第3話  鉱石ラジオ

 第二話 鉱石ラジオ

 1

 橘技研工業の会長室に男は居た。革張りの椅子に深く座り、物憂げな視線で机の上に置かれているクリップで止められた数枚の紙を見つめている。紙の片隅には『社外秘』の赤いスタンプが押されている。視線を外に向けた。高層階の大きな一角を占める会長室からは夜の大都会の絶景が眺望できる。だが男にはその光景は規則正しく並んでいる只の光の点にしか見えなかった。控えめな電子音が聞こえてきた。男は視線を机上のディスプレイに移す。画面の片隅に秘書室からの通知アイコンが点滅していた。男はのっそりと体を椅子から起こし、点滅している場所を人差し指で押した。

「なんだ? 」ディスプレイに話しかける。

「会長、お忙しい処申し訳ありません。今よろしいでしょうか? 」

「構わんが、何か急用か? 」

「いえ、あの……」普段は良くも悪くも冷静沈着で、ビジネスライクな女性秘書が言葉に詰まっていた。ディスプレイ越しにも動揺しているのが伝わってくる。

「どうした? 」

「今お客様が見えられているのですが、それが……」暫くの沈黙の後、秘書はようやく言葉を発した。「会長の御遺品を預かっていると、その……」


 2

「ここは会長の思い出の場所なのですか? 」 

 木陰の下、木のベンチに一緒に腰掛けている私設秘書の千堂が聞いてきた。二人の間にはペットボトルが置かれている。目の前では夏の強烈な日差しの下、芝生の広っぱで子供達が嬌声を上げながら走り回っている。最初は二組に別れてサッカーらしき事をしていたのに、今は敵味方の区別なく入り乱れてボールをひたすら蹴りまくっていた。

「息子の高嗣(たかつぐ)と良く来ていた。昔この公園はこの半分も無い大きさでな、芝生も生えてない石ころだらけの荒れ地で、公園とも呼べない空き地だった」秘書に向かって昔話をするとは、歳を取ったものだと自嘲する。

 昔話か……俺は他人に話す価値がある昔話があるのだろうか?

 俺の人生は仕事が全てだった。子供の頃に憧れた仕事に就ける奴は幸せだ。そしてその仕事で名を上げる奴は成功者だ。

 人生の終盤を目の前にして、その言葉は事実だと実感する。

 子供の頃、イヤホンから聞こえてきた曲名も知らない外国の唄に俺は魂を奪われた。

 終戦から数年後、俺が小学校三年の時の話だ。その頃は、戦後の混乱も徐々に落ち着いては来ていたが、高度経済成長もまだ始まっておらず、日本はまだ貧しかった。

 そんな時代、東北の片田舎の最先端家電はラジオだった。そのラジオを理科の課外授業で作る事になった。子供でも作れる簡単な構造の鉱石ラジオではあったが、ラジオがまだ一抱えもある卓上型しか無かった頃に、両手のひらに収まる鉱石ラジオは衝撃だった。

 班分けされた机にラジオの部品が配られ、旧陸軍の技術士だった教師の指示通りに組み立てていった。細い銅線を丁寧に糸車に巻いていく。手先が器用だった俺は、鉱石ラジオの一番重要な部分をクラスで一番上手に仕上げた。教師が各班廻って最後の仕上げをして微妙なチューニングをしていく。スピーカーすらついていない鉱石ラジオが完成しているかは、片耳イヤホンを着けている教師の表情を伺うだけだった。中々電波を拾えない班が多い中、俺の班に来た教師は満足そうに頷いた。そして、そのイヤホンを俺の右耳に優しく当てがってくれた。

 貧弱なイヤホンから聞こえた知らない外国の曲に、俺は電撃が走った。

 聞いた事の無い言葉。低いが明瞭で通る声。間奏では伸びのあるトランペットと軽やかなピアノの音。

 魔法だ。俺は興奮した。電気も要らず、僅か数個の部品を組み合わせるだけでラジオになって、音が聞こえる。

 この魔法を使いたい! その瞬間、俺の人生は決まった。


 今俺の耳には『遠き山に日は落ちて』が聞こえる。空を見上げると茜雲が広がっていた。広場に居た子供達は、いつの間にか居なくなっていた。

「もうこんな時間か」独り言を呟く。千堂は頷くとペットボトルを渡してきた。受け取り一口飲む。気付かなかったが、喉は相当乾いていた。一口のつもりが全て飲み干した。ふぅーと深いため息をつき、目の前に立っている千堂を見上げた。

