第一章 夜明け前のブルートパーズ

月名で言うと、文月の昼下がり。

俺こと上井大平(あげいたいへい)は、行きつけの喫茶店「たそがれ」にいた。

家から徒歩3分程度に位置し、西洋貴族のお屋敷を縮小したかのような、白塗りの壁に木製の年季が入った大きなドアが取り付けられており、洒落た雰囲気を醸し出している。

店内にはオーナーの所持品と思しきジャズギターやピアノ、アンプなどが壁際に所狭しと並べられ、その余白にヴィンテージ風のテーブルと椅子が並べられている。どちらかというと、楽器の方が主役であるように見えるこのお店は、店の雰囲気にマッチしすぎているこじんまりとした夫婦が家族で経営している。

なんてったって、土日こそ結構賑わえど平日に来ればここはお客さんがいないので、快適なもんである。

「私を無視しないで貰えるかしら」

 ……訂正。お客は俺を合わせて二人。

「すまん、近くに居すぎて気付かなかった。ほら、灯台下暗しって言うだろ」

「よくもまぁ、そんな言い訳が藪から棒に……」

「お前もよくあるだろ。お気に入りの栞を無くして家中大捜索をした挙句、結局あったのは机の引き出しの中だった、みたいなオチ」

「ないことはないけれど」

「そういうものなんだよ、人間って。大きくて美しいものに気を取られて、身近にあるかけがえのないものには目もくれない。人間ってのは残酷だよ」

「でも、目の前の席に座ってる女の子くらいは、気付いてもいいんじゃないかしら」

 そうため息をついたのは、俺の向かいの席で知らぬ間にふんぞり返って座っている葵だった。

 小鴨葵(おがもあおい)。漆塗りよろしい艶のある黒髪を腰の手前辺りまで自由に伸ばし、落ち着いた顔立ちを持ち合わせている事も相重なり、清楚などという概念を通り越して透明な存在と化している彼女は、一応俺の幼馴染である。

「ところで葵、最近仕事忙しそうなのにこんな喫茶店で油売ってていいのか」

「露骨に話を逸らそうとしないでくれるかしら。泣くわよ」

 165センチを超える女子としては高い身長もあって、モデルでもやっていそうな雰囲気がある彼女だが、実はその対極的存在とも言えるだろう、「アイドル」というお仕事をやっている。立ち位置としてはご当地アイドル、というのが一番近い表現なのだろうが、最近SNSで「こんなにおしとやかなアイドルを見たのは初めて」という葵の活動風景を撮影した投稿がバズり、お陰様で現在彼女の下には大量の仕事が舞い込んでいる。なので、さっきの疑問は話題逸らしのネタではなく、本気で彼女の事を心配しているのだ。全くもって酷い話である。

「まぁ、仕事の方は大丈夫よ。私、こう見えて自分のキャパは分かってるつもりだし」

 俺の気持ちが伝ってか、彼女は余裕そうな表情で話の軌道を修正する。

「お前の事だから大丈夫だとは思うが、仕事の一つすっぽかすだけで信頼というのは一気にゼロに落ちるんだ。一つ一つ丁寧に扱う事で信頼を」

「はいはい、わかったわかった。完全に理解した」

 彼女は、俺の話は聞き飽きたと言わんばかりにあしらった。

「おい、俺が熱心に話をしているときに遮るなよ」

「あなた、自覚ないようだけどその説教癖を直さないと、モテないわよ。面倒見が良い子が好きな変り者以外からは」

「……急に心を刺してくるのはやめてくれ。ハチかお前は」

「どうせ、せっかく大学に入ったのにまだ彼女の一人もいないんでしょう、大平は」

 まるで世界の常識のような語り口に、若干腹が立つ。少し、強がってみたくなった。

「……俺だって彼女くらいいるもん」

「えっ……」

 道端で百万円を拾ったかのような、大胆な驚きを彼女は見せてくれた。……少し思ってたのと違うが、せっかくなので遊んでみる事にする。

「そ、そそ、それで、どんな子なのかしら、その子は」

「あぁ、面白い奴なんだよ。根っからのすのこマニアで、風呂で体を洗うとき、スポンジの代わりにすのこを使ってごしごし洗うんだ、血だらけになりながら。そういや、すのこで作った実家はこの前寝たばこで全焼したらしい」

