第4話 光り輝く
みんなないている。どうして?
しらないオバサンがぼくのところにきた。
「だいちゃん、かわいそうに」オバサンはないている。
どうしてないているの?
「だいちゃん、こうちゃんのことわすれちゃだめだよ」
なにいっているの? わすれるわけ ないよ。
だってほら、こうちゃん あっちにいるもん。
ぼくはあっちをみた。
むつかしいかおをした こうちゃんがパパにだっこされてぼくをみていた。
1
ゴジラが街を壊している。ガァーと口から光線を吐き出し、東京のビル群を木っ端微塵にしていく。崩れるコンクリートの塊が私の周りに降り注ぎ、大きな音が耳元で炸裂する。塊は何十個も私の頭に直撃する。その度、頭痛と爆発音が頭の中で鳴り響く。
うぅぅっと呻き声を上げ、倒れ込んだ。そこには柔らかい枕がある。ぼふっとその枕に頭を落とすが、頭痛と音はまだ続いている。
ゴジラがこっちを向いて口が光る。ピカッと光った。
あぁぁぁ眩しいなぁ。頭痛いよぉぉ。
うっすらと目を開ける。目の前に薄いピンク色の布が見えた。
ううぅっとまた呻き声を出し、頭の上の辺りをまさぐる。固い感触の平たい物体が枕の下でブルブルと震えていた。私はそれを枕の下から抜き出す。途端にジリリリリリという大音響が脳に響いた。適当に、ほぼやけくそにその平たく固い物体の横にあるはずのボタンを押す。音と振動が止まった。そしてその物体を見る。スマホだ。ぼんやり見える画面には時刻表示。
六時……十二分……嘘でしょ……んん……昨日は何時まで……確かニ時まで打ち上げ会場に居て……あのスケベプロデューサーとホテルのバー……に行く途中で抜け……出して。あぁ確か浦崎が送ってくれた……筈。
今更確かめても遅いのだが、自分の恰好を寝っ転がりながら、ざっと見た。
お気に入りのシルクのパジャマに着替えている。よし。
ブラもちゃんと外している。よし。
下は……まあどうでもいいか。
顔を触る。むくんでいるが化粧は落としたようだ。合格。
ルーチンワークが染み込んだ自分に拍手。パチパチ……
むっくりと上半身を起こした。
頭が痛い……二日酔いって奴か。午前零時過ぎているのに二日酔いってなんだ? まあどうでもいいか。喉が渇いた。でも動きたくない。頭痛いし眠いし。でも喉渇いた。
「水欲しい」独り言を呟いた。
「お水のみたいの? ぼくものどかわいた」
返事があった。ぼーっとした頭と目で、声する方向を見た。
すぐ隣に小さな男の子がちょこんと座っていた。
私はこくんと首を垂れると、ゆっくりと大きく息を吸い、徐々に頭を上げていき天井を見た。そして脳の血管が切れる程の大声で叫んだ。
ぎゃあぁあああああああああああ!
2
「どうして僕が呼ばれるの? 」
「あんた、ほんっとに冷たい人間よね。いい? か弱い女性が困っているのよ。男だったら、いえその前に人間だったら助けるのが常識でしょ。それに私よ、愛之宮愛梨が困っているのよ。常識以前に義務じゃないの? 」私は千堂に詰めよる勢いで喋った。
「誰の義務? 」
「全人類の半分を占めている男達よ! 」
千堂は大きくため息を吐いた。
春の兆しを感じさせる柔らかく暖かい午後の陽光が降り注いでいる。多くの人はその暖かさを享受しようとカフェのオープンテラス席に座っていたが、千堂と濃い色のサングラスを掛けた愛之宮愛梨は、そのカフェ店内の奥まった薄暗い二人席に座っていた。
千堂はコーヒーを一口飲むと、仕方なさそうに口を開いた。
「心辺りはないんですか? その男の子と」
「セクハラよその発言。それに女性の人権を著しく侵害しているわ」
「……話が通じていないみたいですけど」
「あなた今私がその男の子の母親じゃないかって言ったでしょ。年頃だから仕方ないかもしれないけど、そういうことばっかり考えているってハッキリ言って性犯罪者よ。汚らしい」
千堂はまた深いため息を吐いて、飲みかけのコーヒーカップを置いた。
「愛乃宮さん、誰もそんな事言っていないでしょ。その男の子に見覚えがないの? 昔仕事で一緒だったとか」
「それならそうと言いなさいよ。誤解される言い方は治した方がいいわよ」私は人生の先輩として千堂に教訓を与えた。「現場で一緒になった子役の子が死んだって聞いた事ないわ。ちょい役やエキストラだったら分かる訳ないけど。後で浦崎に聞いてみるわ」
「ウラサキさんって? 」
「新しい私のマネージャー」
浦崎と言えばさっき電話したらまだ寝ていたわね。タレントより遅く起きるマネージャーって怠慢にもほどがあるわ。後で事務所に抗議しなくちゃ。それにしても街中で普通に見る幽霊が自分の家に現れるとあんなに驚くとは……我ながら大声を出して取り乱したのが恥ずかしい。これって好きなスターを毎日テレビやネットで見ているのに、その本人が突然家に現れるのに似ているのかな?
私も憧れのダニエル・クレイブ様が突然家に来たら失神するかも……
違うか……
「名前は? 」
「ダニエルクレイブサマ」
「外国人なの? 」無表情の千堂が、珍しく目を丸くした。
誰が? と言い掛けて、あぁと呟いた。私は目の前の特製春限定林檎パフェにスプーンを差込み一口すくって口に運んだ。二日酔いの頭痛は収まっていたが、まだ味覚は戻ってきていない。
「こうちゃんって言っていたわね。こうた、とかそんな名前じゃないの」
『ぼく、こうちゃん』と言っていた事を思い出しながら、味がしない生クリームの舌触りだけを愉しむ。
「上の名前は? 」
「さぁ。次連れて来るからその時に聞けば」二口目。やはり味はしない。
「一つ疑問なんですけど」
「何よ」
「どうして愛乃宮さんが成仏させないんですか? 」
痛い所を突かれた。まあ普通に考えれば当たり前。千堂も私も幽霊を成仏させる力を持っている。やり方は全くの正反対だけど。
「……子供苦手なのよ。それに子役なんて絶対にやらないでしょ。そっちで引き取って」
千堂が口を開きかけている。私は千堂が何を言うか分かっている。
『引き取るって言葉は酷いよ』千堂はきっとそう言う。
分かっている。犬猫じゃない。でも人間でもない。相手は幽霊なのだ。人の姿をして人の言葉を喋り自分を生きていると思っている『無』の存在。物として扱うにも、者として扱うにも厄介な存在。
ヤッカイナ……
『厄介な……厄介なガキだ』思い出したくもない声が、頭の中で再生された。体全体に虫酸が走り目の前が暗くなる。心の奥底の穴に押し込んでいた異臭を放つ眼の無い毒虫が、ニタリと笑って無数にある手足を動かし、這いずり出てこようとした。私は必死でその毒虫から目を逸らす。
サングラスの奥で目を閉じる。目の動きも心の動揺も、千堂に悟られたくない。自分を押し殺し、冷静な声で千堂の言いかけを制した。
「今は姿見えないからまた現れたら名前、聞いておくわ。それでいいでしょ」
そっと目を開ける。千堂は一つ瞬きをして軽く頷いた。
三口目を口に含む。今度は林檎を掬った筈だが、何故か苦い味がした。
3
ただいま。ドアを閉めながら、返事が返ってくる筈も無い薄暗い廊下に向かって帰宅の言葉を投げる。
壁のスイッチを押す。廊下とそれに続く奥のリビングに灯りが灯る。
リビングのソファにカシミヤのコートとバッグ、ブランド名が入った白いトートバックを放り投げ、自分は向かいのソファに倒れこんだ。
せっかくの休日なのに全く持って楽しくない。深酒して二日酔いに襲われ、朝は間違って設定したアラームに起こされ、子供の幽霊に驚かされ、会いたくもないのにこっちからわざわざ千堂を呼び出して。なんて日よ全く。一人毒づく。
ふらっと入った有名ブランド店で春物の服を買ったが、それでも気晴らしにはならなかった。それに大して気に入って買った服ではない。店員が私をタレントと分かった途端、あれこれと奨めてきたのを適当に買っただけだ。ありきたりの春物。今年の流行って言っても来年にはもう流行遅れ。馬鹿らしい。額に手を当てたまま白い天井を見つめた。
……あの子の目
朝、ベッドの上で私は手のひらを広げ、あの子を成仏させようとした。いつもであれば相手は固まり動きを止める。そして普通なら、幽霊の何を持って普通というかは分からないけど、幽霊でも消えて無くなるのを察して怯えた表情になる。だけどあの子は違った。とても穏やかな顔になって微笑みを浮かべていた。
その時、あの子の目は何かを得た目だった。
