがあった。
葉月は立ち上がる。通り過ぎていった自転車に乗った少女の一瞬だけ見えたその横顔も知っていた。
「ナギだ」
「え?」
そのつぶやきに、浩介と湊も反応する。
「ナギ!」
大声でどんどん離れていく少女を呼び止めようとした。葉月の声に気づいたのか、自転車は止まる。乗っていた少女が振り返った。
「え、葉月ちゃん?」
街灯の少ない道では、少女の顔はよく見えない。しかし、その声は自分達を結びつけた、紛う事なきナギの声だった。
浩介も体の向きを変え、湊も身を乗り出し眺める。
「本当にナギだ」
方向を変えて一度通り過ぎた三人の前に戻ってきたナギを見て湊がつぶやく。いつもワンピースを着て映画館にいたナギは、たった今、袖に黒いラインが入ったセーラー服を着てスクリーンの中の世界にいる。その制服はついさっきまで話題に出ていた二番スクリーンの女子校のものと似ていた。というか、多分それそのものだった。浩介は口を半開きにしている。
「なんで、皆がここにいるの?」
ナギが自転車を降り、後輪のそばのスタンドを蹴り降ろして自転車を止める。自転車の 前カゴにはスクールバッグとコンビニの袋のような小さな白い袋が入れられていた。
「それはこっちの台詞だよ。ナギはなんでここに?」
ナギと、三人が向かい合う。その間にはなんとも言えぬ空気が流れた。その沈黙を破ったのは湊だった。
「ナギはこの世界に住んでるの?」
澄んだ瞳で真っ直ぐにナギを見つめる。ナギは一度目を伏せて、それから顔を上げて笑顔を見せた。
「うん、そう。私はこの世界の住人。スクリーンの外の、皆が住む世界に生きる人間ではないんだ」
両手を後ろで組んで、くるりと一回転する。
「もともと最後には言おうと思ってたんだけど、まさか皆がこっちに来ちゃうなんて全く予想してなかったよ。びっくりした」
「びっくりしたのは、こっちも同じだ」
浩介が言う。手に持ったペットボトルから水滴が地面に落ちる。
静かな夜と、波の音。強い光を放つ月と、繊細な光を放つ星々。四人は上空に広がる広い空に包まれる。
「今まで秘密にしてきたこと、全部話すよ」
七月三十一日。とある映画館の二番スクリーンはまだ映画の上映が始まる前で、部屋の中は比較的明るかった。
「ポップコーンちょっと頂戴」
座席後方のK列に座った友人が葉月の膝の上に置かれていた、Lサイズのバター醤油味のポップコーンに手を伸ばす。
「持ってて良いよ」
葉月は自分で買ったポップコーンを一つ摘まんだ後、容器ごと友人に渡した。友人は喜んでそれを受け取る。このままの勢いで食べていけば映画が始まるころにはほとんど無くなってしまうのではないかと思った。
葉月は横のホルダーに置いたウーロン茶のカップを手に取る。
「全然ちょっとじゃないじゃん」
「ポップコーンって食べ始めると手が止まらなくなるんだよね」
そう言いながら、右手を容器内と口元の間で何度も往復させる友人を眺めストローを加える。お茶をすすると同時に、カップの中で氷が動いて音がなる。
葉月の一列前の中央の座席、そこには浩介が部活仲間数名と並んで座っていた。
「これってどんな映画なの?俺事前情報一切なしでここまで来たんだけど」
隣に座る同期の一人がチケットの半券をしまいながら言う。
「先輩知らないんですか?今めっちゃ話題なのに」
「特殊な能力を誰もが持つ世界で繰り広げられる、青春恋愛映画だとよ。こいつなんかパンフレットまで買ってる」
浩介の一個上の先輩が別の後輩を指しながら、その手に握られていたパンフレットの表紙に書かれたあおり文句を読み上げた。
「俺、この女優好きなんすよ。いやー楽しみすぎる。浩介先輩は誰が好みっすか?」
二つ隣に座るその後輩はパンフレットの登場人物一覧のページを見せながら声をかけてくる。
「えーと、この人かな」
浩介は爽やかな笑顔を添えながら、名前の聞いたことがある有名な女優の写真を指さす。正直なところ、ただ知っているというだけで別に好きでもなんでもなかった。
