九  進め官人討伐隊  仲麻呂の乱中盤

七六四年(天平宝字てんぴょうほうじ八年) 九月十二日から十五日 



九月十二日。六時。近江(滋賀県)国府こくふ

瀬田川の東にある近江国府の官舎で、討伐隊の兵士たちは目覚めた。ゆっくり休んだ討伐隊の官人たちは、しっかり食べて六時には近江国府をあとにした。

近江すけ上毛野かみけのの広浜ひろはまも、瀬田唐橋せたのからはしが燃えてしまったからにはブレる余地もなく、淡海おうみの三船みふねとならんで「気をつけて~ぇ!」と討伐隊を見送った。

昨夜、三船から、勅書が偽物だという太政官印を押した文書が届いていること。

押勝の息子が国守をしている美濃国みののくに(岐阜県南部)と越前国えちぜんのくに(福井県)では、恵美一族が反逆者になったことを公表しないだろうから慎重に行動した方が良いこと。近江国の坂田郡さかたぐん柏原かしわばら(米原市)の郡司と駅家うまやには朝廷軍が行くと知らせてあるから、今夜はそこに泊まるようにと教えられている。

討伐隊は湖東の蒲生野がもうのを、心地よい秋風をうけながら四十キロ近く北上して行った。


 

七時。美濃国府。

美濃守の恵美執棹とりかじは、美濃の国庁こくちょうの執務室にいた。押勝の九男で、まだ二十六歳になったばかりの若い国守だ。

七男の恵美薩雄ひろおを越前守にしたときの失敗に懲りて、父の押勝が美濃すけに地方官としての経験が長い池原いけはらの禾守いなもりを補佐としてつけてくれた。

執棹が成人した十五歳のころには、もう田村第ができていた。

田村第には押勝の正夫人になる母の宇比良古だけでなく、ほかの夫人たちや異母兄弟姉妹たちが一緒に住んでいたから、みんなが父のことを「紫微令しびれいさま」とか「大師さま」と役職名で呼ぶのが当たりまえの環境で執棹は育った。

邸に来る教師に勉強も習ったから、邸の外の世界を知らず友達という存在があることも知らない。

田村第には押勝という絶対君主がいて、みんなが主に従って暮らしていた。

衣食住に不自由はなかったが、自由のない縛られた暮らしだったのだが、それしか執棹は知らない。

今年の正月に美濃守になったが初めての任官で、官職を経験したこともなかった。

執棹が美濃国に来たのは七か月前の二月十三日で、都を立つまえに美濃で兵を集めるようにと父から命じられた。十月半ばまでに徴兵を終えるようにという手紙を、二日前にも受けとっている。はじめて任された大きな仕事なので、父の命令を果たせるかどうかを執棹は気にしている。

淳仁天皇が内印と駅鈴を孝謙太上天皇に返納してから、まだ二十四時間しか経っていない。都でなにが起こっているか、恵美執棹や美濃国府にいる人は知らなかった。



押勝が唐風に変えてから訳が分からなくなっているが、もともと官職は和風の読み方では、カミ、スケ、ジョウ、サカンという四つの階級(四等官制しとうかんせい)に分けられている。所属する役所によって文字はちがうが、すべて同じに読む。

一番上がカミ(卿、大夫、頭、正、尚、伊、首、督、師、守、大領、令、大将、将軍、別当、長官、使)。二等官の副官がスケ(副、輔、亮、助、典、弼、佐,弐、介、少領、扶、中将・少将、次官)。三等官がジョウ(祐、丞、進、允、佑 典膳、忠、尉、監、抹、主政、従、将監、判官)。四等官がサカン(録、史,属、令、疎、志、典、目、主帳、善史、主典)になる。

守、介、掾、目の文字をつかうのは地方官だ。

カミとスケは一人だが、ジョウとサカンは複数人いて、ジョウやサカンの前に大、少をつけることがある。

地方官の場合は、カミは四年から五年おなじ地方につとめて、都から送られてくる次のカミと交代する。

高官の子や孫(蔭子おんし)は蔭位おんいせいで、若年で一番上の守となって地方に赴任する。

蔭位の制とは、たとえば祖父が左大臣で、父の乙麻呂は久米若女のことで失敗があったが亡くなったときに従三位の中納言だった石上宅嗣は、祖父と父が二代続いて三位以上なので、二十八歳で相模守になった。従二位の大納言で亡くなった大伴旅人たびとの息子の大伴家持は、二十七歳で越中守になった。