 メルヘンの世界にも絶対に出てこない基地外地味た世界観の彼女を作ってみたが、葵は笑うどころか今にも泣きそうな表情を浮かべていた。

「そ、そう……。もう、一緒にお風呂とか入って、一緒に実家に挨拶も行ったのね……。そっか……」

 ……思ってたのと滅茶苦茶違う。

「……おい、嘘に決まってるだろ。誰がすのこで背中洗ってる奴と付き合うんだ」

「……へ?」

 葵は素っ頓狂な声を上げたかと思えば、数秒後に状況を全て理解したようで、少し顔を赤らめつつ、顔が見えないように前髪のボリュームを手で無理矢理増やした。

「べっ……別に信じてないし」

 彼女の女性にしては低く、中性的ともいえる声から繰り出されたとはにわかに信じがたいキュートさ全開の仕草に、俺は思わず心をブラジル辺りまで持っていかれそうになる。こういう可愛さがあるから、ファンが多くつくのだろうと、少し感心した。そんな今の葵を俺一人で独占している事に、ファンへの申し訳なさと共に少しばかりの優越感を感じていると、 店の奥から唐突に、葵とは真逆の、オペラでもやっていそうな高い声が響いてくる。

「うわ、また大平くんが葵をいじめてる~、なんの話してるか知らないけど」

 柔らかい声で俺を非難しながらやって来たのは、この店のオーナー夫婦の一人娘であり、跡取りでもある打吹翠(うつぶきみどり)だった。毛並みの良いトイプードルのような、程よく柔らかく美々しい茶色の髪の毛を特に拘りもなく肩の下辺りで適当にばっさり切っているように見えるのにも関わらず、それでいてだらしなさを感じない。これでいて本好きな文学少女というギャップすら兼ね備えている。葵が「ビューティフル」を体現しているのだとすれば、彼女は「プリティー」の看板を背負っているといっても過言ではないであろう彼女もまた、俺と葵の幼馴染である。

「なんてことねぇよ。ただ、俺の彼女の話をしていただけだ」

「へー、大平くん彼女できたんだ」

 翠は葵とは対照的に、特に驚く様子もなく寧ろ麗らかとしていた。これはこれでなんか寂しいので、リアクションが欲しい。

「そうなんだ。そいつ、寝たばこで実家が全焼してて」

「はいはい、もういいわその話」

 数十秒前の自分を出来るだけ思い出したくないのか、葵は強引に話を遮った。

「おい、ここからが俺の作り話の良いところなんだぞ」

「作り話言うてもうとるやないかい」

 俺達と同じく山陰出身の翠からは考えられないような、関西弁の鋭いツッコミが入る。どこでそんな言葉覚えたのだろうか。

「まぁ、いつもの大平くんよりは面白かったよ。52点」

「そ、そうね。面白かったわ」

 ピエロでも見るかのように楽しそうな表情で辛口採点をこなす翠に便乗するように、葵が精一杯強がっている。明らかに無理しているのが頬のピクつき方に出ているのが非常に愛おしい。クールなキャラを演じている普段とのギャップに萌えを感じられて堪らない。

