第5話 優しい嘘

 1

 あてもなく歩くのは気晴らしにはいいが、今はそんな心境じゃない。

 冬の空を覆い尽くしている黒い雲は、その重さに耐えかねて今にも落ちてきそうだし、木枯らしが吹いている街は、昼でも道行く人も少ない。ノルディック柄のマフラーで顔を半分隠し、安物のダウンジャケットに両手を突っ込んでいても、体の芯はどこか寒々としている。

 足元の枯葉が、レンガで舗装された路上をカサカサと音を立てながらせわしく動き回っている。オーディションまで日がない。私は焦っていた。

 今一番旬の若手女優を主人公にした、お決まりの恋愛映画のキャストを決めるオーディションが迫っていた。私が狙っている役は、画面に映っている時間はシーンを繋ぎ合わせても数十分と短いが、物語のキーパーソンである主人公の親友役。そこで演技の輝きを見せれば、業界関係者の目に留まる。

 それに今回は、無名の演技派女優を発掘する事で業界内では有名な監督がメガホンを握る。数多くの有名女優がこの監督に見いだされ、ハリウッドにも進出している。

 この監督に認められれば、私はそこそこ有名なアイドルから、女優へとキャリアアップできる。所属事務所からこの脚本を貰った時からこの役に狙いを定めていた。だが二つ大きな問題があった。

 一つは、オーディション間近になってこの話が舞い込んで来たので、脚本を読み込んでからの役作りに時間的余裕が無い。本来この役は、女性アイドルを予定していたが、そのアイドルが多忙を理由に断ったため、急遽多数の芸能事務所にオーディション依頼が飛んだ。

 大手の事務所なら、先んじてその情報を入手し、売り出したい女優の卵達にその準備をさせているが、うちの事務所はそこまでの力は無く、オーディションの誘いは、業界内の社交辞令と頭数合わせで呼ばれた様なものだ。

 正直事務所の不甲斐なさと、私に対する長期戦略の無さに舌打ちもしたくなるが、チャンスが巡って来ただけ我慢する事にした。

 もう一つは、私にとってそれ以上の問題だった。映画の中で私は、普通の女子高生と女子大生を演じなければいけない。

 子供の頃、ある理由から義務教育すら碌に受けられなかった私には、普通の学生を想像力だけではどうしてもリアリティが出せない。脚本を読み取ってその表面だけを演じても、あの監督に通じるかは疑問だ。

 スタートダッシュでも遅れを取った私が、普通の生活をしてきた女優の卵達に勝つためには『本物の普通』を演じて見せなければ、負ける。

 力を使うか……その選択も、いやその選択しかないのか。

 無為に過ぎて行く時間に比例し、自己の中の葛藤は益々焦りを深めていった。

 そんな時に、あの少年に出会った。

 多くの客は寒さを避け店内にいるのに、少年は寒空の下オープンテラスの白いテーブルで白い椅子に座っていた。テーブルの上には、コーヒーカップとペットボトルが置かれている。

 少年の正面には、若い女が居た。

 まさかとは思ったが、私は何の躊躇も無くそのテーブルに向かった。私がそのテーブルの傍に立つと、少年は少し警戒心を浮かべた瞳で私を見た。

 私は無言でその少年を見た。端正な顔をしているが、まだ幼さが残り中学生位に見える。私が睨んでいると、瞳に警戒心を残したまま、少し微笑みを浮かべた。

「こんにちは」

 少年の挨拶を私は無視した。

「知り合い? 」

 少年の正面に座っていた若い女が聞いてきた。私はこっちに用事がある。

 私は若い女に顔を向けた。

 ショートカットの茶髪の女だった。火の点いていないタバコを指で弄んでいる。化粧っ気はないが、目鼻立ちはすっきりしていて人目を惹く顔立ちだ。着ている服は半そでの白いTシャツに、色落ちしていないデニムのスキニージーンズと淡い黄色のミュール。

「あなた、歳はいくつ? 」

 いきなりの不躾な質問に若い女は最初眉を顰めたが、すぐに普通の顔に戻った。

 場慣れしている女、少し自分と似ている、と思った。

「聞こえないの、歳はいくつ? 」

 私はマフラーに手を掛け、下げた。

「すいませんが、もしかして……」少年が間に入って来た。

「あなたは黙っていなさい」私は横目で少年を制した。少年は椅子から立ち上がろうとしていた。

「二十二よ。そんなに怖い顔しないで、彼怖がっているじゃない」

「女子大生? OL?」私は矢継ぎ早に聞いた。

 若い女は、不敵な笑みを浮かべて、火の点いていないタバコを軽く持ち上げた。

「こうみえても学生よ。ちょっと普通と違う学生だけどね。それよりあなたライター持っていない? 彼タバコ吸わないの」

 ふぅーっと私は息を吐いた。考えている時間、無いわね。

「楽にしてあげるわ」

 私はダウンジャケットから左手を抜き、手を広げた。そして若い女の目を睨んだ。

 女が硬直したのが分かる。

 顔から表情は無くなり、瞳からは光が消え失せた。持ち上げた手はダラリと下がり、指で挟んていたタバコが零れ落ち、地面に着く前に消えた。

「ちょっと! 」

 少年が声を大きくした。

「黙ってなさいって言ったでしょ! 」

 私も反射的に声を荒げた。

 私の左手が若い女の額に当てられる。手のひらかには何の感触も無い。ただ外気よりも少し冷たい乾いた冷気を感じる。

 白いもやが女の体を包む。強い木枯らしが唐突に吹き降ろしてきて、周りの枯葉を舞い上げたが、靄は微動だにせずその濃さを強めていった。

 そして靄は一瞬で晴れると、そこには若い女の姿は無かった。

 私は天を仰ぎ、はぁーっと息を吐く。

 吐き出された息が白く漂った。そしてぶるっと体が震えた。目を閉じ自分の頭の中を探る。光沢の無い黒い粒子が、旋風の様に縦に細長く渦巻いている。

 あとはこれを自分のモノに出来るかだ。

 私は天を仰いだまま目を開け、流し目で少年を見た。微笑みは失せ、最初に見せた警戒心を湛えた瞳で私を見ている。

 何故か私は笑った。都合よく目当ての『幽霊』に出会えるとは思えなかった事もあるが、まさか私と同じ力を持った人間と出会えるとは思わなかった。

 

 私は幽霊が消えて無くなった白い椅子に座って脚を組み、少年と向き合った。改めて少年の顔を見ると、大人びた顔立ちだが、やはりまだ幼さが残っている。

「……彼女をどうしたんですか? 」

 意外な質問に私はまた笑った。

「君も分かっているでしょ。成仏させたのよ」

「何もあんな無理矢理に……」

「君、名前は? 」私は少年の言葉を無視して、一方的に質問した。少年は憮然とした表情になった。

「相手に名前を聞くときは自分から名乗るものです」

「私の事、知らないの? 」

 思わず言葉にしてしまった。私は顔を晒している。

 元々化粧もしない方で、薄化粧でテレビにも出ているそれなりに売れているアイドルなのに、少年は私の事を知らないらしい。

 少年は私を睨んだまま、首を横に振った。プライドが傷ついたのは身勝手と分かりながら、私は少し腹が立った。

「君の名前から教えて。そうしたら教えてあげるわ」

 少年は憮然の表情も消し去り、それこそ無表情で私を見ていが、暫くして口を開いた。

「千堂と言います」

 私はニッコリと演技の笑顔を造った。

「千堂君ね、覚えたわ。私の名前は愛之宮愛梨」

 名前を出しても、やはり千堂の表情に変化はなかった。

「面白い子ね。それに役に立ちそうだわ。君、スマホ持っている?」

 私はそう言って手を千堂に伸ばした。

 千堂は戸惑った表情を浮かべた。

「スマホ、それとも携帯かしら、貸してくださる? 」

 千堂は手を後ろに廻し、ジーンズの後ろから折り畳み式の携帯を出した。私は微笑みながら千堂から携帯を受け取ると、携帯を開いて数字を打ち込んだ。

 フルートの軽やかな音と共に、パッヘルベルのカノンの旋律が、どこからともなく聞こえてくる。私は通話終了のボタンを押した。同時にカノンの音も止む。

「私の連絡先、ちゃんと登録しておきなさい」

 そう言って私は携帯を閉じた。

 

 2

「星野様、もうすぐ到着致します」

 運転手の控えめな声に、僕は目を開けた。

「本日も地下での降車でよろしいでしょうか」

「よろしくお願いします」

「畏まりました」

 僕は後部座席から窓の外を見る。薄茶色のサングラス越しに、日が長くなった夏の夕陽を受け光っているタワーマンションが、ぼんやりと見えて来た。

 眼鏡の度が合わなくなってきている。また作り直すとしたら何度目だろうか? どうせ光を失うのだから、作り直すのは止めようかと思い、また目を閉じた。

 暗闇の中でハイヤーが緩やかなスロープを下っているのを体で感じる。ハイヤーは一旦ゲートの前で停まり、再び動き出すとゆっくりと右に大きく旋回し上品に減速し停車した。

 後部座席のドアが開くと同時に僕は目を開けた。開いたドアの傍らには、このタワーマンションに常駐している初老のドアマンが既に立っていた。

「お帰りなさいませ星野様。足元お気を付けください」

 ドアマンはそう言って僕に手を差し出した。

「ありがとう」

 僕はドアマンにアルミ製の赤いステッキを手渡し、体を揺らしながらゆっくりとハイヤーの外に出た。ドアマンは僕の腕を優しく引き寄せ、立ち上がるのを介助してくれた。

「検査の方はいかがでしたか? 」

 ステッキを受け渡しながら、笑顔で聞いてきた。

「悪い兆候は出ていませんでした」

「それは喜ばしい事です。でも暑い日が続きますので体調崩さないようお気を付けください」

 ドアマンは慇懃に言葉を重ねた。

「お気遣いありがとうございます」僕は少し頭を下げた。

 エレベーターに乗り、首から下がっているIDカードをコントロールパネルに当てる。ピッと音がして、静かにエレベーターは上昇していった。僕は壁に背中を当て、体を預けた。立っているのも億劫になってきている。

 外出は好きじゃない。体力的な問題もそうだが、何をするにも他人の介助が必要になってくる。今はまだその頻度は必要最低限で済んでいるが、それも時間の問題だろう。全ての事において要介護になってくる。

 ふいにドアマンの柔らかい顔が浮ぶ。彼は決して同情で僕の手助けをしている訳ではない。純粋にドアマンとしての仕事を遂行しているだけで、嫌味な程に丁寧な言葉も態度も職業人プロフェッショナルとしての範疇に入る事だ。それが分かっていても、僕は他人の手助けを、僕に対する哀れみからくる施しと感じてしまう。

 大きく息を吸い吐く。駄目だ。また悪い方に物事を考える。落ち着け。僕はそれを受け止めると誓った筈だ。そして決意した筈だ。感情を捨ててただ生きる、と。

 ちん、とか細い音が鳴りエレベーターの上昇が止まった。階数を示すデジタル表示を見ると停まったのは地上階だった。

 鏡面仕上げのドアがゆっくりと開く。ツバ広の帽子を被ったロングスカートの女性が入ってきた。顔を半分隠すほどの丸いサングラスも掛けていた。僕は壁にもたれているのを見られるのが気恥ずかしく思い、壁から背中を離した。

 ステッキを使って態勢を整えようとした時、違和感を覚えた。女性のヒールの靴先が真っすぐ僕の方を向いて動かなかった。

 僕は床に落ちていた視線を上げた。女性は入って来た時と変わらずドアを背にして微動だにせず立っていた。

 その後ろでドアがゆっくりと閉まっていく。

 僕は思わず反射的に女性の顔を見たが、サングラスと垂れた帽子のツバが顔半分を覆っている。

 露出しているのは少しの肌と魅力的なピンク色の唇だけで、表情どころか『顔』を見ることは出来なかった。だが、そのサングラスに隠れた視線は、僕に固定されていた。

 僕は少し恐怖を感じた。

 エレベーターと言う密室の中、顔が見えない人物が僕をじっと見ている。もし相手が危害を加える目的があったなら、僕の今の体力では相手が女性でも太刀打ちは出来ないだろう。