私はそれが引っかかり、寸前で手を止めた。
ため息を吐くと、頭痛を抱えたままベッドルームから出て行こうとした。
「あいちゃん、どこいくの? 」男の子が聞いてきた。
「お風呂。覗かないでよ」
「のぞかないよぉ」男の子はケラケラ笑ってベッドの上で転げまわった。
あの子はなぜ私を恐れない……なぜ私の所に来た……考えるのも億劫だ……もう寝よう。考えるのを止め、そのまま目を閉じた。
4
「アイアイ調子悪いの? 肌も髪の毛もバッサバサのカッサカサよ」
格闘家の様な太い指で私の髪をバサバサと掻き揚げながら、ヘアメイク担当の毛利氏が聞いてきた。無造作ヘアを作りながら、その指先は適度な頭皮マッサージになっていて気持ちいい。「寝不足」一言で答える。
ドレッサーミラーに写っている私は確かに疲れている。薄いメイクはしているものの腫れぼったい目は隠しきれていないし、何より心のやる気の無さが顔の表情になって写し出されていた。
「超売れっ子だから仕方ないけど、ちゃんと休まないタレントさんはタレント寿命短いわよ。気をつけなさい」毛利氏はこの業界が長く、幾数多の浮草稼業の人間を見てきた人だ。その言葉は重い。
私は珍しく素直に「あい」と頷く。
「いい子ね」鏡越しに角刈りで四角四面の毛利氏の顔が笑顔になった。そして分厚い手のひらの上にヘアムースを山盛り乗せ、それを両手で柔らかく包み込む。ヘアムースを人肌に温め仕上げのヘアメイクをする、人呼んで「毛利スペシャル」の体制に入った。
すっとうなじに指を滑り込ませ一気に上に持ち上げる。その時大量のヘアムースが髪の毛に馴染んでいく。そしてそのまま太い指を手櫛の様に四方八方動かし、髪をセットしていく。そのまま眠ってしまいそうだ。
私の寝不足の原因は『こうちゃん』だった。
「あいちゃん、のどかわいた」うっすら開けた目に、天地逆になったこうちゃんの顔が見えた。さすがに二回目だと驚かないが、慣れた訳でもない。一瞬ドキリと心臓が脈打つ。それに自由気ままに一人暮らしを楽しんでいる私だけの城に、幽霊とは言え上がり込んでいるのは気に喰わない。
「自分で飲みなさい」機嫌の悪さを露骨に出して言う。
「えぇ水飲み場とどかないよ。レーゾーコも高いしぃ」泣きそうな顔になるこうちゃん。暫く真下から睨んでいたが、子供相手に私の睨みは効果ないらしい。じっと泣きそうな目で見つめてくる。
あぁもおぉ。ガバっとソファから跳ね上がる様に起き、腕時計を見る。
短針は六。長針は三を指していた。
「いいかげんにしてよ」舌打ちしながらキッチンに向かい、冷蔵庫からペリエを取り出す。プルトップを開けぐいっと呑む。炭酸の強い刺激で喉が熱く焼けるが、構わず飲み続ける。どうやら私も喉が渇いていたようだ。
ふぅっと一息つくと、こうちゃんが物欲しそうにこっちを見上げていた。
シンクに置かれてあったコップを取ると、レバーを上げ水道水をコップに流し込み、そのままキッチンテーブルに置いた。こうちゃんは嬉しそうにそれに手を伸ばし、美味しそうに飲み始めた。
またペリエを口にする。私の目にはコップを持ち、水を飲む子供の姿が見える。だが、私と千堂以外の人間の目には、コップはキッチンテーブルの上に置かれたままだ。
ただゆっくりとコップの中の水が減っていく。
幽霊が水を飲んでいる時間は長い。私はキッチンを離れ浴室に向かった。皺だらけになった服を洗濯機に投げ入れ、熱いシャワーを浴びる。
深酒した時でもきちんと着替えて寝る事出来るのに何なのよ。化粧も落としてないじゃない。毒づきながら、思い切り熱いシャワーを顔に当てた。バスローブに着替えタオルで髪を乾かしながら浴室を出た。リビングを抜けキッチンに向かう。
「ねぇ君の名前、教えてよ」キッチンに向かいながら声を掛けた。返事は無い。
「ねぇ聞いている? 」
キッチンには誰も居なかった。飲み干されたコップが、キッチンテーブルの上に置かれている。
「もう何なのよ! 」私は二日連続で早朝に叫んだ。
「はい出来上がり」暫くして毛利氏が肩をポンと叩いた。センターを崩し、わざとくせ毛風にした重めのボブ。毛先は自然の曲線を描き柔らかい印象を与えている。今日の撮影テーマ『アーリーサマーファッション』を少し外した髪型に持っていくセンス。
「毛利氏、さすが」
「でしょ」また微笑む毛利氏。「あとは撮影現場で軽くメイクすれば完成」
「ありがとう」私は肩から掛かっていたエプロンを外し、立ち上がった。
「今日のカメラマン、手癖悪いから気を付けてね。あなたこの業界で狙っている人多いから」その言葉でプロとしてのスイッチが入る。それがどうしたっていうのよ。せいぜい私の魅力の片鱗で良い夢でも見てなさい、馬鹿な男達。
私はニッコリと笑って「大丈夫よ」と答えた。
5
「あいちゃん、おはよー」寝顔を覗きこまれながら朝の挨拶を受ける。
「……おはよう」枯れた声で答えた。枕の下から充電コードで繋がっているスマホを引きずり出し時刻を確かめる。
七時少し前…… これで十日以上七時前に起こされている。昼過ぎまで寝ていた頃が懐かしい。もう『こうちゃん』に起こされるのに腹すら立たなくなってきている。
自分の生活のリズムが狂わされたと言っても、夜遅くまで酒を飲み享楽にふけり、昼過ぎまで寝ている生活がまともな生活リズムだとは思えない。
ぼーっとしたままベッドから起き、大理石の床をペタペタと足音を鳴らしながらキッチンに向かう。こうちゃんはその後ろを追ってくる。冷蔵庫を開けペリエを取り出し、プルトップを開けて飲む。洗い済みのコップに水を満たし、キッチンカウンターに置く。こうちゃんはそれを取って飲む。その間にバスルームに行ってシャワーを浴びる。髪を乾かしてからキッチンに戻ると、こうちゃんの姿は無く、空っぽのコップだけが残っている。
それがここ数日の朝のルーチンになっている。そしてここ数日、私はこうちゃんに左手を伸ばし、成仏させようと何回か試みた。その寸前でやはり躊躇する。こうちゃんは本当に恐れず、無邪気な笑顔で私の行為を受け入れようとする。そして一瞬、子供とは思えない、全てを悟った様な大人びた落ち着いた表情になる。
……やはりおかしい
手を伸ばすのを止めると、こうちゃんはまた子供の表情に戻り、きょとんとした目で私を見返してくる。
冷蔵庫にもたれ、ペリエを飲みながらこうちゃんを眺める。ただの水の何処がそんなに美味しいのか、満足そうに飲んでいる。
「ねぇ、名前なんて言うの? 」声を掛けてみた。
「こうちゃんだよ」くりっとした目でこっちを見て答えられた。
「こうた? こうたろう? こう、なに? 」
こうちゃんは不思議そうな顔になり首を傾げた。「おぼえてないの? 」
目を閉じため息を吐く。怒りはしないが、やはり子供は苦手だ。
「……ごめん。忘れた」
「あいちゃんはわすれんぼさんだな。ひかりかがやく、こうきだよ」
ひかりかがやく、こうきって、君はどこぞの会社のキャッチコピーか?
「……こうき君ね。覚えた。上の名前は?」
こうちゃんは嫌みのない笑い声を上げた。
「わすれんぼさん。あいちゃん、自分の名前も忘れたの?」
「自分の名前? どういう意味?」こうちゃんは質問に答えず、まだ笑っていた。
もしかして、思った。だけど、どっちだ?
愛之宮は芸名だが本名はありふれた苗字。でもそのありふれた苗字は、自分では決して口にしたくない。なら言う名前は一つだ。
「あいのみや こうきくん」
こうちゃんは思いっきりの笑顔で「はい! 」と勢いよく片手を上げた。
シャワーを浴び、キッチンに戻る。こうちゃんは居なかった。私は残っているペリエを飲みながら、片手でスマホを操作する。数回の呼び出し音の後、相手が出た。
「千堂、名前が分かったわ。そう、あいのみやこうき。漢字? あぁなんか『ひかり、かがやく』って言っていたわね。それが漢字じゃない。分かんないわよ、そんなの。そう調べて。分かったら連絡頂戴」
早口に一方的に話すと、千堂の返事を聞かず電話を切った。
6
手のひらが私の頬を打つ。皮膚の痛みは刺々しい熱となり、ジリジリと種火の様に頬に残る。
「どこまでも性悪な女だな! 」打たれた左頬を手で押さえながら、男の歪んだ顔を流し目で見る。男は汚い言葉を、悪臭漂う口から吐き出し続けていた。
クズ、泥棒、売女、寄生虫……死ね!
