十  湖畔の露と消ゆ  仲麻呂の乱終盤


七六四年(天平宝字八年)九月から十月 


九月十六日。七時。近江国。海津かいづ

雲行きが速い日だったが、仲麻呂たちは海津港に集めた舟を連ねて、塩津港しおづこうに向けて出港した。

海津も塩津も琵琶湖の北に並んでいて、海津が西で塩津が東になる。

二つの港の距離は地図の上では二十キロほどだが、あいだに大崎の岩礁がんしょうが突きでている。



平城京。内裏。

内裏では、庭に造られた祈祷所きとうしょ紀益女きのますめが祈祷をはじめた。

久米若女、吉備由利、大野仲千、法均ほうきん、百済王明信、阿部古美奈、女官になった藤原諸姉もろねと藤原人数ひとかずが、それを見ている。

法均は、孝謙太政天皇が出家したときに一緒に出家した和気わけの広虫ひろむしだ。

若女は五十二歳。由利は四十六歳。仲千は四十四歳。法均は三十四歳。古美奈は三十一歳。明信は二十三歳。諸姉と人数は二十二歳になった。

太政官たちが内裏に詰めているので、女官も忙しい。

「すごい迫力ねえ」と由利。

「昨日は日が暮れるまで、休まずに祈祷なさったそうです。

祈祷が利いて、討伐に向かった、みなさまが、ご無事だと良いですね」と法均。

「あなたが仏さまに祈ったほうが効くと思う」と由利。

横で祈祷を見ていた美しい女官が「お先に」と言って去った。

「見慣れない方だけど、あの方は、どなた?」と由利。

たちばな真都我のまつがさま。正五位上を賜っておられます。

仲麻呂が反逆者になってから、上台さまがお召しになった方よ。

諸兄もろえさまの弟の佐為さいさまの四女だから、上台さまのイトコになる方で、南家の藤原黒麻呂さまの夫人よ」と若女。

「黒麻呂さまって、乙麻呂さまの、ご子息の?」と由利。

「うん。仲麻呂の弟で、四年前に亡くなった乙麻呂さんの息子の夫人。

その前は、お父さんの乙麻呂さんの夫人だったけどね」と明信。

「えっ。父親の夫人だったのに、いまは息子の夫人なの?」と諸姉。

「どういうこと? 乙麻呂さんが亡くなったから?」と人数。

「諸姉さん。人数さん。しずかに」と古美奈が二人をたしなめる。

「そうじゃない。乙麻呂さんが元気なときに、黒麻呂さんがお父さんに、自分の夫人に欲しいと頼んだのよ」と明信。

「ワーッ。すてき」「父と息子に愛されたのね。夢みたい!」と諸姉と人数。

「明信さん。人の噂はしない方が良いわよ。若い子が何を言いふらすか分からないでしょう」と若女。

「噂じゃなくてホントのことよ。真都我さんだって、ホントのことを知ってもらいたいと思うわ。

南家は大変だったのよ。うちは仲麻呂に嫌われた豊成さんの息子だから地方に飛ばされたけど、その方が楽だったかもしれない。

乙麻呂さんと巨勢麻呂さんは仲麻呂の弟だから、長兄の豊成さんがいなくなってからは、仲麻呂の言いなりになるしかなかったのよ。

いまだから言えるけど、乙麻呂さんも巨勢麻呂さんも仲麻呂のやり方に賛成していた訳じゃない。とくに橘奈良麻呂さんたちのことは憤慨していた。

それでも従うしかなかったのよ。真都我さんは奈良麻呂さんのイトコよ。

お父さんの橘佐為さまが早くに亡くなって、乙麻呂さんの夫人になっていたから連座は逃れたけれどね。

仲麻呂に配下のように扱われていた乙麻呂さんの夫人でいるのは辛いでしょうよ。

まだ若くて目立たないようにしていた黒麻呂さんが、真都我さんを夫人にしたのは、そのころよ」と明信。

「二人して真都我さんを守ったのね」と若女。

「半端に知っているより、分かりやすいでしょ。

真都我さんは光明皇太后の女官だったから、そこの若い二人は見習うと良いわ。

さて、わたしは、ちょっと東北の門の守りの方々の世話が行き届いているか確かめてくるね」と明信が離れていった。

「そこの若い二人って、わたしたちのこと?」と人数。

「一歳しか違わないのに! どうして女官が衛門を守っているの人の世話までするのよ?」と諸姉。

「放っておきなさい。意中の人が気になるのよ」と由利。

「意中の人って、夫がいるじゃない!」と人数。

「大丈夫。相手にされないで、ただ眺めて戻って来るから」と由利。

「東北の門って丹比門たじひもん? そんなに遠くまで行く気なの?

守っているのは秦氏はたしだけど、まさか、うちの種継じゃないでしょうね?」と若女。

「ちがうの。ほら、山部王」と由利が小声で言う。

「あら、そうだったの」と若女。

「聞き覚えがないけれど、どなた?」と仲千。

「だれ?」「だれ?」と諸姉と人数。

「さあ、あなた方は法均さんのお供をして、縫殿寮ぬいどのりょうへ行ってくださいね。法均さん。お願いします」と古美奈が、諸姉と人数の背中を押す。

「話はうるさいのがいないときに。わたしたちは戻りましょう」と若女が仲千にささやく。

「上台さまも、こんなときに、なにも金糸や銀糸で刺繍ししゅうをした豪華な袈裟けさを、道鏡さんのために用意されなくてもよろしいのに」と古美奈。

「戦が終わったら着せて、そばにおきたいのでしょう」と由利。

「道鏡さんは、いつもの法衣を望まれると思います」と古美奈。

「そこが一番、厄介やっかいなところよ」と由利。

「道鏡さんは辞退なさるでしょうね。

だからこそ上台さまは、さらに良いものを、さらに高い地位を与えようとされます。まったくの悪循環です」と仲千。

「上台さまと同じような法衣を作るのは、それなりの地位を与えるつもりでしょうね」と由利。 

「またまた困ったことが起こりそうですね」と若女が眉をひそめた。

孝謙太政天皇が道鏡のために豪華な法衣を作らせたことは、若女たちから藤原式家へ、仲千と人数から藤原北家へ、由利から吉備真備へ、明信から山部王を経由して白壁王と文室大市へと、すぐに伝わった。



八時。

太政官たちが内裏の一室で、新しく送り出す討伐軍の大将を決める会議を行っている。

「今回の賊軍は、もとは藤原一族です。これは藤原氏の失態です。

討伐軍の大将は、どうしても藤原氏から出していただきたい。

しかし北家は親族ですので、いざ向き合ったときに情に流されるかも知れません」と永手。

「そこで仲麻呂と関わりのない式家から、大将を選んで欲しいと思います。

式家で武勇に優れているのは、末弟の蔵下麻呂です」と藤原真盾。

「蔵下麻呂は、まだ若いでしょう」と文屋大市。

「たしか三十歳です」と真楯。

「大丈夫でしょうか?」と石川豊成。

「兄の宿奈麻呂が、介添えとしてついて行くと言っています」と真楯。

「それは良い。一人で仲麻呂を殺そうとした宿奈麻呂は、討伐軍の旗印みたいなものですからね。宿奈麻呂もいくのなら決まりじゃないですか」と文室大市。

「そうですねえ。わたしも賛成します」と中臣清麻呂。

「いいでしょう」と石川豊成。

「わたしも、異義はありません」と白壁王。

「では、そのように奏上させてもらいましょう」と永手。

「それはそうと、みなさん。今回の討伐軍を派遣されるのは上台さまです。

ですが上台さまは退位された太政天皇ですし、淳仁天皇は正式に退位されておりませんから、今生こんじょう天皇にあたります。

軍を動かせるのは天皇だけですから、太上天皇が軍を動かしたという前例は作らないほうが良いでしょう。

今回は逆賊を討ち取るのために官人を派遣するという形をとって、徴兵もしておりません。あくまでも太政官印を盗んで逃げた賊を、追捕ついぶするために官人を派遣するという形を取っています。

ですから大将に節刀せっとうを授けたり、勅使ちょくしをつけることもやめた方がよいと思います。

永手さんは、どう思われます?」と白壁王が聞く。

人と競わず政治に無関心だと思われていた白壁王が、ここにきて的確な発言をはじめたと思いながら永手がうなずいた。

「分かりました。節刀と勅使は控えるように進言しましょう」と永手。

「美濃と越前の国守の件はどうします。

これは急いで決める必要があります」と石川豊成。

「美濃には、うちの末弟の楓麻呂かえでまろをやったらどうでしょうか」と真盾。

「よろしいでしょう。みなさんは?」と白壁王。

「同意します。美濃は伊勢街道から入れますし、紫香楽京から近江へ続く道も、荒れていますが使えるでしょう。

越前は、愛発関のそばが戦場になりそうです。そうなると都からは送れませんよ。

越前守は、どうしますか?」と中臣清麻呂。

「すでに東国に赴任している国守を、交代させるしかありません」と永手。

信濃守しなののかみとして、藤原継縄が赴任しています。

信濃(長野県)から、越前(福井県)に行ってもらったらどうでしょう」と真盾。

「継縄さんは、藤原南家の豊成とよなりさんの次男ですか。長男が出家されたそうで、嫡子ちゃくしになられますか?」と文室大市。

「まだ決まっていません」と永手。

「兄弟ですが、豊成さんは仲麻呂と対立して追放されました。豊成さんの一族なら安心です」と真盾。

「信濃から越前にむかう街道がありましたっけ?」と文室大市。

「ありません。非常事態なので山を越えて来てもらいましょう」と真盾。

「山越えですか。とんだ、ご苦労をかけてしまいますが、それでは嗣縄さんにお願いしましょう」と石川豊成。残りの太政官がうなずいた。

「こんどは討伐軍に、どれぐらいの人が応募したのですか」と中臣清麻呂。

「百人ほどと聞いています」と白壁王。

「それでは上台さまのもとに参上しましょうか」と石川豊成。

「お先にどうぞ。少し兄と話があります」と真楯が言う。

「話ってなんだ」と、だれもいなくなると永手が聞いた。

「空席になっている大臣のことです。すぐに右大臣を立てる必要があります。

功績からも序列からも兄上ですが、このままでは仲麻呂を出した藤原南家がつぶれます。わたしは南家をつぶしたくありません。

豊成さんは、ずいぶん弱られているらしいです」と真楯。

通例では、大納言のなかから大臣を立てる。いまの大納言は永手だけで、今回の功績で右大臣になって当然の立場にいる。真楯は、永手に右大臣になるのをあきらめて、仲麻呂の兄の豊成を復権させろとすすめている。

豊成は「橘奈良麻呂の乱」のときに、三男が奈良麻呂と親しかったという理由で連座し、本人も右大臣としての能力不足を問われて失脚した。太宰員外帥いんがいのそちとして九州に送られる途中で病に倒れ、ずっと難波なにわにとどまっている。

「分かった。豊成さんを右大臣として戻すように、明日の太政官会議で協議しよう。賛成がえられたら、上台さまに進言しよう。

だが真楯。上台さまは道鏡を表にだすおつもりらしい。

おそらく道鏡を大臣か、それ以上の地位にするおつもりだろう」と永手。

「道鏡は弓削氏の出身で大きなばつを持ちませんが、僧綱そうごうがついています。

上台さまが道鏡を取り立てると、反発する勢力がでてきますね」と真楯がため息をついた。



八時半。越前国 塩津。

昨日、暗くなってから馬を引いて塩津に着いた恵美真先、恵美朝狩、仲石伴、大伴古薩、石川氏人、阿部小路のもとに、早朝に海津港から出航した恵美仲麻呂や氷上塩焼たちが乗った舟が突風にあって、高嶋郡の南のほうへ吹き返されたという噂が入ってきた。

「なんだと! 確かなことなのか?」と真先。

「舟団がチリジリになって、流されるのを見たそうです」と噂を聞いてきた石川氏人の私兵が答える。

「どの舟もか?」と真先。

「はい。すべての舟が流されたそうです」

「沈んでは、いないのだな」と朝狩。

「沈没したとは聞いていません。このあたりは比良ひらから強風が吹き込むそうです」

「すぐに戻って、大師さまたちを探そう」と真先。

「待ってください。真先さん。

ここまで来て、全員が高嶋まで戻るのですか?」と仲石伴が止めた。

腰を浮かせかけていた真先が座り直す。

仲石伴をはじめ、大伴古薩、石川氏人、阿部小路が渋い顔をしている。

「真先さん。わたしは、すぐに愛発関に向かいたいと思います」と仲石伴。

「他の方も、そうなのでしょうか」と朝苅。

「都を発ってから、すでに五日になります。時が経つほど危険が高くなります」と石川氏人。

「高嶋に戻って、また塩津を目指すのですか?