「話が途中になったが、お前に頼みたい事がある」

「なんでしょうか? 」

「高嗣を、社長の高嗣の暴走を止めてくれ」


 3   

 会長室の椅子に俺は深く腰掛けた。時計は既に午前零時を廻っている。無人になった社内は物音一つせず、暗闇と静寂が満ちていた。

 照明が落とされた会長室の中で、机上のLEDスタンドだけが点っている。その光の下、『極秘』の赤いスタンプが押された二つのA四版のフラットファイルがあった。一つのファイルには『タチバナレジテンス(仮)プロジェクト』とあり、もう一つのファイルにはその『不採算部署の廃止に関する報告書』と印刷されていた。 

『タチバナレジデンス(仮)プロジェクト』のファイルの中身はここ数年の我が社が力を入れている不動産部門の決済書類だ。

 もう一つ『不採算部署の廃止に関する報告書』の中身は読まなくても分かっている。そのタイトル通りだ。この会社に利益をもたらさない部署の廃止。数年に一度、定期的に行われる会社の新陳代謝とも言える行事。俺は時には冷徹に、時には身を切る想いでこの行事を断行してきた。だが今回は話が別だ。そこは創業時から時代の要請に応えながら形を変え存続してきた部署。そして俺が魔法だと信じ、それを具現化してきた音響の電子回路開発部署。そこを会社は今、潰そうとしている。

 魔法に出会った日から俺は、電気に関する知識をどん欲に貪った。百姓の子供がと親に反対されながらも工業系の高校に進み、大学も電気工学を選んだ。大学を卒業すると同時に、俺は『音』に特化した電子回路開発を要とする会社を創業した。その当時はまだ音質や音響に特化した電子回路メーカーは皆無だった。俺はそこに着目した。モノが溢れていく世界ではモノの小型軽量化は必然になる。俺は、そう先の時代を読んだ。

 そして読みは当たった。我が社の主力製品の電子回路は『音』を発するあらゆる装置に組み込まれていき、そしてこの国の発展と共に会社は大きくなっていった。

 だが時代は変わる。たった一つの主力製品だけでは会社は成長しない。音響の電子回路開発から派生した技術を展開し、情報技術分野に進出した。利益を上げ巨大化していく会社はその巨体を維持する為、異分野の金融不動産にも手を広げた。やがて本業だった電子回路開発より、本業ではない不動産部門が会社にとって利益を上げていった。

 現実の結果は数字として表れ、我が社の将来の方向性を決める重要な指針になった。

 高嗣……俺は呟いた。


 今日の公園での会話を思い出す。千堂と話しているとやけに昔の記憶が甦る。やはり俺も歳を取ったと言う事か。

 そう思った時、不意に頭の中に体育館の映像が浮かんだ。  

 あれは、そう卒業式だ。高嗣の高校卒業式。さすがに卒業式くらいは出ないと恨まれますよ、と幹部連中から促され多忙なスケジュールをやりくりし、初めて夫婦揃って高嗣の通っていた高校に足を運んだ。

 粛々と進行する式典。在校生代表と卒業生代表が答辞を終え、一通りの式目の後に「全ての人々に感謝を込めて」と題した、吹奏楽部の演奏があった。『音楽』に関しては全くの門外漢だが、その演奏が見事だったのは覚えている。

「会長が音楽に疎いとは少し意外ですね」

 千堂から手渡されたペットボトルの水を飲みながら、俺は鼻で笑った。

「元が百姓だ。それに昔は今ほど音楽が身近に溢れていない」

「でも音楽を身近にしたのは会長の会社の功績だと思われますが」

「俺にとっての『音』はオシロスコープに映し出される波形だよ」無味乾燥な言い方だが本心だった。音は所詮電気信号だ。それを操り、人を楽しませる娯楽や芸術にまで昇華させる才能が無いのは自分でよくわかっている。だが息子には、その才能があった。