ただ蔭子が最初に任官されるのは余り重要ではない国で、三関がある美濃、越前、伊勢の国守は重要なポストだ。

副官のスケになる人には、昇位がスケで止まる下級官人がいるので、地方官としての仕事に精通するベテランがいる。


美濃介の池原禾守も五位以上にはなれない氏族の出で、これまでも四国地方のスケをしていた。

「国守さま。不破関から通達がございましたか?」と池原禾守が執棹に聞いた。

執棹は、自分の机の上を見まわしてから、「いいえ」と禾守に目を向ける。

固関使こげんじが来て関が閉じられたと聞きましたが、なぜ国庁こくちょうに通達してこないのでしょうか」と禾守。

「関を閉めるときは、国庁に知らせが来るのですか」と執棹が聞く。

「三関がある地方に来るのは始めてなので分かりませんが、不破関は美濃国にありますから知らせがあっても良いと思います。

どうして関が閉じられたのでしょう。もしかしたら上台さまが、ご病気になられて重いのかも知れません。

村国さん。あなた、これから関に行って、なぜ国庁に報告に来ないのか、何があったのか聞いてきてくださいませんか」と介の池原禾守が頼んだ。

「はい」と美濃少掾しょうじょう村国むらくにの嶋主しまぬしが答える。


恵美押勝は、地方の行政を中央政府が直轄ちょっかつして治められるような政策を進めていた。その過程で地方豪族とのつながりができて、配下として可愛がって信頼をしている官人に地方群司ぐんじの一族が多い。

介の池原禾守は、上毛野かみけの(群馬県)を治める地方豪族の上毛野氏の係累けいるいだった。つまり関東を本願地ほんがんちとする地方豪族の出で、美濃の地方豪族との関わりはない。

一方、少掾の村国嶋主は美濃の豪族で、若いころに中央に出て柴微中台の下級役人をしていていた。そのころ押勝に目をかけられ、ほんの一時だが田村第の家司けいしとして雇われていたことがある。

地元に戻って何年か経つが、今回は押勝の九男の執棹が美濃守になったので補佐として少掾にされた。同族の村国虫麻呂も、おなじ時に越前守になった押勝の八男の辛加知しかちの介につけられて越前国に赴任している。

関司せきのつかさには地元出身のじょうさかんがなるので、不破関への使いは村国嶋主が向いている。

「では、これから関の方へ聞きに行ってまいります」と嶋主が身の回りを片付けて、執務室から出て行った。

このときまで、美濃国の国府は穏やかだった。

はじめて田村第を離れた執棹は、のびのびと自分の家族だけで暮らせる幸せを感じていた。


同じ七時。近江国。保良宮。

「塩焼さま。大変です。瀬田唐橋せたのからはしが焼け落ちています」と言う従者の声で氷上塩焼は起きた。

眠ったのが四時近かったから、寝足りずでボーッとしている。

「ン・・・」と塩焼。

「瀬田唐橋が焼けてなくなっています」

「なんて?」

「瀬田唐橋が焼け落ちています」

「ほんとうか!」と塩焼は呆然として身を起した。


押勝の呼びかけに応じた氷上塩焼と、仲石伴なかのいわともと、石川氏人うじひとと、大伴古薩こさつが、保良宮にある押勝の別荘の一部屋にあつまっている。昨日までは全員が五位以上の貴族で、いまごろは職場に居るはずだった。


