この風に飛ばされて

外清内ダク

この風に飛ばされて



 この風に飛ばされたら、楽しいかもしれない。

 なんて思ったのが運のつきだった。その夜は台風の直撃で雨も風も大変なことになっていて、電車を降りた途端に傘が裏返ってしまうくらいだった。傘の柄にすがりつくみたいにしてどうにかこうにか改札にたどり着き、ほっとする暇もなくまた家への道を歩きだす。ロータリーで物欲しげにヘッドランプをピカピカさせてるタクシーに、何度目が向いたか分からない。でも歩けば15分余りの距離に1000円弱の深夜割増を支払うことは財布と美意識が許さないし、あんまり近距離だと運転手さんも嫌かもしれないし……

 ぐちゃぐちゃ自分に言い訳しながら、私は下半身をびしょ濡れにして歩く道を選択した。ただでさえ大粒の雨が真横から殴りつけてくるのに、古くなったアスファルトの小道もひどい水たまりだらけで、もうどこもかしこもやばいことになる。傘なんか無くても大差ない。いや、むしろ風に煽られて飛ばされそうになる分だけ邪魔かもしれない。

 でも不思議と傘をたたむ気になれなかったのは、風を浴びるたび感じる足元がふぅッと浮く感触を、私が楽しんでいたからだ。

 すごい力だった。傘は風を孕んでぱんぱんに膨らんで、私の身体を西の空へ引っ張りあげようとする。とつぜん体重が何分の一かに軽くなったような。万有引力の法則が法改正されて9月1日から軽減引力が適用されます! っていうみたいな。このまま風に身を任せれば、ほんとうに飛んでしまえそう。飛ばされてしまえば……うん。ちょっと楽しいかも。

 そんなことが頭によぎった瞬間だった。ひときわ強烈な風が吹いてきて、私の傘をぐいぐい強引に引きずりあげた。私は傘、奪われてなるものか、とばかり懸命に柄にしがみつく。それがいけなかったんだ。

 その直後、私は突風に吹かれ、空へ飛び上がってしまったのだ。

「わあ」

 わあ、であるか。いざってときには映画のヒロインみたいなカッコいい悲鳴は出てこないものだ。私はただただ傘を抱きしめて、風に任せて10mも20mも吹き上げられていった。アスファルトがみるみるうちに遠ざかり、水路と道路と田んぼがみんな暗闇に溶け合って真っ黒な海みたいになっていく。家の灯りと街灯だけが、夜景の中へ住宅地という島嶼の輪郭を浮かび上がらせる。さあ、とんでもないことになっちゃったぞ。私飛んでる。まじか。でもこのおかしな状況以上に私の頭もおかしくなってる。

 ちょっと楽しい、と実際私は思い始めていたのだ。

 地に足がついてない、空中をふわふわと遊ぶこの感覚。自由。解放。実際にはただ風に流されているだけで、私の意思では行き先を決めることすらできないのだけど、そんなことがどうでも良くなるくらい気持ちが舞い上がってる。たわむれに腕を広げてみる。風が私をいっそう高く吹き上げる。膝を抱えて丸くなる。重力がすうっと私を地面へ引き寄せる。

 空中でもじゃもじゃと身じろぎを繰り返し、私は徐々に風にのって飛ぶコツを掴んでいった。高度調整、加速減速、思いのままだ。ままならないのは進行方向だけど、こればっかりは風向き次第だから仕方ない。それでも私はこの奇妙な空中散歩にすっかり魅了され、大雨で全身ずぶ濡れになるのも構わず飛び回った。田んぼの上を燕のように横切り、ビルの外壁を横目に見ながら上昇する。東西南北上に下、どちらを見ても見たこともない景色ばかり。普段見慣れた地元の風景が、ほんの10m上から俯瞰するだけでこんなにも新鮮に感じられる。

 鳥はいつもこんな景色を見てるんだな。嵐の中で震える窓の灯り。あの小さな光点ひとつひとつの奥で、エゴも歴史もかかえた人間が暮らしてる。レミちゃんもどこかあのへんにいる。三浦先生の新居もあっちにある。みんなの生活の頭の上をまたぎ越えちゃって失礼! なんてニヤついたところで、私はふと気づいた。

