第2話  霧雨の夜に


 1

 カラメルでコーティングされたマロングラッセが、パフェの頂で艶やかに光っている。そのマロングラッセを、マロン色の生クリームが支えている。シナモンスティックもマロン色。秋の色彩で統一されたマロンパフェは、最初の一口目のスプーンを入れるのがためらう位完璧な佇まいだった。完璧パフェに心奪われて一瞬忘れていたけど、完璧パフェの向こうで静かにホットコーヒーを口にする千堂が、私を現実に引き戻す。

 そうだ、まだ話途中だった。

「話途中になっていたけど、見つかったんでしょ? 」

「そう簡単に行く話じゃないですよ。それに僕今忙しいんです」

 躊躇無く瞬時に返事する千堂に、私はムッとする。

 青葉が茂る並木道にあるカフェの奥で私達は向かいあっていた。残暑が残る日々だが木陰の作り出す涼しさは別格で、それを求めて人々はこぞってオープンテラスに座っているので店内のテーブルは空きが多かった。でもその方が私は都合が良い。

「嘘ね」ずらした伊達メガネから上目遣いに見たけど、千堂の表情に動きはなかった。

「嘘吐いたって無駄よ。私には分かるんだから」

 柄の長いパフェスプーンを揺らしながら言っても、千堂は変わらない。

 私はそのままマロンの下にスプーンを差し込むと、マロンをパフェの頂から切り取り一瞬で口に運んだ。あぁ美味しい。しばしの恍惚状態…… 

 あぁこれよ、この旬を少し先取りした味。このままこの美味を堪能したいが、自分に鞭打ち千堂に向き合う。

「タチバナ不動産の件片付いたんでしょ」

「不動産の方じゃないです。今はそっちが主流ですけど僕が関わっているのは本業の電子機器メーカーです」

「どっちでもいいわよ。そっち終わったなら早く連れてきなさい、どうせまた損得勘定で動いているんでしょ」

 千堂は答えずコーヒーを一口啜っていた。

 私相手にこれほど不遜な態度を取れる男がいるとはある意味感嘆する。私が口を開こうとすると千堂がその機先を制した。

「でもよく分かりましたね、片付いたって」

 タイミングをはぐらかされて私はまたムッとした。

「新聞に載っていたわよ。馬鹿にしてるの? 」睨んでも千堂は動じない。

「……そこの会社のタワーマンション検討しているのよ。今住んでいる所、ネットで流出しちゃったみたいだし」

「それは大変ですね。そんな事だったら僕とこんな時間に会っていて大丈夫ですか? 」

「大丈夫って、何よ? 」

「昼間にこんなオープンな所に居て、僕と一緒に居る所を写真に撮られたら、何かと面倒になりません? 」

「あなたと一緒に見られて困る事なんか無いわよ。逆に私の彼氏と世間の人に勘違いされる光栄に感謝しなさい」スラスラと当然の事実を言っても、千堂の表情に全く変化は無い。時間の無駄だと諦めるしかない。私はため息一つ吐く。

「とにかく期日はあと二週間。それまでに見つけて、私の所につれていらっしゃい」

 いつもと変わらない千堂の態度。もう慣れた。だが次に出た言葉は、私を激情させるのに全く持って十分だった。

「出来るだけの事はしますけど、よし……」

 私の右手がビュンと真っ直ぐ伸びる。右手の先にはパフェスプーンが握られていて、そのスプーンの先端は千堂に向けられた。先端にあった生クリームの塊は、物理法則に則り弾丸の様に千堂の顔目掛け飛んで行く。千堂は首を少し傾けるだけでそれをかわしたが、少しずれたクリームが一筋、千堂の左頬についた。

 伊達メガネをずらし、左肘をテーブルに載せ身を乗り出して、千堂に近づき睨む。

「今度その言葉、言ったら殺すわよ」

 千堂は微笑んで肩を少しすくめ、右親指で頬に付いたクリームをそっとぬぐった。

 

