第11話 インターネットから来た女
リンクを押下すると、ブラウザでDiscordが開いた。
最初に表示されたのは、蒼国サーバーへようこそ、というタイトルの文字と、ここがサーバーの始まりです、という文言だった。右側ペインにはサーバーに参加しているアカウントの一覧が表示されている。アカウントのうち、管理者の
左側ペインには通常、テキストチャンネルやボイスチャンネルの一覧があるが、今は"利用規約"という名前のテキストチャンネルしか表示されていなかった。
利用規約に書いてあったのは、サーバーを利用するにあたっての振る舞いに関する注意がほとんどで、複数の項目に渡って詳細に記載されている。
一番最初の注意事項は、「成熟した礼儀正しい振る舞いを心がけましょう」というものだった。
それに続いて、各種チャットやメンバー同士のコミュニケーションについての注意喚起が続いている。特定の目的があるチャンネルで著しく目的から外れた話題を続けて行うこと、また意図的にそれを行うことを禁止する。特定の目的なく、メンバーを含む個人に対する過剰に攻撃的な振る舞いをすることを禁止する。利用規約やルールを読まずに、それに抵触する振る舞いを行い、規約を読まなかったのでそれが違反だと知らなかったと弁明することを禁止する。サーバーから
ツルはその文章を上から下まですべてしっかり読み込んだ。
利用規約の長文の中間あたりに、「上記に同意して利用を開始する場合、このメッセージに蒼国のスタンプでリアクションをしてください」と書いてあり、そのメッセージの真下に、蒼国サーバーのアイコンと同じ絵のボタンが表示されていた。
ツルはそのボタンを押した。すると、それまでリアクション数が"1"だったものが"2"になり、かと思うとすぐに"1"に戻った。リアクションのボタンを押したことをきっかけにして、Discordでスクリプトが動いたのだ。
その瞬間、ツルのアカウントに対して
メッセージのポップアップがいきなり表示されて驚いたが、ツルはポップアップを押下してDMのページに飛んだ。
「蒼国のサーバーへようこそ」
そのアカウントからのメッセージにはそう書かれていた。メッセージを送ってきたのは「蒼国くん」という名前のアカウントで、どうやらスクリプトで自動で動くボットのようだった。アイコンも蒼国サーバーと同じものが設定されている。スクリプトが実行された結果、ツルに対して自動応答のメッセージを送ってきたようだ。
ツルはそのとき気付いた。
ツルが呼び出されたのは、グループDMのチャンネルだった。
ツルとボット以外に、そこにもう一人いる。メッセージの履歴を見ると、ボットがその誰かを招待したらしい。
イミリ、という名前のアカウントだった。
そのアイコンには、猫がメダルをかけてチャンピオンベルトを両手で掲げている様子を描いた、フラットなデザインのイラストが設定されていた。
すると、チャットの下に「イミリが入力中…」という文字が表示された。かと思えば、何もメッセージが表示されないまま入力中の文字が消えた。少しするとまた入力中の文字が出てくる。迷っているように何度も出たり消えたりを繰り返す。メッセージが一瞬で送られてこないところをみると、どうやらこのイミリというアカウントの向こう側にいるのはボットではなく生きた人間のようだ。
そのまま数分待って、ようやく送られてきた最初のメッセージは、手を振っている絵文字ひとつだけだった。ツルはどう返せばいいのかしばらく迷ったが、結局同じ絵文字をひとつだけ打って送り返した。
またイミリが入力をはじめた。
しばらく待つと、メッセージが送られてきた。
『maiku』
どういう意味だとツルが思っていると、イミリは立て続けにメッセージを送ってきた。
『マイクありますか? いま使える状況ですか?』
なるほど最初のは打ち間違えか。
イミリは音声通話をしようとしているらしい。ちょうどいい、とツルは思った。ツルの起こした台本を文字だけで伝えるのは難しいと思っていたので、どこかでツルのほうから通話ができないか誘うつもりだった。
ツルは壁のフックにかかっていたヘッドホンを取り、着けた。
ツルはキーボードの真横に印刷した台本とペンを置き、はい、とだけチャットに打って返した。そして、画面をじっと見てイミリの反応を待った。
突然、大音量の着信音がヘッドホンから鳴り、ツルの体が跳ねた。画面には、イミリがあなたに発信中と表示されていて、その下に受信と拒否のボタンが並んでいる。
ツルは緑の受信ボタンを押した。
ボイスチャンネルに入室した効果音が鳴り、画面にツルとイミリのアイコンが大きく二つ並んだ。
イミリのアイコンの周囲が緑色に光り、ヘッドホンを通してがさがさと物音が聞こえてきた。物音が止んだかと思うと、唇の隙間から息を吸うような音が聞こえてきた。
「あー……、どうも」イミリが言った。「んん、えーと、イミリといいます……」
気の抜けるような声だった。それでいて、どこか警戒心をはらんだ声のようにも聞こえた。声が低めなので男かとも思ったが、咳払いをした声からすると女のようだった。