 また妄想が悪い方へ走り出している。ここは不特定多数の人間が出入りする雑居ビルじゃない。裕福な人や、社会的に成功した人たちだけが住むことの出来る高級マンションだ。

 この薄気味悪い女性が、このマンションの住人を訪ねて来た人であっても、そんな粗暴な事をする可能性は低い。僕は思い切って声を掛ける事にした。

「あの……何か? 」

 固まっていた女性がビクッと動いた。閉じられていたピンクの唇が微かに開いた。すぅっと女性が息を吸ったのが分かる。

 次の瞬間、女性は素早い行動で体を翻し僕に背中を向けた。か細い鐘の音が鳴った。再びドアが開いていく。

 完全に開き切る前に、女性はドアの抜けエレベーターから出て行った。

 僕は力が抜けたように後ろに下がり、また背中を壁に預けた。冷たい汗が背中に流れているのを感じる。そしてその冷たさが引かない内にエレベーターは最上階へ辿り着き扉が静かに開いた。

 いつもはかび臭い廊下だが、今日は清々しい香りがする。その廊下を、ステッキをつき歩きながら、午前中に廊下のクリーニング作業があると、アナウンスがあった事を思い出した。

 僕はその廊下をゆっくり進み、一番奥にある部屋に辿り着いた。またIDをドアノブ付近にあるタッチパネルに当てた。中からガチャガチャと二回音がし、タッチパネルに青い光が一瞬点った。

 ドアノブを下げ、そのまま押し中に入り、ドアを閉める。鍵は掛けない。外出する時は施錠するが、僕が在宅の時は万が一の事を考え鍵は掛けない。完璧なセキュリティと言うのは存在しないが、

 このマンションの警備態勢を考えれば、空き巣が忍び込む可能性は低い。

 それより、僕が不慮の事態に陥る可能性の方が遥かに高く、その時セキュリティの高さは逆に命取りになる。

 僕は玄関ルームにあるベンチに座り、ステッキをステッキ掛けに差し込み、靴を脱ぐ。三和土と廊下はバリアフリー化されている。僕は足を必要以上に上げる事なく、誰も待つ者の居ないリビングへ向かった。

 

 3

「ねぇ、今度の美容室予約はいつだった? 」

 後部座席でファッション雑誌をめくりながら、私は浦崎に聞いた。

「えぇっと確か二週間後だと思いますが。どうしたんですか、また」

 運転席からバックミラーで後部座席の私を見ながら、浦崎が答えた。車は帰宅時のラッシュに巻き込まれ、十分近く数メートルも動いていない。

「夏だし暑いからバッサリ切ろうかと思って。それに髪染めもやりたいし」

 私は、雑誌に載っている私と同じ歳のアイドルのショートカットを見ながら言った。明るめの茶髪が、軽やかな雰囲気を出している。

 さっきまで屋外ロケだった。

 それもこの夏の盛りに、下町のもんじゃ焼屋をお笑いタレントと巡ると言う、思い出しただけでもウンザリするロケだった。夏の炎天下の中を歩いて汗だくになっているのに、更に油とソースが飛び散る熱い鉄板の前で、ワザとらしく大げさなリアクションを繰り広げる度、襟足にへばりつく長くなった髪が鬱陶しかった。

 それにこの番組自体、全国ネットに乗らない関東ローカルの低予算の深夜番組で、何時放送されるのかも私は知らされていなかった。

 カメラが廻っている時は笑っていたが、内心は白けているし不満が爆発寸前だった。そんな時、ファッション雑誌に載っている少し頭の軽そうなアイドルの髪型が目に留まった。要するに気分転換がしたかったのだ。

「駄目です」浦崎は即座に否定した。

「なんでよ? 」私はバックミラーを睨んだ。

「愛之宮さん、自分で言ったんですよ髪を伸ばすって。染めないって。次の美容室も毛先カットとトリートメントだけです。また忘れたんですか? 」

 ……忘れてた

 今冬に映画がクランクインする。戦国時代の実在する名も無き武将の一生を描いた映画で、私はその妻を演じる。

 オーディションで勝ち取った役で、時代劇はテレビを含めても初めてだった。初時代劇の意気込みを示すために、私は鬘ではなく、地毛でその時代の女性の髪形になると、監督やスタッフに誓った。

 ネットや本で調べると、当時の女性は濡烏ぬればがらすの黒髪を、腰まで伸ばすのが普通だった。セミロングの私は、どうあがいてもあと三か月程度で腰髪にはならないが、せめてウィッグが不自然にならないまで伸ばし続ける事に越したことはない。勿論髪染めは論外。

 私はため息を吐いて雑誌を隣に投げ捨てた。

 浦崎に八つ当たりを考えたが、それもありきたりで面白くないので、黙って窓の外を見た。ロバの歩みの様に、ゆっくりと車列が動き始めた。その向こうにあるビル群は、日が下がった今でも都会の熱い大気に熱せられ、蜃気楼の様に揺れていた。

「最近髪の話を良くしますけど、次の役にプレッシャー感じているんですか? 」  

 渋滞で手持ち無沙汰の浦崎が口を開いた。

「何よその言い方。私がいつも髪の話しかしてないみたいじゃない」

「していますよ、一昨日もカラーリングの上手な美容室は調べてこいって。覚えてないんですか? 」

 ……そうだっけ? まずい。忘れている。

 仕事の忙しさは相変わらずだが、昨日の話を忘れてしまうほど極度の疲労を感じてはいない。むしろ最近は楽しんで仕事している位だ。武将の妻の役も、今からあれこれと役作りのプランを練っている最中で今が一番楽しい。さすがに、今日の仕事は楽しくも何とも無かったけど。

「たまたまヘアメイクの話題が続いただけでしょ。それに私が仕事でプレッシャー感じる訳ないでしょ。逆に私にプレッシャーを感じさせるくらいの大きな仕事取ってきなさいよ。ハリウッド映画とかカンヌ招待作品とか」

「え、それはちょっと……」

「ちょっと、何よ? 」

「僕英語苦手で」

 予定変更。浦崎に八つ当たり開始。

「君が英語出来る出来ないの話しじゃないでしょ。私が海外に行くのよ。なんで君の英語力が問われるのよ。大体今日の仕事何よ? なんでこの真夏にもんじゃ焼屋を巡らなきゃいけないのよ? この番組見て、夏にもんじゃ焼食べたいって視聴者居ると思うの? しかも放送されるかも分からない番組取るって何よ。意味わかんない」

「えぇっと、それは局と制作サイドの……」

 浦崎は言葉の速射砲にたじろぎ始めた。

「それにあの『明治大正』ってお笑いコンビなんなの? 全然面白くないし笑いのセンスは昭和だし。『明治大正』なのに昭和って何よ」

 私の押さえつけていた不満のマグマは、理不尽な言葉の責めとなって、止めどなく浦崎へとぶつけられていった。

 一通り腹の底の不満をぶつけ終わった頃、車列が少しだけど流れ始めた。でも走行音や風切り音が発生しない程度の速度で、私の喧騒が収まった車内はすぐに静かになった。

 手持ち無沙汰になってしまった。私は隣の席に転がっていたテレビのリモコンを取り、ボタンを押した。

 目の前のヘッドレストにインストールされているモニターが点いた。洗剤のCMがちょうど終わり、天気予報に番組が移った。禿頭のお天気キャスターがその頭を下げ、すぐに背景に合成されている天気図に指し棒を向けた。日本列島の下に大きく渦巻く模様がある。

「台風来ているの? 」

 私はリモコンで音量のボリュームを上げた。

『台風18号は発達しながら北上し近畿東海それに関東地方でも早い所で今夜半から台風の影響が出る地域があります。予想される雨量は東海地方で……』

 お天気キャスターは結構な雨量を告げた。

「来ているみたいですね」

「何呑気な事言っているのよ。明後日静岡で番組収録あるんでしょ? 」

「大丈夫ですよ、収録は屋内ですから愛之宮さんが濡れる事ありません」

 ……こいつは馬鹿なのか?

「そうじゃなくて、もし新幹線が止まったらどうやって現場まで行くのよ。前乗りじゃないし」

「……あ」

 あっ、て何よ。馬鹿だこいつ。

「その時は……僕が車出して、現場まで」

「新幹線が止まる天気で車運転する気? 私を殺す気なの? 」

「あっ……と、えっと……」

 私はバックからスマホを取り出した。ロックを解除して電話帳を探る。

「あの……愛之宮さん。何をしていらっしゃるのですか? 」

 浦崎はバックミラーで私を伺った。

「社長に電話してマネージャー変えてもらうわ」

「わぁあそれだけは勘弁してください」

 浦崎は思いっきり振り返った。

「馬鹿! 前見なさいよ! ハンドルから手を離すな! 」

 私の絶叫が車内に響き渡った。そしてそれ以上の衝撃音が車内に響き、強い衝撃が私の体を大きく前後に揺さぶった。


 4

 足を広げゆっくりと上半身を前に倒す。腱が伸びる痛さがじんわりと膝裏から股関節へと伝わってくる。息を吐いて更にゆっくりと限界近くまで体を倒す。痛さがじんわりから、ぎゅっとした感覚に変わる。それでも僕はその痛みに耐え、前屈を止めない。

 一人暮らしには贅沢過ぎる程の広大なリビングの柔らかい絨毯の上で、僕は寝る前に決められた量の薬を飲み、柔軟体操を毎日かかさずやっている。それが僕の毎日のルーチンワークになっている。でも僕の体は日々その可動範囲が狭くなっている。

 普通の人とは逆だ。それでも僕は柔軟体操を止める訳にはいかない。止めてしまったら、僕の体はもっと動かなく可能性が高まる。現状維持を少しでも長く続ける事が、僕に出来る数少ない事の一つだ。

 体を起こし、息をまた大きく吐く。開脚したままで腰をゆっくり左右に廻す。下半身の伸ばしから徐々に上半身へその部位を移していく。

 汗がうっすら額に浮かぶ。僕はタオルでそれを拭きながらテーブルの上にあったタブレットを手に取った。新着メールのアナウンスが表示されていた。僕はそこをタッチする。

 僕が契約しているハウスメイド派遣会社からの『お知らせ』だった。明日はハウスメイドが来る日だったが、悪天候が予想されるので、明日の派遣の中止とそれを謝罪する内容だった。僕は了解同意のアイコンにチェックを入れ、返信した。

 週四回のハウスメイド契約だが、二日三日来なくても洗濯物も大して出ないし、掃除を小まめにやる程汚しもしない。食事も冷蔵庫にあるものでどうにかなる。僕はさほど気にしなかった。

 僕はタッチパネルを操作した。同時にガラス窓に掛かっていたレールカーテンが音も無く左右に開いていく。僕は大きく開かれた窓の外に目をやった。タワーマンションの最上階にある僕の部屋からは、都会の夜景が視界を遮る建物もなく一望できる。

 色とりどりの無数の光の点が瞬いている。だが夜空には星は無くグレーの雲が立ち込めていた。防音が施された特殊な三重ガラスのお陰で外の風切り音は聴こえないが、都会の明かりを反射した低い灰色の雲の流れは早く、強風が吹いているのが分かる。僕はそれを確認するとレールカーテンを閉めた。

 次に僕は仰向けになった。僕は眼鏡を外して絨毯の上に置く。ぼんやりと白く光っている天井が見える。バンザイの態勢でまっすぐ両手を上に伸ばす。少し右手に痺れがあるがそれを我慢する。ゆっくり息を吸って同じようにゆっくり息を吐きながら背筋と両足を伸ばしていく。

 両脇と腰が伸び、痛みが走る。限界まで息を吐き続けながら伸身を続ける。腹の底から息をすべて吐き出し僕は身体全体の力を抜いた。気怠さが一挙に全身に回る。息も少し上がっているのが分かる。僕はバスタオルで顔を覆った。

 腱や凝り固まった筋肉が伸びる時に生じる痛みは、僕が生きている事を教えてくれる。その時は頭の中は何も考えていない。無心で体の痛みを享受している。問題はその後だ。全ての柔軟を終え一息ついた後、じんわりとした痛みは急激に消え去り、体は急速に冷えていく。僕が死に向かっている瞬間だ。

 痛みは生を教え、死は痛みを消していく。

 僕は大きく息を吐くと体を捩じり、左肘をついて上体を起こそうとした。半分体が起きた時、力が抜けそうだったので力んだのが悪かった。僕の上体はバランスを崩して半回転し、顔から床にぶつかりそうになった。僕は反射的に右手を床に差し出した。そこに眼鏡があった。

 手のひらに刺す痛みが走る。喉の奥から、あぁっと後悔の声が出た。どうにか上体を起こすと、手のひらの傷よりまず眼鏡の状態を見た。ぼんやりとした視界の中に、無残に曲がった眼鏡のフレームが見えた。レンズはプラスチックなので割れてはいなかったが、一つはフレームから外れていた。

