十二 由義寺に落日す  光仁天皇の即位    


七六九年(神護じんご景雲けいうん三年)から七七一年(宝亀ほうき二年) 


七六九年の暮れも押し詰まったころに、久米若女は都の西を流れる秋篠川あきしのがわという運河を渡って都城域をはずれ、雑木林ぞうきばやしの中に建てられた大きな邸をたづねた。

通された部屋を、物珍しそうに若女がグルッと見まわす。

壁には赤土が塗られ、天井からは幾つもの金色や赤色の飾り物がぶら下がっている。

「すぐに分かった?」とやまとの新笠にいがさが聞く。

「迷いはしませんが、ちょっと遠いですね。

新笠さまは、ここに住んでいらっしゃるのですか?」と言いながら若女が椅子に座る。

「いつも、いるわけじゃない。

ここは母の実家の土師はじ氏の家で、わたしは部屋があるだけよ」と新笠。

新笠は四十九歳になるはずだが、赤い部屋に敗けないほどハデだ。

「いつもは、どこにお住まいです?」と若女。

「自分の邸はないけど、部屋はアッチコッチにあるから」と新笠。

「山部王のお邸に住まれないのですか?」

「あの子もアッチコッチに部屋はあるけれど、邸は持っていないわよ」

大学頭だいがくのかみになられましたのに、ご自分のお邸がないのですか?」と若女。

白壁王しらかべおうの邸、能登のとの邸、やまと氏の邸、交野かたのの別荘、豊浦とようらの別荘、この秋篠の土師氏の邸にも部屋があるから、いらないって」と新笠。

「急な用ができたときに、どこに連絡をすればよいのです」と若女。

「あなたは、どうやって来たの」と新笠。

「甥の種継たねつぐに聞いたら、わたしの次の休みの日には、ここにおられると伝えてきました」と若女。

「ホラ。すぐに連絡がとれたでしょう。

確実なのは娘の能登の邸か、白壁王の邸に伝えれば連絡をしてくれるわよ」と新笠。

「能登さまは、お元気に過ごされていますか」と若女。

「市原王が亡くなって、もう六年になる。時が哀しみを癒やしてくれるし、子供たちが育って行くから元気にしてる。

それで、わたしに頼みって、なによ」と新笠。

「息子のことです。息子の雄田麻呂にやまといを教えていただけないでしょうか」と若女。

「いいわよ。そうね。雄田麻呂さんは由義ゆげの都を造営するのに忙しそうだから、わたしが教えに行ったげる!」と新笠。

「新笠さまじゃなく、和舞いの上手な人と奏者をよこしてくださいませんか」と若女。

「いいけど、わたしも行きたいから由義に行く。用って、それだけ?」と新笠。

「久しぶりに、お顔を拝見したくなったので」と若女。

「若女さんは嘘はつかないけれど、ごまかすのね」

「なにを?」

「あなた。白壁王と山部が企んでいることを知っているでしょう。

だから、わたしに会いに来た。そうじゃないの?

わざわざ訪ねてきたのは、あなたの優秀な息子が一枚かんでいるってこと?」と新笠の眼が光った。

「新笠さまは、あいかわらずですね」と若女。

「なにを企んでるのか、わたしは聞いてない。わたしは、なにも知らない。聞いてもむだよ」と新笠。

「聞かないようにしているだけで、新笠さんなら見当はついているのでしょう?」と若女。

「どうして近くにある幸せを捨てて、危険な高みを目指そうとするのかしらねえ。

男って、まったく現実的じゃない生きものだわ!」と新笠。

「高みを目指すのは、権勢欲だけではないようです。今の世に必要とされているからです」と若女。

「本気で、そう思うの?」と新笠。

「はい。わたしが考えても、今のまつりごとの乱れを正せる方は他におられません」と若女。

「なぜ、山部を巻きこむの? あの子は庶子よ」と新笠。

「山部王じゃないと、あとを受け継げないことぐらい、お分かりでしょうに」と若女。

「それで、わたしがジャマになるわけね」と新笠。

「いまさら山部王の血筋を変えることはできません。

いま出来ることは、新笠さまを非の打ち所のない上品で控えめな女性に仕立て上げることです」と若女。

「ジョウダンじゃない。そんなことをするぐらいなら殺してよ」と新笠。

「死なれたら血統が残るだけで、反対勢力を押えられません。

あなたを立派に仕立て上げてこそ、血統を打ち負かせます」と若女。

「馬鹿にしないでよ! そんな勝負はしたくない。皇族がなに! 天皇がなによ?

わたしは和新笠よ。木が芽吹めぶくくときの匂いが好き。枯れ葉が積もった小路が好き。川魚が跳ねて光るのが好き。萩の露を散らすのが好き。おぼろ月夜に踊るのが好き。わたしは、和新笠が大好きなのよ! このままで充分よ」と新笠。

「よく分かっています。あなたは自由な人です。そういう、あなたが、わたしは好きです」と若女。

「あなたか、わたしの、どっちかの息子に頼まれたの?」と新笠。

「わたしが勝手に乗りだしてきたのです。

白壁王と山部王が選ばれた道を、歩める保証は何もありません。

もしもお二人が、その道を進まれることになったなら、それは奇跡です。運命です。新笠さま一人が外れるわけにはまいりません。

そうなったら、あなたは宮中という鳥かごに閉じ込められます。

新笠さま。その日のための準備だけはしておいてください。

わたしが新笠さまのお供をします」と若女。

まだ、ずっと先のことだしかなうかどうかも分からないが、白壁王を擁立して山部王を皇太子に立てたときに、問題になるのが渡来系の新笠の血筋だった。

貴族や女官は意地が悪い。出自しゅつじが劣る人の一挙いっきょ一動いちどうあなどって笑いものにする。

こんなにハデで自由なら、かならず集中しゅうちゅう砲火ほうかを受けるだろう。

そんなことで白壁王や山部王をわずらわせたくない。

雄田麻呂や式家のために、今のわたしが出来ることは・・・と思いながら、若女はキンキラの赤い部屋を見まわして気がえた。



七七〇年。

二月二十七日から、貴族たちや官人をつれて称徳天皇は由義ゆげの宮に行幸した。

三月三日には、曲水きょくすいうたげをした。

まだ由義には宮と呼べるほどの建物が完成していないので、大和川の支流を使った野趣味にあふれる宴で、多くの官人が歌を詠んだ。

三月十日には、仮のいちのつかさを決めた。先に和歌山に行幸したときに仮の市を見物して楽しんだ称徳天皇の要望だが、そのあとで天皇の体調が悪くなって市の仮設が中止になった。


三月二十八日。

由義に行幸して一か月が過ぎた。

梅や杏子あんず連翹れんぎょうが、次々に花を咲かせる春のさかりだ。

この日に、称徳天皇と道鏡が中央に座り、その周りを太政官や女官がとりかこむ広場で、盛大な歌垣うたがきが行われた。

聖武天皇が平城京で行ってから何十年ぶりかになる大きな歌垣で、そろいの青い衣に長い赤の帯をつけた男女二百三十人が参加した。歌垣は男女が並んで舞い歌う歌舞だ。

称徳天皇は、若い貴族と美しい内舎人うとねり女儒じょじゅを歌垣に参加させた。

桜が散り始めている。道鏡に寄りそった称徳天皇は幸せそうに、ほほ笑んでいた。

歌垣のあとで、藤原雄田麻呂たちが勇壮な和舞いを舞ってさいごを締めた。

称徳天皇は女官たちに支えられて、名残惜しそうに会場を振り返りながら輿にのって仮宮にもどった。



四月一日。

左大臣の藤原永手、右大臣の吉備真備、大納言の白壁王と、中納言の大中臣清麻呂、文屋大市、石川豊成の老齢の太政官たちが道鏡に会いに来た。

飯高いいだか笠目のかさめが公卿たちをむかえる。笠目は、今年で七十一歳になる。

由義宮は仮宮なので、称徳天皇と道鏡は渡り廊下でつながれた同じ宮室にくらしている。太政官たちは仮宮のそばに造られた、仮の太政官府の宿舎に泊まっている。

称徳天皇は由義宮についてから、体調がすぐれずに休んでいることが多い。

予定では、毎日、催しがおこなわれて、三月中旬に都に戻るはずだったが、ほとんどが中止になって帰る日も延期されている。

由義にいるあいだも、大宰府に来た新羅の使者への対応や、由義宮を造っている人たちの叙位などを太政官が処理しているが、そろそろ平城京に戻る日を決めたい。


「帝のごようすは、いかがでしょう」と永手が道鏡に聞いた。

四十九歳になった道鏡は、派手な袈裟が似合うようになった。

「法王さまは看病かんびょう禅師ぜんじをされておりましたから、帝のご容体を承知しておられましょう。

歌垣で拝見いたしましたが、お顔の色がすぐれず痩せられました。

ご病状を教えていただけないでしょうか」と文屋大市。

道鏡が問いかけるように飯高笠目を見た。笠目がうなずく。

「お悪いようです」と道鏡。

「ご容体を説明していただけますか」と永手。

「お若いころからお丈夫ではなく、緊張されると、このあたりが痛むと仰せになることが多くございまして嘔吐されることもありました」と笠目が話しながら胃を押さえた。

「その状態が、ずーっと続いておられるのですか」と真備。

一時いっとき、お疲れ易くなられたときがございまして・・・」と笠目。

「飯高さんが兄の浄三の邸にいらして、しばらく帝を、そっと見守ってほしいと頼まれたころですね」と大市。

「はい。法王さまとご相談して、浄三さまにお願いに参りました」と笠目。

「医師には相談されておられるのですか」と永手。

「ずっと大医と医官たちが診ておられます。

浄三さまにお目に掛かったときは、いつもより胃腸が衰弱しているからと薬の処方を変えておりました。それで胃腸が痛むことは少なくなり回復されたようにみえました」と笠目が道鏡に目をやった。

