寡夫イサム.本当のこと
それから三週間ほど。
イサムさんは徐々に弱りつつ、気丈に終わりの時を楽しみ、過去を思い出しては泣き、今の人に希望と笑顔を届け、尊敬を受け続けた。
酒の量も減ってきた。多分もうじき飲めなくなるだろう。
寡夫の部屋を訪れる。今日は格別に安いお酒を飲んでいた。
いつもなら拘った好みの銘柄を飲んでるのに、心境が変わったのだろうか。
「イサムさん。どうなされました?」
「死神さん。そろそろ飲めなくなってきまして、最後の一杯と決めたものを飲んでいます」
古ぼけた小さなワンカップだ。とても似合ってる、と不思議な感想を抱いた。
「そのお酒の話、聞いてもいいですか?」
イサムさんは上機嫌に、かつ悲しい顔で話し出す。
「ナカエが死んだ日の話です」
三十年ほど前、間男と毒婦と、詐欺師とナカエと、私とでいつものように大学終わりに飲んでいました。
この頃は毒婦はとてもきれいになっており、間男も女性に人気がありましたね。
詐欺師は男女の堺目で苦しんでたときでしょうか。ナカエが気にかけてたのを覚えています。
そしてすべての人を恨むことになったきっかけの夜です。
皆酔って、しかし節度はある人達です。けれどナカエは違った。
ナカエは自信がない人です。女性であるのに角張った体型とか、お世辞にも美人とは言えない顔とか、そういうのにひときわ自信がない人です。
あまり性格もいいとされておらず、毒婦や間男と共にいたのですからね。後ろ指をさされることも多かったのです。
けれど毒婦や間男にそれらを相談したことはありません。もっぱら私と詐欺師です。
それを話す時のナカエは、本当に屈託のない笑顔でこういうのです。
私は人を愛しているから。
何がナカエをそうさせているのかはわかりません。昔から本や創作を好む子供だったので、そういうことを深く考えてたのかも知れません。
できればもっと語り合いたかった、と常に思ってます。
おひらきとなり、皆がそれぞれの住処に帰ったり、誰かの部屋に泊まろうとした時、ナカエの変化に私は気づきました。
皆が帰ろうとする姿に怯えているように見えたのです。
心配になりほんの少し話をしながら皆が出てくのを見てました。
皆なんとなく理解したみたいで、私とナカエだけになりましたね。
そして死別のときが近づいてきました。私がなにか食べよう、とナカエを家に残し近くの酒屋に向かった時の話です。
ナカエの様子がおかしいことには気づいていたので、勇気づけようと食事を作ろうとしたのです。
多分最後まで背中をみたいたのでしょう。おそらく声をかけたがってたのでしょうが、ナカエはそういうことをしないひとです。できないと言っても間違いはないです。
帰ってきた時の家の扉は空いていて、玄関は乱れていて、中は荒れていて、そこにナカエはいませんでした。
靴は数が揃っていたのでたぶん裸足で、であればそう遠くはないはず。すぐに見つけ出すことはできました。
橋の上でナカエは泣いています。角張った肩が静かに揺れています。
思いつめた様子でナカエはその橋の上から私を見てました。ナカエは最期に私に二言三言言葉を残します。
私は人を愛しているから。
ふらふらと橋の上でその体と髪を揺らし。
私は私を愛しているから。
振り向いて、キレイとは言えない顔がとても美しく見えた。
私は人の悪意に耐えきれない。
ふらり、とその体が傾いて。
イサム。あなたは悪意に負けないで。
ナカエはどこかへ消えてしまいました。
イサムさんはそのワンカップを飲み干して、私に向かい合う。
「ハツネさん。私はその時からハツネさんも含め、すべての人を悪人と理解しています」
「悪人と理解しなければ、人を愛すことなどできない」
「常に裏切り、傷をつけ、誰かに恨みを与える存在です。けれど、ナカエも私も、それを愛していた」
「故に恨み続けることで愛してきた。いずれ私は聖人と呼ばれるようになった」
「本物はナカエでした。おそらくナカエか私か、どちらかが先に飛び降りたのでしょう。ただナカエが早かった」
「もう少しで私も、あちらにいけます。ナカエの遺言も守り通し、私は最期に立ち向かえます」
イサムさんは涙かそれともお酒かわからない頬で、また微笑んでみせた。
しばらく沈黙が続き、それを見守り、身体状況を確認しつつ、長くないことは理解しつつ、けれどおそらくこの人は全うするだろう。
「お食事を取ってきます。今日は大好きなカレーライスを食べれるようにしてきたので」
イサムさんを置き、わずかに離れる。
その背中に気づくべきだった。
歩きながら話を整理して、厨房に脚を踏み入れたところでそれを感じたのだ。
淀んだ風が吹いてきた。
寡夫の部屋に入り込む。イサムさんはうずくまり、その目は私を射抜いた。
今際の際の目に私は竦む。この時間がやってきてしまった。
イサムさんに駆け寄り、その顔を覗き込んだ。苦しみを強く抱いている。
首に例の薬を通した。あと10分ほど。その口と目を覗き込む。
「イサムさん。イサムさん」
口が動いた。彼の表情がどんどん悲しみを帯び始める。
「死神さん。最期に本当を教えて下さい」
それは恨みに変わった。
「私は愛した人々が大嫌いでした。人を恨んでいたから人を愛せていた」
「死神さん。では、ナカエのように、私は私を愛せていたのでしょうか?」
「私が私を愛していたなら、きっとあの橋で落ちていたはずです」
「私は私を恨みきれません。私は恨む以外の愛し方を知りません」
「教えて下さい。今際の際のあなたの見た本当を」
驚くような黒のくぼみが、私を通じて、己の答えを求めた。
答えを迷う時間はない。
「イサムさん。あなたはあなたを愛せています」
「あなたはあなたも恨んでいました。ですが、恨んでおらず愛した人がいます」
「ナカエさんだけ、あなたの内心の呼び名はどこでも変わりませんでした」
「だからこの部屋の主は寡夫なのです。愛した女を亡くした未婚の男なのです」
答えが満足だったかはしらない。イサムさんは目を閉じて、その恨みを吐き出していった。
自重を支える力がなくなり、最期に安らぎを得た顔さえ、崩れて何もなくなる。
扉をあけ、事後処理をすべく外に出ると、タニザワ老人が驚いた顔で私を見た。
「ハツネさん。いつもよりひどく目がくぼんでいますが....イサムさんが?」
頷き、タニザワさんは休むように言うと俊敏に手配をしてくれた。義足の靴が転がっている。
座り込んるうちにせせりあがるものを感じ、トイレにむかい吐き出した。
鏡を見てまだ笑う。笑える。
「今日も、人を楽にしました」
あまりにも聖人の最期を背負うのは重すぎたので、私は即座に吐き出した。
たぶんこの先でナカエさんも、納得はしてくれるだろう。
安楽のハツネ 有上久 @ariuehisa
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