 確か昔の眼鏡がある筈だが、多分今の衰えた視力には適応しきれない。僕は手のひらを摩りながら、また大きく息を吐いた。


 ざぁーと水の音がする。心地よい音だ。僕は微睡の中で安らぐ音を聴いて久しぶりに目を開けるのが勿体ないと感じた。夢現、眠りと目ざめの間で水面の上に一滴の水滴が落ちて、真円の波紋がゆっくりと広がっていく映像が僕の頭の中で再生された。

 波紋は頭の芯から体内部全体に広がっていく。体の内側に当たって跳ね返った波紋は綺麗な反射波になり、打ち寄せてくる波紋と交差し複雑な波模様を生み出していく。

 自分の体の隅々まで神経が行き渡った感覚は何年ぶりだろうか。僕はゆっくりと目を開けた。ぼやけた天井が見える。今度は慎重に上半身を持ち上げた。

 僕はベッドではなくリビングのソファで寝ていた。青いタオルケットが掛けられている。昨晩ここで柔軟体操をした後、そのままリビングのソファで横になった。ソファの背もたれに体を預け、外を見た。壁一面の全面ガラスはカーテンで覆われていて、外の様子は見えない。

 僕は外の世界を見ようと、身を乗り出しテーブルの上にあるタブレットに手を伸ばす。タオルケットが床に落ちる。その時、違和感を覚えた。

 青いタオルケット? 僕はそんなものを被った覚えがない。それにそんな事をするくらいならベッドで寝る。

 それにもう一つ、水の音だ。

 カーテンに遮られていて外の様子は分からないが、昨晩の空模様なら悪天候になっていてもおかしくはない。だが、カーテンがあり更に三重の防音ガラスがあるこの部屋に、外の音が伝わる事はない。

 僕は耳を澄ました。ざぁーっとまだ水が流れる音がする。キッチンからだ。そう分かった時不意に音が止んだ。僕はキッチンの方を向いた。

 L字型のカウンターバーを挟んだ奥にキッチンはある。水回りはL字の更に奥まった所にあって、リビングからは直接見えない。僕は呆然とキッチンを見たまま固まっていた。

 ゴトン。また音が聞こえて来た。やはりキッチンからだ。

 そして白い影がキッチンからゆらりと出て来た。

 僕の心臓は、破裂するかと思うほど大きく一つドクンと鳴った。

「あ、起こしちゃった? ごめんごめん」

 白い影が女の人の声を出した。

 僕は気を失いそうになった。

 一人暮らしの僕の部屋に、僕以外の誰かが居る。

「洗い物溜まっていたから勝手に洗ったよ。起きたなら朝ごはん食べる? 食欲はある? 」

 ぼやけた視界で声を出している白い影は鮮明に見えない。僕は言葉が出なかった。白い影が近づいて来た。僕まであと数歩と言う所で白い影は止まった。白いTシャツを着たショートカットの若い女性の姿が見えて来た。僕の心臓は早鐘の様に鼓動した。

「花菜子……さん? 」

 動かない口を無理矢理動かした。

 ……似ている

「どうしたの? 体の調子悪いの? 」

 頭を振った。女性が近づいてくる。

 ……髪型、顔の輪郭、目元……花菜子さんに似ている

「そっか、お腹空いてる? 」

 反射的に頷いた。

 似ている……でも、少し違う。でも……花菜子さんだ。

「じゃあいつもの軽く作るよ。飲み物はホットミルクでいい? 」

 再び頷く。花菜子さんはにっこり微笑むとキッチンへ帰って行った。

 僕は暫く立ち尽くしていた。キッチンから油が跳ねる音が聞こえて来て空腹を刺激する香りが微かに流れて来た。

 僕は、今更ながら周りを見渡し、ゆっくりとキッチンカウンターへ向かった。そして、少し座面が高い椅子に座る。

 時間の感覚が麻痺していた。どれくらい経ったのだろうか、呆然として待っていると、花菜子さんがトレイに食事を乗せて現れ、僕の前に食事を置いた。

 白いプレートの上に、黄身だけで作られた真黄色のスクランブルエッグ、赤いケチャップ、それとカリカリに焼かれたベーコン。三角形に切られた耳の無い焼かれていないトースト。

 花菜子さんが作るいつもの朝ごはんだった。花菜子さんは、その隣に湯気の立っているコップとフォークを置いた。

「さあ召し上がれ」

 僕は、恐る恐る視線を朝ごはんから花菜子さんに移した。こんなに近いけど焦点は完全にあってなくて、花菜子さんの顔は少しぼやけて見えた。

「ん、どうした? 私の美しい顔に見とれているのか? 」

「かな……」言葉が咄嗟に出なかった。

「花菜子……さんは食べないの? 」

 朝ごはんは僕の前にだけあって、花菜子さんの前には無かった。

「私はこれで十分」

 花菜子さんは悪戯っぽく笑って細い指に挟んだ白いタバコをクルクル廻して見せた。僕はキョトンとした表情になった。それを見て花菜子さんは楽しそうに笑った。

「嘘だよ。この部屋では吸わないよ。コロロは本当に素直だな」

 ……コロロ

 僕をそう呼ぶ人は花菜子さんだけだ。

 そしてそのちょっと変わった渾名をつけてくれたのも、花菜子さんだ。

「私はこれ」

 花菜子さんはそう言ってミネラルウォーターのペットボトルを見せた。

「今食欲なくてね。あ、そんな顔で見ないでよ。体調が悪化した訳じゃないの。こっち来る前に少し食べてきただけよ」

 花菜子さんはそう言って水を一口飲んだ。

「そういえば眼鏡掛けてないね。コンタクトデビューしたの?」

「昨日、眼鏡壊しちゃって」

「ありゃ災難だったね、じゃあ私の美しい顔はぼやけて更に美しく見えるでしょ」

「……いただきます」

 僕はフォークを手に取り、スクランブルエッグをすくって、口に運んだ。

「こらリアクションせんかい!」

 花菜子さんは手を伸ばして僕の手を取り引き寄せると、スクランブルエッグを自分の口に入れた。

 花菜子さんは、笑いながら今度はフォークを自分で扱って、僕にスクランブルエッグを差し出した。僕は口を開けてそれを受け入れる。懐かしい味が口に広がった。

 花菜子さんだ。この人は花菜子さんだ。

「美味しいでしょ? 」

 花菜子さんはにっこり微笑んだ。

 僕は素直に頷き、そのまま食事を続けた。花菜子さんは、そんな僕の姿をすぐ近くで見ていた。誰かとご飯を食べるって何年振りだろう。

 その誰かは、目の前に居る花菜子さんだけど。

 でも花菜子さん、どうしてここにいるの?

 花菜子さんは五年前に死んだんだよ。


 5

 その年は、ジメジメとした長梅雨が終わり蒸し暑い夏が本格的に始まるちょっと前、カラッとした天気と気持ちの良い涼しい風が吹く日が数日続いた。

 そんな季節の句読点みたいな日に僕と花菜子さんは出会った。

 出会った場所は僕が入院していた病院の屋上。僕らの出会いは劇的でも普通でもないけど、出会うべくして出会う運命だったと今振り返って思う。

 その日、病室の開かずの窓から見えた空はどこまで透き通った水色の空だった。窓を開けなくても涼しい風が吹いているのが分かる。僕はステッキを持たず自分の病室を抜け出し病院の屋上に向かった。

 少しでも空に近づきたかった。

 でもそんな僕の願いはいとも簡単に阻まれた。屋上に上がる階段の前に『関係者以外立入禁止』の張り紙が貼られたカラーコーンが一つ置かれていた。バリケードも立入を規制するバーもない。カラーコーン一つぽつんと置かれている。だからカラーコーンの横からは階段に自由に入れる。逆に考えればこれから先に行っても無駄だと言う事だ。

 それに気づかず僕は階段を上った。その頃はまだ体は言う事を聞いてくれた。照明が無い薄暗い階段を急ぎ足で上がっていく。踊り場を二回曲がった。その先、最後の階段を上ると狭い小さな踊り場があり、その向こうにペンキがあちこち剥げかけた鋼鉄製のドアがあった。そのドアには目の高さの所に金網の入った嵌め殺しの小さなガラス窓がある。

 ふぅーっと大きく息を吐く。僕の病気を考えれば相当の負荷を身体に掛けていた。十数段階段を昇っただけで息があがり、心臓の鼓動も早くなっている。でも心臓がドキドキする理由は病気のそれだけじゃなかった。

 ゆっくりと深呼吸をして息を整え、ドアノブを回した。

 ドアノブは空回りするだけで何の抵抗もない。僕は小さな声で、やっぱりなと呟く。

 いつもそうだ。僕の願いは叶わない。どんな小さな願いも、ささやかな願いでも叶った事がない。金網入りの嵌め殺しのガラス窓は薄汚れていたけれど、それでもそこから見える空は、やはり透き通った水色をしていた。

 僕は、ちきしょうと呟いた。

 その時きゅきゅっと足音が聞こえた。誰かが階段を上がってくる。咄嗟に何処かに隠れようと思ったけど、狭く小さな踊り場にはそんな場所は無かった。

 音が段々大きくなってくる。僕は開かないドアの前で固まった。

「あれ? 」階段を上って来た若い女の人が、首を傾げて声を出した。女性は僕と同じ鶯色の病衣の上に、黒いカーディガンを羽織っている。

「なにしてんの、こんな所で? 」女性が聞いてきた。

 僕は答えられず、固まったまま動けなかった。若い女の人は、すぐ目の前まで来た。背は僕より少し高い。黒髪のショートカットの綺麗な顔立ちの女性だった。

「聞こえないの? なにしてんの? 」その人は覗きこむように顔を近づけて来た。

「ご、ごめんなさい……何でもないです」僕はまともに目を合わせる事が出来ず、下を向いて小走りで駆けだそうとした。でも、ぎゅっと女の人とは思えない程の力で右手首を掴まれた。

 あぁ怒られる。僕は観念した。

「屋上に出たいんでしょ。一緒に行く? 」

「……え? 」言っている言葉の意味がすぐには分からなかった。僕は、その人の顔を改めて見た。

「ほら」そう言ってその人は悪戯っぽい笑顔を浮かべて、安っぽいオレンジのキーホルダーに付いている銀色に輝くカギを振って見せた。


 空は、どこまでもどこまでも透き通っていた。僕は眼鏡を外した。雲ひとつない空は、眼鏡を外してもぼける事なく綺麗な空だった。

 僕が入院している総合病院は、街の一番高い丘に作られている。病院の周りには病院の建物より高い建物や山は無く、その屋上からは視界一杯の空が見えた。時折吹いてくる風は澄んだ冷たさで、思わず胸一杯に空気を吸い込んだ。

 甘い香りがした。

「おぉ思った通りのリアクションするねぇ少年」腕を組みながらさっきの女性が言った。僕は気恥ずかしくなって背を丸めた。

「嘘だよ。楽しみな、こんな良い天気本当に久しぶりだからね。誰でも同じことするさ」そういいながら近づいてきた。眼鏡を外していたけど、女性が笑顔なのは分かる。

「あの……お姉さんはどうして屋上に来たんですか? 何か用事でも……」

「ん? あぁ私はこれ」そう言ってカーディガンの浅いポケットに手を入れて何かを出してみせた。目を細めて見る。それは水色の百円ライターと赤丸がデザインされた白い箱だった。僕でもそれがタバコだとすぐに分かった。

 僕は相当変な表情になっていたのだろう、女性は大きな声を上げて笑い始めた。

「面白いなぁそんなに変かな? 入院患者だってタバコ吸うよ、星野君」

 名前を知っている?

