優しい嘘

ケン・チーロ

第1話 証(あかし)

 1

「え? 何って言ったの? 」

 目の前の我が愚弟は不思議な事を言った。聞き違いしたのかと、確認の意味で聞いてみたが、弟はしらっとした表情でまた同じことを言った。

「SNSができるんだね。驚いたよ」

 なにそれ? 私は世界に誇るクールジャパンのアイコン『現役JK』よ。そんな訳ないでしょ。

 島本香、それが私の名前で来春に受験を控えている高校三年生。私よりちょっと頭の良い弟は、県外の有名私立高校に合格し、今は実家を出て独り暮らしをしている。県外って言っても電車で一時間の距離だけど。

 私達はファミレスに居た。まだ夕ご飯前なので、店内はガラガラで、特に学生の姿は私達しか見当たらなかった。だからと言う訳では無いが、私はムッとして少し声を荒げた。

「あのね、それぐらい誰でもできるわよ。失礼ね」

 だが弟は表情変えず、涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。私はため息一つ吐いた。

「ちょっと相談に乗ってよ。って言うか話聞きなさいよ」

「どうして? 」

「家族の問題なんだから当たり前でしょ」

 そう家族の問題である。だから私は電車を乗り継ぎ、時間を掛けてわざわざ弟を訪ねにきていた。私はコップに入っている冷水を一気に飲み干して弟を睨んだ。暫く睨んでいると、弟はコーヒーカップを置き、おもむろに「分かった。でも条件がある」と見つめ返してきた。

「条件? 」

「今日で話は終わらないと思う。その続きは一週間後にしてくれないか」

「なによ、この後用事あるの? 」

「用事はないけど、長くなると思うから」

「あんた冷たいわね、家族の話なのよ」

 弟はふぅっとため息を吐くと「それでいいね」とまた聞いた。

 何その嫁いでいった娘みたいな態度は? 実家を出たら後ろ振り向かないってか?

 弟の他人行儀な態度にムッとしたが、相談する内容は確かに重い。今日明日でどうにかなるものでもないし、解決するには時間が掛かるだろう。長男とは言え所詮末っ子だ、ここはひとつ年長者の余裕を見せるため、口角を少しあげて堅い微笑を作った。

「いいわよ」

 弟はじっと私の顔を見て、またふぅっとため息を吐いた。

「じゃあどうぞ」

 話始めようとした時、物凄い喉の渇きを感じた。自分でも驚くほどに喉が渇いている。自然とコップに目が行ったが、水はさっき全部飲んでしまった。冷水器に行こうか席を立とうとした時「飲んでいいよ」と弟が自分のコップを差し出した。コップにはこぼれそうな程並々と水が入っていた。

「あ、ありがとう」コップを受け取り一挙に飲み干した。風邪の引き始めなのか、今日はやけに喉が渇く。

 コップをテーブルに置くと変な事に気が付いた。弟のテーブルの前には、コーヒーカップ以外にプラスチックのコップが四個置かれている。私が飲んだ分を含めれば、最初から五個あった事になる。それも全部水が満たされている。私が不思議そうな顔をしたのに気が付いたのか「コーヒー飲んだ後に水飲むとコーヒーの本当の美味しさが分かるんだ」と弟が言った。

「へぇ初耳、そうなんだ」コーヒーが飲めない私には本当に初耳だったけど、弟ってこんなにコーヒー通だったっけ?

「あらためてどうぞ」

 私は大きく息を吸い込んで大きく吐くと、堰を切ったかのように話を始めた。

 今私の家はとても冷え込んでいる。正直なところ、危機的状況だ。原因は毎日繰り返されている父と母の喧嘩。昔はこうじゃなかった。そりゃ一般的な家庭と同様に我が家でも夫婦喧嘩や、親子喧嘩はこれまでもあったけれど、時間が経てば平穏な日常に戻っていた。だけど今年の夏以降、私の家族はおかしくなった。

 典型的なジャパニーズサラリーマンの父ではあるが、残業を良しとしないポリシーで、夕飯時間には必ず帰って来た。稀に残業する時は必ず家に連絡を入れ、会社の付き合いでの飲み会も滅多に行かなかった。その父の帰宅時間が極端に遅くなった。時には午前零時を廻る事も珍しくなくなり、たまに早く帰ってきてもさっさと書斎に籠り、夕食も家族を囲んで取る事も無くなっていた。