 薄暗くなった公園のベンチに座り、俺は上を見上げた。青緑の葉が茂る枝越しに、明かりの点いていないアパートの二階が見える。

 まだ帰ってきてねぇか。いつまで逃げるつもりだ。

 独り言を呟く。テレビドラマなら電柱の影に隠れて張り込みもするだろうが、現実にそんな事をしたら逆に目立つ。すぐに不審者扱いで通報されるのが今の常識だ。サツ官がサツ官に職質されるなんざ、面倒な事この上ない。だが幸いこの公園ならアパートへの階段が真正面に見え、人の出入りを容易に監視できる。逆に二階の部屋からはこの公園は木が邪魔になって見づらい。一日中この公園に居ても、遊具が撤去された公園に遊びに来る子供もおらず、犬の散歩をさせる年寄りやホームレスが数人通りすぎるくらいで、衆目にさらされないのも張り込み場所としては好条件だ。それにノーネクタイのくたびれた安物のスーツ、無精ひげにこの不細工な面でベンチに座っている俺もホームレスに見えるだろう。

 持久戦になりそうだな。そう思った時、人の気配を感じて横を見た。

「ご苦労様です 杉浦さん」千堂がコンビニの袋を提げて立っていた。

 俺はふんっと鼻を鳴らした。

「ハゲ課長から何か言われてきたか? 」

「いえ、差し入れです」千堂はコンビニの袋を差し出した。「隣、いいですか? 」

「好きにしろ」

 千堂はコンビニの袋からペットボトルの水を取り出した。

「水かよ」

「お嫌いですか? 」

 オウ、と否定も肯定も言葉にもならない声を発し、蓋が開けられたペットボトルを受け取る。俺は水を飲んだ。想像以上に自分の喉の渇きに驚いたが、冷たい水はうまかった。

「鮫島、足取り掴めました? 」

「掴めていたらこんな場所に張り付いてねぇよ。それより本店はどうだ? 動きあったか」

「まだ何も」

「だろうな」俺はまた顔を上に向ける。視線の先に主の居ない暗い部屋の窓。

「必ずここに鮫島は戻ってくる」

 二ヶ月前、この街で傷害事件が起きた。加害者は鮫島篤。被害者は鮫島とつるんでいた野島と言うこの街を仕切っている岩沼組の準構成員、いわゆるチンピラだ。鮫島自身も堅気とは言い難い男だった。堅気じゃない奴らが、自分達で密売していた違法薬物の売上金の取り分を巡ってお決まりの争いが起きた。そしてお決まりの刃傷沙汰。馬鹿同士が潰し合うのは結構な事だが、面倒な事に鮫島は凶器を持ったまま逃走した。

「昔は組の不祥事になる事は内々に収めていたんだがな。今じゃ組員なのか素人なのかわからねぇ奴らが勝手に動いている。岩沼組の連中に聞き込んだが、鮫島の面を知っている程度で、名前まで知っている奴は少なかった」

「暴対法ですかね」

「だろうな。組の看板で商売してない分、逆にタチが悪くなってきた」

 刺された野島が後日病院で死んだ頃から捜査方針を巡っておかしくなり始めた。違法薬物の出所を岩沼組と見込んだ県警本部が、岩沼組の壊滅と薬物密売組織の一網打尽を狙って捜査に横槍を入れてきた。

「傷害致死かコロシかの判断つかないうちから俺らの庭に乗り込んできやがった。ウチの薬対の連中もクスリの出所は別にあると主張したのによ」

 捜査は鮫島を追うと同時に、違法薬物の捜査の同時捜査になった。ただでさえ少ない捜査員は戦力分散され、本筋の鮫島の身柄確保は難航し、毎日行われる捜査会議は険悪な雰囲気になった。岩沼組と薬物組織との関連は見出せず苛立つ署の幹部達。それに捜査の進展が遅いとマスコミ連中が追い討ちを掛ける。