なぜ海津から、直接、関に向かわなかったのでしょう。

そうしていれば、海難にも合わなかったでしょう」と阿部小路が本音を口にした。

真先と朝苅が顔を見合わせる。


真先は押勝の次男だが、長男が早世したので嫡男になる。

牡鹿嶋足おじかのしまたりに殺された三男の訓儒麻呂くずまろと、四男の朝苅、美濃守をしていた九男の執棹とりかじの母は、藤原北家の宇比良古うひらこで同母兄弟だった。

仲麻呂は息子たちを、自分の忠実な部下になるように育てた。

三十六歳の真先と三十二歳の朝苅は反抗もせずに仲麻呂の望みどおりの息子になったが、父親の言うことを聞く素直さがあるから、仲岩伴たちの言い分も分かる。

これから遭難した舟を探して一族を揃えて越前に向かへば、さらに何日かが必要になる。その間に、朝廷から追捕の兵が来るかも知れない。

私兵を連れて恵美氏に合流してくれた仲石伴たちを、ここで留めて危険な目に遭わせるのは申し訳ない。

「分かりました。みなさんは、ここから関に向かわれますか」と真先。

「はい。わたしも、そうしたいと思います。

一刻も早く越前の辛加知しかちさんと連絡を取って、こちらも体制を整えるのが良いと思います」と大伴古薩。

「わたしも越前へ向かいます」と阿部小路。石川氏人もうなづく。

「わたしたちは舟を探しに高嶋へ戻ります」と朝苅。

吹き戻された舟には、真先と朝苅の妻や子供が乗っている。まだ子供たちは幼い。

「なるべく早く、越前から迎えの軍を派遣できるようにします」と仲石伴。

「馬はどうします?」と石川氏人。

「余分な馬は、ここであずかってもらいます」と朝苅。


「真先さん。朝苅さん。越前の兵を連れて戻りますから、それまでお元気で。

日数が経つほど朝廷も動くでしょうから、くれぐれも用心をしてください」と仲石伴。

仲石伴ら四人は、自分たちがつれてきた六十八人の私兵をつれて、越前塩津からの五里半越えで関に向かう。

「石伴さん。みなさん。ありがとうございます。みなさんも気をつけてください」と真先と朝苅。

山へ向かって去って行く仲石伴たちを見送ると、真先と朝苅は馬にまたがった。馬上から駅家の人に軽く挨拶をして、二十人の田村題資人を従えて二人は高島郡に向かって馬を進めた。

「タケや。タケ」と見送っていた塩津の駅家うまやの駅長が、真先たちが見えなくなると駅子えきしと呼ぶ小者の一人を手でまねいて言った。

「すまないが海津の駅家に行って、まえに泊まった討伐隊の兵士たちと連絡が取れないか、聞いてきておくれ」と駅長。

「聞いてどうする?」とタケ。

「連絡ができるようなら、今、出ていったお客さんのことを伝えておくれ」と駅長。

「チクるのか」とタケ。

「賊軍ですからね」と駅長。

「賊軍と知っていて泊めたのか」とタケ。

「しょうがないでしょう。ここは駅家ですよ。

わたしたちは官人ではなく民間人です。九十人もの殺気だった武装集団に、おことわりします。帰ってくださいとは言えません。

そのかわりに、討伐隊のことは一言も洩らしませんでした。

さあ。タケや。ツベコベ言わずに、お使いをしておくれ」と駅長。

「だけど討伐隊は、関へ登って行ったじゃないか?」とタケ。

「賊軍が、こっちにいるのです。関を押えたら戻ってくるでしょう。

戻ってくるなら海津かいづのほうです。討伐隊と連絡がついたら、賊軍の数や、言ったりしたりしたことを伝えるのですよ」と駅長。

「どうしてもか? 昨夜ゆうべ泊まったのは善い人たちだった。賊に見えなかった」とタケ。

「おまえに言われなくとも分かっています。行儀正しい、りっぱな貴族の若者たちでした。

まえに泊まった討伐隊の若者も、気の善い人たちでした。

どうして、あんな若者たちが戦わなければならないのでしょう。

このシワ首をさしだして、止められるなら止めていますよ。

タケや。どうにもならないこともあります。わたしたちは朝廷をあざむくことはできません。

さあ。きげんを直してお使いをしておくれ」と駅長。

「昨夜、海津の駅家は賊軍の親玉たちを泊めて、今朝は海津の港から舟に乗せて送り出した。あの駅長は賊軍の手先かも知れない」とタケ。

「ウチと同じで、断れなかっただけですよ」

「普段から塩津の駅長は恐い。一人じゃ、おぼつかない。おっかない」とタケ。

「しょうがない。スケも連れてお行き。

わたしは風がいだら舟をだして、昨夜、賊軍が泊ったことを近江国府に知らせにやります。関はどうなっているのでしょうね」と駅長さんは、心配そうに山を見あげた。

「そうだな」とタケも真似して見あげる。

「なにしているのです。さっさとお行き」と駅長。

「今出たら、さっき行った人をすぐに追い越す。いいのか。駅長」とタケ。

「じゃあ、頃合いをみて行くのですよ」と二人は並んで関のある山を見上げた。




九時。越前国。愛発関あらちのせき

越前国府まで行って恵美辛加知しかちを斬った佐伯伊多治いたじ、紀鯖麻呂さばまろ、大伴形見かたみたちが愛発関にもどってきた。

「田村第資人だ。三十人ぐらいはいた」と関を守っていた物部もののべの広成ひろなりが、ムシロに寝かされた九人の遺体を指していう。

「いつ来た」と大伴形見。

「昨日の昼過ぎだ」と物部広成。

「仲麻呂たちが、ふもとまで来ているのか」と佐伯伊多治。

「ふもとのようすは分からない。こやつらが登ってきたのは海津からだ。

都に伝令を送りたいが、ヘタに動いて手のうちを悟られたくない」と関を守っている日下部くさかべの古麻呂こまろが答える。

「この田村第資人が来てからは、だれも来ないのか」と紀鯖麻呂。

「こない」

「どうしてだろう?」

「田村第資人の鎧の色を見て問答なしで矢を放ったから、われわれが関を固めていることも人数も知られていないはずだ」と日下部古麻呂。

「こっちも越前守の恵美辛加知を斬って、すぐにもどってきた。

辛加知が亡くなったことを知っているのは、われらと越前国府こくふの役人と郡司ぐんじたちだけだ」と大伴形見。

「この関を通った者はいないから、辛加知が亡くなったことを、賊軍が知るすべはない」と物部広成。

「すると敵は、ここを通って越前に行こうとするだろう。

わたしは一休みしたら押勝を追いかけたいが、かまわないだろうか」と佐伯伊多治。

「いけ。愛発関は必ず守る。誰一人、通さない」と物部広成。

「ここは任せておけ。おそらく逆賊は二倍以上の数だ。気を抜くなよ」と日下部古麻呂。

「ケガをしたものを四名、敦賀であずかってもらっている」と紀鯖麻呂。

「分かった。山を下りるときに伝令を一緒につれていって欲しい。ここには二人を残すだけでよい。つぎに伝令を出すときは、関が破られたときだけだ。

その伝令のために二騎を残して、われらの馬は持っていけ」と日下部古麻呂。

「こっちも伝令を出したい。情報量が多いから二人を送る。関にいた伝令の一人を、一緒に都に送れば良いのだな」と大伴形見。

「そうしてくれ。それで、どっちの道を降りるつもりだ」と物部広成。

「敵が登ってきたという道を降りる。湖西こせいからくる賊軍に近いのは海津だと、越前塩津の駅長が言っていただろ」と佐伯伊多治。

「気をつけろよ。途中で賊の本隊とぶつかるかも知れない」と物部広成。

「人手をけませんが、道を良く知っている小者を一人つけましょう。

見通しの良いところや、隠れるのに良い場所を知っています。

その小者が海津港の舵主だしゅも知っていますから、その船に伝令を乗せてください」と関司が言った。


 十一時。

「ありがとな」と言いながら、佐伯伊多治が借りている馬を敦賀つるがの嶋麻呂しままろに返そうとした。馬は高価な財産で奴婢ぬひ(どれい)より高い。

「乗ってけよ」と敦賀嶋麻呂。

「いいのか」と大伴形見。

「返す気があるなら、戦が終わってから、どこかの駅家にあずけりゃ良いさ。うちに知らせが来るだろう。

一緒に行きたいけど、近江だろ。ここから先は、敦賀の郡司ぐんじの出番はないわな。

みんな、どんなときも生きようとしろよ。あきらめずに生き抜けよ。生きて家に帰ると約束しろ!」と敦賀嶋麻呂が叫ぶ。

「おう! 生き抜くぞ!」と佐伯伊多治。

「生きて帰るよ!」と大伴形見。

「そのうち越前の国司こくしになって、会いにいくさ!」と紀鯖麻呂。

「待ってる。待ってるぞ! 愛発関の矢や食い物は、敦賀から運ぶから心配するな」と敦賀嶋麻呂。

一休みした佐伯伊多治と紀鯖麻呂と大伴形見と五十六人の兵と、八人の伝令と関の小者が一人、海津を目指して愛発関をたった。

もともと奇襲のために送られた遊撃隊だから、周りをうかがっての、ゆっくりした足並みだ。


塩津の駅長が手でつくった三角形の頂点が愛発関とすると、討伐隊の佐伯伊多治たちは左の斜線になる西の山道を降りた。逆賊の仲石伴や阿部小路たちは右の斜線になる東の山道を関に向かって登っていた。

恵美真先と恵美朝狩は二十人の田村第資人をつれて、三角形の底辺を右から左に、東から西に、舟が流されたという浜を目指して馬を駆っていた。

その先を、愛発関から逃げてきた田村第資人たちが駆けていた。十四日の朝に角家足つぬのいえたりの邸を出発したときは三十人いたが、いまは十九人しか残っていなかった。



十四時。越前国。愛発関。

仲石伴たちが六十八人の私兵をつれて愛発関のそばまできた。関は静まりかえっている。

「おかしい」と大伴古薩が止めた。

「なにが?」と仲石伴。

狭間はざまが光った。矢を構えている」と大伴古薩。

「二日前に、角家足の邸から先に関に向かった田村第資人が、討伐軍を警戒しているのだろう」と阿部小路。

「声の大きいものはいるか。名乗って関を開けるように伝えろ」と石川氏人。

一人の私兵が前にでてなる。

「越前国府へ行く。仲石伴さま。大伴古薩さま。石川氏人さま。阿部小路さまだ。開門をお願いする!」

関からは返事がない。

関を守っている日下部古麻呂と物部広成は、恵美一族と一緒に行動する人が誰か分かる前に都を離れた。田村第資人は一目で分かる武具をつけているが、この一行の武具は、まちまちだ。

