P to F

猫屋ちゃき

Past to Future

 掃除の時間と定められた十五分がもどかしくて、郁(ふみ)はせかせかとモップを動かした。でも、同じ持ち場の綾香はやる気がないらしく、スマホをピコピコいじっている。

 今週の郁たちの持ち場は特別棟の階段で、そもそも人通りが少ない。だから少々汚れていようと誰も気がつかないだろうし、そもそも見回りの先生も来ない。そのせいできっと綾香はやる気が出ないのだろうけれど、郁としてはたとえ人目がなくてもサボる気にはなれなかった。


「綾香、ちゃんとやろうよー。先生が来たらいろいろ面倒だよ」

「来ない来ない。そんなことより、郁は何でそんなにそわそわしてんの? これから予定でもあるのー?」

「え、別に……」


 真面目にさせようと注意したのに、綾香は逆に郁の手からモップを取り上げてしまった。それから郁の腕に自分の腕を絡めて体を密着させて、ニヤニヤと顔を覗き込んでくる。


「昨日もそわそわしてて、時間が来たらソッコーでカバン持って教室出てたよね。……もしかして、好きな人でもできた~?」


 聞きながら、綾香は絡めている腕にギュッと力を込めた。答えるまで離さないという意思表示なのだろう。


「いやいや……好きな人とかじゃないよ」

「うそだー。誰が好きなのかまでは聞かないからさ、せめて芸能人だと誰に似てるかだけでも教えてよ」

「そんなんじゃないってば」


 郁の訴えは無視され、綾香はスマホを操作して最近流行りの俳優やモデル、アイドルの写真を次々に見せてくる。

 そうして見せられても、郁は困ってしまうだけだ。だって、郁が頭に思い浮かべている人は、そういったいわゆるイケメンと呼べる顔立ちではない。


「おーい。お前ら、ちゃんと掃除しろよ」

「げっ」


 何とか綾香にあきらめてもらえないかと、郁がそろそろ適当に誰か芸能人の名前を挙げようかと考えだした頃。救いのような声が聞こえてきた。

 でも、郁にとっては救いでも、綾香にとってはそうではなかった。


「校内でスマホは触るなって。許可されてんのは持ち込みだけで、本当は使ってんの見つけたら即没収なんだぞ」

「はーい」


 声をかけてきたのは生物の村上先生で、綾香はさっき慌てて後ろ手に隠したスマホをブレザーのポケットに仕舞った。

 その顔には、村上先生に対する〝チョロい〟という感情がありありと浮かんでいる。でも郁は、ただ単に運が良かっただけだと思った。


「え、あの、何ですか……?」


 村上先生は、階段の踊り場からじっと郁を見上げていた。不機嫌ではないものの、何だか難しい顔で。


「んー? 吉岡の顔を見て何か思い出しかけてんだが、わからんな。てことは、大したことじゃないんだろ」


 肩こりでもほぐすように二、三度首を傾げてから、村上先生は去っていった。ヨレヨレの白衣のポケットに手を突っ込んで歩く後ろ姿は、まだ若いのにくたびれている。いつも気だるげで、あまりうるさく言わないから生徒たちに慕われてはいるけれど、同時に舐められてもいる少し気の毒な先生だ。


「もー、村上センセって歳のわりにオッサン臭いよね。今の、絶対にパンツ見ようとしてたんだよー」

「そうなのかな」


 スマホの使用を見逃してもらった恩を忘れて、綾香は嫌そうな顔をしてスカートの裾を引っ張った。見られるのが嫌ならもう少し長くすればと思いつつも、郁は言うのはやめておく。

