十一 遠謀への線引き  称徳天皇の重祚  


七六五年(天平てんひょう宝字ほうじ九年)から七六九年(神護じんご景雲けいうん三年) 

 

七六五年。正月。

去年の九月に恵美仲麻呂の一族が滅びて、三ヶ月が経った。

正月をすぎても、戦功や貢献があった人の叙位や任官が行われた。最初に戦功があった授刀舎人は何階級も昇位させたが、それ以後に功績があった者を同じように報償すると、対象になる人が多くて貴族が増え位階にあう職がない。その辺の調整に苦労はしたが、官人たちも事情が分かるから大きな不満にはつながらなかった。

ともかく百人の田村第資人に囲まれた仲麻呂の姿は不快だったから、それが消えただけでもホッとするし、人と自由に交流ができて酒も飲めるようになったのはありがたい。

新閣僚は、右大臣に南家の藤原豊成とよなり(六十一歳)。

引き続いて太政官をする、大納言の北家の藤原永手ながて(五十一歳)。中納言の白壁王しらかべおう(五十六歳)、中納言の北家の藤原真盾またて(五十歳)。参議さんぎの石川豊成(六十一歳)、中臣清麻呂(六十三歳)のほかに、吉備真備きびのまきび(七十歳)、文屋十市ふんやのおうち(六十歳)、豊成の四男の縄麻呂(三十六歳)、(和気王わけおう(三十五歳)、授刀督じゅとうのかみだった粟田道麿あわたのみちまろが参議として太政官に加わった。



正月二十日。

朝廷の正月行事が一通り終わったあとで、南家の藤原豊成の邸に藤原各家の人があつまった。手入れはしていたが主がいなかった邸は傷みがでていて、なんとか正月までに間に合わせようと修理をしたばかりだ。

八年ぶりに右大臣に返り咲いた豊成は六十一歳で、病のせいか痩せて歳より老いて見える。


豊成の兄弟は、二弟の仲麻呂が成敗されて三弟の乙麻呂と四弟の巨勢麻呂が亡くなったから、もう残っていない。

豊成の子供たちは、仲麻呂統治下では冷遇されていた。

長男は出家している。次男の継縄つぐただは三十八歳になって、やっと信濃守しなののかみになり、今回の兵乱で恵美辛加知しかちの後を埋めるために越前守になった。

三男の乙縄おとただは、たちばな奈良麻呂のならまろと交友があったと連座されて、日向ひゅうが国(鹿児島県)に配流されていた。

四男の縄麻呂ただまろ(三十六歳)の母は藤原北家の出身で、永手たちの庇護があったので、孝謙太上天皇の侍従をして今は参議の太政官になった。

美しいと噂される娘の中将姫ちゅうじょうひめは出家して、当麻寺たいまでらにいる。


この日、北家からは大納言の永手と、中納言の真盾と、五弟の魚名うおな(四十一歳)が来た。このほかに美濃守として赴任している七弟の楓麻呂かえでまろがいるが、北家も、あとの兄弟は亡くなっている。

式家からは、右中弁うちゅうべん外衛中将がいえちゅうじょうを兼任している五弟の田麻呂(四十三歳)と、侍従をしている六弟の雄田麻呂(三十三歳)が来た。ほかに式家には嫡子の宿奈麻呂(四十九歳)と七弟の蔵下麻呂(三十一歳)がいる。

京家からは、従四位下で長兄の浜足はまたり(四十一歳)が来た。京家には浜足の下に二人の弟がいて、浜足の姉の百能ももよしは豊成の夫人だ。


「こうして一族が集まるのは、何年ぶりでしょう」と南家の豊成。

「九年ぶりです。仲麻呂がいたころは、藤原四家が集まって祝い事などできませんでした。ずいぶん人が欠けて、すっかり、さびしくなりましたね」と北家の真盾。

「式家の方は、お二人だけですか」と京家の浜足。

「兄の宿奈麻呂は太宰府におります。蔵下麻呂は自分が出ると、みなさまのきょうますのではないかと言うので、遠慮させていただきました」と式家の田麻呂。

「いや。仲麻呂は、どうしても藤原の手で討ち取る必要があった。蔵下麻呂は、よくやってくれた」と北家の永手。

「仲麻呂の家族を誅殺ちゅうさつするように命じたのは、わたしたちですよ。

蔵下麻呂が気にすることではありません」と真盾。

「ありがとうございます。伝えておきます。ただ本人の気が鎮まらないようです」と田麻呂が穏やかに答える。

「悪いのは仲麻呂です。長い間、ご迷惑をおかけしました」と、しずかに豊成が頭をさげた。

「豊成さん。そんなことは、なさらないでください。仲麻呂を止められなかった、わたしにも責任があります。それより、お体の具合はいかがですか」と永手。

「なんとか」と豊成。

「百能さんを内裏で見かけしました。再出仕されたのですね」と永手。

「年が明けてから、太上天皇が戻されましてね」と豊成。

「わたしの方には、何も知らせがありません。

わたしは陰が薄くて、姉にも忘れられてしまったのでしょう。

そういえば真盾と朝苅の最期は華々しかったようで、評判になっていますね」と浜足。

「こうしてイトコが集まって酒を酌み交わす。久しぶりで正月気分が味わえます」と式家の田麻呂が話題を変えた。真先と朝苅は、永手と真盾にとっては甥だ。

「各省庁の名が元に戻ったのも、うれしいですねえ」と魚名が田麻呂に合わせる。

「若者は古い名称を知らないので、不自由しているそうですよ」と浜足。

「このまま、なにごともなく平穏な暮らしが営めるといいのですがねえ」と永手。

「四国の方に不穏な動きがあるようだと聞くが・・・」と豊成。

「人が集まり始めているようです」と永手。

「それは、淡路あわじ廃帝はいていをめざしてなのだろうか」と豊成。

「淳仁天皇を廃するときに、王をやっこに、奴を王にするという詔を出されたのが災いしたようです」と真盾。

「あれは本当に、太上天皇が仰せられたことなのだろうか」と豊成。

「はい。お言葉のままに内記ないきが写しました」と侍従をしている雄田麻呂が答える。

「奴を王にというくだりは、道鏡どうきょうを意識されてのことなのだろうか」と豊成。

「おそらく」と真楯。

「道鏡を偏愛へんあいされるのは困ったものですが、つぎの皇嗣となると亡くなられたか、流刑中で適当な方がおられません。

だから淡路廃帝をめざして、四国に集まる人がいます」と永手。

「淡路廃帝は草壁皇子の血を引いておられないでしょう。

それに母方の出自が低い。どうして、いまさら、あの方を担ぎ出そうとするのか不思議です」と浜足。

豊成と永手がウザそうに浜足を見た。

雄田麻呂が提子ひさげを持って膝を進め、浜足に酒をすすめる。

「浜足さん。近頃は、どのような歌をお詠みになっておられるのですか」と雄田麻呂。

「聞いても分からないだろうが、和歌を読むときの心得として、同音を重ねることには気を使うべきで・・・」と浜足が得意な和歌のことを、雄田麻呂に話しはじめた。

それをみて豊成が小声で永手にいう。

「右大臣として呼び戻して頂いて感謝していますよ。

でも永手さん。仲麻呂の後始末もせずに、わたしはってしまうかもしれません。あとは、お願いします」

「できるかぎりのことはしますが、豊成さん。

藤原四家を集められる人は、あなたが最後でしょう」と永手。

「こうして四家がそろって正月を祝えたことは忘れません」と田麻呂も声を小さくして言った。

いまの藤原四家はイトコ同士の関係だが、次の世代は、もっと縁が遠くなる。

藤原氏も枝が広がって人が増えただけ、資質も考え方も違う人が増えてきた。

だから、この正月が四家で祝える最後の正月になるだろうと、それぞれが感じている。


 

一月二十六日。

左京六条にある紀益女きのますめの家は、築地塀で囲まれた一町を六十四に区切った一区画の小さな家で、垣根越しに隣の家の暮らしが見える。

「なつかしいなあ。昔とおなじだ。どうして邸を造って移らないの」と大津おおつの大浦おおうらが辺りを見まわして益女に聞く。

和気王わけおうさまのお邸に住まわせていただいているから、必要ないもの」と益女。

大津大浦は従四位上で左兵衛さひょうえのすけ美作みまさかのかみを兼任している。紀益女も祈祷をしたことが認められて従五位下とくん三等を与えられている。

大浦も益女も貴族になったのだが、益女は官人ではないし大浦は位に見合う職に空きがない。だから陰陽師としてしか能がない大浦が、武官と地方官をしている。

「大浦さんだって、新しいお邸を造っていないでしょ」と益女。

「祖父が高麗こまから持ち帰った文書や、生涯にわたって記録した資料があるから、そのうちに書庫は造ろうと思っているけど大きな邸はいらないよ。

ねえ。益女。巫女みこというか見習いというか、めのわらわを連れていたでしょう。いないね。和気王の邸においているの?」と家のなかを見回して大浦が聞く。

「知りあいに頼んで、おんな(邸の下働き)として使ってもらうことにしたの。あの子たちは親も家族も家もない孤児だから」と益女。

「どうして? 益女。なにか感じているのじゃないの? 

なんども言うけれど、和気王は良くない。早く離れたほうがいいよ」と大浦。

「聞き飽きた。それに、いまさら、どうやって別れるのよ。

わたしみたいに頼りになる身うちがいない女が、一人で生きていくのは大変なのよ。和気王さまから依頼がくれば断れないし、お世話になってしまったら、わたしからは逃げだせない。それぐらい分かっているでしょう」と益女。

粟田あわたの道麿みちまろさんの誘いで何度か和気王の宴席に呼ばれたけれど、あの人のまわりに集まるのは俗物ばかりだ」と大浦。

「あたりまえでしょう。どういう人が邸に巫女を招くか考えてみてよ。

じゃ大浦さんは、こんどの和気王さまの受勲じょくんのお祝いのうたげはことわるのネ」と益女。

「いくよ。いく。あいては二世王で従三位の太政官だ。招かれたらことわれない。

オイ。益女。どうした?」と大浦。

益女は喉を押さえて苦しそうにあえいでいたが、深く息を吸ってもとに戻った。

「水、もってこようか」と大浦。

「いいの。いつものことだから」と益女。

「そういえば若いころも、眠っているときに、そうやって、うなされていた」

「おぼえてくれてたの。

ねえ、大浦さん。わたしって変なものが見えたり聞こえたりするでしょう?」と益女。

「そうだね」

「でも、ほかは人と変わりないよね。怖いものは怖いし、哀しいときは哀しい。

そういうの、分かってくれる?」と益女。

「分かるよ。わたしだって陰陽師だけれど普通の男だ。

益女。いま幸せなの?」

「ひもじくて泣くこともないし、わたし幸せよ。

わたしのこと、普通の女だったと覚えていてくれる?」と益女が少女のような目を向けた。

和気王は、紀益女に祈祷をさせたことと、淳仁天皇の住む中宮院を包囲した功績で、従三位をもらって参議の太政官になった。皇族のなかでは正三位になった白壁王につぐ高位を持っている。

授刀督だった粟田道麿も、従四位下で参議の太政官になった。ほかに近衛員外いんげ中将をしている。

授刀衛は近衛府このえふと改名した。

仲麻呂の乱で活躍した人たちは高い位階を与えられたから衛府に置くことができず、坂上苅田麻呂、牡鹿嶋足、伊勢老人、紀舟守たちは、すべて員外中将として事が起きたときに集められるようにしている。



孝謙太政天皇は政務を執ると去年の九月二十日に勅はだしたが、まだ重祚ちょうそ(再即位)をしていないから、去年の九月からは天皇が不在の期間が続いている。

二月に入ると、淳仁廃帝が淡路島から逃げたという噂が都に広がった。

これは噂だけだったが、孝謙太政天皇に反感をもつ人たちが四国に集まっている。

重祚のまえから、孝謙太上天皇の評判は悪かった。

四十七歳の孝謙太政天皇と、大臣禅師になった四十四歳の道鏡の関係は、色欲にまみれたスキャンダルとなってちまたに広がっている。

孝謙太上天皇は若いころは恵美仲麻呂を愛していたが、道鏡に心変わりをしてから仲麻呂がジャマになったので、反逆者にして殺したという話だ。

まだ物語本はなく芝居もない。噂話や、はやり歌は、人々が大好きな娯楽だった。

この噂は禁句とされていて、口にした人は逮捕されて罪に問われたから、よけいに信憑性しんぴょうせいが増した。

色欲のところを抜いてしまえば噂は正しく、仲麻呂を権力者にしたのは光明皇太后と孝謙太上天皇だ。その孝謙太上天皇と比べれば、傀儡天皇として利用されて廃された淳仁廃帝に人々の同情が集まった。



そんな中、三月六日に重大な太政官が発令される。

二十二年前の天平十五年(七四三年)に聖武天皇がだした「墾田こんでん永年えいねん私財法しざいほう」の禁止だ。

墾田永年私財法は、荒野を開拓して田畑とした人は、その土地を私財として認めてもらえ、代々の子孫に残せるというものだ。

その結果、荒野を開拓できるだけの人を雇える貴族や寺が、荘園そうえんと呼ぶ広大な田畑を私有するようになった。富める者が益々富んで、なかでも寺の力が増大していた。それを禁止したのだ。