 更に僕は凄い表情になったのだろう、笑い声がまた大きくなった。女性はホントに腹を抱えて笑っている。顔が真っ赤になったのが、自分でも分かった。

「ゴメンゴメン。こうも素直な反応をしてくれると嬉しくてさ。ゴメンね、怒ってない? 」

 僕は頷くしかなかった。怒ってはいなかったけど、正直こんな風に接してくれる大人に会った事がなかったから、どうしていいのか分からなかった。

「君、星野純心こころ君でしょ? 二週間前に看護研修で君の病室にも訪問したの。君の部屋、この病院で一番大きな個室でしょ、それで覚えていたの」

 思い出した。確かに二週間前の回診の時に、僕の主治医がゾロゾロと大勢の水色のナース服を来た集団を引き連れて来た。看護学生の研修だと紹介されたけど、僕はそんな事には興味もなく、社交辞令で皆に頭を下げてすぐにタブレットに目を落とした。

 主治医が明日の検査の目的とか投与されている薬の事を、僕にでは無く看護学生に向けて説明していて、学生たちはそれをノートにいそいそと書き込んでいた。

 本当に僕には関係の無い時間だった。

「思い出した? 」

 僕は頷いた。頷いたけど、今目の前に居るのは僕と同じ病衣を来た入院患者だ。看護学生じゃない。

「思い出したけど、私が居たのは覚えてないんでしょ」

 女性はまた笑った。

「まあその時はナース服着ていたから分かる訳ないわね。あの看護学生の中に私居たのさ」

「え……? でも、その恰好……」

「ちょっと色々あってね、今検査入院しているのさ。これが私の名前。覚えてね」そう言って女性は、タバコが入っていたとは違う方のポケットからIDカードを取り出して見せた。顔を近づけてそのカードを見た。

 固い表情の顔写真は、目の前に居る女性だ。

 そしてその隣に大きく『看護実習生 新條 花菜子しんじょう かなこ』と名前が書かれていた。

 それが花菜子さんとの最初の出会いだった。


 6

 胸の高さまであるコンクリートの手すりにもたれながら、流れていく雲を見ていた。日差しは優しく温かい。風も涼しいから、日向でもジリジリとした灼ける嫌な感じもない。

 昼日中ひるひなかにこんなに長い時間、日光を浴びたのは何時以来だろうか? 僕は記憶の糸を辿った。小学校の頃から入退院を繰り返していて、出席日数より検査日の方が多かった。たまに出席しても校庭で遊ぶことも無く、体育はいつも見学。中学もほぼ学校に行けずに、院内学級と通信教育で、つい最近義務教育を終えた。

 僕にとっての外の世界にある太陽とは、ただの空にある熱源であり光源でしかない。それが今は太陽の熱も光も心地よく感じる。目を閉じればそのまま寝てしまいそうだ。

「ほんといい天気になったね。あの長梅雨が嘘みたい」花菜子さんがそう言いながら僕の横に来た。微かにタバコの匂いがする。でも嫌な匂いじゃなかった。僕がぼーっと空を眺めている間、花菜子さんは風下でタバコを吸っていた。

 今更ながらドキドキする。若い女の人とこんな近くで話した事はなかった。それもタバコの匂いを纏っている若い女性だ。これは記憶の糸を辿らなくても初めての経験だった。何か言おうとまごついていると、花菜子さんの方から話しかけて来た。

「歳は二一、おうし座のO型。名前は花菜子でいいよ。好きなタバコはマルボロ。趣味はこう見えても読書。検査入院しているのは、採血の実習で学生同士血抜くのさ。それを病理に回したら異常値が出て引っかかっちゃて。それで念のため」聞きたい事の八割は答えてくれた。星座と血液型は聞く気も無かったけど。

「……花菜子……さんは心理学やっているんですか? 」

「星野君が分かりやすいんだよ」

「そんなに顔に出ます? 」

「出るってもんじゃない、もうバレバレ。看護師や医者には絶対なれないよ君」

 僕はどんな職業にも就けませんよ、そう言いそうになる。でもそういった事を思ったらすぐに花菜子さんに伝わりそうで、僕は自然と顔を背けていた。でもその行為自体が不自然だった。そう気づいた時にはもう遅かったけど、花菜子さんは何も言ってこなかった。

 それから暫く、お互いにぼーっと空を見ていた。

「星野君の事は何て呼んでいい? 」花菜子さんが聞いてきた。

「呼び捨てでいいですよ、『こころ』って」

「んー私滑舌悪いからさ早口で呼ぶとき『コロロ』って間違って言っちゃいそうで嫌だな」

 ……どんな状況で僕を呼ぼうとしているんですか……

「逆にコロロに決めようか? どっちに間違ってもいいように」

「間違う前提で決めないでくださいよ」

「いいじゃん、コロロ。なんかコロコロしていて可愛い響きじゃん」花菜子さんは笑っていた。僕もそれにつられて笑った。

 コロロ……生まれて初めての渾名ニックネーム。何か別人になったみたいで少しくすぐったかった。

 夏が始まるちょっと前の季節、僕たちは屋上でデートをするようになった。

 昼食時間の一時間位が僕たちの会える時間になった。味も素っ気もない病院食を今までだったら半分以上残すのに、毎日全て平らげ、歯磨きしてからすぐに屋上に向かった。周りに誰も居ない事を確認し、薄暗い階段を上る。花菜子さんが踊り場で待っている事もあれば、僕が先に待っている時もある。

 屋上に出ると花菜子さんはまず風向きを見る。そして風下に行って一服する。そして僕は風上で、ぼーっと空を見たり、思い切って大の字で寝たりして、空に落ちていく錯覚を楽しんだ。屋上のコンクリートはじんわりと温かく気持ちよかった。

 タバコを吸い終えると花菜子さんが隣に来る。そして大した内容のない事をダラダラと話す。そんな何でもない時間が幸せだった。

 もちろん話題を沢山持っているのは花菜子さんだった。学校をさぼって遊んでいた時に私服警官から逃げた話。友達のバイクの後ろに乗って崖から転がり落ちた話。どれも僕にはとても刺激的で想像も出来ない世界の話だったけど、花菜子さんの話ぶりはとても明るく、聞いていて暗い気持ちや嫌な気持ちにならなかった。

「友達が大麻やりたいって言ってきてね」

「ええぇ、駄目じゃないですか」

「もちろん駄目よ。だからそこら辺の雑草の葉っぱ乾かして巻タバコにして『大麻よ、オランダ人から貰った』って渡したの」

 ……オランダ人って

 やはり想像を軽々と超える。必死に笑いを堪えた。

「そしたらその子『やっぱり本場モノは違う』って」

 息が出来ないくらい笑った。笑い転げた。

 万事こんな感じだった。

 でも不思議だった事が一つある。屋上に通じる鋼鉄製のドアの鍵だ。看護学生とは言え正式な病院関係者じゃないし、それに今は入院患者だ。どうして鍵を持っているのだろうか?

 ある日、花菜子さんに聞いてみた。

「ああ、この鍵ね。ナースステーションに掛かっているのよ」

「毎日持ち出しているんですか? 」

「いや、合鍵作った」花菜子さんは全く悪びれずに言った。

 えーっと……・最低一回は持ち出していますよね。病院の外に。

「だって病院敷地内全面禁煙だよ。喫煙室あるけど基本入院患者はダメじゃん。屋上には鍵掛かっているし。だから合鍵作ったの」

 善悪と世間一般的な常識の基準が色々と少しずつずれている。でも花菜子さんだからしょうがないと妙に納得した。

「シーツはここで干さないんですか? 」僕はもう一つの疑問を聞いた。疑問と言うより、僕が病院の屋上に向かう行動を取った動機の一つだ。

「シーツ? なんの話? 」

「よく映画であるじゃないですか、白いシーツがばぁーって沢山干されていて」僕は、昔観た映画のワンシーンを思い出しながら言った。シーツ越しに片思いの男女がお互いに想いを告げるシーンだった。風にはためく白いシーツと、抜けるような青空の色のコントラストがとても印象的で今でも鮮明に覚えている。それを見たいのが、もう一つの動機だ。

「あぁあれね」花菜子さんは珍しく苦笑いを浮かべた。

「あんなの大昔の話だよ。今は洗濯屋さんに委託してるよ」

「そうなんですか」僕は日本全国、どこの病院の屋上にも白いシーツが干されていると思っていた。僕の見たかった風景は、作り物だった。

「がっかりした? 」

 僕は少し考えてから首を振った。作り物の風景を見られなかった代わりに、花菜子さんと出会えた。それで充分だった。

「だから屋上、閉めているんですね」

「ん? まぁそうだね。そうかもね」また珍しく花菜子さんが言葉を濁した。

 当たり前だけど天気の良い日ばかりは続かない。そんな日は、屋上に出るドアの庇の下で二人肩を並べて何することも無く、黙って座って鉛色の空を眺めていた。

 その日も降っているか分からない位の、か細い霧雨の降る日だった。庇の幅は二人が並んで座る位の幅で、雨を避けるには僕たちは肩と肩が触れる程くっつかなくてはいけなかった。僕はいつもドキドキしていた。時たま視線を横に向ける。何処か遠くを見ている表情の花菜子さんの横顔は、とても綺麗だった。

 タバコ吸ってもいいですよ、と花菜子さんに言っても、花菜子さんは笑って首を横に振っていた。

 その日、僕たちはお互いのプライベートの、繊細な話題にまで踏み込んだ。別に二人きりで無言で座っているのは苦痛ではなかったけど、何気なく花菜子さんが看護師になる切っ掛けを聞いたのが始まりだった。

「私、両親いないのよ」世間話の様に、何の気負いも無く花菜子さんが話し始めた。

 お父さんは花菜子さんが幼い時に事故で亡くなっていて、お母さんは十七の時に病気で亡くなった。五つ上のお兄さんがいるけど、今は関西方面に居るらしい。らしいと言うのはそのお兄さんには色々複雑な事情があって、今は音信普通になっていて消息すら分からないとの事だった。

「家がそんな環境でしょ、私中学の時からヤンチャになっちゃって、高校になったら学校にも行かず、家にも帰らない日が当たり前になったのよ。で、ある日着替え取りに寄ったら母親が家にいないのね。そしたら入院しているって隣のおばさんが教えてくれて」

 花菜子さんはそこで言葉を止めた。

「末期だったのさ」

 その日から花菜子さんは、学校にも遊びにも行かずに母親の看病をし、そして最後を看取った。

「その時母に最後までついていた看護師さんが私と母に良くしてくれてさ。その看護師さん、私と似たような境遇の人で、それで余計私に親身になってくれたのよ。でもこの仕事して分かったけど結構いるよ、昔ヤンチャしていたナース」花菜子さんはニコッと力なく笑った。

 また顔に出たのだろう、「意外だった? 」と聞かれ素直に頷いた。

「それで看護師って仕事に興味持ってね。その人に相談したら『まずやってみな』って言われてね。一年遅れて高校卒業したから他の看護学生より少し年上って訳。以上でこれまでの私の人生の歩み終わり」

 花菜子さんはお道化て話を終わらせた。でも僕は愛想笑いをしなかった。

 霧雨が音も無く降っている。僕は黙って灰色の空を眺めていた。

「花菜子さん、僕の事、知っているんでしょ? 」僕は呟いた。

 今度は僕が話す番と気負った訳じゃない。本当に素直に言葉が出た。僕は花菜子さんの境遇に同情しない。僕も花菜子さんに同情されたくない。

 花菜子さんは看護学生とはいえ一応ナースだ。今は入院患者だけど、だ。僕の個室に来て主治医から、治療方針とか投与される薬を聴いている。

 僕の個人情報をある程度知っている筈だ。僕が筋萎縮性側索硬化症ALSと言う事も、両親も兄弟も居ない天涯孤独の身である事も。

 僕たちは少し似ていた。

 そして僕の病気は治療法が無い。三十歳までの生存確率も低く、運が良くても植物人間ベジタブルになる可能性が高い事も。

 花菜子さん黙っていた。言葉を選んでいると言うよりも、僕の話が聞こえてない雰囲気だった。

 霧雨は止んでいた。暫くして花菜子さんはジーンズの後ポケットからタバコのボックスを取り出し、その中から一本抜き出して指でクルクルと回した。

「まあね、それなりに」花菜子さんは鉛色の空を見て言った。


 7

『報道で知りました。災難でしたね。怪我の具合はどうですか。一日も早い復帰を願っています』

 目が醒めて最初に読んだメールが千堂からの定型文メールで、気分と機嫌が悪くなった。いや、気分が悪いのは怪我のせいか。

 それにしても何よこの五・七・五・七・七みたいなメールは。こいつ本当に高校生なの?