 倉山くんは、もうあの中にいないんだ。

 倉山くんは同級生だ。学校がひとつしかない小さな町の同い年は、必然的に小1から中3まで同じ学校に通い続けることになる。当然のように町内140名の子供たちはみんな顔見知りってことになる。もちろんその大半はただ顔と名前を知ってるだけの人なわけだけど、私にとって倉山くんはただそれだけでは済まされない相手だった。

「頑張れば飛べるって! 絶対飛べるって!」

 そう言って羽をバタバタさせてたのは中2の時の倉山くんだ。文化祭の演劇で、彼は準主役の天使に任命された。悩める主人公に魔法をかけて成長を促すメンター役。シンデレラにとっての魔女とか、アラジンにとっての魔人みたいなものよ。クラスの人気者だった倉山くんにはピッタリの、花のある役どころだ。

 それに引き換え私が何をしてたかというと、小道具係だった。舞台に立つなんてとんでもない、というタイプの私はとにかく人前に出たくなくて、裏方の目立たないところを選んで隠れたのだ。日の当たらない石の裏へ逃げ込むダンゴムシみたいなものだ。まあ、工作とかは好きな方だったから、求められるままにダンボールを切ったり貼ったりして色々作った。ヘアバンドから針金伸ばした先に天使の輪っかつけたりとか。ボール紙の翼をビニ紐で背負えるようにしたりとか。みんなが台本読みをしてる間、教室の角でしこしこ作ってた。誰にも見られも気づかれもしないように。

「クオリティ高えね」

 でもそこに食いついてきたのが倉山くんだった。上からグイグイ近付いてくる彼の顔面に、私はビックリやらビクビクやらで、返事もまともにできなくて口の中でなんかモゴモゴうめいた。倉山くんはにっこり笑う。クラスの人気者だけに許された、誰もを魅了する自然な笑顔だった。

「ね、すげーじゃん」

「そう……?」

「これさ、輪っかが立体的になって太いの、客席の後ろからでも見栄えするようにでしょ? 羽も動くようになってるし」

「あ。そうなの。そうした……」

 私はどれだけ驚いたかしれない。彼の指摘は当たっていた。そう、そういう意図で工夫したんだ。でも他人に気付かれるなんて思っても見なかった。私はただ自分の工作を劇の道具として少しでも良くしたかっただけ。その工夫は自分ひとりの胸にしまい込んで誰にも話さなかった。本番で私の作品が意図通りに働いてるのをひとりでニヤついて眺められたらいいなって思ってた。そういうやつだったんだ、私は。生まれついての日陰の生き物だ。

 それを倉山くんは、遠慮なく陽の当たるところに引っ張り出してしまう。

「なあ、ちょっと頼んでいい?」

「うん?」

「この羽さあ、どうせだからもっと大きく動かせるようにできないかな。こう、バタバタって羽ばたく感じで」

 無茶言うな。そんなの動力でも仕込まないと……

 いや、いけるかも。

「やってみる」

「ほんと? 頼むよ!」

 私が羽に加えた改良はシンプルなものだった。羽の先端近くにふたつ穴を開け、目立たない無色のビニ紐を通して取っ手を付けたのだ。そこに手を差し込んでバタバタすれば、背中の翼が羽ばたいたみたいに動くという寸法。

 15分ほどで工事完了して劇の練習現場に持っていったら、倉山くんは飛び上がって喜んでくれた。

「いい! すげーいい!! うおー! 動く動く、月本さん工作うまいね!!」

 初めて言われた。そんなこと。

 初めて喜ばれた。私の創作を。

 倉山くんは調子に乗って、羽をバタつかせながら部屋中走り回り、飛べる! 飛べる! なんておどけてジャンプを繰り返した。私は嬉しくなっちゃって。珍しくケタケタ笑っちゃって。飛べないよ、飛べるわけないよ、なんて常識人を装う。倉山くんが私に笑いかける。私だけに笑いかける。頑張れば飛べるって! 絶対飛べるって!