 鮫島の身柄確保が最優先だと、我慢の限界に来た俺は捜査会議で主張したが、同時捜査の方針は変わらなかった。

「クスリはあいつ等が組を通さずネットあたりで仕入れてきたのが大半だ。いくら組との関係を洗っても出てくる訳がねぇ。鮫島を押さえればクスリの出所も分かる」

 俺は捜査方針に従わず一人で鮫島を追った。だが何処でバレたのか、新人の千堂がお目付け役として貼り付けられた。

「鮫島が戻ってくる根拠は何ですか? 」

「お前、捜査資料読んだか? 」千堂は首を横に振った。

「ガッコウで何習ってきた? 」呆れて千堂を見たが、千堂は微笑んでいた。

「全くよ」俺はため息をついた。「鮫島はガキの頃からの札付きじゃねぇ。補導暦も無ぇし成人してからのマエもない。この街に来たのも二、三年前で野島以外に親しいダチもいねぇ。親は二人とも健在だがクニは田舎で近所付き合いが濃い場所だ。そんな所に戻ったらすぐに通報される」

「だからここに戻ってくると」

「ああ」俺は再びアパートの二階を見上げた。

 自分では何も決められず、周りの人間に合わせて人生を歩んできた意思の弱い小心者。それが捜査資料から浮かび上がった鮫島像だった。弱いから肩で風切る奴らと群れる事で自分を強く大きく見せる。自分の頭で考えもせず、善悪の判断もその場の空気やノリで決める。そんな人間を俺は今まで多く見てきた。そしてまたその多くが鮫島の様に後悔してもしきれない事件を起こし、結果人生を破滅させる。

「刺された野島の拳に傷があって鮫島の血液が付着していた。それがどういう意味かは分かるな? 」

「相手から先に手を出していた、ですか? 」

「ああ、あの傷は力任せに何度も殴らなきゃ出来ねぇ。って事は殴られていた鮫島が刃物で応戦したとも考えられる」

「正当防衛の可能性もあるんですね」

「多分な。それを確かめる為にも奴の身柄確保が最優先だ」

 この街の人目の着かない所で怯えて隠れている鮫島の姿が、俺の頭に浮かぶ。

 馬鹿な野郎だ。早く出て来て俺達にとっとと捕まりやがれ。

 俺はまた独り言を呟き、乾いた喉に冷たい水を流し込んだ。

 

 冷たい蛍光灯の光が部屋に満ちていた。

 千堂に張り込みを引き継いで、久しぶりに署に戻った。時計は九時を回った頃。捜査一課に捜査員の姿は無かった。コロシの帳場が表立って立ってないが、何時から警察は定時退社になった。寒々とした誰もいない部屋を見て毒づいた。鮫島の身柄どころか、逃走経路も掴めていない。クスリの件があるとは言え、その日一日の成果を捜査員同士で共有するのは捜査のイロハだ。

 大きく舌打ちして、自分の席にドカッと座る。タバコのヤニで黄色く変色した天井を見上げる。署内が全面禁煙になって十年になるが、こびり付いた昔の汚れが落ちる訳はない。

 俺もタバコを止めて何年になるか…… 忘れたな、そんな昔の話。

 ん? と俺は自分の机の上が綺麗に整理されているのに気づいた。山積みになっている捜査資料や、無造作に散らばっている領収書が無くなっている。

 ハゲ課長の嫌がらせか?

 その時、突然チカチカっと光が点滅した。俺は椅子から飛び上がった。へその辺りに熱いとも冷たいとも感じられる、不快な鈍い差し込みを感じた。

 何だ? 何が起こった?