六月二十四日。

恵美仲麻呂が誅殺されて九か月が過ぎたころに、近衛府(もと授刀衛府)の宿舎で、ある噂が語られた。

へいにあたって、太刀が折れたって?」と近衛舎人の一人が聞き返した。

「そう。和気王の邸をでるときに、門の塀にあたったから折れたと聞いた」

「門の塀って土塀のことか。それとも門の枠にあたったのか?」

「サヤに入っている太刀が、土壁にあたったぐらいで折れるか?」

「それでさ。粟田あわたの道麿みちまろさんの太刀が折れたと聞いた和気王が、すぐに立派な飾り刀をくれたそうだ」

「うらやましい。坂上苅田麻呂さんや牡鹿嶋足さんが強かったから、その上司だっただけで参議にまでなって、こんどは立派な太刀か。粟田さんは、ついてるな」

はじめは、そんな話だったのだが噂話は広がると内容が変わってくる。



七月七日。

夕刻、従二位の大納言として退官した文屋浄三きよみの邸に、親しい人たちが集まって小宴しょうえんをひらいていた。

文屋浄三は七十二歳。退官はしたが、いまも影響力を持っている。

弟の文屋大市おうちは六十歳。従三位で参議の太政官だ。

白壁王しらかべおうは五十六歳。正三位で中納言の太政官だ。

吉備真備は七十歳。正三位で参議の太政官。

百済王敬福は六十七歳。従三位の刑部ぎょうぶの卿で、この人は太政官ではない。

みんな三位以上の公卿くぎょうと呼ばれる最高位の貴族だが、あした訃報がとどいても驚かれない老人たちだ。


「真備さんは太政官会議に出るほかは、なにをされてます?」と大市が聞いた。

「焼けた大蔵省の双倉ならびくらの再建をしています」と真備。

「それは、それは。お元気ですねえ。

ところでですね。和気王が武器を集めているという噂を聞きました。ただの噂ですがね。ほんとうでしょうか?」と敬福。

「ほんとか、どうかよりも、孝謙太政天皇の耳に入ったら、どうなることやら。

太政天皇は仲麻呂から学ばれて、小さな噂から大きな冤罪えんざいをつくるコツを知っておられますし、道鏡のためになら何でもされるでしょう」と大市。

「野心といいますか、和気王にですね。天皇になる気があるのでしょうか」と敬福。

「お父君の舎人とねり親王しんのう遺贈ついぞうした天皇位は、そのままです。

すると和気王は二世王になりますから、野心をもっても不思議ではありません」と白壁王。

「みなさんも二世王です。そうですね。浄三さんと大市さんは、天武天皇のお孫さんです。皇籍に戻って皇位をつがれる気はありますか。どうです?」と敬福。

「この年で? わたしには、その気がございません。

この中で一番若い白壁王も、天智天皇の孫で二世王です。

われわれと違って臣籍降下しんせきこうかをせずに皇籍に残ったままで、出家もしていません。

天智天皇の男子系を皇位につけることに反対した、とう李家りけは滅びました。あのころの唐と、いまの唐は別ものです。

天智系の二世王の即位に障害はありません。

名のりをあげてみますか」と大市が、白壁王に聞く。

「皇位につくには、大きな代償だいしょうを払わなければなりません。

それを知っているから、みなさんは公卿として生涯をまっとうしようとされている。

その方が楽ですし、いさぎよい生き方だと高く評価されるでしょう」と白壁王。

「ですが、まずは律令で定められているように、皇嗣系の天皇をいただき、大臣、大納言、中納言をはじめとする太政官を揃えて天皇を支え、中務省なかつかさしょう式部省しきぶしょう治部省じぶしょう民部省みんぶしょう兵部省ひょうぶしょう刑部省ぎょうぶしょう大蔵省おおくらしょう宮内省くないしょうの八省が太政官に従う本来の姿に朝廷を戻さなければなりません。

そのあとで不作が続いても民を救えるだけの財を、国庫にたくわえるべきでしょう。それができる天皇が必要ですよ。白壁王」と浄三。

「民のことまで考えておられるのですか?」と真備。

「ここにいるものは、法のもとに秩序が保たれた国のことを考えています。

民が豊かに平穏に暮らせてこそ、国力が強いといえます。

富める者だけが豊かになり、国の財産が不足していては貧民を助けることもできません。国庫にゆとりがあれば、民を餓死から救えます。

しかし国の蓄財を増やすために、租税を引き上げるような下策を用いてはなりません。

民から搾り取るのではなく、国庫を豊かにして民を守る。

言うのは簡単ですが、成すのは大変なことですよ。

一朝いっちょう一夕いっせきにできることではないし、どこまで理想を貫けるか、その理想が正しい結果を生むのかどうかも分かりません」と白壁王。

「今の朝廷には、無用の官人が多く務めています。

民に負担をかけずに国庫を豊かにするには、一度、元に戻した朝廷の機構を見直して、官庁を整理し官費のムダと官人の数を省くべきなのです」と大市。

「官費と官人の数の削減は、天皇が率先しなければ行えません。

われわれには、その時間が残されていません」と浄三。

「わたしは、太政官として補佐をするのが限界です。

そこで白壁さんは、どうかなと」と大市。

「すると、みなさんは、本気で民政を考えているのですか。

そのために、白壁王を押しておられるのですか?」と真備。

墾田こんでん永年えいねん私財法しざいほうは、寺や貴族の私財を増やすばかりで、民の助けにはなっていないと言ったのは、真備さんでしょう。

あれを禁止したのは、わたしたちですよ。民政を思ってしたことです」と大市。

「ただ禁止にした結果が、良くでるのか悪くでるのか分かりません。

結果を見てから、是正ぜせいしなければならないでしょうね」と白壁王。

「国を豊かにするために、官費と官人のムダを削減さくげんする。

つまり政治構造改革を行える天皇を、それも親政を行えるほど力のある天皇を、みなさんは望んでおられるのですか?」と真備。

「はい。上台さまには期待できません。和気王は無理。ダメでしょう。

後継者の血統だけを重んじてですね。まつりごとをおろそかにしました。

泣いたのは民ですね。そのツケです。ツケが回ってきました。

干ばつで米が高くなります。買えません。子供が亡くなります。悲しいことです。

今のわたしは、なるべく苦しまずに死にたいと願っていますが、そのほかに欲しいものもないし、恐いものもない。ありません。

だから青臭いことが言えます。理想が言えます。

官費のムダ。官人のムダ。これを正せば、国は富み民が救われます。

それが出来る天皇を立てたいのです」と敬福。

「あなたがたは、反乱を起そうとしているのですか?」と真備。

「わたしたちを動かしているのは道議です。ここにいるのは老いぼれていますが、みな忠臣です。律令には背きません。上台さまの重祚にも、その政にも、時においさめすることはあっても従います」と大市。

「望んでいるのは上台さまの後。後です。上台さまの後は二世王が継がれる。

ここにですね。志のある三人の二世王がいます」と敬福。

「ですが上台さまは、みなさまよりお若い。皇位を簒奪さんだつしないかぎり、みなさまのご年齢では継ぐことがむずかしいでしょう。

それに政府機関の構造改革には、改革をめぐって官人が反対します。何十年かのときが掛かるとおもいます」と真備。

「どうして反乱だの簒奪だのと言いますか。真備さん。あなた、軍師だから危険です。良い年をして恐いです」と敬福。

「わたしたちにできるのは、次の世代へ道をしめすことだけです。

思いを同じにする二世王で、まだ五十代なのは天智系の白壁だけです」と浄三。

「この中では若いでしょうが、わたしは太上天皇より九才も年上です。

その機会が回ってくるかどうかは、それこそ、もしもの話しになります」と白壁王。

「機会が回ってきたら受けますか?」と真備が鋭く聞く。

白壁王が、真備の目を見た。

「わたしが払う皇位の代償は、すぐに答えを出せるようなものではありません」と白壁王。

「代償とは?」と白壁王と目を合わせたままで、真備が聞き返す。

「家族のきずな」と白壁王が静かに答えた。

「みなさんのことですから、先の先まで考えておられるのでしょう」と真備。

「国にとっては最善なのは、未来へのいしづえとなる天皇をえることです。血統にかたよるより、国力を安定させられる皇嗣を選ぶべきです。

白壁のあとを継ぐ者こそ、その重責を担うことになります」と浄三。

「ほかの方も同じ考えなのですか?」と真備が目を光らせて聞く。

「白壁王が持っているものに、希望を託します」と敬福。

「そういうことですか。

白壁王。皇位をつぐ決意をされたら、あなたの後をつぐ方に会わせてください。

会って納得できましたら、みなさんが描かれた図面を実行するために、次の世代の若者たちを選んで布陣ふじんを固めましょう。

民の暮らしと国の行く末を思うなら、みなさんが一日でも長く生きることです」と真備が杯を手にした。

「歳はとっておりますが、一刻でも早く死にたいと思っている者はおりません。

真備さん。あなたこそ、未来への布陣をせずに死んだら、わたしが殺しますよ!」と大市も杯を手に持つ。

「まずは白壁王が決意されて、白壁王の後継者の意志を確かめてからです。

天の時は地のかず、地の利は人の和に如かずと言いますが、それの、どれ一つも手元にありません。

われわれの命があるあいだに天の時が味方をしてくれるのを、人の和を作りながら待たねばなりません。

この国に律令が根づき、民が豊かに暮らせる日が来ますように!」と真備が杯を掲げる。

「律令が根づき、民が豊かに暮らせますように!」と、ほかの四人も杯を掲げた。

開け放された部屋から見える、すでに暮れなずんだ空には七夕の星が光っている。

「真備さん。あのですね。戦じゃありませんから、地の利が関わりますか?」と、杯を置いた敬福。

「この都は防御にすぐれていても、天下を治めるには閉塞へいそくされています」と真備。

遷都せんと・・・」と浄三。

「まあ、いずれは、そうなるかと・・・」と料理に箸をつけながら真備。

「それから四国の方に、淳仁廃帝を皇位に戻そううとする人が集まっています。

敬福さんが言ったように、和気王が刀を集めているという噂もあります。

そっちの手立ても考えなければなりません。

太上天皇の評判はかんばしくありません。とくにやっこを王にすると詔されたあとで道鏡を大臣にされましたから、このままでは道鏡が皇太子になるかも知れないと危ぶむ人が多くいます」と大市。

「干ばつが続いて米価は上がりつづけています。民は不満を溜めています。

太上天皇の重祚をはばもうとする勢力が四国で動き始めたら、それに乗じて民が暴動を起こすかもしれません」と大市。

「大丈夫です」と箸を運びながら真備。

「真備さん。箸を止めて聞いてくださいよ!

あなた、ガツガツ食べるほど腹が空いていたのですか」と敬福。

「はい」と真備。

「道鏡を立坊りつぼう(皇太子にする)させませんよね。真備さん。

食べてばかりで、聞いていましたか?」と敬福。

「大丈夫です。ウアーオーゥ」と真備があくびをした。

「失礼。興奮したら食べたくなるたちでして、腹がったので眠くなりました。そろそろ、わたしは失礼させていただきます」と真備。

「チョット、あなた! 真備さん! お行儀が悪いですよ」と敬福。

「浄三さま。お招きいただいてありがとうございます」と真備。

「また顔を見せてくださいよ」と浄三。

「はい。チョクチョク伺わせていただきます。

では白壁王。みなさま。お先に」と真備。

「チョット! 真備さん! アララ。行ってしまった。

和気王や淳仁廃帝のことは、仲麻呂の乱の後始末になりますからね。

なにか考えがあるのでしょうが、皇位継承に関しての、われわれの意向は間違いなく伝わったのでしょうか」と大市。

山部やまべは、真備さんと会ったことがないそうです。

真備さんは、うちの家庭の事情を知らないでしょうし、ここで口にすることでもありませんしね」と白壁王。

「いえ、知ってますよ。知ってます。わたしが少し話しました。

山部王も見ています。仲麻呂討伐の二次募集のときですね。隠れて見てました。

大丈夫。通じています。しっかり分かってます。そんな気がしますね」と敬福。

「吉備真備は生まれながらの軍師で、性根しょうねの通った人です。

恐らく同じ線引きを、頭の中でしていたのでしょう」と浄三が杯を掲げた。



七月二十一日。

罪人を捕らえるときは未明に邸を包囲して、夜明けとともに中に踏みこんで捕縛ほばくする。一町の邸ならば衛府の舎人で邸をかこむ。

和気王が刀を集めているという噂を知った孝謙太政天皇は、前日の二十日に藤原永手の末弟で、美濃から呼び戻していた従四位下の藤原楓麻呂かえでまろ右兵衛うひょうえのかみにして、二十一日の夜明けに右兵衛の舎人を和気王の邸へ踏みこませた。

すでに和気王は夜のうちに姿をくらましていて、邸の中にある祈祷所きとうしょのような建物に、巫女姿の紀益女がポツンと一人ですわっていた。

楓麻呂たちは和気王をさがして、大和国の添上郡そうがみぐんの神社にかくれているところを見つけて捕らえた。

同時に和気王の邸に出入りしていた参議の粟田あわたの道麿みちまろと、元陰陽師の大津おおつの大浦おおうらと、従五位下の石川長年ながとしの邸を包囲して捕らえた。


夕餉ゆうげのあとで、孝謙太上天皇が女官や侍従たちと夜の一時を過ごされる部屋で、道鏡が身を伏してうったえている。

「お願いします。許してやってください。

大津大浦は反逆をするような人ではありません。さそわれて飲食を供にしていただけです」

「大臣禅師ぜんじ。なぜ、そのように大津大浦をかばう。

それほど仲が良いのか」と孝謙太政天皇。

「大津大浦とは、わたしが保良宮ほらのみやに看病禅師として召されたときに、何回か会って宿曜しゅくようの話をしました。

平城京に来てからは、大浦が内裏にまいりまして兵乱が起こると奏上したときしか会っておりません。

ただ宿曜法を学ぶものとして、大津大浦が反逆を考えるとは思えません。

あの人は力のある陰陽師です。いま反逆しても成功しないと分かっています。

和気王の邸に出入りしていたのは呼ばれたからでしょう。高官に召されたら断ることができません。

それは大津大浦だけでなく、ほかの二人もおなじだと思います。

どうぞ和気王の邸に出入りしていただけで、罪に問わないでくださいませ」と道鏡。

「そなたも断れずに仕えているのか」と孝謙太政天皇。

「いいえ。わたしは太上天皇さまに召されたことを、ありがたく思っております」

「上の者には、そう言わざるをえないから言っているだけであろう。

もういい。道鏡。下がりなさい!」と孝謙太政天皇が声を荒げる。

「大臣禅師さま。薬湯をせんじていただけますか。

太政天皇さま。ご寝所にお移りになって薬湯を召しあがり、ゆっくりお休みください」と飯高いいだかの笠目かさめがとりなした。

六十七歳になる飯高笠目の案内で、孝謙太上天皇が寝所へと引き上げた。

そのあとで、そばに控えていた侍従や女官たちも部屋から下がりはじめた。


百能ももよしさん。ご相談したいことがあります」とさきに廊下に出ていた久米若女が、藤原百能が出てくるのを待って声をかけた。

久米若女は無位で五十三歳。先発した討伐隊では一族の久米子虫が活躍した。

藤原百能は四十五歳。京家の浜足はまたりの異母姉で、南家の豊成の妻だ。

藤原豊成が右大臣として複官したときに、女官として太上天皇が召し戻して従三位を与えられている。

若いころから仲が良い大野仲千が、百能と一緒にいる。

大野仲千は北家の永手の妻で、やはり先発した討伐隊で一族の大野真本が活躍した。

「では、わたしの部屋で」と百能がいう。

「アラ。わたしたちも行って良いかしら」と百済王明信と吉備由利がわりこんでくる。

由利は四十七歳。父の真備が太政官になったから正五位上で勳四等をもらっている。百済王敬福きょうふくの孫娘の明信は、南家の藤原継縄つぐただの夫人で二十六歳になる。

吉備由利を除いて、すべて藤原一族の夫人たちだ。

「若女さん。由利さんたちが一緒でもかまいませんか」と百能。

「はい」と若女。

若女も息子の雄田麻呂の妻の諸姉と、北家の魚名の息子の鷲取の妻の人数ひとかずの、二十五歳になる宿奈麻呂の娘たちと、三十二歳になる阿部古美奈こみなをつれている。

飯高笠目のように自力で位階をもらって一族を引き上げる人もいるが、女官の位は父親か夫の出世で決まる。封戸ふうこ(給料)は役職の典侍てんじ掌侍しょうじは仲麻呂の妻の宇比良古が任官中に男性と同額になったが、ほかは男性の半額だ。

