第二章 昼下がりのガーネット

7月が過ぎると、8月がやってくる。何を当たり前の事を言っているのだ、と思っただろうが、大学生にとっては非常に重要な事なのだ。存在価値を一切認めることが出来ない、「定期試験」などという人類史上最も不必要かつ愚昧な争いを駆け抜け、8月になると夏休みという人生で一番時間を有意義に使える時がやってくるからだ。

 とはいえ、夏休みの予定が一切決まっていない今の状況に、少し危機感を覚え始めている。今のままだと、ただ黙々とアルバイトに勤しむだけの、つまらない、いつも通りの夏休みが目に見えている。

 小学校の頃の俺なら、葵と翠を誘って「タイムトンネルを探しにいこう」だとか、「関金山に宇宙人が漂着したらしい。会いに行くぞ」だとか適当な事を言って二人を駆り出し、馬鹿みたいに遊んで帰る、という如何にもブルースプリングな事が出来たかもしれないが、我々はもう今年で二十歳である。葵はアイドルの仕事で暇を作る事がまず難しいし、翠は……わからないが、多分喫茶店の営業で忙しいような気がする。

 諦めて石油でも掘り当てる為に、サウジアラビア旅行でも計画しようかと考えていると、突然机の上に置いてあったスマートフォンが規則的に踊りだした。画面には「みどり」という名前がふってあったので、俺は特に疑う事もなく緑色のマークをスワイプした。

「ついに石油でも掘り当てたか翠!」

『いやごめん、全く状況が掴めないんだけど……』

「違うのか」

『んな訳ないでしょ、そもそも日本で石油って掘れるの?』

「知らないけど。頑張ればでるんじゃね」

『マジか! ちょっと頑張ってみようかな……ってそうじゃなくて!』

 暇を持て余していた俺の適当なフリにも、翠は乗ってくれた。葵なら「死ね」だの「消えろ」だの「日本から出ていけ」だの言われていたところだ。酷いもんである。

『明日ってさ、空いてる?』

「すまん、その聞き方には答えないぞ。俺はこの前バイト先の女の子に同じ事を聞かれて『うん』って言ったら『ごめん! 彼氏とのデズテニー行くことなったからシフト代わって』とか抜かしてきたぞ。てっきりデートのお誘いかと思って一瞬浮かれた俺が馬鹿だった。お前もその類だろ。俺はもう騙されねぇぞ」

『それは災難だったね……。 でも、こっちは正真正銘遊びのお誘いだよ。明日、10時に倉吉駅に来れる?』

「へ」

 俺の頭の上に、数十個のはてなマークが浮かんだ。なんせ、小学生の頃から俺や葵から誘う事はあれど、どこか遠慮気味の翠から遊びに誘う事は一切合切なかったのだ。

「葵はいるのか」

『誘ってみたけど、忙しいみたい』

 まあ分かってはいたが、葵は今日もどこかの現場で活躍しているのだろう。本当に、一幼馴染として誇らしい限りである。

「そうか。なら二人で行くか」

『……うん。んじゃあ、明日はよろしくね』

「わかった、じゃあな」

 そう言って俺は電話を切る。こうして考えてみると、家が隣同士のせいか、葵と二人で遊ぶことはしばしばあったが、翠とは一度もなかったような。そう考えると、明日の約束は翠と俺の『初めて』部門に置いて、2冠達成している記念すべき日となる訳だ。プロ野球なら新人王確定だ。おめでとう、葵と俺。


 こうして何事もなく、明日が訪れた。いや、前日の23時59分の時点での今日は『明日』であるが、0時0分になった時点で『明日』が『今日』に変わるので、『明日』は一生来ないのではないか。つまり、俺は『今日』という日に停滞しているのではないか。非常に恐ろしい事実に気付いてしまった。恐ろしすぎて今日の夜は恐らく8時間しか寝れないだろう……。

 そんな他愛もない事を考えていると、俺の下へとやってきたのは『葵』のような何かだった。

「お待たせ~。待った?」

 毛染めした羊のような、フワフワとした印象を受ける緑のブラウスと、黒を基調としているのにどこか優しさを感じるフレアスカートを履いた彼女は、端的に言えば「美少女」だった。