 母も典型的な専業主婦で、お金の掛かる高校生を抱えながら、パートに出ないで父の稼ぎだけで上手くやりくりして家計を支えていた。料理も上手で私の好きな料理を良く作ってくれた。料理だけではない。家事全般が得意な母のお陰で、家は常に清潔で心地よい空間だった。でも最近はそれも無くなった。

 母は昼過ぎ、時には朝から家を空ける事が多くなっていた。

 新聞や雑誌は床に無造作に置かれ、父のシャツもアイロンが当てられていない事が増えた。洗濯物が溜まり、それを無表情で洗濯機に突っ込む母を、私は声も掛けられず黙って見ていた事もある。

 その二人が、事あるごとにお互いに罵り、大声で喧嘩する日常が続いていた。

 私は今の家族の状況を話しながら、段々惨めな気持ちと悲しい気持ちが膨れ上がってきて涙ぐんだ。もし弟が県外の高校に進学していなかったら、私と同じようにこの辛い気持ちを毎日味わっていたかもしれない。弟が家を出ていたのが唯一の救いだ。

 沢山の複雑な思いを込めた話は、あっちこっちに寄り道したが、それでも一通り話し終えると私は涙をぬぐい、冷たい水を飲み気持ちを落ち着かせた。

「喧嘩の原因、心当たりある? 」じっと聞いていた弟は、ゆっくりとした言葉で聞いた。

 私は首を振る。

「わかんない」そう言いながら、心の中には言い出せない言葉があった。それは本当に口にするのも躊躇う言葉だ。

 ――浮気、不倫、不誠実な男女関係……

 かまととぶるつもりは無いが、それでも思春期真っ只中の女子高生の身にはあまりにも生臭く、本能的に目を逸らしてしまう醜聞だ。考えるのも嫌だが、もしそれを自分の両親が、どちらか一方でもしていたら身の毛がよだつし、吐き気すら催す。

 頭を振ってそんな馬鹿な妄想を振り払う。乱れた髪を整えようと手を髪にやった時、ふと周りの喧騒が耳に入って来た。ガラガラだった店内は、何時の間にか全ての席が埋まっていた。入口付近には待ちの人達の姿もある。

「あれ? もうこんな時間? 」壁に掛かっているデジタル時計を見た。

 午後五時…… 電車の時間を考えればもう帰らなければいけない時間だ。久しぶりに会った弟に、時間を忘れる程長話をしていたらしい。

「あーっとね、うん。今日はもう帰るね」カラ元気っていう元気を出し、努めて明るく言った。でも身内の弟に話して少し元気になったのも確かだ。やはり持つべきものは血が繋がった弟だと思う。

「ごめんね、こんな時間まで。じゃあ一週間後だっけ。今度はあんたが実家に来てよ。あんた家出てから滅多に帰ってきてないでしょ。お母さんに顔見せてあげてね」

「ん? ああ、じゃあもう今日はこれで」

 チグハグな会話だと思ったが、私はそれを気にも留めなかった。

「うん。本当に今日はありがとう」

 弟は無言で頷き、空になった五つのコップを重ね始めた。

 あれ? そんなに水飲んだっけ?

 疑問に思っていると、オバサンの店員がいきなりやってきて、重ねられたコップを奪うようにトレイに載せ、不機嫌な声を出した。「お帰りですか? 」

 そして身を屈め、顰めた声をだしながら弟を睨んだ。

「……あんた何処の学校? 今日は見逃すけど、今度から出て行ってもらうからね」

 なにその態度は? 確かにコーヒーしか飲んでないけど、それがお客さんにする態度なの? 抗議しようと席を立とうとすると弟が意外な行動に出た。

「すいませんでした」オバサンに向かって頭を下げたのだ。

「ちょっと! 」声を上げた私に、弟は私を見て声を出さず唇だけを動かした。

『落ち着いて。大丈夫だから』やけに大人びた弟の声が、脳内で再生された。


 2

 帰りの電車の中、私は窓の外を流れている街の灯りを力なく見ていた。弟に会って、家族でしか共有できない悩みを話して確かに気は楽になった。それが心持ち少しでもあっても話し相手が出来た、って事は大きい。

 でも一つため息を吐く。

 実はもう一つ悩みを抱えていた。それは本当に個人的な悩みで、青春真っ只中にあるからこその悩みだ。こっちは幾ら弟でも相談しづらい。そう恋の悩みだ。

 高二のとき、人生で初めて彼氏が出来た。まさに春の訪れ。その時の事を思い出すと、家族の悩みなんか吹っ飛びそうで、我ながら不謹慎だがニヤケてしまう。現金というかさすが女子高生である。今も電車のガラスに写っているはずの、自分の間抜けなニヤけ顔を見ないように下を見た。