「ほんとうですか・・・」と石川氏人がつぶやく。

「・・・瀬田唐橋がない。どうしてでしょう」と大伴古薩。

「塩焼さん。暗くなってから宇治橋で集まるという知らせは、われわれの他にも受けとった人がいるのでしょうね」と仲石伴が聞いた。

「池田親王や舟親王や、ほかにも何人かには出している」と塩焼。

「そのなかに密告したものがいるのでは?」と仲石伴。

「集合場所が宇治橋と知って、さきに近江に人をやって瀬田唐橋を焼いたというのか?」と塩焼。

「偶然にしては、できすぎています」と石川氏人。

「人数が多いから、われわれが近江に向かったことは、もう知られているでしょう。

橋は、いつ焼けたのですか?」と大伴古薩。

「ここに着いたときに火事の匂いが鼻につきました」と石川氏人。

「たしかに火事のあとのような匂いがしましたが。

あのとき、すでに橋が焼かれていたのですか?」と大伴古薩。

「ここに着いてからは火事が起こっていません。あの匂いが、唐橋が燃える匂いだったのでしょう」と石川氏人。

「もしも朝廷から人が来て橋を燃やしたのなら、われわれより先に来たことになる。

わたしが一番先に宇治橋に着いた。

都を出るまえまでは異常がないか見張らせていたが、宮城の警備を固めたほかは変わったようすがなかった。

宇治橋で待っているあいだは、人一人、通らなかった」と塩焼。

「わたしが最後に宇治橋につきましたが、すべての衛士えじは宮城の警備を強化するために駆り出されていました。

都は静まりかえっていて、邸が田村第にも宮城にも近いから、大師さまが都を出る音は聞こえましたが、ほかに大人数が動く音は聞こえませんでした。

わたしより先に、宮城から近江に向かった衛士の一団はいません」と左勇士衛督さゆうしえいとく(左衛士督)だった仲石伴。

「すると、橋が焼け落ちたのは偶然ですか?」と大伴古薩。

真夜中に橋が燃えるものだろうかと、みんな黙りこんだ。

「まず、宮城の警備を固める。

われわれを追っかけるなら、大将軍と勅使を決めて徴兵令を出す。

これは、今日中に手配するだろう。おそらく畿内から徴兵するから、雑兵は都に集める。どんなに早くても、兵が集まるのに四、五日はかかるだろう。

その兵を分けて隊にして武具を与えて、つけ方や武器の持ち方を教えるだけでも一日や二日は必要だ。

追っ手が来るのは、急いでも七日は先のことだ」と塩焼が言った。


税金の割り当てや徴兵のために、良民りょうみん(庶民)の年齢を分けている。満年齢の二歳までが緑児みどりご。三歳から十五歳が小児しょうに。十六歳から十九歳が少年しょうねん。二十歳から五十九歳が正丁せいてい)。六十歳から六十四歳が老人《ろうじん。六十五歳以上が耆人きにんという。

徴兵するのは二十歳から五十九歳の正丁で、なるべく若い二十代三十代の農民の庶子(長男以外)が対象になった。

武具や武器をはじめて手にする人たちだから、まず扱い方を教える必要がある。


しかし徴兵できる制度はあるが、九十二年前に同じ近江国で起こった「壬申じんしんの乱」から今まで、この国で合戦らしい合戦が起こっていない。

つまり今、生きている人は、だれも戦争を知らない。

「長屋王の変」や「奈良麻呂の乱」はあったけれど、抵抗もせずに捕縛された人を裁いただけだ。「広嗣ひろつぐの乱」のときに九州まで朝廷軍を送っているが、板櫃川いたびつがわをはさんで応答して弓を射たが実戦はしていない。

それでも唯一参考にできるのが朝廷軍を送った「広嗣の乱」だが、挙兵を聞いてすぐに大将を決め、このときは目的地が九州と都から遠かったので、道中で合流できる地方に一万人以上の徴兵令を出した。朝廷軍が本州の南端に着いたのが挙兵を聞いてから十八日目で、そのとき集まった兵は徴兵令の十分の一だけだった。


「じゃあ、先回りした者はいないのでしょうか?」と石川氏人。

「われわれの先を行く者がいたとしても、授刀舎人だけでしょう。

それなら内裏の警護に大半を残しますから、動ける人数が限られています」と仲石友。

「だが、いつまでも、ここにいるわけには行かない。

橋がないのなら舟で東岸に渡れば良い。

こっちも早く兵を集めて、軍を立ちあげなければならない」と塩焼。

「そうするべきでしょうが、予想よりも子供や女性の数が多いので動きが限られてしまいます」と仲石伴が言うと、石川氏人と大伴古薩がうなずいた。

氷上塩焼たちが呼びかけに応じたのは、美濃で兵を集めて都に向かい孝謙太上天皇を滅ぼすためで、落ち延びるためではなかった。

「大師さまが、お集りくださいと言っておられます」と押勝の従者が呼びにきた。


塩焼たちが部屋に入ると、押勝おしかつと、次男の真先まさき、四男の朝苅あさかり、五男の小湯麻呂おゆまろ、六男の刷男よしお、七男の薩雄ひろおと、去年まで近江介おうみのすけをしていた阿部小路あべのこみちがそろっていた。

押勝の息子たちのなかで、真先と朝苅と美濃守みののかみ執棹とりかじが藤原永手たちの甥になる。六男の刷男は、藤原清河が遣唐使になったときに随行して唐に行き、一年ほど在唐した経験がある。ほかに十男の真文まふみが同行しているが歳が若いので出てきていない。

「ほんとうに、瀬田唐橋が焼けたのか?」と、まず塩焼が聞いた。

「はい。焦げた杭しかのこっていません」と阿部小路が答える。

「杭しか残っていない? 完全に焼け落ちたのか。なにが起こった?」と塩焼。

「分かりません。瀬田のあたりには船がなく人もいないそうです。

どうして唐橋が焼けたのか、まだ分かりません。

いま大津まで人をやって調べさせています」と真先。

「人がいないとは、どういうことですか?」と石川氏人。

「この辺りにも人がいません」と朝苅が言う。

「この邸の留守番は?」と塩焼。

「着いたときから見当たりません」と朝苅。

「どういうことだ。石山寺に聞いてみたのか?」と塩焼。

「寺の門が閉まっていて応答しないそうです」と朝苅。

「近江介から報告はなかったのか」と塩焼。

「昨日の朝まで、とくに変わった報告は届いていません」と真先。

「橋がないと、舟で東岸に移らなければなりません」と阿部小路が言う。

「馬が百五十騎ほど、私兵が二百五十人はいるのですよ。船で渡せますか?」と仲石伴。

「瀬田から近江国府までなら近いから、何回か往復すれば渡せると思います。

大津になら舟があると思いますので、ともかく状況が分かるまでお待ちください」と阿部小路。

大津は天智天皇の都があったところで、のちに平安京に向かう路ができてからは交通の要所となるが、このときは逢坂山おうさかやまを背にした湖畔の港で、山の向こうは秦氏や坂上氏が開墾をしている原野だった。