 周りを見渡す。体が一瞬で熱くなり呼吸が荒くなる。落ち着け、と自分に言い聞かせる。またチカチカっと点滅が起きた。俺はすぐさま天井を見上げた。そこには寿命なのか、不規則に点滅を繰り返す蛍光灯があった。

 驚かせやがって…… 大きく息を吐いた。

 驚く? たかが蛍光灯の点滅に? 俺はへその辺りを摩りながら、自らの異常な行動に困惑していた。


 秋のとば口の空は夏より高い。今日も朝から澄み切った青空が広がっていた。だが俺はそんな天気に関係なくいつもの公園のベンチに座り、アパートを見張る。枝の向こうに見える鮫島の部屋の窓のカーテンは閉ざされたままだ。隣には千堂が座っている。千堂の報告でも、昨日は鮫島の姿は確認出来ていない。

「杉浦さんはどうして警察官になったんですか? 」

「ああ? 」俺は水を飲みながら、気軽に話しかけてくる千堂を見た。

「お前張り込み中だぞ」

 俺は睨んだが千堂は微笑むだけだった。ガッコウは何を教えているんだと憤ったが、最近の若い刑事はこんなものかと怒るより呆れて、ため息をついた。

「……ガキの頃警察に厄介になってな」呆れ次いでに昔話を始めた。

 ガキの頃、俺は頭と意思の弱い奴らと群れ、自分を大きく見せる事に執心していた。くだらん強がりと見栄を張り、気に入らない相手は力で黙らせる。

 鮫島達と大して変わらない人間だ。ある時、似たような奴らと乱闘騒ぎを起こした。いつもなら適当な時に切り上げるが、その時は喧嘩慣れしていない仲間の一人がやりすぎた。相手の一人を金属バットで殴り意識不明にした。俺達は逃げ、仲間を匿った。ガキの喧嘩は警察沙汰になり、俺達は補導された。俺達は警察に逆らう自分たちに陶酔し仲間を庇う事がカッコいいと思い込み、刑事達に喰ってかかっていた。血の気の多い若い刑事と一触即発になった時、別の刑事が俺の後頭部を掴み、自分の額を俺の額に押し当て鋭い眼で睨んできた。

「俺達は野郎を捕まえにきたんじゃない。助けに来たんだ」意外な言葉に一瞬ひるんだ。だが刑事の言葉に反応するのは癪だと、反射的に悪態をついた。

「野郎の性格はお前らが知っているだろう。大して強くも無いのに突っ張っているだけだろうが」

 俺は言葉に詰まった。確かにそうだ。あいつは俺達の中でも気が弱い奴だった。

「あいつの母親がな、助けてやってくれと泣いたんだよ。このままだと自殺するってな。お前、野郎が自殺したら責任取れるんか? 母親の前で言い訳出来るんか? 母親と奴の気持ち、考えた事あるんか? 」

 俺は匿った仲間の顔を思い出した。逃げた時も顔面蒼白で一言も話さなかった。大した思慮もなく大丈夫だ隠れていろ、と奴の気持ちも何も考えないで奴を隠れ家に押し込んだ。

 奴は今一人だ。ドスの効いた言葉は俺の薄っぺらな仲間意識と、浅い考えを一瞬で吹き飛ばした。刑事は額を離すと静かに言った。

「どこだ、助けに行く」

 暫くして俺は群れから離れた。俺を諭した刑事とは腐れ縁が続いていて、何かと気を掛けてくれた。どうにか高校を卒業する見込みが立った頃、警察学校を勧められた。

「警察も人手不足だ。きつかったら辞めて構わんからとりあえず入れ」

 バイトかよ、と呆れる俺に刑事はニヤっと笑った。

「まあお前なら三日で逃げ出すだろうな」


「乗せられたんですね」

「まんまとな」俺は苦笑いした。

 ガッコウは想像以上に過酷だったがその度、あの刑事の顔を思い出し耐えた。そのお陰か俺は結構良い成績で卒業し、どうにか警察の中で通用する人材になった。

「乗せられたが、まあ悪くない人生だ」

 あのまま昔の連中と攣るんでいたら鮫島と同じ人生を歩んでいただろう。それに比べれば刑事と名乗って眉を顰められ、訳も無く怖がられる日常は何の事はない。

「他の仕事は知らねぇがどんな仕事も楽じゃねぇだろ。俺がたまたま就いた仕事が刑事だったって事だ」

「そうですね」千堂は微笑んだ。

 その時チリンチリンと鈴の音と子供の嬌声が聞こえた。音は公園とアパートの間を隔てている車道からだった。二人の男の子が右手から走ってくる。それを補助輪付きの自転車で女の子が追いかける。その時だった。自転車の車輪に装着されている反射板が勢いよく回転し、太陽光を反射していた。キラキラと銀色に輝く反射光が鋭く俺の目に突き刺ささる。