「二ヶ月ほどまえから腰が重いとおっしゃるようになり、食が細くなられました」と道鏡。

「こちらに来られてから、血が混じるようになりました」と笠目。

「吐血されるのですか」と真備。

「いえ、下血です」と笠目。

「鮮血ですか」と真備。

「鮮血ではありませんが古くもありません。大医とも相談しましたが、わたしの見立てに相違そういがないだろうとおっしゃいました」と道鏡。

「法王さまは、どう見ておられます?」と真備が聞いた。

「腹部に緊張があり、とてもかすかですが、こわばりがあるようにみうけられます。お傷みはございません」と道鏡が、しっかりと太政官たちと向き合って話しはじめた。

「胃のにですか」と真備。

「いえ。左下腹部です」と道鏡。

「知っておきたいことがあります。失礼なことを伺いますがお許しください。

今回の行幸は、ご無理だったのではありませんか」と真備。

「はい。ご静養をすすめましたが、どうしてもと望まれました」と道鏡。

「帝は、ご自分の病のことをご存じですか」と真備。

「伏せておりますが、お気づきになっておられると思います」と道鏡。

「帝の病は重いのですか?」と永手が真備に聞く。

「法王さまの触診は確かでしょう。体のなかに石のように堅いものができる病ではないかと思います。治療法はありません。

下血がみられるなら、長くもっても一年以内でしょう」と真備。

「お救いする手立てはないのですか?」と永手。

「大医が手を尽くしておりましょう。あとで大医から、くわしいご病状を聞きましょう」と真備。

「都に戻られることはできますか」と大中臣清麻呂。

「それも大医たちと相談しましょう」と真備。

「しかし、これ以上、都を空けることはできません」と石川豊成。

「帝のご病気も隠さなければならないでしょう」と中臣清麻呂。

「法王さま。あなたは皇位を望まれているのでしょうか」とズバリと白壁王が聞く。

「わたしは看病禅師です。それ以上を望んだことは一度もありません」と即座に道鏡が、白壁王を見て答えた。

太政官たちが道鏡を見る。道鏡も太政官の一人一人に目を向けて居住まいを直した。

「申し訳ございません。いま、わたしが口にしたことは、お忘れになってください。

わたしが、由義を西京にして欲しいと帝に頼みました。法王にして欲しい、そのうえ皇位を継ぎたいと帝に願いました。帝は惑わされておられただけです。

どうか帝をお守りください。帝のために、お力添えをお願いいたします」と道鏡が太政官に向かって両手をつき、深々と頭を下げる。

「あなたは稀代きだいの悪僧になり、あなたの縁族は連座の罪を負うことになります」と白壁王。

道鏡が頭を上げて白壁王と目を合わせた。

「どのような覚悟もできております。

わたしのことを、これほど気にかけてくださった方はおりません。

これほど人に愛されたこともありません。わたしは思い残すことがございません。

どうぞ帝を、お守りくださいませ」と道鏡が再び身を伏せた。

「恵美仲麻呂の乱」を一緒に乗りこえた太政官たちが、互いを見交わした。


もともと小柄で痩せていたが、豪華な袈裟を脱いで太政官と会った称徳天皇は子供のように小さくなっていた。

「おかげんは、いかがでございますか」と永手があいさつをする。

「都を長く空けておくことができませんので、われわれは帰ろうと思います。

お疲れのようにお見うけしますので、由義寺に移られて、しばらくご静養なさったらいかがかと奏上そうじょうに参りました。

帝のご病気は伏せ、お留守のあいだは帝のお教えどうりに何も変えることなく政務を行います」と永手。

「政務のことは仔細もらさずにお伝えして、帝の許可をいただきます。

内印と駅鈴は、由義寺にお届けします。

河内守と河内大夫を兼任します藤原雄田麻呂と、その配下の役人たちがおつかえしますから、なんなりとお申しつけくださいますよう」と白壁王。

「医師たちを集めますので、すぐに良くなられましょう。

お元気になられましたら、お迎えにまいります」と大市。

由義にきてから一ヶ月で体力が落ちた称徳天皇は、都に戻るのがおっくうだった。

「朕は、法王を皇太子にして譲位をしたい」と称徳天皇が言う。

うけたまわりました」と太政官が平伏する。

「疲れた。しばらく、そちらに政務をまかす」と称徳天皇。

「ゆっくりと、ご養生くださいませ。

法王さまの立坊の義の、ご準備をいたします

お疲れがとれましたら、譲位の日をお定めください」と白壁王がうやうやしく答えた。



四月二日。

由義に残る飯高笠目が、称徳天皇を仮宮から由義寺に送る用意をはじめた。

医師たちや薬師は残さなければならないが、内裏にも置かなければならないので対策を考える必要がある。称徳天皇の病床につかえる従者や女従は、何も知らない地元の者から選ぶつもりだ。

近衛府の舎人は割いて法王の警護のためにと、半数を残すことにした。



四月五日。

「明信さん!」と久米若女が、由義の仮宮の女官たちの部屋に入ってきた。

「はい」と百済王明信。

「お宅から連絡があって、お身内に不幸があったそうです」と若女。

「えっ! だれが? 乙叡たかとしになにかあったの?」と明信。

乙叡は九歳になる明信の息子だ。

「いいえ。乙叡さんはお元気よ」と若女。

「じゃあ、継縄つぐただ?」と明信。

「嗣縄さんは、こちらに来ておられるじゃない。さっき、お見かけしたけど、お元気そうでしたよ。

交野からのお迎えだから、すぐに支度をしてお帰りなさい」と若女。

「交野? 百済王家の誰かが亡くなったの? 誰? 兄たちも交野には住んでいないわよ」と明新。

「ズーッと会ったことも無い遠縁の方だと思うわ。喪中休暇の届けは、わたしが代わりにだしておきますから急いでお帰りなさいな」と若女。

「会ったことも無い人のために喪中休暇を取るの? どうしてよ」と明信。

「西門のところで迎えの人が待っています。あとで荷物は届けますから、色々聞かずにサッサと行ってちょうだい」と若女。

き立てられた明信が仮宮の西門まで来たら、奈貴王なきおうが壁にもたれていた。

「ああ、チョッと待ってて。まだ継縄さんが来ていないから」とチラッと明信を見て奈貴王がいう。

「ウチのものを見かけませんでしたか?

なにか身内で不幸があったらしくて、交野から百済王家のものが来ているはずですが、どこにいるのでしょう?」と明信がキョロキョロする。

「それはウソだよ。だれにも見られずに、明信さんを由利さんのところへ連れて行けといわれて、わたしが待っていた。

でもチョッと待っててよ。継縄さんには隠すわけにいかないし、そろそろ法王の行列が通られるはずだから見届けてからにしよう」と奈貴王。

「ウソ。ウソって、なに! 

どうして身内に不幸があったなんて、ひどいウソをつくのよ!

息子の乙叡になにかあったかと、心臓が止まるとこだった。

由利さんのところへなら、一人で行くわよ!」と明信。

「だから緊急のワケありで、チャンと説明するからキャンキャン吠えずに待ってなよ」と奈貴王。

「どうしました。なにか奈貴王に嫌がらせでもされましたか?」とやってきた藤原継繩が割り込んでくる。

「やあ、継繩さん」と奈貴王。

「明信さん。奈貴王が、あなたを怒らせるようなことをしたのですか?」と継繩。

「なにもしていませんよ」と奈貴王。

「大丈夫よ」と明信。

ちょうど正面の門から出てきた法王の輿が、西門のまえを通りかかった。

天皇の輿とおなじ、紫色の大きくて立派な輿だ。その周りをお供の僧たちと近衛舎人が歩いている。

輿が通りすぎると、遠ざかる行列にむかって奈貴王が深々と頭を下げた。

「どこへ行かれるの?」と明信。

「由義寺に帰られる」と奈貴王。

「帝は明日は都へ戻られるけど、法王は都へ戻られないのですか?」と継繩。

「由義宮を造っていますから、しばらく、ここに留まられるそうです。

それで継縄さん。明信さんは都へ戻られますが、帝の体調がすぐれませんので忙しくなります。しばらく、お宅には帰れませんので、ご了承ください」と奈貴王。

「帝は余程お悪いのでしょうか」と継縄。

「細かいことは存じません。じゃあ、行こうか。明信さん」と奈貴王。

「ちょっと待ってください。奈貴王。帝がご病気なら、今こそ法王が必要でしょう。どうして、ご一緒されないのでしょう?」と継縄。

「わたしは侍従ですので、くわしいことは何も聞いていません。明信さん。行こう」と奈貴王。

「奈貴王! あなたと明信さんは内裏で一緒に仕事をしていますが、日頃から仲が良いのですか?」と継繩が二人のまえに回りこんで聞く。

「さあ、それほどでも」と奈貴王。

「あの、奈貴王。あなた、明信さんに思いを寄せているのでしょうか」と継縄。

「冗談じゃない!」「ありえない!」と奈貴王と明信が同時に言った。

「ほんとうですか?」と継繩。

「ホントです」「ほんとよ」

「じゃあ、ご一緒してもかまいませんか」と継繩。

「わたしは典蔵てんぞうから命じられた仕事をしているところです。

明信さんもです。仕事中ですので、ご遠慮ください」と奈貴王。

「奈貴王は、大膳大輔と侍従でしたね。

いいなあ。いつでも明信さんの姿を見て話しができる。わたしも侍従になりたいなあ」と継繩。

「わたしは万年侍従で、こうして便利に使い走りをさせられています。

うらやましいのは、こっちですよ。ともかく明信さんは、しばらく休暇が取れませんが、くれぐれも騒がないようにお願いします。

細かいことは後ほどお知らせできるかと思いますが、いまは急ぎますから失礼します」と奈貴王が明信をつれて去った。

 

南家の藤原継繩は、豊成の次男で叔父の仲麻呂政権下では不遇だった。

称徳天皇が太政天皇として任官に口を出すようになった六年前に、やっと従五位下に叙位されて貴族になったが三十六歳になっていた。おなじときに従五位下になった恵美執棹とりさおは二十六歳、式家の藤原蔵下麻呂が二十九歳だったから、継縄の出世はひどく遅い。

従五位下になったあとで、継縄は信濃守となって赴任した。

恵美えみ一族が都落ちしたあと、殺された恵美辛加知しかちの代わりに越前守として越前に入ったのが嗣縄だ。そのあとで父の豊成が右大臣に復帰したので嗣縄にも道が開けて、四十三歳になった今は従四位下で右大弁と外衛大将を兼任して参議さんぎとして太政官に加わっている。

「いいなあ」と藤原継縄は、棒術の名手で明信とも気軽く話せる奈貴王と、愛しの妻の後姿を見送った。


「だれにも言わないようにと注意したでしょう。

なぜ継繩さんを呼んだのよ!」と由利。

「夫に内緒にするわけにはいかないだろう」と奈貴王。

「で、なにを話したの?」と由利。

「帝の病状が重いから、しばらく明信さんは邸へ戻れないと言っただけだ。

騒がれちゃ困るだろう。継縄さんだけには、何もかも説明しておいた方が良いと思うよ」と奈貴王。

三人がいるのは仮宮のなかの称徳天皇の寝所だ。

「明信さんには、ちゃんと説明してくれたのね」と由利。

「くわしくは、まだだ」と奈貴王。

「役立たず!」と由利。

「いったいなんなの。帝はどこにおいでなの?」と明信。

「あとで説明するわよ。

ともかく明信さんは、身内に不幸があったからと喪中休暇をとるの。

そして、ここで帝の替え玉になる」と由利。

「はあーっ! どういうことよ。帝は、どこに居られるの。

笠目さんも女童めのわらわたちもいないわ。どうして?」と明信。

「さっき見た法王の輿で、帝は由義寺に移られた。

笠目さんも一緒だ。女童は家に帰した。

ご病状が安定されるまで、帝は由義寺でご静養される。

そのあいだ帝の代わりになって、内裏にいてほしい」と奈貴王。

「なぜ?」

「帝が不在だと分かったら大騒ぎになるだろう」と奈貴王。

「しばらくって、いつまで?」と明信。

「分からないわよ。さあ、これを着て!」と由利が、称徳天皇の法衣と袈裟をとりだした。

「わたしが着たらツンツルテンになるわよ。すぐにバレちゃう」と明信。

い子が使えないから、わたしが丈出たけだしをしておいた」と由利。

「ヘタクソ!」と法衣の縫い目をみて明信。

「明日は輿を寝所まで入れるから、姿を見られるのは一瞬だけよ。そのときは体を屈めて小さくなってよ。

内裏についてからも、輿から出る一瞬だけは注意してね。頭から頭巾をかぶせるから顔はかくせるわ」と由利。

「どうして、わたしなのよ。もっと体形が似た人がいるでしょうに」と明信。

「あなたなら、山部王を裏切らないでしょう」と由利。

「山部王。どうして山部王がでてくるの?」と明信。

「結果としては、この替え玉も山部のためになる。そう思ってガマンしろよ。

だけど、なあ。明信さん。あんたは山部にホレてるそうだが、嗣縄さんを泣かせるようなことはしないで欲しい」と奈貴王。

「うるさい!」と明信。

「女官の地位は、親や夫の位で評価されるの。わたしが良い例よ。

父が右大臣になったから、わたしも正三位になって、女官の長官である典蔵と掌侍しょうじを退官された百能ももよしさんから継げたのよ。

明信さんも参議の嗣縄さまの夫人なのだから、きっと出世できる。それが継縄さんの家族と山部王の役に立つ。だから、なにも聞かずに替え玉になって」と由利。

「それに由利さん。美貌と才能はあるけれど性格が悪い女と、能力はないけど血筋と性格が良い男。継縄さんと明信さんは、ピッタリの相性じゃないか。良い夫婦だよ。

わたしが手紙を届けてやるから、継縄さんに事情を伝えてくれよ」と奈貴王。

「奈貴王。いつまで帝の寝所にいるのよ」「出てってよ!」と由利と明信がとがめた。


四月六日。

由義に行幸中だった天皇の一行は、急いで平城京に還都かんとした。

体調がすぐれない称徳天皇の輿は内裏のなかの寝所まで運ばれて、天皇はすぐに休まれた。

それ日から称徳天皇は身辺の世話をする女童たちも遠ざけて、女官の長官の吉備由利としか会わなくなった。

朝夕の食事や汚れものの交換なども、由利が寝所の外に置いてある新しいものを運び入れて、汚れたものを運び出す。医師は几帳を隔てて結んだ糸で脈をとり、薬使も薬湯を運んでくるだけになった。

太政官が来ても会うのは由利で、太政官の言葉を称徳天皇に伝え、天皇の返事を太政官に伝える。寝所の回りは侍従や内舎人が警備していて、だれも通さない。その警備の侍従や内舎人たちも、ときどき聞き取れない声で話す気配は感じるのだが、称徳天皇の姿を見ることはなかった。