……お前が死ね! 私が人としての道を踏み外したのは誰のせいだ? 力ずくで女の私を踏みにじり暴力で心を支配して自分の気まぐれで私を殴る。クズなのはどっちだ?
私の心の中はドス黒い言葉ですぐに一杯になる。そのドス黒い言葉の一つを男にぶつける。今度は男の足がお腹目掛け飛んでくる。私は後ろに吹き飛ぶ。
「口答えすんじゃねぇ! 」男は馬乗りになって、私を殴り続ける。
殴られている時、私は残忍な復讐を想像しながらその痛みに耐える。
男が寝静まっている時に道具箱から金槌を持ち出し、男の寝顔目掛け一気に振り下ろす。呻き声と苦痛に満ちた男の潰れていく顔に、恍惚と恐怖を覚えながら何度も何度も金槌を振り下ろす。手が血に染まり、血しぶきが部屋中に飛ぶ。
復讐だ。私を人間扱いしないでボロボロにした大人たちへの復讐。
私は殴られる度にその時が来る事を想像し、耐えている。
『上手いじゃないか』後ろから声が聞こえる。私は振り向かない。
私には分かっている、この声の持ち主が。
『これくらいならアイツラの力を借りる事ないな』
ニタつきながら言っているのを見なくても分かる。
あの毒虫だ。腐臭を放ち目が無く無数の手足があるあの毒虫。
……うるさい。
『さすがガキの頃から殴られ慣れている奴は、これくらいなら痛くないな』
うるさい!
『こいつは殴るが下手だ。あの男ならもっと痛く殴ってくれただろうよ』
うるさい! 黙れ! !
私は殴りかかって来た男の手首を掴むと、逆関節に捻った。男は驚きと苦痛に満ちた顔になり腰が浮いた。私は思い切り体を跳ね上げ、馬乗りになっていた男と態勢を入れ替える。男をうつ伏せにすると、捩じ上げた腕に力を込め、肩関節をあらぬ方向へ動かす。
「あがががが! たんまたんま! ! 愛梨ちゃん、ちょっとストップ! ! ! 」
男は悲鳴を上げ、床を激しく叩いた。
「はいストップ! 」パンパンと手が打ち鳴らされた。「愛梨ちゃん手を放してあげて。クランクイン前に怪我させたら撮影できないわよ」スピーカーを通して声が聞こえてくる。私は我に返り、掴んでいた男の手首を離して立ち上がった。その時呼吸をしていない事に気付く。
落ち着け……これは芝居だ……
気付かれないよう首に巻いていたタオルをほどき、汗を拭くふりして顔全体を覆う。腹の底から息を吐き、乱れた呼吸を整える。
「痛いよぉ愛梨ちゃん。そんなにビンタ痛かった? 」
情けない声が下から聞こえる。タオルを下げ、ニコッと私は笑った。
「女の子の顔ですよぉ。お芝居なんだからもうちょっと優しくビンタしてください」
「そうだぞ渡辺! アイアイを殴るなんてお前ファンに殺されるぞ! 」周囲に座っていた他の出演者から、笑いと共にヤジが飛ぶ。
ビンタも蹴りも演技上の事だ。暴力を振るう瞬間、男優は力を抜く。少しの衝撃はあるが大したことはない。でも一方的に暴力を受ける状況は、私にとって芝居の稽古ではない。かつて自分が経験した現実だ。そしてあの闇も、その中で考えていたことも全部生々しい血肉を持った現実だ。私はまた大きく呼吸をして今の自分を認識する。
――落ち着け。大丈夫だ、もうあの男は居ない
「五分休憩に入ります。渡辺君、愛梨ちゃん、来て。ちょっとセリフ変えたから確認しましょ」スピーカーから監督の声がした。渡辺は自分で立ち上がり、監督や演出家が座る場所へ向かった。
「はーい」私は高いキーの声を出し、渡辺の後を追った。
7
後部座席に座ると同時に、浦崎がドアをゆっくりと閉めた。私はバックからスマホを取り出す。スマホの上部にあるイルミネーションランプが緑色で点滅している。千堂からのショートメッセージが来ていた。
今の時代にショートメッセージって何よって思ったが、そもそも私が電話番号以外教えていなかった。運転席に座った浦崎に聞こえないように舌打ちをし、千堂からのメッセージを読む。
「車、動きます」浦崎はそう言って慎重に車を出した。
「浦崎君、明日のスケジュールなんだったけ? 」そう言いながら、私はスマホの画面に指を滑らす。
「明日は……午前十時から雑誌記者のインタビューで昼からはAKでドラマの……」
「午前中だけでいいわ。雑誌は何処?」
「『エレーナ』です。前回の撮影で時間が押してインタビュー出来なかったので。その続きです」
「キャンセルして」送信ボタンを押す。画面に「メッセージを送信しました」と出た。
「え! 」浦崎は驚いた声を出しバックミラーで後部座席を見たが、私が睨むとすぐに前を見た。
「でも相手も明日記事書かないと入稿できないと……」
「聞こえなかったの。キャンセルして。インタビューはメールで送ってもらって」
「でも、それで相手が納得してくれるか……」
「納得させなさい。それが貴方の仕事でしょ」
浦崎は消え入る声で、はいと答えた。スマホをバックにしまい、黒いフィルムが貼られた窓を見る。窓の外には高層ビルの夜景が見えたがすぐに車はトンネルに入り夜景は消え、窓には不機嫌な私の顔が映し出された。
翌日、いつもの様にこうちゃんに起こされキッチンに行き、お互いに水を飲む。私はペリエ、こうちゃんは水道水。その間に私はバスルームに行くのがルーチンになっているが、今日はそれをしない。
残り少なくなったペリエを全部飲み干し、話を切り出した。
「ねぇこうちゃん。今日お出かけしない? 」
驚いた顔でこうちゃんは私を見た。
「え? お出かけ? どこどこ? 」気がはやるのか、こうちゃんは軽くジャンプしている。
しまった。こういった時、どう言えば子供は納得してくれるのか分からない。
まあいいか、兎に角何か言おう。
「……ちょっとそこまで。私のお買い物に付き合ってくれるかな? 」
「いいよーこうちゃんもお買い物していい? 」
「いいわよ。何でも好きなの買いなさい。だけどその前に私の知り合いに会ってくれる? 」
「しりあい? あいちゃんのお友達? 」
「ええ……まあそんな所」
「いいよー。わーいお買い物お買い物」こうちゃんはコップをキッチンテーブルに置くと、部屋中を駆け回った。
それから、こうちゃんはおしゃべりしながら水を飲み続けた。千堂には聞いていたが、その場を離れず、ただじっと幽霊の話しを聞くのはかなりの苦痛だ。よくこんな事を千堂はやっていると、半ば呆れる。
こうちゃんはずっと学校での話や、友だちとの間で流行っている遊びの話をした。その内容のほぼ全部、私には理解できなかった。
『ランナートウメーだけど隣町の子はルールがちがうってケンカしたんだ。あれおかしいよ。だってランナーニルイだからヒットでサンルイでストップだよぜったい。だいちゃんもそういってた』
『ゴットフェニックスのチョーゴーキンをだいちゃんが学校に持っていったんだけど先生に見つかっちゃってとても怒られたんだ。だいちゃんとっても泣いてた』
私は適当に、そして曖昧に返事をした。
千堂の話では、幽霊は同じ話を二度としない。だが『何かの理由』で話が中断されると幽霊は姿を消し、次に現れた時はまた同じ話を最初から話してくる。だから相手が言いたい事を最後まで聞けばその事態を避けられるし結果的に時間の節約になると言うが、そうと分かっても私には無理だ。しかし、この後こうちゃんを外に連れ出さなければいけない私は、我慢してこうちゃんの話を聞かなければならない。
今、消えてもらっては困る。
幽霊が消える『何かの理由』とは無視するだけの簡単な事だ。視線もそうだし無関心でいれば幽霊は勝手に消える。だから私は街中で幽霊を見かけても無視している。たまに幽霊の方から私に気付き、話しかけてきても無視すれば姿を消す。私は生返事をしながらこうちゃんの姿を見、関心を持ったふりをして聞き続けた。
一時間後、私達は部屋を出た。こうちゃんと一緒に内廊下を進む。仕事柄プライバシーの確保を最優先にして内廊下のマンションを選んだ。その選択は目的を果たしているが、換気が悪くいつも空気が澱んでいるのを感じるのと、昼でも薄暗い空間なのが誤算だった。
今度引っ越す時は外廊下のマンションも選択肢に入れておこう。そんな事を思いながらエレベーターホールに着いた。下りのボタンを押す。鏡面に磨き上げられたエレベーターの扉には、私の姿しか映っていない。私はサングラスの横からこうちゃんを見た。こうちゃんは私の横にちゃんと立っている。
ちん、と軽いベルが鳴ってドアが開いた。中には先客が居た。薄いサングラスを掛けた若い男性だった。脚を怪我しているのか、左手には赤い杖を持っている。
私は下を向いて無言で中に入り、こうちゃんも続いた。男性の方も会釈もせず無言だった。行先を示すボタンは地下階だけが光っていた。駐車場は地階にある。
私は『CLOUSE』を押した。
生きている二人と一人の幽霊を載せ、無音と言う音が聞こえてきそうな静寂が覆いつくす箱が、静かに降下していく。
中の扉も鏡面に仕上げられている。少し顔を上げ、扉に映った男性を見た。恐らくこのマンションの住人だろう。見知った顔では無いが、初対面ではない感じがした。男性の顔はサングラスで隠れているが、どこか疲れ切っていて、私には何故か幽霊に思えた。