 まただ……

 強烈な痛みが臍の横を貫き、内臓に食い込み息が止まる。胸が苦しくなり意識して無理やり息を吐こうとするが、思うようにならない。思わず右手で胸のシャツを鷲掴みにしていた。

 俺の異変に気付いて千堂が声を掛けてくる。だがその言葉も洞窟に反響しているかのようにエコーが掛かり、何を言っているのか分からない。ガハっと大きく息を吐き、ようやく正常な意識を取り戻した。空気が胸に入ってくる。

「大丈夫ですか? 」千堂が蹲った俺の背中に手を当てて聞いてきた。

「ああ、気にするな……」強がりで言ってみたが、体全体で息をしている俺を見て大丈夫とは思えないだろう。俺はじっと地面の一点を見つめながら呼吸を整えていた。荒い呼吸の中、人の気配を感じた。だがそれは只ならない異常な気配だった。俺は強引に体を起こす。俺の目の前に人が立っていた。

 若い女だった。ホットパンツに生足。黄色い薄手のロングコートを羽織ってはいるが上は派手な英語の単語がプリントされたタンクトップ。そして顔の半分を覆い隠す大きなサングラスに黒いキャップ。

 若い女は俺を見下ろしていた。俺の困惑した表情と対照的に、女は透き通る白い素肌に映える、赤い唇の口角を上げ、千堂の方を見た。

「千堂君、見ぃつけた」

 俺も千堂を見た。表情の変化に乏しい千堂の顔が、一瞬曇ったかのように見えた。

「お前の知り合いか? 」

「ええ、まあ」

「連絡くれないから私から来ちゃった」

 若い女は阿る甘ったれた声で話しかけてきた。その声が気に障った。

「おい、千堂の友達かも知れんが今仕事中だ。用があるなら後にしてくれ」

 荒れる息を押さえて、俺はがなった。

 女はサングラスを外して俺を見た。吸い込まれそうな黒い大きな瞳。

 荒かった呼吸が一瞬で止まる。

 なんだ……?

「あなたが杉浦さん? 初めまして」女は冷たい微笑を浮かべた。

「きつそうですね。大丈夫ですか」

 女が俺の方へ左手を伸ばす。蜘蛛の脚の様に細い指が大きく開き、俺を掴もうとする。

 動かない……体が動かない……そんな馬鹿な……

 刑事の俺が若い女の一睨みで動けなくなり、言葉も出なくなった。周辺が急激に暗くなり漆黒に沈む。その漆黒の中、女の白い手だけが浮かび上がり迫ってくる。

「愛之宮さん」千堂が声を発した。女の手が止まる。漆黒の闇は消え去り、俺の周りに光が戻ってきた。

「あら、私の名前覚えてくれていたんだ」女は嬉しそうに笑っていた。

「仕事中です、場所変えて話しましょう。杉浦さん少し外します」千堂は俺の目を見た。少し悲しげな視線だった。身体を縛っていた縄が解けていく。俺は動けるようになったが、呼吸はまた荒れた。

「ああ……」俺はどうにか声を出し頷いた。

 千堂はベンチから立ち上がり、愛之宮と呼ばれた女と向き合った。

「行きましょうか」

 女は微笑むとサングラスを掛け、千堂の左腕に細い腕を絡めた。

 呼吸で上下にぶれる視界の中、二人の背中は夕暮れの中にに消えていった。

 