 私はスマホをベッドに投げ捨てた。返信を考えたが今の黒い気持ちだと、愚痴と悪口と嫌味くらいしか出てこない。そんな事しても気分が晴れる事はない。私はため息を吐いた。

 鈍い痛みが首から肩に走る。いたたたた。ギブスをしている首は固定されていて大きな動きさえしなければ痛みは走らないが、ちょっとした小さな細かな動きで、電撃を受ける事がある。それが余計ストレスになり、苛立ちを募らせていた。

 仕事からの帰り、私は追突事故に巻き込まれた。あの浦崎を放逐しようと事務所の社長に電話を掛けようとして、浦崎が慌てて後部座席に振り返った、あの時だ。

 私たちの車は、すぐ後ろを走っていた貨物車に追突された。貨物車のドライバーは渋滞中にスマホのゲームに夢中になっていて、車列が流れ始めたのを横目で見ながら注意散漫のまま車を発進させた。だけどそのちょっと先には渋滞で止まっていた私たちの車があり、そのままガッシャァン……

 その一部始終が、貨物車に装着されていたドライブレコーダーに記録されていた。映像をネットで拾ってきたお手軽バラエティ番組で流れる『衝撃! 事故の瞬間映像! 』とかの、正にその事故の瞬間映像が運転席内部の状況も含めてバッチリ映っていた。

 私は見てないけど。見たらイライラするし。

 ただでさえ追突した方が100:0(ヒャクゼロ)で責任取らされるのに『この映像証拠で更に有利になります』と事務所の顧問弁護士が、緊急治療室で首にギプスを巻いた私に嬉しそうに言った。だけど一番納得できないのは、浦崎が全くお咎め無し無罪放免である事だ。しかも無傷。確かに浦崎は違法行為をした訳じゃない。渋滞で停車していて後ろを振り返っただけだ。

『浦崎君が追突された時に強くブレーキを踏んでいたお陰で二次被害を防げました。多重衝突になっていたら、過失相殺とか別の車への補償とか複雑になるケースがあるのですが、いやぁ浦崎君お手柄です』

 笑顔の弁護士に、私は引き攣った苦笑いしか返せなかった。まあ実際表情を変化させるだけで首に電撃が走るから、引き攣った顔にしかならないんだけど。

 ブレーキを踏んでいたのは絶対偶然だし、慌てて振り返った時に偶々渋滞だっただけだ。それより私が全治二週間のムチウチなのに、浦崎が全くの無傷ってのが気に食わない。浦崎が私より大怪我を負えばいいのに、とは言い過ぎだけど、事故った時思いっきり舌を噛んで、暫く喋らなくなる位の地味な怪我すれば良かったのに。

 黒い渦がグルグルと心の中で渦巻いていた。私は大きくため息を吐くと、慎重にゆっくりと体の向きを変えベッドから降りた。鎮痛剤が切れてきたのか首回りがジンジンと痛い。

 気分転換も兼ねて、歯磨きをしようと洗面台に向かった。頭が少し上下するだけで痛みが走るから慎重に歩いた。ギプスから上が自分じゃないみたい。

 ベッドルームから出てリビングを通る。リビングから見える窓の外は真っ白だ。多分台風の影響で外は悪天候なんだろう。私の怪我もあるけど、こんな天気じゃ屋外ロケなんか出来る訳ない。

 急に出現した二週間の休暇は、最近働きすぎの私には嬉しいアクシデントではある。首の怪我さえ無ければ、の話だけど。それにたった二週間の休みでも、復帰した時に今の仕事や人気があるか不安になる。浮き沈みの激しい業界だ、何が起こるか分からない。

 でも冬にクランクインする時代劇の時代考証の資料を、集めるだけ集めて整理していなかった。良い機会だから、その資料を読み漁っておこうと健気にも前向きに気持ちを切り替える。そんなあれこれと浮かんでくる不安と希望を混ぜこぜに感じながら、壁にあるスイッチを入れた。バスルームの前室にある洗面台がパッと明るくなり、壁一面の大きい鏡に私の姿が映る。

 私は目を見開き、それからまた目を閉じた。そして今自分が確かに覚醒している事を自覚し、ゆっくりと目を開けた。

 ……あっちゃー、やっちゃった……

 改めて鏡の中の顔をマジマジと見る。やっちゃったなこれ、と心の声を小声で呟いた。

 まてまて、落ち着け私。もうこうなってしまった以上、あれこれ詮索したり記憶を思い出したりするのは時間の無駄。確か以前の舞台で使っていたのをクローゼットの奥に仕舞い込んでいた筈だ。どうせギプスが取れるまで仕事は休みを貰っている。大丈夫だ、落ち着け。一週間で仕事復帰って言うプランも破棄。私は気分転換するのも顔を洗うのも忘れて、すぐにベッドルームへと向かった。

 

 8

 霧雨の日の翌日から、僕は屋上に行かなくなった。窓から見える空は、クーラーの効いた部屋にいても真夏の暑さを感じさせる空になっていた。

 なんとなく花菜子さんと顔を合わすのが気まずかった。これまでほとんど人付き合いと言うのをした事がない僕は、お互いの柔らかく繊細な場所にまで語り合った人と、どんな顔で会ったらいいのか分からなかった。

 僕はやはり子供だった。

 味も素っ気も無い、いつもの朝食を、いつも通り半分残してタブレットを見る。赤白の蝋燭が何本も立ち並び、不規則に描かれた二本の曲線が交差しながらそれに被る。

 僕はそれを見て思考する。

 僕は株式と為替に投資している。投資は単純だ。安く買って高く売る。安くなるのを見込んで高値で売る。どちらもその差額が儲けになる。上がるか下がるか、売るか買うか。それだけだ。お金は僕にとってはただの数字だった。

 僕の両親は、普通の人が使いきれない程のお金を残してくれた。僕はそれを投資で倍以上に増やした。高額医療が必要な身なのに、天涯孤独で未成年な僕がそれなりの総合病院の特等個室に、長期入院出来ているのは財力があるからだ。そして生きている年月がそのまま入院歴になっている僕にとって、投資の世界が僕の生きている世界だった。

 僕は慣れない人付き合いから、いつもの日常世界に逃げた。

 そんな日が三日位続いた。

 コンコンとドアをノックする音と「星野様、失礼します」と声がする。

「どうぞ」配膳係の人が朝食を下げに来た、と思った。

 でもドアを開け入ってきたのは、ナース服姿の花菜子さんだった。

 僕は驚きの余り固まった。そして花菜子さんは何故かバインダを持っている。花菜子さんはドアを閉めると鍵を掛けた。

 え? なんで?

 花菜子さんはベッドの傍らに立った。僕は咄嗟にタブレットを枕の裏に隠す。

「星野様、問診の時間です」

 え? え? ?

「質問に答えてください」花菜子さんはバインダとボールペンを構えた。

 質問? なに?

「名前と年齢、血液型は? 」

 花菜子さんは無表情で聞いてきた。目はしっかりと僕を見ていた。

「星野……純心です。十六歳。AB型です」花菜子さんはボールペンを動かす。

「身長体重は」

 感情もこもっていない声だ。

「百五十八センチ、四十三……キロです。あの……花菜子さん」

「趣味は何ですか? 」

 花菜子さんは僕の言葉を遮り、質問を続けた。

「読書と……読書です」

 消え入るような声で答えた。

「アダ名はありますか? 」

 少し感情のある声になった。

「あります……」

「それを教えて下さい」

「コロロ、です」

「屋上に来なくなったのは何故ですか? 」

 僕は下を向いてしまった。白いシーツが見える。しばらく無言が続いた。

「体調、悪くなったの? 」

 声が変わった。優しく労るような声だ。僕は頭を振った。

「じゃあどうして? 」

 僕は息を吸った。

「花菜子さんに……同情されたくないし、でも花菜子さんの事聞いたら……同情……」

 支離滅裂だった。頭の中がグチャグチャになっていた。

 僕だって何で屋上に行かなくなったのか分からない。本当は行きたい、行って花菜子さんと、ぼーっと空を眺めていたい。

 頭に血が上り鼻の奥が、つんと痛む。涙が零れそうだった。

 甘い香りと柔らかく温かい体温が僕を包む。花菜子さんがそっと抱きしめていた。

「同情、しないよ」

 花菜子さんは、僕の髪の毛をグシャグシャと撫で回した。

「確かに星野君の、コロロの病気の事を知っているよ。でもそんなのどうだっていいじゃない。でも良かった体調が悪くなくって。もし悪化していたら絶対私のせいだから」

「ちが……違います……僕が勝手に……ごめんなさい」

 涙が出るのを必死で堪え、言葉途切れ途切れに謝った。花菜子さんは僕から離れ、僕の両肩を掴んだ。

「謝るな。いちいちこんな事で謝っちゃだめ。こんな事で謝っていたら残りの人生ずっと謝りっぱなしになるよ」花菜子さんは肩を軽くゆすった。

 僕は下を向いたまま頷いた。

 花菜子さんはベッドに腰を掛けて座った。僕は必死で堪えた涙を袖で拭った。花菜子さんは、そんな僕の姿を見ないで窓の外を見ていた。

「夏になったね」花菜子さんが呟く。

「……屋上、日焼けしちゃいますね」

「そうだね」

 暫く無言が続く。

「今日来た理由はね、コロロの様子を見に来たのもあるんだけどちょっと話もあってさ」花菜子さんはまだ外を見ていた。「私転院する事になったの。それを言いに来た」

 胃をぎゅっと強く握られる様な痛みを感じる。花菜子さんは僕の顔を見た。

「精密検査が必要になったから、S大の大学病院に転院するの」

「……いつからですか? 」

「明後日」

 急になんで? そんな僕の心の声がまた表情になったんだろう。

「ここの病院、血液系の専門いないからね。県内ならS大がやはり一番だし担当医がS大出身なのさ。その人が紹介状書いてくれてね。だから暫くコロロとは会えない」

 暫くってどれくらい?

「多分二週間くらいかな。看護実習に来て入院って前代未聞の出来事って学校から驚かれているわ。お陰で私の留年は決まったんだけどね」花菜子さんは明るく笑って言った。

「そんな顔しない。退院したらお見舞いに来るからさ」花菜子さんは両手で僕の両方のほっぺを軽く抓(つね)った。僕はどんな表情をしたらいいのか分からなかったけど、同情をしないって決めた事を思い出した。悲しい顔や寂しい顔は、花菜子さんの前でしちゃ駄目だ。僕は頬を抓られながら、無理矢理唇の端を上げ笑った表情を作ろうとした。

 花菜子さんはそんな僕の顔を見て噴き出し、両手を離した。

「よし、偉いぞ」また髪の毛をグシャグシャと撫でまわした。「だからメルアドか携帯番号教えてよ。私も入院中暇だからさ。本ばかりじゃ飽きるし」

 少しだけ心が軽くなった気がした。もう会えない訳じゃない。それが救いだった。

「いいですよ」枕の後ろに隠したタブレットを取り出した。

「携帯持っていないからパソコンのメルアド教えますね」その時、画面が証券会社のポートフォリオのままだった事を思い出した。花菜子さんに画面が見えないように慎重に取り出したけど、花菜子さんにはそれが通用しなかった。

「そういえばさっき趣味聞いたら言葉の切れ悪かったわよね。読書って言ってもこの部屋本ないじゃん」室内を見渡して花菜子さんが言った。

「タブレットで……読んで……ます」言葉が詰まったのが拙(まず)かった。花菜子さんが今まで見たことのない笑顔を浮かべた。

「コロロも年頃の男の子だったなぁ。さてはお姉さんに見せたくないイヤラシイ動画を観るのが本当の趣味なのかな? 」

「違いまう! 」大声を出して、噛んだ。ニっと笑った花菜子さんの動きは早かった。僕が反応出来ないスピードでタブレットを奪うと、体を反転させて背を向けた。

「コロロはどんな系統が好きなのかな? 巨乳系とか」

「駄目です、見ないでください」僕は手を伸ばしたけど、細い背中に阻まれた。

 また無言の空間になる。エアコンの音が聞こえてきそうだった。

「……えーっと何これ? 」花菜子さんが振り向いた。さっきとは全然違う表情で、戸惑い困っている。ちょっとの間で何回花菜子さんの表情は変わったのだろう。

「ポートフォリオの画面です」

「え? ポートフ……何? 」

「株とか投資信託の……画面です」

「コロロ、株やってるの? 」花菜子さんの高いキーの声を初めて聞いた。

 顔を真っ赤にして頷いた。何故か花菜子さんの言うイヤラシイのを見られた位、恥ずかしい気持ちになった。

「え、じゃあこの『+』って、うわほとんど『+』じゃん。真っ赤だけどこれ赤字じゃないよね。一、十、百、千……」花菜子さんの息が止まるのが分かった。

 赤い顔のまま頷いた。花菜子さんはタブレットを裏返してそっと返してきた。そして真剣な顔で小さく「ぶっちゃけ幾ら儲かっているの? 」と聞いてきた。

「誰にも言わないから」

 自然とドアの方を見た。鍵は掛かっている。

 僕は×桁の数字を小声で言った。花菜子さんの息を呑む音が聞こえ、目はこれでもかと言うほど大きく見開いていた。

「えげつな」

 花菜子さんはそう言うと体がゆっくり傾いていき、そのままベッドに倒れ込んだ。

 