「相談ってなにでしょう」と自分の部屋に戻った百能が聞いた。

「和気王さまのお邸に親しく出入りをしていて捕らえられた、さきの授刀督で参議の粟田道麿のことです。

式家の三弟で早世した清成きよなりの遺児に、二十八歳になる種継たねつぐがいます。種継の妻が粟田道麿の娘です」と若女。

「また巻きこまれたの?」と由利。

「良い娘なのですよ。それに去年の秋に息子が生またところです」と若女。

「お子さんが、いらっしゃるのですか」と仲千。

「道麿の娘とは縁を切って、子は種継が引きとって育てると、豊成さんや永手さんや浜足さんに伝えていただけますか」と若女。

「伝えますが、かわいそうに。生まれたばかりの子を母と離すなんて」と百能。

「粟田道麿は都の邸で捕らえられたと聞きますが、和気王が捕らえられた添上郡には種継の妻子が暮らしています。添上郡は粟田氏の本貫地ほんがんちです。

太上天皇に疑いをかけられないように、はっきりさせておきます」と若女。

「道鏡さんが、とりなされたけど逆効果でした。

別れたことを、はっきりさせた方が良いでしょうね」と仲千。

「太上天皇と大臣禅師は、どうなっているのでしょう?」と空白のある百能が聞く。

「はじめは誠実な看病禅師でしたけどね」と仲千。

「太政天皇の寝所に仕えるのは、飯高笠目さんと法均ほうきんさんだけ。

あとは太政天皇が選ばれた女童だけで、わたしたちはお仕えしていません。

看病のためと道鏡さんが一緒に過ごされることもあるようだけど、笠目さんも法均さんも口がかたいし、どうなっているのか分かりません」と由利。

「大臣禅師が、太上天皇の寝所に泊まられることがあるのですか?」と百能。

「看病禅師だったから、まえから看病のために付き添われることがありました」と人数。

「今は道鏡さんを表にだして開き直ったのかしら。いつも一緒ですよ」と諸姉。

「さっきだって、まるで痴話ちわげんかみたいでしょう。

大臣禅師が太上天皇に向ける視線は忠実だけど、情熱が感じられないからイラつくのも分かるけど・・・」と明信。

「百能さん。久しぶりにお会いになって、太上天皇はお変わりになられましたか」と古美奈。

「いいえ。強くなられたようですが、大きく期待されて、それが手に入らないと切り捨ててしまう。我が強くて身勝手な子供のようなご気性は変わられておりません」と百能が断言した。



八月一日。

孝謙太政天皇が詔で、和気王の謀反を発表した。

「和気が先祖の霊に祈願した文書をみると、自分が心に思っていることをなしとげたら、流刑されている尊い方(和気王の叔父の船親王と池田親王)を都に召して、天皇(淳仁廃帝)のしんとすると祈願していた。

また自分の仇敵きゅうてきである男女二人(孝謙太上天皇と道鏡)を殺してくださいと、紀益女に祈祷きとうさせている。

これによって謀反の心があるのは明らかなので、和気と紀益女を法のとおりに処分する。

また和気と親しくしていた粟田道麿、大津大浦、石川長年は、ちんの師である大臣禅師が、思慮しりょ分別ぶんべつのないものは悪友に引きずられやすいから、今回は道鏡が彼らの身柄をあずかって、正しく清い心をもって朝廷につかえさせますとおっしゃるので罪を許すが、官職は解任する」

 

粟田道麿が和気王から飾り刀をもらったという話しからはじまり、和気王が刀を集めているという噂が広がったので、謀反を起すのではないかと捕縛に向かったのだが、刀など出てこないで祈祷した形跡が謀反を企てている証拠とされた。和気王自身が淳仁天皇の捕縛に行って昇位したのだから、孝謙天皇を仇敵として祈祷した痕跡があったというのも、あやしいものだ。

孝謙太政天皇は仲麻呂から学んだやり方で、ジャマ者をつぶしはじめた。

和気王は伊豆に流刑にされることになったが、流刑地にむかう途中の山背やましろのくに(京都府)の相楽郡さがらぐん絞首こうしゅになり、その近くに埋められた。

紀益女も流刑先にむかう途中の綴喜郡つづきぐんで絞首にして埋められた。

どちらも平城京を出てすぐの場所だから、はじめから殺すつもりの流刑判決だった。

それから十日あまりして、粟田道麿は員外いんげのすけとして飛騨国ひだのくに(岐阜県北部)に送られた。どうじに粟田道麿を恨んでいる上道かみつみち斐太都のひたつを飛騨守にした。

上道斐太都は、道麿夫婦を塀でかこまれた古家に幽閉ゆうへいして外との接触をさせなかった。栗田道麿夫婦は、その中で暮して死んだ。

石川長年は、員外いんげのすけとして壱岐島いきのしまに送られたあとで自殺した。

大津大浦は、日向ひゅうがのかみ(九州宮崎県と鹿児島県の一部)として鹿児島に送られた。これも道鏡に左遷させんと見せての流刑だった。

和気王にたいする処罰は、淳仁廃帝を皇位にもどそうとして四国に集まった人々にショックだった。四国を離れる人もいたが、孝謙太上天皇を廃して淳仁廃帝を戻そうと結びつきを強くする人も増えた。

 

            

九月

朝議のときに、右大臣の藤原豊成が太上天皇に奏上した。

「四国の方がさわがしいようです。一年まえの今ごろに仲麻呂の反逆がありましたし、相変わらず干害かんがいがつづいて稲の実りが悪く、米の価格が通常の十倍に値上がりしています。民の心も荒れています。

ここで淡路廃帝を戻そうとする者たちが騒ぎを起きしますと、不満を抱えた民の暴動を誘発ゆうはつするかもしれず、都も不安な状況になります」

「淳仁が暴動をおこすというのか」と孝謙太政天皇。

「商人に姿を変えて四国に人が集まっていますので、その恐れがあります。

それに民が加わりますと油断できません。

つきましては、吉備真備から対策を説明させたいと思います」と豊成。

「許す」と孝謙太上天皇。

「太政天皇さま。行幸ぎょうこうをしていただけませんか」と真備が言う。

「不穏なときに、朕に都を開けろというのか」と孝謙太政天皇。

「はい。行幸先は和歌山です。淡路の目と鼻の先にまいります。

前後に、それぞれ三百人の騎馬きば舎人とねりをつけて守らせます」と真備。

「騎馬舎人をつれて、朕に淡路島にいる廃帝と戦をせよとか!」と孝謙太上天皇。

「いいえ。ただの行幸です。廃帝が討伐軍がきたと恐れられるだけで、よろしいかと存じます」と真備。

「淳仁が逆上して和歌山へ向かってこないか」と孝謙太上天皇。

「淳仁廃帝のそばにおります淡路守の佐伯たすくに兵をつけ、まえもって淡路島にある舟を隠します。

それでも廃帝が逃げようとされるなら、六百人の騎馬舎人を廃帝の支援者があつまっている四国へ向かわせます。

太上天皇に危険はございません」と真備。

「まちがいないな」

「はい。御身おんみは安全です。安心して和歌山へ行幸されることを、お願いします」と真備が拝礼はいれいすると、太政官たちも「お願いします」と一斉に拝礼した。

 

孝謙太上天皇は、これまで大がかりな行幸をしたことがない。

父の聖武天皇が亡くなるまえの難波宮なにわのみや行幸と、保良宮ほらのみやに移ったときぐらいで、あとは東大寺をはじめ都の寺院や、大和にある乳母の家や、田村第や薬師寺などの近場にしか出かけていない。

だから紀伊国への行幸は淡路島に近いこともあって、発表されただけで大きな反響があった。行幸の装束しょうぞくのつかさには、藤原永手と吉備真備がなった。

御前ごぜん次第じだいのつかさは白壁王。御後ごごの次第司は中臣清麻呂。

御前の騎馬きば将軍しょうぐんは藤原繩麻呂ただまろ。御後の騎馬将軍は百済王敬福。

豊成の四男の縄麻呂をのぞいて高齢者が多いが、ソウソウたる面子めんつが紀伊国への行幸に加わった。前後に三百人、あわせて六百人の騎馬舎人の数は、仲麻呂の討伐隊の三倍になる。行幸ではなく、まさに朝廷軍の遠征えんせいだ。

行幸に先だって造りはじめた鎌垣かまがきの行宮あんぐう(和歌山市粉河町)はノ川のそばにあり、舟で和歌山港に出れば淳仁廃帝がいる淡路島に渡ることができる。

孝謙太上天皇の行幸の内容が発表されるたびに、それが人から人ヘの口づてで四国に伝わり、淡路島の淳仁廃帝の耳にもとどいた。



十月十三日。

東北からの出入り口になる不破、愛発、鈴鹿の三関さんげんをしっかり固めたあとで、孝謙太上天皇は紀伊国へでかけた。孝謙太上天皇の輿の周りには、全国から集めた女性騎手が華やかな衣装で従っている。

途中で草壁くさかべ皇子の御陵ごりょうのまえを通過するときに、すべての人を馬から降ろして儀仗兵ぎじょうへいがもつ旗やのぼりを巻かせて、孝謙太上天皇が受けつぐ草壁皇子の血をアピールした。

天武天皇のあとに即位したのは、持統じとう天皇(草壁皇子の母)、文武もんむ天皇(息子)、元明げんみょう天皇(妻)、元正げんしょう天皇(娘)、聖武しょうむ天皇(孫)、孝謙天皇(ひ孫娘)と、すべてが草壁皇子の家族だ。

病弱で即位せず、したがって政務を執らなかったから功績もなく、三人の子を残して二十七歳で亡くなった草壁皇子の家族だけが、皇位を受けつぐ尊い存在だと信じさせられている。

天武天皇には十人の皇子がいて、草壁皇子は三男だ。母の持統天皇は天智天皇の娘だが、ほかにも天智天皇の娘を母にする天武天皇の皇子は四人もいた。

草壁皇子の血を尊ばせたのは、ほかに子供がいない母の持統天皇だったが、そのことを忘れてしまっている人もいる。孝謙太上天皇が、その一人だった。


十月十七日。一行は大雨のなかを鎌垣行宮に到着した。

次の日は好い天気だったから、孝謙太上天皇は和歌山港に近い玉津嶋たまつしままで六百人の騎馬舎人を引きつれて行き海を眺めた。

すぐそばの淡路島にいる淳仁廃帝にたいする威嚇いかく行動だ。



「真備さんも来ておられたのですか」と和歌山の港で、白壁王が馬から降りてよってきた。

「はい。舟を集めています」と吉備真備。

「われわれは騎馬舎人たちを散歩させています」と百済王敬福も馬を降りてくる。

「わざわざ和歌山港まで、馬の散歩にいらしたのですか」と真備。

「わたしの三百人だけです」と敬福。

「港の人たちのジャマにならないように注意してくださいよ」と真備。

「舟を集めるとは、本気で淡路島をですね。攻めるのですか?」と敬福。

「舟はおさえますが、本気に見えればよいだけです」と真備。

「ここから淡路の浜は見えます。でも人まで見えません。見えませんよね。どうやって本気と分かるのです」と敬福。

「こちらからの舟が四国と行き来していますから、すぐに伝わりますよ」と真備。

「じゃあ、ジャマにならずに本気に見える散歩をします。毎日しましょう」と敬福。

「敬福さん。淡路島に向かって雄叫おたけびをあげてから、馬糞ばふんを掃除させて帰りましょうか。

真備さん。息子の山部を残していきます。従五位下の散位さんい(無職)でヒマですから好きなように使ってください」と白壁王と敬福が、騎馬舎人をつれて離れていった。

「はじめまして・・・」と残された山部王やまべおうが、あいさつの途中で真備の顔を見て眉をひそめた。

「先生。なにか哀しいことでもおありですか?」と山部王。

「そう見えますか?」と真備。

「お身内に、ご不幸でもございましたか」と山部王。

真備が、山部王をしげしげと見た。去年、授刀衛府でのぞき見をしたときの猛々しい表情ではなく、思いやりのある包み込むような雰囲気をしている。

真備は、だまって淡路島に目をやった。山部王も淡路島を見る。

「すぐに淳仁廃帝が亡くなられるのですね。それを哀しんでおられる。

先生が追い詰められたからですか」と言いながら正三位で七十歳の真備のよこに、従五位下で二十八歳の山部王が自然に並んだ。

めたという高ぶりもありますが、わたしの手でお命をうばうことになります」と真備。

「淳仁廃帝を擁立しようとする人々の動きを封じるように頼まれたのでしょう。職務でされることですが辛いですか」と山部王。

「むろん」

「世の乱れをただすという大儀たいぎで、ご自分を許すことはできませんか」

「大義で人はだませても、自分はだませません。

わたしは自分の知識や力を試したくて、多くの命を犠牲にしてきました。

人を殺すようにと前途ある若者たちを送り出し、戦いのなかで命を落とさせました」と真備。

「わたしは父のようにノラリクラリと宮仕えをして、最後に従四位下ぐらいの位階いかいをいただき、善人として一生を終える自信あるのです」と真面目な表情をして山部王が言った。

「ほう?」と真備が山部王に向き合う。

「一線を越えなかれば、先生が感じておられるような重荷を背負うこともありません。体にも心にも良い生き方でしょう」と力を抜いた親しげな視線で、山部王が真備を見る。

会ったばかりで祖父ほど年がちがう真備のふところに、いきなり山部王は入ってきた。授刀衛府で見かけたときから引きつけられたが、こうして話してみて、その思いを真備は強くした。


兵法は戦乱がつづいている大陸で生まれた戦闘のための知識で、いかにして敵と戦って勝利を得るかを説いている。戦乱のない日本に持ち帰る知識ではなかった。

官費で唐に留学した真備に兵法の知識があるのは、あくまでも好きが高じた趣味としてだ。

帰国して、唐で得た知識を朝廷に報告したときに兵法も入れたが、仏教国を作ろうとしていた聖武天皇には、唐で優等生と認められた真備の漢学や歴史や建築や法律や暦などの知識しか目に入らなかった。

真備に兵法の知識があるのを覚えていたのは恵美仲麻呂だった。それを用いてくれたのが文室浄三だ。

最晩年になって兵法を使うことになった真備は、いま兵法を使って育ててみたい若者と向き合っている。


「負い目を背負う気はないのですか?」と真備が聞いた。

「人を落としいれたりあやめたりしながら、自分を保てる自信がありません。どこかがゆがんでしまいそうな気がします」と山部王。

「白壁王や文室浄三さまたちの気持ちを、受けとめないつもりですか?」と真備が聞く。

「おじさまたちや父の気持ちとは、どういうことでしょうか?」と山部王が問い返す。

「白壁王が決意をされたから、あなたを残して行かれたのでしょう。

そういう話を、お父上となさらなかったのですか?」と真備。

「なんの話です?」

「なにも聞かされずに、ここへ? 