七時半。美濃国。不破関ふわのせき

美濃国の少掾しょうじょうの村国嶋主が、不破関にやってきた。

美濃国は、関と国府が同じ不破郡にある。

関は東山道とうさんどうを塞いでいて、国府も東山道にそってあるから、十二メートル幅のまっすぐな広い路を二十分も歩けばつく。

「村国さん。ビックリしないでくださいよ」と関のなかに村国嶋主を入れた関司が言う。

おなじ美濃の地方豪族で、国府の大目だいさかんをしている先祖代々からの知り合いだ。

「まだ固関使と伝使でんしがいるので、一緒に話を聞いてくださいよ」

「都で、なにかあったのですか」と村国嶋主。

「これが勅書と太政官符です」と関司。

「なぜ関で止めているのです。どうして国守に届けないのですか?」と嶋主。

「これは国府にではなく、この関にてて来たものです。読めば分かります」

「大師で正一位の恵美押勝と、その子や孫が、兵を起こして反逆した。そこで彼らの官位を剥奪して、藤原という姓を除くことをすでに処理した。また、その財産をすべて没収する。

なんですか。これ?」と村国嶋主。

「ね。わたしだって信じられなくてね。

でも、これ、ホントなのです。そうですよね?」と関司が、都に帰るまえの休息を取っている固関使と伝使に向かって言う。

「わたしらも噂しか知りませんよ。

昨日の朝、帝が上台さまに天皇玉璽てんのうぎょじを返納されたそうです。

そのあとで大師さまが、それを取り返そうとされて、息子の一人が矢で射られて亡くなりました」と固関使。

「見たわけじゃありませんが、血のあとや争ったあとがありましたから本当です。

宮城は厳戒態勢で門は閉められています。

わたしは固関使と一緒に、関に勅書と太政官符を届けるように命じられました」と伝使。

「じゃあ、この勅書の写しは太上天皇が出されたものですか」と村国嶋主。

「写しではなくて天皇玉璽が押された本物の勅書です。はじめて目にしました」と関司。

「恵美押勝と、その息子と孫が反逆者って、うちの国守は恵美執棹です。恵美押勝の息子ですよ。つまり、うちの国守は反逆者です。

さっきまで一緒にいました。なぜ関を閉めたか聞いてくるように言われました。本人はなにも知りません。どうしましょう?」と村国嶋主。

「不破関は勅書をいただきましたので、恵美一族を反逆者とします。

もし反逆者の一味が関に来たら、関を守って食い止めます。朝廷から来る人は手助けします」と関司。

「国庁に勤める役人は、どうすれば良いのでしょう? 国庁にも、この勅書が送られて来るのでしょうか?」と嶋主。

「来るとは思いますが、まだ関を通過していません。

それに勅書を受けとるのは国守です。自分と子供が反逆者だという勅書を公にしますか。だから関にも勅書が届いたのですよ」と関司。

「たしかに発表しないでしょうね。

それに介の池原さまは大師さまの配下で、恵美執棹さまを守ると思います」と嶋主。

「もし朝廷軍が来たら、どうするつもりですか?

朝廷軍をはばめば反逆者になりますよ」と関司。

「国庁で働いている下役人や舎人は美濃の人たちです。美濃の人たちが巻きこまれることになります。

なんとかして、帝が内院を太上天皇に返納されたことや、恵美一族が反逆者になったことを、みんなに知らせなきゃ」と嶋主。

「やってみましょう。できるだけ多くの人に伝えます」と関司。

「わたしも国庁のなかで、できる限りのことをしてみます。

いまは反逆者が出たから固関来た来たが、それ以上のことを関司は知らなかったと、池原さまに伝えておきます」と村国嶋主が言った。

村国嶋主は、都で押勝に目をかけられていたが郷土愛の強い男だった。

押勝は位階を上げてやれば人は服従すると思っているが、嶋主からすれば可愛がってくれる上司の命を聞いていただけだ。だから国に帰るまえに田村第の家司にされたときは、なぜ邸づとめをしなければならないのかと心底驚いて、言い訳をつくってすぐにやめた。

押勝が自分の腹心と思っている人のなかには、温度差がある人が多くいた。



九時。平城京。内裏。

この日は鐘鼓しょうこが鳴ったあとも宮城の門は閉まったままで、一つだけ開いている東の県犬養門あがたいぬかいもんでは、衛門えもん舎人たちが登庁する役人の確認をしているから混みあっていた。

孝謙太政天皇が暮らす内裏に入るのは、もっと検査が厳しい。

但馬守たじまのかみ高麗福信こまのふくしん(正四位下)が内裏に通されたのは、九時近くになってからだった。

御簾みすを上げたままの孝謙太政天皇のそばには、十日から居つづけている白壁王、藤原永手、藤原真盾、石川豊成、中臣清麻呂の太政官と、文室大市がひかえている。

「ご自分で、ご用件をお伝えください」と永手が声をかける。

福信は一代で出世した成り上がり者だが、聖武天皇と光明皇后の信頼が厚かった。孝謙太上天皇も、それを知っている。

「昨日、さきの勅書を追うように、これが届きました」と福信が太政官印のある文書をさしだした。侍従が受けとって孝謙太政天皇にわたす。

読んだ太政天皇が眉をつりあげて、永手に渡すように侍従に言う。

「これは…」と、それを読んだ永手が声をあげた。

「先に届いた勅書は偽物である。今後、内印を押した勅書が届いても、それは偽物なので従ってはいけない。これが本物なので従えと書いてあって、押勝と真先と朝苅の署名があり太政官印(外印)が押されています」と永手が読みあげてから、それを太政官たちにまわした。