「賊か。味方か。どうする?」と関では物部広成。

「朝廷から送られたのなら、まず、それを名乗るだろう」と日下部古麻呂。

「どっちにしろ、あんなところで名乗られたんじゃ、こっちの矢が届かないだろ。

オーイ。聞こえない。もっと、そばへ寄ってくれ」と敦賀嶋麻呂が、狭間から中途半端な声をだして呼びかけた。

「なんだって?」と賊軍の石川氏人。

「聞こえないらしい。もっと近づこう」と仲石伴。

「オーイ。聞こえるか。われらは大師さまより先に国府に行く。早く関の門を開けろ」と大伴古薩が怒鳴った。

関では、物部広成たちが「敵だ!」と声をあげた。

「これは失礼しました。ただいま門を開けますから、こちらへおこしください」と敦賀嶋麻呂が、今度は大声で反逆軍に伝える。

「近づいてくるまで、まて」と物部広成。

「よし。射程距離に入った。いまだ。討て!」と日下部古麻呂が命じる。

矢が放たれて数人の私兵が倒れた。

「さがれ!」と大伴古薩がさけぶ。反逆軍は山道に逃げ込んだ。


「追ってきているか」と大伴古薩。

「こないようだ」と言いながら阿部小路が道端に腰をおろす。

山肌を削って石垣でおさえた馬一頭が通れるだけの細道で、石垣のうえには木立が茂りクマ笹が伸びている。

「どうなっている。田村第資人を先にやって関は押さえたはずだろう?」と仲石伴。

「敵の手に落ちているのではないでしょうか?」と石川氏人。

「どうやって敵が、愛発関を押さえることができる」と阿部小路。

「湖東を通って先乗りしたのだろうか?」と大伴古薩。

「先にやった田村第資人たちは、どうしたのでしょう。

やつらは十四日に高嶋の角家足のところを出て、真っ直ぐ愛発関に向かったはずです。十五日の昼過ぎには、関に着いているはずです」と阿部小路。

「唐橋が焼けたのは、いつだった?」仲石伴。

「十一日の夜だ。やはり、あれは朝廷の仕業か?」と大伴古薩。

「湖東を通れば、先に愛発関につけるのではないのか」と仲石伴。

「三日半ですか。ギリギリですが着くかも知れません」と阿部小路。

「途中に不破関ふわのせきがある。不破によらずに愛発に来たというのですか?」と石川氏人。

「都を出たときには、普段より人を増やして舎人たちは宮城を警備していた。

こんなに早く動けるはずがない」と仲石伴。

「関が閉じられているのだから固関使は来ています。

固関使と一緒に勅書ちょくしょも届いているでしょう。勅書には恵美氏の謀反が書かれています。

関司が勅書を信じて守っているのでしょうか」と阿部小路。

「このことを、はやく越前国府にいる恵美辛加知さんに知らせなければ」と石川氏人。

「関を通らずに山を抜けるか」と仲石伴が木立を透かし見る。

「ともかく、やってみよう」と大伴古薩。

関を回り込んで抜けようと山に入ってみたが、丈高くのびた夏草の中に鳴子なるこが張られて足にからんで音を立てる。すると音のする方に何本もの矢が飛んでくる。

それでも仲石伴たちは関を抜けて越前国府まで行けば恵美辛加知がいると、夜になっても関の周囲を回り込んで抜けようと粘った。



同じ十四時。近江国。国府。

美濃で捕らえられた恵美執棹とりかじの家族と美濃国の役人たちが、坂田郡司坂田山城たちに送られて近江国府に着いた。

「恵美執棹は武装をして、国庁の後殿こうでんで役人たちに警護されたいたのですか?」と近江介の上毛野かみけのの広浜ひろはまが、一緒に着いた伝令に聞く。

「執棹は武装していませんでしたが、介が武装していました。

後殿に入るときに役人と揉み合って捕縛者が多くなりました」と伝令。

「まだ幼い子供もいますが、あんな子供まで牢にいれるのですか」と広浜。

「女性と子供は執棹の家族です。朝廷から断罪の沙汰があるまで、あずかってください。あのう、淡海三船さんは?」と伝令。

「しばらく残ってくださいと頼んだのですが、溜池をつくりに来ただけだからと帰ってしまわれました」と広浜。

「唐橋がないのに?」と伝令。

「ここには舟がありますから。あなたと馬も西岸の瀬田まで送りましょう」と広浜。

つれてこられた捕虜の中に、早くから孝謙太政天皇の勅を信じて、討伐隊のために後殿の扉のかんぬきをはずした美濃少掾しょうじょう村国むらくにの嶋主しまぬしもいた。



十七時過ぎ。近江国。海津。

恵美真先と恵美朝狩と二十人の田村題資人たちは、すでに海津を通りこして高嶋郡の浜にむかっている。それより先を、愛発関で矢を射かけられた田村第資人たちが高島郡の浜へ向かっていた。


討伐隊の佐伯伊多治、紀鯖麻呂、大伴形見は、五十六人の兵士と八人の伝令をつれて海津の港にいた。

「この方たちは、反逆者を追ってきた朝廷の討伐隊です!」と愛発関の小者が、海津港の舵主だしゅ(船頭)に言った。

「大声を出さなくても分かった。分かったよ。おまえの言うことを信用するさ。

だが何度も言うように舟は出せねえ。朝のうちは南西へ向かう強風が吹いていたが、ほらよ」と舵主は、人差し指をペロッとなめて真っ直ぐに立てた。

「いまは南から北へ風が吹いてるだろう。

朝の舟みたいに漕ぎだしたはいいが、吹き戻されたんじゃかなわねえ」と舵主。

「海難事故でもありましたか?」と関の小者が聞く。

「ああ。わしの舟は、たまたま陸にあげて底板をき直してたから助かったがな。都のお偉いさんが来ていなすって、ありったけの舟を集めて、ここから塩津に向かったのよ。

朝方は強い北風が南西に向かって吹いていたからさ。舵手は渋ったが聞き入れちゃくれねえ。だからよ。

港を出ると、すぐに船団はチリヂリになって高嶋の浜に打ち上げられたとさ。

お前さんがたも、風がおさまるまで待つことだな」と舵主。

「その、お偉いさんって、どういう人か分かりますか」と紀鯖麻呂が聞いた。

「さあて、ねえ。都のことは知らねえからよう。

よく分からねえが、帝がおられると聞いたな」と舵主。

「帝が?」と大伴形見。

「噂では、都で一番のお偉いさんが反乱したと言うしよ。

おまえさんらが朝廷からきた討伐隊だと言うんだからさ。ワケ分からねえ。

だからさ。わしは知り合いの関の小者を信じるさ」と舵手。

「あの、その水難事故で、どなたか亡くなりましたか?」と紀鯖麻呂。

「いんや。舟は壊れたが、うめえぐあいに浅瀬に乗りあげたから人死ひとしには出ちゃいねえそうだ」

「吹き戻された舟のことを、もっと調べられますか」と佐伯伊多治。

「噂ならな。

それより、そこで雁首がんくびを並べられたら、こっちが落ち着かねえからよ。

ところで、おまえさんらは何人だ。そんなにゃ乗せられねえよ」と舵手。

「舟を使うのは三人だけで、ほかは、ここに残ります」と大伴形見。

「そんじゃ、どっかの船小屋にでも入って休めや。

ああ、そうだ。それで思いだした。

海津かいづ駅舎うまやが、塩津しおづの駅舎から関に向かった朝廷の討伐隊がいたら、来るように伝えてくれと探しているが、おまえさんらのことか?」

「多分」と紀鯖麻呂。

「朝廷軍なら、身分が低くても駅家が使えるだろう。ともかく駅家へ行きな。

舟が出せるようなら知らせをやるからよ」と舵主。

「海津の駅家? われらは塩津から登って海津に下りたから分からないが、海津にも駅家があるのか? 塩津と三十里も離れているのか?」と佐伯伊多治。

「駅家はあります」と関の小者。

「しかし海津の駅家は、われわれのことを知らないはずだ。なぜ探す?」と大伴形見。

「ワナかもしれない。怪しいようすがないか周りを確かめてから、ともかく行ってみよう。今夜、泊まるところがない」と佐伯伊多治。

「おまえは海津の駅家の者とも顔見知りだろう。一緒に確かめてくれないか」と紀鯖麻呂が、関の小者に頼んだ。


海津の駅家は港のそばにあった。

恵美一族が隠れている気配もなかったので、佐伯伊多治たちは駅家をたずねた。

「あっ。討伐隊だ!」と待っていた塩津の駅子えきしが声をあげる。

「討伐隊が来たよ。海津の駅長!」

「わたしたちを知っているのか?」と大伴形見。

「塩津の駅子のタケです」

「スケです。ウチの駅長から、会って話してこいと言いつけられた」

「わたしが海津の駅長をしております」と五十代半ばの、ふっくらした男がでてきた。

「国府から、朝廷軍が来たら泊めるようにと通達がきております。

サア、あがって武具を解いて体を休めなされ。

アレ? レ。これは。いったい・・・どんな乗り方をしたら、馬がここまで疲労するのです。かわいそうに疲れ切っているじゃありませんか!」と都から越前国府のある丹生にゅうに行って海津まで戻ってきた馬の首をなでながら、駅長が怖い顔をして討伐隊をにらんだ。

「サッサと馬からおりて、そこの井戸で水を汲んで足をよく洗って、かってに部屋にお上がんなさい!

馬はあずからせてもらいますよ。

それから万が一、ここに客がいると知れるといけませんから、灯りは少なくしています。足元に気をつけなさい。

馬たちをてやってから、湯をわかして食事をつくりますから、そのあいだに塩津の駅子の話を聞いておやんなさい!」と駅長が馬をつれていく。


「それで話というのは」と武具を外しながら、準少将の三人を入れて五十九人の兵士と八人の伝令が、塩津の駅子のタケとスケの話を聞きながら車座になった。

「今朝、賊軍のなかの何十人かが、塩津から愛発関にむかったのだな?」と紀鯖麻呂が念を押す。

「偉そうなのが四人と、従者が六十八人。全部で七十二人が関に登った」とスケ。

「人数は確かなのか」と佐伯伊多治。

「メシを出しているから、まちがいない」とスケ。

「石川氏人と阿部小路のほかで、思い出せる名はないか」と紀鯖麻呂。

「お供の何とか」とスケ。

「お供の菩薩」とタケ。

「‥大伴古薩」と大伴形見が言い直す。

「近しいのか」と佐伯伊多治。

「父のイトコだ。敵味方に別れるのは武門のさだめだ。

たとえ同族であっても、わたしは務めを果たすだけだ」と大伴形見が、自分に言い聞かせるように言う。

「それからナカの…だれか」とタケがスケを見る。スケが首を横にふる。

「仲石伴だろう」と紀鯖麻呂が見当をつけた。

「ほかは揃いのヨロイを着たのが二十人か」と佐伯伊多治。

「ああ。そっちはアサリとマッサキが連れていて、おれらの前を馬を飛ばして高嶋の浜のほうへ行った」とスケ。

「じゃあ愛発関は、仲石伴たち七十二人を相手に戦っているんだな」と紀鯖麻呂。

「物部広成と日下部古麻呂が死守してくれると信じよう。

関が通れないと、かれらは山を下りてくる」と佐伯伊多治。

「どっちの道を使うだろう」と大伴形見。

「舟が高嶋の浜に打ちあげられたことは、知っているのだな?」と紀鯖麻呂が聞く。

「うん。知ってる」とスケ。

「だから浜へ探しに行くのと、関へ行くのが別れた」とタケ。

「それなら、こっちへ下りてくる。無傷なら七十二人か。真先たちが二十二人。

合流させたくないな」と佐伯伊多治。

「山道で待ち伏せをするか」と大伴形見。

「山で戦うと取り逃がす恐れがある。ここに隠れて、やつらが行き過ぎてから追いかけたらどうだ」と紀鯖麻呂。

「そうしよう。すぐに見張りをおこう。すまないが四人ほどが交代で街道を見張ってくれ」と佐伯伊多治。四人の隊員が立ちあがって出ていった。

「ところで、ほんとうに帝が一緒だったのか」と紀鯖麻呂がタケに聞く。

「知らない」とタケ。

「ウチには来てない」とスケ。

んべは、ここに泊まったから、ここの駅長に聞け」とタケ。

「いつ中宮院を抜け出されたのだろうか」と大伴形見。

「どれ。話はできましたか」と、ちょうと海津の駅長が顔をだした。

「駅長さん。今朝、ここの港から舟に乗った人のなかに、帝がおられたのですか」と佐伯伊多治。

「はい。昨夜、お泊まりでした」と駅長。

「ほんとうに帝ですか」と紀鯖麻呂。

「みなさまが帝とおっしゃっていましたから、帝でしょう」と駅長。

討伐隊が目を見交わした。

「どんな、お方でしょう?」と大伴形見。

「それは、あなた方がご存じでしょう。

わたしは恐れ多くて顔を上げておりませんので、お姿は目にしておりませんが、さすがに堂々として落ち着いた話し方をなさいます」と駅長。

「堂々として落ち着いた? 駅長さん。玉音ぎょくおんを聞かれたのですか?」と佐伯伊多治。

「はい。廊下に控えておりましたから」と海津の駅長。

「お幾つぐらいだと思われました?」と佐伯伊多治。

「お声からして、ご壮年と・・・」と駅長。

「ちがう!」と紀鯖麻呂。

「言い切れるか? 玉音を聞いたことがあるのか?」と大伴形見。

「ないけど、ちがう」と紀鯖麻呂。

「わたしも、ちがうと思う」と隊員の一人が言う。

出発前に準少将たちは従五位下に昇位されたが、もともと討伐隊は五位以下の下級官人ばかりで、朝賀ちょうがの式などで遠くに小さく見える大極殿の中に、天皇がおられるのだろうなと想像するだけで見たこともない。