それでは白壁王は、わたしの決意次第だと判断されたわけですか」と真備。

「もしかして、父に皇位継承権があることに関係した話ですか?」と山部王。

「お二人で継承の話はしておられますか?」と真備。

「いいえ。口にできないことなので話したことがありません。

ただ二世王が亡くなるたびに、わたしは、いくつかの道を考えました。

父も考えたはずです。さきほど父が決意したからとおっしゃいましたね。

決意したとしても、いつ、どのようにして継承権を主張するつもりなのでしょう?」と山部王。

「太上天皇が重祚されたあとで、皇位を受けつぐ二世王が必要とされるまで待ちます」と真備。

「奪わないのですね?」と山部王。

「白壁王に、その気がありません。白壁王もお若くないので天命に添うだけです。

ただ天が時を与えたとしたら、白壁王のあとを継ぐ方が重要になります」と真備。

山部王が鋭い眼差しを吉備に向けた。

「たとえ天の時がめぐってきても、わたしには他戸おさべ王と井上いかみ内親王を補佐をする気はありません」と山部王。

「わたしも幼帝の擁立ようりつに反対です。

わたしは白壁王に皇位を継がれる決意をされたら、あとを継ぐ方に会わせて欲しいと頼みました。白壁王が寄越よこされたのは、あなたです」と真備。

山部王が目を細めた。

「あなたなら、そのことも考えたはずです。

人を陥れたり殺めたりして自分を保つ自信がないとおっしゃったのは、それを考えてのことしょう。

あなたは、どこまで非情になれますか?」と真備。

「自信がありません」と山部王。

「迷いなさい。迷って悩んで陰陽おんみょうの上で開きなおれるか、自分を見きわめてください」と真備。

「陰陽の上で開きなおる?」

「陰陽は相反するものです。

光と影。太陽と月。天と地。生と死。正と邪。慈愛と冷酷。

陰陽を制御せいぎょできると、大きな力になります。

ただ厄介なのが人の情です。

どんな理由をつけても、邪悪で冷酷なことをすれば、自分の心の均衡きんこうを崩す恐れがあります。心は保てても、体が壊れてしまうこともあります。

非情な自分を受け入れて、大局たいきょくをしっかり見えながら、揺らぐことなく一人で立ちつづけられるか、大いに悩まれるが良い。

もう一つ、大事な質問があります。

あなたは、どこまで人を魅了みりょうできますか?」と真備。

「魅了する?」

「時代を変える時の子には、人を心酔しんすいさせる資質ししつが必要です。

あなたは、その原石を持っておられるようだ。どこまで磨けるかは、あなた次第です。

あなたの傷や醜さまでも愛おしく思わせられるか、敬われるようにできるか検討してみてください。

こんどは、あなたの心が決まるのを待ちましょう。考える時は充分あります。

わたしの家に書庫があり、資料を見たい人がやって来ます。

山部王。踏ん切りがついたら訪ねて来てください」と真備が言った。

 


十月二十二日

内親王として生まれて皇太子になり、即位した孝謙太上天皇はいち(マーケット)に行ったことなどない。この日は仮の市をつくって、官人たちと地元の人々が売り買いするようすを道鏡と一緒にながめて楽しんでいた。

そのころ淡路島の淳仁廃帝は、孝謙太上天皇が六百人の騎馬舎人をつれて和歌山にいることを知って恐怖の余りに逃亡した。あらかじめ手配されていた淡路守の佐伯たすくが兵をつれて追いかけて、淳仁廃帝を捕らえて連れもどした。

もどされた翌日の二十三日に、淳仁廃帝は閉じ込められた部屋で母の当麻たいまの山背やませとともに亡くなった。

自殺か他殺かは分からない。まだ三十二歳だった。



淳仁廃帝が亡くなったあと、孝謙太上天皇はゆっくり平城京へ戻りはじめる。

十月二十九日には、弓削ゆげの行宮あんぐう(大阪府八尾市)に着いた。

弓削は道鏡の故郷で、氏寺うじでらである弓削寺が道鏡のために建て直されている。

つぎの日には、みんなで弓削寺に行き、寺の庭で宴をしてとう高麗こま百済くだらの異国の音楽を楽しんだ。

交野かたのからよんだ楽人がくじんに音楽を奏でさせて、六十七歳の百済くだらのこにしき敬福きょうふくが舞い踊る。

人をそらさない宴会男の白壁王と、陽気な敬福が仕切る宴だ。

紅葉の季節で空気も清々しい。

道鏡と並んだ孝謙太上天皇にとって、これまでで一番、楽しい一時だった。

弓削行宮に四泊した孝謙太上天皇は、道鏡を太政だじょう大臣だいじん禅師ぜんじに任命する。仲麻呂が名乗った大師も太政大臣と同格だったから、道鏡は仲麻呂と並んだ。月々の月料は大納言と同じだ。

行幸についてきた太政官をはじめ官人たちは、太政大臣禅師となった道鏡にうやうやしく拝礼はいれいをした。

この行幸で、孝謙太上天皇の重祚に表立って反対する人はいなくなった。


平城京に戻った孝謙太上天皇は、ふたたび天皇となることを宣言した。

これからは称徳しょうとく天皇と呼ぶ。

天皇は、亡くなってから諡号しごう(おくり名、漢風と和風がある。知られているのは漢風諡号)が贈られる。

重祚ちょうそした称徳天皇は、淳仁廃帝が即位した八年前に僧網そうごう(僧尼をまとめる僧官)から、上台じょうだい宝字ほうじ称徳しょうとく孝謙こうけん皇帝こうていという称号をおくられている。

このなかに上台も孝謙も称徳も含まれている。

淳仁天皇の在位中は天野天皇と称したが、これは称徳天皇の和風諡号わふうしごうになっている。

 

淳仁天皇の死と称徳天皇の重祚で、藤原仲麻呂の時代は完全に終わった。



七六六年。

去年の暮れには、称徳天皇の即位を祝う大嘗祭だじょうさいのあとで右大臣の藤原豊成が六十一歳で亡くなった。

今年の三月には、正月に大納言になったばかりの北家の藤原真楯またてが五十一歳で亡くなった。

六月の末には、刑部ぎょうぶの卿の百済王敬福も六十八歳で亡くなった。

奈良の都に生きて、歴史をいろどった朝廷の要人たちだ。

これで南家は、藤原不比等ふひとの孫が全員亡くなって世代が交代した。 

北家は兄弟が多かったが、残っているのは二男の永手と、五男の魚名と、七男の楓麻呂の三人だけになった。


藤原豊成と真盾が亡くなったので、太政官が補填された。

藤原北家の永手ながてが右大臣になり、白壁王と吉備真備が大納言になった。

そして去年、豊成が亡くなったあとで、位階を上げて参議にしたばかりの道鏡の弟の弓削清人が、一年に満たない参議の経験で中納言に取り立てられる。

このとき新しく参議として太政官になったのは、文室大市。従四位下で右大弁うだいべん石上いそのかみの宅嗣やかつぐ(三十七歳)。従四位下で右大弁を兼任する豊成の二男の藤原|継縄(三十九歳)。百済王明信の夫だ。従四位下で外衛大将を兼任する式家の藤原田麻呂たまろ(四十四歳)。従三位で少納言の山村王(四十四歳)だった。中臣清麻呂と石川豊成は引き続いて参議として太政官をつとめる。


吉備真備は二つの柱を中壬生門なかみぶもんの西に建てて、一つの柱には官吏からパワハラを受けている人が訴えられるように、もう一つの柱には無実の罪をきせられた人が訴えられるようにして、その訴状を弾正台だんじょうだいが受けとるようにした。

仲麻呂の乱で朝廷に協力したのに賊軍として斬殺された、美濃少掾しょうじょう村国むらくにの嶋主しまぬしのような人の訴えを早く知るためだ。

飢饉はつづいているが、それに対応できる太政官たちがそろっていた。


朝議が終わって弓削清人が帰り、残りの太政官たちが太政官府に引き上げてから、右大臣の永手が大納言の真備に聞いた。

宇佐うさ八幡はちまんの神官から返事はありましたか?」

四月に称徳天皇が勅命で、九州の宇佐八幡神社に六百という、他の神社に比べて破格に高い封戸ふうこ(収入となる田)を与えた。

宇佐八幡は神託しんたく(神の声を聞いて伝える)をだす神社で、称徳天皇が孝謙天皇として即位したころに、大仏の建造を成就させるという神託を持って都にきたことがある。

そのとき称徳天皇は喜んで、宇佐八幡の禰宜ねぎ(神官)とほふり(巫女)をもてなして、都に八幡神社を建て多額の封戸を寄付した。

それから五年後、都の八幡神社の禰宜と祝が人を呪い殺す呪詛じゅそをしていることが分かり、称徳天皇は二人を流刑にして、宇佐八幡は寄付された封戸を返してきた。このときから称徳天皇と宇佐八幡とは疎遠そえんになったはずだ。

それが、この四月に多額の封戸を与えた。怪しんだ太政官たちが、神官を知っているという吉備真備に調べてほしいとたのんでいたのだ。


「帝からは何もたのまれていないそうですが、封戸をいただく理由も思いつかないそうです」と真備。

「ですが、あの勅命をだされたときの帝には引っかかるところがありました」と藤原繩麻呂ただまろが言う。。

「宇佐八幡には、まつっている神さまをおとしめないようにと言っておきました」と真備。

「神託って、ほんとうにあるのですか」と石上宅嗣。

右大弁の石上宅継は優秀で、女官たちが騒ぐ美貌に渋みが加わり、動きの一つ一つが優雅に際立きわだつつ官人になったが非情にまじめだ。

無垢むくほふりが、ふつうではない状態に入ったときに、なにかが聞こえたり見えたりするようです。これは、ほんとうでしょう。

ただ前もって何らかの情報をそれとなくあたえておくと、それを無意識に口にすることはあるかもしれません。

宇佐八幡の誇りにかけて無垢な祝をつかって、本当の神託を届けるようにと伝えてあります」と真備。

太宰だざいのそちをしている藤原宿奈麻呂すくなまろにも、宇佐八幡を注意をするように伝えましょう」と永手。

重祚したあとで称徳天皇は皇太子を立てなかったが、皇太子の住居である東院とういんの改築をはじめている。そして藤原豊成の没後、道鏡の弟の清人を取り立てて中納言にした。

道鏡を皇太子にして清人を大臣にする気ではないかと、太政官たちは早くから称徳天皇の動きを懸念けねんしていた。



藤原氏不比等が住んでいた邸は、光明こうみょう皇太后こうたいごうによって法華寺ほっけじになった。その東南のすみに隅寺すみでら(海龍王寺)という小さな寺がある。

九月の末に、興福寺こうふくじ(藤原氏の氏寺)の円興えんこうと弟子の基真きしんが道鏡を訪ねてきて、その隅寺に出現した仏舎利ぶっしゃり(お釈迦さまの遺骨)と黒いぎょくを置いていった。

さっそく、その夜に道鏡が、それを称徳天皇の元に持ってきた。

「これが隅寺からでたというのか?」と称徳天皇。

「はい。隅寺に祀られている毘沙びしゃ門天もんてんぞうの体内にあったそうです」と道鏡。

「たしか隅寺に毘沙門天像は祀っていない。その円興と基真を良く知っているのか?」と称徳天皇。

「興福寺の長官をさせていただいたことがありますが、わたしは帝のおそばに使えておりましたから寺に行くことが少なく、どなたも良くは存じません。

わたしは知り合いも少なく、親しい友もおりません。家族は弟だけで、親戚と名乗って来るものには今まで会ったこともありません。

わたしの弟子や親族と名乗るものを取り合わないでください」と道鏡。

「東大寺の良弁ろうべんや、興福寺こうふくじ慈訓じきんは、どうだ?」と称徳天皇。

「良弁大僧都そうずさまと慈訓少僧都さまには、若いころからお世話になりました。師である良弁さまや慈訓さまからの頼みは、わたしは断れません。

帝はちがいます。帝は天下を治められる尊いお方であられます。

わたしの師であっても、帝の好きなようにご判断してください」と道鏡。

「わかった。仏舎利を持ってきた禅僧のことは調べさせればよい。

だが、どうして興福寺の僧が、法華寺の隅寺で仏舎利を見つけたのだろう」と称徳天皇。

「見つけたのは基真だそうです。基真は隅寺の毘沙門天によくまいっており、ある日、不思議な光を感じて御像を持ちあげると、体内から仏舎利と玉が出てきたそうです。

興福寺に持ち帰って師の円興に告げたところ、円興が帝に献上けんじょうしようと訪ねてきたと申しておりました」と道鏡。

「どうして仏舎利が一度に三粒も出てくる。

朕があがめているものと違うようだから比べてみよう。

法均ほうきん。仏舎利をもってくるように」と称徳天皇。

「はい」と法均が席を立った。

法均(和気広虫)は、いまは「恵美仲麻呂の乱」で出た孤児を何人も自邸に引きとって養っている。

うやうやしく法均が朝廷に伝わる仏舎利を持ってきて、隅寺からでたという仏舎利の横にならべた。称徳天皇と道鏡と法均が、それをのぞきこむ。

「ちがいますね」と道鏡。

「ちがう。隅寺からでた方が大きい」と称徳天皇。

「帝につたわる仏舎利は米粒のようですが、献上されたものは大きく三粒とも形が揃っています」と道鏡。

「まるで抜けた子供の歯のような色をしています」と法均。

「子供の歯に似ているのか?」と称徳天皇がたづねる。

「はい。でも、こんな形の歯はございません」と法均が手をあわせた。

称徳天皇も四十八歳で、仲麻呂から学んだ知恵がある。

隅寺の毘沙門天の体内からでたという仏舎利の一つを、称徳天皇がつまんだ。

だいたい仏舎利は、どこにあったものが、どこへ渡ったかの経歴がしっかり記録されているので、こつ然と三粒も出現することが怪しい。

一緒に出現したという黒い玉は、黒曜石こくようせきと色も質感もおなじだった。緑色の梵字ぼんじがあるのだが、指でさわると字の周りがザラザラする。自然に浮きでたものなら表面はツルツルしているだろうから、これも人が細工したものだろう。