 これ以上ここにいる時間がもったいない気がして、郁は綾香の分までモップを持って駆けだした。


「もう終わりの時間だよ。私、モップを片しておくから。じゃあね」

「郁、はしゃぎすぎー」


 後ろから綾香の冷やかす声が聞こえても、郁は振り返らない。

 用具入れになっているロッカーにモップを片付けてから郁が走っていくのは、校舎裏の古い温室。

 かつては農業部だか園芸部だかが使っていたとされるそこは、今は忘れ去られ、寄り付く人はめったにいないようだ。

 カギはかかっておらず、ガタついた扉を少し持ち上げながら引けば中に入ることができる。


「今日も来てたんだ」


 温室に入り、そこに先客の姿を見つけて郁はこっそり嬉しくなる。


「来てちゃ悪いか。てか、ここは俺の隠れ家だからな」


 先客のほうは、嫌そうに言いつつも口の端だけで笑ってみせる。本気で嫌がられていないとわかるから、郁はこうしてこの先客――武田くんに会いに来るのだ。

 郁が武田くんに出会ったのは、今から数日前。

 放課後に突然、豪雨が降りだした日のことだった。


***


 その日は、郁は教科委員の仕事で遅くまで残っていた。教科委員の仕事とは名ばかりで、雑用を押しつけられているだけだ。それでも郁は頼まれると断れなくて、地図を探すという名目で地理準備室の掃除をさせられていた。

 外がすっかり暗くなったと慌てて飛び出したときにちょうど雨が降り始め、空がゴロゴロいいだしたのが怖くて、避難したのがこの温室だった。


「きゃっ……!」


 郁が温室に飛び込んだちょうどその直後、空がバリバリと音を立て、ドーンと温室に雷が落ちた。

 落雷は古い温室をビリビリと震わせ、郁はその振動に身をすくめていると、不意に声をかけられた。


「……誰かいんのか?」


 人はいないと思っていたから、郁はさらに驚いてしまった。


「ごめんなさい。誰かいるとは思わなくて……」

「いいけど。突然降られて困ってたんだろ」


 薄暗がりに郁の目が慣れてくると、そこにいるのが男子生徒なのだとわかった。その男子は学ランのポケットをゴソゴソしながら郁に近づいてきて、何かを差し出してきた。


「貸す」

「……ハンカチ? ありがとう」

「汚れてはねぇよ。しわくちゃなだけ」


 男子のポケットから出てきたハンカチに抵抗はあったけれど、相手に悪いから使うことにした。それに、汚れていたとしても今はありがたかった。


「ありがとう、これ。洗って返します。あの、名前は?」


 詰め襟についているバッヂが自分と同じ一年を示す黄色なのだと気づいて、郁は少し態度を緩めた。見慣れない男子ではあっても、同学年だと話は別だ。


「武田」

「何組? 私は三組の吉岡」

「組とかいいだろ。探しに来んなよ。ハンカチ、別に今返してもらえればいいから」


 武田くんは、そう言って素っ気なく郁の手からハンカチをひったくった。少し傷つきつつも、ハンカチを返しに女子がクラスに訪ねてくるのは確かに面倒かもと思い直す。

 見た感じ、武田くんは女子とはあまり接点がなさそうだ。ワルではないだろうけれど、ちょっと鋭い雰囲気で、フレンドリーなタイプではない。そんな人のところに他のクラスの女子が訪ねていこうものなら、たちまち騒ぎになってしまうだろう。


「武田くん、口の端、切れてる……?」


 話すこともなく、沈黙の中でついじっと観察してしまった郁は、武田くんが顔に怪我をしていることに気がついた。よく目を凝らさなければわからないけれど、口の端に血が固まって赤黒くなっている。


「ああ、これ……喧嘩したんだよ。それだけ」

「それだけって……血が出てるよ。手当てしなきゃ」


 何とかしてあげなくてはと、郁はブレザーのポケットをあさって絆創膏を見つけだした。ついでに見つかったタオルハンカチは、そっと仕舞っておく。さっきは忘れていたけれど、自分のぶんがあったのだ。


「これ、貼るからじっとしてて」

「え、いいよ。自分のためにとっとけよ」

「いいの。ハンカチのお礼だから」

「……悪いな」


 初めは拒んだ武田くんも、郁がひかないとわかると抵抗をやめた。ふいっと目をそらして、どこか遠くを見ている。

 よく考えると、顔に絆創膏を貼るということはそれだけ近づくということで、それに気づいて郁は緊張した。でもそれを悟られるのは恥ずかしいから、素知らぬ顔をして手当てした。