由義の仮宮を出るときと、内裏の御寝所に入られるときにチラッと袈裟姿をみたが、これほど長く称徳天皇が姿を見せなかったことはない。

それに、いつも一緒にいる道鏡が由義から帰ってきていない。

内裏に勤めるものは不自然なものを感じたが、古参の女官の大野仲千なかちや久米若女たちが平然として、よけいな噂が立つことを押さえている。

最古参の女官の飯高笠目の姿もないのだが、休職を取ると届け出があったので年が年だから怪しまれなかった。



四月二十六日。

称徳天皇が「仲麻呂の乱」の犠牲者の供養のためにつくらせた、小さな三重の小塔が百万基できて諸寺に分配された。

その知らせを、藤原雄田麻呂が由義寺に伝えてきた。

由義寺にいる称徳天皇と道鏡にとっては、心が休まるうれしい知らせだった。


五月に入ると、昨年とらえられた白い鹿が瑞祥しょうずいとして献上けんじょうされた。

そのあとで称徳天皇が久しぶりに詔をだすが、き物が落ちたようにとうな文体と内容になった。

道鏡の弟で、太宰帥の弓削清人が献上した白い雀と、昨年、伊予いよ国から届いた白い鹿のどちらが上かという問いには偏った肩入れをせずに、太政官たちの判断に従って白い鹿を重くみると答えている。

瑞祥がでたあとの大赦の詔では、これまで入れなかった「橘奈良麻呂の乱」と「恵美仲麻呂の乱」に連座した罪人を、刑部省ぎょうぶしょうが罪の軽重をしらべて赦免するものを選べと命じている。

だれもが納得しやすい詔がでて、かえって官人たちは首をひねった。称徳天皇が公に姿をみせたのは、由義で三月二十八日に行われた歌垣うたがきが最期だったからだ。

白い鹿や白い雀が届いたことも、河内守の藤原雄田麻呂が由義寺に知らせてきた。

「天がご本復を願っております」と道鏡。

「すぐに元のように、お元気になられますよ」と笠目がはげます。

日に日に衰弱してきて、痛みに悩まされている称徳天皇が薄く笑った。



六月になると左大臣の永手に近衛府このえふ外衛府がいえふ、左右兵衛府ひょうえふを、右大臣の真備に中衛府ちゅうえふ、左右衛士府えじふを束ねさせた。

左右大臣が軍部を押さえたので天皇の病が重いことが知れたが、大きな動揺は起こらなかった。


称徳天皇が重篤じゅうとくだと知った東大寺の良弁ろうべんは、たびたび内裏に謁見を願い出てきたが許可が下りなかった。

良弁は、聖武天皇の看護禅師から取り立てられて、東大寺の別当べっとうになりだい僧都そうずになった。

恵美仲麻呂も、聖武天皇がはじめた仏教政策を推進したので、仲麻呂政権下では興福寺こうふくじ慈訓じきんとともに、良弁も寺の力を強くしていた。

その甲斐かいがあって、東大寺が持っている荘園そうえんは日本一、二を競えるほど広く、都にも多くの土地を所有して貸している。

僧尼からは租税を取らないから、地方の金持ちは税金逃れに出家も考える。だから僧籍は東大寺にありながら、存在しない僧もいる。その僧尼の生活費は国が支払っている。

これは東大寺に限らず、どこの寺でもしていることだが、とくに地方の国分寺との結びつきが深い東大寺は豊かな財力と人脈を備えていた。

仲麻呂が滅んで淳仁天皇が淡路へ送られた天皇不在の時期に、墾田こんでん永年えいねん私財法しざいほう太政官符だじょうかんふで禁止されてから、寺院は荘園を広げる機会を奪われた。

称徳天皇が重祚した後も、仏教促進政策は縮小気味になった。

良弁は道鏡を看護禅師として送り込み、称徳天皇の出家にも立ち会っている。称徳天皇の病気が重いのなら、道鏡を後継者にするという勅をもらっておきたい。

称徳天皇への謁見ができない良弁は、拝謁できるように取り計らって欲しいと由義寺にいる道鏡に伝えてきた。


「良弁大僧都がいらしたのですか?」と寺の裏に作られた居住のための部屋で、道鏡が由義寺の僧に聞く。

「良弁さまではありません。円智えんちさまという東大寺の僧が、良弁さまの代理で参られたとおっしゃっています」と僧が答える。

「分かりました。すぐに参りますと本堂に上げて、丁重ていちょうにおもてなしをしてください」と道鏡。

「帝が居られることは、ご存じありませんね」と僧が去ると、同席していた飯高笠目が道鏡に言った。

「知っておられたら、良弁さまがまいられたでしょう。帝のご指示を仰ぎますか」と道鏡。

「いえ。近ごろは痛みを和らげる薬が欠かせませんし、おわずらわせしない方がよいかと思います」と笠目。

「良弁さまの使者でしたら、わたしは無碍むげに扱えません。

どう言って断ればよいのでしょう。わたしは嘘がうまくありません」と道鏡。

「わたしも嘘は苦手ですよ。でも追い返さなければなりません。

道鏡さん。泣いてくださいませ」と笠目。

「泣く?」

「道鏡さんも帝に拝謁ができない。どうしたら良いのか分からない。帝にお目に掛かりたいと泣いてください。泣いていれば、色々聞かれないで済むかも知れません」と笠目。

「分かりました。帝がお目覚めになったら、池のオタマジャクシに足が出るころですから、ご一緒に見に行きましょうとお伝えください。

では、泣いて参ります」と道鏡が出ていった。

由義寺には、藤原雄田麻呂が毎日やってくる。

はじめのうちは太政官会議の報告をくわしく伝えていたが、そのうち称徳天皇が疲れを訴えて報告を遠ざけるようになった。いまは雄田麻呂も報告書を置いてゆくだけにしている。

由義寺に仕える僧や従者は、道鏡が大恩のある病気の尼僧の面倒をみていると信じ込まされている。


七月半ばに雄田麻呂から、称徳天皇の衰弱がひどくなったと藤原永手らは伝えられた。

七月二十日に、従三位で兵部卿をしていた藤原宿奈麻呂が参議になり、太政官に加わることになった。

まだ皇太子が決まっていない。道鏡は論外だから、皇太子を早く決めなければならない。

このときの太政官は、左大臣が藤原永手(北家)。右大臣が吉備真備。大納言が白壁王と弓削ゆげの浄人きよひと。中納言が大中臣清麻呂。

あとは参議で、石川豊成、文屋大市、石上宅嗣、藤原田麻呂(式家)、藤原繩麻呂ただまろ(南家)、藤原継繩つぐただ(南家)、藤原魚名うおな(北家)、藤原宿奈麻呂(式家)、多治比たじひの土作はにつくりがいた。

弓削清人は勅命で太宰師に行ったから、称徳天皇から都に戻るようにと令が来ていないので九州から戻れずにいる。

恵美仲麻呂が反逆したときから太政官をしているのは、藤原永手、白壁王、大中臣清麻呂、石川豊成で、あとは仲麻呂が滅んでから太政官になった人たちだ。



七月二十一日。

「万一のことを考えて、太政官が奏上できる皇太子を選んでおきたいとおもいます」と、左大臣の藤原永手が集まった太政官たちに向かって言った。

暑い盛りで、太政官府の部屋は風の通りが悪い。そのうえ蝉の声がうるさい。

「帝に直系の親王が居られないときの日嗣ひつぎ御子みこは、先の帝の親王を立てると定められています。

しかし、ご存じのように、直近ちょっきんの天皇には親王となるご兄弟がいらっしゃいません。

親王を多くもうけられた一番近い天皇は天武天皇、その前が天智天皇になります。

両天皇のお子である親王は全てほうじられておりますから、親王のお子である二世王から日嗣の皇子を選ぶのが正しいと存じます」と永手。

「ここで決めた候補を帝に奏上いたしますが、帝の許可が必要です。

帝が罪科ざいかを問われて流刑中の二世王は、皇太子の候補からはぶきたいと思います」と右大臣の吉備真備。

「わたしも帝が断罪された二世王を、次の皇太子として推薦するのは避けたいと思います」と永手。

「そこで、わたしは帝の信頼が厚い文室ふんやの浄三きよみさまを推薦させていただきます」と真備が言う。

「右大臣?」と意表を突かれた永手が、目をしばたいて真備を見た。

文室浄三は七十七歳で、暑くなってから体調を崩して寝ついたと聞いている。称徳天皇より早く亡くなるかもしれない。

「浄三さまは人柄がすぐれ頭脳ずのう明晰めいせきで民を憂う心を持ち、まつりごと精通せいつうされております。尊敬に値するお方です」と真備。

「わたしも浄三さまを尊敬しておりますが・・・」と永手。

「いままで一点の曇りもなく、大納言として国に貢献こうけんされました」と真備。

「それは良く存じています」と永手。

「しかし兄は、臣籍降下して出家しております」と文室大市。

「今の帝もご出家されております。文室浄三さまに勝る方はございません」と真備。

「ほかの方のご意見は」と永手。

「浄三さまは尊敬できる方で、帝の信頼の厚い方です。

しかし退官されていますから、まず、ご本人の意向を確かめられたらどうでしょう」と中納言の大中臣清麻呂が言った。

大炊王を皇太子に擁立したときは、天皇が太政官をあつめて候補者の短所を並び立てたが、今回は、そうはいかない。太政官たちは、誰かが推薦した皇族の短所を口にしかねる。

文室浄三は高齢すぎると思っていた太政官たちが、この提案で安堵あんどした。

「そうです。まず浄三さまのご意向を伺いましょう」と石川豊成。

「どなたが伺いにいきますか?」と永手。

「国家の大事です。浄三さまのご都合を伺って、全員で参ったらどうでしょう」と真備が提言する。


七月二十二日。

文室浄三が指定してきた時刻に、太政官たちが浄三の邸に集まった。

拭き清められた客殿に、文室浄三が体を支えられて入ってきた。

「文室浄三さま。

昨日、文書でお伝えしましたように、次の日嗣として文室さまを推薦しております。

文室さまのご意向を伺いに参りました」と藤原永手が伝える。

「みなさま方のお気持ちは、ありがたく受けとらせていただきます。

しかし、わたしは高齢で重責に堪えられません。

この申し出は、固く辞退させていただきます。

次の皇太子の候補を選ぶのは、責任の重い勤めです。

法に従って、これまで国に貢献こうけんがあり罪科のない方を選出して、帝の許可をいただいてください。

この国に繁栄と安定をもたらせる方が、立坊されることを望んでおります」と浄三が、ゆっくりと言葉を述べた。

藤原永手と白壁王と大中臣清麻呂と石川豊成は浄三をよく知っていて、藤原田麻呂と石上宅嗣は会ったことがある。ほかの太政官は退官している文室浄三を間近で見るのは、これが始めてだ。

重厚で清々しく透き通った浄三の姿に、始めて近くで接した太政官たちは深い感銘かんめいを受けた。

「次の皇太子を選出するのは急務です。

ここで見送らせていただきますので、どうぞ仕事にお戻りください」と浄三。

白壁王が、涙を浮かべながら平伏した。吉備真備も藤原永手も深々と頭を下げている。ほかの太政官たちも自然にそれにならった。頭を下げたくなる威厳が、浄三には備わっていた。


太政官府に戻った太政官たちが、再び皇太子の選出を始めた。

「文室浄三さまが固辞されましたので、わたしは文室大市さまを推薦させていただきます」と吉備真備が言う。

「大市さまも天武天皇の二世王で、仲麻呂の乱の時から国を支え、その後は太政官として功績を積まれております。清廉せいれんな方です」と真備。

大市は六十六歳になる。

新しく参議になって太政官に加わった、藤原宿奈麻呂が発言しようと体を動かした。横に座っている弟の田麻呂が、そっと手で止める。

「分かりました。右大臣が文室大市さまを推挙されました。

大市さまは公平なお人柄で、次の皇太子としての資格を満たされております。

もうお一人、太政官として国に貢献された二世王として、ここに大納言の白壁王がおられます。白壁王は「大化たいか改新かいしん」を行って大きな功績を残された天智天皇の二世王で、帝の信頼も厚い方です。

わたしは、白壁王を推薦させていただきます」と永手が言う。

しばらく蝉の声だけが聞こえてきた。

次の発言がないのは、白壁王の擁立ようりつに太政官たちが引いたからではない。手順が狂ったのだ。

白壁王の擁立は、宿奈麻呂が口火を切るはずだった。宿奈麻呂が白壁王を推すと、永手や他の太政官が、天智天皇系の男性天皇を擁立ようりつすることへの危惧きぐを口にして、天武系の文室大市を押すだろう。