 また卒業式を思い出す。

 吹奏楽部は、テレビのCMでよく使われているクラッシクやジャズを上手にアレンジし繋げて行った。演奏されている曲名は分からなかったが、テンポがよくメリハリのある演奏に自然に会場から手拍子が起こる。そしてその最後に高嗣のトランペットソロがあった。照明が落とされ、華々しくスポットライトを壇上で浴びる息子。力強く小刻みに、そして正確に音を奏でる。演奏曲はクライマックスに差し掛かり、阿吽の呼吸でバックの吹奏楽団が一斉に立ち上がり、高嗣の音に合わせてスウィングする。

 高嗣のペットの音がどこまでも伸びていき、最後の一音を全員が一挙に同時に鳴らす。

 気がつくと俺は大きく手を叩いていた。俺だけではない、体育館全体が万雷の拍手で揺れていた。

 はにかみながら深々と客席に向かって礼をする高嗣。あの曲はなんだったのか。旋律はもう覚えてはいない。

 息子を誇らしく思ったのもつかの間、俺は妻を残し一足先に華美に彩られた校門を後にした。その時、俺はもう仕事の事を考え始めていた。

 高嗣が大学二年の時、母親が亡くなった。癌だった。そんな時でも俺は会社を優先した。もう大人だろ、メソメソするな。確かそんな言葉を高嗣に掛けた覚えがある。

 酷い父親だ。

 だが高嗣は耐えた。耐えて俺の会社に入り、後継者の任を全うしている。

「大丈夫ですか? 」千堂の声掛けで、涙を流している事に気づいた。その事に俺は驚いた。

 最後に涙を流したのはいつだったか? 妻の葬式でも堪えられた感情なのに。俺は隠すように顔を逸らして涙を拭き、水を飲んだ。

 俺は大きくため息をつき、椅子の背に体を預けた。

 今の俺には何も出来ない。千堂に任せよう。そう思った時、喉の渇きに気付いた。自分でも驚くほど乾いている。俺は水を求めて立ち上がり、LEDスタンドを消した。


 4

 再開発が進む電気街の外れにそのビルは建っていた。再開発からも時代からも取り残されている何の特色も無い薄汚れた灰色の五階建てのビルの中には、電気関係に関する雑多な商品を扱う小売や卸業者達が、外敵から身を守る鰯の魚群の様にひしめき合っていた。

 大学生の頃から足しげく通った部品調達先の一つで、会社を起業した後も暫くは通った。あれから半世紀近く経っている。まだ残っている事には驚いたが、それ以上に俺の予想に反してビルの中の業者の数は減ってはいなかった。むしろ店子の数が増え、密度が高まっている事に驚いた。昔は同じようなビルが多数存在していたが、再開発でビルが取り壊され、同じ場所で再出店出来なかった店子達が、このビルに逃れてきたのかもしれない。

 一階のジャンク屋を通り抜け、奥の薄暗い階段から二階に上がる。電気コード専門店や照明関連の店などの正式に出店している店とは別に、通路に露天の様に出店している店がある。消防法では恐らく許されないだろうが、店子料が安いのであろう。それが価格に反映していて、貧乏学生には大変助かる存在だった。そしてその店は未だ同じ場所に健在だった。

 小さく正方形に区切られた蓋のない小箱が、通路にせり出した商品棚にぎっちり置かれている。その小箱の中に電子部品が詰まっている。手芸品のパーツに流用されそうな色とりどりの抵抗や翡翠色のコンデンサ、マイクロスイッチ、ダイオード……七十を越えた歳となっても、未だにこの極小部品を見ると心躍る。今時どこに需要があるのか、麦電球が小箱に詰めこまれているのを発見して思わず微笑む。棚の上には天井からコードが束になって何本も吊れ下がっている。

 商品棚とコード暖簾の奥の狭いスペースに、やる気の無さそうな大学生に見える店員がタバコを咥えながら、客なぞそっちのけで横向きの態勢でノートパソコンを覗き込んでいた。俺が通っていた時は三十過ぎの店主だったが、まさかその息子でもあるまい。アルバイトの学生であろうと推察した。

「らっしゃい」店員がチラッと横目で見て、すぐに下を向いた。

 気がつけば千堂が俺の横に立っていた。

「よくここが分かったな」

「二度目ですから」二度目? ここには高嗣とも来た事はないのにと訝しんだが、さほど気にも留めなかった。

「明日の事を思うと妙にここに来たくてな。ここは落ち着く」俺は手前の小箱から三本足のトランジスタを摘み上げた。ごくありふれたNPNトランジスタだ。トランジスタは電気の流れを司る部品。電気の流れ、電流はプラスからマイナスに一方通行に流れる。逆流する事はない。トランジスタはその方向を自在に操る。それが電気信号となり組み合わせる事で複雑な動きを制御できる回路を作れる。