4 

 夜、霧雨が降っていた。白く細かい雨のカーテンが、音を吸い込み辺りは静寂に包まれる。

 一日中街を彷徨って鮫島の足取りを追ったが、手掛かりは無かった。俺は重い足取りで鮫島のアパートへ向かっていた。こんな時は集中力が散漫になる。

 商店街を抜け、角を曲がると左手にいつもの公園が見える。公園の明かりは既に消えていたが、街灯の青白い光が雨でけぶる通りを照らしていた。

 道路を横断しそのまま公園に入ろうとしたが、不意に人影が俺の前に現れた。

「……千堂」傘を差した千堂が、目の前に立っていた。

「張り込みはどうした。持ち場を離れるな」

「杉浦さん、お話しませんか? 」

 話し? 刑事が張り込み中に何を悠長な事を! 怒鳴ろうとした時、千堂の肩越しにアパートに入っていく人の姿が見えた。街灯に照らし出されたのは傘を差していない赤い派手なロングコートを纏った女だった。

 女? あの女、何処かで……

「どういうことだ? 」大声を上げ千堂を睨んだ。あの女、愛之宮とか言う千堂の知り合いだ。千堂は答えず無言で俺を見ていた。

「どけ!」無言で立ち尽くす千堂の横を抜け、アパートに向けて走り出した。

 だが十メートルも進まず、止まった。

 足が、俺の足が動かない。泥沼にはまったかの様に膝から下が動かない。俺は必死に足を動かす。三十秒も掛からない距離にあるアパートが、遥か遠くに感じる。それでも俺は進んだ。もう少しでアパートの階段の前に辿り着くと言うところで、ガダダダダと連続音が聞こえ、階段から白い物体が転がり落ちてきて道路の上で蹲った。その白い物体は低い呻き声をあげながら、ゆっくりと立ち上がった。鮫島だ。

 街灯の明かりに照らし出された鮫島の顔は生気がなかった。動きの止まった俺と鮫島は数メートルの距離をおいて向き合ったが、鮫島は口を開けたまま、視線は宙を漂っていた。

「鮫島ぁ!」腹の底から叫んだ。大声にびくっと反応した鮫島はやっと俺を見た。

「警察だ。傷害の容疑で事情を聴きたい事がある」鮫島は、はっとした表情に変わり、俺と反対方向に身体を捻った。

 待て! っと叫ぼうとしたが、鮫島の動きが止まった。愛之宮が鮫島の後ろに立っていた。雨で濡れた前髪が張り付いた女の顔は、ぞっとするほどの冷たい笑顔だった。

 ぐうわぁぁ! 鮫島が恐怖に満ちた叫び声を上げ、俺の方に向かって走ってくる。 

 突っ込んでくる鮫島に対して俺は右足を後ろに少し引き、半身の態勢を自然に取った。鮫島が懐に手を入れ、抜いた。手には短刀が握られている。

 銀色の刃が街灯を反射させ、ギラっとした鈍い光が俺の目に飛び込む。

 また耐え難い鈍痛が俺を襲う。身体の動きが止まり、呼吸が出来ない。

 鮫島が迫ってくる。

 くそがぁ!

 俺は渾身の力を振り絞って大きく手を広げ、突っ込んでくる鮫島に覆い被さろうとした。俺が止めなかったら後ろには千堂しかいない。奴には無理だ。

 奴は刑事じゃない。刑事じゃ……俺の思考が止まった。

 千堂は刑事じゃない。そんな名前の刑事は居ない。

 俺は今まで誰と、何を話していたんだ……・

 短刀を持った鮫島が迫ってくる。短刀は俺の腹を狙っている。

 南無三……俺は覚悟した。鮫島は体ごとぶつかってきた。俺は腹に力を入れ鮫島に覆い被さった。

 ……すっと鮫島が俺の体と通り抜けていく。

 驚いたのは俺だけじゃ無い。俺の顔の真横を、驚愕の表情をした半透明な鮫島の顔が過ぎて行く。

 何が……起きた……?