「ええと、話すのがあまり得意ではないので……、何いってるかわからなかったらすみません。……あれ? ……聞こえてます?」
イミリの声は何かに遮られて、マイク以外のほうへ飛んでいっているように聞こえた、口を手で覆いながら喋っているのだろうと思った。
ツルが今まで想定していた、蒼国の中から出てくる人間という人物像からあまりにかけ離れていたので、どんな奴が出てきても怯まないでいられるよう構えていたつもりが、それで呆気に取られてしまって反応が遅れた。
「いや……、聞こえてる」ツルは言った。
「あ、よかったです」イミリは言って、また細く息を吸った。「えーと……、念のため確認なんですけど、蒼国の参加希望の人ですよね」
「あ、ああ」
「ですよねー……」イミリは言った。「えーと……、じゃあ、どうぞ……」
「……志望動機でも言えばいいのか?」どうぞ、の意味がわからずツルは聞いた。
「ああはい、何でもどうぞ……」イミリはどこか申し訳なさそうにそう言ってきた。
なんなんだこいつ、とツルはまた面食らった。
気を引き締めろ。ツルはそう言い聞かせて、一瞬油断しかけた自分を諫めた。どんな奴だろうと、相手は蒼国の中にいる人間なんだぞ。
ツルは咳払いをすると、用意した台本に沿って蒼国への参加の動機と椎木についてを淡々と話していった。本来もっと強い口調で感情を込めて椎木についての話をしようかと思っていたが、このイミリという女に対してはそれが逆効果のように思えた。
「私はこいつは社会にとって一番不要な人間だと思っている」ツルは言った。「そういう奴に直接手を下すためには蒼国に入るしかないと思った」
イミリは、ツルが話をしている間、特に何か口を挟むようなことはなくただ聞いていた。時折アイコンの周囲が緑に光のを見て、かろうじてまだそこにいて話は聞いているのだろうと思えた。
ツルは椎木の逃げた先の周辺のものと思われる写真が三枚手元にあることをイミリに伝え、志望動機の話をまとめあげた。
「なるほど」ツルが話終わったあと、イミリはしばらくの間のあと言った。「蒼国ならその写真から、場所が特定できるだろうと思ったわけですね」
「ああ」
「ちょっと不思議なんですけど、隠し撮りで写真が撮れているのに、場所そのものがわからないなんてことあります?」
当を得た質問にツルは一瞬怯んだが、その反面イミリが話をちゃんと聞いていたということが確認できて安心した。
「その写真自体は念写ができる奴に頼んだ」ツルは事前に用意していた回答を答えた。下手に嘘をつくより、事実を基にして話したほうが信頼は得やすいだろうと思っていた。
「へえ」興味を持ったのか、イミリの声がワントーン上がったように聞こえた。「じゃあ……、はっきり場所がわかるまでその人にもっと撮ってもらうとかは?」
ツルもそれは考えていたが、ラジウムパッチを再び入手すること自体が難しい上、もう一度あれをやったら今度はどんな幻覚が出てくるかわからないので、選択肢から外さざるを得なかった。
「そいつの精度じゃそれが限界なんだ。その割に要求してくる金額が高くて、それ以上写真にこだわっても無駄だと思った」代わりにツルは少し嘘をついた。「できるなら数日中にはこいつがどこにいるのか知りたい」
「なるほど」イミリはぽつりと言った。
それからイミリは、また間を持たせるように長く息を吸って、何かを考えているようだった。
しばらくして、イミリは言った。
「あの……、これ、私怨ですよね」
言われた瞬間、背筋がぞっとするような感覚を覚えた。ツルが動機の中にうまく紛れ込ませたと思っていた感情の部分が一瞬で看破されたことに驚いた。
ツルが言葉に詰まっていると、イミリは続けて言った。
「いや、それ自体はいいんですよ。いいっていうか……、いいんです。そもそも一方的にでも自分が知ってる人間じゃなかったら、コイツ潰そうって発想にまずならないと思いますから。でもあの、なんていうか、あー……」
イミリは言葉を選ぶようにしばらく黙ったり唸ったりした。
「あのー、私の目の前に今ボタンがあって……、比喩とかではなくて、あなたの蒼国への参加を許可するかどうかってボタンなんですけど。とても形式的なもので、これを一回押すだけであなたはもう蒼国になります」イミリは迷うようなしばらくの間の後に続けた。「でも、今の話を聞く限りじゃ、私はこのボタンを押せません」
「な、っ——」
ツルは思わず声を上げていた。最後の頼りだったものが手の中からすり抜けていくような気持ちだった。
「たしかに、この椎木という人は悪い人だと思います」イミリが続けた。「議題にかけたら名簿に載る可能性は十分にあると思います。この写真から場所を特定するというのも、そこまで難しくない話だと思います」
「じゃあ何で」ツルは言った。
「でもね、」イミリはツルを遮るように言った。「だからといって、それがあなた自身が蒼国にふさわしい人間だと証明することにはなりません。そもそも、よく考えてみてくださいよ。蒼国に入ったら最後、あなたはその後一生蒼国に入った人間なんですよ。もし後になって逃げたくなって逃げたとしても、必ずどこかで誰かに見つかると思います。場合によっては、あなた自身が攻撃の対象になることも十分にあり得るんですよ」