 一方通行の不可逆な流れ……何かに触れた気がした。だがそれが何なのか、最後まで思い至る事は無かった。

 思考と記憶が飛び石の様に不連続に跳ねる。跳ねた先は思い出だった。

 創業したばかりの無名の会社に、大学からの卒業生が集まる訳がない。俺は工業高校に狙いを絞った。各高校を巡っては頭を下げ、数名の卒業生を回してもらっていた。大学進学が出来ない時点でその学生の学力は窺い知れたが、俺はそれも承知で一から育て上げる覚悟だった。

「半田付けも出来ない連中だった。抵抗のプラスマイナスを逆に取り付ける奴がいてな。田岡と言うが今は我が社の技術部門の責任者だ」思い出し笑いをした。その他の連中も今や我が社の幹部だ。俺の笑みは消えた。

「明日は大丈夫か? 」

「はい」短く答えた千堂に俺は安心した。幹部達への根回しが成功したのだろう。

「ねぇ買うの? ずっと立っているけど」さっきまで下を向いていた店員が迷惑そうな顔で聞いてきた。

 ずっと? 部品を物色していたのはものの数分だ。千堂との雑談もついさっきの話だ。

「確かにここはレアものがあるけどさ、ちょっとやりすぎだよあんた。はっきり言って営業妨害だ」

 失礼な店員だ。抗議しようと声を上げようとした時、千堂が手で制した。

「申し訳ありません。珍しさで時を忘れていました」そう言って手を伸ばすと赤色ダイオードをつまみ「これを頂けますか」と言った。

 チッと舌打ちをした店員はそれを受け取って「八十円」と面白くなさそうに言ってビニールの小袋に放り込んだ。

 腹の虫が収まらない俺の耳に、蛍の光が聞こえてきた。


 廊下の長椅子に俺と千堂は座っていた。廊下の突き当たりには会議室の閉ざされた扉。今日はその扉の向こうで取締役会が行われる。既に執行役員は俺と高嗣を除いて全員在室している筈だ。焦る気持ちは不思議とない。今日で決まる。ただそれだけ思っていた。

 人の気配を感じて顔をその方向に向ける。高嗣がこちらに向かってきた。目が合う。

「では行きましょうか」高嗣の方から声を掛けてきた。俺はうなずき腰を上げた。高嗣の後ろを千堂と一緒に歩く。

 広い背中になったな。髪に白いのが混じっている。いつまでも子供じゃない。当たり前の事を、高嗣の後姿を見ながら思った。

 扉を高嗣が開けた。その横を千堂と一緒に通り中に入る。会議室で待機していた人間の目が一斉に注がれた。

 田岡、坂口、笹本……懐かしい面々がこっちを見ている。中には、ぎょっとした表情で席から腰を浮かした奴も居た。

 俺を先頭に千堂、高嗣の順で執行役員の横を進む。会議テーブルの上座に二つの椅子。俺の左横が高嗣の席だ。俺が先に席に着き高嗣が続いた。千堂は俺の後ろに立った。役員全員の視線はまだ俺達に注がれている。高嗣の近くに座っている役員が、恐る恐る足場を確かめるように、俺達の顔色を伺いながら口を開いた。

「会長……その……その方は」その視線は明らかに千堂を見ていた。

「今から説明する」高嗣は俺より先にそう言うと、室内全体を見渡した。

「今日の取締役会が始まる前に少々イレギュラーではあるが、私から二点、役員の方々にお知らせしたい事がある」通る声で高嗣が告げた。

「まず一番関心のある事だと思うが」高嗣はちらっと千堂を見た。

「私設秘書の千堂君だ。訳あって今日の取締役会に参加してもらう」

 囁きの様なザワメキが起こる。奥の方から法務担当の役員が声を上げた。

「しかし、私設秘書とはいえ執行役員でない方の出席は認められませんが」

「了解している。議題前の冒頭部だけ立会いその後して退席してもらう。当然議決の場には立ち会わない」高嗣は役員の一人一人を目で説得して回った。役員からは反対の声は上がらなかった。高嗣は続けた。