「待った」

「なんか、大平くんにしては面白みのない回答だなぁ。ベタというか」

「逆に俺は何を言えばよかったんだ」

「ん……私にも秀逸な回答が思いつかなかったし、いいや」

「なんじゃそりゃ」

「それよりさ、私になんか言うことない?」

「今朝さ、物凄く奇麗なバナナ型のうんこが出たぞ」

「誰も大平くんのトイレ事情なんか聴きたくないよ……」

「タバコならメビルスの3ミリに変えたぞ」

「そもそも吸ってないでしょ……。そうじゃなくて、私見て何か思うとこ、ない?」

「爪切るの上手いな」

「爪は切ったけど! そうじゃなくて……もう」

 翠は若干すねたかのようにそっぽを向く。頬を膨らまして機嫌の悪そうな態度をとる彼女は、何時にもまして可愛らしかった。

「可愛いじゃん、今日の服。似合ってるよ」

「……もう、なんで一言告げるだけで私が満足する事をそこまではぐらかすの」

 まんざらでもない表情とスキップの足取りで、彼女は改札を通り抜けた。わかりやすい奴である。

「それにしても、俺と二人で遊ぶだけなんだから、そこまで気を遣わなくてよかったのに」

「だって、男女が二人で遊んでいるってことは、傍から見ればカップルに見えるじゃん」

「あー、まあ確かに」

「だから、大平くんの彼女面するんだったら、それに似合う女の子でいたいな、と思って」

 それは何とも、彼女らしい真面目な理由だった。俺が初めて葵の下へ翠を連れてきたときに、2人が直ぐに打ち解けられたのはこれが理由なのだろうか。

「そんな事気にしなくてもよかったのに。俺の彼女なんて、すのこで作った実家が寝タバコで全焼させたような女の子で十分なのに」

「その設定ホントに好きだよね、大平くん」

 そんな冗談を交わしながら、俺達は汽車に乗り込んだ。


 翠が連れて行ってくれたのは、390円均一店、ファンシーショップ、パフェが有名な喫茶店など、男一人ではどうしても入るのに抵抗が生じる店の数々だった。どうやら、葵と二人の時によく行っていたお店の数々らしい。葵と翠がどんな会話をしながらこの店に来ていたんだろう、と想像しながら店を巡って行くのは、結構面白かった。

 ただ、各々のお店に入る度に、翠が一度立ち止まって「うん」と言いながら首を頷けていたのがどうしても気になった。葵と一緒にやっていた、儀式かなんかなのだろうか。あの頃の彼女達は、俺の影響で若干オカルトにハマってたし。


 そんなこんなで楽しくデートをしていたら、いつの間にか夜が訪れていた。

「なんか食べたいものある? 奢るけど」

 俺が珍しく男気を見せると、彼女は少し悩む素振りを見せた後、ハレバレとした表情でこう言った。


「奢らなくていいので……あの、2丁目のラーメン屋に連れてって欲しい」


 地元に戻った後、やって来たのは「濃厚とんこつラーメン 豚無双」。アホみたいな量のもやしと麺が盛られたラーメンが出てくる、端的に言うと二郎系ラーメン屋さんである。 

幸い今日は平日ですいていたので、食券を買ってすぐに席につくことができた。(もちろんだが、今日のお代は俺が払った)

「いやー来てみたかったんだよね、ここ。女子一人じゃ入りづらいし」

 宝くじでも当たったかのような幸せな笑みを浮かべる彼女を、俺が怪訝な目で眺めていると、彼女は少し顔を赤らめた。

「し、仕方ないじゃん! こういうお店、男の人ばっかりで女一人じゃ入りにくいし!」

「倉吉東小学校残飯処理班の隊長の座は今も健在か……それにしても、なんでそんなに食ってて太らないんだ……」

 そんな俺達の会話を店長さんが聞いていたようで、ラーメンをもって来ると同時に、俺達に話しかけてくれた。

「彼女さん、何時でも気にせず入ってきてくれていいぜ。この店の野郎どもは何時でも歓迎してくれるさ。なんなら、左側の席を彼女さんの特等席にしといてやっからよ、また彼氏さん連れて食いにきてくれよ」

 そう店長さんが何気なく言った言葉が、俺達を恥ずかしさの渦中に飛び降り自殺させた。俺は水を5杯くらい飲んだし、翠は既に麺500gを平らげたうえで300gを追加注文していたくらいだ。恐ろしすぎる。


「ね、ねぇ。帰る前に、うちの喫茶店寄って行かない? 新しく仕入れた紅茶を飲んでみてほしいんだ」

 店を出て少し歩いた後、翠は唐突にそんな事を切り出してきた。まだ、19時台と時間も遅くなかったし、「たそがれ」の一常連として、最新作には正直興味を隠せないので、断る理由などもなく、俺はついていくことにした。


 店に入ると、いつもは蛍光灯に照らされて明るい店内が、暗闇で何も見えなかった。どうにか、窓から入る信号の明かりでテーブルくらいは認識できる。

「どこでもいいよ、座って待ってて」

 翠は、何故か緊張した面持ちで店の奥へと消えていった。お言葉に甘えて、俺はなんとなく「TAIHEI THREE」が昔作戦会議に使っていた、窓際の四人掛けテーブルに腰掛ける。

 明かりがついていないのにも関わらず、ここに座ると三人で過ごした時間が鮮明に蘇ってくる。俺がこの店で初めて翠を見た日、翠を紹介する為に葵をこの店に連れてきた日、街で大規模作戦(?)を実行するための作戦会議をした日、小学校を卒業した日、中学に入って、葵がアイドルを始める事を知らされた日、俺が******を諦めた日……。ダメだ、これ以上は……。