「できたよ」

「ありがとな」


 武田くんは口元の絆創膏に触れて、それから気が抜けたみたいに笑った。その笑顔に、郁は何だか意外な気持ちになる。


「どうして、喧嘩なんかしたの?」


 ただの乱暴者には見えないなと思って郁は尋ねる。


「家のこと、馬鹿にされたから。恵まれてるやつは、すぐに人を馬鹿にする」

「それなら、仕方ないね」


 何となく状況が掴めて、郁は納得した。意外そうな顔をするのは、今度は武田くんの番だった。


「……喧嘩して、仕方ないって言われたの初めてだ」

「人間だもん。我慢できないことくらいあるよ。私は何でも我慢しちゃうから、そうやってちゃんと意思表示できるのは大事だなって思ったの」

「そっか。あんまり我慢すんなよ。殴るのはよくないけどな」


 そう言って武田くんは笑った。その笑顔があまりに柔らかで、不意打ちを食らわされたような気分に郁はなった。


「雨、弱まったみたいだな。帰るなら、今のうちだ」


 武田くんが柔らかな笑みを浮かべていたのは、ほんの少しの間だけだった。すぐに素っ気ない顔に戻って、郁に帰るよう促す。


「じゃあ、またね」


 これ以上ここにいたらドキドキしているのを知られそうだと思いつつも、ただ帰るのは寂しくて、郁はドアのところで振り返った。試しに小さく手を振ってみると、武田くんは面倒くさそうに軽く手を上げて応じてくれた。

 それだけで何だか嬉しくて、郁は小雨の降る外へと駆け出していった。

 それが、郁と武田くんの出会いだった。


***


「今日は怪我、してないんだね」


 古ぼけたカフェテーブルに腰かける武田くんを見て、郁は言った。今日は、どこにも怪我をした様子はない。出会った日に絆創膏を貼ってあげた口元も、すっかり治っている。


「喧嘩なんて、毎日やってられっかよ」

「それもそうだね」


 素っ気なく言われてそれもそうかと思いつつも、ほんの少し郁は残念だった。もし手当ての必要があればと、絆創膏のほかにも消毒液やウェットティッシュを持ってきていたのだ。

 でも、怪我がなくてほっとした気持ちもある。


「吉岡は、部活とかやってないのか?」

「うん。高校では委員会を頑張ってみようかと思ってたんだけど。狙ってた図書委員になりそこねて、教科委員になったら忙しいときは忙しくて、何もないときは本当に暇で」

「ふーん」


 聞いてきたくせに、武田くんはあまり興味がなさそうだ。それでも、彼から話題を振ってくれたというだけで郁は嬉しい。


「武田くんは? 何もやってないの?」

「うん。めんどくて。かといってまっすぐ家に帰るのも嫌で、ここで時間つぶしてるってわけ」

「そっか」


 武田くんの言いたいことがわかる気がして、郁は言葉を噛みしめた。そういう感情は、郁の中にもあるものだ。だから勝手に親近感を持ってしまう。


「そういえば武田くんは、放課後、遊びに行ったりしないの?」


 しばらくとりとめもない話をして、勇気を出して用意していた言葉を口にした。これを言うために、昨日何度もシミュレーションしたのだ。でも、シミュレーション通りにはいかない。


「しない。金ないもん」

「え……」


 武田くんが「行くけど」などと答えるのを期待して、郁はスマホを握りしめていたから、何と言葉を返せばいいかわからなかった。「それなら今度一緒に遊ぼうよ。連絡先教えて」と言うつもりだったのだ。


「そ、そうなんだ。……ねえ、連絡先教えて」

「え、いいけど」


 無理やりかなと思いつつも、郁は目的の話題を切り出す。すると、武田くんは驚くほどあっさり了承してくれた。

 嬉しくなって、郁はいそいそと自分のIDのページを表示させたけれど、武田くんがポケットから取り出したものを見て、少し困惑した。


「武田くん、ガラホなんだ。……ライム、入れてる?」


 武田くんの手の中にあるのは、最近ではあまり見かけなくなったパカパカするタイプのケータイだ。ガラケーや、スマホとガラケーの中間のような機能のガラホと呼ばれるものでは、みんなが連絡を取り合うのに使っている〝ライム〟というアプリが使えない可能性がある。