「あっ! 近江から早馬で届けてきたものがあります」と侍従がとりに行く。

「これは、勅書が届いたあとで着いたのですか?」と石川豊成が聞く。

「一刻(約二時間)ちかく、あとです」と福信。

「田村第から送ったのでしょうね」と真楯。

内記が持ってきた近江からの至急便も、おなじものだった。

「近江に届いているなら、美濃や越前にも届いているでしょうねえ」と大市。

「これを読んで、さきの勅書が偽物だと思うでしょうか?」と中臣清麻呂。

「地方官ですと、中央で起こっていることが分かりません。

地方官に伝達する勅書の写しには太政官印を使いますから、太政官印を押した文書が、勅書を偽物だと決めつけたら困惑するでしょう」と福信。

「してやられましたね。

恵美押勝が得意とする情報戦ですよ」と石川豊成。

「まさにイタチの最後ッです。

ところで、みなさん。そろそろ、恵美押勝と呼ぶのをやめませんか。押して勝たれるようで気分が悪くなります。仲麻呂で良いじゃないですか」と白壁王。

「藤原は使わないでくださいよ。あれは藤原氏ではありません」と永手。

「じゃあ、逆賊、恵美仲麻呂で統一しましょう。

それから仲麻呂が勝手に変えた官名も、元に戻したらどうでしょう」と白壁王。

「あの官名はいけません。上台さま。戻してもよろしいでしょうか」と永手。

「許す。すぐに、この太政官文書を訂正する勅をだす」と孝謙太上天皇。

「仲麻呂は、逃げるときに太政官印を持ってきましたよね」と石川豊成。

「これまで手放さなかったものを、田村第に残しているとは思いません」と白壁王。

「では仲麻呂が太政官印を盗んで逃げたという、勅の草案を作りましょう。

内記と外記の方々に協力してもらいます」と真楯が席を立った。

異常な状況だからこその連帯感を、福信は太政官たちから感じた。

「高麗福信さん。これを授刀衛府じゅとうえふにいる吉備真備きびのまきびさんに持っていって、事情を説明していただけますか。

あとは真備さんを手伝ってください」と永手がいうと、全員の太政官が同意を示した。


高麗福信が授刀衛府に顔をだすと「オウ。福信じゃないか。やっと来たか!」と奈貴王がむかえてくれた。

「いらっしゃい! 福信さん」と百済王敬福も笑顔を向ける。

それぞれの特徴を活かして真備が使っているので、授刀衛府にも連帯感が生まれている。目的を一つにした人々の連帯感は、エネルギーを活性化させるから室内の温度が高い。

福信は太政官印のある文書を見せて、真備に事情をつたえた。

そこに衛門舎人に支えられて討伐隊の伝令でんれいが戻ってきた。

「どうなった?」「どうです」と真備と百済王敬福が聞く。

「瀬田唐橋は燃えてなくなりました。滋賀郡には船も人もいません。

ぞくは、昨夜は保良宮で休みました。討伐隊は琵琶湖の東岸に渡りましたが、賊は東岸に渡れないでしょう」と伝令。

それを聞いて、授刀衛にドッと歓声があがった。

「淡海三船さまが、滋賀郡の船と人を隠して、ワラをもった湖族をつれて唐橋で待っておられました。

橋を焼くのを手伝ってくださり、さきに討伐隊を近江国府へやって、橋が燃え落ちるのを見とどけてから国府の方へ行かれました」と伝令が伝える。

「さすがは淡海三船さんだ。みごとに逆賊を湖西に封じ込めてしまわれた。

三船さんが近江国府に行かれたのなら、この太政官印を押した文書が送られていることを討伐隊も知るでしょうし、その対応も考えるでしょう」と真備。

「どうなっている?」と事情が分からない福信が、奈貴王に尋ねた。

「話はあとだ。それより福信。夜通し駆けてきたのか。くさいぞ」と奈貴王。

「永手さんたちから、ここを手伝うようにと言われた」と福信。

「今日は邸に帰ってお休みください。賊軍は但馬たじまへは向かいませんから、福信さん。しばらく都に残って手伝ってもらえますか」と吉備真備。

「望むところです!」と福信。

「明日の朝、奈貴王と一緒に田村第を改めてください。

門は外から板を打ちつけてふさぎ外衛舎人が見張っていますが、人手が足りないので中を改めていません。

生きものが残されているかを確かめて、残っていたら外に放してください。

安全が確認されたら、邸内を調べるために文官たちを入れます」と真備。