それに対して石上宅嗣が、なぜ天智天皇の男性王を皇嗣に立てないかの歴史を説明して、いまの唐は干渉しないと述べ、藤原田麻呂が天智天皇の功績を並べることになっていた。娘四人を北家に入れた宿奈麻呂は、北家を味方にするための二人の後押し役だ。

宿奈麻呂が田麻呂を見てから、対面する席にいる宅嗣を見た。宅嗣が目だけで宿奈麻呂に「そのままで」とうなずいた。

「ほかに、どなたかを推挙される方はいらっしゃいませんか」と永手。

「太政官として国にくされた二世王は、お二方のほかには残っておられないでしょう。他の方は亡くなられたか罪科を問われて流刑中です」と石川豊成。

「それでは文室大市さまと白壁王を、次の皇太子候補として審議しんぎに入ります」と永手。

白壁王が立ち上がった。

「わたしに重責じゅうせきになえるか分かりませんが、ご指名いただいてありがとうございます。

みなさまの討議の妨げにならないように、わたしは退席いたします。

存分に意見を交換されてください」

「器ではありませんが、ご推薦をありがたく思います。わたしも退席いたします」と文室大市も立ち上がった。

「わたしは、どちらが立坊されても異義がありません。体調がすぐれず、気分が悪くなってきましたので、わたしも退席させていただきます」と大中臣清麻呂も立ち上がる。

「どこで待機すれば、よろしいでしょうか」と白壁王。

「長引くと思います。一日では済みそうにありません」と真備。

「ご自邸へお帰りください。大中臣さん。お大事に。審議の内容と結果は、お邸にお伝えします」と永手。


白壁王と文室大市と大中臣清麻呂が出てきた。

太政官府の曹司ぞうしには、宿奈麻呂のあとを受けて兵部卿ひょうぶのかみになった藤原蔵下麻呂くらじまろがいて、いつのまにか太政官符の周りに衛士を配置している。

「どこの舎人でしょう?」と大市。

中衛府ちゅうえふに警護させて太政官をお守りしています。ご退出ですか?」と蔵下麻呂。

「兵部卿が自ら出向いておられるのですか」と清麻呂。

「はい。大中臣さま。汗をかかれておりますが、水をお持ちしましょうか」と蔵下麻呂。

「いや。少し涼んだら気分も良くなります」と清麻呂。

「では輿を、近くまで運ぶように手配してまいります。

文室さまと白壁王さまの輿も、こちらまでお呼びましょうか」と蔵下麻呂。

「結構です。われわれは話しながら、従者のいるところまで歩いて行きます」と大市。

「わたしもソロソロと行きますから、途中で拾ってくれるように伝えてください」と清麻呂。

「すぐに手配します」と蔵下麻呂が去った。

「具合はいかがですか。清麻呂さん」と白壁王。

「暑すぎてフラフラしますから、帰って休みます」と清麻呂。

皆勤かいきんで休まれたことがありませんのに」と大市。

「真備さんが変です。

昨日、今日の真備さんは、頑迷がんめいで頭の固い、ただの老人です。

急に人が変わったのでなければ、なにかの思惑があってのことだと思いましてね」と清麻呂。

「気がつきましたか」と大市。

「それなら、わたしは居なくても良いでしょう。

わたしも六十八歳になりますから、暑いのはどうもこたえます。

輿が来たようですから、では、ここで、お先に」と清麻呂が自分の輿のほうに去った。

「決まりましたね」と歩きながら大市が言う。

「永手さんが言い出されましたから、決まりです。

あとは、わたしを押す藤原氏が、真備さんと討議をするでしょう。

浄三さんの所に行くことは、まえもって聞いていましたか?」と白壁王。

「いいえ。真備さんが、兄とわたしを推挙すいきょすることも知らされていません」と大市。

「浄三さんは、お疲れになったのじゃないですかね」と白壁王。

「さあ。わたしには嬉しそうにみえましたよ。最後の花道を、真備さんが用意してくれたのでしょう」と大市。

「さっきは浄三さんとお会いできるのも、これが最後だと思って辛くなりました」と白壁王。

「兄を目にしたあとでなら、あなたが若く見えますよ。わたしなら、あと五年。あなたなら、あと十年は大丈夫だろうと、みなさんは思ったでしょう。

兄まで働かせるとは、まったく真備さんは人使いが荒いで男すね」と大市。

「いまは一人で、奮迅ふんじんしてくださってます。

真備さんの弁舌に抗弁こうべんできたら、だれと議論をしても勝てるでしょう。

わたしを推薦した藤原氏に功を立てさせて、引き立てることも出来ます。

そうすれば山部のために、藤原式家を取り立てられます。

まさに、いま、真備さんは、次の世代への布陣を敷かれておられますね」と白壁王。

「兄が仲麻呂を兵事使へいじしにして退官したように、これが終わったら真備さんも退官されるのでしょうか。

どうです。これから酒井部さかいべさんの邸に行って、一緒に過ごしませんか?」と大市。

「いいですねえ。これからは酒井部さんとも気安く会えなくなります」と白壁王。

「あなたは内裏に閉じ込められて、終わりのない道を歩みます。

兄弟や親族や友人に囲まれた、穏やかで暖かい余生は訪れません。

今夜は枕を並べて寝ませんか?」と大市。

紫香楽しがらき以来ですね。百済王敬福さんを呼びたいですねえ」と白壁王。

「あの人は賑やかで小太りだから、化けてでるのは不得意でしょうね」と大市。

「気の合う人と飲んで歌って舞える日は、彼岸ひがんに渡るまで持ち越しになりますね」と白壁王。


このころ子供が歌い踊う童歌わらべうたが、いちから広がって巷に流行った。


葛城寺かつらぎでらの前だよう 豊浦寺とようらでらの西にあるよ おしとど としとど

桜井さくらいの井戸の中だよう いい白壁が沈んでるよ おしとど としとど

国が栄えるかな 我らも栄えるかな おしとど としとど


おしとど としとどは、囃子はやし言葉で踊りをつける。

井戸の中の白壁は、井上内親王の夫の白壁王のことらしい。白壁王を即位させる応援歌のようなものだが、子供に童歌を歌わせて情報を攪乱かくらんしたり誘導ゆうどうするのは、中国大陸では古くから使われている兵法の一つだった。


 

八月一日に称徳天皇が亡くなったという知らせが、左大臣の藤原永手のもとに届いた。

その夜、奈貴王の手引きで百済王明信が宮城の外に出た。輿を置いて待ちかねていたのは嗣縄だ。

「明信さん。待っていました。ずっと、この日を待っていました。

お疲れさまです。どうぞ邸にもどって、ゆっくりお休みください」と継縄。

「いいから、早く乗りなさいよ!」と輿に乗りながら明信。

「はい。ただいま、まいります。

では奈貴王。いままで明信さんとの文使いをありがとう。失礼します」と継縄。

「気をつけて、継縄さん」と送り出した奈貴王が、「ズッと尻に敷かれても幸せなのかァ・・・」と輿を見送った。


八月二日の夕刻に、道鏡が法王の輿に乗ってお見舞いに現れた。

その輿で、称徳天皇のご遺体が運ばれてきた。内裏の中の寝殿にまで運ばれた輿から、ご遺体は安置された。

「どんな、ごようすでしたか」と吉備由利が、一緒の輿で帰ってきた飯高笠目に聞く。

「痛みには苦しまれました。痛みを和らげる薬を服用されていましたから、眠っておられることが多かったのですが、悪い夢をごらんになるのか、うなされておられました。色々なことが浮かぶのでしょう。

でも薬の量を控える日もありまして、そんなときは道鏡さんの支えで寺の庭などを歩かれました。

小さな池がありましてね。そこで笹船を流したり、草笛を吹いたりして楽しそうに笑っておられました。

あの笑顔を、光明皇太后さまにお見せしたかったと思います」と笠目が目元をぬぐう。

道鏡はハデな法衣を簡素な僧衣にかえて、看病禅師の頃のように隅で静かに坐っている。



八月四日。

称徳天皇の崩御ほうぎょが発表された。五十二歳だった。

官人たちを朝堂にあつめて、左大臣の藤原永手が称徳天皇の遺勅ゆいちょくを読みあげる。

「ことが突然だったので、諸臣らが合議して、白壁王は諸王のなかで年齢も高く、また祖父の天智天皇の功績も大きいから皇太子と定めて奏上すると、奏上のとおりに定めると、おおせになった」

この称徳天皇の遺勅で、六十一歳の白壁王が皇太子になった。

白壁王を立てるための正式な手順を踏んだだけだが、官人たちの反対もなかった。

六十一歳での立坊は最高齢で、それ以後も白壁王を超える歳の皇太子が立坊されたことはない。まさに天の時と人の和が掲げた、奇跡の皇太子だ。

すぐに三関さんげんを閉め、御陵をつくるためのつかさたちがえらばれた。御陵は長屋王の弟の鈴鹿王の旧宅に造ることになり、喪中期間は一年と決まった。


そのころ吉備真備は、文屋浄三の邸にいた。

浄三は、頭はしっかりしているのだが、食事のあとなどは、急に眠気が差してストンと眠ってしまうことが多くなった。

「ついに白壁が立坊りつぼうされましたか」と浄三。

「はい。つぎの世代が、どこまでやってくれるか分かりませんが、ここまでは事が成りました」と真備。

「若い人たちを信じましょう」と浄三。

「おつかれさまでございます」と真備。

「お互いに、よく、この歳まで持ちました。わたしは川を渡るときが来たようです。

あなたは、もう少し、わたしたちの企みの結果を見届けてから、おいでなさい。

あなたと同じときに生まれ合わせたことを感謝していますよ」と文屋浄三が真備の手を握った。



八月十七日。

前日に称徳天皇のふたなの薬師寺やくしじで行って、この日に山陵さんりょうに葬った。

道鏡はいおりをつくって、天皇の山陵に仕えはじめた。

気持ちはわかるが道鏡ほどの有名人が、山稜のまえに住みつかれるのは迷惑だ。それにまだ利用価値があるから、寺院や不穏分子ふおんぶんしが接触してきても困る。

そこで八月二十八日に皇太子の白壁王が始めての勅をだして、道鏡を下野しもつけのくに〈栃木県〉の薬師寺別当べっとうにした。

遠方の地に隔離したのだが流刑の扱いはせずに、先帝が愛した人だからと地方へ赴任する貴族の待遇で駅家うまやを使って送らせた。

道鏡を即位させようと積極的に動いた弟の弓削清人は、土佐とさ(四国 高知県)に流刑になった。

清人から頼まれて、道鏡を天皇とする神託を出せと宇佐八幡宮に働きかけた太宰府の主神かんづかさ習宣すげの阿蘇麻呂あそまろは、種子島に配流になった。他の弓削氏には、とくに目立った処分はなかった。



恵美仲麻呂が、息子の朝狩を陸奥国に送って造らせた伊治これはるのき(宮城県栗原市)と桃生ももうの(宮城県石巻市)の周辺もさわがしくなってきている。

大和朝廷の圧政に、蝦夷えみしの不満が高まり始めていた。これから白壁王がつぐ皇位には、都の寺院勢力と陸奥の蝦夷という足かせがついていた。



九月二十二日。

称徳天皇の七七なのなの(四十九日)が山階やましな寺で行われた。

さきに一年の喪と発表したが、四十九日が終わると称徳天皇の喪は終わったと宣言される。白壁王の即位に反対する勢力がないと判断したからだ。


即位まえで皇太子の白壁王は、称徳天皇が道鏡のために改装した東宮院とうぐういんを在所にしている。その間、新天皇のために改装が行われている内裏に、女官として戻ってきた女たちがいる。

静養していることになっていた飯高笠目は、元正天皇、宮子大夫人、聖武天皇、光明皇太后の葬送や法会を取りまとめた経験を乞われて、称徳天皇の葬送や法会を行うために呼び戻されて、おおやけに復帰した。

身内の服喪ふくもで内裏をはなれていた百済王明信も復帰をした。

法均ほうきん和気わけの広虫ひろむし)も配流されていた備後びんごのくに(広島県)から放免されて帰ってきた。

法均の弟の和気清麻呂も大隅おおすみのくに(鹿児島県)から戻って来るという。



十月一日。

称徳天皇の崩御から二ヶ月後、白壁王が大極殿だいごくでんで即位した。

のちの諡号しごう光仁こうにん天皇と呼ばれる天皇だ。

平城京で即位する三人目の男性天皇で、もちろん年齢は一番高い。

草壁皇子の血も藤原氏の血も入っていない、太政官としての経験がある六十一歳の天皇が即位したことで、宮中のふんいきが変わった。


十月八日。

すでに九月七日に辞表をだしていた右大臣の吉備真備に、即位直後の光仁天皇が詔をだした。

「先にだされた上表をみて、はじめて職を辞して家に帰りたいといっていることを知った。天皇のから、まだ一年も経っていないのに引退するとは、なんと早いことか。哀しみと驚きが交差して、すぐに答える言葉がない。