「近江国府から、あなた方が討伐隊だと知らされていますが、ほんとうに朝廷から派遣されたのですか?」と海津の駅長が、疑わしげに横目で討伐隊を見た。



愛発関に向かった賊軍の石川氏人と、阿部小路、大伴古薩、仲石伴たちは、なんとか越前に行こうとねばったが、関の守りが堅くて私兵たちの何人かを犠牲にした。

討伐隊の物部広成と日下部古麻呂たちは、交代で仮眠をとるだけで愛発関を守っている。


美濃国から四十余キロを北上してきた討伐隊の佐伯三野みの、大野真本まもと、田口牛養うしかい、久米小虫、葛井ふじいの立足たつたりは、九十八人の兵士と八人の伝令をつれて湖北にある高月たかつきまで来ていた。


二十人の田村第資人をつれた真先と朝狩は、氷上塩焼と従者たちが乗った舟が、今津浜の北のほうに打ち上げられているらしいと知ったが、まだ探し出していなかった。

十五日に愛発関まで行って、矢を射かけられて逃げrてきた十九人の田村第資人たちも、今津浜に舟が打ち上げられたと聞いてさがしていた。


二十時を過ぎてから、授刀衛にいる吉備真備のところに、坂田から近江国府に行った伝令が着いた。

「美濃国府の役人に、多数の逮捕者がでたのか」と真備。

「はい」

「刃向ってきたのか」

「逮捕したのは、国庁の後殿の扉を引っ張っていた役人たちです」と伝令。

切りつけて来たのではないことが気になって、真備が眉を寄せた。

「美濃へ向かった討伐隊は、今夜は、どの辺りにいる」と真備。

「おそらく浅井郡にいるはずです」

「明日は、愛発関への登り口になる塩津か海津まで行けるのだな。

おそらく、決戦は明日から始まる」と真備がつぶやく。



九月十七日。

四時。近江国。海津。

舵主だしゅから知らせをもらった紀鯖麻呂と伝令三人と、海津の駅長と愛発関からきた小者が夜明け前の海津港にいる。

愛発関が紹介してくれた舟は、水手かこ(漕ぎ手)が多い中型船だった。

「この三人と馬を、至急、近江国府へ運んでください」と紀鯖麻呂。

越前まで同行した伝令二人と、愛発関にいた伝令一人を近江国府に届けて、そこで都へ送る算段をしてもらうつもりだ。

「まかせとけ。たまげるほど飛ばして国府へつけてやる」

「まだ夜明け前だ。暗くても大丈夫ですか」と鯖麻呂。

「琵琶湖の舵主をなめんじゃねえ。国府までなら、ふつうは一夜を舟で過ごす。

わしゃ、今日中に届けてやるわ。

おめえら、ついとる。じゃ、あばよ」と舵手が舟を出した。


「戦が始まったら、伝令を舟に乗せて伴走ばんそうさせたいのですが、そういう小舟はありませんか」と伝令を見送ったあとで、駅家に向かって歩きながら紀鯖麻呂が海津の駅長に聞いた。

「さあねえ。集められるだけの舟を集めて、昨日、出しましたから」と海津の駅長。

「賊軍の、ですよね」と鯖麻呂。

「まあ。そうなりますか」と駅長。

「賊軍に手を貸したものは斬れと言われています」と鯖麻呂。

「だって武器を持った集団ですよ。手を貸したのではなく強制されたのです」と駅長。

「そんなに乱暴だったのですか?」と鯖麻呂。

「そうだ!」と駅長。

「なんです?」

郡司ぐんじに声をかけてみましょう。きっと小舟で伴走してくれます」と駅長。

「助かります。それから、おまえ」と鯖麻呂が関の小者に言う。

「色々、ありがとう。これから戦が始まるから、わたしたちとは離れたほうが良い。ただ愛発関も戦闘中だろうから戻らない方がいいな」と鯖麻呂。

「それなら、しばらくウチであずかりましょう」と駅長。

「置いていただけますか?」と鯖麻呂。

「ハイ。ハイ。戦が終わるまでウチの駅子と一緒におさせます。ハイ」と海津の駅長がニィーッと笑った。



七時。平城京。

「先生。永手さまから討伐軍のことで、ことづてをたのまれました」と内裏から授刀衛に戻ってきた雄田麻呂が、吉備真備に報告する。

「なんでしょう」と真備が顔をむけた。

「蔵下麻呂を大将にするのは認められました。

ただ討伐軍の大将に節刀せっとうを授けることができるのは天皇だけなので、蔵下麻呂に節刀を授けることができません。

あくまでも緊急時の処置として、先生から蔵下麻呂が大将であることを告げて欲しいそうです。

すでに上台さまが恵美仲麻呂一族を逆賊とする勅をだされていますから、勅使ちょくしもつけないそうです」と雄田麻呂。

「どなたが、それを言いだされたか分かりますか」と真備。

「白壁王です」

「ほう」と真備が遠くを見る眼差しをした。

「どうか、なさいましたか?」と雄田麻呂が聞く。

「いや。この歳になって、先が面白くなってきました。

たしかに帝でない方が、勅をだして朝廷の軍を動かしたという先例をつくってはなりません。

わたしが、大将を紹介しましょう」と真備。

「それから、これが上台さまが決められた反逆者への処分です」と雄田麻呂が紙を渡す。

真備が読んでいるのを、田麻呂や百済王敬福や奈貴王や高麗福信がのぞきこむ。

「これは、なかなか…」と百済王敬福。

「太政官も賛成したのですか?」と真備。

「道鏡さんが止めようとしたらしく、それに上台さまが反発されて、だれも何も言えなかったようです。とくに永手さんと真盾さんは、処罰に口を出すのをひかえられました」と雄田麻呂。

「反逆は八族はちぞくるいがおよぶ大罪です。同行した者の処断としては仕方がないでしょう。

永手さんと真盾さんにとっては血族の処刑ですから、お辛いでしょう。

討伐軍の大将は勝てば大きな評価の対象になります。それを式家に譲ったのは、永手さんと真盾さんは、こうなることを予測していたのでしょう」と真備が満足そうに言った。



八時。越前塩津。

「お待ちなさい!」と駅子えきしのスケとタケをつれて、待ちかまえていた塩津の駅長が街道の真ん中で両手を広げた。

「急いでいます。道をあけてください!」と葛井立足が、道を防ぐおジイさんに向かって叫ぶ。

「あなたたちは、佐伯伊多治さん。紀鯖麻呂さん。大伴形見さん。物部広成さん。日下部古麻呂さんの、お仲間ですか!」と塩津の駅長。

「伊多治はイトコです。わたしたちは朝廷から派遣された討伐隊です」と佐伯三野がまえにでた。

不破関からやってきた佐伯三野みの、大野真本まもと田口たぐちの牛養うしかい、久米子虫こむし葛井ふじいの立成たてなりと、九十八人の隊員と八人の伝令たちだ。

「わたしは駅家うまやの者です。昨日までの事情をご存じですか」と塩津の駅長。

「なにか知っておられるのなら教えてください」と佐伯三野。

「休憩!」と大野真本が叫ぶ。

「スケ。タケ。伝えなさい」と駅長。

「えーッ。海津かいづまで往復して帰ってきたばかりなので、疲れた」とスケ。

「話疲れもあるから、駅長がチャチャと言ってくれ」とタケ。

「しょうがない。お前たちの、また聞きだから、間違っているところは正すのですよ」と駅長が、昨夜までの事情を討伐隊に伝えた。

「その討伐隊がいる海津というところまでは、どれぐらいかかりますか」と葛井立成。

「この先は山道で、海津まで三十里(十七キロ)近くあります。うちの駅子は月さえ出ていれば駆けられますが、始めての方は断崖がありますので踏み外さないように注意してください」と駅長。

「ありがとうございます。愛発関に向かった仲石伴らの七十二人と、恵美真先と朝苅と二十人の私兵たちですね。

気をつけながら、海津にいる討伐隊と合流します」と田口牛養。

「まちがいなく、あなた方は朝廷から派遣された討伐隊で、恵美一族は反逆者ですね」と駅長が念を押す。

「はい」と久米小虫。

「反逆者からあずかっているものは、朝廷にお渡ししてもかまいませんね」と駅長。

「何のことか分かりませんが、すでに反逆者の物は没収するというちょくがでています」と大野真本。

「では、いま、すぐに没収してください。馬ですよ。馬。

反逆軍から百騎以上の馬をあずかっています。駅家は狭くておけないので、草地に放しています」と駅長。

「なんと!」と佐伯三野。「馬を!」と葛井立成。

「みなさんの馬の状態を駅子たちに調べさせて、弱っているものは代え馬を出せます。馬のない方には良い馬を選びます」と駅長。

「助かります。それでは賊軍は騎兵が少ないのですね」と大野真本。

「わたしが知っているのは、愛発関に向かわれた仲石伴さんたちが三十二騎。恵美朝狩さんたちは二十二騎。ほかは、ほとんど、ここに置いているはずです」と駅長。

馬をととのえた討隊隊が立ち去るのを見送りながら、「死を覚悟した若い人たちを見送るなどと・・・あってはならないことです」と塩津の駅長が首を横に振った。



同じく八時。平城京。

二次募集の討伐軍が出陣をまっている。

すでに大将は少納言の藤原蔵下麻呂くらじまろと伝わっているから、蔵下麻呂がまえにいて、一歩引いた横に兄の宿奈麻呂すくなまろがいる。

ほどなく藤原永手、藤原真楯、白壁王、石川豊成、中臣清麻呂の太政官がならんだ。

太政官たちの横に立った吉備真備があいさつをする。

「お待たせしました。これから強行軍をしていただきますから楽にしてお聞きください。

今回は帝の謁見えっけんはありませんし、大将に節刀せっとうをさずけることもありません。勅使ちょくしも同行しません。

すでに勅がでていますように、恵美仲麻呂と、その一族と仲間が反逆しました。

非常事態を収束させるために、朝廷がみなさんを派遣します。

大将は藤原蔵下麻呂。はたのぼり大太鼓おおだいこは、できるだけ多く携帯できるようにします。

総勢百三人で、これから先発した討伐隊の援護に向かっていただきます」と真備が良く通る声で話しはじめた。

「恵美仲麻呂が連れている私兵は二百余人。明日にも先発隊と向き合って合戦がはじまるでしょう。

先行した討伐隊からは知らせが届いていませんが、賊軍は女子供を連れていますから素早く動くことはないはずです。

一昨日に斥候せっこう(敵情視察の兵)を出しましたから、賊軍の位地を確かめて大将に知らせるはずです。

先発隊は湖東から南下します。みなさんは湖西から北上して逆賊をはさみうちにします。目指すは近江国。琵琶湖の北!