「そっちか、いや絶対こっちの子の方が可愛いっすよ。そう思いません?」
「どっちもどっちだな」
浩介とパンフレットを買った後輩の間に座る、この映画を全く知らないと言っていた同期が腕を組んでそう述べた時、部屋が徐々に暗くなった。本編が始まる前の予告や注意事項などの映像がスクリーン上に流れる。
「とりあえず、寝たらダメっすからね」
後輩はパンフレットを袋にしまって、映画を見る準備を整え始めた。
予告の途中、オレンジジュースの入ったカップを手に持った湊は足下の光を頼りにゆっくりとチケットに書かれた座席へと向かう。姉のおごりで付き添いをさせられた湊は、お辞儀をしてもうすでに座席についていた人の前を通り姉が座った席の横に腰を下ろす。
「湊、一瞬だけ持ってて」
姉がカバンを下ろす間、湊は姉の分のジュースとチュロスを黙って持つ。少しして予告が終わり、部屋がもう一段階暗くなってようやく本編が始まる。湊も持っていたものを姉に渡して、背もたれに体を預けスクリーンを見上げた。
その日、その映画の上映中に光の輪を通して映画館の中の様子を眺めていたナギは三人に目をつけた。こんな話に興味はないのだと退屈そうな顔をした葉月と、同じく映画に興味は無いが周りに合わせるために楽しむのではなく感想を考えながら真面目な顔をする浩介と、そして堂々とした様子でまどろみの中にいる湊。
三人の共通点は、退屈そうだというところ。そんな彼らならきっと自分の能力と存在を面白がって、やって来てくれるのではないかと思ったナギは計画の実行を決意する。
映画の中では役すら持っていなかったナギは、劇的な物語が繰り広げられるすぐそばで普通の生活を送っていた。主人公達と同じようにナギも「特定の相手に声を届けることができる」という能力を持っていた。その条件は以下の通りである。
自分が相手を認識していること。その相手が何かしらのもので耳を塞いでいること。自分と相手の距離は不問で、指定した相手にのみその声は届く。そして相手に声が聞こえているかということは感覚で分かる。
そんな能力を当たり前に持つナギの身に、一つだけ妙なことが起こった。
高校の夏休みが始まった七月二十一日。突然、学校や通学路である海沿いの道など、あちこちに光の輪が出現した。その光はナギにしか見えておらず、しかも輪の中に並んだ椅子に座っている人達が見えた。圧倒的に若者が多いようだったが、それでも様々な年代の人達がいて、その人達がこちら側をじっと眺めていた。
ナギはそれが映画館の中の様子で、自分が生きる世界が誰かによって創られ、他の世界の人達に見られているのだということを初めて知る。要するに、スクリーンの中の物語の世界に自分は存在していたのだということに気づいたのだった。
けれども、座席に座った人達が見ているのは特定の人物達だけで、ナギのことを見ている人は誰もいない。それもそのはず、その他大勢の脇役にスポットが当たることなどないからである。衝撃的な事実に気づいてしまったようで、その実、ナギの生活には全くもって影響がなかった。
「映画の中の世界で、スポットライトが当たらない自分の人生。自分がこの世界で生きている意味は何なんだろう」
通学路である海沿いの道で立ち止まり、澄んだ空と、眼前に延々と広がる澄んだ海に向かってナギは問いかける。背後には光の輪。セーラー服のリボンが潮風でなびく。
そこで、逆に自分から輪の向こう側にいる人達に働きかけることができないのかと考えた。自分の存在意義という大きな問題の答えを求めて。それと自分も何かの物語の主人公になれるのではないかという淡い期待を込めて。
夏休みが始まって一週間弱。ナギはある特定の光の輪だけ通り抜けが可能だということを発見した。その輪の先に設置されていた座席はいつも空席で、どうやらその映画館はもう使われていないようだった。しかし何らかの要因で二つの世界は繋がっていた。
古びた映画館にやって来たナギがまず行ったのは、館内の掃除だ。とりあえず一階を中心にほこりを払い、床を磨く。その過程でナギはいくつかのことに気づいた。