称徳天皇は届けられた仏舎利や玉が偽物で、それを見つけたという基真はタチの悪い僧だと見抜いていたが、自分が祥瑞と認めれば偽物が本物になることも、嘘つきで性悪な男の使い道も知っていた。

「どうなさいました。帝」と黙りこんだ称徳天皇に、飯高笠目が声をかける。

「どう思う。笠目」と称徳天皇。

「仏舎利のことですか。わたしは昼でも細かいものが見えなくなりました。

燈明とうみょうの灯りでは、どこに仏舎利があるのかも分かりません」と六十八歳の笠目。

このごろは称徳天皇も、目の焦点が合わなくなってきている。

「法均。代々伝えてきた仏舎利をもどしてくるように。

道鏡。隅寺から出た仏舎利と玉を壺に入れて、封印ふういんするように」と称徳天皇がいった。

「どの壺にいれますか」と道鏡。

「好きなのをえらべ」と称徳天皇。

「どれが良い壺なのかわかりません」と道鏡。

「どれも優れたものですから、お好きにえらばれて良いと思いますよ」と笠目。

笠目も、称徳天皇が道鏡を寵愛ちょうあいすることが良いとは思っていないが、あるじに忠実に仕えようときもめいじている。

飯高笠目が采女うねめとして内裏に来てから、五十四年もの時が過ぎた。人生のほとんどを内裏で過ごしてきたから、親兄弟の死に目にも会っていない。

ただ一度だけ、二十六年前に聖武天皇の行幸の供をして、ふるさとの伊勢に帰ったことがある。そのときの伊勢氏の対応が良く、聖武天皇が伊勢氏を官人として取りたててくれた。

いまも笠目のふるさとからは采女が献上されて、官人として登庁する若者もやってくる。どことなく田舎っぽい故郷の若者たちに、誠実にはげめと教えることが笠目の楽しみだった。

称徳天皇は、重祚してから一年以内に祥瑞しょうづいが現れるのを待っていたが、悪いニュースしか入ってこない。

旱魃かんばつがつづいて米の実りが悪く、米の価格が値上がりして餓死する人がいる。九州では台風の被害で家が崩れて田も使えなくなり、そのうえ桜島が噴火して、その周辺で地震が頻発ひんぱつしている。

これじゃァ、まるで称徳天皇の重祚を天がとがめているようだ。

このへんで天の祝福が欲しかった。

 

十月二十日に、称徳天皇は円興と基真がとどけてきた仏舎利と玉を祥瑞として発表した。

仏舎利や玉は、称徳天皇が密封された壺を隅寺において祈ったら、こつ然と現れたと発表されて、それを法華寺に移す行事が華々はなばなしく行われた。

祥瑞がでた祝いの昇位しょういで、藤原永手を左大臣に、吉備真備を右大臣にした。吉備氏から大臣がでるのは、これが最初で最後だ。

そして道鏡を法王ほうおうにした。

法王もわが国では始めての位で、天皇とおなじ月料(月給)を与えられる。称徳天皇は、道鏡は天皇と並ぶ存在だと世に示した。

法王のために内裏の西院に法王局がつくられて、仏舎利と玉を献上した円興を法臣ほうしん、基真を法参議ほうさんぎとして道鏡の下につけた。法臣も法参議も勝手に作った役職で、仲麻呂のやり方とおなじだった。

法参議になった基真が密偵を使って官人たちを監視して、不穏な言動があると称徳天皇に密告しはじめたが、これも仲麻呂と同じように恐怖で臣下を押える手段だ。

しかし現役の天皇の行政を批判すれば大逆罪になる。太政官たちも官人も称徳天皇の言動を、そのまま受け入れた。


称徳天皇は「恵美仲麻呂の乱」が起こった日(二年前の九月十一日)に、宮城の東に位置する東大寺と一対になる西側に、平癒へいゆ祈願きがんのために西大寺さいだいじを建造すると決めていた。

すでに西大寺は用地が確保されて、基礎工事がはじまっている。

それとは別に、官人たちに小さな三重さんじゅうとうを木で彫らせ、自分も道鏡といっしょに木を削って塔を作っている。

一万塔いちまんとうと呼ばれる小さな三重の塔は、都の十大寺に「恵美仲麻呂の乱」で戦没した人々の供養のために奉納するものだ。

このころから称徳天皇は、たびたび都にある大寺に行幸して寺の奴婢ぬひを解放して良民りょうみん(一般人)にもどしはじめた。


         

七六七年。

道鏡のための法王局の大夫たいぶに従三位の高麗こまの福信ふくしんすけに従四位下の高丘たかおか比良麻呂ひらまろが任官された。

高丘比良麻呂は、仲麻呂が兵の数を増やしたことを知らせた大外記だいげきで、いまも大外記を兼任している。

高麗福信も造宮卿とぞうぐうのかみと但馬守を兼任している。

だから法王局の大夫や亮になっても道鏡のそばにいるわけではない。法王局も道鏡の家政かせい機関きかんのようなものだったから、道鏡の弟の清人がまとめていた。

寺院は僧綱そうごうが取り締まっていて、道鏡は内裏のなかの西院に暮らして称徳天皇のそばに仕えていた。


このころは、いくつもの職を兼任する官人が多かった。

なかでも多忙なのが久米若女の息子の式家の藤原雄田麻呂おだまろ(三十五歳)で、左中弁さちゅうべん侍従じじゅう内匠頭たくみのかみ武蔵介むさしのすけ兵衛ひょうえのかみの五職を兼任して、遙任している武蔵介を始め、全ての仕事を間違いなくこなしている。

官人に人気があるのはズレないブレない淡海おうみの三船みふねだ。

去年、巡察使じゅんさつし(地方行政の監督官)を選ぶときも、太政官をはじめ五位以上の官人が淡海三船の名をあげて、一番人気だった。


巡察使は指名された土地を見てまわり、地方行政の問題点を調べて朝廷に報告する。

去年選ばれた巡察使は、今年になって五畿内ごきないと、東海道とうかいどう北陸道ほくりくどう山陰道さんいんどう山陽道さんようどう南海道なんかいどう東山道とうさんどうの六道に派遣された。

このうち山陽道は藤原雄田麻呂が、東山道は淡海三船が担当していた。

六月の始めに、淡海三船が向かった東山道にある下野国しもつけのくに(栃木県)の介が、道鏡に泣きついてきた。

三船が、下野国の国守が正税の未納をそのままにして、介が官有物を横領しているのを見つけけて、国庁こくちょうに入ることを禁止したというのだ。

地方行政の問題点は、いい加減な仕事ぶりと汚職にあった。それを見つけた三船が、証拠を隠す恐れがある汚職役人を職場から遠ざけた。

ただ、その汚職役人の下野介が、道鏡のオイの弓削薩摩だったから、ズレなさすぎブレなさすぎだ。

称徳天皇は怒って、六月五日に薩摩だけに罪を着せて職場に入れなくしたのは不平等だ。清廉せいれん潔白けっぱく官吏かんりの道が、このようであっていいのかと、三船を解任する詔をだす。

官吏のなかでも清廉潔白で人気のある三船を処断したあとで、称徳天皇は形も見えず声も聞こえないのに官人たちの抵抗を感じ始めた。

三船と同じときに他の地方に送られた巡察使は、翌年の三月になって報告書をだした。雄田麻呂は、駅馬の道が遠いから駅屋うまやを充実させ、担当した地方が治める税の銅の代わりに、蚕を飼わせて真綿して欲しいという、地方にとっては有意義ゆういぎで、地方官の内情にはふれることのない報告をした。

逆賊をだした式家に育った雄田麻呂は、地方役人を刺激することを避けて要点は決める宮仕えの要領を心得た有能な官人になっていた。



八月八日。

三河国みかわのくに(愛知県)が、祥瑞しょうずいの雲があらわれたと報告してきた。

称徳天皇が待ちに待った、ほんとうの祥瑞が現れたのだ。

祥瑞の雲は五色の雲(還水平かんすいへいアーク)で、白い雲には黄色から赤への濃淡が映え、薄い黒雲にさす陽光は濃紺から紫に映り、それらの色が、だれの目にも神々しく見える雲のことだ。

それから何日か祥瑞の雲は伊勢湾にみられて、伊勢神宮の外宮げぐうの上にもあらわれた。

こんどこそ称徳天皇は心から喜んで、元号げんごう神護じんご景雲けいうんと改号して昇位や大赦をおこなった。


佐伯今毛人いまえみしは九州の怡土城いとじょうを完成させて、ぞう西大寺さいだいじのつかさ長官かみとして都に帰ってきている。

暗くなるまで西大寺の建築現場にいた今毛人が、若い官人を連れて自分の邸に帰ってきた。

「おそい! 今夜は、おまえのところで飲み明かそうと約束していただろう」と今毛人の邸の広廂ひろびさしでは、すでに大伴家持やかもちが焼いた川魚をつつきながら酒を飲んでいる。

「待たせてすまない」と今毛人。

「こちらは知っているだろう。淡海三船さんをお連れした」と家持。

「よく、いらしてくださいました。

わたしも、さきほど知りあったばかりですが、こんどぞう西隆寺さいりゅうじ(西大寺につく尼寺)のつかさの長官になるそうなので、寺院建築の資料などを見せようと連れがいます。

えーッと・・・。伊勢氏でしたね」と名前を忘れたらしく、今毛人が後ろの男をあいまいに紹介する。

「はい。今毛人先生。わたしは伊勢いせの老人おきなといいます。

淡海三船さま。大伴家持さま。はじめて、おそばにひかえさせていただきます。お見知りおきください。

先生。わたしは日をあらためて出直してまいります」と伊勢老人が小さくなって申しでた。少しアクセントになまりがあり、パンパンに筋肉が張った体と赤みのある丸い顔だちをしているから、都育ちの男ではないだろうと今毛人は思っている。

「あなたが三河守みかわのかみの伊勢老人さんですか?」と三船のほうが声をかけた。

「はい」

「こちらのほうが風の通りがよく、少しは涼めます。こちらに座られませ」と三船が席を譲ろうとする。

「とんでもありません」と伊勢老人が廂の奥に身を引いた。

「それじゃ居心地の良いところに座って、ただ話しづらいので、もうすこし近くによっていただけますか。この蚊やりをお使いください」と三船が乾燥して粉末にした除虫菊じょちゅうぎくの葉が入った皿を渡した。

「はい」と老人が少しだけ前にでる。

「あなたには、お礼を申さなければなりません。

わたしは帝の怒りにふれて罰せられるはずでしたが、太政官たちがごまかしてくださっていました。

そこに景雲けいうん祥瑞しょうずいが知らされて恩赦が出ましたので、巡察使を解任されただけで済みそうです。

よくぞ景雲を見つけてくださった。ありがとうございます」と三船。

「いえ。わたしの手柄てがらではありません。

景雲を見つけるようにと命じられて三河に送られましたから、毎日、空を見ていただけです」と老人。

「ほう。最初から景雲を探すために三河守になったのですか?」と三船が興味を示した。

「なんの話だ?」と今毛人が家持に聞く。

「おまえは、ほんとうの建築バカになったのか。人の世の動きには興味はないのか?」と家持。

「酒はお好きですか」と三船が伊勢老人に聞く。

「はい。好きです」と老人。

「じゃあ飲んで、口も身体もゆるめましょう。どんどん酒をもってきてください」と老人の杯に酒をついだ家持が、控えている今毛人の従者に命じる。

「家持! ここは、わたしの邸だ」と今毛人。

さかなも、みつくろって並べてくださいよ」と今毛人を無視して家持。

「あなたは景雲を見つけるように命じられて、三河守として赴任ふにんされたのですか?」と三船。

「はい。わたしのふるさとです。たまに暑い日の夕方に美しい雲が現れます。

それを見逃さずに見つけて報告するようにと、お邸に呼ばれて命じられました」と伊勢老人。

「どなたに?」と三船。

飯高いいだか笠目のかさめさまが同行してくださいまして、さきの大納言の文屋ふんやの浄三きよみさまのお邸だと教えられました」と老人。

「文屋浄三に飯高笠目! 幽霊じゃなくて生きているのか?」と家持。

「ほかにも、おられましたか?」と三船。

「わたしは顔もあげられませんでしたが、あとで笠目さまから、文屋大市さま。吉備真備さま。藤原永手さま。白壁王さま。石上宅嗣さま。藤原田麻呂さまがいらしたと聞いています」と老人。