 彼氏の名前は石渡健人。

 高校に入って同じクラスになった事はなかったけど、体育館で汗を流す健人を見た時から気になっている存在だった。一目惚れってやつだ。健人は卓球部、私は帰宅部で放課後も一緒になる機会はなかったが、学期末試験が終わりあとは夏休みを待つだけになったある日の放課後、私達は図書館で出会った。

 私の高校は図書委員の補助員をクラス毎の週当番制でやる決まりがあり、その週は私のクラスが当番で、私がその任に着いていた。元々読書が好きで、図書館の蔵書リクエストにも好きな作家や作品、ラノベやミステリィだけど、書いて出していた位なので補助員の仕事は苦ではなかった。その日はラッキーな事に、お気に入りのラノベ作家の新刊が入ってきていた。私は図書委員補助の立場を(もちろん意識的にだが)忘れ、受付カウンターの中で分類番号も貼られていない新書の香り漂う単行本を読みふけっていた。

 そんな時、健人が声を掛けてきた。

「あれ? それ新作だよね。次予約できるの? 」

 確かそんな言葉だったと記憶しているが、気になっている人からの突然の言葉と、周囲を気にせず夢中になってラノベを読んでいる恥ずかしさで混乱していて、その前後を良く覚えていない。せめて宮本輝か藤沢周平を読んでいたら自分の知的センスの高さを披露できたかもと後悔したが、女子高生がそんな渋い作家読んでいたら健人が声を掛けてくれたか疑問である。だがしかし、なんたる偶然か神の采配か、私が読んでいたラノベ作家は、健人もお気に入りの作家だった。

 ラノベ万歳。クールジャパン、ヒャッホーである。

 それから私達は学校の廊下で声を交わすようになり、好きなラノベや漫画を交換する仲になり、健人の部活が休みの日には、放課後にフードコートで時間を忘れる程長話するまで発展した。所謂急接近ってやつだ。

 そして高校の一大イベント、修学旅行前に健人から告白された。答えは勿論快諾。優柔不断な私が何の躊躇も無く、腹の底から「こちらこそよろしくお願いします」と声を出し健人に大声で笑われた。

 修学旅行は冬の沖縄。最高気温十五度と聞いて、暖かいじゃんと油断して薄着だけをバックに詰め込んで来たが、私達が訪れた時期はびっくりするほど風が強く、体感気温は本土の真冬と同じくらいに寒かった。修学旅行のしおりに厚手の長袖も用意しておけと書いてあっただろう、と引率の教諭が言っていたが後の祭り。しおりなんか読まない粗忽モノの同級生と一緒に、沖縄で冬物のセーターを買ったのは、今となっては笑い話である。

 でも寒い沖縄は嬉しい誤算でもあった。健人とお互いのスケジュールを綿密に調整して、自由行動時間は友人達に協力を仰ぎ、同じ学校の生徒が居なさそうな場所へ健人と二人だけで出かけた。そんな時寒さを言い訳に手を繋ぎ、身体をより密着させることが自然と出来た。

 限られた時間の中でデート楽しんだ後に、私にはどうしても行きたい場所があった。それは夕陽が海に沈むのを一望できる高台の公園だった。そこは地元では良く知られている公園だったが、繁華街から遠く周りが住宅街のため観光客も少なく穴場的な公園だとガイドブックにこっそり掲載されていた。健人に相談すると喜んでOKしてくれ、二人は公園に向った。

 そこは素晴らしい眺望だった。遮るものが何もない崖の上につくられた公園の広場からは、水平線が視界一杯に広がり、太陽がそこにゆっくりと落ちていくまさにその時が見えた。日頃の善行を神様が見てくれていたのか、冷たい北風はその時は収まり、空の色もオレンジ色から群青色への美しいグラデーションを描いていた。二人は言葉を失い、手を繋いだままそれを見ていた。その時公園には私達は二人だけだった。