夜通し真備の姿を想って座っているうちに、朝になってしまった。そこで中衛ちゅうえ大将たいしょうの職は解くが、右大臣の職はそのまま帯びているようにせよ。

いまの季節は涼しくて、快適に過ごしていることと思う。真備よ。書面では意をつくせないことがある」

官人たちにとって、詔勅しょうちょくは天皇を知ることができるものの一つだ。宣命体せんみょうたいが使われたものや、規定どおりの文面は内記ないき草案そうあんを起したものだが、天皇の人柄がはっきり現れる詔勅もある。比べるまでもなく称徳天皇とは違う。

右大臣の職をそのままにしているが、これは引退したあとも右大臣としての待遇を与えるという意味で仕事をしろと言っているのではない。文室浄三と大市を立てて白壁王の擁立に対抗した真備へ、公の書面では伝えられない思いを込めた、しみじみとした名文だ。


光仁天皇が真備の引退を認める詔をだした日に、吉備真備は文屋浄三を看取みとっていた。

白壁王の即位を見届けた文室浄三は、七十七歳でった。

恵美仲麻呂と淳仁天皇の時代が招いた混迷期に、文屋浄三は国の根幹こんかんを守り抜いた大功労者だ。

浄三は朝廷からの鼓吸こすい(葬送の供をする兵部省の音楽隊)を受けず、簡単な葬儀にするようにと遺言して、最期まで自ら選んだ浄三という名に恥じない潔さを見せた。

弟の文室大市は、十月一日に正三位に昇位して中納言になった。



十一月六日に、光仁天皇は「法に従って、口に出すのも怖れ多い春日宮においでなさった父の志貴しきの皇子おうじを天皇として称したてまつり、また兄弟姉妹と朕の皇子たちを、すべて親王と内親王として冠位を上げ、しかるべくとりはかろうこととする。また井上いかみ内親王を皇后と定める、と仰せになる天皇のお言葉を、みな承れと申しのべる」と宣命体せんみょうたいの詔をだす。

十二年前に淳仁天皇が即位のあとで、父の舎人親王に天皇位を追贈して兄弟たちを親王にした先例に従ったのだ。


光仁天皇は皇太子に擁立されたときに、大学だいがくのかみをしていた山部王に従四位下を与えて自分の専任侍従にしていた。

この日、親王となった山部王に四品を与えたが、山部親王は四位のときとおなじ服を身につけて、目立たないように侍従として光仁天皇と行動をともにしている。

即位した光仁天皇が内裏に移ると、侍従の山部親王も内裏で暮らすようになった。山部親王は、まだ人目を引くことのない存在だった。


井上いかみ内親王は、光明皇后につぐ日本で二代目の皇后になった。

光明皇后の擁立が強引だったので、まだ皇后の定款ていかんができていない。皇后が住むところも決まっていない。

最初に光明皇后が住んだ皇后宮こうごうぐうは左京三坊二条にあって、今は官が酒造のために使っている。後半は法華寺ほっけじに移っているが、どちらも宮城の外にあり、法華寺は藤原氏の氏寺で、もともと藤原氏の持っていたものだった。

そこで聖武天皇の母の宮子皇太夫人が住み、淳仁天皇が御座所ござしょにしていた中宮院を井上皇后のために使うことになった。皇后のことを中宮とよぶのは、もっと先の時代になってからだ。

皇太子が決まっていないから、井上皇后は他戸親王を連れて中宮院に移った。儀式の席で並ぶことはあっても、光仁天皇が中宮院を訪れることはなかった。



冬の雨が降っている。東大寺の庭にも落ち葉を塗らして雨が降っている。

尋ねてきた興福こうふくしょう僧都そうづ慈訓じきんが、襟元に巻いた布を合わせた。朝夕の冷え込みが強くなって、七十九歳になる慈訓にはこたえる。

「その親王のことは、良くごぞんじなのですか」と慈訓が聞く。

「ハーァ?」と東大寺のだい僧都そうづ良弁ろうべんが耳に手を当てた。八十一歳になる良弁は耳が遠い。

良弁と慈訓は、二人とも聖武天皇の看護禅師の出身で、仏教が保護された時代に寺院の勢力を確かなものにした政治力のある僧侶だ。

「その親王を、良くご存じなのですか?」と慈訓が声を大きくした。

「弟子は何千人もおります」と良弁も大きな声で答える。耳は遠くても経をあげるから声は通る。

称徳天皇の崩御のあとで良弁は一気に老け込んだ。耳が遠いだけではなく耄碌もうろくしてきたようだ。

弟子が多くて、その僧のことが良く分からないのだろうと慈訓は解釈した。粗略そりゃくには扱っていないはずだ。

「わたしが預かっても良いのですね」と興福寺の慈訓。

「預かり物は、いつ届くのですか?」と東大寺の良弁。

慈訓は会話を続けるのをあきらめて、そぼ降る雨を眺めた。

東大寺の濡れた瓦の風情が美しい。

称徳天皇は良弁によって出家し、良弁の弟子の道鏡どうきょうを愛したが、重祚してからは寺の勢力は押えられ気味になった。

光仁天皇が、どのような政策をとるのか分からないが、仏教促進政策をして欲しい。道鏡は思ったより役に立たなかったが、それでも法王局を持っていて、ある程度は寺の便議を図ってくれた。道鏡が失脚したいまは、寺と朝廷を繋ぐ別のきずなを見つけなければならない。

しばらくして東大寺別当べっとう円智えんちだい法師ほうしが、若い層をつれて部屋に来た。

「お見えになりました」と円智。

親王しんのう禅師ぜんじさまですか」と慈訓が問う。

入ってきた若い僧が、黙ったままで慈訓の目を見た。しずまった海のような目をしている。

「お父上が即位されました。あなたさまは親王になられます。これからは親王禅師とお呼びいたします。こちらに、お座りください」と円智が若い僧に説明して、上座を示した。

自然に流れるように形良く動いて、若い僧が上座に座った。そのまま黙っている。

「わたしは興福寺の慈訓と申します」とさきに慈訓が挨拶をした。

「わたしは早良と申します」と早良親王さわらしんのうが、慈訓に目を向けて軽く頭を下げる。

十三歳で東大寺にあずけられた山部親王の弟の早良は、二十歳の清々しい僧になっていた。

「新天皇のご即位を、お祝い申し上げます」と慈訓。

早良親王が慈訓を見て軽くうなずく。

「つきましては親王禅師さまを、これからは興福寺でお預かりしたいと思いますので、お移り願えましょうか」と慈訓。

静かな眼差しを慈訓に向けたあとで、表情を変えずに早良親王がよどみなく話し始めた。

「興福寺は、華厳けごんしゅう法相ほうそう宗、三論さんろん宗、りつ宗、倶舎ぐしゃ宗、成実じょうじつ宗の南都六宗の一つである法相宗の官寺です。東大寺は華厳宗総本山です」

「はい。法相宗は華厳宗も受け入れています。

お移りになられても問題はございません」と慈訓。

「華厳宗は法相宗と両宗りょうしゅう兼学けんがくで伝えられています。

あなたは、興福寺の慈訓少僧都ですか。慈訓少僧都は華厳宗も修めました。天平十二年の華厳経の法会ほうえで副講師をつとめられて、天平十四年には・・・」

東大寺別当の円智が、そっと早良親王の腕にふれた。早良が言葉を止めて円智の目を見る。

「興福寺には法相宗の書が集められています。親王禅師の部屋も広くなります。

そちらに移られますか」と円智が問う。

「部屋の広さはどのぐらいでしょう。どのような構造になっておりますか。向きや窓の方向はどうなっていますか」と早良。

「調べるまで、すこしお待ちください。

親王禅師の蔵書を並べて整理ができるようなら、移られてみますか」と円智。

「考えておきます」と早良。

「わかりました。では、お戻りください」と円智。

「親王禅師と少し話をしたいのですが」と慈訓。

「わたしは、ここで仕事をします。親王禅師さまは、お戻りになって、読書のつづきをなさってください」と円智が、早良親王をうながす。

早良親王は、慈訓と良弁に会釈をして静かに部屋から出ていった。

「円智。なぜ遮った。興福寺にお連れするのに反対か?」と慈訓。

いてはいけません。準備される時が必要です」と円智。

「わたしのことを良く知っておられるようだが、なにか問題でもあるのか?」と慈訓。

「何でも覚えてしまわれますから、どなたのことも良くご存じです。

このままの環境におられたら、いずれは立派な知識僧になられるでしょう。

興福寺にお移しするのは、親王となられたからでしょうか?」と円智。

「良弁さまがお元気なら問題はないが、お歳を召された。

興福寺は藤原氏との関わりが強い。興福寺のほうがお世話も行き届くし、親王禅師も心強いのではないか」と慈訓。

「白壁王さまから・・・」と言ってから円智が言い直した。

「帝から、ご喜捨きしゃとご注意をいただいておりますから、こちらに来られたときから気にかけておりましたが、親王禅師さまは、決まった環境と日常を必要となさる方でございます。

いまは、ここでの生活に馴染まれておりますから、環境を変えることが心配されます」と円智。

「年内に興福寺に移っていただきたいが、環境が変わると、さわりでもでるのか?」と慈訓。

「ご自分のからに閉じこもってしまわれます」と円智。

「閉じこもる・・・」と慈訓。

吉備真備と一緒に唐から帰国した玄肪げんぼうは、興福寺で法相宗を広めるのに尽力じんりょくした。私生活では聖武天皇の母の宮子皇太こうた夫人ふじんと、とかくの噂のあった僧だが、法相宗への貢献は高く、いまでも玄肪の影響が興福寺に残っている。

だから慈訓にも宮子皇太夫人の病への知識があった。おそらく早良親王禅師も、同じような内的な傾向がみられるのだろうと慈訓は理解した。

耳の遠い良弁は、ずっと雨を見ている。慈訓も黙って外の雨を見た。



七七一年。

光仁天皇が即位して三ヶ月。始めての正月を迎えて、大極殿だいごくでんで正月の朝賀ちょうがが行われた。

服喪は切りあげられたが、まだ称徳天皇が崩御されてから一年が経っていない。

新天皇が即位した年に行う大嘗祭だいじょうさいも、今年に延ばしている。正月の朝賀の儀も、そこそこ押えた地味なものになった。

朝賀のときには天皇と皇后が玉座ぎょくざに坐り、親王と内親王が並ぶのだが、これも控えめにされた。


光仁天皇には、井上皇后を母とする聖武天皇の外孫になる他戸おさべ親王があることは知られている。いずれ必ず皇太子になるはずだが、まだ幼く立坊前だからと光仁天皇は朝賀に出さなかった。それに合わせて、ほかの親王たちも欠席させた。

だから官人たちは親王に関する知識も持っていなかった。

光仁天皇には五人の息子がいた。

長男の開成かいじょうと三男の早良さわらは出家している。四男の稗田ひえだ親王は十九歳で、五男が十歳の他戸親王だ。

次男で三十四歳の山部親王は、侍従として従ったから親王だと気がつく人がいない。

昨年の十一月六日に、光仁天皇は父に天皇位を送って兄弟姉妹を親王と内親王にしたが、すでに親王になる兄弟は全員が亡くなっている。

だから、この年の朝賀では六人の内親王ないしんのうだけが大極殿に座った。

光仁天皇の姉妹は、同母姉の難波なにわ内親王、異母姉妹で文室大市の妻の坂合部さかいべ内親王、衣縫きぬい内親王の三人が残っている。

娘は、井上皇后を母とする酒人さかひと内親王と、やまとの新笠にいがさの娘で市原王の夫人だった能登のと内親王と、県主あがたぬしの島姫しまひめの娘の弥努摩みぬま内親王の三人がいる。

実は官人たちが並ぶのは朝堂院だから大極殿のようすは見えないのだが、六人の内親王が出御されたと聞くだけで、袈裟をつけた称徳天皇と道鏡の朝賀の儀とは変わった雰囲気は感じられた。