だがこのマンションの住人達は皆『幽霊』だ。プライバシーと言う得体の知れないのを守るために、積極的に他人と関わらないように努め、生きながら気配を消している『幽霊』だ。私はまた横目でこうちゃんを見る。本物の幽霊のこうちゃんはちゃんとそこに居た。
ゆっくりと鏡の扉が開き、そこに映っていた私が半分に別れ消えていく。先に私とこうちゃんがエレベーターから出ていき、男性が続いた。地下階のエレベーターホールの正面は車寄せになっている。そこに黒塗りのハイヤーが停車していて制帽を被った初老のドアマンがハイヤーの後部ドアを開け、その傍に立っていた。
一瞬そのドアマンと目が合った。ドアマンは私に微笑みを浮かべ軽く会釈をした後、視線を私の後ろへと移動させた。どうやら後にいる男性を待っているようだ。
私は車寄せから少し離れた所にある自分の車へ向かった。
そして助手席にこうちゃんを乗せる。約束した時間から少し遅れているが、千堂なら待っているだろう。サングラスを掛け、シートベルトを装着しスタートボタンを押す。車は静かに始動した。横目でチラッとこうちゃんを見る。こうちゃんは本当に嬉しそうな顔をしていた。私は舌打ちを一つして、アクセルを踏んだ。
8
週末の空いている国道を走り、待ち合わせ場所のドーナッツショップにはニ十分程で着いた。郊外店舗のドーナッツショップには大きな駐車場があるが、この時間帯はガラガラだった。駐車場に入れるとき、ドーナッツショップのオープンテラスに千堂の姿を認めた。いつもの様に静かにコーヒーを飲んでいる。適当な場所に駐車して、こうちゃんを連れて千堂の席へ行く。千堂は微笑んで私達を迎えた。
「おはよう愛之宮さん」
「おはよう。連れてきたわよ」私は四つある椅子の一つにバックを置くと、千堂の正面に座り脚を組む。
「おはよう、君がこうちゃん? はじめまして」千堂は私の左隣に声を掛けた。
だが返事がない。私は訝って左を見た。
こうちゃんの顔が強張っている。いや、怯えていた。初めて見せるこうちゃんの表情だった。こうちゃんの右手が私の左腕の袖を掴んでいる。
だが幽霊に掴まれている袖は皺も寄らず、私にも何の力は伝わってはこない。
「あいちゃん……」小さな声が聞こえてきた。
「どうしたの? 」心なしか私の声も小さくなる。
「この人、あいちゃんのお友達? 」
「……そうよ。千堂君」
「ぼく この人こわい」私は正直驚いた。千堂が怖い?
「……大丈夫よ。千堂君は……優しい人よ」
……多分。
「こうちゃん、君とお話ししたいけど、いいかな? 」千堂は優しく語りかけた。
こうちゃんは一歩後ろに下がった。すっかり表情は怯えきっている。
「やだ! あいちゃん、帰ろうよ。お家に帰ろう。ねぇお願い」こうちゃんは必死に訴えかける。目には涙が浮かんでいた。私は意外な展開に混乱した。
「こうちゃん、どうしたの? この人は大丈夫よ。少しお話をするだけだから」
「やだ! あいちゃんのいじわる」
何かが切れる感覚がした。それはとても細い糸がぶつりと切れる感覚。私には初めて感じる感覚だったが、それが何を意味しているのか、すぐに分かった。こうちゃんの姿がすっと消えた。だが成仏したのではない。ただこの場所から消えただけだ。
私は千堂を見た。「どういう事? 」
千堂は首を振った。「分からない……です」
さすがの千堂も困惑していた。だが少し間を置いて口を開いた。
「でも少しだけ心当たりがあります」
9
千堂はトレイからホットティーを持ち、私の前に置いた。「ミルクと砂糖は? 」
私は首を振る。千堂は自分の席に座った。
「心当たり聞かせて」何を焦っているのか、早口になっている。
「正解かどうかまだ分からないですよ。情報が少なすぎるし、僕もまさかこんな状況になるなんて想像もしなかったから」
「勿体ぶらなくていいから聞かせて」
千堂はコーヒーを一口飲んで話し始めた。
「『あいのみやこうき』は実在する人でした」
「何言ってるの? そんなの当たり前でしょ。実在するから死んで幽霊になったんでしょ」
千堂は首を振った。
「『あいのみやこうき』は今現在、生きている人物です」
え? と声が漏れる。
「今A県で開業医をしています。その病院のホームページで名前を確認しました。『光り』と『輝き』で光輝」
『光』り『輝』くで、こうき……確かにそう言っていた。
「開業医って何歳なのよ? 」
「写真も載っていたけど四十代に見えました」
「四十って……同姓同名の人違いでしょ? 」千堂は首を振った。
「『愛之宮』姓は全国に二世帯しかないんです。その二世帯全て調べた訳じゃないから断言出来ないし、愛之宮さんが言ったように同姓同名かもしれない。でも『愛之宮』姓で『ひかりかがやく』『光輝』。そんな偶然の一致、とても低いと思います」
私は混乱した頭を落ち着かせ考えた。『愛之宮』は芸能界にデビューする時に言葉の響きだけで私が選んだ名前だ。実際に存在する姓かは知らなかったが、デビューして売れ出した頃、実在する姓だと雑誌のインタビュー時に記者から聞かされた事がある。『愛之宮愛梨』は芸名だと公式プロフィールに載せていたので、その時は軽く聞き流していた。
日本中に二世帯しかない希少な苗字で『光り』『輝く』……
愛之宮光輝……確かに偶然に同姓同名である可能性は低い
「じゃあ何なのよ。生霊っていう訳? 」
「正直、分からないです。でも、こうちゃんを見て分かった事があります」
「なによ」
「目元が似ています。僕が見た『こうちゃん』と生きている『愛之宮光輝』さんの目元が」
ため息を吐く。余計意味が分からない。でも私の脳裏にもう一つの可能性が過った。それは私にとって、口にするにはとても勇気がいる黒い可能性だった。
私はティーカップを持ち一口啜った。少し苦い琥珀色の液体にしか感じない。
「……ねぇ、嫌な事言っていい? 」
千堂は少し眉をひそめた。私がこんな言葉を吐くとは、想像もしていなかったのだろう。
「どうぞ」慎重に、千堂が口を開いた。
「もしかして『愛之宮』姓の亡くなった子供も調べた? 」
千堂は頷いた。「はい、念のために。でも十年前まで遡ったけど、居ませんでした」
千堂なら当然よね、と思いながら、やはり、とも思う。私は重く口を開いた。
「もしも……もしもよ。世間や学校、それに警察にも知られていない子供の幽霊って可能性は……ない? 」
千堂が一瞬息を呑むのが分かる。それはそうだろう、私だってこんな事言いたくもない。人知れない所で、人知れず幽霊になる子供。それは本当に最悪な可能性だ。
『消えた子供達』……出生届は出されたが、就学年齢になっても学校に入学した形跡もない子供が数多く存在している。その多くは、親の経済的困窮や家庭の複雑な事情で戸籍上の住所に居ない子供達だが、中には最悪な結果になった子供達も居る。
最近そんな子供が巻き込まれた事件が明るみになり、マスコミや政府もその実態調査に乗り出し、現代日本の歪んだ闇の部分を多くの日本人が知る事になった。だがそれは私にとって他人事ではなかった。
私も『消えた子供』の一人だった。
そして、あの腐臭を放つ毒虫を身体の中に飼い育てた環境に私は居た。育児放棄、ネグレクト、家庭内暴力、虐待……私の居た環境を表す言葉は多くある。
だが一番的確な言葉は『地獄』だ。
それは経験した者でしか分からない、肉体と心を切り刻まれ、その激痛にのた打ち回る毎日。社会からも隔絶され自分を知っている人間はなく、誰も助けの手を差し伸べてくれない。そして私がこの世から消されても、誰も知らない。
もし、こうちゃんがそんな環境に居た子供だったら。
もしそうなら、こうちゃんが私の所に来た理由は分かる。偶然同じ姓、同じ境遇。
もしそうなら、私の力でこうちゃんを成仏させられない。
私は幽霊を成仏させる時、彼らの『記憶』を自分のモノにする。こうちゃんの『記憶』が私の中に入ってきたら私は……
「……その可能性は、低いと思います」間を置いて千堂が言った。私は無言でじっと千堂を見た。だがなんの確証もない可能性を、あれこれ話し合っても時間の無駄だ。私は問いかけをしなかった。
「こうちゃんがどんな話をしたか、聞かせてください。もう少し情報が欲しい」
私はつい数時間前に聞いていた、こうちゃんの話を千堂に伝えた。注意深く聞いていた訳でもないので、どれほど正確に伝えられたかは分からないけど。私の話をじっと聞いていた千堂は、私が話し終えても暫く無言だった。
「だいちゃんって名前が沢山出てくるけど、親友なのかな? 」暫くして千堂が呟いた。
「そうなんじゃない、幼馴染とか」確かにこうちゃんの話には『だいちゃん』の名前が良く出てくる。こうちゃんの話の登場人物で名前があるのは『だいちゃん』しかいない。
「チョーゴーキンって言ったの? 」
「ええ、確かそんな言葉を言っていたわ。それなんなの? 」
千堂は、んーっと唸って「オモチャの名前って言った方が分かりやすいですかね。男の子のオモチャ」
ふーんと私は気の無い返事をした。なら分かる訳ない。
沈黙がしばし続く。ホットティーはすっかり冷め、千堂のコーヒーカップも空になっていた。
「愛之宮さん、確かめに行きましょう」急に千堂が切り出した。
「確かめにって何を? 」
「愛之宮光輝さんに会いに行きましょう。そこに何かあると思う」
千堂って、こんなに行動的な奴だったっけ?