一刻もはやく、先発隊の援護に向かってください!」と真備。 

「上台さまの勅命を伝える」と、つづいて藤原永手が勅書の写しを手にした。

討伐軍が一斉いっせいにひざまずく。

「反逆者の恵美仲麻呂と子と孫は斬殺ざんさつ

逆賊と行動を供にしたものは、女性、子供、従者をとわず、その場で全員を斬殺する。また反逆軍に手を貸したものも斬殺する。

ただし仲麻呂の第六子の刷雄よしおは、子供のころから仏教の修行をつんでいるから、この中に入れない。

首謀者である恵美仲麻呂の首級は、都に持ち帰ってくるように。以上です」

集まった討伐軍に動揺が走った。

二次募集の討伐軍には陰子おんしや五位以上の貴族が含まれていて、自分の私兵や従者を連れている者もいるから、朱雀門すざくもんから宮城を立ったときは百五十人を超えていた。



九時。近江国。高嶋郡、今津浜。

恵美真先と朝狩は、今津浜いまづはまの北で、打ち上げられた氷上塩焼と会っていた。

塩焼は、同船していた自分の私兵の三十六人をつれている。

「大師さまは、この浜の南の端の稲荷山いなりやまの近くにおられるようです。これから、そちらに向かいますので、お仕度をねがえますでしょうか」と真先が言う。

「動かぬ」と塩焼。

「一緒におられたほうが安全だと存じます」と真先。

「そう思うのなら、ここにきて、ちんを警護をするようにと大師に伝えよ。

朕がつれてきた馬は、どこにいる」と塩焼。

「塩津の駅家にあずけてございます。

大師さまのもとに、ご一緒されませんのか。

これだけの人数で残られると思うと、気がとがめます」と朝狩。

「新朝廷軍としての威厳を示すために即位をした身であっても、ちんは天武天皇の二世王だ。帝となってしかるべき血をついでいる。

すでに朕は心を決めた。

海津から関に向かえば良いものを、大師の独断で越前塩津に向かったら、このありさまだ。合流したくば、すぐに大師が参上するように伝えよ」と塩焼。

「分かりました」と真先。

「なるべく急いで戻ってまいります」と朝狩。

だれも討伐隊と出会っていないから、討伐隊が愛発関を固めていることも、すでに越前守の恵美辛加知が殺されたことも知らなかった。

まだ朝廷軍は来ないと思い込んでいるから、舟が吹き戻されたことで慌てているが、自分たちが逼迫ひっぱくした状況に置かれているとは思っていない。

ただ恵美氏を反逆者とする勅がでてから、六日が過ぎている。討伐軍が都を発っても良い頃だ。

「身辺の警護に十人ほどおいてゆきましょう」と真先。

「いらぬ」と塩焼王。

「では出立いたします」と真先。

「どうぞ、お気をつけてください」と朝苅。

真先と朝狩と二十人の田村第資人の姿が遠のくと、氷上塩焼は自分の私兵をあつめた。

「しきりと胸騒ぎがする。押勝のすることは、すべて外れている。

ここが、わたしのついの場所になるような気がしてならない。

おまえたちは、わたしに雇われて、わたしに命じられてついて来た。

抜けるのなら今だ。武具を脱いで湖にしずめ、うまく隠れれば逃げられるかもしれない。抜けたい者は抜けてよい。その者たちを止めるな。

逃げ切れたら、わたしに仕えていたことは夢だと忘れて、どこかの地方で穏やかに生きてくれ」と塩焼。

「帝!」

「塩焼でよい」と言って塩焼は空を見上げた。

昨日の風が嘘のような秋空が広がっている。

 


十三時。近江国。海津。

愛発関を突破しようとして、関の近くの山で一晩を過ごした石川氏人、阿部小路、大伴古薩、仲石伴たちが海津に降りてきた。

行くときは七十二人だったのが、六十四人に減っている。残っているなかにも、愛発関で矢傷を受けた者がいる。矢は急所を仕留しとめないかぎり即死はしないが、深く刺さったら出血が多く下山の途中で息だえた者もいる。

かれらが通りすぎたあとを、海津の駅屋のそばで息をひそめて待ちうけていた佐伯伊多治、紀鯖麻呂、大伴形見と五十六人の討伐隊が追いかけて、後ろから矢を射かけた。

仲石伴たちは、海津港の先で討伐隊と向き合った。

反逆者にとっても討伐隊にとっても、これが始めての合戦だ。

昨日、越前の国司の館を不意打ふいうちした討伐隊のほうが、まだ戦いの経験がある。

武士が現れるまえで、九十二年間も合戦がなかった。

宮中には六衛府という武人が勤める部署があるが、貴人の警護や犯罪者の逮捕しかしたことがない。だから実戦用の武術を、だれも知らない。

武人の競技会は毎年開かれていて、弓と相撲はさかんに行われているが、剣術となるとワラ束を突いたり斬ったりするだけで競技会で競うのは棒術ぼうじゅつだ。

太刀たちは太くて反りが少なく刃は片刃。のちの日本刀のような切れ味はないのに重量はある。


矢を射かけられた仲石伴たちが向きあうと、名乗りを上げることもなく佐伯伊多治が刀のさやを捨てて大声をあげて突っこんだ。

はじめのうちは馬に乗っていたが、騎馬戦は両手で太刀を握ると下半身だけで馬を制御しなければならないから、体力と技術がいる。そのうち転げ落ちたり、自ら馬から下りる者がいて、それからは大刀をふりまわしての乱闘らんとうがはじまった。

重いヨロイとカブトを身につけて大刀をふりまわしての命がけの乱闘で、追いかけたり逃げたりするだけで疲れる。

これより七百年もあとに戦ばかりする戦国時代があるが、武具が使いやすくなり戦術を心得ていた戦国時代でも、正面からぶつかる合戦は三時間以内に体力の限界が来て勝敗が決まる。

乱闘を始めて二時間を過ぎたころに、不破関に行っていた佐伯三野、大野真本、田口牛養、葛井立足、久米小虫らの総勢百三人が駆けつけてきた。それを見た反逆者の大伴古薩たちは、一瞬、動きをとめた。すでに乱闘の疲れが出ていたから。絶望したのだ。

佐伯三野らが加わって二十分もすると、石川氏人、大伴古薩、阿部小路、仲石伴と、かれらがつれていた私兵が、次々に討伐隊の手で殺された。

伊多治いたじ。だいじょうぶか」と佐伯三野が、座りこんいる佐伯伊多治のそばにきた。伊多治は立つ力も残っていない。

三野みの。湖東に敵はいないのか」と伊多治。

「いない。美濃守の恵美執棹とりかじは討ち取った」と三野。

「じゃあ、海津の駅家に行って、負傷者と傷ついた馬をあずかってくれるように頼んでくれ」と伊多治。

「信用できるのか」と三野。

「できる」と伊多治。

「こっちも駆けつづけている。これ以上、みんなを動かすのは無理だ。

今日は体を休ませたい」と三野。

「一緒に駅家に引きあげて、これからの戦にそなえよう」と大野真本が、伊多治の腕をとって立たせた。

「おい。余力のある者は、使えそうな弓矢や太刀を集めてくれ」と田口牛養が叫ぶ。討伐隊には、武具の補給もなかった。



十三時。近江国。今津浜。

恵美真先と朝狩は、十四日の朝に愛発関に送った田村第資人の生き残りの十九人と合流していた。これで二人のもとには三十九人の騎馬の田村第資人が集まった。

「関から射かけられて死んだと?」と真先。

「はい。関で九人が死に、引き上げる途中で二人が死にました」

「大師さまが、越前守のところに行くと関に伝えたのか」と朝狩が聞く。

「名乗るまえに、いきなり射ってきました」

「どういうことだ?」と朝苅。

「名乗るまえだ。関を閉めているから、登ってくる者をすべて狙っているのではないか」と真先。

「相手を確かめもせずに、関に向かう者をすべて射るのか? 

ウチの私兵のヨロイカブトを知らない者はいないだろう」と朝苅。

「地方では知られていない。仲石伴さんたちとは出会わなかったのか」と真先。

「会っていません。

さきほど、仲石伴さまたちは、越前塩津から登られたと言われましたね。

わたしたちが使ったのは、登りも下りも海津からの山越えですから交わりません」

「待てよ。朝苅。

ウチの私兵のヨロイとカブトを知っているのは、都の者だ。

名乗る前に矢を射てきたのは、ウチの私兵と分かって射たのかも知れない。

瀬田唐橋が焼けたのは十一日の夜だ。

おまえらが関についたのは十五日のいつごろだ?」と真先。

「影から見てさるこく(十五時)に入るころです」

「三日と半日はある」と真先。

「まさか。瀬田唐橋を焼いたやつらが、関を押さえているというのか? 二兄」と朝狩。

「三日半あれば、湖東を通って瀬田から愛発関へゆけるだろう。用心はした方が良い。

帝は今津浜の北におられる。大師さまは今津浜の南におられる。

ここが中間あたりで、両者が見えて駆けつけやすい。

少し、ようすを見た方が良いかもしれない」と真先。

真先と朝狩は、三十九人の田村第資人をつれて歩みを止めた。



十七時。近江国。海津の駅家。

「明日も戦をするのでしょう」と重傷者や馬の手当てを終えて、討伐隊に夕餉ゆうげをくばり始めた海津の駅長が聞いた。

「おそらく明日が決戦です」と大野真本が答える。

「昨日より人数が多くなりましたから、食事が終わったら、みなさんで寝る場所を工夫してつくってくださいよ。従者用の小屋も使えます。夜具は集めております」と駅長。

「賊軍のためにでしょう?」と鯖麻呂。

「明日の朝の食事の用意もできます」と聞こえないふりで駅長。


駅家うまや勅令ちょくれいを伝達するためと、朝廷から許可された公用の旅をする五位以上の貴族を宿泊させて、馬を整えるためにある。

そのほかの旅人には、冷たいあしらいをしている。

地方の人々も旅人には冷淡で、租税を都に納めに行って国に帰る農民が自分の家のまえで死んだら困ると、息も絶えそうな人を追いたてるようなことをしていた。

海津の駅長も、その一人だったのだが、一昨日の晩に賊軍を泊めて、舟まで用意してしまった。反逆者に協力してしまったのだ。

武装した兵が百人もいたから仕方がなかったという言い訳が、通るかどうか分からない。

となりの越前塩津えちぜんしおづの駅家に反逆者が向かったから、自分だけじゃないとホッとしていたのに、その塩津の駅長は駅子えきしをよこして討伐隊に情報を伝えて、馬まで出したという。

もともと、となりの塩津の駅長は、やさしいと評判のジイさんで、それと比べられて意地が悪いと言われるのが海津の駅長のシャクの種だった。塩津のジイさんが世話焼きなのは本人の勝手だが、海津の駅長は意地が悪いのではなくて、きわめて、ふつうなだけだ。

それでも、ともかく朝廷から来た討伐隊をもてなして、賊軍に便宜べんぎをはかったことをとがめられないようにしなければならない。

しかし昨夜から泊まっている討伐隊は、五位以下の下級官人たちだ。何日も同じものを着ているらしくてクサい。

賊軍の方が上品で、駅家が扱いなれている地方へ赴任をする貴族よりも、はるかに上流の公卿くぎょうだった。

ふだんの駅長は駅家に泊まる貴族に、自分の方から声をかけないし目も合わせない。貴族の従者から用を言いつかるのを待って、廊下にひかえている。

貴族についてくる五位以下の従者は、従者用の小屋に泊めて世話も駅子にまかせているので相手をしたことがない。

それに海津の駅家は、街道の中でも少道しょうどうという一番細い路に面しているので、規模も小さくて馬も五頭しか飼っていない。大道だいどう中道ちゅうどうにある駅家とちがって、それほど頻繁に使われることもないし公卿が来ることもない。帝とよばれる方が現れるのは奇跡でしかない。

一昨日は、その帝と公卿を相手に四苦八苦しくはっくして、昨日からは下級官人に自分から声をかけて世話をするという慣れないことをしている。


今日の戦で討伐隊は六名が死亡して七名が重傷を負った。残った百四十九人も傷だらけだ。

「このさきの今津浜の北の方に、帝の舟が打ち寄せられているそうです」と、討伐隊に協力したあかしをつくろうと駅長が伝える。

「帝が?」と佐伯三野。不破関から来た討伐隊は、帝のことを初めて耳にする。

中宮院ちゅうぐういんにおられるお方ではないと思う。壮年の男性らしい」と佐伯伊多治いたじ

「帝は、ここの海津港から三十六人の舎人と一緒の舟に乗られましたが、吹き戻されたそうです」と海津の駅長。

「その帝が吹き戻された今津浜は、どこにあるのでしょう」と久米子虫。

「このチョッと先からは、ずっと今津浜です」と駅長。

「じゃあ、今日の戦が見えたのでしょうか」と大野真本。

「松や小屋がさえぎっていますし、まだ季節が暑いですから湖をはさんでの見通しが悪く、見えたかどうかわかりません。風向きによって音は聞こえたかもしれません」と駅長。

「明日は隠れて近づくことはできないな」と佐伯三野。

「こっちからも敵が見える」と田口牛養。

「帝の舟のほかは、すべて岬に近いところに打ち寄せられたそうです」と駅長。

「岬に近いところって、どこです?」と紀鯖麻呂。

「今津浜の南の端で、滋賀郡しがぐんに近いところです。

大師さまと、ご家族が乗られた舟と、揃いの武具をつけた兵士たちが乗った舟だと思います」と駅長。

「田村第資人だ。その揃いの武具を着けた私兵が何人いたか、ご存じですか」と佐伯三野。

「あの兵士は、タムラダイシジンというのですか」と駅長。

「正しくは田村第に雇われている従者ですが、われらは、そう呼んでいます。

ここから舟に乗ったのは何人か分かりますか」と大野真本。

「百六人です。ほかに兵士ではなく丸腰の従者が二十三人いました。

あとは女性やお子たちや、その世話をする女の方が四十三人おられました」と駅長。

「数は確かですか」と田口牛養。

「食事と寝床の用意をしていますから確かです。

それと、ここに泊まられた方ではないのですが、舟にも乗らずに、この道を二回に分けて馬で駆けて、今津浜に向かったタムラダイシジンがいます。それぞれ二十人ほどで、合わせて四十人ぐらいです」と駅長。