一月二十三日。

「法に従って、井上皇后の子の他戸親王をたてて皇太子とする。このことを良く知ってお仕えするように」という光仁天皇の詔で、十歳の他戸親王が皇太子となった。

皇太子は東宮院とうぐういんに住むのだが、すでに井上皇后が中宮院に連れて移り住んでいたので、成人するまで、そのままにするようにと光仁天皇から中宮院に通達があった。

皇后と親王と内親王を決めた去年の十一月六日か、その直後に皇太子の宣下せんげをしていれば、他戸皇太子は東宮に入っただろう。幼い皇太子のために、井上皇后が東宮に同居することもありえた。

なにげなく自然に見えるが、皇太子宣下の日を三ヶ月近くずらすことで、光仁天皇は井上皇后が他戸皇太子を中宮院に連れて行くように仕向けた。東宮は「仲麻呂の乱」のときに坂上苅田麻呂たちが恵美訓儒麻呂を待ち受けた少子部門ちいさこべもんの側で、内裏や官庁がある宮城の東の区域にあるが、淳仁天皇が暮らした中宮院は宮城の中央区域に立地する。

このタイムラグを使った周到な仕掛けは、このときだけでなく、これからも行われていく。



二月十三日から、光仁天皇は行幸にでかける。

この日は交野かたのに泊まり、次の日には難波なにわのみやへ入った。

官人たちを新しい体制になじませるために、即位直後の天皇は短い行幸をくりかえす。すでに昨年の十一月にも、光仁天皇は御瓶原みかのはら(恭仁亰)にでかけている。

難波宮に泊まって二日目の夜、それまで元気にみえた左大臣の藤原永手が倒れた。

「今夜は冷えこんでいます。この宮の廊下は寒いですから、宴の席でお酒を召して廊下にでられて倒られたのなら気温の差のせいでしょう。

部屋までお連れになっていますが、動かさず安静になさってください。

回復されるためには、ともかく動かさずに静養なさいますように」と行幸に同行していた医師が見立てた。

寒暖の差が大きいときに、老人に起こりやすい病だという。

吉備真備が登庁をやめたので大臣は永手一人だったから、光仁天皇は大納言の大中臣清麻呂に大臣の政務を代行させた。


「寒いな」と奈貴王が寄ってきた。

侍従たちが使う部屋の火桶ひおけ熾火おきびを、山部親王が火ばしでつついている。

「左大臣は、高いイビキをして眠っておられるそうだ。

きれいな白い手をしているな」と奈貴王が、山部親王の手を見ていう。

「奈貴王。わたしに対しては尊敬語をつかい、敬意をしめしてもらいたい」と山部親王。

「ほかに人がいれば、そうする。だが一人ぐらい、タメ口で話せる相手を置いといた方が良いぞ。でなきゃ涙や怒りが心に溜まって腐っちまう。だろ?」と奈貴王。

「かもな」と山部親王。

「それに、わたしは、おまえの影だ。人ではない。

久米若女さんや、吉備由利さんが心配している」と奈貴王。

「左大臣のことか」と山部親王。

「それもあるが、おまえは三十四歳にもなって子がいないそうだな。

夫人もいない。もしかして女嫌いか」と奈貴王。

山部が、からかうように目を流して奈貴王を見た。

「たしか、おまえの方が、わたしより三歳は上のはずだ」

「ああ。三十七歳になる」と奈貴王。

「子供も夫人もいないだろ。男が好きなのか?」と山部親王。

「バカか。家族をもつのが、めんどうなだけだ。

女も子供もいるにはいるが、信頼できる人に預けて表向きは認めていない。

暮らしに困らないようにはしている」と奈貴王。

「家系を残す気がないのか」

「志貴皇子の家系なら、お前たちが残してくれるだろう。

まあ、いいか。話そう。

あのな。むかし好きな娘がいた。

その娘のところに、別の男が通っていることを知った。

若かったから怒って、わたしのことは忘れろと娘を突き放した」と奈貴王。 

「その娘が忘れられないのか」と山部親王。

「未練もなかった。別れたあとの夏のはじめだ。

忍海おしうみの沼に、その娘が浮いていたと伝え聞いた。

腹が目だって大きかったらしい」と奈貴王。

「幾つのときの、はなしだ?」

「娘は十六歳で、わたしが十五歳だ。娘が死んだという沼に行ってみたよ。

木漏れ日がチラチラしていて蓮の花が咲いていた。沼が波立って光っていた。

綺麗だった。ただ綺麗だと思った。人ごとみたいで悲しくなれなかった。涙も出てこなかった。

わたしは軽薄けいはくで無責任で薄情はくじょうな男だ。一緒にいると家族を不幸にするような気がする」と奈貴王。

「十五歳だろ。美しいと思ったのは怖かったからじゃないのか。

腹の子だって、おまえの子と決まっている訳じゃない」と山部親王。

「そんなことより、おまえだ。どうして子がいない。

おまえが子孫を残せないのなら、なんのために悪巧みに手を貸さなきゃならない」と奈貴王。

「その気になったら、つくってみせる」と山部親王。

「力んでいうことか」

「血族におぼれることが恐い。己を見失いたくない。そんな自信のなさが好きでもないし知られたくもない。よそう。こんな話。

左大臣が倒れたら、だれが藤原氏をまとめるのだろう。

南家は若いし、京家は願い下げだ。

良継(宿奈麻呂)を引きあげるのは早すぎて、周囲から反感がでる。

藤原氏が割れたら、やっかいだ」と山部親王。

「左大臣が快復すればいいがな。

そうでないときは、すべてを早めるしかないか」と奈貴王。

「これから先は敵しかいなくなる」と山部親王が火箸で炭火を置きなおした。

光仁天皇の即位のあとで、式家の宿奈麻呂は良継よしつぐと、雄田麻呂は百川ももかわと改名している。



二月二十一日に、光仁天皇が平城宮に戻った。

難波京で休むようにと勧めたのだが、それを辞退して藤原北家は永手を輿に乗せて都の邸にもどした。都にもどった日の未明に、左大臣の藤原永手は息を引きとった。五十七歳だった。

孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇の時代を太政官として生きた永手は、光仁天皇のあとに幼い他戸皇太子が即位するのを危ぶんでいた。光仁天皇や山部親王にとっては、もっと長く藤原氏をまとめてほしい人だった。

藤原北家に残された不比等の孫になる三世代目は、三年まえから参議で太政官をしている五弟の魚名うおな(五十一歳)と、七弟の楓麻呂かえでまろだけになった。

すでに四世代目に入っている藤原南家は、豊成とよなりの四男で四十三歳の参議の縄麻呂ただまろと、同じく参議で四十四歳になる次男の継縄つぐただと、豊成の三弟になる乙麻呂の息子で四十四歳になる黒麻呂が目立ち始めたが、五十代、六十代はいない。

京家の浜成は四十七歳だが、京家からは参議がでていない。

式家の良嗣よしつぐ(宿奈麻呂)は五十五歳で正三位なので、年だけなら藤原一族の最年長になったが、太政官としての経験が一年にも満たないし性格が単純だ。歳は良嗣より若いが、北家の魚名のほうが良継より三年ほど長く太政官をしている。魚名は熱心な仏教徒だが、永手と真盾の兄たちに守られていたから、政治的な手腕があるかどうか分からない。

永手に代わって、藤原一族をまとめられる人がいなかった。


永手の死去に光仁天皇が詔をだす。

「悔しいことよ。悔しいことよ。今日からは大臣の奏上が聞けなくなるのか。明日からは大臣の姿が見えなくなるのか。月日が重なると、哀しいことばかりが起きてくるのか。歳月が積もると、寂しいことが増してゆくのか。

朕の大臣よ。朕は春秋の美しい景色を、だれと楽しめばよいのか。山川の清らかな景色を、だれと一緒に見に行って心を晴らせばよいのか。嘆いている。うれっている」

悔しい、哀しい、寂しい、嘆く、憂うと感情を表す言葉を重ね、月日が重なる、歳月が積もると同義語を連ねて心情を広がらせる、みごとな詔だ。

歌人として見識けんしきが高いと自認している京家の藤原浜足はまたりは、言葉をくり返す文体に居心地の悪さを覚えた。京家から参議がでていなくても、歌人としては一流だと割り切っていたつもりだが、光仁天皇の詔が浜足を刺激した。

この独特の表現は、このときから八十年ほど後に、父系では光仁天皇の玄孫げんそん夜叉孫やしゃまご、孫の孫)になり、母系では曾孫ひまごになる歌人の在原ありわらの業平なりひらが、和歌としてよみがえらせている。



三月十三日に新しい閣僚が発表された。

右大臣は大中臣清麻呂(元大納言)従二位。内臣ないしんが藤原良継よしつぐ(宿奈麻呂、元参議)正三位。大納言は文屋大市(元中納言)正三位と、藤原魚名うおな〈元参議〉正三位。中納言は石川豊成(留任)正三位と、藤原繩麻呂ただまろ(元参議)従三位。

参議さんぎは減ったがそのままで、これまでの石上宅嗣、藤原田麻呂、藤原継縄、多治比土作だけになった。

中務卿なかつかさのかみは四品の山部親王。式部卿しきぶのかみが従三位の石上宅嗣(参議兼任)。太宰帥が正四位下の藤原百川ももかわ(雄田麻呂)。

百川は、右大弁うだいべん内堅ないじゅ大輔だいすけ兵衛ひょうえのかみと越前守を兼任しているから、都に留まったままの遙任ようにんで太宰帥になった。


この人事で一番に注目されたのは、内臣になった藤原良継だ。内臣は大納言と職種や封戸(サラリー)を同じにするという光仁天皇の詔がついている。

大納言は中納言から選ぶことになっているが、良継は中納言の経験がなく、参議になってからも一年弱と日が浅い。それを詔で大納言とおなじ待遇の内臣に取り立てた。

これまでも中臣鎌足かまたりと藤原房前ふささき(北家の始祖)が内臣をしたことがあるが、内臣は令外りょうげかんと呼ぶ律令にはない役職だ。

藤原式家が躍進やくしんをし始めた。そして式家には要職につける四十代から五十代になった藤原氏三世代目の孫世代が、このときは四人も残っていた。


中務卿になった四品の山部親王にも、注目が集まった。

中務卿は天皇に助言をしたり、詔勅の相談にのったり、天皇への伝言や面会許可を受けつける仕事をする。いままでも山部親王は専任侍従として個人的に光仁天皇を支えてきたが、それが公職におさまって表へでた。

中務省は天皇と直結していて詔勅に関わるので、八省の中でも一番上の省とされていて、下級職をいれると二百人ほどの官人が所属する。

これまでは長官である中務卿には、四十代後半から五十代の熟年の高官が任命されていて、いつでも参議の太政官になれる要職だ。

そこに、まだ三十四歳のの天皇の親王が着任した。

現役の天皇の息子が官職に就くことも、天武天皇が亡くなった六八六年以来のことで実に八十五年ぶりになる。

この空白も、天武天皇が亡くなったあとに、大后おおきさきの持統女帝が即位したことで起こった。天武天皇には十人の皇子があったが、持統天皇には草壁皇子しか子供がいなかった。

草壁皇子は即位をせずに亡くなったが、草壁皇子も息子は文武もんむ天皇だけしか恵まれなかった。その文武天皇を即位させるために祖母の持統天皇は、文武天皇の母の元明げんめい天皇に譲位した。

若くして亡くなった文武天皇も、息子は聖武天皇だけだった。聖武天皇を即位させるために、元明天皇は娘の元正げんしょう天皇に譲位した。

聖武天皇も息子は安積あずみ親王だけだったが、恭仁京で若くして亡くなっている。

だから八十五年間も、現役の天皇の親王が官職についたことがない。高市皇子、新田部親王、舎人親王らは、先代か先々代の天皇の皇子だった。

六十二歳まで皇嗣系官人だった光仁天皇の家族に関しては、即位後に親王や内親王に品位を与えているので名は聞いているが、そのほかのことは知られていない。これまでの天皇と違って、六十二歳までの私生活を知られていないからだ。

若くして中務卿になった山部親王は、やがて光仁朝の重鎮じゅうちんになるだろうと、官人たちが注目する存在になった。


それから二十日ほど後の閏三月の始めの人事で、光仁天皇の甥で、娘の弥努摩みぬま内親王の夫の神王みわおうおお舎人寮とねりりょうのかみになった。

山部親王が長官をしている中務省の下には、天皇の生活に直接かかわる大舎人寮(天皇に仕える舎人や女官を管理)、図書寮づしょりょう(天皇の書籍の管理や本作り)、内蔵寮くらりょう(天皇の宝物や日常品の管理と調達)、縫殿寮ぬいどのりょう(宮廷の衣装の管理と調達と洗濯)、陰陽寮おんみょうりょう画工司がこうのつかさ(絵師)、内薬司ないやくのつかさ(医療機関)、内礼司ないれいのつかさ(礼儀の指南をする)があるが、中宮識ちゅうぐうしきも入っている。中宮職は井上皇后のための役所だった。