「次に最優先事項として緊急に本日の議題に取り上げたい懸案がある。それが二点目だ」高嗣は俺の右手に座っている人事担当役員の河村に目配せした。河村は緊張した面持ちで頷き机の上に置かれていたタブレットを操作した。

「今資料を送った。これを本日の最優先議案としたい」

 俺の目の前にあったタブレットも既に起動していて縦置きの画面の中の冒頭には赤い字で『社外秘:重要』とありその下には『不採算部署の閉鎖に関する報告』とあった。室内に緊張が走るのを感じる。

 ついに始まる。振り返って千堂を見た。千堂はそれに気づき、軽く頷いた。

「内容はタイトル通りだ」

 異常なまでの喉の渇きを感じ、机上にあるミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばした。

「この案件は先代の会長と私の間で長年話し合ってきた事だ。だが二人の間では結論が出ずにいた。その判断を取締役会の方々にして頂きたい」

 伸ばしかけた手が止まる。先代? 先代と言ったのか? 俺はまだ引退していない。何を言っている。立ち上がろうとした時、千堂の右手が左肩に置かれた気がした。

 俺は自分の左肩を見て驚愕した。千堂の右手が俺の体の中に入り込んでいる。いや段々と体が半透明になっていき、千堂の手が宙に浮いているのが見えた。千堂を仰ぎ見た。

 千堂の唇が、『大丈夫』と動いた。


 6

「社会の変化に対応して成長する。言い尽くされた言葉だが社会の一員である我々は当然その流れには抗えない。流れに乗れないモノや場所は取り残されるか、切られるかのどちらかだ」

 高嗣の声が遠くに聞こえる。そして会議室の風景が段々とぼんやりと滲んで見えて来た。 会議は続いている。だが俺の耳には別の声が響いてきた。

『会長! 会長! 』

 動かなくなった俺の耳元で大声が響く。徐々に狭まってくる視野の中で、大勢の足が右往左往している。

 『AEDはまだか? 』『119しました! 』『玄関、正面玄関に人をやれ! 大至急だ! 』大勢の人間が大声を出している。

「承知しているだろうが不採算部署とは電子回路開発部だ。ここ数年、いや十年近く我が社の利益に貢献しているとは言い難い」

 俺は浮遊感を感じた。意識が体から離れ浮いていく。ふわっと天井付近までゆっくりと上がる。

 会長室が俯瞰で見える。動かない俺の体の回りに、大勢の社員が居た。あの冷静な秘書が、床にべったり座り両手で顔を覆っている。

「だがここは先代の会長、俺の親父がこの会社を立ち上げた時の一丁目一番地。言い換えれば会社の礎を築いた部署。ここにいる多くの役員の方々もこの部署の出身だ」

『親父! 』高嗣が会長室に飛び込んできた。数人の社員が高嗣の体を掴み全力で制止した。『駄目です社長! 頭だったら動かしては駄目です、安静にしておかないと! 』それでも高嗣は制止を振り切る勢いで俺に近づこうとしている。親父、親父と大声を出しながら。

「廃止するのは簡単だ。利益が出ない部署を残しておく程我が社に余裕はない。だがそこで培った技術、ノウハウ、人材を切り捨てる事が果たしてこの会社の利益になるのか。私はある決断をした。報告書とは違った決断だが、その私の決断を今ここにいる皆さんと話し合いたい」

 そうか……俺は……

「電子回路開発部署を分社する。いわば暖簾別けだ。株は一〇〇パーセント我が所有し連結決算対象とするが、親会社の方針に囚われず自由に製品開発をしてもらう」

 死んだのか。

「その会社の社長に、田岡専務。貴方にお願いしたい」

 田岡を見た。  

 田岡……抵抗の極性を逆に付けていた奴。俺の叱咤に根気良く耐えて地道に努力してきた男。田岡は腕を組み眉間に深い皺を寄せ、目を閉じていた。誰一人言葉を発しない。そして皆が田岡を見ている。田岡は大きく息を吸った。目を開け高嗣を見た。