 9

「じゃあ今日は帰るね」

 夕飯になるハムとレタスのサンドイッチにラップを掛けてから花菜子さんが言った。

 僕は一年前の眼鏡を探して来て掛けていてけど、やはり視界がぼんやりとして焦点は定まっていない。花菜子さんもぼんやり見える。

 カーテンが開けられた窓の外は、白い霧に覆われていて、そして早く流れているのが分かる。風の音が聞こえてきそうだ。

 帰るって……何処へ? そう思ったけど口には出せなかった。

「外、天気荒れているけど大丈夫かな」別の言葉が出てくる。

「大丈夫よ、下は晴れているでしょ」

 もう一度窓の外を見た。確かに雨が降っている感じはしない。その時イタタっと声が聞こえた。花菜子さんがキッチンカウンターに手を置いて少し腰を曲げていた。

「どうしたの? 」声を掛けながら近づいていった。

「ぎっくり腰かな、いきなり来たね」

 んーっと低い声を出して花菜子さんが腰を伸ばして、腰と首に手を当てた。

「車、呼びましょうか? 」

「いいってこれ位で。それに年下にお金使わすのは気に喰わないって前にも言ったでしょ」

 僕はドキリとした。そうだあの時確かに花菜子さんは言った。あの時の怒った声と顔を思い出す。

「それじゃね、また来るよ」花菜子さんは笑っていた。

 二人でリビングを出て玄関ルームに向かう。玄関には黄色い靴が置かれていた。当たり前だけど、花菜子さんは歩いて僕の部屋に来たんだ。不思議な気持ちになる。

 花菜子さんは黄色い靴に足を通し、振り向いた。

「じゃあね」今日三回目の『じゃあ』だった。

 僕は軽く、うんと言って頷いた。ドアを開けて花菜子さんは出ていく。花菜子さんは振り向かない。ドアが閉まる。僕はその後を追いかけたかった。追いかけて花菜子さんが何処に帰っていくのか確かめたかった。でも出来なかった。

 追いかけたら花菜子さんが消えてしまいそうで怖かった。幽霊でもいい。花菜子さんに会えるなら、僕はそう思った。

『それじゃね、また来るよ』花菜子さんの言葉が、頭の中で何回も再生された。

 僕はまたリビングに戻った。僕以外誰もいない。でもどこか僕以外の誰かがいた雰囲気が色濃く残っていた。そしてそのままキッチンに向かう。朝食で使ったプレートやフォーク、ホットミルクが注がれていたコップが、乾いた状態で食洗機の中に置かれていた。

 幽霊なんかじゃない。確かに花菜子さんがここに来たんだ。

 それを確かめるとまたリビングに戻り、柔らかいソファに体を埋めた。眼鏡を外して傍に置く。そして目を閉じた。

 花菜子さん……どうして生き返ったの?

 答えの出ない問いかけをしながら、今日一日の事を思い出していた。不思議な事についさっきまでの事なのに、どこか夢の中に居る様で記憶も不安定だった。

 朝ごはんを食べて、それを花菜子さんが片付けて。その後花菜子さんが掃除するって言って掃除機を掛けて。お昼もとうに過ぎたけど、お互いに食欲がなかったから昼抜きにしようって話して……

 それ以外に何か話したっけ……僕はもう読書をしなくなってもう四年も経っていた。でも、二人の共通の趣味の本の話題は何故か出なかった。

 僕の視界のように、すべてがぼんやりとしている。唯一確かだったのが、花菜子さんの笑顔だった。その表情だけがはっきりと記憶の中にある。

 思い立って寝室へ行く。枕元のドレッサーの上の充電器に置かれている携帯電話を取った。そしてそれを持って再びリビングへ戻り、さっきと反対側のソファに座った。

 携帯を開く。液晶画面には今日の日付と現在時刻だけが大きく表示されていた。発信履歴ボタンを押す。そこには花菜子さんの番号しかない。

『花菜子さん』の表示だけが並ぶ画面に一瞬胸が詰まる。掛けた日付と時間は五年前のままだった。

 震える指で『花菜子さん』を選択して再発信のボタンを押した。

 プッ、プッ、プッの呼び出し音に心臓が早打ちする。

 やはり止めようと携帯を耳から話そうとした時、電話が繋がった。

『この番号は現在使われておりません。番号をお確かめになってもう一度おかけ直しください』女性の声でアナウンスが流れて来た。僕は携帯を切った。

 ソファに大きく背中を預け、大きくため息を吐く。

 当たり前だ。あの時花菜子さんの携帯電話も棺の中に入れた。携帯が通じる訳がない。

 でも花菜子さんは現れた……どうして……

 低い音が微かに聞こえてくる。窓の方向に目をやった。どれくらいソファに座ったままだったのだろう。そんな事も思い出せない。窓はカーテンで遮られていて外は見えない。カーテンは夜八時を過ぎるとタイマー作動で自動的に閉まるから、八時過ぎと言うのは分かったが、外の様子は伺いしれない。ただ悪天候だと言うのは、昼間の様子から大体分かる。僕はテーブルの上からタブレットを手に取った。

 僕でも見える大きさの『データボタン』アイコンを押し『天気予報』を選択した。

 画面には天気図が映し出され、関東地方の真下に大きく渦巻いた台風があった。赤いテロップ文字が画面下に流れていく。

『台風18号は勢力を保ったまま関東地方に接近中。関東地方は既に強風域。JR 私鉄及び新幹線、公共交通機関の遅延情報はこちらから……』

 台風が来ているのか……テロップを読んで初めて外の悪天候の理由が分かった。

 台風の中、花菜子さんはどこから来た……

 分からない事だらけで頭の中は混乱し、思考力の低下は体力も奪っていた。花菜子さんが帰ってから体が重い。薬も定時より少し早く飲んだ影響だろうか、眠気に襲われていた。しかし寝る前に行う柔軟体操をする気力はもう無くなっていた。僕は無気力な状態で、そのまま目を閉じた。


 10

 僕は五年前を思い出していた。

『星野君こんにちは。毎日暑い日が続くね。体調崩してない? あまりクーラーの温度下げちゃ駄目だよ。でも私の部屋は暑がりのおばちゃんと寒がりのおばちゃんがいて温度調節が大変(笑)今日もこの二人の争いに巻き込まれて静観してたら二人から同時攻撃を受けた。なんでやねん! ほんと女ってややこしい。("゚д゚)今日も私は採血して薬飲んで検査して……もう飽きた。早く帰りたいし早く学生に戻りたい! コロロも早く退院しようね。その為にもトレーニングさぼるなよ! それじゃまたメールするね』

「ちゃんとトレーニングしていますよ」僕はタブレットに向かって、独り言を呟いた。

 花菜子さんがS大学病院に転院した日から僕は、午前と午後それぞれ一時間トレーニングルームで筋トレをしている。本当は治療方針の一環だったけど、今まで真面目に行っていなかった。どうせって気持ちが大きく、気が向いた時しか行かなかった。それがもう五日連続で続いている。慣れない事をして筋肉痛に悩まされながら、良く続いているなと自分でも驚いている。

 今もついさっきトレーニング室から帰ってきたばかりで、シャワーを浴びる前のメールチェックで花菜子さんからのメールが来ているのが分かった。

『花菜子さんこんにちは。トレーニングさぼらずやってますよ。斉藤婦長さんにも驚かれていますw 僕は元々クーラーが嫌いなので(夏の太陽も嫌いですけど)部屋の温度は常に二八℃です。採血いやですよね、僕は検査入院のベテランだけど採血だけは慣れません。それに上手なナースと下手なナースで痛さが全然違う! 花菜子さんは上手なナースになってくださいね。それとお勧めのパトロシア・コーンウェルの本買いました。今日の寝る前の楽しみにしますね。それではまたメールします』

 送信ボタンを押す。

 一日に一回、僕と花菜子さんは日々の何でもない出来事をメールに書いて送っている。屋上でダラダラとお喋りするのとは違って、文字でのやり取りは勝手が違って最初は戸惑ったけど、日々変化のない生活を送っている僕には、数行程度のメールでのやり取りが丁度いいくらいだ。それは、日々変化のない入院生活になった花菜子さんも同じことだった。

 メールでの主な話題は『本』だった。花菜子さんが入院して最初のメールに『夏への扉』は長くも短くもないからいいよって勧められた。日本人の小説しか読んだ事がなく『夏への扉』がSFなんて知らなかったけど、それをネットで買って一日で読み終えた。本当に面白かった。面白すぎてどんな感想を書こうかと迷った挙句、一言『とても面白かったです』って書いたら『小学生の感想文か』って返って来た。

 でも花菜子さんのお勧めは『検視官』シリーズ。主人公の名前がスカーペッタって変な名前だけど、花菜子さんのイチオシだから期待しよう。

 屋上でのデートは出来なくなったけど、こんな何気ない会話の日常がずっと続くと、少なくても花菜子さんが退院するまでは続くとこの時は思っていた。

 二週間が過ぎた。

 四〇℃近い真夏日が続き、真夏日の連続記録を更新したと、ニュースが報じていた。病院から外に出ない僕にとっては全然関係ない事で、真夏日が記録更新中でも毎日同じ事を繰り返していた。

 起きてご飯食べて検診して、トレーニング。それを午後も繰り返し、夜は本を読んで眠くなったら寝る。たまに精密検査が入るくらいだ。

 花菜子さんからのメールも、毎日昼後くらいにポンっと送られてくる。 

 でも大きく変わった事がある。

 花菜子さんの入院が伸びた。二週間経っても、花菜子さんは退院出来なかった。

『暇な日が続くよ(泣)』とメールに書かれていたけど、僕はまたあの胃がギュッとする感覚に襲われた。それは僕が小児病棟に居た時に嫌と言う程味わった。昨日まで隣のベッドに寝ていた子が、朝起きたら居なくなっている。そんな時に感じる感覚だ。

 同じ歳くらいの女の子と一緒になった事がある。退院予定日の三日位前にその子の両親が『おうちに帰るのもう少し待ってね』と、ベッドに寝ている女の子に告げた。その女の子は『残念だね』と少しだけ悔しそうな顔をしたけど『お家帰ったらアイスクリーム一杯食べさせてね』と、すぐに笑顔で言って両親も大きく頷いた。

 でもその子はその夜に声を殺して泣いていた。

 しばらくして、その子は亡くなった。

 皆が『優しい嘘』を付いていた。両親も医者も看護師も、そしてその女の子も。生きて帰れないと分かっていた。だから誰も悲しくならないように皆嘘をついた。

 隣で寝ていた僕も、それが嘘だとわかっていた。

 その頃の僕には、もう嘘を言ってくれる肉親は居なかった。誰も僕に嘘を言ってくれないし、嘘を言う相手も居ない。

 それでもその優しい嘘は、それを聞くだけでも深い悲しみと痛みを人に与えるものだと、僕は知った。

 その嘘が、僕のところに来た。

 花菜子さんからのメールが一日おきになり、それが二日になってそして来なくなった。

『薬の副作用で眠くてさ。それに病室でのスマホ禁止令が出たよ。オバサン達がナースにクレームいれてさ、とりあえず暫くは大人しくするね。解禁になったらまたメールするから心配しないでね。でも良いことが一つ。禁煙は記録更新中! いっそこのままタバコとお別れしようかな? (笑)』

 花菜子さんからの最後のメールにはそう書かれてあった。僕は返事を書いて送った。でもその日から数日が過ぎ、カレンダーはもう秋になっても花菜子さんからのメールは来なかった。

 病室から見える外の天気は、残暑とは言い難い猛暑日が続いていた。僕はある決断をした。僕の成年後見人の弁護士にメールを入れた。僕は僕の意思で初めて動いた。

 弁護士を通じて外出許可を貰った。病院の外に出るのは久しぶりだった。半年間、クローゼットでクリーニング店のビニールに覆われたままのシャツとズボンは、変わらずに履けた。同じクローゼットにあったシンプルな黒い肩掛けバックにタブレットと財布、今日の分の薬を入れて、病室を出た。

 病院の玄関からハイヤーに乗るまでの短い距離でも、熱波と強烈な日差しに目眩を感じた。S大学病院までの後部座席で揺られている間、僕は黒い雲に目の前を覆われている気分だった。

 僕は何をしに行くんだろう。知ってどうするんだろう。それを知って何をすればいいんだろう。

 その自問が、壊れたCDの様に何度も頭の中でリピートしていた。

 S大学病院に着いて総合案内図で『五東病棟』を探した。数日前、S大学病院のHPから血液の病気の入院患者が居る病棟を検索したが、血液系の専門医に関する紹介しかなかった。次に婦人専門病棟を調べた。花菜子さんの言う『オバサン達と一緒の部屋』が手がかりだった。そこで『五東病棟』がヒットした。産婦人科の病棟で、出産する妊婦さん達と女性入院患者専用の病棟だった。