 最高に幸せだった。

 だった……過去形だ。幸せな思い出が遠い過去に感じてしまう。あれは幻だったとすら思う。ニヤけていた顔が急に曇る。今度はガラスに映るその顔を見たくなく、下を向いた。

 二人は高校三年になり受験生になった。健人は地元国立大学に進学希望。当然私も同じ大学に進路希望を出したが、成績的には私の方が合格圏内にいた。

「頑張らなくちゃな。暫くは遊べないね」夏休みを前に部活動も引退した時、健人は笑って勉強を頑張る宣言をしたが、別れるとは言ってなかった筈だ。

 突然、本当に突然健人との会話は無くなった。

 夏休みが終わり、新学期を迎えた学校の廊下で健人にすれ違う時がある。

「石渡君……」思い切って話しかけても、健人は暗い顔でちらっと私の方を見ただけですぐに目を逸らした。

 私は一人廊下に立ち尽くした。

 思い余って長文のメッセージを送った。恥ずかしい位に思いの丈を書いた。

『会いたい。話がしたい。健人の声が聞きたい』そんな言葉で画面は埋め尽くされたが既読もつかず当然返事は無かった。電話も掛けてみた。終わらない呼び出し音が、何時までも私の耳に聞こえてきた。

 

3 

 駅からの帰り道、夜空を見上げた。都会の光にも負けず数個の星が瞬いている。

 健人の事はとても辛い事だけど、失恋は大人への階段を昇る準備。たしかそんな歌があったような気がする。その歌のように何時かは青春の一ページになってくれるかな?

 大きくため息を吐く。私は家に帰って来た。

「ただいま」元気のない声を出し、玄関を上がった。家の中は暗くリビングから明かりが漏れていた。

「ただいま」雑誌や新聞が片付けられていないリビングを覗いて、また呟くように帰宅を知らせた。誰もいない。寒いダイニングの食卓テーブルに三人分の食事が用意されていた。

 食卓のテーブルに私はお母さんと並んで座って向かいに男性陣が座る。お父さんの青い箸置きは、修学旅行のお土産だ。ご飯とお味噌汁、おかずは私の好きな唐揚げとマカロニサラダ。

 でも両親の姿は見えない。ここ最近毎晩見る光景だ。

 あんなに仲が良かったのに、もう三人の間で会話も無くなった。

 日々見聞きした面白い事を笑いながら話をしたり、時には真面目に人生について語り合ったりした食卓。お父さんが珍しく遅く帰ると分かった時、健人と付きあっている事をお母さんにそれとなく伝えたのもここだ。「お父さんにはまだ内緒にしておかなくちゃ」

 そう母親から言われた時は、そんなものかと正直驚いた。

 そんな暖かい日も遠い彼方になった。

 食卓の上には、私達の家族写真の写真立てがある。満開の桜の下、家族全員が笑顔で写っている。自然と涙が溢れてくる。駄目だ、やはり我慢できない。

 家族の事、健人の事。どうして壊れてしまったの? 自分には分からない。

 涙を拭いながら二階の自分の部屋に速足で駆け上がっていった。部屋の中は綺麗に整理整頓されていた。壁には皺一つない夏服のセーラーが掛けられている。明かりも点けずベッドに飛び込むと、顔を両手で覆って声を出して泣いた。

 助けて。誰か助けて。大声に出して叫びたかった。どれくらい泣いたのだろうか。

 泣き疲れた私は、そのまま眠った。

「ただいま」お父さんの声が微かに聞こえてきた。それと同時にドアが閉まる音。私は目を開けた。何時間寝たのだろう。部屋には時計が無かったが、もう深夜になっているのは分かった。別にお腹は空いていないけど、用意されたお母さんの料理を思い出してベッドから起きた。部屋のドアノブに手を掛けた時、大声が階下から聞こえてきた。

「いい加減にしろ! 」ビクッとして手が止まる。

「こっちは疲れて帰ってくるんだ。毎回毎回同じ事言わせるな」

 続いて金属的な甲高い音と、何かが壊れる音。食器が割れる音だ。それから怒鳴る声が聞こえてきたが、何を言っているのか分からない。それに女性の金切り声が被さる。

「貴方こそ何も分かっていない。私の気持ちを考えた事あるの? 私が毎日どんな思いで貴方を待っているのか」

「うるさい! お前こそなんで分からないんだ。あそこにはもう行くな」

 大声の非難の応酬は続いた。私はドアの前で座り込むと耳を塞いで泣いた。

 ――どうしてこうなっちゃったの?