「お引き受け致します」

 偉くなったなぁ田岡、良くみりゃお前、老けたなぁ。頭も寂しくなっているぞ。だが、そう、社長にも見えるぞ。

 俺は笑い、そして胸に手をやった。動いているはずのない心臓の鼓動を感じる。

「これでいいかい? 親父」

 高嗣が俺の方を見ていた。滲んだ視界の中、高嗣の柔らかい笑みが見える。その顔に子供の頃の高嗣の顔が重なった。

『父ちゃんの魔法すげぇ』

『だろ。父ちゃんこれで外国のジャズっての聴いてから魔法の箱作るって決めたんだ』

『じゃず? 』

『こういった感じの音さ』

『わかんねぇよ、父ちゃん音痴ぃ』

 俺達は笑いあった。意識が薄れていく。だが恐怖も未練もなかった。

「高嗣、ありがとうな」そう呟き目を閉じる。

 遠くから微かな音が聞こえてくる。

 あぁ高嗣のトランペットの音だ。その音が徐々に大きくなり聞こえてくる。

 静かに目を開けた。

 あの卒業式。その時の舞台を俺は見ていた。ペットの音にあわせ皆がスイングする。

 ブラウン管のモニターに映し出される緑色の波形じゃない。赤い生きた血の通った生命の鼓動を感じる音。

 心躍る音が、会場に居る多くの人たちを笑顔にしている。

 素晴らしいぞ、高嗣。お前は俺の誇りだ。

 曲が終わり万雷の拍手が鳴り響く。

 その拍手の音と、人々の歓声を聞きながら静かに目を閉じ、俺は眠りについた。

 

「長々と待たせて済まなかった」

 取締役会は緊急案件を話し合うため異例の長丁場になった。俺は千堂を一旦退席させ会長室で待機させていた。その取締役会もつい先ほど終わり、俺は会長室に戻って来た。

「親父は、成仏できたのか? 」テーブルを挟んで正面に座っている千堂に尋ねた。

「ええ」と千堂は答えた。

 そうか、と呟き目を閉じて天井を仰いだ。千堂が突然尋ねて来たあの日を思い出す。

『会長の御遺品を預かっていると言う方がお見えになっていますが、その……』

 秘書の言葉に耳を疑った。俺の遺品? いや親父の遺品か?

 まさか。一瞬猜疑心が浮かび顔を曇らす。著名人の没後に愛人や隠し子と偽り、形見を持ち出して来て遺産の分け前や口止め料を要求する輩がいる。思わず「どんな奴だ」と言葉使いも荒く聞き返した。

「学生さん、高校生だと思われます」

「高校生? 男なのか? 」

「男性の方です」俺は混乱した。言葉に窮していると秘書が続けてきた。

「御遺品を見て欲しいとの事ですが……」そうか、そいつは遺品とやらを持ってきていたんだ。

「それは何だ? 」

「それが、その見た事もない……少しお待ちください」ディスプレイの向こうで何か小声でのやりとりが漏れ聞こえてきる。

「コウセキラジオ と仰ってます」

 コウセキラジオ? ……鉱石ラジオ! 一瞬で記憶が蘇った。

 子供の頃、狭い借家の卓袱台の上で、工場からの余りモノを使って親父と鉱石ラジオを作った。失敗する事もあったが、根気良く俺と親父は作り続けた。初めてイヤホンから人の声が聞こえた時は、二人抱き合って喜んだ。

 これが魔法だ。親父は興奮して子供のころの思い出話を始めた。俺はそんな親父の話を喜んで聞いた。俺もこの鉱石ラジオが魔法だと思ったからだ。

 これは俺と親父だけしか知らない事だ。社史にも載せていない。

「通してくれ」俺は答えていた。

 一瞬の沈黙の後「かしこまりました」といつもの冷静な声がした。

 その直後、会長室の扉が開き学生服姿の少年が現れた。涼やかな目をした少年だった。「名前は? 」

「千堂といいます」

「ラジオ、見せてくれないか? 」単刀直入に言った。

 千堂は斜めがけのショルダーバックから両手の大きさほどの半透明のプラスチックの箱を取り出した。箱は青い蓋がされている。「剥き出しのままでは壊れますから」

「そこに座ってくれ」応接ソファに座るよう指示した。千堂は素直に従い、俺もテーブルをはさんで向かいに座った。千堂はそっとテーブルの上に箱を置いた。俺はそれを引き寄せ、青い蓋をめくった。