「ガラホ? ライム? 女子はすぐそういうわけわかんねえ言葉を使うよな。ほら、赤外線で送るから受け取れ」

「え? 赤外線?」

「ついてないのかよ。そっちのケータイのほうがポンコツじゃねえか。なら、手打ちしろ」

「う、うん」 


 焦れて武田くんの気が変わらないうちにと、郁は慌てて連絡帳アプリにメールアドレスを打ち込んだ。


「あとで空メールでもいいから送っといて。それで俺のほうは登録しとくから」

「わかった」


 思った形とは違ったけれど武田くんの連絡先を入手できて、郁はほくほくとした。そんな郁を見て、武田くんもうっすらと微笑む。でも、暗くなり始めた温室の外に視線をやって、表情を曇らせた。


「そろそろ、帰んないとな。帰りたくなくても、あんまり遅くなると危ないだろ」

「そうだね」

「じゃ、行こうぜ」


 促され、郁はカバンを手に立ち上がった。本当はまだ帰りたくないけれど、ごねて困らせてもう会ってくれなくなるほうが嫌だ。

 帰るとき、並んで歩くわけではなく、いつも郁が武田くんの少し後ろをついていく。ほんのわずかな時間でもその姿を見ていたからなのだけれど、彼にとってはそうではないらしい。


「……また?」


 温室から外に出た途端、武田くんの姿はどこにもいなくなっている。一緒にいるところを誰かに見られたくないから走っていってしまうのか、いつもすぐにいなくなるのだ。


「もう、何なのよ……」


 ポツリと文句を言いながら、郁は校舎裏から校門を目指す。

 嫌われているとは思わないけれど、別れ際の余韻すらなくいなくなられると、複雑な気分になる。


「あれ? 吉岡、まだ残ってたのか」

「あ、はい」


 とぼとぼ歩いていると、特別棟から村上先生が出てきた。先生は一瞬面食らった顔をしてから、訝るような表情になる。


「……吉岡、もしかして温室に行ってたのか?」

「えっと……違います! さようなら」


 村上先生の質問の意図はわからなかったけれど、何となくまずい気がして郁は逃げだした。

 メアドを交換しても、毎日会っていても、温室に行けなくなったら武田くんとの接点がなくなってしまいそうで、怖かったのだ。


***


 教室棟から特別棟に向かうために廊下を歩きながら、郁は前を通り過ぎるたび各教室を覗き込んでいた。その鬼気迫る様子に、隣を歩いていた綾香はニヤニヤしている。


「郁ちゃん、えらく鋭い目で他クラスの教室を見てるねえ。声をかけたい男子でもいるのー?」

「そういうんじゃないよ。……でも、文句言いたい相手ならいるけど」


 教室の前を通りかかるだけで見つけられるとは思っていなかったけれど、その相手の姿を思い浮かべて郁は唇を尖らせた。

 昨日、武田くんのアドレスにメールを送ったのに、きちんと届かなかったのだ。手打ちするときによく見たし、打ち込んだあとも何度も確認したのに。

 郁の打ち間違いの可能性が高いし、武田くんに怒るのは筋違いだ。

 それはわかっていても、寂しさと不安から郁は苛立ってしまっている。


「ふふん。文句言いたい、かあ。どこの誰なの? そろそろ教えてよ。教えてくれたら協力できるかもしれないし」

「そうだね……」


 綾香にはここ最近の様子がおかしいことを知られてしまっているから、そろそろごまかせないと思っていたのだ。それに、協力がほしいのも確かだ。


「……クラスはわかんないんだけど、同じ学年の武田くんって人。連絡がとれなくて、ちょっと困ってるんだよね」

「タケダくん、ね。オッケー。何かわかれば教えるね」


 綾香は笑顔だけれど、そこに面白がるふうはなかった。話してくれたことが嬉しいと、その顔には書いてある。それを見て、郁はほっとした。


「ありがと」


 廊下の端、六組の教室の前まで来て、郁は武田くんを探すのをひとまずあきらめた。ひとクラス三十人以上いるのだ。その中から教室の前を通りかかるだけでお目当ての人物を探すのは、難しいとわかったから。


(放課後にちょっと顔を合わせるだけじゃ、もう足りなくなってるんだ)

 武田くんの想いを強く自覚してから、郁の頭はそのことでいっぱいになってしまった。おかげで、今日一日の授業内容はいまいち頭に入っていない。それどころか、気がつけば帰りのホームルームの時間になっていた。