 同じ言葉を繰り返して、逃げられない現実から目を背けた。

 一週間後、私は弟にメッセージを送った。

 日程の約束はしたが時間の約束はしていなかったから、朝日が上がると同時に家を飛び出して、近くの公園のベンチに座りをメッセージを打った。

『今すぐ来て話を聞いて。場所は桜ヶ丘公園。分かるでしょ』我ながら傲慢な内容だったがこの一週間、人生でこんなに辛い日々は無かった。

 朝、いつもの様に起きて着替えて下に行く。何事も無かったかのように食卓には三人分の朝食が用意されていて、憮然とした表情のお父さんが新聞を読みながらコーヒーを啜っている。お母さんの姿は、台所にも無い。

「おはよう」そう言って声を掛けたが、お父さんは新聞から目を離さない。「おはよう、お父さん」勇気を振り絞ってもう一度声を掛けた。お父さんはチラッと私の方を見たが、つまらなそうな表情でまた新聞に目を落とした。私は居た堪れなくなってその場を離れようとしたが、強烈な喉の渇きが襲ってきた。食卓にあるコップ一杯に注がれたミルクに目が行った。コップに手を伸ばし一気にミルクを飲み干すと、荒々しくコップを食卓に置いた。ミルクの味も温度も私には感じられなかった。

 お父さんはチラッと一瞬だけ音の方向を見やって、また新聞を読みだした。

 学校に居ても気持ちは晴れなかった。廊下で健人に声を掛けて以来、私は意識的に健人のクラスに近づかないでいた。受験もあと一か月を切ったこの時期、学校の中、特に三年生の皆は必死になって先生の声に耳を傾け、時間を惜しむように問題集を解いている。他人の事など気にしないとは言い過ぎだが、確かに受験以外の事を考えている余裕はない。

 そんな中、私の心はどこか遠くに行っている。こんな事で大学に入れるのだろうか? 運よく合格しても健人との関係はどうなるのか?目標を失った私は、漂流していた。

 学校からの帰り、私は重い足取りで塾へと向かっていた。夕暮れ迫る駅前の交差点。この交差点を渡れば塾は目の前だ。その時私の身体は硬直した。すれ違う車の影の向こうの歩道に健人が居た。廊下で見た時と同じ暗い表情でこっちを見ている。

 どうしよう? 踵を返して家に帰ろうかと思ったが、本当に足が動かない。車の流れが止まり、歩行者信号が青になった。動かない私を追い越して、多くの人達が横断歩道を渡っていく。そして同じく多くの人がこちらに向ってくる。その人並みの中に健人が居る。

 自然と右手を握りしめ胸の所に当ててしまうが、心臓の鼓動すら感じないほど緊張していた。健人が横断歩道の半ばまで来た。その時、目が合った。

 健人……

 健人の表情が急に曇り険しくなり、歩みが止まった。信号が点滅し始める。足早に渡る人々に取り残された健人は、泣きそうな顔になると、背を向け駆け足で来た道を戻って行った。信号が変わり、再び車が動き始める。健人の背中はすぐに車の影で見えなくなった。

 私はもう壊れそうだった。


 4

 公園の水飲み場で水を飲んでいると弟がやってきた。午前中の公園は掃除をしているお爺さん以外誰もいない。弟は辺りを見回している。手にはコンビニの袋を持っている。私は手を振って弟の方に向かった。

「ああ、久しぶり」弟は目の前の私に、元気の無い挨拶をした。

 久しぶり? たった一週間ぶりじゃん。大げさな。

「話、聞いてちょうだい」

「ベンチに座らない? 」そう言って木陰のあるベンチに目をやった。

「長くなりそうだから」

 私は再び家族の事と、弟に話すまいと思っていた健人との事を話した。話してしまわないと自分が壊れそうだった。途中で声をあげ大泣きした。「大丈夫」と聞かれ、私はハンカチで涙を拭った。弟はコンビニの袋からミネラルウォーターのペットボトルを出すと私にキャップを開けて渡してくれた。私はそれを一気に飲み干した。

 冷たい水がこんなに美味しいとは。

 弟は黙って話を聞いてくれた。もうそれだけでも感謝である。一週間前と同じように心が軽くなる。

 話すだけ話した私は、ベンチに深く腰掛けた。空を見上げる。

 その時、異変に気付いた。

 あれ?

 何か変だ。

 え? 夕暮れ?