「行くなら一人で行きなさいよ。私は忙しいから駄目よ」半分は本当で半分は嘘だ。もしこうちゃんが虐待を受けていたなら、そんな場所に近づきたくもない。
「僕一人でいい。でも愛之宮さん、協力して。愛之宮さんにしか出来ない事があります」
千堂って、こんなに行動的な奴だったっけ?
10
私に呼び出された浦崎は、本当に三十分以内で私達の居るドーナッツショップに来た。ゼエゼエと肩で息をしている。全速力で走ったのは、タクシーを降りてからこの店までの僅かな距離なのに。
「ほんと……本当に、今日のしゅざ……取材受けて……くれ……」
「あぁもう見苦しい! 少し落ち着きなさいよ。そっち座って」
浦崎は息も絶え絶えに指さされた椅子に座って、乱れた呼吸とネクタイを整えた。
「でも条件がある。そっちの千堂君の指示に従って動いて」息もまだ整わない呆然とする浦崎の表情にいらついたが、私は続けた。「いいわね」
「あの……指示に従うとは……」
「言葉の通りよ。千堂君を私だと思って、今日一日従いなさい。もしかしたら明日も」
浦崎は困惑した顔になっていった。
「愛之宮さん、おっしゃっている意味が良く呑み込めないのですが……」
「初めまして浦崎さん、千堂と言います」私の怒りの表情を察して、千堂が声を挟んできた。「事情が呑み込めないのは承知していますが、今日だけ私と愛之宮さんに協力頂けますか。もしかしたら明日も」
「はぁ……」浦崎は間の抜けた顔と声で千堂を見た。
「いいわね」私は念を押した。
「しかし……」浦崎の煮え切れない態度にとうとう私は爆発した。
「今ね、APエージエンシーから声掛けられているの。うちに来ないかって。ちょっと悩んでいるのよね」
浦崎の顔が引き攣っていき、口を金魚みたいにパクパクさせている。
「今の事務所、居心地はいっけどやっぱりあっちは大手でしょ。ブッキングやマネージメントの力も段違いだし。どうしようかなぁ」
浦崎はガタッと立ち上がり「分かりました。是非協力させて頂きます」と叫んだ。
スマホのスケジュールアプリを立ち上げ、浦崎の手帳から私の今日明日二日間のスケジュールを入力していった。我ながらよく働いていると思う。移動時間くらいしか休む時間がないが、その時間も最低今日一日は自分で運転して現場に行くから、実質無い。
今日一日で済む訳無いわよね…… 少し絶望的な気持ちになる。向かいでは浦崎と千堂が打ち合わせをしているが、浦崎はさっきから「いやそれは……」「え? 撮影はちょっと……」とか必ず否定の言葉から入り、その都度千堂に説得され渋々頷いていた。
はぁっとため息を吐いて立ち上がった。そろそろ出発しないと、全てのスケジュールが押してしまう。
「もう行くわね。後はそっちでしっかりやって」
千堂は無言で頷いたが、浦崎は不安そうな顔だった。
「あの……この事は事務所には」
「言える訳ないでしょ。もし事務所から連絡あったらその内容を転送して。私でどうにかするから」
「……分かりました」
私は浦崎の手帳をテーブルに置くと、バックを取り二人に背中向けその場から離れた。暫く歩いてから言い忘れた事を思い出し、早足で二人の居るテーブルに戻った。驚く二人に顔を突き出して、特に浦崎に向けて強く言った。
「私と千堂は何の関係も無いわよ。ただの知り合い。いい、おかしな事考えないでよ」
日付が変わるちょっと前、玄関のドアを開け家の中に入った。壁にあるスイッチを押し、灯りを付ける。ただいまの挨拶は、今日はない。
疲れで重くなった脚を引きずり、廊下を抜けリビングに辿り着く。いつもの様にバックとコートをソファに投げ置くと、向かいのソファに腰からどさっと座った。
疲れた…… 独り言を呟く。マネージャー無しの仕事がこれほど過酷とは。何より、仕事先でマネージャー不在を不審がられないように、あれこれと説明するのが面倒かつ難儀だった。今日、何人の浦崎の肉親や友人を鬼籍に入れたか、もう覚えていない。
そんな喪中の浦崎から、スマホに数時間おきに随時報告があった。
『あちらの愛之宮さんから了承貰いました。今夜の最終でA県に前入りします』これが最終報告……案の定と言うか当たり前と言うか、明日も浦崎が居ないのが決定していた。
同時に浦崎の、お葬式お通夜通いも続く事が決定。浦崎は、肉親も親戚も友人も居ない天涯孤独の身になった。
ご愁傷さまです、アーメン、南無阿弥陀仏、オーマイガー……
これで解決しなかったら酷い目にあわせてやるからね……そう思ったが、その時脳裏に浮かんだ顔は、千堂では無く浦崎だった。
天井を見上げふぅーっと大きく息を吐く。気配に気づいた。
こうちゃんが、べそを掻きながらソファの傍に立っている。
「どうしたの? 」優しく声を掛けた。こうちゃんはぐすぐすしながら赤い目で私を見た。
「あいちゃん……ごめんね……ごめんなさい」
「どうしたの? 」同じ言葉を繰り返した。
「あいちゃんとお買い物できなくて、一人で帰ってきて……ごめんなさい」
あぁと、か細く言う。「怒ってないわよ。それより怖い思いさせてごめんなさいね」
「ほんと? おこってない? 」私は目を細め、優しく頷く。
「今度、また行こうね」心が痛んだ。そんな時は来ない。だけど今の私にはそうしか言えない。こうちゃんはまだ半泣きで立っていた。そして顔を隠しながら私の所にゆっくり歩いて来て横に座り、私の両足に顔をうずめる様に倒れ込んだ。こうちゃんの重さは感じない。だけど、こうちゃんの寂しさは伝わってくる。
「あいちゃん、ごめんなさい」小さな肩が、小さく震えている。
「大丈夫よ。今日はもう眠りなさい」
私はしばらくソファから立ち上がりもせず、こうちゃんの小さな背中を見ていた。こうちゃんの肩の動きは、震えから寝息に変わっていった。
どうして君は私のところに来たの……
私は右手で、こうちゃんの柔らかいであろう黒髪を撫でた。
11
その家は郊外に広がる住宅街の外れにあった。旧家と言うにはこぢんまりとした家だったが、良く手入れされた生垣や、綺麗に剪定されている庭の木を見ると、それなりの資産を持った家だと分かる。隣接する住宅メーカーのカタログから抜け出してきたような画一的な家並とは一線を引く、どっしりとした家構えだった。家の前の二車線の道路を挟んだ向こう側には、春の種まきが終わった畑が広がっていて、良く晴れた早春の空と相まって実に牧歌的な風景だったが、浦崎はそんな長閑な風景を見る余裕すらなかった。浦崎は緊張した指でインターホンを押した。
インターホンの上には木の表札に立派な書体で彫られた『愛之宮』の文字があった。
「はい」とすぐに男性の声で返事があった。
「おはようございます。昨日お電話差し上げましたクラウンビジョンの浦崎です」
「あぁはいはい。少しお待ちください」
浦崎はほっと一息ついて後ろを見た。背後には、黒淵の眼鏡を掛けた千堂が立っている。千堂は少し微笑みながら軽く頷いていた。
ガチャリと音がして、セーターを着た柔和な表情をした男性が出てきた。髪にはやや白いのも交じっている。
「ようこそ、遠かったでしょ」物腰の柔らかい言葉に性格が現れている。
「いえ、こちらこそ急な訪問で申し訳ありません」浦崎と千堂は頭を下げた。
「玄関先で何ですからどうぞ中へ」
『今日教育委員会のなんとかって奴らが来てたわよ』
『追い返したんだろうな』
『当たり前でしょ。バレたらヤバイのあんただけじゃないんだからね。田舎のバァサンの所に行ったって誤魔化したけど、あれまた来るわよ』
暗い部屋で空腹で動けず横になったままの私の耳に、隣の部屋から会話が漏れ聞こえてくる。化粧の匂いが臭い女と、口の臭い男の声だ。
『女だからまだ使い道あると思ったけど、あんな小さいと思わなかったわよ』
『仕方ねぇだろ。あいつの母親がもうちょっと長生きしてりゃこんな事にならなかったんだからよ』
『線の細い女だと思っていたけど、あんたが加減しなかったからでしょ』
『知るかよ、大体死ぬなら一緒にガキ連れて死ねば良かったじゃねぇか』
『頭の悪い女を囲ったあんたが馬鹿なのよ』
へっと悪態をついて、口の臭い男が下卑た笑い声を上げる。『女運ねぇな俺』 つられて化粧臭い女も笑った。
……ママの悪口を……言うな……私のママの……
起き上がろうとするが、力が入らない。
『厄介なガキだ。埋めてくるか』
『やるんなら上手くやりなよ。あの子の姿、近所の年寄り連中に見られているんだからね。警察にでもチクられたら終わりだよ』
『全く厄介なガキだ』
殺してやる……殺される前に……・あいつら殺してやる……
涙がこぼれてくる。水も飲んでないのに涙があふれてくる。頬を伝った涙は唇にあたる。凄くしょっぱい。
ちくしょう……ちくしょう……身体が動いたら……少しでも
『あいちゃん泣いているの? 』こうちゃんが目の前に立っていた。
私は動かない左手を必死で動かし、こうちゃんの額に伸ばそうとする。
『どこかいたいの? お水もってくる』
こうちゃん、あなたも苦しんでいたの?