「大平くん、何でニヤついてるの?」

「すまん、明日キラリの新作映像について考えてた」

「ああいう子が好きなのね、大平くん……」

 下ネタで最悪のかわし方をした俺を、みどりは心底残念そうに見つめてくる。

「はぁ……あなた、少しは本音を隠す訓練でもしてみたらどうかしら。あなたの好きなAV女優なんて校長先生の朝礼より興味が無いのだけれど」

 葵がさっきとは一転して、軽蔑な目で俺を見ながらそう語りかけてくる。うまい事誤魔化せているようだ……その代わり、社会性は失ったが。

「仕方ないだろ。脳に浮かんでくるものは何時だって唐突だ」

 葵の大好きな漫画を、なんとなくもじってみる。

「恋は何時だって唐突だ、みたいな言い方しないでくれるかしら。私の最愛の漫画を汚された気分よ」

「いいじゃん、ちょっとくらいのパロディ」

「パロディって言うのはリスペクトあってこそよ。あなたのどこにリスペクトがあったのかしら」

「昔、誕生日にお前からもらった1巻をラミネートしたまま神棚に飾っているくらいに俺はリスペクトしてるぞ」

「つまり、読んでないじゃないの……はぁ、10歳の私が真剣に考えて渡したプレゼントなのだけれど……」

 葵は心底残念なものを見るような様子で俺を眺めてくる。

「ほんとに、二人は仲がいいよね。……付け入る隙がないくらい」

 元気よく笑いながら喋る翠に、俺と葵は同時にこう言った。

「「仲良くねーよ」」

「あはは、息ぴったり」

 この時、翠の口角こそ上がっていれど、目に全くと言って良いほど色が無かった事に、その時の俺は気付くことはなかった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

大平くんが「じゃあ、俺ゼミ室に戻らないといけないから」と言ってお金だけ置き慌ただしく店を出ていった後。

 店には、私と葵が取り残されていました。

そういえば、葵と二人になるのはかなり久しぶりのような気がします。おそらく、最後に話したのは、彼女がアイドルにスカウトされたときだったと思います。彼女が中学の時にアイドルになって以来、数少ない葵の暇な時間は3人で過ごしていたものですから。

というのも、私と大平くんと葵は、幼稚園からの幼馴染でした。何かをしでかす大平くんと、それに渋々付き合わされる、家が隣の葵。そして、幼稚園で馴染めずに、花壇の前でいつもぼーっとしていたところを大平くんに目をつけられ、「面白そうな奴だから」という理由で円の中へと誘拐された私。そんな三人は地元でもかなり有名で、「TAIHEI THREE」なんて呼ばれたりもしていたくらいです。学校帰りによく、うちの喫茶店で作戦会議と称した何かをしたものです。そんな現在、3人の時間と、女子同士の友情の時間ではどちらに天秤が傾くかは、言わずもがなだと思っています。しかしその当時、大平くん家の親は厳しく、あまり長居は出来なかった故に、店に2人で取り残される事がしばしばありました。

 そして、二人きりになると女子だけにしか出来ない会話が始まります。少しシリアス目な奴です。とはいっても、クラスの友達の悪口だとか、そういった聞いていて耳にたんこぶが出来そうな話を彼女はめっきりしませんでした。その代わりに、彼女の口からは大平くん、という言葉がよく出てきました。

 真剣に考えた誕生日プレゼントを喜んでくれなくて腹が立つだの、川から捕まえてきた泥だらけのカエルを持って家に遊びに来ただの、そういった「愚痴」を、彼女は嬉しそうに語ります。いつものクールさからは考えのつかない彼女の可愛らしさにほっこりとしながらも、当時の私の心には、聞くたびに少しモヤがかかっていきました。そこには、私には決して見せない「大平くん」が居たからです。

 結論から先に言うと、私は大平くんの事が好きでした。惚れた理由、というのは自分でもよくわかりませんが、恋なんてそんなものだと、私は思っています。ただ一つ言えるのは、大平くんに色々振り回される度に、私の心の心拍数はスポーツカー並の加速をしていました。さり気なく肌に触れ彼の体温を感じる度に、胸でお湯を沸かせそうな程熱い気分になりました。

 しかし、見れば見る程大平くんと葵がお似合いのカップルに見えてしょうがないのです。事実、彼らは家が隣同士であることもあるのか、非常に仲が良かったのです。常に一緒にいる私が、偶に心の距離を感じてしまうほどに。というより、二人はどうみても両想いでした、お互いが気付いていないだけの。

 もう早く付き合って、私を置いて何処かへ行ってくれよとも思っていたのですが、転機が訪れたのは中学生の時。彼女は二人の時に、街を歩いていた際にアイドルにスカウトされた事を相談してきました。この美貌の持ち主ですから、すっと頭の中に話が入りました。

「恥ずかしくてあまり大声では言えないのだけれど、歌うのは好きだからステージに立つ事は興味があって……でも、3人で過ごす時間も減ってしまうし、それにアイドルって……いや、なんでもないわ」