 確か弟を呼び出したのは朝だ。いくら話に夢中になったとしてもせいぜい一時間位しか経ってない筈だ。驚いて弟を見た。弟も、私の目をじっと見ていた。

「島本さん、僕はあなたの話しを聞くことしか出来ない」弟は優しい声で語りかけた。

「ここは思い出の場所? もしもそうならここでの楽しかった時の事、思い出して」

 桜ヶ丘公園は、その名前の由来になった毎年見事な桜を咲かす老木が多くある。我が家はその桜の下で花見をするのが、春の恒例になっていた。

 お父さんが徹夜で場所取りをして、お母さんが一日がかりで下拵えした料理を重箱に詰めて。うららかな春の日、満開の桜の下で行われる花見は私の一番好きな家族と過ごす時間だ。忘れる訳がない。食卓にあった写真は、ここで撮ったものだ。

 写真? 強い違和感が脳裏を掠める。白い靄が頭の中を覆い、それが何なのかはっきりしない。その時、ゆっくりと空から何かが降って来た。

 桜……

 桜の花びらが舞っている。私の周りに無数の白い桜の花びらが、ひらひらと降ってくる。

 今は確か冬……

 桜が咲いている訳……

 真上には、満開の桜が天を埋め尽くすほどに咲き誇っていた。

 私は思わず弟の方を向いた。

「思い出した? 」何故か弟の目は寂しげだった。

「……何これ? 」

「何が見えているの? 」

 私は驚いた。この満開の桜が見えていないのか? 「桜が……見えないの? 」

「僕には何も見えない。それはあなたの思い出の中の風景だよ」

 頭の中の白い靄が薄れていく。思いだして来た。

 そうだ……

 弟は空を見上げた。

「桜か。それは綺麗だろうね」

 桜の木の下に三人家族が居た。私の家族だ。赤ら顔のお父さん。その横で紙の皿を私に渡しているお母さん。そして笑顔の私 スローモーションのように三人の周りにゆっくりと白い花びらが舞い落ちて来る。

 思い出した……

「はい、お箸とお皿」

「お父さん、飲みすぎだよ」

「そうかぁまだ二本目だ」楽し気な声が、どこか遠くから聞こえて来る。

 そう私は……

 気付けば私は地面に膝を着き、顔を覆って泣いていた。

「私は……あの日に……」

 絞り出すように呟いた。涙で霞んだ視界の中に、弟の真っ白なスニーカーが見えた。

 弟が目の前に立っている。

「島本香さん、君はあの日事故で亡くなった。今の君は幽霊なんだよ」

 舞台が暗転するように周囲が暗くなり、満開の桜と家族が消えた。


 5 

 暑い夏の日、塾の夏期講習が終わり家路の途中の事だ。駅前の交差点を渡り切った直後、私の後方から突然車が突っ込んできた。耳をつんざく衝突の音と突然のブラックアウト。

 私の記憶はそこで途絶えた。

 そして幸か不幸か、その時の痛みとか恐怖心を私は覚えていない。

 弟の調べでは車の運転手は心臓に持病がある人で、運転中に発作が起き意識を失って私を跳ね飛ばしたらしい。その人も結局心臓発作で亡くなっていた。要は跳ねた方も跳ねられた方も不幸な事故だったって事だ。

 ベンチに座った私は、意外な程冷静に弟の話を聞いていた。そして少しずつ自分が幽霊で、この世に居ない存在なのだと自覚してきた。

 あぁと今になって分かった。

 ファミレスでのオバサンの態度

 健人に送ったメール、電話

 お父さんに朝掛けた言葉

 洗濯機の前のお母さん

 交差点で会った健人……

 弟以外の人間は私が見えない。声も聞こえない。

 だから……

 弟は黙ってペットボトルを差し出した。私は頷いてそれを受け取って飲んだ。冷たい水はやはり美味しい。

「変だと思ったんだ。よく考えればすぐに分かるのにね。私ってバカだね」呆れるように笑いながら言った。

「みんなそんなもんだよ。君だけじゃない」

「ねぇ、今更だけど聞いていい? 」

 弟は頷いた。

「あなた誰? 何者? 」

 弟は私と会って初めて笑った。弟は千堂と名乗った。

 思い出して分かったのだが、私に弟はいない。食卓の上にあった家族写真に弟は写っていない。まあ当たり前。でもどうして面識の全くない人間を弟と思い込み、相談までしたのだろうか?

「あ、SNS。そうメッセージよ。何で私があなたに送れる訳? 連絡先も知らないのに! 」

 酷い言い方である。

「僕だって初めての経験だったよ」千堂は静かに語り始めた。

 千堂の正体はざっくり言うと「霊能力者」らしい。『らしい』と言うのは本人の談で本人ですらよく理解していない風だった。千堂は子供の時から幽霊が見えていて、幽霊と接しているうちに幽霊の相談に乗るようになったとの事。