『あいちゃんかわいそう。でもこうちゃんね、あいちゃんのことすきだからね、なかないで』
こうちゃん、楽にしてあげる。あなた幽霊なのよ。
私の左手は動かない。縄で縛られたようにぴくりともしない。こうちゃんの手が私の肩に置かれた。暖かい。
『あいちゃん、いたいのいたいのとんでいけ』
こうちゃんが私の肩を軽く揺らした。「……のみやさん、愛之宮さん」何処かで私を呼ぶ声が聞こえ、体が揺れた。こうちゃんが私の体を揺すっている。
だめよこうちゃん、私があなたを楽にしてあげる……
……こうちゃん?
はっと私は目を開けた。目の前には、若い女性が驚いた顔で立っていた。
「ええっと、お疲れですね。大丈夫ですか? 」強張った表情で女性が聞いてきた。
周りを見渡す。何処かの撮影スタジオの片隅で私は椅子に深く座っていた。状況は把握した。次に右手を動かし顔を撫でる。涙を流した形跡はない。バレてない。
「今何時? 」思わずキツイ口調になった。
「四時過ぎ、四時八分……です」ADらしい女性は腕時計を見て答えた。ああぁと首を振る。そして目を閉じて指を一本立てる。
十一時に撮影スタジオに入った。この撮影は二時間ドラマスペシャル。私の役は主人公の初恋の女性で事件の鍵を握っている謎の人物…… 今は順撮りの為、出番待ち。一応二十時までの撮影予定…… 指を小刻みに振りながら記憶を呼び出していった。
「あの……」小さな声が聞こえる。
私はスイッチを入れ、笑顔を作ると「出番かしら? 」と聞いた。
「ええはい。いえ、監督さんがお呼びです」女性はすっかり委縮していた。
「起こしてくれてありがとう。私そんなに怖い? 」
ぶるぶると女性は頭を振った。私は微笑みながら立ち上がり、傍にあった机に目をやった。机の上に置かれたはスマホのイルミネーションランプは光っていない。それだけを確かめ、私は監督の元へ歩いて行った。
12
予定より少し遅れて今日の撮影が終わった。撮影スタッフに挨拶もせず、私は自分の車へと急いだ。
『全て終わりました。今から新幹線で帰ります』千堂からのショートメッセージが二時間前に入っていた。歩きながら千堂の電話番号を呼び出し掛ける。十回近い呼び出し音の後、千堂が出た。
「今どこ? 」いきなり切り出す。
「もうすぐ新横浜です」低周波の雑音に交じって、千堂の声が聞こえる。腕時計を見た。
「いつもの店に来て。閉まっていたら店の前で待っていて」
「分かりました」
地下駐車場に着き、駐車した場所へ早足で向かう。電波が切れるアラーム音が鳴る。
「こうちゃんの事、分かったのね」
「……はい」千堂の声が遠くに感じる。
「店には一人で来て。浦崎は……」
そこまで言った所で電波が途切れた。舌打ちして車のドアを開け、中に滑り込む。スタートボタンを押し、荒い操作で車を発進させた。
平日の昼間なら路肩に駐車するスペースを探すのにも一苦労の都心だが、日曜夜ともなると走っている車すら少ない。濡れた落ち葉を掻きわけ、路肩に車を止める。店の明かりは点いている。外に出ると、深とした冷気を感じた。大きく息を吸い込む。
何を焦っているの?
こうちゃんに毎朝起こされるのは、正直うざったいが慣れた。話を聞かず無視すれば消えてくれる。朝のほんの短い時間、子供に付き合うのを我慢すればいいだけ。それが幽霊でも大した事ではない。
でも千堂が『愛之宮光輝』に会いに行くと言った時から落ち着かなかった。
同情しているの? 私が?
頭を振る。そんな訳ない。同情はしないし、されたくもない。
相手が子供でも。
答えを思いつかないまま、私は店に早足で向かった。
店の扉を開けてすぐに千堂が目に入る。いつもの席に座っている。でも少しいつもと違う。違和感はすぐに分かった。地味な服装は毎度の事だが、珍しく黒縁の眼鏡を掛けている。眼鏡姿の千堂を見るのは初めてだ。
「似合ってないわよ」椅子に座るなり言った。千堂は微笑み、首を横に傾げた。店員がメニューとお冷を持ってきたので「ホットティー」とだけ言って下がらせた。
「浦崎は? 」
「事務所に行くとの事です。明日のスケジュール確認だそうです」
「そう」そのほうが好都合だ。私は水を一口飲む。「聞かせて」
「少し複雑ですが、今日訪ねた『愛之宮光輝』さんが、こうちゃんです」
千堂は単刀直入に答えた。
生きている人間の幽霊……やはり生霊なの? 私は言葉が出なかった。
千堂は床に置いたバックに手を伸ばした。
「これ、見てくれますか」
千堂が一枚の紙を差し出した。それは写真だったが、画質は少し荒く、テレビの画面をデジカメで写したような奇妙な写真だった。だが、奇妙なのはそれだけではなかった。
写真には、七五三を祝う千歳飴の袋を持った、袴姿の二人の男の子が写っていた。
私は小さく、えっと呟いた。
写し鏡のように、二人の顔は全く同じだった。
袴姿の男の子は、二人とも「こうちゃん」だった。
「双子……」私は呟き、千堂は首肯した。
「少しややこしいのはこれから。左側の男の子が今日会った、生きている『愛乃宮光輝』君。右の男の子が『愛乃宮大輝』君」
「じゃあ……」
「愛乃宮さんと僕が会った幽霊は右の男の子、大輝君、だいちゃんの方です。だいちゃんは四十年前、病気で亡くなったそうです」
こうちゃん……だいちゃんは四十年前に死んだ。私の家に現れたのは、だいちゃんの方。
千堂は十年前まで遡って調べたが、さすがに事故でも事件でも無く、四十年も前に病気で亡くなった子供の事は調べても分からないだろう。しかも、兄弟とはいえ弟の名前を名乗って現れた幽霊だ。分かる訳がない。
――そうだ、名前よ。
「でも、どうして……どうして自分の事を『こうちゃん』って言ったの? 」
「だいちゃんとこうちゃんは、お互いに名前を交換してよく遊んでいたそうです」
「遊んでいた? 」
「一卵性双生児で全く見分けつかないでしょ。だからオヤツもらう時とかにもう一方の名前を名乗るんです。『ぼくだいちゃん、おやつもらってないよ』って。その時の不思議がる大人たちの顔を見て楽しんでいたそうです」
「……悪い子ね」私はこうちゃんのケラケラ笑う顔を思い出した。
「名前をちょっと変えるだけで分身の術が使えますからね。僕も憧れます」
千堂は羨ましそうに言った。
「それと『ひかりかがやく、こうき』と言うのは、親御さんが名前を本人に覚えさせるために作ったキャッチフレーズでした。大輝君の方は『おおきくかがやく、だいき』。でも、だいちゃんはこうちゃんのキャッチコピーがかっこいいと、名前の交換を親にねだった時もあったそうです」千堂の説明を受けて少しは理解できた。でもまだ腑に落ちなかった。
「……でも、それだけなの? それだけの理由で自分の名前を偽ったの? 」
千堂は、またいつもの様に首を横に傾けた。
「愛乃宮さん、ここからは僕の推論です。何の根拠も無い推論ですけど」
千堂はじっと私の目を見た。聞くつもりはあるか? と目で問い掛けている。
当たり前よ、と私は頷く。
千堂は口を開いた。文字にすれば五十何文字、時間にすればほんの一分弱。その短い言葉は私の想像もしなかった言葉だった。薄いサングラスでは目の動揺は隠しきれない。
でも今の私にはそこまで気が回らなかった。千堂はそんな私の目をじっと見て言った。「後は愛之宮さんがどうするかです」
13
薄暗い廊下を抜けリビングへ向かい、扉を開け暗いリビングへ入る。入ってすぐ壁にあるスイッチを押す。壁沿い数か所の間接照明が点き、誰も居ない空間を浮かび上がらせる。空気の澱みは無いが、凍ったような冷気を感じる。
そんな寒々としたリビングの中央で目を閉じ、こうちゃんの事を思った。
――こうちゃん、お話がしたいの
私は初めて自分から幽霊に会いたいと、心で思った。
気配を感じた。こうちゃんの気配だ。私は目を開ける。こうちゃんが少し離れた薄暗い所に立っていた。
「こっちへいらっしゃい」声を掛けると、こうちゃんは素直に私の傍まで来た。腰を落とし、こうちゃんと同じ目線に立つ。こうちゃんは不思議そうな顔をしていた。
「これから大切なお話をするね、いい? 」
こうちゃんは素直に頷いた。私は大きく息を吸い、心を落ち着け、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「愛乃宮大輝君。大きく輝く大輝。それが君の本当の名前ね」