この人事もさりげなく見えて、大舎人寮頭の神王と中務卿の山部親王が、職務上の報告をかねながら頻繁に情報を交換して、中宮院を見張れるように工夫されていた。



閏三月の末に、皇后になる前に井上皇后が住んでいた邸にいるあがた犬養いぬかいの吉麻呂よしまろが、邸の一画に残されて住んでいる酒人さかひと内親王のところに息を切りながらやってきた。

難波なにわ内親王さまが、お立ち寄りになられるそうです」と吉麻呂。

「どなたが?」と酒人内親王の女従じょじゅう(女性の使用人)のかさの理恵りえが聞く。

「帝の姉君です。もうすぐお着きになりますから、お支度を」と吉麻呂。

「知ってる?」と理恵が、おなじ女従の山背やましろの毛野けのに聞くと、毛野がうなずいた。

「わたしは、お迎えしてまいります」と吉麻呂がアタフタと出ていった。

「どなた?」と理恵。

「いつだったか中院の庭に座らせて、井上さまが扇を投げつけた方よ」と酒人さけひとの小鈴こりん

「朝賀のときに、ごあいさつをしてくださったわ。シャキシャキして良い感じの人だった」と十八歳になる酒人内親王。あでやかな娘になっている。

「お支度って、なにをしろって言うの」と理恵。

「とくに飾るものもないし、このままで、いいんじゃない?」と小鈴。

そのとき庭を通ってきた輿こしから、おばあさんが下りてきた。

「思ったとおり、ここは敷地の隅になるのね。歩かなくてよかったわ」と六十七歳になる難波内親王が、つぶやきながら部屋の外に立った。

「では、わたしは、これで」と案内をしてきた吉麻呂。

「あなたにも聞きたいことがあるから、同席なさい」と言いながら、難波内親王が部屋に上がってくる。

「思っていたより、住み心地が良さそうな住まいでホッとしましたよ。

酒人さん。伯母の難波です。おじゃまします」と難波内親王。

「よくいらしてくださいました」と酒人内親王が迎え入れる。

「急に来たのですから、堅苦かたぐるしい礼儀れいぎは抜きにしましょう。

ちょっと、お話がありましてね。思い立ってやってまいりました。

その前に、そこの県犬養のあなた」と難波内親王が吉麻呂の方を向いた。

「はい? わたしですか?」と𠮷麻呂。

「あなたは、わたしに家令かれい(親王、内親王、公卿の邸を取り締まる人)と名乗りましたね」と難波内親王。

「はい。当家の家令をしております県犬養吉麻呂です」

「当家といいますと、この邸は、どなたのものですか」と難波。

「井上皇后さまの、お邸でございます」と𠮷麻呂。

「では、あなたは井上皇后の家令ですか」と難波。

「はい」

「輿で通り過ごしてきましたが、ほかにも、どなたか住んでいるようですね」と難波。

「はい。井上さまと伊勢から一緒に戻られた女官たちが、中院ちゅういんで暮らしております」と𠮷麻呂。

「皇后が住んで居られたところを主殿と呼ばずに、ここでは中院と呼ぶのですか。

そこに伊勢の女官とが、住みついているのですね」と難波。

「はい」

「そして、酒人さんは、この別棟に住んで居られるのですね」と難波。

「はい」と𠮷麻呂

「今日、うかがったのは、この邸のようすを見るためと、酒人さんの意見が聞きたかったからです。

少しむずかしい話になりますが、あなたも座って聞きなさい。

いいですか。帝と皇后は、本来、個人の邸をお持ちになりません」と難波内親王。

「どうしてですか?」と酒人。

「わたしは、ただの年寄りですから、くわしいことは知りませんよ。

天皇も皇后も宮城に住んでおられます。国が天皇のものですから、私邸を持つ必要がありません。宮城の外で帝が使われるのは離宮で、国の財産になります。

今の帝は官人でしたから、私有財産を持っていました。

これを、どうするのかと議論して決めたらしくてね。

邸や別業も含めて帝の個人資産は、相続の法に準じて家族に渡すことになったそうです。分かりますか?」と難波。

「はい」と酒人内親王。

「この井上さまの邸は、聖武天皇の命で国が用意した内親王のための邸だそうです。井上さまに下賜かしするという勅がないそうですから、皇后の個人資産にはなりませんので国に戻さなければなりません」と難波。

「えっ?」と酒人内親王。

「ここは没収されるのですか?」と理恵。

「そう決まったらしいのね。そこで、もう一度伺いますが、県犬養の・・・あなた!

この邸は、どなたのもので、あなたは、どなたの家令ですか」と難波。

「ええ、はい」と古麻呂。

「皇后は中宮院に住んでおられて、皇后の身の回りのことは中宮職ちゅうぐうしきがしております。封戸ふうと俸禄ほうろくも中宮職が管理していますから、こちらに送られて来ません。ここは皇后が住んでおられた旧邸です。

そこで、あなたにお尋ねします。

去年の十一月から五ヶ月間、伊勢の女官と名乗るものや、あなたの衣服や食事代や邸の維持費は、どこから出ているのですか?」と難波内親王が吉麻呂に聞いた。

「あ~ァ、はい。どこからと言われましても、はい」と吉麻呂。

「去年の十一月六日に、酒人も四品の内親王に定められました。

内親王の俸禄や封戸は、いま住まわれているここに送られていますが、酒人さんは受けとっていますか?」と難波。

「いいえ。わたしに収入があることも知りません」と酒人。

「えーっと、何とかの…あなた! 酒人の収入は、あなたが受けとったのですか?」と難波。

「あ~ァ、いいえ。はい」と𠮷麻呂

「どっち? あなたが受けとって、この邸を管理していたのですか」と難波。

「え~っと、今までと同じように、はい。はい」と吉麻呂。

「酒人は知らないと言っていますが、酒人に報告はしましたか」と難波内親王。

「ただいま、ちょっと、こちらでは分かりませんので、はい」と𠮷麻呂。

「すぐに、この五ヶ月の酒人の収入がどうなっているか調べてきて、わたしに知らせなさい」と難波。

「はい。ええ。はい」と吉麻呂が青い顔をして出ていった。

「おばさま。わたしに収入があるのですか?」と酒人内親王が聞く。

「ありますよ。まえから女王として国から補助金が出ています。これは井上さまが管理されていたと思いますが、いまは状況が変わりました。

酒人さんは四品内親王として、二品だった井上さまよりは少ないですが十分な収入があります。

四品の内親王は自分の邸を持ち、自分の従者を使うことが出来ます。舎人寮も舎人や女官を派遣してくれます」と難波。

「わたしの邸ですか?」と酒人。

「そうです。それで、あなたの意見が聞きたくてやってきました。

あなたは帝が使っていらした邸を、譲渡して貰い自分の資産にすることも出来ます。

井上さまが住んでいらした邸を含め、ほかの邸を朝廷に用意してもらうこともできます。どうしたいかしら?」と難波。

いきなり聞かれて、酒人内親王が首をかしげる。

「そうねえ。急には決められないでしょうねえ。

まず弟の邸を見たらどうかしら。これから見に行きましょうか?」と難波。

「収入がどうなっているか調べるのじゃ?」と酒人。

「いいの。あとで役所に届けておきますから役人が処理するでしょう。

ところで、酒人さん」と難波内親王が顔を引き締めた。

「はい」

「もしも、お父上とお母上の、どちらかを選ばなければならないとしたら、あなたは、どちらを選ぶのかしら?」と難波が聞く。

酒人内親王が不審そうな顔をして、難波をじっと見つめた。

「あ・・・ごめんなさい。こんなことを子供に聞くなんて、わたしは馬鹿ね。

子供が親を選べる訳がありません」と難波内が上を向いて涙目をごまかした。

そのようすを、酒人内親王が注意深くうかがっている。

「でも、酒人さん。何が起こっても、それから、あなたが何をしようと、わたしは、あなたの伯母ですよ。いつでも味方です。困ったときは頼ってちょうだい」と難波内親王。

酒人内親王が考えながら「はい」と答える。

「それより、ともかく酒人さんの邸を決めなくちゃ。

帝が使っていた邸を見に行く?」と気持ちを切り替えて難波内親王が聞く。

「はい。見てみたい」と酒人。

「わたしは隣に住んでいるから、わたしのところにも寄ってちょうだいな」と難波内親王。

「行きましょう。おばさま」と酒人内親王が、難波内親王に調子を合わせた。



桜が咲き始めた四月の始め。

光仁天皇は夜の御座所ござしょで、中務卿の山部親王と二人きりで話し込んでいる。

「酒人内親王が、自分の邸を持ちたいと言ってきました。

手配なさったのは難波さまですが、帝の邸を贈与してほしいそうです。

どうされます?」と山部親王。

「あれは、おまえに与えるつもりだ」と光仁天皇。

「それはうれしい。いただきます」と山部親王。

「では酒人には、別の邸を用意させよう」と光仁天皇。

「邸ですか。邸ならいりません」と山部親王。

「なにを、まちがえた? 酒人を、おまえにやるとでも思ったか」と光仁天皇。

「それなら、ありがたくいただこうと」と山部親王。

山部親王と酒人内親王は異母兄妹だ。子供に悪影響がでることが分かりはじめていたが、まだ異母兄妹の婚姻は認められている。

「ほんとうに酒人が欲しいのか」と光仁天皇。

「容姿に、ぞっこん惚れました」

「おまえは、おまえ自身にしか惚れないだろうと思っていた」と光仁天皇。

「まだ野暮ったいが、あのつややかさは絶品です。

あの容姿で父上の娘ですから、それだけでも大切にします。

わたし好みの頭脳と性格がよもっていたら、申し分なく好ましいのですが」と山部親王。

「山部。今すぐ、ここで死ねるか」と光仁天皇が扇を山部親王の額に向けた。

「子供のころに父上から額に太刀を突きつけられて、すぐに死ねるか。死ぬ気になって、見返せと何度も試されましたね。

まだ幼かったから、太刀先に近い額がチリチリ痛むように感じました」と山部親王が微笑む。

「覚えていたか」

「いつでも死ぬ気になれ。死ぬ気で相手をにらめ。たいていの人は死を怖れている。死ぬ気になった人間に立ち向かえるものは少ない。

それは、わたしの性格一部になっています」と山部。

「酒人は娘だ。幼い少女は、この世で最も弱い人間だ。

他戸おさべが生まれてから、あの娘にも死ぬ気になれと教えた。いつでも身を捨てる覚悟さえ出きれば、動揺することが少ない。どんなときでも冷静なら、活路を見つけることが出来る。それを身体に染みつくように教えた」と光仁天皇。

「酒人が生き抜くためにですか」と山部。

「邸は酒人に譲ろう。好きに改装をするようにと伝えてくれ」と光仁。

「はい。それと難波さまが、皇后さまが住んでおられた邸にいる従者の身元や、酒人に渡した封戸の使い道に不正が行われていないかを調べて欲しいと告発されました」と山部親王。