「帝と呼ばれる方が三十六人で、今津浜の北の方にいる。その浜の南の岬のそばに、難破した舟にのっていた押勝と百六人の田村第資人と二十三人の従者と、女性と子供が四十三人いる。

それに真先と朝狩が、四十人ぐらいの田村第資人をつれて押勝のところに向かったのだろう。

こっちは残り百四十九人。従者も抵抗するだろうから、敵はざっと見積もって二百人だ」と大野真本。

「あなたがたには、ほかに味方がいないのですか」と駅長が、傷だらけの討伐隊を見回した。

「いません」と葛井広成。

「あなた方は、敵の馬を斬ったりはしなかったのですねえ。

医師さんと、その助手は、重症の方を見ておられますから手がはなせません。

馬医さんも駅子えきしも今は忙しくしていますが、手が空いたら、みなさんの手当てさせましょう」と駅長。

「バーイサンって?」と葛井立成。

「馬のお医者さんです」

「けっこうです。浅手ですから自分で手当てします」と田口牛養。

「手を見せてごらんなさい」と駅長が、佐伯伊多治の手をとった。

戦のときは皮の手袋をつけているが、それがもうボロボロで、太刀を握りつづけた手のひらの皮がむけて血がにじんだ赤身がきでている。

「ほかの方の手も、こうなっているのでしょう。この手で太刀が握れますか。

明日は、あなたたちより数の多い敵と戦うのですよ。

その敵は、ここから舟に乗るときは、きれいな手をしていて、体のどこにも怪我や痣がありませんでした。

わたしたちは、チョッとしたケガは馬医さんに見てもらってます。安心して馬医さんと駅子にまかせなさい。

それから港で亡くなった、お仲間を運びに行ったのですが、わたしには討伐隊と賊軍の区別がつきません。ご遺体は七十体もありましたので、すべてを近くの寺に集めました。

国府に願い出て許可が下りましたら埋葬まいそうして、この戦の戦没者として供養くようしたいと思いますが、あなたがたは、それでよろしいでしょうか」と駅長。

「一緒に埋葬して供養してくださるのですか。ありがとうございます」と押勝と行動を共にした大伴古薩が死んでから、沈んでいた大伴形見が始めて口をきいて頭を下げた。

「なんの。朝廷からの使者をおもてなしするのが駅家の仕事です。

これ以上、どなたも欠けることなく都へ帰られますように」

大伴形見が手をついたままで泣いているので、つられて駅長も涙声になって言った。

賊軍に便宜をはかったので罰されたくない。ただ、それだけで世話を焼いているのだが、海津の駅長は心の皮がむけたように、やるせなさがしみ込んで胸が痛んだ。

食事が終わったころに、駅長が声をかけていた近江軍士団おうみぐんしだんが訪ねてきた。


「近江軍士団の伊香いかの貞益さだますです。明日が決戦ですか」と日焼けしたいかつい男が聞く。

「恐らくそうなるでしょう。伝令を舟に乗せて伴走して欲しいのですが、お願いできますか」と紀鯖麻呂。

「承知しました。明日の夜明けに海津港に迎えにきます。

今津浜の南の方のに溜まっているのが、賊軍ですか?」と伊香貞益。

「そうです」と紀鯖麻呂。

「じゃ、決戦の場所は今津浜ですね」と貞益。

「オウミグンシダンって、なんですか?」と佐伯伊多治。

「近江の郡司たちの集まりで、われらは坂田郡司の坂田山城の世話になった」と大野真本。

「ああ。坂田から、伝令と捕虜は国府に届けた。負傷者は回復に向かっていると伝言がありました」と貞益。

「助かります」と佐伯三野。

「明日は今津浜の沖合に集まるように、これから近江軍士団に回状をまわします。

浜に近づくと舟が乗りあげるので沖合にいますが、なんかあったら呼んでください。

なんでもしますよ。

ところで討伐軍と賊軍の見分け方はありますか?」と貞益。

「それは、戦を見て判断してくださいよ」と田口牛養。

「いや。ある。残っているのは、ほとんどが田村第資人だ。

赤と黄の線が入った綺麗なヨロイカブトを身につけているのが賊軍です」と佐伯伊多治。

「ボロボロで貧弱なのが討伐隊です」と久米小虫。

それを聞いて貞益が豪快に笑った。

「疲れさせるといけないから帰りますが、ゆっくり休んでくださいよ。

あした、絶対、死なないように。危険なときは、湖に逃げてくれば助けます。

じゃ、これで」と伊香貞益が引き上げた。



愛発関では、物部広成と日下部古麻呂と四十人の隊員と、関の役人や敦賀嶋麻呂つるがのしままろたちが、休みなく四方をみはり狭間はざまに矢をかまえていた。

動きは少ないが、気が張って疲れる持ち場だ。この日も一人、二人の武装した人が近づいて来たので、射程距離に近づいたら矢を放って追い返した。

関の守りは完ぺきだった。



十九時。近江国 滋賀郡。坂本の北。

新しく朝廷から送られた百三人の討伐軍と、その従者五十二人の合わせて百五十五人が浜で野営をしていた。

野営と言っても陣幕じんまくはない。行幸ぎょうこうのときの、官人用の組み立て式の簡易仮屋かりやを建てている。

「だいじょうぶですか。兄上」と四十八歳になる式家の当主の藤原宿奈麻呂すくなまろの腰を、七弟で三十歳の蔵下麻呂くらじまろがもんでいる、

「イタイ! おまえに、もまれると悪くなるような気がする。もっと、うまい奴はいないのか」と宿奈麻呂。

「こんな兄上の姿を他人に見せられますか。あしたは高嶋たかしま郡に入って浅井あさい郡に向かいます。いよいよ戦が近くなります。

しっかり、ついてきてくださいよ」と蔵下麻呂。

「あすは、今日より長く馬にのるのか」と宿奈麻呂。

「まだ斥候せっこうと合っていません。報告を聞いてからでないと、明日の距離は分かりません。

国守として派遣されたときとか、流刑になったときの帰り道とか、今までだって馬で長い道のりを駆けたことがあったでしょうに」と蔵下麻呂。

「あのときは武具など着けていなかったし、こんなに急いで長い距離を移動しなかった。それに少しは若かった」と宿奈麻呂。

「ゴタゴタ言ってないで、さ、早く寝ましょう」と蔵下麻呂。

「おい。蔵下麻呂。おまえは恵美刷雄よしおの顔を知っているのか?」と宿奈麻呂。

「知りません」

「わたしも覚えていない。勅では刷雄は生け捕りにしなければならないが、どうやって見分ける。刷雄は出家して僧形なのか」と宿奈麻呂。

「出家はしていないそうです」と蔵下麻呂。

「仏教の修行をしているから許すというのは、上台さまのご意向いこうだろう。

刷雄を生け捕るのはやっかいだぞ。わたしが何とかする。

だから、なあ蔵下麻呂。わたしは遅れても良いだろう」と宿奈麻呂。

「いいえ。一人で仲麻呂を殺そうとしたと勝手に白状したのですからね。

節刀せっとうも勅使もありませんから、兄さんは軍旗や太鼓と一緒に来るべきです」と蔵下麻呂。

そこへ「斥候が来ました」と知らせが来た。


「まだ、この滋賀郡から高島郡に入ったところにいるのですか。どうしてです?」と報告を聞いた蔵下麻呂が息をのむ。

恵美一族が都を抜け出してから六日が経っている。

どんなに遅くても、予想では琵琶湖の北まで行っているはずだった。吉備真備も愛発関のそばで、押勝たちと先発した討伐隊が戦っていると予測していた。

そのつもりで蔵下麻呂たちは、瀬田や大津を通りすごす強行軍をして、なんと呼ぶか分からない浜で野営をしている。

「滋賀郡には人がおりませんので状況を聞くことができませんでしたが、高島郡に入ったところに田村第資人が百人以上、他にも百人ほどの人が集まっています。

どうやら、恵美仲麻呂もいるようです」と斥候。

「それは、ここから、どれぐらいの距離のところだ」と宿奈麻呂。

「四十里(二十㎞)はあります」

「ほかの斥候は、まだ残っているのですね」と蔵下麻呂。

「はい。いまは十八人で見張っています。動きがあったら、すぐに知らせにきます」

「ありがとう。これから帰るのですか」と蔵下麻呂。

「はい」

「夜は動きがないと思います。休んでから帰って、明日は頻繁ひんぱんにようすを知らせてください」と蔵下麻呂。


「どうする」と斥候が帰ったあとで宿奈麻呂が言う。

「四十里なら、早朝に出立して急げば、虎の刻に入る頃(午後三時)にはつきます」と蔵下麻呂。

「戦は湖北で行われるからと、今日は無理をしてここまで来た。みんな疲れている。

明日、四十里も移動して、すぐに戦をするのは無理だ」と宿奈麻呂。

「移動ならできるのですね。兄さん」と蔵下麻呂。

「そのつもりだったから移動はできる。それが、どうした?」と宿奈麻呂。

「兄さんが一番の高齢者です。兄さんに移動する気があるのなら、あとの若い人たちは兄さんより元気なはずです。明日の夜明けに出発します。

これから指示をだしてきますから、こんどこそ、兄上。

どこかに転がって、さっさと寝てください。大将命令です!」と蔵下麻呂が兄の尻を叩いた。



九月十八日。

六時。近江国。滋賀郡。大津。

蔵下麻呂を大将とする討伐軍が動き出した。


七時半。近江国。高嶋郡。海津。

海津の駅家にいた、先発した討伐隊の百四十九人が出発した。


十時。近江国。高嶋郡。今津浜。

今津浜に吹き寄せられてから、氷上塩焼は浜に建てた仮屋かりやで仲麻呂たちが来るのを待っている。

三日前の朝に舟で塩津に向かうときに仲麻呂と顔を合わせたが、それからは会っていない。

「塩焼さま。少し外を歩かれて体をほぐされたらいかがでしょう」と私兵が顔をだした。塩焼は外にでて、空をあおいで大きなノビをした。

快晴で風もない日で、竹生島ちくぶじまがよく見える。

「あれ?」と私兵が声をあげた。

「どうした?」と塩焼も私兵が見ているほうに目をやった。

騎馬兵の一団が、こちらに向かってくる。

「どなたでしょう? 仲石伴さまたちでしょうか」

「いや。もっと数が多い」と塩焼。

「では、辛加知さまが、越前から迎えをよこされたのかもしれません」と私兵の一人。

「これで助かりました」と、もう一人の私兵。

「あのヨロイは…。あれは! 