 エレベーターに乗って五階まで上がる。病院はどこも同じだ。白いリノリウムの廊下と消毒液の匂い。見慣れた風景と匂いの中を、まっすぐにナースステーションに向かった。

『お見舞いに来たんですけど新條花菜子さんの病室を教えていただけますか』

『ご関係は? 』

『友人です』何度も頭の中で繰り返した。この病棟にいなければ、他の病棟の全てのナースステーションで同じ事を聞けばいい。

「すいません」ナースステーションの中で忙しく動き回っている看護師達が、一斉にこっちを見た。少したじろいだ。「はいはい、何か御用ですか? 」ふくよかなナースが僕の居るカウンターに近寄ってきた。マスクをした目の大きなナースだった。胸に『萩原』と名前が書かれたIDカードがあった。

 ツバを飲み込むと、頭の中で何度も反芻していた言葉を切り出した。

「お見舞いに来たんですけど、新條花菜子さんの病室を教えていただけますか」

 ナースステーションの空気が少し変わった。一瞬だったけど全員が聞き耳を立て、すぐに元の作業を続けた。そして対応していた萩原さんの目が泳いだ。表情はマスクで隠れていて分からなかったけど、大きな目は表情と同じくらい動揺していたのが分かった。

「失礼ですが新條さんとはどういったご関係ですか? 」萩原さんが聞いてきた。

「……友人です」

「そうですか、でももう新條さんは退院なさいましたよ」

 ……退院

「いつですか? 」

「ごめんなさいね、今そう言ったのも個人情報でお教えできないのよ。でも」と言ってナースはカウンターに身を乗り出して手招きをした。僕は手招きされるままに少し前に身を進め、顔を近づけた。

「本当は教えられないんだけど四日前に退院したわ、これ内緒よ」と小声で言った。

 四日前……もっと早く行動していたら……

 後悔の痛みが、頭の中で渦巻く。

「あ、ありがとうございます」僕は頭を下げた。カウンターから離れると、再度頭を下げナースステーションを後にした。

 今来たばかりの廊下を引き返しエレベーターホールに向かう。足取りは重かった。退院の可能性は考えていなかった。次の事が考えられなかった。

 無意識に下に降りるボタンを押していた。ゆっくりとエレベーターの回数表示が五階に向けて降りてくる。病院のエレベーターはどこも同じでゆっくり動く。僕はその表示をじっと見ていた。

 退院……僕には教えてくれなかった……どうして 

 いつの間にか扉が開いていた。僕は慌てて中に入る。『閉』ボタンを押そうとした時「ごめんなさい」とナースがすっと入ってきた。えっと声を上げた。さっきの萩原さんだ。扉が閉まりエレベーターは降下し始めた。

「君、名前は? 」萩原さんは唐突に聞いてきた。

「星野です……」

「コロロくん? 」

 息が止まった。顔が赤くなった。

「やっぱりそうね、星野純心君ね」

 僕は頷いた。

「カナちゃんから聞いているわ。おもしろい子が居るって。君本当に顔に出るわね」

 マスクをした萩原さんの大きな目が笑った。どうしていいか分からず、顔を赤くしたまま立っていた。

「ごめんね、からかっている訳じゃないの。でもまさか君がここに来るなんて驚いちゃって」萩原さんはじっと見ている。

「星野君、まだ時間ある? 」

 僕は頷くしかなかった。


 11

 エレベーターを降りて、萩原さんの後に着いていった。一階の受付は、僕が入院している総合病院よりも広く近代的な造りをしていたけど、受付を待つ人や支払い待ちの人は少なく、ガランとしていて少し寂しかった。

 萩原さんは院内薬局の前を通り過ぎ、その並びにあるカーテンが入口に掛けられている部屋の前で止まった。

 「中にどうぞ」萩原さんに促され部屋の中に入った。部屋はさほど広くなく、白い机とパイプ椅子が二脚で、二人入るともう満員なった。白い机の上には血圧計が置かれていて、診察をする前の問診室だと分かった。

 萩原さんはカーテンを閉めて中に入ると、白い机側の椅子に座った。

「星野君も座って」言われるがまま、僕は座った。

「君の事はカナちゃんから聞いて知っている、って言ったわよね。この意味は分かる? 」

 僕は頷いた。花菜子さんは、僕の病気の事を話したのだろう。

「君がここまでこの病院まで自分の足で来たって事を考えたら私我慢出来なくて。でも教えて。カナちゃんに会って星野君はどうするの? 何がしたいの? 」

 単刀直入な質問だった。そしてずっと自分にしてきた質問だった。そして答えがまだ出てない質問だった。

「自分でも分からないのよね、だったら思いつきで行動しちゃ駄目。そんな気持ちでカナちゃんに会ったらカナちゃんも迷惑よ。それより自分の体を大事にしなさい。それがカナちゃんの願いであるわ。忘れているかもしれないけど、彼女看護師の卵よ」

 容赦ない言葉だった。返す言葉が無かった。僕は下を向く。見慣れたリノリウムの白い床が見える。

 僕はずっと下を見て生きて来た。

 また僕の願いは叶わない。『ちくしょう』 またその言葉を心で吐いた。

 ……また?

 思い出した。そうだあの時だ、ちくしょうって確かに言った。屋上に行くのを阻んだ鋼鉄製のドアの前だ。あの時は花菜子さんが僕の願いを叶えてくれた。花菜子さんが僕の手を引いてくれた。

 外で遊ぶことも、友達とお喋りすることも、全部叶わなかった。それが当たり前と気付いてから願うこともなくなった。叶わないなら願わなければいい。最初から希望を持たなければ、辛くない。

 でも、もううんざりだ! 一生『ちくしょう』って言い続けるのか? 僕の願いは絶対に叶わないモノなのか?

 僕の人生の中で今までにない感情が沸いた。それは怒りだ。

 今度は自分の力で自分の願いを叶える。叶えてやる!

 花菜子さんは合鍵を作って開かずの扉を開けた。

 そうだ手段は幾らでもある。だけど手段を選んでいる時間は僕にはない。花菜子さんの行方を探偵に探させてもいい。僕にはそれが出来るだけのお金がある。

 僕は顔を上げ、萩原さんの目を見た。マスクで表情は見えないが、大きな目は少し驚いていたのが分かった。僕は椅子から立ち上がった。

「ありがとうございました」僕は頭を下げた。

「星野君……どうしたの? 」

「萩原さんの言う通りです。花菜子さんに会って何するかを考えている訳じゃないです。でも僕は花菜子さんに会いたい。それだけです」

「どうする気なの? 」

「探します。探して会いに行きます。」

「探すって……どうやって? 」

「人に頼みます。探偵とか、弁護士の先生にも相談してみます」

「本気なの? 」

「萩原さんは僕の事知っているんですよね。僕には時間が無いんです。いつ体調が急に悪くなるか誰にも分からない。そうなる前に会わないと意味が無いんです」

「だから今何の考えも無しにカナちゃんに会ってもお互いに困るだけ……」

「そんな事どうでもいい! 」

 自分でも驚くほど大声が出た。顔が真っ赤になったのが分かった。冷静じゃないのは分かっている。でも本当にどうでもいい。僕は決めたんだ。

「ごめんなさい」静かな声で頭を下げた。「帰ります」そのまま振り返ろうとした。

「待って」萩原さんが止めた。「覚悟はあるの? 中途半端な気持ちじゃないって言える? 」

 萩原さんのその一言で全て分かった。僕は息を呑んだ。

 ああ、やはり『優しい嘘』だ。皆傷つかないように嘘を吐いている。胃の痛みは心臓に届いた。槍で刺されたかと思うほど痛い。

 溜まっていた息を静かに吐いて、ゆっくり振り返った。

「覚悟しています。花菜子さんから連絡が来なくなってから……覚悟していました」正直に話した。「僕も病院は長いです。色んな事を見てきましたから」

 萩原さんはじっと僕の目を見て、大きくため息を吐くと机の周辺を見回し、引き出しを開けた。そして引き出しからA4サイズの無地の紙とボールペンを取り出すと、紙に何か書き始めた。書き終えると、その紙を差し出した。

「カナちゃんの転院先」

 渡された紙に目を落とした。

「東京よ」

 その言葉の通り、紙には東京の住所と、病院の名前が書かれていた。

 僕は駅に向かった。知識にはあるけど一人で電車に乗るのは初めてだった。ハイヤーの運転手に「今から早く東京に着く電車」を聞いた。運転手は子供の僕に対しても丁寧な言葉で「新幹線が一番早く行けると思います」と答えた。そして「少々お待ちください」と言い、無線で会社に連絡して新幹線の時刻表を聞いてくれた。返事はすぐに帰ってきた。

『13:30発東京行き のぞみ』

 僕はその言葉を、呪文の様に繰り返し呟いた。

 駅に着くと運転手に教えてもらった『みどりの窓口』を探した。広い駅でもそれはすぐに見つかった。時計を見る。まだ出発時刻にはまだ余裕はあったけど、それがどれ位時間的余裕あるのか分からない。僕は急いだ。

 少し走ったせいか息が切れた。体が重くなっている。念のため今日飲む分の薬は持ってきている。これを飲むと少し眠くなる。まだ飲む時じゃない。息を整えて『みどりの窓口』に向かった。

 窓口では、これも運転手に教えてもらった『グリーン車』にした。新幹線専用のホームには出発時刻の三十分前に居た。ベンチに座って萩原さんの言葉を思い出していた。

『星野君、しつこいようだけど何があっても自分の体だけは大事にしなさい。それが私達医療従事者の本音よ。それだけは分かってちょうだい』

「約束します、萩原さん」時刻表をじっと見上げ、呟いた。

 東京駅に着きタクシー乗り場に向かった。教えてもらった病院への経路をネットで検索したけど、三駅程乗り継ぎをして更にそこからバスだったので、直接車で行く事を選んだ。病院名を告げると運転手は、僕が子供だからだろう、一瞬怪訝な顔をしたが何もいわずナビに目的地を打ち込んで車を発進させた。一時間弱でタクシーは病院に着いた。料金は高額紙幣一枚に少し足りない額だった。僕はお釣りを受け取らず降りた。人が大勢出入りしている正面玄関から中に入ると、嗅ぎ慣れた病院の匂いがした。


 花菜子さんはびっくりした表情で、目を大きく見開いて僕を見ていた。花菜子さんはベッドの傍に立っていて、シンプルな白のTシャツにジーンズだった。初めて見る花菜子さんの表情と私服だった。ベッドの上に黄色いボストンバックが置かれている。

「……何しに来たの? 」ようやく花菜子さんが口を開いた。

「あ……お見舞いに……く……来ました」どもりながら答えた。

「お見舞い品も……持たずに? 」

 あ……忘れた……

 その僕の表情を見て、花菜子さんが噴き出した。それにつられて緊張がほぐれた僕も笑った。二人の笑い声が白い病室の中に満ちた。


 12

 花菜子さんはベッドに座り、僕は窓際にパイプ椅子を出して座った。久しぶりに見た花菜子さんは少し痩せていた。

「怒ってませんか? 」

「そうね、でも怒ると言うより驚いているのが正直なところね。まさかコロロがここまで来るって想像もしなかった」

 優しい声だった。

「よくここが分かったわね。もしかして萩原さんから聞いたの? 」

 僕は頷いた。隠しても意味は無いし、花菜子さんには通用しない。

「あのお喋り」花菜子さんは笑っていた。「でもまあ私に怒る資格ないね、コロロに何も言わなかったんだから。逆に私の事怒っているでしょ」

 首を横に振った。

「花菜子さんが何も言わなかったのは僕にも分かります。言えなかったんですよね」

 花菜子さんは一瞬驚いた顔をして、すぐに優しい顔に戻った。そして右手を伸ばして僕の左頬に手のひらを当てた。冷たい手だった。

「どうしたの、急に大人になって。何があったの? 」

 あなたに会いたかった。ただそれだけです。

 叫びたかった。声に出して花菜子さんに伝えたかった。でも言葉にしなかった。言えば花菜子さんを苦しめる。

 花菜子さんの手のひらの上に、自分の手を当て握った。

「何も言わなくていいです。でも教えてください、これから花菜子さんはどうする気ですか? 」

 花菜子さんはじっと僕の目を見ていた。僕も視線を外さず、花菜子さんの目を見た。

「あと二週間はここに検査入院する事になっているのさ。その後は、そうね結果次第だけど入院か自宅療養か、どちらかね。でも多分入院になると思う」

「自宅療養になったら地元に帰るんですか? 」

 花菜子さんは首を振った。

「言ってなかったわね。私地元に家ないの。看護学校の寮に入った時にアパートを引き払ったから。いくら看護学校と言ってもさすがに寮での自宅療養ってないわ」

「じゃあ看護学校はどうなるんです? 」

「とりあえず一年休学って形で手続き進めている。だからここの病院しかないのよ、私の居る所は」

「僕たち、似ていますね」

「そうね、良く似ているわ」花菜子さんは力なく笑った。

 僕は花菜子さんの手を握って下に降ろした。そしてゆっくりと口を開いて僕の覚悟を話した。

「花菜子さん、僕の話を聞いてください。ここでの入院費やこれから掛かる費用、僕に負担させてください。それと病院の近くで住む所を探して自宅療養になったらそこに住んでください。そこに掛かるお金も全部僕が負担します」