「この羽なら飛べるよ、絶対!!」

 私は我に返り、傘にぶら下がって飛んでる自分を見出した。顔面は雨でぐちゃぐちゃだ。

 倉山くんはもう、この街にはいない。

 あの地上のどこにもいない。

 彼が亡くなったことを知ったのは、その死から3年も後のことだった。

 昔からアレルギー体質で、体も弱い人だった。なにか大きな病気を抱えてたらしいってことも聞いたことはある。でも彼はバレー部のエースだったし、勉強だってできたし、しかも生徒会長だった。

 あ、そうだ。生徒会。彼が立候補するとき、なぜか私に声をかけてくれたんだ。

「月本さん、応援演説頼めない?」

 生徒会長選挙は、投票前に全校生徒の前で推薦人が応援演説をする決まり。それをよりにもよって私にやれという。例によってへどもどしてる私に、例によって倉山くんはグイグイ来る。

「月本さん、文章上手いじゃない。小学校の頃から小説書いてるでしょ」

 待て。待てよおい。なんで知ってんだ。いや、そうか。中学に入ってからは自作ゲームのシナリオの方に集中したけど、小学生のときは確かにノートに小説書いてた。休み時間にもそればっかだったから、誰かに読ませてって言われてなんとなく読ませたこともあった気がする。その誰かが倉山くんだったかは記憶にないが、彼が私の文章を知ってるってのがすべての証拠だ。

「でも、私、しゃべるのは……」

「そんなことない。国語んときの本読みも上手いよ。書いた原稿読み上げりゃいいんだから絶対行けるよ」

 またそんなことを言う。そんなことを言われたら、またその気にさせられちゃう。彼の意のままに私の身体や心が奮い立たされちゃう。

 私は台風の中をフワフワ漂いながら、中学生のあの頃、胸の中に抱いていた感情を思い起こした。ああ、自明のことだ。あの頃は自分でも分かってなかった。あれから20年近くも経って、たくさんのいいことと嫌なことを経験して、今の私には明らかすぎるくらい明らかに分かる。

 私、倉山くんに恋してた。

 なんで気付かなかったんだろう。なんで彼に好きって言えなかったんだろう。応援演説だってそう。張り切って原稿書いたのにさ。前日に風邪ひいちゃって。肝心の演説は鼻詰まりでゼエゼエ言いながらでみんな台無し。部活の先輩とか先生とかは、「いい演説だった。いいこと言ってたよ!」なんて褒めてくれたけど、うん、違うんだ。演説は内容じゃない。聴衆の心をグッと掴んで、倉山くんに一票入れさせるのが仕事なんだから。どんなに中身が良くたって喋り方がダメなら無価値なんだよ。

 ごめん倉山くん。私、役に立てなかった……

 でも倉山くんは嬉しそうに笑ってた。あとは任せて! と言わんばかりに私に親指立てて、壇上に登り、立候補者演説を見事にやってのけた。すごかった。すごい迫力。身内のはずの私が引き込まれて目を離せなかったくらい。自分の失敗を完全に忘れて聞き入ってしまうくらい。

 倉山くんは他候補に数倍の差をつけて圧勝した。

 すごいひとだったんだよ、彼。

 なのに立派な彼はもうこの世になく、どうでもいい私はこんな中途半端に空を飛んでる。

 世の中間違ってる。神様とやらが世界を差配してるなら、くたばれこのクソ運営、ってクレーム叩きつけてやりたい。なんで彼みたいな素敵な人が30の若さで死んでしまって、私みたいなクズがいつまでもダラダラ生き延びてるんだ。できることなら代わりたかった。落語の死神みたいに、私の寿命のロウソクを彼と取り替えてあげたかった。私、あなたのことが好きだった。ほんとだよ。ほんとだよ……

「頭いいし、なにやっても上手いし……すごいなって思ってんだ」

 飛んでるわけじゃない。飛べてるわけじゃない。この風に飛ばされて、流されるままに遊んでるだけだ。それでも嵐に翻弄されながら、私は高く高く昇っていく。

「月本さんは俺のライバルだからさあ」

 これからどこへ向かうのかは分からない。けれどまぶたの裏へふと浮かんだものは、確かに、はにかむ倉山くんの顔だった。



THE END.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この風に飛ばされて 外清内ダク @darkcrowshin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