あれは兵部省ひょうぶしょうに保管されているものだ。朝廷からヨロイを貸し出された者たちだ!」と塩焼が叫ぶ。

「えっ?」「敵?」「敵だ!」

「弓とうつぼをとってまいります」と私兵が駆けだした。

ウツボは矢を入れて背負うもので、武装は解いていないが弓とウツボはジャマだから外している。塩焼が自分の邸から連れてきた三十一人の私兵たちが、弓をもって塩焼のまわりをかこんだ。昨日のうちに五人が離れたのだ。

討伐隊は矢が届くところまでは進まずに、とまって塩焼を半円で囲んだ。

「顔を知っている者はいるか?」と塩焼。

塩焼が登庁するときに供をするので、私兵たちも官人の顔は知っている。

衛門舎人えもんとねりがいます」

中衛府ちゅうえふの舎人もいます」

五衛府ごえふの混成軍か?」と塩焼。

「衛府だけではありません。治部省じぶしょう大録だいさかんがいます」

主計助しゅけいのすけもいます!」

「なんだと? 文官が混ざっていると! みんな官人なのか?」と塩焼。

討伐隊の騎馬兵は、弓に矢をつがえると、つめ寄ってきた。

騎馬の百四十九人と浜辺にいる三十一人だ。戦うまえから勝負はついていて、たてとなって塩焼をかばった私兵たちは、つぎつぎに何本もの矢に射抜かれて死んでいった。


残されて一人たたずむ塩焼を見ながら、佐伯三野が矢を拾っている仲間に問いかけるような視線を投げた。

かれらは賊軍と行動を共にする者が分からないときに、恵美押勝と子と孫を討ちとれと送りだされている。

賊軍に手をかす者も討ち取れと言われているが、氷上塩焼は従三位の中納言で太政官。天武天皇の孫で、聖武天皇の娘婿で、これまでは近寄ることもできなかった公卿だ。それに、いまは帝と呼ばれているらしい。

向かってきたら斬ることができるのだが、五十四歳の塩焼は衣冠束帯いかんそくたい(貴族の正装)をまとって、哀しげな眼で私兵たちの亡きがらを見ながら静かにたたずんでいるだけで、武器も持っていない。

「舟にあずけたらどうだろう」と大野真本が寄ってきて言った。

伝令を乗せて沖を伴走している近江軍士団の舟に、討伐軍は塩焼を乗せた。

 

このようすは、今津浜の中ほどにいた恵美真先や朝狩たちに見えた。

討伐軍からも、真先と朝狩がつれている田村第資人が見える。その先の湖に突きでた岬のほうに、人の集団がいるのも確認できる。

真先と朝狩が三十九人の田村第資人をつれて、岬の集団に向かって駆けだした。全員が馬に乗っている。

「追うな。人も馬も疲れないように、ゆっくり行こう」と大野真本が討伐隊に声をかける。

「近づくまで馬を下りて歩いたらどうだ」と紀鯖麻呂。

「ついでに武具も脱ぐか」と大伴形見。

「冗談がいえるようになったか。形見」と田口牛養。

岬へ向かっていた真先と朝狩と三十九人の田村第資人が止まった。岬まで戻って疲れるよりは、対戦しようと決めたようだ。

「おい。向かい打つ気だ!」と紀鯖麻呂。

「遠くにいる者が、やつらの方へ向かってきている」と久米子虫。

「生き抜け。なにがあっても生き抜けと言ってくれたヤツがいた。オイ。みんな。生き抜けよ!」と佐伯伊多治。

「いつか、どこかで、また会おうな」と佐伯三野。

矢を射つくしたら、あとは体力だけが勝負を決める。体力がなくなれば殺される。かれらは昨日の合戦で、それを学んでいた。

弓なりの形をしている今津浜は見通しが良い。岬の近くにいる恵美仲麻呂たちも、ようすが見えていた。

岬から真先や朝苅のところに駆けつける仲麻呂軍には馬がない。

五男の小湯麻呂おゆまろと、六男の刷雄よしおと、七男の薩雄ひろおが、百人の田村第資人をつれて浜を走った。


十二時。

対峙した討伐軍と反乱軍が、空に向かってに矢を放った。

弓の名手でも騎馬で動く的を射貫くことはむずかしい。空に放った矢が一斉に頭上から落ちてくるほうが殺傷率が高い。戦争を知らなくても、それぐらいの知識はもっている。

これが最後の合戦になるから、矢がつきると討伐隊は弓とウツボを捨てた。

すぐに斬り合いがはじまった。百四十九人の討伐隊は騎馬だ。反逆者は真先と朝苅の騎馬の四十一人と、岬から駆けつけた徒歩の百八人で人数に差はない。

斬り合いが始まってから一刻(二時間)を過ぎるまでは討伐隊が優勢で、ジリジリと反逆者を押して岬のそばまで迫った。

岬には仲麻呂を中心にして、恵美一族の女性や子供たちが従者に守られている。


十三時半。

討伐軍の大将の藤原蔵下麻呂のところに、斥候せっこうが駆け込んできた。

「先発した討伐隊が、この先で賊軍と戦っている。

すぐに援護に行く。急げ!」と蔵下麻呂が号令した。

昨日の強行軍と、今朝からの移動で疲れや痛みを感じていた討伐軍が、その一言で嘘のように立ち直った。討伐軍の全身に血がみなぎった。


十四時。

戦が始まって一刻(二時間)がすぎると、真先と朝狩が先頭に出てきて奮戦ふんせんし始めた。馬のない小湯麻呂と刷雄と薩雄も前線に出て太刀を振るう。

かれらは後に、自分の妻と子を背負っている。

真先たちの死に物狂いの反撃で、賊軍が勢いを盛りかえした。

合戦がはじまって二時間半、連戦している討伐隊には疲れがでてきた。

体力の限界をむかえた討伐隊は、ジリジリと北の方に押し戻されはじめた。


十五時。

戦闘が始まって三時間。

大刀を持つ腕に感覚がない。ふりあげようとしても腕が動いていない。

そのとき、ドン、ドン、ドンと太鼓の音が聞こえてきた。賊軍が引き始める。

「どうした。なぜ引く」と大野真本。

「援軍だ。援軍が来た」と紀鯖麻呂が叫ぶ。

「援軍がいたのか」と大伴形見。

「まちがいない。朝廷軍だ。見てみろ。朝廷軍の旗とのぼりだ!」と佐伯三野が枯れた声で叫ぶ。

太鼓の音が大きくなって、岬の坂を百五十余人の兵が旗と幟をなびかせて駆けてくる。

「援軍がきた。われらに援軍がきた」と佐伯伊多治は、馬から滑りおりると砂浜に転がった。ほかの者も、それに習った。

みんな傷だらけで、馬に乗っている力も残っていなかった。

佐伯さえきの伊多治いたじきの鯖麻呂さばまろ大伴おおともの形見のかたみ佐伯さえきの三野のみの大野おおのの真本まもと葛井ふじいの立成たてなり久米くめの子虫こむし田口たぐちの牛養うしかいと、百六十人の兵士たちの戦さは終わった。


旗とのぼりを背にして毅然きぜんとかまえた大将の藤原蔵下麻呂の横で、戦を見ていた宿奈麻呂が、いきなり馬を蹴って駆けだした。

宿奈麻呂は勇猛ゆうもうでも果敢かかんでもないが単純なので、緊張や興奮がある一線を越えると細かいことは忘れてしまうという、長所だか短所だか分からない性格をしている。

合戦を見ていた宿奈麻呂は、ひときわ勇敢に戦う恵美一族の男たちを見つけた。

馬に乗った真先と朝苅。その側で刀を振るう三人の若者。そのなかに恵美刷雄がいるはずだと宿奈麻呂はひらめいた。

宿奈麻呂は、刷雄を生け捕りにするという弟との約束を果たそうと、前後の見境もなく戦闘のなかに突っ込んでいった。その行動が、始めて合戦をする討伐軍を刺激した。


小船に乗せられた氷上塩焼も、ずっと戦を見ていた。塩焼のった小舟の回りには、近江軍士団の舟が何十艘も浮かんでいる。

真先、朝狩、小湯麻呂、刷雄、薩雄たちが、戦いながら押勝のいる方へ下がってゆく。それを新手の討伐軍が斬りつける。三時間におよぶ激闘をして疲れ切った真先たちと、百五十人の新しい兵だ。

一時間もしないうちに新しい討伐軍の手で、真先、朝狩、小湯麻呂、薩雄と田村第資人たちの血で浜は染まり、刷雄と女性と子供が捕らえられた。

息子たちが死闘をくり広げているあいだに、仲麻呂は妻と子供を一人をつれて舟にのって湖に逃げた。

仲麻呂が乗った舟を、近江軍士団の舟が追いかける。


十六時。

岬を回り鬼江おにえまで逃げた仲麻呂を、岩村いわむら村主のすぐり石橋いしはしの舟が追いついた。石橋は舟から舟へ飛び移って仲麻呂を斬った。

孝謙天皇が即位してから十五年にわたり、朝廷を動かした藤原仲麻呂(五十六歳)の最期だった。遺体は討伐軍のもとに運ばれて首を落とされた.


政治家としての仲麻呂は、「橘奈良麻呂の変」の直後に問民苦使もみくしを作った。これは百姓からの苦情を聞く使者を全国に送る良い制度で、仲麻呂の死後も受けつがれていく。

また干ばつになると値が上がる米の価格を押さえようと備蓄米を蓄える平準署へいじゅんしょを置くという良政を行っているが、七年後に廃止されている。

新羅討伐は仲麻呂と供に消えてしまったが、まだ朝廷が支配できていない東北地方への領土を拡大している。

仲麻呂は紫微内臣をしていた七五九年に息子の朝苅を鎮守ちんじゅ将軍にして、東北の蝦夷えみしの居住地に桃生ももう城と雄勝おかち城を造らせた。日本海側では越前国から100kmほど北に、ポツンと離れて置かれていた出羽でわのさくを秋田城(秋田県秋田市)に改め、兵士や移民を送って蝦夷討伐の拠点に変えた。

それまで朝廷の力が及んでいたのは、日本海側では山形県庄内地方で、太平洋側では多賀城を北端としていた。秋田城、雄勝城、桃生城ができたことで、かなり北の方まで朝廷の力が広がったことになる。

仲麻呂は、そこに兵を置いて柵戸さくとと呼ぶ移民を送り込んだ。

雄勝城と桃生城の建造期間は二年と短く、使役された蝦夷が過酷な扱いを受けただろうことは想像できる。送り込まれた役人や移民と、蝦夷のあいだに争いもあっただろう。これが半世紀以上も続いた朝廷と蝦夷の平和を揺るがす原因になる。

仲麻呂の東北地方への進出は、領土拡大の功績と言うより負の遺産となった。



大将の藤原蔵下麻呂のところに、先発した討伐隊の葛井立足と大野真本が来た。

「噂では、逆賊と行動を共にした者は、女性や子供も斬首ざんしゅすると聞いていますが誠でしょうか」と大野真本。

「すべて斬首とちょくが出ております」と蔵下麻呂。

「陽のあるうちに負傷した者や、戦死した者を探して運びたいのですが許可していただけますか」と葛井立足。

「こちらには医師がついて来ていますから、それは、こちらでします。

すぐに兵士を選んで、傷兵を探させて手当をします。

われわれは明日の昼頃には都に向けて帰りますが、傷兵をさがして介護するために医者と兵士の一部を残してゆきます。戦死された方も、こちらで収容します。

あなたがたは、これからすぐに愛発関を守っている討伐隊を迎えに行ってください」と蔵下麻呂。

「いまからですか?」と大野真本。

「はい。すぐに立ってください。

それから戻る途中で負傷した賊軍がいるかもしれませんが、報告はいりません」と蔵下麻呂が言う。   

葛井立足と大野真本が、藤原蔵下麻呂の顔を見た。こめかみがピクピク動くほど緊張していて目が暗い。

明朝、捕らえた女性や子供を斬殺してから都へ帰るのだろう。

若い大将は、地獄のような処刑の場に立ち会う必要はない。すぐに立ち去れと言っている。傷ついた反逆者を見つけても報告はいらない、見逃せと暗示している。

「ご援軍、ありがとうございます。ご配慮に感謝します」と葛井立足と大野真本が深々と頭をさげた。

「みなさんの活躍で賊軍を滅ぼすことができました。心から感謝します」と蔵下麻呂も深く頭を下げた。

大野真本と葛井立足が出てゆくと、そばで聞いていた宿奈麻呂が蔵下麻呂に言った。

「明日の処刑は、わたしが見届ける。おまえは立ち会わなくてよい」

「兄上。抵抗しない女性や子供を斬らなければならない兵士のことを考えてください。だから兄さんは身内に甘く、他人に厳しいと言われるのです。

大将はわたしです。わたしが立ち会います。

旗の代わりについてきた兄さんに、大将の権限は譲りません」と蔵下麻呂が言った。


十七時。

先発した討伐隊が、岸に寄せられた小舟のそばに集まっている。

「反逆者と行動を共にした者は、女性も子供も、すべて斬殺という勅がでています」と佐伯三野が、小船から浜に移された氷上塩焼に向かっていった。氷上塩焼が黙ってうなづく。