「太政官たちじゃないか。若い方をのぞいて仲麻呂を追いだした方々だ。

そうだったのか。わたしを東山道の巡察使にしたのは、わたしなら道鏡のオイの不正をあばくからだ。

帝が怒られることは分かっているから、あなたに景雲を探させた。

なんのことはない。わたしは官人たちの不満を抜くために踊らされた!」と三船が膝をたたいた。

「いや。不満を抜いたのではないだろう。わたしには不満を広くくすぶらせたようにみえる」と家持。

「どうしてだ?」と三船。

「道鏡のオイが横領をしていたのは、帝もかばえない事実だ。

それを摘発てきはつしたからと帝が非難したのが、三船さん。あなただからだ」と家持。

「わたしが関係するのか?」と三船。

「自分の価値が分かっていないようだが、あれで官人のほとんどが帝のすることを警戒しはじめた。道鏡を皇太子に立てようとしても、帝につく官人はいない」と家持。

「あたりまえだ。皇太子は皇族から選ぶものだ。

あの天才軍師が右大臣なのに、なぜ手を打たないと思っていたが、すでに巧妙こうみょう緻密ちみつなワナを張っているのかもしれない」と三船。

「また謀反が起こるとか、謀反人が摘発されるのだろうか?」と今毛人。

「それはないだろう。文室浄三と吉備真備が仕掛けるワナだ。

お二人が生きているうちには終わらない、壮大な仕掛けでも考えているのだろう」と三船。

「飯高笠目さんは、文室浄三さんと親しいのですか?」と家持が伊勢老人に聞く。

「さあ。聞いてはいませんが、お邸を訪ねられたのは始めてのようでした」と老人。

「これが切っかけとなって、二人が親しくなるとおもしろい」と三船。

「どうして」と今毛人。

「飯高笠目さんは、帝の私生活を知る方だ。

文室浄三さんは引退されても、太政官たちに影響力を持っておられる。

浄三さまなら国の行く末を案じておられるだろう。

帝を好きなようにさせておられるのは、きっと、それでも良いということだろう」と三船。

「老人さんは造西隆寺司の長官として、都に戻られたのですか」と家持。

「はい。まえに真備先生が武功のあった舎人を集めて、何になりたいと訊ねられたことがありました。わたしは今毛人先生の弟子になって、寺院建設がしたいと言いました。

伊勢守はそのままですが、慶雲を見つけられたので都に戻していただいて、西隆寺を造ることになりました」と伊勢老人がうれしそうに言う。

「どんな人生を望むかと、わたしも真備さんに聞かれたことがある。

それで政治に関わることのない五位ぐらいの位階で、若者に学問を教えて生涯を終えたいと答えた」と三船。

「そういえば、わたしも九州で真備先生に、何をしたいかと問われたことがある。

そのときに夢を語った」と家持。

「夢か?」と今毛人。

「ああ夢だ。国史の日本書記には、国のできごとと帝がなさったことの記録が書かれているが、わたしは時代を生きた人々の、魂の叫びを後世に伝えるのが夢だと言った。

冤罪えんざいで殺された皇子たちの和歌や、名も知れぬ防人さきもりたちの和歌を集めて残すことで、この国の本当の歴史を伝えたいと語った。

真備先生は、ぜひやって欲しい。ただ大伴氏は武門の一族だから、いつかは武人としての責任を取らされるかもしれない。

それまでに、よろずの人々のことを集めて、この国に生まれてくる子孫たちに伝え残してほしい。生きている間はムリでも、いつの日にか、それは世に出て語りつがれるだろうと言われた。

今毛人。三船さんとわたしは、こんど少弐しょうすけとして大宰府だざいふに行くことになった」と家持。

「また九州に行くのか。左遷されるようなことをしたのか?」と今毛人。

「していない。ただ仲麻呂の討伐隊として活躍した佐伯とちがって、大伴は反逆者を出してしまった」と家持。

「何人もの大伴氏が討伐隊で活躍したじゃないか?」と今毛人。

「われわれが大宰府に行くのは、左遷ではないかもしれない」と三船。

「左遷じゃなきゃ何だ。目的でもあるのか?」と家持。

太宰帥だざいのかみをしている式家の藤原宿奈麻呂すくなまろを見張らせるためだろうか? それほどの要人なのか?」と三船。

「いまごろ宿奈麻呂は書類をゴチャゴチャにして、われわれが着くのを首を長くして待っているだろう。あいつには、われわれの補佐が必要だろうよ。

だが、その程度の危険人物だ。

あいつの手伝いをするために、太宰府に送られるのか?」と家持。

「それなら別の目的でもあるのかな?」と三船。

「例えば?」と家持。

宇佐八幡うさはちまんを見張るらせるためとか」と三船。

「なんのために宇佐八幡を見張るのだ?」と今毛人。

「皇太子を立てるときに、神託しんたくを使ったという古例これいがある。

このところ帝は、都に姫宮を建てたりして宇佐八幡に近づいている。

帝が古例にならって、神託で道鏡に皇位をゆずるのを防ぐためだろう」と三船。

「たしか、あそこの神主は、真備先生と親しいはずだ」と今毛人。

「それじゃ間違いなく宇佐八幡を見張らせるのが目的の一つだ」と三船がうれしそうに笑った。

「大宰府では心にゆとりができる。

父の旅人たびとが歌会を開いていた邸も、まだ残っている。

三船さん。おたくに伝わっている額田ぬかだのおおきみの歌や、額田王のご息女の十市といちの女王ひめみこの歌を、すべて太宰府まで持ってきてくださいよ。

わたしは大宰府で和歌集の編纂へんさんをはじめる」と家持。

「家持さんをならって、わたしも夢を持つことにする。

わたしは漢詩をまとめて、この世に生きた人の叫びを後世に伝えよう。

たとえば不名誉な冤罪で殺されたと思われる、天武天皇の第二皇子の大津おおつ皇子みこうたなどは、後の世に伝えたい。

詩を知れば、生前の皇子の生きざまも忍ばれるだろう」と三船。

「大津皇子? 本来なら天武天皇の後継者だったが、病弱な草壁皇子のために罪を着せられて殺されたといわれる大津皇子の詩を? 

草壁皇子の正当性にケチをつけるようで、まずくないか」と家持。

「三船さんは政治には関わらないといいながら、なぜ政治の裏を暴こうとする」と今毛人。

「政治には関わりたくないが、国史の脚色きゃくしょくには一石を投じたい」と三船。

「なるほど。わたしも、その方向で和歌集を編纂しよう。

おい。今毛人。おまえは弟子志望者がいて、うれしいだろう」と家持。

「ああ、うれしい」と今毛人。

「おまえは太宰府にいたから知らないだろうが、おまえの初弟子は仲麻呂が反逆者となったときに武功をたてた授刀じゅとう舎人とねりだ。

この四人の中で、一番、位が高い」と家持。

「え?」と今毛人。

「今毛人先生。わたしは武功を過大評価されて昇位されましたが、官人としての経験も知識もない田舎者です。

どうぞ位階いかいのことは忘れて、いつでも便利にお使いください」と伊勢老人が身をすくめて頭を下げた。

淡海三船は四十五歳で正五位上。大伴家持は四十八歳で従五位上。佐伯今毛人も四十八歳で従四位下。淳仁天皇から内印ないいん駅鈴えきれいを受けとった山村王を護衛して、田村第資人と戦った伊勢老人は三十七歳で、すでに従四位上だった。


伊勢老人が守った山村王は参議で太政官になったが、この年の暮れに四十五歳の若さで病没する。

佐伯今毛人も建築だけに没頭するわけにゆかず、このあと左大弁さだいべんを兼任する。

弁官は、太政官たちの行政を助ける事務官で政治の中枢にたずさわる。

このときは左大弁が今毛人で、右大弁が藤原嗣縄つぐただ。左中弁が藤原雄田麻呂。右中弁が、白壁王の飲み友達の大伴伯父麻呂おじまろと、弁官もそろっていた。

大伴家持と淡海三船は、おなじ少弐として九州の大宰府へ行った。

そのあとで藤原宿奈麻呂が都に戻されて、新しい大宰帥として道鏡の弟の弓削清人きよひとが太宰府に赴任してきたので、淡海三船は太宰府に送られた意味を得心した。清人は野心家で道鏡を皇太子にできるなら何でもする。

大伴家持と淡海三船は花を愛で月を眺めて酒を酌み交わし、歌をんで太宰府の日々を過ごした。

大伴家持は「万葉集まんようしゅう」という日本最古の和歌集の編纂へんさんをはじめた。

淡海三船も「懐風藻かいふうそう」という日本最古の漢詩集の編纂をはじめた。



東北を強引に支配しようとした仲麻呂の政策を、称徳天皇は積極的に推し進めていた。

秋田城と呼ばれるようになった出羽柵と、仲麻呂が朝苅につくらせた桃生ももう城と雄勝城に柵戸さくとという大和人の移民を送り込み、さらに新しい城を建造させていた。

この年の十月には、太平洋側から内陸に入った伊治これはる城(宮城県栗原郡築館町富野)が完成した。これで秋田城(秋田県秋田市)、雄勝城(秋田県横手市)、桃生城(宮城県石巻市)、伊治城と、列島を北東から南西に斜めに裁断する朝廷の拠点が強固になった。これらの城の回りには役人や兵士や大和人の移民が住んでいて、やがて城の回りの大和人の居住地を柵で囲い始める。

すでに蝦夷が住む土地では聖武天皇までは保たれた、大和人と蝦夷の穏やかな共存関係は壊れてしまった。

朝廷の役人や移民は野蛮人として露骨に蝦夷を差別し始めて、移民と蝦夷のあいだに起こるいざこざにも蝦夷の言い分が通らなくなった。

授刀舎人だった牡鹿おじかの嶋足しまたり道嶋みちしま嶋足と改姓して、陸奥の大国主おおくにぬしとして蝦夷の族長たちの上に位置する位を与えられていた。

嶋足の一族も伊治城の建造に関わり、従五位上の道嶋三山みやまが陸奥大掾だいじょう鎮守ちんじゅぐんのかみになった。

だが坂上刈田麻呂かりたまろが心配していたように、道嶋の一族は朝廷の官人からは蝦夷とさげすまれ、蝦夷からは朝廷が寄こした制圧者と嫌われる苦難の道を歩きはじめた。



七六八年。

正月の叙位で吉備真備が右大臣になって、空いた大納言に道鏡の弟で中納言をしている清人きよひとがなった。参議になって三年弱しか立っていない。

ずっと参議をしている中臣清麻呂が中納言になった。藤原北家からは五男の魚名うおな(四十七歳)が参議に加わった。

大納言になった清人は、この年の十一月に太宰帥を兼任して太宰府に行ってしまう。

これが何を意味するのか、太政官たちや太宰少弐の淡海三船と大伴家持たちは理解していた。



四月。

吉備真備の邸の書庫しょこで、孫子そんしの兵書を書き写していた奈貴王なきおうが、視線を感じて筆をとめた。

「力みもなく左右の筋鈎きんせいがとれた、やさしい文字を書かれますね」と真備が奈貴王の手元を見ている。

バタンと乱暴に筆をおいて、奈貴王が体をくずした。

真備の書庫に顔をだす人は何人かいるのだが、この日は奈貴王しかいなかった。

「奈貴王。あなたは、どんな人生を送りたいと思っていますか」と真備が聞く。

「考えたこともありません。どうせ五位になれれば良い方でしょうし、それ以上になろうという気もありません。

食べて寝て、そこそこの暮らしができたら、まあ、いいかなァ」と首筋を伸ばしながら奈貴王が答える。

「それは貴族に加えられて、家族と穏やかに暮らせれば良いと言うことですか」と真備。

「貴族になりたいと思っていませんよ。家族ってのも面倒でしょう。

流されるままで、その場、その場をしのげれば、それで良しとします」と奈貴王。

「討伐隊を募集したときは、熱心に売り込んでいました。

あのときは英雄になりたかったのですか?」と真備。

「肩書きはいりません。縛られるのが嫌いでね。英雄なんかになりたかないです。

あのときは・・・だってあれは、男なら心がおどるでしょう。

冒険心を刺激されただけです。

あとで子供や女性を斬首ざんしゅしたと聞いて、行かなくて良かったと思いました。

真備先生。あのとき世を治められる帝が即位して、先人たちが作った律令制りつりょうせいを根付かせるまで、雄田麻呂やわたしは目立たず生きのびて力となって欲しいと言われましたよね」と奈貴王。

「たしかに」

「なぜ、あんなことを言ったのですか?」と奈貴王。

「あなたは頭も良いしカンも鋭い。横柄おうへいな態度をとりながら、人とのつきあいもソツなくこなす。棒術ぼうじゅつとか、いま書き写している兵書とか、興味を持ったものには努力を惜しまない。

身につけたものは無駄にはなりませんが、棒術や兵書は出世の役にたちません。

色々な才能に恵まれているのに、あなたには野心も欲も、理想も夢も目的もありません」と真備。

「お説教ですか。よく言われていますから短めにお願いします」と奈貴王。

「今の帝の後を、白壁王が継ぐとしたら、どう思いますか」と真備。

「なにを急に? 白壁王は天智天皇系ですよ。それに帝より年寄りです。

ジョウダンでしょ。そんなの」と奈貴王。

「白壁王が長命だったら可能です」と真備。

「本気ですか。天智系の天皇が即位する。

そりゃ白壁王のほうが知識も能力も今の帝より上だし器も大きいし、天智系が天皇になるのは面白い」と奈貴王。

「あなたも天智天皇の四世王ですよね。

天皇は光の中で輝きます。その影になる気はありますか?」と真備。

「影って何をするのです」と奈貴王。

「そばにいて話し相手になって用を足すだけで良いのです。

影に目をとめる人はいないでしょうし、歴史に名も残りません」と真備。

「つまり、白壁王の侍従になれってことですか?」と奈貴王。

「職名は侍従でしょうね。あなたの、その性格と能力で、白壁王の皇太子を支えて欲しいのです」と真備。

「白壁王の皇太子ですか。そうすると井上いかみ内親王のお子ですか。

まだ子供だし、聖武天皇の外孫で今の帝の甥でしょう?

白壁王が皇位についても、それじゃ中継なかつぎの天皇で、今の帝の甥に皇位をつなぐだけになります。

そいつはチョットね。おもしろくも楽しくもない」と奈貴王。

「皇太子にしたいのは、ご長子です」と真備。

開成かいじょう? 還俗させるのですか?