「懐かしいよね、この席」

 そんな自分の中の葛藤から救い出してくれるような、優しい声音が鼓膜に染み込む。

「お待ちどうさま、新作のフレンチブレックファストになります」

 振り返ると、ティーカップを二つ、トレイに乗せた翠がやってきていた。何故だろうか、センティメンタルな気分の時に彼女を見ると、救われたような気持ちになる。

「フレンチなのにブレックファストは英語なんだな」

「それを言い出したら、ブレックファストをディナータイムに飲んでるという矛盾にも触れないといけなくなるね」

「確かに」

 俺は文句を言うのを辞めて、静かに紅茶を啜った。

無糖のはずなのに、ほんのり感じる甘味。それに甘えていると、いつの間にか少し苦く、華やかな味へと昇華したかと思えば、後味はあっさりで、舌に何の感覚を残さずに消えてゆく。初めて飲んだ味である事は確実に間違いないし、こんなタイプの紅茶は飲んだ事がない。なのに、何故だろう、デジャヴを感じるのは。

「実はね、これ、私のオリジナルブレンドなんだ」

 彼女は俺の向かいに座った後、島の歴史を語る原住民のような、落ち着いた口調で囁き始めた。

「私の、大好きな人をイメージして、ブレンドしてみました」

 その姿は、カリスの女神たちにも負けず劣らず美しく、

「だいたい、小学校の頃くらいから好きな人で」

 止まっているはずなのに、空を舞うアゲハ蝶のように、

「一人ぼっちだった私に、新しい世界を見せてくれて」

美しく、華やかで、

「ちょっと穿ってるトコもあるけど、カッコイイ所もたくさんあって」

それでいて不安定な飛び方で、

「私の人生に花を添えてくれた、その人の名前は……」

 小野小町が歌を詠むかの如く、

「……あげい、たいへいくんっていいます」

彼女は俺への言葉を紡いでいた。


「好きです、大平くん。付き合ってください」


 翠が、今の『親友』としての関係を、終わらせるための呪文を唱える。突然の事で、非常に驚いてはいるが、彼女が10年以上かけて作り上げてくれたであろう、この雰囲気を壊すまいと、必死に気持ちを押し殺して俺は返事をする。


「よろこんで」


 俺は無言で、テーブル越しに立っていた翠を抱きしめた。儚げで、今にも消えてしまいそうな、あれだけ食べた後とは思えない、彼女の小さくて細い体を。

 ご夫婦に申し訳ないな、と思いつつも、俺たちの間に鎮座していたテーブルを蹴り倒す。目の前にいる次期店長は、もう何も言わなかった。お陰様で、俺達を邪魔する仕切りは完全になくなり、俺たちの体は2枚程度の布越しに、完全に密着することが出来た。本当にブラジャーをつけているのか怪しく感じるほど、翠の胸の真ん中に付いている『点』が立っているのを俺が感じているように、彼女も俺の股間の真ん中についている『竿』が、鈍器として使えそうな程カッチカチに固まっているのに気付いているのだろう。

 もう、羞恥心など無かった。彼女は目を閉じてゼリーのようにプルプルの唇を少しだけ膨らませ、顎を少し俺の方へと突き出す。意図は完全に理解している。

 彼女の要望に応えるように俺も目を閉じ、彼女の額へと、段々唇を寄せていく。

 10センチ、7センチ、5センチ。段々と、ファーストキスを捧げるまでのカウントダウンが減っていく。3センチ。2センチ。1センチ、5ミリ、1ミリ、0。



遂に俺は、彼女と『一つ』になった。



のだが……。

「くっっっっっっっっっっっっっっっさ! なんでキスするってわかっててニンニク食ってるんよ、大平くん!」

「いや、こんな状況になるって分からなかったんだもん! 俺悪くないもん!」

「ちょっとくらいは予想しといてよ! 完全にそういう雰囲気だったじゃん!」

「お前が雰囲気作るの下手くそだったんだよ馬鹿野郎」

「恋愛経験ゼロの私にそんな事求めないでよ!」

「俺もゼロだわこのヤロウ! てかそもそも告白前に二郎系ラーメン屋さんなんか連れてってんじゃねぇよ! なんも気にせずニンニク入れちゃったじゃん!」

「し……仕方ないじゃない! 空腹は背にも代えられないんだから! 私はちゃんとニンニク抜いたし!」

「これは俺が悪いのか!? そうなのか!?」

 カップルの手順としては最悪の幕開けとなってしまったが、まぁ、童貞と処女で形成されたカップルなど、この程度なのだろう。そう自分を納得させながら、俺はこの初々しい時間を楽しんだ。

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【第九回文フリ大阪】The Next Week's Hero(試読) 風早れる @ler

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