「それはわかってる」ツルは言った。「でも、中に入らなかったらどうなる? 椎木が本当に名簿に載ったとして、その居場所は外にいる私には教えられないんだろ?」
「そうなりますね」
「それじゃダメなんだ。名簿に載ったらあとは誰かがやるまで待つなんてことはできない。これは私が、私の手でやらないとダメなんだ」
もはやツルはそれが私怨であるということを隠すつもりもなかった。
「はっきり言いますけど、あなたはおそらく蒼国を舐めてます」イミリは言った。「蒼国は使える面も確かにありますけど、使われる割合のほうが圧倒的に高いんです。それに、その後一生という言葉も舐めてると思います。一生という言い方でピンと来ないなら、永遠と言い換えたっていい」
ツルは何と言うべきか考えた。何かを言って、この場をつなぎとめなければならない。もしここでイミリが面談を終わらせるという判断をしてしまったら、ツルに椎木を見つけることはもはや不可能になってしまう。
「あなたの話を聞いていたら、あなたが馬鹿じゃないということはわかります」イミリは続けた。「でも、永遠に関わる問題については、今の一時の感情で決めるべきことじゃないんです。蒼国に入るなんてのはよっぽどものを深く考えていない人か、失うものがなくなって頭がおかしくなった人だけなんですよ」
「……あんたは?」
ツルは思わず言ってから、しまった、と思ったがもう遅かった。
「……え?」イミリは聞き返した。
「あんたは、そのどっちなんだ」
「……本当に興味あって聞いてますか」
「あるね」
それは嘘ではなかった。イミリの話し方や考えは、インターネットの自警団と呼ばれるような集団から出てくるようなものとはとても思えなかった。にも関わらず、イミリのような人間がどうして蒼国という場所に行き着くことになったのか、興味があるのは事実だった。
「……一度会って話してみましょうか?」イミリは言った。「今の話だけじゃ判断できないですけど、会ってみてわかることもたくさんあるでしょうから。その上でもし、私があなたのことを適格だと思ったら、私はそのとき許可のボタンを押します。それでどうですか?」
イミリの予想外の提案にツルは驚いた。だが、面談を打ち切られない限りは、まだチャンスがあると思った。イミリの声がどこか、最初のときよりも高くなっているような気がした。まるで高揚しているような様子だった。
「ああ……、それで頼む」
「その代わり、ちょっと働いてもらいますよ。車の免許持ってます?」
「ああ」
「日付は? いつがいいとかありますか?」
「いつでもいい」
「明日でも?」
「かまわない」
「わかりました。詳細はあとで送りますね。えーと……、そういえば、お名前は?」イミリはツルの適当なアルファベットが並んだユーザー名を見て困惑したようだった。「呼び方決めましょうか、なんか名前決めてます?」
「いや……」ツルは言った。全員が匿名で動いているものだと思っていたので、蒼国の中で名前が必要になると思っていなかった。
「じゃあ今決めちゃいましょうか。何かいいのないかな」イミリのほうから、連続してクリックの音とキーボードを叩く音が聞こえてきた。「あ、これどうです? 今すぐできる動物タイプ診断。これにしますか? これにしましょう。今から質問するので答えてくださいね。えー、第一問」
ツルが口を挟む隙もないまま、イミリは立て続けに喋った。
「とても大事なものを落としたことに気付いたあなた、どうする? A、諦める。B、死んでも探し出す。はい、答えをどうぞ」
「……A」ツルは言われるがまま答えた。
「二問目。あなたのよく知る二人が喧嘩しているよ、どうする? A、止めに入る。B、何もしない」
「B」
「三問目ですね。遠くに行ってしまって二度と会えない友達、見送りに行く? A、行く。B、行かない」
「B」
「お、出ましたよ。あなたのタイプは……、」イミリは少しの間の後に続けた。「
ツルは心臓を掴まれたような感覚を覚えた。たまたまとはいえ、自分の名前と同じものに行き着いたということに、奇妙さと不気味さを感じていた。
「じゃあ、ツルさん」ツルの反応に気づかず、イミリは何食わぬ調子で言った。「また明日」
たとえばあと少しで起こる悪い出来事を、自分の力だけで止められるとしたら。
それなのに、自分がそんな力を持っていることにも、そんな悪いことが起ころうとしていることにも、気がつかなかったとしたら。何もできなかった、ということになる。無視した、と言ってもいい。
後にならないと気づけないのは、お前がそれに一秒たりとも興味を持たなかったからだ。
それを気に掛けるどころか、それが存在することにすら、お前の考えが及ばなかったからだ。
でも、それはあるんだ。
けしドッグ!/ネバラ、今今に消える女 犬飼バセンジー @inukai_basenji
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