「福信さん。宮城や内裏への出入りが早い通行証を作りますから、ちょっと待っていてください」と藤原雄田麻呂おだまろが声をかけた。



九時過ぎ。平城京。井上いかみ内親王の邸。

「大変です。内親王さま。

不破ふわ内親王さまのもとに、今朝、言づけが届いたそうです。

塩焼さまは、昨夜、大師さまと一緒に都を出られました」と家令かれいあがた犬養いぬかい吉麻呂が伝える。

「なにを言っているのか、分かるように話せ」と井上内親王。

「昨日、大師さまと、その一族は反逆者だという勅が出ました。

昨夜、大師さまのご一族は都から逃げ出されたそうです。それに氷上塩焼さまも同行されたそうです。

反逆者と一緒に行動をすれば、塩焼さまも反逆者になります。

不破さまは、今朝、塩焼さまからの邸の者から言づてを聞くまで、なにもご存じなかったそうです。

それで自宅で謹慎きんしんするから子供たちを守って欲しいと、白壁王さまに頼んでいただきたいと使いを寄越されています」と家令の古麻呂。

「なぜ不破が謹慎しなければならない。不破は知らなかったのだろう」と井上内親王。

「使いの者がら、お話を聞かれますか?」と古麻呂。

「よい。白壁に伝えれば良いのだな」と井上内親王。

「はい」

「使いの者には分かった。安心せよと伝えよ」

「はい」

「白壁に、すぐに参るようにと使いを出せ」と井上内親王。

「はい。ただいま」

白壁王は中納言になってから、妻の井上内親王の邸を一度も訪れていない。

聖武天皇が残した三人娘のなかで、長く伊勢斎王をしていた井上内親王は世情にうとく、朝廷の業務にもくわしくなかった。



十時。近江国。保良宮。

二年三ヶ月半まえに、建設の途中で保良宮は放置された。

前からあった仲麻呂(押勝)の邸だけは手入れされていたが、ほかは雑草が茂り、雨ざらしになった木材が腐り、見る影もない廃墟になっている。

仲麻呂から再び集まるようにと言われて、氷上塩焼、仲石伴、大伴古薩、石川氏人が、恵美一族と阿部小路がいる一室に集まった。

「大津からの報告は?」と氷上塩焼が聞いた。

「それが…」と阿倍小路が言いよどむ。

「船は確保できたのか」と塩焼。

「船がありません。船だけではなく人もいません。馬も牛も犬も鶏もいないそうです」と朝狩。

「えっ? 舟も人もいないのですか。どうしてです?」と大伴古薩。

「宇治橋で落ち会ってから、まだ半日も経っていません。

たった半日で、瀬田唐橋が焼けて船も人もいなくなったと言うのですか? なぜです?」と仲石伴。

「ないものは、ないのですから、どうしてか分かりません」と真先。

「なにが起っているのか知る必要があります。あわてて出ていった痕跡こんせきはあるのですか?」と石川氏人。

「いいえ。どの家も片付いていて、前々から準備をしていたようです。

滋賀郡に船も人もいないとなると、滋賀の郡司ぐんじが関わっています」と阿倍小路。

「滋賀の郡司は、どういう男だ?」と塩焼。

「先代は話し好きの老人でしたが、去年の暮れに亡くなって孫が継いでいます。

この孫のことは顔しか知りませんが、その辺の漁師と変わらない男でした。

もともと滋賀郡の群司は都との関わりがなく、地元に落ち着いています。

あわてて出ていったとは思えないので、なにか他に理由があったのかも知れません」と阿部小路。

「理由って、どんな理由があります? 災害か疫病なら痕跡が残っているでしょう」と仲石伴。

「郡がまるごと神隠しにあったとか?」と大伴古薩。

「不気味なことを言わないでください」と恵美小湯麻呂。

「どっちにしても気味が悪い。でも慌てて出ていった形跡がないのなら、われわれとは関係がない動きでしょうね」と仲石伴。

「はい。ですが…」と小路。

「なんです?」と石伴。

「瀬田唐橋がなく船がないと、われわれは東岸に渡れなくなります」と阿部小路か言う。

塩焼たちが、いっせいに、こわばった顔で阿部小路を見た。


保良宮は琵琶湖の西岸にある。近江国府は東岸にあり、瀬田川を挟んで保良宮とは三キロほどしか離れていない。

しかし瀬田唐橋がなく船がないと、これが近くて遠い距離になる。

日本で一番大きな湖の琵琶湖びわこは、湖のふちが240km余りある。ふちより外枠にある道は、もっと長い。そして湖からの遠近と高低の差はあるが、周りを山でかこまれている。