坊主の暮らしを、けっこう気に入っていますから承知しますかねえ」と奈貴王。

「山部王は、ご長子ではないのですか?」と真備。

山部やまべ? 白壁王が特別に目を掛けて可愛がっているけれど、先に生まれたのは開成でしょう。上が出家したら、次男が第一子になるのかナア・・・?」と奈貴王。

「ほかにも兄君はおられますか」と真備。

「さあて・・・白壁王の色恋沙汰までは知りません。

そうですか。山部を皇太子にする・・・」と奈貴王が考え始めた。

「どうです?」と真備。

「山部を皇太子にするのは、白壁王を擁立ようりつするより大変だ。

母方は渡来系とらいけいで、山部は庶子です。

白壁王には、井上内親王を母にする正統な嫡子がいる。

まず大方おおかたの人が猛反対する。

でも山部が皇太子になって即位できれば、そのあとの皇位は完全に天智系に代わる。

草壁皇子の血統を断つことができる」と奈貴王。

「天智系の王たちは、そう思うのでしょうか?」と真備。

「たぶんね。天武系でも草壁皇子だけにこだわった継承けいしょうを、いい加減にしろ!と思っていたのもいましたよ。みんな潰されましたがね。

で、先生。いつから、わたしは影になれば良いのですか」と奈貴王。

「引き受けてくれますか?」と真備。

「山部を皇太子にするには障害が多すぎる。まず無理な話です。不可能です。

まちがって皇太子になっても周りは認めない。四面しめん楚歌そかで孤立するでしょうよ。

だったらやります。冒険は好きです」と奈貴王が目をキラめかせる。

「冒険が終わっても、影には光があたりませんし評価もされません」と真備。

「過程を楽しみますから、結果は気にしません。おかまいなく」と奈貴王。

「では今から、影になっていただきましょう。

しばらくは山部王の存在を隠さなければなりませんから、影の影ですがね。

そろそろ来るはずです」と真備が庭を見た。

山部王が庭伝いに歩いて来る。

奈貴王は三十四歳。山部王は三十一歳。

書庫のそばの柳が、黄緑の芽を吹いて揺れている。



六月に白いきじ献上けんじょうされてから、七月には白いカラスと赤い目をした白亀と、たてがみと尾が白い青馬が献上されて祥瑞ラッシュになった。

称徳天皇は喜んで、祥瑞を出した国の税を免除して民に恩恵を与えた。

この年に入ってから称徳天皇は高い位に上がれない氏族に、むらじかばねなどのかばねを与えたり位を上げたりしている。

祥瑞に恵まれ、天皇の徳が行き届いた平穏な世のようで、不満不平も上がってこない。

しかし称徳天皇は、従順に従う官吏たちから重い反発を感じていた。



七月の始めころ、夜になってから自邸の釣殿つりどので、文室浄三が飯高いいだか笠目のかさめと向き合っていた。

池の端にホタルが舞う。

「そのことを、帝には?」と浄三が聞く。

「そのうち気づかれると思いますが、わたしからはなにも、お伝えしておりません」と笠目が首を静かに横に振る。

「道鏡さんが、そうするように判断したのですね」と浄三。

「はい」

「わかりました。心に留めて、この先のことを考えましょう。

よくぞ、わたしに知らせてくださいました。決して悪いようにはいたしません」と浄三。

「お願いします」と笠目。

「もう、ズッーと昔のことになりますが、わたしが始めて参内さんだいを許されたころに、あなたの姿を始めて拝見しましてね。

この世に、こんなに美しい人がいるのかと、天女を目にしたような感動をおぼえました。笠目さんは、あの頃とお変わりありませんなあ」と七十五歳の浄三。

「お互い目も耳も悪くなって、夜には面立ちもさだかに見えませんが、智努ちぬおうさまも、お変わりございません」と七十歳の笠目。

「雑音も聞こえず、余計なものも見えなくなりました。

だからこそ真実の声が聞こえ、本当の姿が見えるようになりましたよ」と浄三がホタルを目で追った。



八月。

宮中一多忙な藤原雄田麻呂は正五位下の三十六歳。武蔵守、左中弁、内匠頭、右兵衛督、侍従を兼任しているから仕事を邸に持ち帰っている。

夜になって奈貴王がフラッと一人で訪ねてきたので、仕事に使う書斎に通して話を聞き終えたばかりだ。


「本気なのか?」と雄田麻呂。

「おまえに話すと式家に伝わるから黙っていたが、このところ白い烏だとか、目の赤い亀とかの祥瑞が献上されている。

ほどなく帝は、道鏡を皇太子に立てるだろう」と奈貴王。

「それは察している」と雄田麻呂。

「だから話した」と奈貴王。

「ほかに皇籍に残った二世王はいないし、正夫人の井上いかみ内親王に、聖武天皇の外孫になる他戸おさべ王がいる。

白壁王が長命だったら、擁立は妥当だと思う」と雄田麻呂。

「そこは年寄たちがやってくれる。年寄にできないのは白壁王を擁立した、そのあとだ。寿命が持たないだろう」と奈貴王。

「いま聞いたことは式家の外にはもらさない。宿奈麻呂が大宰府から都に戻ってきている。兄に話すまで答えを待ってほしい」と雄田麻呂。

「そう来るだろうと思っていた」と奈貴王。

「奈貴王。法王局ほうおうきょく法参議ほうさんぎをしている基真きしんが、子供たちを町に放して噂を集めては帝に報告している。気をつけろ」と雄田麻呂。

「あれは帝が仲麻呂をまねて、基真にやらせていることだ。

道鏡を皇太子にする用意が整ったら、恐喝まがいのことをしている基真は切り捨てられるさ。

雄田麻呂。答えがでたら声をかけてくれ」と、すっかり影が気に入った奈貴王が、はじめて手にした生きがいという衣をまとって夜に消えた。


数日後の夕どき。

休みのときは雄田麻呂の邸に帰るので、久しぶりに宿奈麻呂の邸を訪れた久米若女が懐かしそうにあたりをながめている。流刑から戻ったあとで、この邸で宿奈麻呂に会った日から、いまある全てが始まった。

若女は五十六歳になる。息子の雄田麻呂と宿奈麻呂の娘の諸姉のあいだに生まれた孫の旅子が九歳で、雄田麻呂と伊勢大津の娘とのあいだに生まれた孫息子の緒嗣おつぐが四歳になる。

大宰府から戻った五十二歳の宿奈麻呂は、従三位の兵部卿ひょうぶのかみで立派な公卿くぎょうになった。

「改まって、どうした?」と宿奈麻呂が聞く。

「内密に話があります」と雄田麻呂。

「では田麻呂と蔵下麻呂と種継を呼ぼうか」と宿奈麻呂。

近くに住んでいるから、声をかければ一族を集めることができる。

「あとで種継には話しますが、いまは田麻呂兄さんと蔵下麻呂は呼ばないでください。

あの二人は式家の良心です。先の目処めどが立つまでは、巻きこみたくありません」と雄田麻呂。

「すると、わたしは式家の邪心か。

たしかに一度は流刑、一度は都を追放された前科があるし、兄の広嗣と弟の綱手は反逆者だ。なにを聞いても驚かないが、こんどは、なにがあった?」と宿奈麻呂。

「兄上。わたしは鬼になりたいと思います。だから鬼の兄になってください」と雄田麻呂。

「なにを言っている? 分かるように話せよ」と宿奈麻呂。

「帝の皇太子のことです。帝は道鏡を立てるおつもりのようです。

しかし先の大納言の文屋浄三さま。太政官の文屋十市さま。右大臣の吉備真備さまは、白壁王の即位を望まれています」と雄田麻呂。

「いまの帝を廃してか」と宿奈麻呂。

「細かいところは分かりません」

「それに賛成すれば良いわけだな。

わたしが永手ながてさんと北家を説得して、藤原氏をまとめるのか。

上手く話せるかどうか分からないが、北家の妻となった四人の娘たちがいるから大丈夫だろう。

それで、どこに鬼が出てくる?」と宿奈麻呂。

「そのあとです。白壁王の擁立は、皇籍に残られた唯一の二世王で大納言であること。正夫人が聖武天皇のご長女の井上いかみ内親王であること。お二人のあいだに他戸おさべ王という嫡子がおられることで押し切れると思います。

そのあとで白壁王の皇太子として、庶子しょしの山部王を立坊りつぼうします」と雄田麻呂。

宿奈麻呂が、ポカンとした。

「待ってくれ。そいつはムリだ。

白壁王の嫡男ちゃくなんは、井上内親王のお子の他戸王だろう。

山部王の母君は、あの新笠にいがささんだ。渡来系だから、山部王を皇太子にするのはムリだ。卑母ひぼをもつ皇子の継承順は最下位だ」と宿奈麻呂。

「そのとおりです。しかし白壁王は五十九歳で他戸王は七歳です。

他戸王を皇太子にすると、どうなると思います?」と雄田麻呂。

「他戸王が成人するまえに、白壁王が亡くなられる可能性がある。

また皇嗣をだれにするかで揉める。そして井上内親王を、他戸王が二十三、四歳になるまで皇位につける」と宿奈麻呂。

「山部王は三十一歳です。山部王が皇太子になったらどうなります」と雄田麻呂。

「山部王は、いまは散位さんいだけれど大学頭だいがくのかみになるらしい。官人としての経験や年齢は頼もしい。

だが他戸王がいるかぎり、だれも山部王を認めない。

どうしても皇太子にするなら、他戸王と井上内親王を、どうにかしなければならない」と宿奈麻呂。

「はい。だから、わたしは鬼になって山部王を皇太子にしたいと思います」と雄田麻呂。

「正気か? 雄田麻呂。おまえが、それを考えたのか?」と宿奈麻呂。

「いいえ。文屋浄三さま。十市さま。吉備真備さま。そして白壁王と山部王が考えられました。実行するのは、ずっと先のことです。

ご老体たちが亡くなったら、志を受けつぐようにと誘われました」と雄田麻呂。

宿奈麻呂が怖い顔をして腕を組んだ。

「さきのさきのことで、考えているだけです。

白壁王が皇位を継がれるのも確かではありません。

ただ雄田麻呂と、山部王と同期の種継たねつぐは、もっと山部王に近づけたいのです」と若女が口添えをした。

「山部王が疑われたらおしまいだ。雄田麻呂や種継が逆賊にされる」と宿奈麻呂。

「うまくやります」と雄田麻呂。

「若女さんは、古老たちが考えたことが可能だと思うのですか?

モウロク爺さんたちの無責任な妄想ではありませんか?」と宿奈麻呂。

「もし白壁王が即位できたら、皇太子を入れ替えることができます」と若女。

「若女さんまで、なにを言うのですか? 

皇太子の入れ替えなど、井上内親王が承知されるはずがないでしょう。

井上内親王と他戸王を暗殺するつもりですか。それはダメだ。倫理りんりに反する。

帝に忠実につとめろと、若女さんが教えたのですよ!」と宿奈麻呂。

「すべては白壁王が即位できてからの話です。

宿奈麻呂さんには、雄田麻呂と種継が山部王と親しくしますが、このような思惑があってのことだ伝えているだけです」と若女。

「わかりました。わかりましたよ。若女さん。

わたしにとって、あなたは姉で母で、式家を守ってくれた大切な家刀自いえとじです。

なにかあったら、わたしが一人で罪を引き受けます。

雄田麻呂。なりたいのなら鬼になれ。

おまえが鬼なら、わたしは鬼のたてにもぼうにもなってみせる」と宿奈麻呂が、鬼のような形相でうなった。



十二月の始めに、興福寺の僧で法臣ほうしん円興えんこうが、弟子で法参議ほうさんぎ基真きしんを、仏舎利が出たと嘘をつかれてだまされていたと訴えた。基真は飛騨ひだ国に流刑にされた。

道鏡は、大津大浦のときのようなかばい立てをしなかった。


 

七六九年。

称徳天皇と道鏡の二人が並ぶ正月の朝賀ちょうがは五回目になるが、この年は雨がふったので大極殿だいごくでんのなかで少人数で行われた。

道鏡も慣れてきて、自ら祝いのことばを述べた。

一月から二月にかけて、称徳天皇は伊勢神宮をはじめとする諸社に、例年より高額の奉納をした。

そして左大臣の藤原永手と、右大臣の吉備真備の家に行幸して、永手に従一位を真備に正二位をさずけた。永手の妻の大野仲千も正四位上になった。

三月には大赦たいしゃをした。

この一連の行動は、退位するまえの天皇の動きだった。



五月二十五日。

称徳天皇が、不破内親王と息子の氷上ひかみの川継かわつぐを断罪したことを詔で発表した。

氷上塩焼が、琵琶湖のほとりで亡くなってから五年近くが過ぎている。

「氷上塩焼が反乱したのに、不破は重ねて不敬をおこなった。しかし朕は思うところがあるので罪を許す。それでくりや(台所)真人のまひと厨女くりやめ(台所の女)の姓名を与えて都を追う。

氷上川継は父の塩焼が朝廷を見捨てた日に、父とともに処分するべきだった。

しかし母の不破が、朕の異母妹であるために連座させなかった。ところが、その母の悪行が明らかになったので、志計志しけししけし、汚い)麻呂と名を与えて土佐国(高知県)に配流する」



貴族の邸は、自分の敷地内を区切って使うことが多い。

二品の井上いかみ内親王の邸の西南に、塀で囲まれた別棟がある。

そこに白壁王を父に井上内親王を母にする、十五歳の酒人さかひと女王にょうおうが暮らしている。

部屋を目指して走ってきた酒人さかひと小鈴のこりんが「騒いでる!」と声をあげた。

「なにがよ?」と部屋の中から、年かさの女従じょじゅうかさ理恵のりえが声をかける。

小鈴は、この別棟で酒人女王と一緒に育った乳母の娘で、年も同じ十五歳。いまは女従として酒人女王に仕えている。

王や女王は乳母の氏族の名で呼ばれることが多く、酒人女王も乳母の名で呼ばれている。女性は通称で呼ばれるから小鈴も小女と呼ばれていたが、それがイヤでイヤで、いつも腰に鈴をつけて小鈴と呼ばせることに成功した娘だ。

内院ないいんで大騒ぎしてる」と小鈴。

「なぜよ」と理恵。

「内親王さまがカンカンに怒ってる」と小鈴。

「だから、なぜよ?」と理恵。

「分からないから、見に行く?」と小鈴。

「行く!」と酒人女王。

「おやめください! また内親王さまに叱られます」と理恵。

「隠れてのぞけば見つからないわよ」と小鈴。

酒人女王が庭に出てきた。幼い頃でさえ妖艶だった山部王の異母妹は、野暮ったい服と髪型をしているのに色香を隠せない娘になっている。

「待って。酒人さま。行くならお供します」と酒人と小鈴のあとを理恵が追う。

そのあとを、もう一人の女従の山背やましろ毛野のけのが追った。

酒人が暮らす棟から、邸内を区切る塀にある戸を二回くぐり抜けると井上内親王の住む内院と呼ぶ区域に行ける。

内院はひさしを張り回した大きな高床たかゆかづくりの建物で、庭も広くて木々が茂っている。四人は木々のあいだに隠れて覗いた。

来客に会うための前殿と呼ぶ建物のきざはしの下で、一人の老婦人が庭にひざまづいているのを見える。その後ろに三人の従者がひざまづいてひれ伏している。


「なぜ白壁が来ない! なぜ、そなたを使わした。

わたしは白壁を呼びにやった。そなたを使わすなど、わたしにたいする不敬ふけいであろう!