目の前のこうちゃんの顔がみるみる怯え、半べそをかきはじめた。
「ち……ちがうよ。ぼく、こうちゃんだもん……」
「大丈夫よ、私怒ってなんかいないわ」演技ではない、本当の声を出した。
千堂は言った、
――幽霊は自分の事を幽霊と思っていません。幽霊は自分がこの世に居ない存在だと自覚した時、その存在が消えていきます。
だいちゃんは七歳の時に死んだ。でもその時に自分の分身である全く同じ顔の、こうちゃんがいた。だいちゃんは自分をこうちゃんだと思うことでこの世に幽霊として自分の身を繋ぎとめた。
だいちゃんは自分を幽霊だとは思っていない……
「ぼく……こうちゃんだもん」
そう、だいちゃんは自分をこうちゃんだと思い込むことで、幽霊の姿だけど四十年間もこの世にいられた。幽霊にとってその時間は一瞬なのか、生きている人間と同じ時間なのか、それは分からない。でももしそれが一瞬だとして、成長し歳を重ねたこうちゃん、愛之宮光輝の姿を、だいちゃんが見たらどう思うのだろうか。
千堂は言った。
――だいちゃんは、自分がこうちゃんじゃないと自覚してきた。でもまだ成仏したくない。だから愛之宮さんの所に来たんです。
偶然同じ姓で、幽霊と交信できる力を持つ私のところへ来た。
そして私が持っているもう一つの力を求めて。
――幽霊は、僕達を幽霊が願う姿で見ます。でもだいちゃんは最初から愛之宮さんを『あいちゃん』と呼んでいる。お母さんでも先生でもない、同じ年の友達でもない。愛之宮さんを、愛之宮さんとして見ている。それは愛之宮さんの力を知っているからです。
私は幽霊の『記憶』を自分のモノにする事で成仏させる。
――こうちゃんとしての記憶を、この場合はだいちゃんの記憶だけど、自分が生きた証を愛之宮さんの中に残したいと、だいちゃんは考え、そう願ったんです。
それが千堂の語った推論だった。
私にはそれが本当なのかは分からない。千堂にも分からないだろう。でもそれがだいちゃんの本当の願いだとしたら、私は私の力を使えない。
だいちゃんは親からも兄弟からも愛された。
生まれてから七年少しの短い時間でも、だいちゃんは幸せだった。
それを私が奪うことは許されない。
それが私の心から欲している『記憶』だとしても。
だいちゃんの『記憶』はだいちゃんのものだから。
千堂は言った。幽霊のこの世の未練を断ち切る事も愛情だと。
――愛之宮さん、だいちゃんをだいちゃんとして成仏させよう。
私は、自分の中にいる本当の自分の声で告げた。
「愛之宮大輝君、君は四十年前死んだの。今の君は幽霊なのよ」
だいちゃんは泣くのを止めた。一瞬無表情になると、穏やかな表情に変わっていく。
幽霊の怯えた表情しか見てこなかった私には、初めて見る表情だった。
……千堂の言っていたのは、これなのね
心の奥に、チクリと小さな痛みが走る。
どこからともなく白い霧が現れて、だいちゃんを包み始めた。白い霧は段々濃くなる。そして霧の中のだいちゃんは輝きだし、薄くなっていく。気配も、姿も。
だいちゃんの唇が動く。でも私にはもう声は聴こえない。私は最後までだいちゃんの顔を見ていた。
だいちゃんは笑っていた。
白い霧がふっと無くなり、だいちゃんは消えた。
目を閉じ、頭を上に向ける。そしてそのまま立ち上がった。目を開け周りを見る。変わらないいつものリビングが見える。私はソファからバックとコートを取るとリビングから出ていき、玄関に続くドアを開ける。その先にある薄暗い廊下に千堂が立っていた。千堂は軽く頭を下げた。
「千堂、あなたお酒飲める? 」千堂は首を横に傾げた。
「僕未成年ですよ」
「誰が年齢聞いているのよ。飲めるの、飲めないの? 」
「嗜む程度なら」
ジジイか、君は。
「いちいち言うことが年寄り臭いわね。あなた本当に高校生? 飲めるならいいわ、付き合いなさい。飲みに行くわよ」
千堂が口を開きかける。言うことは分かっている。
「誰が飲みに誘っていると思ってるの。私よ、愛乃宮愛莉。お金の事は気にしないでおとなしく付いてきなさい」
千堂はさっきとは反対方向に軽く首を横に傾げ、微笑む。
「お付き合いします。愛乃宮さん」
「最初からそう言いなさい」
私は玄関へ向かった。千堂は後から着いてくる。
「大体あなたね、私から誘っているのに一呼吸置くってどういう事よ。これがどれだけ幸運で素晴らしい事なのか分かっているの……」
千堂に世の中の常識を諭しながら、私は誰も居なくなった部屋の扉を閉めた。
13.5
カランとグラスの中で氷が転がる。すっきりとしたスモークの香りが心地よい琥珀色の液体はもう少ししか残っていない。もう一杯行こうか悩みながらグラスを回す。カラカラと小気味良い音が何故か愛おしく、何時までも廻していたかった。
「もう一杯飲みます? 」
「子供がそんな事聞くんじゃないわよ」私はくいっと飲み干した。
「スコッチダブルで」私はバーテンダーを見て、空のグラスをテーブルに置いた。
「強いですね」横に座っている千堂が呆れて言った。
「別に、それよりあなたも結構強いわね。何杯目? 」
「まだ三杯ですよ。それにカクテルですから」
知っているわよ、でもジンフィズでしょ。強いじゃん。
バーテンダーが空のグラスを下げ新しいコースターの上にスコッチダブルを置いた。一口飲む。美味しいけど今夜は酔えそうにない。
「ねぇ、あっちの愛之宮さんの家ってどうだった? 」恐らく大丈夫だろうと思いながら聞いた。千堂は暫く考えていた。千堂なりに私の真意を汲み取ってくれているのだろう。私は待った。
「とても優しいご家族でした。今でもだいちゃんの事を大切に思ってくれていました」
そうよね。だからだいちゃんは成仏したくなかった。いつまでも幽霊で居たかった。でも安心した。だいちゃんは地獄の中で幽霊になったんじゃない。それが分かっただけでも私は救われた気持ちになった。
「一つ愛之宮さんにお願いがあります。これは僕からではなくて、あっちの愛之宮さんからなんですけど」
「何よ」
「愛之宮さん家に二人のお嬢さんがいるのですが二人とも愛之宮さん、アイアイの大ファンなんです。だから今回の嘘の企画でお家訪ねた時はアイアイが来るものだと思っていたらしくて」
「とてもガッカリした訳ね」
「それはもう気の毒になるくらいに」
私は笑った。久しぶりに声を出して笑った。
「わかったわ。サインと何かプレゼント送っておく」浦崎の仕事だけど。
「お願いします」千堂は律儀に頭を下げた。
「それにしても良くあの写真、手に入ったわね」
「写真? あぁ写真ですね」
おや? アヤシイ。千堂の態度が変だ。それにあの写真も何処か変だった。何かあるな。
「怒らないから、正直に言いなさい。何したの? 」
「怒っていますよ、愛之宮さん」千堂は微笑んでいたが、私はじっと千堂を睨んだ。
「ネタ晴らしって事でもないんですけど、まあでも正直に言うつもりでしたよ」千堂はぐいっと私に顔を近づけてきた。
「なによ」私は驚いて顔を遠ざけた。
唇奪う気なの? あげないわよ。
「これです」千堂は似合っていない黒縁眼鏡の縁に人差し指を当てた。
あっ! と声を上げそうになり千堂がしっと人差し指を一本立てる。
「盗撮眼鏡」何故か小声になってしまった。良く見ると眼鏡のレンズの横に小さな穴が空いている。
「悪用はしていませんよ」しらっとした顔で千堂が言った。何か言おうと思ったが、確かに悪用はしていない。まあ今回は見逃そう。
「僕が黙っていても何れ浦崎さんからバレると思っていましたから」
それはそうね。私はスコッチを口にした。またグラスを回す。
「それって動画も撮れるやつ? 」
「はいもちろん。見ます? 」
相変わらず意地の悪い奴だと思う。私は答える代わりに首肯した。
「スマホ貸してくれます? 本来なら、画像をスマホで確認しながら撮影するんですけど、僕携帯しか持ってないので」
「貸してもいいけど変な事しないでよ」
「しませんよ」
私はバックからスマホを出しロックを解除してから千堂に手渡した。千堂は眼鏡とスマホをテーブルの上に置くとスマホを操作し始めた。
「何するの? 」
「ブルートゥースでペアリングします」
何の暗号だ?