〈村上センセのポケット見てみ。ホシノワグマのストラップついてる。郁、おそろだね〉


 近くの席の綾香が、ルーズリーフの切れ端に書いた手紙をポンと投げてよこしてきた。それを見て、郁はようやく今日のホームルームにいるのが担任ではなく、副担任の村上先生なのだと気がついた。

 綾香の言うとおり、村上先生のヨレヨレの白衣のポケットからは、郁の好きな〝ホシノワグマ〟というキャラクターのストラップが覗いていた。形は郁がスマホにつけているのと同じだけれど、ずいぶん色あせている。


「えーとな、まだ決定事項じゃないんだが、校舎裏の古い温室が立入禁止になるかもしれない」


 通達事項を事務的に話していた村上先生が、思い出したように付け足した。その言葉に、ぼーっとしていた郁の意識は現実に引き戻される。


「元々ガタがきてたのか、この前の落雷で完全に天井にひびが入ったみたいなんだ。温室が何なのか知りもしないやつは引き続き近づかないように。心当たりのあるやつは、もう行くなよ。以上」


 〝心当たりのあるやつ〟というのはまさに自分のことを言っていたのだとわかって、郁は気が気ではなかった。


 メアドのこと、温室が立入禁止になるかもしれないこと――二つも話したい重要なことがあったのに、その日武田くんが温室に来たのはずいぶん遅くなってからだった。


「メール、送ってくれなかったのか?」


 入ってきて早々、武田くんは拗ねた顔で言った。待ちぼうけになっていたのは郁のほうなのに、その顔を見たら文句を言えなくなった。それに、拗ねるほど郁からのメールを待っていてくれたことに嬉しくなる。


「ごめん。登録ミスしてたのかな。何回送っても届かなかったんだ。確認してみてくれる?」


 文句を言う代わりに、郁は自分のスマホを武田くんに差し出した。それを見て、武田くんは拗ねた表情を引っ込めて、首を傾げる。


「あれ? あってるな。じゃあ、俺のほうの設定の問題か……?」

「私、あんまりメール使わないから知らないけど、登録してないメアドを弾いちゃうとかって設定があるんでしょ? だったら、私のアドレスを武田くんのにも登録しといてよね」