白壁は、わたしの妹の不破ふわや、その子の川継かわつぐが罪人にされても平気なのか!」と女官を引きつれた井上内親王が、階の上から大声で怒鳴っている。

「帝の命に反することはできません」と庭土の上に座った老婦人が、毅然きぜんと首をあげて答えた。

「白壁は、不破を都の外に追いやるつもりか!」と井上内親王。

「すでに、不破さまは都の外にお移りになっております」と老婦人。

「白壁はなにをしていた。なぜ止めなかった!

不破は恐れおおくも、聖武天皇の内親王であるぞ!

すでに都を離れたのなら、その方が、ただちに迎えに行け!」と井上内親王が怒りにまかせて、手にした扇を老婦人に向けて投げつけた。

老婦人がヒョイと避ける。後ろに控えた従者の一人が、身を起してスッと扇を受け止めて横に置いて平伏しなおした。

「申しわけございませんが、帝に逆らえば反逆罪となります。

たとえご姉妹であっても、帝に逆らってはなりません。

内親王さま。お体にさわります。お怒りを収めて、おしずまりくださいませ」と老婦人。

「さがれ、さがれ。したり顔で、わたしに説教までするつもりか。

塩焼しおやきちゅうされたときも、白壁を召したが来なかった。

その方たちは、われらにうらみでも抱いているのか!

白壁とそなたが甘言かんげんろうして帝に取り入り、不破をおとしめたのであろう! 汚らわしい。二度と、その顔を見せるでない。

白壁にも言っておけ。二度と顔をだすでない。

そなたたちなど、はやくてるがよい!

すぐにでも、この世から失せろ!」と井上内親王が建物の中に入った。女官たちが後につづく。

二品の井上内親王の邸には、七十人の帳内ちょうないと呼ぶ身辺の世話をする女官と舎人が宮中から派遣される。そのほかに伊勢から仕えていて、女官と読んでいる女従たちもいる。

庭でひざまづいていた老婦人を従者が助け起した。老婦人の着物についた土を払って、三人の従者が老婦人を抱えるようにして門の方へ去った。


「あの方はどなた? お父さまの知りあい?」と隠れて見ていた酒人女王が聞く。

「知りません」と理恵。

「どうして、お母さまは怒っていらっしゃるの?」と酒人。

「調べてくる」と小鈴が走って消えた。

「まえに、一度、お見かけしました」と毛野が小さな声でつぶやく。

「どういう方か知っているの?」と理恵。

「山部王さまです」と毛野。

「山部王って酒人さまの異母兄の? どう見ても貴族の老婦人だったわよ。

しっかりしてよ。毛野さん」と理恵。

「扇を受けとめた従者です」と毛野。

「従者? ともかく見つかる前に帰りましょう。酒人さま。

小鈴が、なにか聞き込んでくるでしょう」と理恵がうながす。


「おばさま。膝を痛められたのではありませんか」と井上内親王の邸を出た従者姿の山部王が聞いた。

「なんてことはない。だけど困ったお方だねえ」と難波なにわ女王にょうおうが答える。

井上内親王の前でひざまづいていた難波女王は六十五歳で従四位下。ずっと弟の白壁王を支えてきた同母姉だ。従っていた従者は山部王と神王みわおう壱志濃王いちしのおうで、難波女王の甥になる。

神王は、白壁王と難波内親王の異母兄弟になる榎井えのいおうの子で、山部王と同じ三十一歳。壱志濃王も異母兄弟になる湯原王の子で三十五歳だ。

難波内親王を輿に乗せて、しばらく進むと奈貴王が合流した。

「始めて目にして、どう思った?」と奈貴王。

即応力そくおうりょくと判断力に欠ける」と山部王。

「サイテイだ。おばさまを庭で土下座させた」と壱志濃王。

「庭にひざまずかせた? 帝でさえ高齢の四位の女王に、そこまではなさらない」と奈貴王。

「いえ。ひざまずかせたのじゃなくて、お心に添えないからと、おばさまが主殿に上がらずに自分でひざまずいた」と神王。

「さすが、おばさまだ。怒りを誘ったのか?」と奈貴王。

「井上内親王は慌てて部屋から出てこられたが、ひざまずいたまま動かないおばさまを持て余して、最期には居丈高いたけだかに怒鳴られた」と神王。

「そのうえ扇まで投げつけられた」と壱志濃王。

「少しの判断力があれば、庭まで降りてきて手を取って主殿に導くはずだ。

その気転が無く、予想外のことに戸惑って怒りを露わにされた。

奈貴。一緒に来なかったが、今日は用でもあったのか?」と山部王。

「忘れたか? お前たち散位とちがって、わたしは侍従だ。それも女官に顔を覚えられるモテる侍従だ。内親王にも、お目にかかったことがある。

お前たちのように、従者のふりなどできはしない」と奈貴王。

「帝と内親王は似ておられるのか?」と山部王。

「気性がな。気位が高いのか、われわれ侍従とは話しをされない。

思い通りにならないと怒りを示される」と奈貴王。

「内親王は、四歳から二十七歳まで伊勢斎王として過ごされた方だ。

ずいぶん寂しい思いをされただろうし気苦労もなさったろうが、幼女のころからあがめられていたのは、皇太子になって即位した帝と同じだろう。

動揺されると、ご自分の存在を認めさせようとして怒りがこみ上げてくるのだろう。

血の巡りがその程度なら、女帝に立てたくないな」と山部王が言った。

「妻にもしたくない」と壱志濃王。


五月二十九日に、また称徳天皇が詔をだす。

「朕は犬部いぬべの姉部あねべ(本名・県犬養姉女)を身近に使うものとしてとりたて、官位をあげて良くとりはからってやった。

それなのに反逆心をもち、自分が率先して忍坂おしさか女王と石田女王をさそい、厨真人厨女(不破内親王)のところに密かに通い、汚い心をもった悪い奴どもと手を結んで謀略ぼうりゃくをこころみた。

それは朝廷を傾けて天下を混乱させ、さきに朕が嫌って土佐国に流した氷上塩焼の息子の志許志麻呂を天皇の位に立てようと企てて、汚らわしい佐保川さほがわのドクロを拾い、口にだすのも恐れ多い天皇(自分のこと)の髪を盗んで、ドクロのなかにいれて宮城にもちこみ、三度も呪いを行った。

すべて死刑に当たる罪だが、慈悲を与えることにして姓を変え遠流にする」


称徳天皇が丹比乙女という女儒じょじゅを使って告発させて、次の天皇として担ぎ上げられる恐れのある、聖武天皇の外孫になる氷上川継を都から遠ざけた。

五年近くも放っておいて、ここにきて母の不破内親王に罪をきせて川継を追放したのは、道鏡に皇位をゆずる準備が整ったからだ。

県犬養姉女は、不破内親王や井上内親王の母の広刀自に仕えた女官で、仲麻呂が逃げたあとで称徳天皇が呼び戻していた。忍坂女王と池田女王は、仲麻呂の乱で殺された氷上塩焼と陽候女王の姉妹だ。


この詔を聞かされた官人たちは、つくづくゲンナリした。

称徳天皇は五十一歳になるのに文が幼く、またも名前を変えて人をいやしめる言葉遊びをしている。それは「橘奈良麻呂の乱」でむごたらしく殺された二世王たちを思い出させた。

太政官になって七年もたち六十七歳になる清麻呂を抜いて、弓削清人が大納言になったことも官人の不評を買っている。清人の評判を落としてはならない時期だったので、このあと称徳天皇は、中臣清麻呂に氏姓の上に大をつけるようにと恩恵をあたえる。

温厚な清麻呂は不平も不満もなかったのだが、いご清麻呂は大中臣と名乗ることになれる。



八月初め。

九州の宇佐八幡に足げく通っていた大宰府の主神かんづかさ(神社の祭りなどを扱う官人)の習宜すげの阿曽麻呂あそまろが、大宰帥だざいのかみ弓削清人ゆげのきよひとに命じられて都に向かったという知らせが、太宰の少弐しょうすけの淡海三船から吉備真備のもとに届いた。                                                                                                                

それを受けとった真備は、おおいに笑った。

何も伝えなくてもツーと言えばカー、阿吽あうんの呼吸とはこのことだ。

この分だとズレないブレない正義漢の三船が、すでに宇佐八幡神社に鎮座ちんざしているかも知れない。


八月二十三日に称徳天皇は、弓削清人が都に送った大宰府の主神の習宜阿曾麻呂から、「道鏡を皇位につければ天下が泰平になる」という神託しんたくを、宇佐八幡がだすのを承知したという知らせを受けた。

そこで和気わけの清麻呂きよまろを呼んで命じた。

「昨夜の夢に八幡神の使いがきて、大神が伝えたいことがあるから法均ほうきんをよこすようにといった。遠い地だから、おまえが法均の代わりに宇佐八幡神社まで行き、神託を聞いてくるように」

和気清麻呂は法均の弟で従五位下の三十四歳。姉と同じに誠実な男だった。


九月七日に、和気清麻呂が宇佐八幡に着いた。

太宰帥の弓削清人も帝からの使者なので少弐を連れて出迎えて、一緒に神託を聞いた。少弐の二人を伴ったのは、神託の証言者が欲しかったからだ。

ただ、そのご神託は、清人が準備したものと違っていた。

清人は都に帰る和気清麻呂を止めようと私兵を集めて後を追わせた。ただ少弐の淡海三船と大伴家持が、すでに天皇が寄越された勅使だからと清麻呂に衛士をつけて警護させていたから、清人が出した追っ手は届かなかった。

 

九月二十五日に、和気清麻呂が都に戻って宇佐八幡の神託を伝えた。

「わが国は、はじまってから君臣の序列はきまっている。臣下を君主とすることは今までなかった。皇位には必ず皇系を立てよ。非常識な人は早く除け」

さきに宇佐八幡をおさえていた、太政官たちが勝った。

神託によって道鏡に皇位を譲ろうとしていた称徳天皇はカンカンに怒ったが、神さまを不敬罪や反逆罪で捕らえるわけにはゆかない。

そこで使いをした和気清麻呂に、別部わけべのきたな麻呂まろという名を与え、官職を解いて大隅国おおすみこく(鹿児島県)へ流刑にした。

姉の法均は還俗させて広虫売ひろむしめという名を与えて、備後びんごのくに(広島県)に流刑にした。

神託を伝えただけの清麻呂と姉の法均を断罪するのは、まったく筋が通らないから、称徳天皇と官人たちの表立たない溝はさらに深まった。



重祚してから称徳天皇は、どんよりした反発を感じつづけている。

しかし、それが形にならない。面と向かって反対したのは宇佐八幡の神さまだけで、太政官たちも他の官人も、何をしても従順で大人しく従っている。

十月一日に、称徳天皇は朝堂に官人を集めて、自分は草壁皇子の血をつぎ聖武天皇が決めた正当な天皇だいう、これまでに何回もだした詔を聞かせる。

そあとで五位以上の貴族たちに、金泥きんでいで「恕」という字を書いた紫色の帯をくばって、いつも身につけるようにと命じた。

じょ」という字には思いやりという意味があるが、貴族たちは「恕」でなく「」の心を真綿でくるんで腹に収め、うやうやしく、ありがたそうに紫の帯を身につけた。

十月十五日から、称徳天皇は紫の帯をしめた貴族をひきつれて、道鏡の故郷の弓削郷ゆげきょう(大阪府河内市)に行幸する。都にもどった十月三十日には、弓削を由義ゆげと文字をかえて西都さいととにすると決めた。

皇位を譲れないのなら、ふるさとの由義を宗教都市にして道鏡に残すつもりだった。

由義のある河内かわちのかみになったのは、従四位上になった藤原雄田麻呂おだまろだった。





天武天皇――草壁皇子――文武天皇――聖武天皇――称徳天皇(孝謙)

                                            

天武天皇――舎人親王―――三原王―――和気王

     (贈・天皇)  舟親王

             池田親王        

             淳仁天皇


陰陽師 大津大浦    藤原種継  

                巫女 紀益女      ‖――仲成

              授刀衛督 粟田道麿―――――娘 


天武天皇――新田部親王――陽候女王(仲麻呂室)

             石田女王         

             忍坂女王

             氷上塩焼

               ‖―――――川継

      県犬養広刀自 不破内親王

        ‖――――井上内親王 

      聖武天皇     ‖―――――酒人女王

               ‖     他戸王

               ‖

天智天皇――志貴皇子―――白壁王―――――山部王     

             難波女王

             榎井王―――――神王     

                   

天武天皇――長皇子――――文室浄三

             文室大市


          法王 弓削道鏡

     太政官 左大臣 藤原永手(北家)

         右大臣 吉備真備       

         大納言 白壁王

         大納言 弓削清人(太宰帥)

         中納言 大中臣清麻呂

          参議 石川豊成

          参議 文室大市

          参議 石上宅嗣

          参議 藤原田麻呂(式家)

          参議 藤原縄麻呂(南家)

          参議 藤原継縄(南家) 

          参議 藤原魚名(北家)

      

        太宰少弐 淡海三船

        太宰少弐 大伴家持


       造西大寺司 佐伯今毛人

       造西隆寺司 伊勢老人


          女官 飯高笠目

          女官 久米若女

          女官 法均(和気広虫)

             和気清麻呂


     酒人女王・女従 笠理恵

          女従 山背毛野

          女従 酒人小鈴            

         

          侍従 奈貴王

         兵部卿 藤原宿奈麻呂(式家)

         河内守 藤原雄田麻呂(式家)





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