「姉上が動いてくださったのか。子供のころから姉上には世話をかけっぱなしだ。

わたしを守るためだけに、姉上は生涯をついやしてくださった。

いいか。皇后の従者に不正があったら厳しく取り締まり、都の外に追放しろ。

皇后は姉上を土下座させて、早く死ねと怒鳴るような女だ。

姉上が関わったと知れば、腹を立てて余計なことを口走るだろう。よく見張っておけ」と光仁天皇。

みわが中宮院に仕える舎人から、皇后の日常の言動を細かく聞き出しています。しかし悪口をおっしゃったぐらいでは動けません。

ほんとうに皇后が、怪しげな祈祷きとうをされたことがあるのですか?」と山部親王。

「度々していたと聞いている。自重しているなら、まえのことを持ちだせば良い」と光仁天皇。

「それでは粗雑そざつすぎませんか。冤罪えんざいだと思われてしまいます」と山部王。

「今回は、わたしが冤罪を押しつけたのではないかと思われても良い。

呪詛の罪は冤罪を押しつけるのに適しているが、確たる証拠を示すには呪詛を行っている現場に踏み込まなければならない。それはむずかしい。

どんな手の込んだ策を労しても、お前が皇位を狙ってしたと思われるだけだ」と光仁天皇。

「わたしをかばってのことですか」と山部王。

「そうではない。わたしの意志をあらわに示して主導権を握るためだ。

度量が大きい物わかりが良いと評されるだけでは、一家を治めることは出来ても一国は治め切れまい。

わたしが、わたしの家族を裁くだけのことだ。

どんな憶測をしようと、わたしをあなどるわけには行かなくなる」と光仁天皇。

「即位したら、その手が仕えますか」と山部親王。

「時には徳を見せ、時には恐怖を与えて、わたしは国の機構を変革する。

大宝律令たいほうりつりょう養老律令ようろうりつりょうが定められたころとは時代が違う。今ある法を是正ぜせいして細則を加えよう。

そして官人を削り、官職を簡素化して経費削減をはかる」と光仁天皇。

「始めに大鉈おおなたるえば、軽く見られることはありません。

酒人の処遇しょぐうは、どうするつもりですか。

内親王として残すならば、内親王は皇嗣系としか婚姻できません。相手次第で、第二の塩焼王や父上が出てくる可能性があります」と山部親王。

「酒人は内親王だ、わたしの許可なく婚姻をはできない。

いいか。山部。おまえにとって皇后と皇太子は他人だが、酒人には母親だ。

あの娘の気持ちを大切にしてやってほしい」と光仁天皇。

「心得ました。酒人を守れる従者を周りに手配しておきます。

皇后が住んで居られた邸の方は、皇后の従者に不正があったら、しかるべく処分します」と山部親王。

「まかす」と光仁天皇がうなずいた。

このあと井上皇后が住んでいた邸は酒人内親王の邸とされて、新しく酒人内親王の家令と財産管理が出来る書史が送り込まれた。そして、それまで井上皇后がかかえていた伊勢の女官と名乗る女従は解雇され、家令は財務上の不正があったと都を追放された。そのことは井上皇后の耳にも入った。



六年前の八月に「和気王わけおうの乱」に連座して日向ひうがのかみ〈宮崎県と鹿児島県の一部〉になった陰陽師おんみょうし大津おおつの大浦おおうらは、鹿児島に着くと解任されて位階も財産も衣服も取りあげられて追放されていた。

着のみ着のままで放り出されたから、都へ帰ることもできない。

最初は食うのにも困ったが、その気さえあれば陰陽師という仕事は身一つで食いつないでゆける。同じときに追放された人は全て亡くなったが、大浦は百姓や漁師を相手に悩みごとを占って暮らしていた。

よく当たるし、もめ事などは上手く解決して丸く収めてくれるというので、小さないこりをかまえた村の人にも受け入れられて、「このままでも良いかナ~」と大浦は思いはじめている。

だから都のことは、ほとんど知らない。

大浦が庵の外で夕餉ゆうげの魚を焼いていたら、日向国府の役人がやって来た。

「チョッと待っててくださいよ。魚が焼けたら話を聞くからね」と言ってから、大浦は首をかしげた。

馴染み客のなかに国府の下役人もいるが、やって来たのは官服を着た団体さんだ。

「なにか、ごようですか?」と大浦は聞いた。

「帝が、陰陽師の大津大浦さんを都にお召しです」

去年、年号が変わって天皇の交代があった。それぐらいは知っているが、日向の小さな村では新天皇が誰なのか、だれも関心がないから聞いてない。

南の夜空に輝く星と覚えた知識があれば、大浦は事変が起こる日を割り出せる。

しかし生誕日で作る個人の宿曜表しゅくようひょうがないと、天皇になった強運の持ち主は分からない。

「帝が、わたしを、お召しなのですか」と大浦。

「はい」

「その帝とは、どなたのことでしょう」

「さあ。新帝です。お迎えにまいりました。都へお帰りください」


道中で都をはなれてからの事情を知ることができた。

都に戻ったら、官に没収されていた邸は荒れ放題で、一番の気がかりだった祖父の資料もなくなっていた。

それでも大津大浦は従四位上の官位を戻されて、陰陽寮の長官の陰陽おんみょうのかみとして復職した。いつかは、なりたかった役職だ。

陰陽頭として登庁した最初の日に、大浦は陰陽寮の一画に祖父の資料が保管されているのを見つけた。

祖父の資料は年代順に整理されていて、見なれない字で内容を示す札がつけられている。その資料の上に、神護景雲四年八月一日と、神護景雲六年三月二十五日と書かれた紙がおかれていた。

すでに元号は変わって宝亀ほうきになっている。神護景雲四年は宝亀元年、六年は宝亀三年で、来年の三月二十五日だ。

資料を整理して陰陽寮で保管してくれた人は、元号が宝亀に変わってからは陰陽寮に出入りしていない。元号が変わる前に祖父の資料を取り寄せることが出来て、それを整理して陰陽寮に預けることができたのは、道鏡だけだ。

称徳天皇は神護景雲四年の八月四日に亡くなったと発表されているが、その前に道鏡は八月一日に亡くなると割りだしていたのだろう。そして道鏡は、来年の三月二十五日に自分が死ぬと書き残していた。


都に帰ってほどなく、大浦はきの益女ますめが殺された綴喜つぐきぐんの村に行ってみた。

穴を掘らされた村人たちが、巫女を埋めた場所をおぼえていた。その場所に大浦は丸い石を据えて、益女が好きだった揚げもちを供えた。きっと若い頃から、こういう最期を益女は予知していたのだろう。

変なものが見えたり聞こえたりしても普通の女だった益女と、女帝に愛されすぎた道鏡を、それからも大浦はときどき思いだした。



光仁天皇は、「橘奈良麻呂の変」と「恵美仲麻呂の乱」で流刑になった人を赦免しゃめんして都に戻し始めた。

土佐に流されていた淳仁天皇の兄の船王と池田王は亡くなっていたが、その子や孫になる十二人が戻されて皇籍に復帰した。

「橘奈良麻呂の変」の連座で、同じく土佐に流されていた大伴古慈斐こしびも戻ってきた。

母が藤原不比等ふひとの次女の長蛾子ながこだったから「長屋王ながやおうの変」を生き延びて、「奈良麻呂の変」では光明皇后が拷問を止めたおかげで、かろうじて命拾いをして流刑になっていた安宿王あすかおうも、十六年ぶりに生還せいかんした。

長屋王の血をつぐ安宿王は、臣籍降下して高階たかしな真人のまひとという氏姓になる。高階氏は、このあと何百年にもわたって、個性的な人物を歴史に残す氏族だ。



木の芽の香りがする夏五月。

光仁天皇の御座所に、山部親王と内堅大輔の藤原百川ももかわと式部卿の石上宅嗣やかつぐが集まっている。百川は三十九歳。宅嗣は四十二歳で、これから国を支えていく文官だ。

不破ふわを赦免していないことを、批判する者がいるのか」と光仁天皇。

「まだ声は上がっていません。

帝は、奈良麻呂や仲麻呂の乱で処断された方たちを赦免しゃめんされました。

先の帝は多くの冤罪えんざいをつくられましたから、これは好評価を得ています。

しかし不破内親王と氷上ひかみの川継かわつぐや、それに連座した者たちを赦免していません。

免罪めんざいが遅れているのを不審がる人が、そろそろ現れるでしょう」と石上宅嗣。

「太政官からは、なにもがってきていない」と光仁天皇。

「太政官が奏上するまえに、免罪すべきでしょう」と石上宅嗣。

「分かった」と光仁天皇。

「それから帝。藤原京家が太政官がいないことに、不満をつのらせているようです。ご留意りゅういください」と百川。

「心に留めておく。遅くまで引き留めた。二人とも下がってよい」と光仁天皇。

百川と宅嗣が引き上げたあとで、山部親王が聞いた。

「川継の年齢をご存じですか」と百川。

「土佐に配流されたときに二十歳ぐらいだった」と光仁天皇。

「すると、いまは二十二歳ぐらいですか」と山部王。

「不破と川継は、それほど脅威になりますか?」と山部親王。

「不破は宮中で育ったから知人が多い。塩焼も政治力があった。

塩焼が反逆者であっても、その息子は聖武天皇の外孫だ。不満を抱える者たちの、より所になるだろう。

山部。想像していた以上に帝の席は孤独だ。

今の二人のように直言ちょくげんをしてくれる者が少なくなる。

たとえ耳に痛くても、直言する者がいなくなったら政をとれなくなる。大切にしろ」と光仁天皇が言った。



十一月二十一日。

大嘗祭だいじょうさいが、太政官院だじょうかんいん朝堂ちょうどう)で行われた。新天皇が即位したときにだけ行う盛大な収穫祭だ。

光仁天皇が即位して一年以上が過ぎた。この一年の間に行われた主なことは冤罪えんざいだと思われる罪で、称徳天皇が断罪した人々を許すことだった。

新しい時代は穏やかに幕を開けた。

神事が終わったあとの二十三日には、大極殿の門のまえにテントを張って宴をした。

しばらく途絶えていたが、むかし天皇が大王おおきみと呼ばれていたころに、テントを張った屋外での園遊会が良く行われていた。

そのころのように天皇と皇后と皇族たちと、五位以上の貴族たちが正夫人を同伴して参加した。

少しまえから貴族の正夫人をうちの命婦みょうぶと呼び、本人が五位以上の位階をもつ女性をそとの命婦みょうぶと呼ぶようになってきている。その外命婦たちも、宴の客として招待された。

亡くなった藤原永手の未亡人の大野仲千なかちは従三位。引退した吉備真備の娘の吉備由利は正四位上。参議で太政官をしている南家の藤原継縄つぐただの妻の百済くだらのこにしき明信みょうしんは正四位下。内臣の藤原良嗣よしつぐ(宿奈麻呂)の娘の藤原諸姉もろねと藤原人数ひとかずは従五位下。阿部古美奈は正五位上。

力のある父や夫がいるわけでなく、自力じりきで上がってきた飯高いいだかの笠目かさめは七十六歳で正四位下。久米若女わくめは従五位上。法均ほうきんは従五位下。

この日は女官として働くのではなく接待される方として、みんな着飾って宴に参加した。

 

この大嘗祭の昇位で、久米若女の息子の藤原百川(雄田麻呂)も参議になった。

これで式家は、内臣の良嗣、参議の田麻呂と百川の三人が太政官になった。末男の蔵下麻呂も兵部卿で武官を押えている。

若女が石上乙麻呂におそわれて流刑にされてから、三十三年が経っている。

あの頃は子供ばかりで心細く、長男の広嗣と三男の綱手が反逆者として斬首ざんしゅされて肩身を狭くして暮らしていた式家が、いまは頂点にいる。

五十九歳になった久米若女は結いあげた半白の髪に、はじめて式家の邸を訪ねた日に挿していた宇合うまかいの形見の翡翠ひすいのかんざしをしていた。

正夫人の古美奈をつれた良嗣が若女のそばを通りかかり、かんざしに目をとめて顔をくずした。

光仁天皇と山部親王が決めている式家にかたよった人事は、身内ばかりをヒイキする内臣のせいだと良嗣は官人たちに嫌われていて、りっぱに鬼の盾としてのつとめを果たしている。

ほほえんだ良嗣に若いころの人の好さを見て、若女は胸がイッパイになった。


大嘗祭のあとで、酒人内親王は井上皇后が住んでいた邸を離れて、改装したばかりの元の白壁王邸に移っていった。






天智天皇――――――志貴皇子――――――光仁天皇

                    難波内親王

                    坂合部内親王(文室大市室)

                    衣縫内親王

                  故・湯原王――――尾張女王(光仁室)

                  故・榎井王――――神王(大舎人寮頭)

                           浄橋女王

                  故・春日王――故・安貴王―――故・市原王

                                              

光仁天皇             

  皇后 井上内親王―――――――三女 酒人内親王

                 五男 他戸皇太子

     

     大和新笠――――――――次女 能登内親王(故・市原王室)

                 二男 山部親王(中務卿)

                 三男 早良親王            


     尾張女王――――――――四男 稗田親王

     

                 長男 開成(僧籍)               

     

     県主嶋姫――――――――次女 弥努摩内親王(神王室)

                    

            太政官 右大臣 大中臣清麻呂

                 内臣 藤原良継(宿奈麻呂 式家)

                大納言 文室大市

                大納言 藤原魚名(北家)

                中納言 石川豊成

                中納言 藤原縄麻呂(南家)

                 参議 石上宅嗣(式部卿)  

                 参議 藤原田麻呂(式家)

                 参議 藤原継縄(南家)

                 参議 藤原魚名(北家)

                 参議 多治比土作

                 参議 藤原百川(雄田麻呂 式家)





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