 突然呼吸が戻った俺は膝から崩れ落ち、アスファルトに両手を着いた。俺の手は濡れた感覚も温度も何も感じなかった。俺は強まった雨の大きな雨粒が手の甲を通過するのを黙って見ていた。コツコツとハイヒールの音を鳴らしながら、ゆっくりと愛之宮が俺の横を通り過ぎていく。

「刑事の執念って凄いわね。後は千堂君が貴方の相手してくれるわ」

 目の前に傘を差した千堂が立っていた。千堂は膝を折り、濡れた地面に片膝をついて、俺と同じ目線まで腰を降ろした。

「杉浦さん、お話があります」寂しい目だった。

「あぁお前が何を話したいか大体察しがついている」

 アスファルトから手を放すと、身体を起こし正座した両膝に手を置いた。

 大きく息を吐く。「俺は……死んだんだな」

 千堂は黙って頷いた。

 二か月前、ここで張り込んでいた俺はアパートに舞い戻ってきた鮫島と鉢合わせになった。二階の廊下でもみ合った俺達は、階段から転がり落ちた。その時鮫島の持っていた短刀が俺の腹部に刺さり、それが元で俺は三日後に病院で亡くなった。鮫島も頭を強く打ち、意識不明のまま病院に運び込まれた。

「一週間後、鮫島さんも亡くなりました」

「そうか……コロシの件は?」

「杉浦さんの見立て通りです。鮫島さんの体にも相当殴られた跡がありました。立証は困難ですが殺人では無く鮫島さんの正当防衛の可能性が高いと新聞には載っていました」

 そうか、と俺は呟いた。


「大人しくなさい、怖くないわ」

 動きの止まった、鮫島って言ったかしら、確かそんな名前の男に私は左手を伸ばした。大きく目を見張って恐怖の表情を浮かべている男の額に、私は手のひらを押し当てる。ふぅっと大きく息を吸い静かに吐くと男の体が半透明になる。そして徐々に透明度が増していく。やがて男の姿は消え去り、濡れた黒い路面が見えた。

 ぶるっと体が震える。顔に雨粒が当たるのも気にせず黒い空を見上げ、ふうっと短く息を吐く。そして天を見上げたまま顔を少し横に傾ける。

 千堂が立っていた。「あの刑事さんは成仏した?」流し目のまま聞いた。

「ええ。最後は笑顔でした」

「そう、良かったわね」

「愛之宮さんの方はどうですか? 」

 私は人差し指を顎にあて、んーっと少し躊躇した後言った。

「想像していたものとちょっと違うわね」

「いえ、そうではなく鮫島さんはちゃんと成仏したんですか?」

「あら、そんな事気にしていたの? 大丈夫よ、舞台が終わったらちゃんと私が成仏させてあげるわ。でもそうね、やはり想像していたものとちょっと違うから監督に演技プラン相談してからね」

 千堂の表情に動きは無かったが、一瞬だけ刺すような視線になったのを私は気付いた。

「そんな顔しないでよ。君は幽霊の話を聞く。私は幽霊を取り込む。方法が違うだけでしょ? それに君だって私と似たような事しているじゃない。ね? 千堂君」

 私は、雨で張り付いた前髪を右手で軽くかき上げながら千堂に聞いた。

 強まる雨の中、千堂は答えなかった。


 風の無い初冬の空に、線香の細い煙がまっすぐ昇っていた。

 墓前には先客がいて、手を合わせていた。学生服を着た少年だった。

「杉浦君の知り合いかね?」私は合掌を終えた少年に尋ねた。

 少年は立ち上がり、頭を下げた。「はい。昔お世話になりました」

 端正な顔立ちの少年は、見た目からも真面目で警察の世話になるタイプとは思えない。杉浦も少年課配属は無かったから、杉浦と少年の接点が見いだせない。そこまで考えて、私は刑事の悪い性だなと苦笑した。恐らく近所の知り合いだろうと思い、それ以上の詮索は止めた。少年に場所を変わってもらい、私も墓前で花を供え、手を合わせた。