 そう言って、郁は予め用意しておいた紙を武田くんに渡す。

 可愛いカードに書いて渡そうかと悩んで、結局ルーズリーフの切れ端に書いた。せめてペンは可愛らしくと思い、あざとすぎないオレンジ色のペンにした。


「あ、ありがと。……下の名前、何て読むんだ? かおる?」

「ううん。ふみ、だよ」

「そっか、吉岡郁か」


 こういうのをもらい慣れていないのか、武田くんは紙を受け取って露骨に顔を赤くした。それを見て、郁もつられて照れてしまう。


「今登録しないで、家でやってよね。打ち間違えたら大変だし」

「そ、そうだな……」


 しばらく紙を見つめていた武田くんだったけれど、郁に言われてそれをポケットにしまった。


「そういえばさ、聞いた? ここ、立入禁止になるかもしれないんだって」


 気恥ずかしさから生じた沈黙を埋めるために、郁はもうひとつの話題を口にした。

 何も知らなかったのか、武田くんは驚いた顔になる。


「え? 聞いてない。誰が言ってた?」

「三組の副担。生物の村上先生だけど」

「村上? ……俺、七組だからわかんねえや」


 ショックを隠せないらしく、武田くんは頭を抱えていた。武田くんの発言に、郁も少なからず驚いていた。


「ここさ、俺にとって隠れ家みたいなもんだったんだよ。誰も来ないから、落ち着いていろいろ考えられるし。……でも、こうして吉岡と話すのも、楽しかった」

「……そうだね」

「俺、しょっちゅう喧嘩ばっかしてるから女子には怖がられてるし。だから、俺のこと知らない吉岡とこうして話すことができて、嬉しかったんだ」

「知っても怖がったり、ショック受けたりしないよ」

「だといいけどな」


 郁の言葉に、武田くんは少し安心した様子だった。

 でも、郁の中にさっき生まれたもやもやはどんどんふくらんで、悲しくて落ち着かない気分になっていた。


***


 昼休み、郁はお弁当にもあまり手をつけず、窓の外をぼんやりと見ていた。

 空は分厚い雲に覆われ、いつ降り出してもおかしくない。

 まるで、郁の気持ちのようだ。


「郁〜郁ちゃーん」

「え? ごめん、ぼーっとしてた」


 綾香に顔の前でブンブンと手を振られ、郁は意識を現実に引き戻された。向かいの席から、綾香が心配そうに見ていた。


「どうしたの?」

「ちょっと、考え事してた」


 安心させようと郁は微笑んでみるけれど、自分でもわかるくらいうまくできていなかった。


「そういえばね、うちの学年に〝タケダくん〟はいないみたいだよ」

「……そっか」


 綾香は本当に調べてくれたらしい。綾香から聞く前からわかっていたことだったけれど、より確信を強めた。


「……うちの学年の男子で、しょっちゅう喧嘩してる人って知ってる?」

「喧嘩って、殴り合い? いるわけないでしょ。うち、一応進学校だよ。内申に響くのが怖くて、悪さするやつなんていないよ」

「だよね……」


 ちょっと乱暴者の男子はいたとしても、激しい喧嘩の話は聞いたことがなかった。そんな目立つことをする人がいれば、噂に詳しい綾香がきっと話題にするはずだ。よく考えれば、すぐにわかったはずなのに。


「あとさ、うちの学年って七組ないよね?」


 最後にもうひとつ、確認するまでもないことを郁は尋ねた。案の定、綾香は怪訝な顔になる。


「うちの学年っていうか、どこの学年にも六クラスまでしかないでしょ。七クラスあったのって、たぶん六、七年前くらいまでじゃない?」



 天気は午後の授業が始まったときには大きく崩れ、帰りのホームルームの頃には嵐と呼んで差し支えないほどの暴風雨が吹き荒れていた。

 部活やその他の委員会活動も今日は全面禁止にされ、少しでも早い帰宅を担任は呼びかけていた。


「郁、今からうちの親が車で迎えに来るけど、一緒に乗ってく?」


 教室を出るとき、綾香がそう声をかけてくれた。ずっと様子がおかしいのは知られているから、きっと気を遣ってくれたのだろう。


「ううん、ありがとう。ちょっと気になることがあるから、それを確かめたら帰るね」


 これ以上心配をかけないように、精一杯笑顔を作って踏み外す綾香に手を振った。それから、廊下を静かに走りだす。

 向かう先は、当然温室だ。

 頭の中は、ずっとそのことで一杯になっている。

 相変わらずメールは来ないし、届かない。綾香に調べてもらっても、同じ学年に武田くんという人は見つからない。武田くんはスマホを知らない。みんなが使ってるアプリを知らない。微妙に話が噛み合わない。温室のドアを開けたら、いつもすぐいなくなってしまっている。

 これらのことからいろいろ考えて、不安しか感じていなかった。

 あの温室で武田くんと出会って話したことは、もしかしたらものすごくありえないことなのかもしれない。

 それなら、そんな奇跡みたいな出来事は、いつ唐突に終わりが来てもおかしくないのだ。


「武田くん!」


 傘が役に立たない、叩きつけるような雨の中を走って、郁は温室にたどり着いた。もしかしたらいないかもしれない――そんな不安を抱えていたけれど、そこにちゃんと彼はいた。

 でも、いつもと違って今日はうなだれている。その横に、郁は腰を下ろした。


「吉岡か。……メール、届いてないだろ?」

「うん」

「やっぱ、そうだよな……」


 武田くんはうなだれたまま言う。その声から、彼も何らかの確信を得たのだろうと郁は悟った。


「俺、気づいたんだけどさ」

「うん」

「俺たち、ここから外に出たら会うことも話すこともできないんだろうな」

「……うん」


 武田くんの声音に合わせて、郁の声も暗くなった。

 お互いに気づいてしまったのだ。自分たちの住む世界が異なっていることに。


「でもさ、ここに来たら会えるよ。これからも、放課後はこの温室で会おうよ」


 沈んでばかりでいたくないと、努めて明るい声で郁は言った。それに対して、武田くんは悲痛な面持ちで首を振る。


「できないんだ」

「どうして? 立入禁止なんて、私は気にしないよ」

「そうじゃない。……俺が、転校するんだ」

「え」


 遠くで、雷鳴が響いていた。でも、今の郁の耳には届いていなかった。


「母方の祖父母のところに引き取られるんだ。俺んち母子家庭なんだけど、離婚してからも俺の生活が変わんないようにって、母さんはずっと頑張ってくれてたんだ。でも、やっぱきつかったみたいで。だから、じいちゃんたちを頼ることにしたんだ。そっちのほうが、俺も心機一転できるだろうって」