「いつも幽霊の弟になるの? 」

 千堂は首を振った。

「僕の姿は幽霊がそう願う人物になるみたい。だから年齢も性別もバラバラだよ」 

 なんとも摩訶不思議な世界だ。私は相談相手に弟を願ったのか? 良くわからないが結果としてそうだったので、多分そうだろう。

「え? でもどうして私の事そんなに詳しいの? 」

 自分で勝手に頼っておいて、この台詞はない。本当に酷い。

「だから一週間後って言ったんだよ。でも本当はあれから一カ月経っているんだけどね。調べるには十分な時間だったよ」千堂は事も無げに言った。千堂によれば幽霊の時の流れと現実世界とでは相当開きがあるらしい。幽霊が感じる一日が現実では一か月だったり、逆に幽霊の一か月が現実の数分だったり。要するに幽霊になると時空間の概念が滅茶苦茶になるって事だ。

 そして縁も所縁も無い二人が一体どういった経緯で繋がったのは永遠の謎だろう。でも多分、と前置きした上で千堂は語った。

「君の『想い』の強さだと思う。想いの強さが僕を呼び出した」  

 千堂はそう言ったが、デジタルデバイスとSNSを使いこなせるのが今時の幽霊だと、自分で納得した。もしかしたら千堂の事もネットや『#幽霊と話せる人』とか使ってSNSで検索していたかもしれない。

 現役JKを舐めんなよ、幽霊だけど。

「あぁ死んじゃったのかぁ私」

 ペットボトルを両手で包み、空を見上げた。

 満開の桜は無く、黒く広がる夜空に星が瞬いていた。

「一つとても大切な事を君に知らせるね」

 私は千堂の少し寂し気な横顔を見た。

「君が思い出したって事は、もうすぐ君はこの世界から居なくなる」

「……そっか」何となく分かっていた。

 無自覚を自覚した時、それは現実となる。幽霊の現実は『無』だ。

 哲学的じゃん、私。幽霊になって頭良くなったのかな?

「ねぇ家族や健人に会える時間、あるかな? 」

「僕には分からない」

 そりゃそうだよね。

「でも君なら出来る。世界初SNSを使いこなした幽霊なんだから」

 笑った。笑いすぎて涙が出た。思いっきり笑った後、立ち上がった。

「今までありがとう。本当に助かったわ」

 千堂の前に立ち、右手を出した。

「僕は何もしてないよ。君の力だ」千堂は私の手を握る仕草をした。

 千堂の手の感触は無かったが、確かに暖かさを感じた。

「さようなら」

 私の言葉に、千堂は笑顔で答えた。

 6

 玄関で靴を脱ぎ散らかした父が、リビングへ転がり込むように現れた。表情は非常に厳しい。リビングでは青ざめた表情の母が立ち竦んでいた。

「どういう事だ? 」肩で息をしている父は、切れ切れの声で母を睨みながら言った。青ざめた顔の母は怯えているのが分かる。

「だって……あの子のスマホは棺の中へ……」

 そう、私のスマホは事故の衝撃で全損に近いくらい壊れた。その残骸を母は私のお棺の中に入れ荼毘に付した。だけど幽霊の私は、その携帯を持っている。

 数時間前、現実世界ではどのくらい前か分からないけど、二人にメッセージを送った。赤の他人の千堂にも送れたんだし、親には絶対送れるだろう。この根拠のない自信はさすが現役JKだ。

「香です。お父さん、話があるので今日は早く帰ってきてください。お母さん、今日は交差点に行かず家に居てください」

 死んだ娘からのメッセージ。

 これが冗談だったら悪質極まりない。二人が疑心暗鬼になるのは当たり前だ。だけど私には時間がない。やるしかないんだ。

 震えている父が次に言う言葉は分かっている。母を疑い、責め、罵倒する。そして当然母はそれに口答えをし、冷え切っている二人の関係は更に最悪な事になるだろう。だから私はスマホを取り出して、送信をタップした。

 一触即発のリビングで、父と母のスマホが同時に鳴った。二人は驚いた表情でお互いを見て、すぐに自分のスマホを見た。

「二人とも落ち着いて。特にお父さん、落ち着いて私の話を聞いて」

 父と母は驚愕の表情のまま固まった。間髪を入れず文字を打ち、送信した。

 私は今幽霊になっている事、二人の近くに居る事、そしてもうすぐ消えてしまうかも知れない事。最後の言葉が効いたのか、いつの間にか二人は力なくソファに座りこみ、寄り添っていた。私は大きく息を吸って、そして吐いた。

「お父さんお母さん。二人よりも先に死んでしまってごめんなさい。私も信じられないし二人にもう会えないなんてとても悲しいです。でももっと悲しいのは二人が毎日ケンカしていることです。そんなことをしても私は戻りません」