「杉浦さんはどんな刑事さんでしたか? 」背後から少年が問いかけてきた。

「優秀な刑事だった」私は即答した。「罪を憎んで人を憎まずと言葉では簡単に言えるが、杉浦はそれが出来る刑事だった。私も警察は長いが杉浦の様な警官は少ない」

「そうですか」

 私は立ち上る煙を仰いだ。

「だが正直あいつには悪い事をしたと思っている」

「何故です? 」

「杉浦を警察の世界に引き込んだのは私だ。あいつなら弱い者の立場になって仕事が出来る警察官になれると思った。そして私の考えていた以上に優秀な刑事に成長した。だが知っての通り奴はずっと独り身だった。私が縁談を持ってきても断り続けてな。刑事って職業と結婚してしまったんだ、あいつは。刑事じゃなかったら今頃は家庭を持って子供の一人や二人こさえて人並みの幸せを送っていたかも知れん。そう思うと不憫だし、やり切れなくてな」そこまで一気に言って気恥ずかしさを感じた。私は腰を上げ少年と向き合った。

「子供の君に愚痴を言ってしまってすまない。だが杉浦は刑事だけではなく、一人の立派な人間だったと言う事を覚えていてほしい」

 少年は、子供と思えない程の涼やかな目で私を見ていた。

「刑事になって良かったと、杉浦さんは言っていました。あのまま人生を送っていたら警察に厄介になる人間に成り果てていただろうと。でも自分は救われたと言っていました」

 少年の言葉が私の心に静かに響いた。

 何処かで季節外れのヒバリが鳴いた。高い鳴き声が澄み切った冬空に昇っていき、消えていった。


 BGM代わりに流していたテレビから聞き覚えのある名前が聞こえてきた。キーボードを打つ指を止める。

「今日はアイドルから演技派女優に華麗に変身なされたアイアイこと愛乃宮愛梨さんにお越しいただきました。本日はようこそいらっしゃいました、宜しくお願いしますぅ」

「こちらこそ宜しくお願い致します」

「ほんとお綺麗ですねぇ。同性の私からから見ても羨ましいばかりです」

「ありがとうございます」

「アイドル時代から正統派美少女としてバラエティやドラマでも大活躍でしたが、最近は活躍の場を舞台にまで広げられておられるとの事で。お忙しいんじゃないですか? 」

「ええ、毎日が光のスピードで過ぎていきます。今は舞台のお稽古で大変ですが、毎日充実していますね」

「その舞台『或る告白』がとても好評ですね。普段は舞台を観に行かない人達まで劇場に足を運んでいるとか」

「はい、本当にありがたいことです」

「愛乃宮さんは今回なんと、殺人犯の役を演じられたということでもかなり話題になっていますね」

「今まで犯罪者を演じた事が無かったので最初お話しを頂いた時は戸惑いましたが逆に演技の幅を広げるチャンスだと思って、お引き受けしました」

「普段は辛口の批評家さんの間でも話題になっているようですね。その事で関係者の方からお話を伺ったのですが、なんでも愛之宮さんは最初脚本に書かれていた犯人像を監督さんと話し合って変更させたとか」

「ええ、今考えると私みたいな駆け出しの女優が脚本に口を出すのも畏れ多い事なんですけど、脚本を読み込んでいくうちに、ちょっと違うんじゃないかと思いまして」

「具体的にはどんな所なんでしょうか? 」

「上手くは伝えられないのですが、犯罪者は最初から犯罪者じゃない。本当は自分のしでかした事に怯え苦しむ。早く楽になりたいけど逃げてしまう。そんな矛盾する気持ちが、罪を犯した人間の心には満ち溢れているんじゃないか、と」

「愛之宮さん、本当に二十代でいらっしゃるの? まるで人生の大先輩とお話ししているみたいですよ」

「そんな事、言わないでくださいよぉ」

 心の通わない表面だけの会話と笑顔が、テレビを通じて伝わってくる。

 そんな冷めた気持ちのままリモコンに手を伸ばし、テレビを消した。


                              終


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