 恐らく私は、これに続く言葉を知っていました。だから私は、嵐の後の空のような、雲一つない笑顔でこう言いました。

「そんな『友情』なんかで自分の夢を諦めていいわけ? 葵の人生これから長いんだから、私達の為にここで諦めた事を絶対に後悔してほしくない。きっと、大平くんもそう思ってるよ」

 それを聞くや否や、彼女は一瞬面食らったような顔をしました。そして、すぐに少し寂しそうな表情でこう言いました。

「そうよね……わかった。アイドルになっても、ずっと『友達』でいてね、翠」

 私は疾しい気持ちなど一切なさ気に、元気よく「うん」と返事をしました。そして、心の霧が晴れたような気分になりました。これで、葵と大平くんという事実上のカップルが、略奪する事も、別れさせることも出来ない『偶像』になったのですから。私の手の届かないものに、なったのですから。

 

 さて、少し話を戻しますが、彼女が私と二人の時に口を開くと、出てくるのは大平くんの話が主体なのです。なので、今日の彼女はどんな話をするんだろうか、と少し警戒していると、驚くことに彼女は「相談」を持ち込んできました。

「あの、ね。翠には、どうしても一番初めに乗ってもらいたい相談があるのだけれど」

 いつもの「聞いてほしいのだけれど」から始まる愚痴ではない、真剣そうな眼差しに、私の警戒心はK2くらいまで跳ね上がりました。私が作り上げた今の『偶像空間』が、壊れてしまうような気がして。

 ただし、そういう意味では正解だったのか不正解だったのかは曖昧な答えが返ってきました。


「私、上京することになったの」


 まさかの答え(彼女の今のブレイク度からすると、有り得る話ではあるのだろうけど)が返ってきた事に、私は少し驚きました。

「それで、今週中に行くかどうか決めてほしいって言われたのだけれど……。翠は、どう思う?」

 彼女は縋るような目で、私に問いかけました。おそらく、引き留めて欲しかったのだと思います。実際、私も引き留める気でいました。『友達』として。しかし、私の口から自然に雪崩出たのは、全くもって別の言葉でした。

「私は……行くべきだと思う」

 この瞬間、私は私の中で葵とは『友達』でなくなりました。しかし、一度蛇口が開くと、もう私には栓を閉める事が出来ませんでした。

「翠は……私が東京に行っても、寂しくない?」

「そりゃあ、『親友』が遠くへ行ってしまうのは寂しいよ。辛いよ。泣きたくもなるよ。でも、それでも。そんな一時の感情で、葵を一生後悔させたくないんだよ」

 私がそう突き放すと、彼女の顔には不安定な淋しさが現れていました。

「でも、私はもっと一緒にいたい……大平と、翠と、私の三人で……。それに、私アイドルなんてやっていると、私は……私は……」

 私のスカートに手をかけながら、今にも泣き出してしまいそうな、半音上がった声で彼女は必死に口を動かしましたが、その言葉の続きは出てきませんでした。そして、その言葉の続きを、またしても私は知っていました。だから、彼女への決別の意味で、大きく胸を張って、とはいえ葵よりはどう頑張っても小さい胸だけれども、こう囁きました。


「大平くんも、そう思ってると思うよ」


 そういうと、遂に葵から塞き止めていた涙が零れ落ちました。

「大平くんだって、葵と一緒にいたいと思ってるよ、もちろん。でも、葵が大きくなるのを、絶対に邪魔したくないと思う。どう思っていたとしても、絶対に彼は上京に賛成するだろうし、もし自分のせいで行かなかったら、大平くんは一生後悔すると思う。だから……大平くんを後悔させない為にも、頑張っていってきて。応援してる」

 そういって葵の背中を軽く叩くと、もうボロボロになった顔を私に見せまいと、私の白いブラウスの中に蹲りました。

「うん……ありがとう……。私、何か血迷ってたみたい……頑張って来るから、応援してね……私が、どんなステージに立ってても……」

「ストリップバーのお立ち台以外なら、どこに立ってても応援するよ、私は」

「もう……大平みたいな事言わないでよ……」

 しばらく泣きじゃくる彼女の嫉妬するほど美しい髪を、私は飼い犬のように暫く撫で続けました。もう『偶像』でも『友達』でもなく、ただの『遠い存在』になった、彼女の髪を。

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