 怒られる覚悟だった。そして新幹線の中で、駅からここまで来るタクシーの中でずっと考えていた言葉だった。怒られても怖くない、僕は本当に覚悟を決めていた。嫌われても構わない。感謝される言葉を期待している訳じゃない。

 僕に出来る事の全てを考えた末の結論だった。

 花菜子さんの表情は全く変わらなかった。その代わり左手が僕のおでこの方に伸びて来た。次の瞬間、バチンっと音がして眉間に激痛が走った。

 ――っつ! 思わず後ろに仰け反った。

「なんですか! 」

「デコピン」

 知らない言葉だった。でも痛いのは分かる。

「ちょっとお金持っているからって生意気言わないの。それにね、年下にお金使わすって私チョー嫌いなのよ。使うなら先輩に気を使え、金は使うな! 」花菜子さんの表情が急に険しくなって、言葉は完全に怒っていた。

「二つ、花菜子さん勘違いしています」

 おでこを抑えながら言った。眉間はまだジンジンする。

「何よ、何が間違っているのよ」

「言いづらいかもしれないけど、仕事していないのにここの入院費とか払えるんですか? 貯金とかあるんですか? 」

「それは……あんたには関係ないでしょ! 」

「確かに関係ないです。でもとても重要な事ですよ。もしお金無かったらどうするんですか? 当てがあるんですか? 」

 花菜子さんは何か言いかけて口を開けたけどすぐに閉じた。僕は続けた。

「借りるって言っても関係ない人が貸してくれるんですか? 銀行って花菜子さんと関係あるんですか? だったら少しでも関係のある僕が貸します。貸すだけです。元気になって働いたら返してください。何年掛かってもいいです」

 無茶苦茶な理屈ってのは分かっている。でももうそんなの関係なかった。

 花菜子さんは完全に沈黙した。更に僕は続けた。

「それに僕はちょっとのお金持ちじゃないです。とても大金持ちです」

 勢いで言い切った。

 僕たちは見つめあったまま固まった。花菜子さんの怒った表情が緩んでいき、怒っているのか笑っているのか分からない奇妙な表情になった。

 花菜子さんの首が急にガクッと折れ、下を向いた。肩が小刻みに震えている。花菜子さんの右手が僕の頭の上に置かれた。そして昔みたいに髪をグシャグシャと掻きまわし始めた。

「ほんとに何があったの? コロロ別人になっているよ」花菜子さんは顔を上げた。笑顔で細くなった目尻には涙が浮かんでいた。

 少し時間が経って落ち着いた頃、僕たちは冷静にこれからの事を話し合った。その結果、花菜子さんは僕からお金を借りる決断をしてくれた。総額は三百万程。

 お金の賃借に関しては、僕が使っている税理士に間に入ってもらう事にした。入院費や検査費用、薬代の総額はまだ分からないけど、支払うだけではなく逆に医療費の還付とか、保険金の受け取りなど複雑なお金の処理が発生するのは、花菜子さんも分かっていたからだ。「これはプロに任せた方がいい事だと思う」僕の意見に、花菜子さんは素直に従ってくれた。

 あとは検査結果次第で通院か退院になるけど、それは今すぐに分かる事じゃない。まだ時間がある事だから、それまでに病院近くの不動産情報や都内の賃貸情報を花菜子さんであたりを着けておく事で決まった。

 話し合いが大体終わった頃は、時間は夕方だったけど太陽はまだ高い位置にあった。

「じゃあ今日は帰りますね」僕は席を立った。

「うん、いろいろとありがとうね」

 立ち上がって、大切な事を思い出した。

「あ、そうだ携帯の番号教えてください」

「あれ、携帯買ったの? 」

「今日はもう遅いですけど、明日にでも買いに行きます。これからなにかと連絡取り合わないといけないですから」

 花菜子さんは眉間に皺を寄せ、怪しむような目で僕を見た。

「君、本当に星野純心なの? 中身入れ替わっていない? 」

「男子三日会わざれば刮目して見よ、です」

「三日? 一か月近く会ってなかったんじゃん」

 二カッと笑いながら言う。いつもの花菜子さんだ。

「あ、そういえば今日どうして私服なんですか? どこかお出かけしてたんですか? 」 

 花菜子さんと、その傍に置かれている黄色いボストンバックを見ていった。この部屋に入って来た時から疑問に思っていたことだ。

「ああ、これね。さすがに洗濯物が溜まっていてね、近くのコインランドリーに行って来たのよ」

 そして花菜子さんはあの時の、あの見た事のない表情になった。

「バックの中、私の下着入っているわよ、見る? 」

「見ません」即答した。花菜子さんは本当に楽しそうに笑った。僕もつられて笑顔になった。変わっていない花菜子さんに、僕はどこかホッとした。


 13

 フロントガラスにへばりつく雨をワイパーが吹き払う。時刻はもう朝の九時を過ぎているが空は真っ暗だった。その黒い空から細かい雨が途切れなく降り注ぎ、時折大きな雨粒が交じる。まだ本格的な嵐にはなっていないが、いつ空が割れるか分からない状況だった。

 朝の通勤ラッシュのピークは過ぎていたが、雨の影響もあって道路を進む車列はゆっくりだった。その車列の中、浦崎はいつも以上にゆっくりと運転していた。だが浦崎は安全運転を心がけているのではなく、逆に浦崎の心は不安で溢れかえっていて前の車のブレーキランプだけを見て運転するので精一杯だった。

 それ程までに浦崎は追い詰められていた。

 愛之宮と音信不通になっている。それは異常事態だった。確かに今、愛之宮は首のムチウチが治るまで自宅安静で、二週間休暇を取っている。だが完全なオフと言う訳ではない。逆に、休暇明けのスケジュール調整を小まめにやらないと今後の仕事に影響が出てくる。事故の報道があってから、事務所には休暇明けのバラエティ番組への出演依頼が増えてきていた。これは次の映画の宣伝にもなるし、更にテレビへの露出が増える良い機会だから早く愛之宮と調整が必要になる。

 だが当の愛之宮とは、もう二日も連絡が取れていない。過去にも愛之宮の機嫌を損ねて連絡が取れなくなった時もあったが、仕事の連絡に関しては必ず返事があった。だが今回は全く返事が無い。電話は無論、SNSを使ってのメッセージも読まれた形跡が全くない。

 浦崎はその原因を考えた。追突事故は自分のせいではないし、社長にも顧問弁護士の先生にもタレントを良く守ったと褒められた。何故か愛之宮は納得していない顔をしていたが、多分これが原因ではないだろう。次に考えられるのは最悪なパターンだ。もし愛之宮が事故の影響で急激に体調を崩し、連絡すら取れない状況になってしまっていた時だ。悪い考えは膨れ上がり、思い余った浦崎は愛之宮のマンションへと車を走らせていた。

 スロープを下り、ゆっくりと地下駐車場へと入った。途中にゲートで愛之宮から渡されていた『ゲストIDカード』をタッチパネルに当てる。ゲートが上がり浦崎は車を進め、空いていたゲスト用の駐車スペースに車を止めた。車から降りると、浦崎は焦る気持ちを抑えて愛之宮の愛車の場所へ向かった。高級車が並んでいる中に、乾いたままの愛之宮の車はあった。それを確かめると、浦崎はロビーへ足を向けた。ロビーの玄関前で、初老のドアマンが笑顔で朝の挨拶の言葉を掛けて来た。浦崎は愛想笑いで頭を下げ、早足で玄関を抜けエレベーターの前に立った。扉が開き中に入る。タッチパネルにカードをかざし、行先階を押した。ゆっくりと昇っていくエレベーターに、浦崎は焦りを感じた。だが浦崎はこの次の行動をどうするか、迷っていた。浦崎の持っている『IDカード』で通過できるのはここまでだ。愛之宮の部屋に行ってもこのカードでは開かない。これはあくまでも『ゲスト』のカードだ。本人のカードでないと愛之宮の部屋の中には入れない。

 このマンションの管理会社に事情を話してロックを解除してもらうか、いやそんな事して何でも無かったら愛之宮の逆鱗に触れ、今度こそ担当を代えさせられる。

 会社に連絡を入れて会社で対応するか、だが万が一にも情報が洩れればパパラッチに嗅ぎ付けられ、有る事無い事書かれるリスクがある。女性タレントのちょっとした入院騒ぎはすぐに下世話な憶測記事として面白おかしく報道される。今人気が確実に上がっている愛之宮は、パパラッチらには絶好の目標だ。下手な動きは取れない。

 それにマネージャーとして最低限の確認もせずに行動をすれば、逆に会社から大目玉をもらう事も考えられる。そんな事をグルグルと考えているうちにエレベーターの扉が開いた。

 迷ったまま浦崎はエレベーターを出て、廊下を進み愛之宮の部屋の扉の前に立った。大きく息を吐き、呼び出し鈴のボタンを押した。

 ……反応が何もない。浦崎はスマホを取り出し愛之宮に掛けた。呼び出し音だけが耳に聞こえてくる。浦崎はスマホをそのままに扉に耳を付けた。聴こえるとは思わなかったが、やはり部屋の中の音は全く聴こえなかった。

 浦崎は文字通り、がっくりと肩を落とした。どうしようか、全く考えが思いつかない。最悪の事態を想定して動くしかないのか。浦崎はダメ元でレバーハンドルを掴んだ。レバーは軽い抵抗があったものの簡単に下に降りた。

 ガチャ。浦崎は驚いて手を離した。鍵が掛かっていない。もう一度レバーハンドルを掴み下に降ろした。やはり鍵が掛かっていない。浦崎はそのままレバーを前方に押して玄関ドアを開けた。

「……愛之宮さん。居ますか? 」恐る恐る声を出して中に入っていった。ガランとして薄暗い寒々とした部屋からは返事が無かった。浦崎は意を決し、靴を脱いで部屋の中に入っていった。

「愛之宮さん、浦崎です。緊急事態なので勝手に入らせてもらいます」震えた声を出しながら浦崎はリビングのドアを開けた。キッチンと一体になっているリビングには人気がない。段々と得体の知らない恐怖心が沸いてくる。浦崎はバスルームに向かった。もう声も出さずにいきなりバスルームを開ける。空っぽのバスタブと乾いた水気の無い床だけがあった。トイレも見たが無人。

 足が震えている。恐怖心が無限に増大していく。

 ベッドルームに早足で向かう。ドアは開いていた。「愛之宮さん! 」恐怖心に負けないように大声を出してベッドルームに飛び込んだ。

 誰も居なかった。ベッドのシーツが少し乱れている。

 浦崎はベッドルームを隅から隅まで探したが、誰も見つける事は出来なかった。その後リビングに戻り同じように隈なく愛之宮の姿を探したが、この部屋には浦崎以外誰も居ない事だけが分かった。三十分近く部屋の中を探しまくった浦崎は、力尽きたようにリビングのソファに座り込んだ。

 全く想像できない異常事態になった。愛之宮が失踪した。信じられない。だが事実だ。

 警察に電話して……いやまて、それこそ大騒動になる。警察は最後の手段だ。その前にやるべき事を全てやらないと只では済まない事態になる。

 だがどこに消えた? 車はある。歩いて外出した……この悪天候の中を?

 もしかして男? いや、そんな事はない。プライベートの全てを知っている訳ではないが、かなりの時間愛之宮と密接に過ごしている自分に隠れて恋人が出来たとは考えにくい。それに愛之宮は男嫌いかと思うほど異性を寄せ付けないし、仲の良い女友達も居ない。

 ……友達 ……友達?

 浦崎は慌ててスマホを取り出し、アドレス帳の『せ』行を押した。



                               つづく

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優しい嘘 ケン・チーロ @beat07

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