 そう戻らない。自分でも驚くほど心は落ち着いていた。どんなに辛く悲しくても、消えた命が戻る事はない。受け入れるしかないんだ。

 そんな事を考えるなんて、やはり幽霊になって大人になったかも。

 私はあの日の家族の姿を、強く強く意識した。あの楽しかった日の事を。

 満開の桜がリビングを覆った。

 桜の木の下、呆然と立ち尽くす父と母が居た。

「お父さん、お母さん」私は声を掛ける。目の前にいる二人は信じられない顔で私を見ている。どちらからともなく近づき、言葉もなく三人は強く抱き合った。

 二人の顔は溢れた涙で濡れている。私は構わずその濡れた二人の頬に顔を摺り寄せた。二人は何度も私の名前を呼んだ。三人の周りを静かに花びらが舞い降りている。

「成人式の晴れ着も、孫の顔も見せられなかった親不孝な娘で、本当にごめんなさい」泣くのを堪えてはっきりと言えた。父は両手で私の頬に手を当て何度も首を振り、母は私の両手をきつく握りしめている。

「事故の時、本当に一瞬で怖くも痛くも無かったの。だから苦しまなかったよ。でも二人がケンカしている姿見るのはとても苦しいの。苦しんだまま、私を成仏させないで」

 父と母は震える唇を必死で抑えながら、何度も頷いた。私はそれを見て微笑んだ。そして悲しいけれど、別れの言葉を言う時が来た。これは絶対に、私が両親に言わなければいけない言葉だ。私は二人を抱きしめた。

「お父さん。お母さん。生んでくれて、そして育ててくれて、本当にありがとう」

 父と母も私を強く抱きしめた。万感の想いが、あたたかい愛情の奔流になって私の中に流れ込んで来る。私は愛されていた。そして二人は私の死を受け入れてくれた。

 二人の身体が光り始める。やがてその姿は光の粒子になり、天に向かってゆっくりと昇り始める。

 ――さようなら

 多分私は笑顔だったと思う。二本の光の柱は、天に咲き誇る桜を突き抜けていった。

 私はそれを見届けると、もう一人会いたいと強く願った

 

7 

 私は飛んだ。

 目を閉じ思い出す。あの日、あの場所を。あの夕陽を見ていた公園を。

 目を開ける。

 隣には健人が居る。視線は夕陽を見ているが、緊張しているのが手に取るように分かる。

 私は吹き出しそうになる。

 この後、健人はキスを迫る。その歴史的瞬間に戻ったのだ。

 でもパニクった私は、自分の本心に逆らって「ごめん」ってキスを拒否した。

 あぁなんてアンビバレンスな乙女心

 大切なファーストキスだから

 たかがキス

 されどキス

 我慢できずに笑いだした。驚いた健人は間抜けな顔で私を見た。

 健人、本当に好きだったよ。

 ゆっくりと健人の首に両手を回し、唇を重ねる。

 驚いた健人は目を開けたまま固まっている。

 こら、こんな時は目を閉じてよ。

 どれくらいの時間、キスをしていただろう。そっと唇を離し、健人の胸に顔をうずめた。爆発しそうな健人の心臓の鼓動が伝わってくる。

 生きている、あぁ……暖かい。

 私は視線を上げた。そこには夕陽の光で照らし出されている、大好きな人の顔があった。私はその顔を、その表情を、永遠に忘れない。そして呟く。

 ありがとう

 崖の下から吹き上げてきた一陣の強い風が広場を駆け抜けていく。私の体はふわりと宙に浮き、白い桜の花吹雪になって舞い散り、消えた。

 

 父は玄関に座り靴を履いていた。その後ろには母が立っている。父は立ち上がり鞄を持った。「今日は早く帰れると思う」

「……はい」

 父は何故か動かなかった。母は静かに父の背中を見つめていた。

「春になったら、あの場所で花見をしよう」

「ええ、三人で」

 父は頷くと「行ってくる」と言い、玄関から出て行った。

「行ってらっしゃい」母は背中に声を掛け、玄関が閉まると一つ背伸びをして振り返った。シンクに溜まった洗い物をしようとリビングを抜け、台所へ向かった。ダイニングは冬の優しい朝日が差し込んでいる。その優しい光に包まれるように、食卓テーブルの上の写真立てが光っている。写真立ての中には溢れる笑顔の三人。

 その前で三枚の白い桜の花びらが、風もないのに揺れていた。 

 

                                 終


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