討伐隊が進んでいる湖東ことうは、湖から山までの距離があって平地が広く、柏原(米原)から不破郡ふわぐんにかけては山が途切れていて、せきはらにつながる。

ここには近江国府から美濃みの信濃しなの上野こうずけ下野しもずけへとぬける東山道という大道だいどうが通っている。大道は道幅も広く整備された路だ。

湖東にいる討伐隊は歩きやすい大道を通って、近江国府から柏原までが40km余り。柏原からは30km余りで、あわせて約80kmで不破関に行ける。 

保良宮にいる押勝たちは、琵琶湖の西岸をグルッと四分の三周ちかく回って、柏原までが約200km余り、そこから不破関までの30km余りを入れると230km以上の距離を進まなければならない。しかも、こちらは小道しょうどうといわれる整備不全で、ところどころに難所がある狭くて高低差が激しい路だ。

瀬田唐橋が燃えて舟がないことで、80kmで着くはずの不破関は230kmも先になってしまった。


氷上塩焼や仲石伴たちは、昨日の朝から立て続けに大きなショックを受け続けている。

彼らは仲麻呂の呼びかけを無視するという選択があったのに、それを捨てて行動を共にしている。自宅謹慎きんしんをしなかった自分の判断ミスを悔やむより、危険を負って来たのにというイラつきや怒りのほうが先に出た。

「東岸に渡れないと、美濃へは行けないと言うことか」と塩焼が聞く。

「西岸を行って愛発関あらちのせきへ向かい、越前えちぜんへ行く」と恵美仲麻呂が始めて口を利いた。

仲麻呂も、昨日の朝から運命が逆転した。その変化に心も頭も体も適応できていない。これまでは仕掛ける側にいたから先の展開が分かったが、仕掛けられた今は、まったく先が読めない。

一昨日まで持っていた威厳と、奸計かんけいをめぐらせて人を陥れる性格が放つ抜け目のない鋭さが、仲麻呂から消えてしまっている。

「越前の辛加知しかちにも兵を集めさせている。

しばらく越前に落ち着いて、兵を集めて次の作戦を練ることにする」と仲麻呂。

「越前へ」とつぶやいて、石川氏人が腕を組んだ。

美濃国と越前国ではちがう。

美濃まで行けば、伊勢から来る東海道とうかいどうに行くことができる。

美濃や伊勢は開けていて人口が多く、地方豪族の力も強い。ここで徴兵をすれば、強力な軍団を立ち上げられる見通しがあった。

越前は北陸道ほくりくどうの始点で、日本海側の蝦夷えみしを討伐するために開けた場所だ。いまは海産物などを都に供給しているが、美濃ほど人口が多くないから、すぐに朝廷をおびやかせるほどの軍団をつくれるかどうかあやしい。

ただ愛発関を止めれば越前は守りやすい。しばらく雌伏しふくするのには適している。

「越前国府は、ここから、どれぐらいで行けるのか?」と塩焼が聞く。

「まず西岸を北に向かって、高島郡たかしまぐん海津かいづという港に行きます」と阿部小路。

「ここから、その海津まではどのくらいだ」と仲麻呂。

「わたしは歩いたことがありませんが、おおよそ二百里余(100㎞)はあるかと思います。海津からは七里半(4㎞)越えといわれる山道を通って、越前の敦賀郡するがぐんに入ります。

国府は丹生郡にゅうぐんにありますので敦賀の先だと思いますが、越前のことは存じません」と小路。

「いつまでも、ここに居るわけにはゆかない。

真先。資人を高島郡の元の少掾しょうじょうのところにやって、迎えに来させてくれ」と恵美仲麻呂。

「はい。ただちに」と真先。

「滋賀郡の北にある高島郡の少掾だったつぬの家足いえたりと言う男が、いまは大師さまの鉄穴てっけつの管理しています」と朝苅が、塩焼たちに説明した。

「越前に向かうしかないのなら、われわれも早く出立しよう」と塩焼が立ち上がった。



近江国。琵琶湖の東岸。

このとき、もっとも連帯感が強かったのは琵琶湖の東岸。湖東ことうをいく討伐隊だった。

九十二年間も実戦がなかったから、討伐隊も容疑者の捕縛にいった経験がある者がいるだけで合戦を知らない。

昨夜、近江国府の官舎に泊まったときに、乱戦になったときに味方を間違えないように自分の権少将の名を呼ぼうという案がでた。でも、ほかの隊の権少将の名は覚えきれないので、みんなで二文字の仇名を考えた。そのころから打ちとけて和気あいあいの雰囲気になっている。

この日は、近江国坂田郡さかたぐん柏原かしわばら(米原)までの四十キロの移動だ。

ところどころにススキが群生していて、風になびいて波のようにうねっていた。


 

十一時。平城京。内裏。

「逆賊、恵美仲麻呂は太政官印を盗みとって逃亡した。太政官印のある文書を受けとり通用させてはならぬ」という孝謙太上天皇の勅書が、北陸道諸国に通常の路を通らずに送られた。



十四時。美濃国。国司こくしたち

国庁に届けられた孝謙太上天皇の勅書と太政官符と、恵美仲麻呂が出した太政官印を押した文書をもって、美濃介の池原禾守いなもりが恵美執棹とりかじが住む国司こくしたちにやってきた。