 そう言って、武田くんは口元をさすった。郁と出会ったとき、怪我をしていた場所だ。

 その仕草を見て、郁は武田くんが本当は喧嘩なんてしたくないのだと気がついた。喧嘩なんてしたくないし、そういうことをする人間だと周囲に見られているのも、きっと嫌だったのだろう。

 そういったものから逃げだしたくて、ここへ来ていたのだろうから。


「そっか。じゃあ、次の学校では楽しくやれたらいいね。喧嘩せずに済めば、きっと武田くんを怖がる女子もいなくなるよ」


 せめて明るく送らなければと、努めて郁は笑顔で言った。そんな郁の心とはうらはらに、空はバリバリ音を立てる。

 嫌な予感がする、不吉な音だ。


「何だよ。何で吉岡はそんな割り切ったようなこと言うんだよ。寂しいのは俺だけかよ。……やっぱ、俺たち縁がないんだな」

「そんなことないよ! 私だって寂しいよ! それに、縁がないなんて言わないで!」


 バリバリと響く雷鳴は、温室の壁や天井まで振動させはじめた。ひびの入った天井から、鋭い雨粒が降り込んでくる。


「でも、縁がないだろ! もう会えないんだぞ! ここを出たら、俺たちの世界は交わらない!」


 怒っているのではなく、叫ばなければ互いの声が届かないほど風雨の音が大きくなっているのだ。


「私たちの世界が交わらないなんて決めつけないで! ここじゃないどこかで、また会えるって信じて!」


 言いながら、郁はスマホからイヤホンジャックごとストラップを引き抜いた。胸の白い星模様で願いを叶えてくれるという、可愛いホシノワグマのストラップを。


「これ、あげる! 私があげたメアド書いた紙は消えてないんでしょ? それなら、これを持ってて! 持ってたら、いつか必ず会えるって信じて!」


 郁はストラップを無理やり武田くんの手に握らせた。


「会えるんだって信じてて。信じて、私のことを探して。私も、武田くんのこと探して、見つけるから」

「村上だ。これからは母方の姓を名乗るから。村上真一郎だ」

「村上、真一郎くん……わかった」


 じっと見つめる武田くんの目を、郁も見つめ返した。ストラップを渡すために触れたままになっていた手を、ギュッと握られる。


「信じるよ、いつかまた会えるって。吉岡、俺、お前のことが」


 真剣な顔をして、武田くんが何か言おうとする。

 言葉の続きを予想して、期待して、郁の胸は高鳴る。

 けれど、続きを聞くことは叶わなかった。


「吉岡ー!?」


 バンッと乱暴に温室のドアが開かれ、誰かが郁を呼んだ。

 振り返ると、そこには慌てて駆け寄ってくる人影があった。それに気を取られているうちに、さっきまで目の前にいた武田くんの姿が消えている。繋いだ手のぬくもりは、確かに残っているのに。


「やっぱり、吉岡か。こんなところにいたらだめだろ」

「……村上、先生?」


 スマホのライトで照らされて、郁はまぶしくて目を細めた。細めた目で確認すると、そこには血相を変えた村上先生がいた。そして、彼の手の中で揺れるホシノワグマに気がついた。


「……!」


 それを見て、郁の頭の中で様々なことが繋がっていく。あまりのことに驚いて、声を出すことすらできなかった。


「……先生、下の名前は?」


 やっとのことで口にできたのは、そんな問いだった。

 関係のない人には、突拍子もない質問に思えるだろう。でも、色あせたホシノワグマストラップと、自分を見つめる気だるげな瞳を見て、郁はほとんど確信していた。


「そんなことはいいから、今日のところは帰りなさい。――吉岡ふみ


 そう言って、村上先生は郁の頭を撫でた。

 その顔に浮かぶのは意味深な、いたずらっぽい笑みだ。

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