「スマホと眼鏡を無線で繋いで画像をスマホで再生します」
「最初からそう言いなさい。あなたいちいちまどろっこしいのよ」
千堂は苦笑していながら眼鏡の縁をつまんだ。同時にピッと電子音がして私のスマホの画面に何かのメッセージが現れた。
「繋がったみたいです。途中からの再生機能はないので最初からですけど、見ますか? 」
当たり前よと私は頷き、千堂はまた眼鏡の縁をつまんだ。
スマホ画面には壁一面の本棚風のクローゼットの前のソファに座っている男性と女の子が二人映し出された。クローゼットには本の他に沢山の写真立てが置かれていた。
男性はにこやかに笑っていて、小学校の低学年らしい二人の女の子は男性の両横で、はにかみながら落ち着かない様子だった。
二人は良く似ていた。この子達も双子なのだろうか。
「この人が……」思わず言葉が漏れる。
「愛乃宮光輝さん、こうちゃんです」静かに千堂が言った。千堂が言ったとおり、目元がだいちゃんそっくりで面影もある。双子だから当たり前かもしれないが、だいちゃんが生きて成人していたらこんな顔になっていたかと思うと、感慨深かった。
『本日は時間をお取りいただき家まで押しかけて申し訳ありません。早速ですが『ルーツを探せ』の概要をお話させて頂きたいと思います』浦崎の声が聞こえてきた。画面がゆっくりと上下に動く。千堂も会釈したようだ。そして浦崎は『偽企画番組』の説明を始めた。
珍しい姓を持つ人達を訪ね、その名前の由来やルーツ、知らなかった遠い親戚を探し当てていく番組云々カンヌン……良くもまあこんな嘘の企画を思いつけるものだと感心した。
浦崎は「愛之宮」姓は宮司関係ではなく地名の「野宮」説が有力とか西日本にしかないとか本当か嘘か分からない言葉を続けていた。多分千堂の脚本通りに話していると思うが、これくらい真剣に私のマネージャー業をやってくれないかと、少し憤った。
『ねぇパパ、アイアイは? 』『今日アイアイ来ないの? 』
つまらなそうに話を聞いていた女の子二人が、身を捩りながらこうちゃんに訴えかけた。
『ごめんなさいね。今日アイアイは来ていないんだ』浦崎が申し訳なさそうに答える。『えぇつまんないぃ』『アイアイに会いたいぃ』手足をジタバタする二人。私は思わず微笑む。
「リコちゃんとリオちゃんの双子姉妹です」千堂が教えてくれた。
やはりね。
双子姉妹はこうちゃんに窘められたが、ぐずりは収まらず、半べそをかきながら画面から消えていった。
『申し訳ありません。来ないって言っていたんですが、まだ子供なもので』
『いえこちらこそ不要の期待をさせて申し訳ないです』初めて千堂の声がした。
確かにこの悪巧みは千堂の発案だ。君は謝れ。
『失礼ですがお子様は』千堂は続けた。
『あの子達だけです。今のところ』
『では男の子はいらっしゃらないのですね』千堂は聞いた。
『ええ残念ながら。あの子達が婿取りをしないと、愛乃宮姓は僕で終わりです』
こうちゃんは屈託の無い笑顔で答えた。
『では、御兄弟は』
『昔兄がおりましたが、病気で亡くなりました』
暫しの沈黙が流れる。知ってはいた事だが心がちくりと痛んだ。
『それは失礼な事を』
『いえ、もう四十年前の事ですから気にしないでください。兄と言っても双子なので生きていれば私と同じ歳なんですけどね』
『お名前はなんとおっしゃるのですか』
『ダイキと言います。大きく輝く、と書いて大輝』
『もしかしてあの写真の子がそうですか』画面が少し斜め上に動く。ズームはされないがその視線がクローゼットの写真立てに注がれているのは分かる。こうちゃんは身体を捩じって、千堂の視線の方向を見やった。
『あぁそうです。よく分かりましたね。私たちの七五三の時のです』
『拝見できますか』
『ええどうぞ』そう言って、こうちゃんは立ち上がりクローゼットから写真立てを手に取る。千堂はこうちゃんから写真立てを受け取った。あのプリントアウトされた写真だ。
『その二年後ですかね、病気で亡くなりました。本当に突然死で、寝ている間に亡くなっていました。だから未だに理解できないんですよ、兄がいなくなった事が。お腹の中からずっと一緒でしたから。いつも私の傍にいる感じがするんです』また沈黙が流れる。
『辛い事を思い出させてしまって、申訳ありません』画面が上下に動く。
『いえ。もう昔の話です。でももし兄が生きていたら『愛之宮』姓は残っていたかもしれませんね』こうちゃんは全てを悟った様な表情で、柔和に微笑んでいた。
スマホの画面はそこで停止した。
「ここで撮影終了です。メモリを使い果たしました」
私はスマホをカウンターに置いた。画面には、笑っているこうちゃんの顔がある。
「この後、御仏壇で焼香もさせてもらいました」
そう、と小さく答えた。
「こうちゃんは、だいちゃんは、とても大切にそして愛された子供だったと思います」
そう、とまた呟き、私はスコッチを口にする。芳醇な香りが鼻腔に抜ける。
「愛之宮」の名前は残らないかもしれない。偽物の愛之宮の私もいつかは消えて何も残らないだろう。でもだいちゃんが生きた証は残っている。私の中にではない。一番の友達で兄弟だった、こうちゃんの心の中に。
カランとまたグラスの中で氷が音を響かす。
「今回の事で二つ教訓が出来たわ」
二本指を立てて、軽く振った。
「なんです? 」
「もし芸名を変えるなら、実在する珍しい名前は使わない。もうあんなレアケースな幽霊に会うなんて嫌」
「もう一つは? 」
「黒縁眼鏡を掛けたあんたを見かけたら、絶対近づかない」
千堂は珍しく声を出して笑った。
私は目を閉じたまま枕の下に手を滑り入れ、スマホを掴む。スマホの薄い側面にある小さなボタンを押し、枕の下から取り出した。薄目を開けて画面を見る。
勝った……アラームが鳴る前に起きた……
ベッドルームは、昇りかけている朝日の白い光で柔らかく包まれていた。頭の中に白い靄(もや)が掛かっている中を、ペタペタとキッチンに向かう。
段々靄は薄くなっていき、冷蔵庫の前に着く頃にはすっかり晴れ渡っていた。冷えたペリエを取り出し、プルトップを開け飲む。炭酸の程よい刺激で、頭の中は更にクリアになり視界も鮮明になった。
今日は九時に浦崎が迎えに来て、ドラマの打ち合わせでそのままAK入り。昼は昼食を兼ねたロケ番組の撮影で、夕方からは今度の舞台の稽古……冷蔵庫にもたれながら、クリアになった頭の中で今日のスケジュールを確認する。
んーっと一伸びして飲みかけのペリエを冷蔵庫に戻すと、シャワーを浴びにバスルームへ向かった。リビングを通り抜けようとした時、忘れ物に気づきキッチンに戻る。
食洗機の中に、たった一つだけあるガラスのコップを取る。それに水道水を満たしキッチンテーブルの上に置くと、踵を返してシャワールームへ向かった。
第4話 終
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