「お命をいただきますので、お座りください」と佐伯三野。

砂の上に静かにすわった塩焼に「言い残されることがありましたら、お伝えします」と大野真本。

「言い残すことはないが、教えてほしい」と塩焼。

「はい」と大野真本。

「あなたたちは、どうして兵になった」と塩焼。

「募集に応じました」と久米小虫。塩焼が目を見張った。

「だれが軍を動かした」と塩焼。

「宮城の本営におられる吉備真備さまです」と田口牛養が答える。

塩焼は右手に持ったしゃく(貴族が手に持つ細長い板)で左手をポンと叩いて、「心あるなら一太刀で斬ってくれ」と自ら首をのばした。

佐伯三野が大刀を振りあげる。夕日が氷上塩焼の姿を赤く照らした。

「ご遺体を大将のところに運んだあとで、許可をえて都に帰り、これまでのことを真備さまに報告してくれ」と佐伯三野が、伝令たちに声をかける。

そして先発した討伐隊は黄昏たそがれがせまるの浜辺を、馬を引いて海津に向かって戻っていった。



九月十九日。七時。

早朝から今津浜では、仲麻呂の妻や娘と、仲麻呂の息子たちの妻や子の三十六人が斬殺された。そのなかには塩焼の妹の陽候やこ女王もいた。

立ち会う兵を少なくして、藤原蔵下麻呂は身じろ気もせずに処刑を見届けた。その横に兄の宿奈麻呂が寄り添っていた。

斬首をのがれたのは、孝謙太上天皇が勅で許していた仲麻呂の六男の刷雄よしおだけだった。こののち刷雄は隠岐おきの島に流刑になる。

刷雄は、孝謙太上天皇の死後、恩赦で都に戻り官人として朝廷に仕えた。

それから四十年が過ぎて、陸奥国むつのくに会津郡あいづぐん(福島県会津)に徳一とくいちという老僧が現れる。

徳一は法相宗ほっそうしゅうの僧で、そのころ空海くうかいが起した真言宗しんごんしゅうへの疑問を、真言宗未決文みけつぶんという論文で発表して仏教界に反論をよぶ。そして、おなじころに最澄さいちょうが開祖となった天台宗てんだいしゅうの教義などをめぐって、五年にわたる論争を最澄と繰り広げる。

徳一は、常陸国ひたちのくに(茨城県)の筑波つくば山麓さんろくのなかに中禅寺ちゅうぜんじを、会津あいづ磐梯山ばんだいさん恵日寺えにちじをはじめ、東北に三十カ所の寺院を創設した、反骨精神が旺盛というか、ケンカ好きな名僧だ。だが若いころに都にいたらしいというだけで、前半生が分からない。

この徳一が、東大寺にかくまわれた仲麻呂の十一男だという説がある。



九月二十日。

七時。近江国府。

近江国府に捕らえられていた美濃国の役人や、恵美執棹の家族たちが誅殺ちゅうさつされた。

美濃少掾で、討伐軍のために国庁の後殿の扉を開けた、正六位上の村国嶋主も殺された。

それから二年後に、美濃の郡司たちの度々の訴えで、民部省みんぶしょうにあてて出された嶋主の手紙が見つかり無実が証明された。

財産や名を取りあげられていた嶋主の家族は、もとの身分に戻った。



十五時。平城京。

朝廷の朝堂ちょうどうに集められた官人たちのまえに、孝謙太上天皇が姿を現した。

きらびやかな袈裟けさをまとって、おなじようにきらびやかな袈裟をつけたた道鏡と並んでいる。

藤原永手がみことのりを読みあげた。

大師の恵美仲麻呂が乱を起こして誅殺ちゅうさつされたいきさつが語られたあとで詔は告げる。

「朕は髪を剃って仏のご袈裟を着ているけれど、国家の政治を行わなわなければならない。出家をしていても政治をおこなうことに障害はない。

天皇が出家している世には、出家している大臣がいても良いので、自ら願っておられないが、この道鏡禅師に大臣禅師だいじんぜんしという位をお授けする。みなうけたまわれ」

「承れ」は了解して納得して従えという絶対命令で、孝謙太上天皇の前に並んだ太政官たちや貴族や官人たちは「ハッハー」と頭を下げたが、従うことは従うけれど了解や納得はできなかった。

国政を思うままにした藤原仲麻呂の死をしむ者は少なかったが、仲麻呂に権力を与えて橘奈良麻呂や多くの二世王を殺し、淳仁天皇を即位させた孝謙太上天皇の復権を喜ぶ人も、同じように少なかった。


孝謙太上天皇が道鏡を大臣にしたことを告げているときに、右獄うごくのまえでは白壁王と吉備真備が帰還兵を集めてねぎらっていた。

「よくやってくれた。みなが命をかけて戦ってくれたおかげで、逆賊を討つことが出来た。太政官を代表して礼をいう。

さらに、みなには、逆賊の幼い家族や女性を処刑させて恵美仲麻呂の首級しゅきゅうを運ばせた。反逆罪は大罪で処刑はやむおえないが、幼き者や刃向わぬ者を斬殺するのは、人であれば辛いつとめであったであろう。

むご所業しょぎょうの責めは、命じたわれわれにある。遂行した者に罪はない。

ここにいる者は、逆賊を討伐して朝廷を救った名誉ある者たちだ。

そのこうにより、のちに昇位の沙汰さたが出るであろう。運がなく命を落とした者には、その家族に恩賞おんしょうが与えられるだろう。

ここで朝廷軍は解散する。呼びだしがあるまで家でゆっくり休んでほしい」と討伐軍の兵士たちへのいたわりの情と、重厚な貫禄を見せて白壁王が語りかける。

その姿を、吉備真備が目をこらして見ていた。

昔、恭仁くにに都があったころ、孝謙太上天皇の学士をしていた吉備真備は、宴会男として有名だった白壁王の噂を耳にしたことがある。

今回のことで始めて近くで接してみて、白壁王は大局たいきょくを見て臨機応変りんきおうへんに言葉で人を誘導する逸材いつざいだと思った。


仲麻呂の時代に、皇位継承権のある二世王は殺されるか、流刑にされるか、臣籍降下しんせきこうかしてしまった。

二世王で正三位という高いくらいを持ち、太政官をしているのは天智天皇てんじてんのう系の白壁王だけだ。

ただ天智天皇が亡くなったあとに、前唐ぜんとうの船団が玄界灘げんかいなだまでやってきて、天智天皇系の男性天皇の即位は認めないと日本の内政に干渉する国際協定を望んだ。

だから多くの人が天智天皇系に皇位継承権があると思っていないのだが、すでに前唐は滅んで、このときの約束は反故ほごになっている。

天智系の男性天皇が即位しても、唐は障害にならない。

今いる二世王のなかで、仲麻呂によって壊された体制を立て直せるのは白壁王だろうと真備は思う。

ただし大きな問題があった。五十代で亡くなる人が多いのに、白壁王は孝謙太上天皇より九才年上の五十六歳で、吉備真備は六十九歳なのだ。

あとは天の時と、人の和の流れにまかせるしかない。


九月の末から十月の初めにかけて、戦功のあった者の叙位が行われた。

討伐隊として活躍した官人たちも、それぞれが昇位した。討伐軍の大将をつとめた藤原蔵下麻呂は、兄たちを越えて従三位に昇位した。三十歳で公卿になったのだ。

そして太宰員外帥だざいいんがいのかみとして都を追われていた仲麻呂の兄の藤原豊成とよなりが、病気療養中の難波なにわから呼び戻されて右大臣に戻った。

大臣禅師だいじんぜんじの道鏡は政務を知らないし本人も関与する気がないらしく、右大臣の藤原豊成が太政官のトップになった。


 

十月九日。七時。

内印と駅鈴を返上したあとも、淳仁天皇は中宮院に住んでいた。

孝謙太政天皇は、新しく兵部卿ひょうぶきょうになった和気王わけおうと、左兵衛督さえもんのかみになった山村王と、外衛がいえ大将たいじょう百済くだらのこにしき敬福きょうふくに命じて、二百余人の兵士で中宮院を囲ませた。

淳仁天皇は身支度もできていなかったが、せきたてられて図書寮づしょりょうのそばまで歩かされて、そこで山村王から孝謙太政天皇の詔をつたえられた。

「父の聖武天皇が天下をちんにさづけられた。そして王をやっこ奴婢ぬひ・どれい)にしようが、奴を王にしようが朕がしたいようにし、たとえ帝として朕のあとをついだ人でも、朕に対して礼がなく無作法なら帝の位を取りあげてもよいといわれた。

それなのに今、帝となっている人の数年をみてきたが、天皇の位にいる能力がない。それだけでなく仲麻呂と一緒になって、密かに兵をあつめて朕を除こうとはかった。

それゆえ淳仁を帝の位から退かせ、親王の位を与えて淡路島あわじしまきみとして退かせる」

 

淳仁天皇は、ずっと息子のそばにいた母の当麻山背と供に、馬に乗せられて淡路島に送られた。淡路島まで淳仁天皇を送って行ったのは藤原蔵下麻呂だった。

淳仁天皇の兄の船親王ふなしんのうは、仲麻呂と交わした陰謀の手紙が田村第から見つかり隠岐おきの島へ流刑になった。池田親王いけだしんのうは、馬をあつめて謀反を協議していたと土佐国とさのくに(高知県)に流刑になった。

これで十年前には有力な皇位継承者とされていた舎人親王の皇子は、だれもいなくなった。二男の三原王の子で、舎人親王の孫になる和気王だけが、紀益女きのますめに祈祷をさせたり、叔父の淳仁天皇を捕らえにいった功績を買われて、従三位に昇位した。

十年前に、もう一人の有力な皇位継承者とみられた新田部親王の皇子も、氷上塩焼が殺されて、だれもいなくなった。



近江国の高嶋郡は二年のあいだ、滋賀郡と浅井郡は一年のあいだ租税が免除された。もちろん逆賊に加担した民間人の逮捕者は、一人も出ていない。

越前国敦賀郡の敦賀つるがの嶋麻呂しままろは、討伐軍を助けた功で外従五位下をもらった。いまも敦賀の荒波と、そこで採れる魚を愛でながら、嶋麻呂は爽快にくらしている。

琵琶湖のほとりで淡海三船が出会った大友おおとも村主のすぐり人主ひとぬしも功を認められて外七位下をもらい、そのあとで、この戦の戦没者の供養のためにつくる西大寺さいだいじ建造のために多額の寄付をして、外従五位下をもらった。

もらった位階は地元で幅を利かすための肩書きで、大友村主人主も幼なじみの村人たちと元気にくらしている。


仲麻呂は、都が地方の政治を直轄できるようにしようとしていた。その政策は、のちの政権にも受けつがれて、やがて群司ぐんじたちの力は削がれてゆく。

しかし、このときから百三十年ほど時代が過ぎてからのこと。

平安時代前期に醍醐だいご天皇が命じてつくった、日本で最初の勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうの「古今こきん和歌集わかしゅう」の序で、六歌仙ろっかせんと定められる六人の和歌の名人がでる。

その一人の大友黒主くろぬしは、近江国滋賀郡の大領たいりょうで人主の子孫だといわれる。

こうして地元を愛した群司たちの心意気は、それぞれの土地で形を変えながら受けつがれていった。



               孝謙太上天皇


           大納言 藤原永手(北家)

           中納言 藤原真盾(北家)

           中納言 白壁王

           太政官 中臣清麻呂

           太政官 石川豊成


               文室大市

               吉備真備


       愛発関 討伐隊 日下部古麻呂

               物部広成

          敦賀群司 敦賀嶋麻呂


       今津浜 討伐隊 佐伯伊多治

               紀鯖麻呂

               大伴形見


           討伐隊 佐伯三野

               久米小虫

               田口牛養

               大野真本

               葛井立足


         朝廷軍大将 藤原蔵下麻呂くらじまろ(式家)      

               藤原宿奈麻呂(式家)


         近江群司団 坂田山城

               伊香貞益

               石村石橋


         美濃国少掾 村国嶋主

      

            越前塩津の駅長 駅子 スケ タケ

              海津の駅長                           



     反逆者       恵美仲麻呂―――二男 真先

                       四男 朝苅

                       五男 小湯麻呂

                       六男 刷雄(流刑)

                       七男 薩雄

                       十男 真文


                氷上塩焼

                仲石足

                大伴古薩

                阿部小路

                石川氏人


                陽候女王(塩焼妹)    

               

                        


















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