 電子部品とコイルだけの単純で原始的な装置が現れた。息を呑んだ。それは、俺と親父が何個も作った鉱石ラジオそのものだった。

 今でも工作キットで『鉱石ラジオ』は売られているが、俺が見ているのはそんなキットではない。銅線コイルの作りは丁寧だが手巻きだとすぐに分かる。基盤も合成板を切り出している。半田の盛りも素人そのものだ。全て手作りで作られているのは一目瞭然だ。

「これを何処で手に入れた? 」

「一カ月前、前会長と一緒に作りました」

 千堂は驚くべきことを話し始めた。親父が幽霊になっている、と。

 千堂は一カ月ほど前、街で幽霊になった親父に声を掛けられた。親父は自分を私設秘書として思い込んでいる、と千堂は言った。

「幽霊は本人が望む姿で僕の事を見ているようです」異次元の話で理解は出来ないが、これまでにも幽霊本人の弟、職場の同僚や恋人としての役を演じてきたと千堂は語った。

 そして親父が成仏できない理由を言った。電子開発部門の廃止を阻止したい、と。

 決定的な言葉だった。その事は社内でも俺と親父、経理担当の重役一人しか知らない極秘事項だ。幽霊話なんて一笑に付す事は簡単だ。しかも自分の親が幽霊になって成仏できないと聞かされれば、不謹慎だと胸倉つかんで殴るかもしれない。だがそんな気持ちにはなれなかった。

 親父は幽霊になっている。証拠は鉱石ラジオと社外秘の情報。それだけで十分だ。だがそれ以上に千堂の言葉は、幽霊が当たり前に存在していると、素直に聞けてしまう不思議な響きがあった。全く濁りのない清流の水を飲んで渇きが満たされていく、そんな感じだった。

 千堂が訪ねて来てくれた日が遠くに感じる。

 暫くの沈黙の後、ずっと気にしていた言葉を素直に口にした。

「親父は最後何か言ってなかったか? 」

「いえ、何も」

「そうか……」親父の最後は看取ったかが、言葉は交わしていない。それが心残りだった。

「ただ最後の時に嬉しそうにジャズを歌っていました」

「ジャズ? 」

「ええ」千堂は小気味良いテンポで歌い始めた。

「SING SING SING ですね」

 笑った。覚えていたのか、あの卒業式の演奏を。

「酷い音痴だっただろ。音が外れっぱなしで」

「いえ、とても上手でしたよ」

 幽霊になると音痴が治るのか。俺は声を上げて笑った。

「ジャズで思い出した」俺は立ち上がり机に向かうと、机の上にあった青い蓋の箱を取って戻ってきた。それをテーブルの上に置いて蓋を取り、中から鉱石ラジオを取り出した。

 千堂は鉱石ラジオの変化に気づいたようだ。首を少しかしげている。

「少し変わっただろう? 」

 原始的な作りのラジオにスピーカーとダイヤルが追加されている。ネットで調べると驚いた事に鉱石ラジオマニアが未だに存在し、多種多様な改造法も掲載されていた。それを参考に、半田の付け直しから始まり、感度を向上させるため小型のバーアンテナ、スピーカー、チューニングダイヤルを基盤に組み込んだ。

 親父が指導し、千堂が作ったラジオを、俺が引き継いでグレードアップした。

「イヤホンだと独りしか聴けないだろ。まだ試していないが、多分鳴るはずだ」

「ご自分で作ったのですか? 」

 俺は微笑んで答えず、鼻歌を歌いながらチューニングのダイヤルを廻した。

「さあ聞こえるかな? 」

 サァーとホワイトノイズが聞こえてくる。少しずつダイヤルを廻す。

 不意に音が鳴った。ノイズがあるがそれが音楽だと分かる。

 ちょっとだけダイヤルを動かした。しわがれているが明瞭に聞こえる特徴のある声。

 サッチモ!

 I see skies of blue,

 And clouds of white.

 The bright blessed day,

 

 思わず千堂と目を合わせた。

 千堂は本当に驚いた表情で俺を見て、それから笑みに変わっていった。

 五十年前、親父は俺のこの表情を見たんだな。

「どうだ、凄いだろ? 」親父と同じ言葉を、俺も笑顔で言った。

 

 The dark sacred night.

 And I think to myself,

 What a wonderful world.

             

                        終

            *引用『この素晴らしき世界』ルイ・アームストロング

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