一つ目はこの映画館の敷地内からは出ることができないこと。映画館の敷地とは、かつて映画館が営業をしていた時に駐車場であった、現在は畑となっている部分までを指す。その外へ進もうとしても見えない壁がナギの動きを邪魔した。そして二つ目は、スクリーンの外の世界では声を届けられる距離に制限がかかるということだった。
それならば、とナギは自分の能力を使って誰かを映画館に呼び寄せることを思いつく。声が届く距離に制限があるということは、逆に言えば声が届いた人はこの映画館の近くにいるということになる。それならここまで足を運んでもらうことも無理な話ではないのではないか。
ここで話は戻る。誰に呼びかけようかと考えながら、ほぼ満席となっている映画館の様子を眺め、葉月と浩介と湊の三人に目をつけた。そしてその数時間後、ナギは能力を使って三人に声を届けたのだった。
「これが、私の秘密。そして三人をここに呼んだ方法と理由だよ」
ナギのセーラー服がふわりと揺れる。
「この映画感の営業が八月末までっていうのは、私の世界を映したあの映画の上映がそれくらいの時期に終わるだろうから。そしたらきっと、二つの世界の繋がりはなくなって私はここには来れなくなってしまう」
ナギは笑った。
「だから、それまでにいっぱい思い出を作りたいと思ったの。最初に言ったでしょ。私が皆を呼んだのは、仲良くなりたいからだって」
葉月にとってナギとの出会いは、この夏は非日常に近かった。その一方でナギにとってもこの夏は非日常だったのだ。
「私が目をつけた三人が、三人ともあの映画館の近くに住んでいたっていうのは本当に偶然だったんだ。びっくりしたよ。もしダメだったら別の人を選び直そうと思ってたの。でもそんな偶然があったから、これは私達にスポットが当たった物語なんじゃないかって思った。けどそれを知る術はどこにもないんだよね。この世界に住む、三人が見た映画の主人公達も、きっと自分が主人公だなんて、映画の中の住人だなんて気づいてないと思う。私だって気づいてなかったんだから。だったら自分が主人公なんだってくらいの気持ちで生きていたほうがきっと楽しい毎日を送れると思わない?」
「思う」
湊がナギの言葉に同意する。
「秘密の話はここまで」
ナギが手を叩く。澄んだその音が辺りに響き渡る。
「それでね、今度皆に会ったら言おうと思ってたんだけど。これ」
ナギはカバンから一枚のチラシを取り出す。表には大きく、第五十六回花火大会と書かれていた。
「この世界でも花火大会があるんだ。しかもこっちの花火大会の予定日は今のところ晴れの予定」
湊はナギが話した事実にもうすでに順応したようだったが、葉月と浩介はなんとなく浮ついた気分だった。脳みそは、ナギの話とこれまでの出来事をつなぎ合わせて理解するのに一杯一杯で、これからの花火大会のことを考えられる領域は残っていない。
「それは、また今度にしよう」
二人の様子を察したのか、珍しく湊が二人の代わりに会話を繋ぐ。
「あ、そうだね。一気に話を進めすぎちゃったかも。他に聞きたいことがあったら、次こそは秘密なんて言わずに全部話すからいつでも聞いてね」
葉月と浩介は目を見合わせる。なかなか言葉が出てこない。言いたいことがあるようで、何もないようなそんな感じだった。
湊を先頭にして、三人は光の輪を通り抜ける。四番シアターに戻ってきて、スクリーンを振り返る。画面の中ではナギがこちらに向かって手を振っていた。そして自転車に乗って画面の端へと消えていく。
葉月は自分の目が信じられなかった。スクリーンの中にナギがいたということは実は勘違いなんじゃないかと、自分の都合の良いように見えているだけだったのではないかと思ってしまう。
「スクリーンの中にナギがいたのは、本当に現実?」
思わず尋ねる。
「俺の目にもそう見えていた」
「僕も。これは現実」
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