「急なご用でしょうか」と執棹が聞く。

「伝使が勅書を届けてきました。一通だけ遅れてついたのですが、一緒にもってきました。関が閉じられた訳が書かれていると思います」と池原禾守。

執棹は、まず勅書を開いて読んだ。つづいて太政官符を読んだ。

読むことは読んだが内容が飲み込めない。勅書と太政官符は、恵美一族を反逆者としている。

「固関使が来て反逆者がでたから関を閉めろと伝えられたと、少掾の村国嶋主が関司から聞いてきましたが、なにが起ったのでしょう?」と池原禾守。

震える手で三枚目の父の仲麻呂が出した文書を読んだ執棹は、ますます訳が分からなくなって三通を池原禾守に渡した。

三通の文書を読んだ池原禾守も驚いて、何度も読み直す。

「これには勅書は偽物だと書かれています。この太政官印は本物です。

それに大師さまの自署もまちがいありません」と池原禾守が裏返った声をだした。

「どうして帝が、このような勅をだされたのでしょう?」と執棹が首をかしげる。

唯一無二の存在である現役の天皇には名前がない。亡くなって初めて諡号しごう(おくり名)が贈られる。名前がないから詔勅にも天皇の自署はない。宮中で保管される原本には「可」という文字を天皇が書くことがあるが、送られて来た勅書には書かれていない。

届けられた勅書を、執棹は淳仁天皇が出したものだと思った。

大炊王おおいおうと言った淳仁天皇と執棹は五歳違いで、おなじ田村第でくらしていたから性格を知っている。

「ですから勅は偽物と…」と言ってから、池原禾守は目をしばたいて考えた。

「恵美さま。帝は、このような勅を出されないと思われたのですか?」と池原禾守。

「はい、そういう方ではありません。

大師さまに反対される方ではありませんし、強い要求をされる方でもありません」と執棹。

「しかし紙は上質なものですし、天皇玉璽が押されています。

いままで目にしたことはありませんが、りっぱな印だと言うことは分かります。

伝使は、駅鈴えきれいを持っておりました。勅にあります大弁官の自署にも見覚えがあります」と池原禾守。

「内印と駅鈴は、帝が保管していらっしゃると聞いています。

でも帝は、このような勅をだされません。

帝でなければ、どなたが勅をだされているのでしょうか?」と執棹。

「帝は、上台さまと反目されていると聞きます。

もしかして、上台さまが内印と駅鈴を使われたのではありませんか?」と池原禾守。

「太政官印のある文書に自署しているのは大師さまと兄だけですが、太政官の一人である三兄(訓儒麻呂)の自署がありません。たとえ病であっても、このような大切な書類には、三兄なら自署するはずです。

大師さまの反乱を伝え、反逆者を始末するように書かれた太政官符には、大納言や中納言や信部卿(中務卿)や大弁官が自署しています」と執棹が言って庭に目をやった。

部屋からみえる庭で、執棹の夫人と子供たちが遊んでいる。池原禾守も庭に目をやった。子供は庭石を飛ぶのが楽しい四歳の男の子と、まだ走ると転ぶ二歳の女の子だ。

恵美執棹は二十六歳のまじめな青年で、この数ヶ月、夫婦親子が仲良く暮らしている姿を禾守は見てきた。

「上台さまが内印を使われたのなら、勅が正しいのかも知れません。

恵美氏を反逆者にする、なにか大きな出来事が、都で起こったのでしょう。

どうすれば良いのでしょう」と執棹がつぶやいた。

もうすぐ五十歳になる池原禾守は、しばらく無言で考えてから言った。

「恵美さま。事情が分かるまで、ご家族を連れて関東に行かれませ。わたしの故郷の上毛野かみけのに向かってください。

国府は、わたしが守ります」と池原禾守。

執棹の夫人と娘が、庭に咲いた紫色の都忘れの花を見ている。秋の風が二人の髪をそよがせている。しばらく家族を眺めていた執棹が首を横に振った。

「大師さまのご命令は美濃で徴兵をすることです。わたしは大師さまの命にそむけません」と執棹。

「孫までが反逆者にされています。

執棹さま。ことの次第がはっきりするまで、お子さまたちを守るために、ともかく関東に身を隠されませ」と池原禾守。

「わたしはここで、大師さまをお待ちます」と執棹。

「・・・では、この国司の館は不用心です。せめて、ご家族とともに国庁にお移りください。

届いた勅や文書は、すべて伏せておきましょう。

都で反逆者が出て恵美一族が狙われていると、国府の役人たちに告げます」と池原禾守が言った。


少掾の村国嶋主は、地元出身の役人をたづねて、内印と駅鈴が孝謙太上天皇の手にあること。それを取り戻そうとして恵美一族が反逆者になったこと。だから国守の恵美執棹を捕らえに朝廷から人が来るはずだから、その人たちに逆らわないようにと説いて回っていた。

だが都からとどいた文書は公開されず、都の反逆者が恵美執棹の一家を襲って来るから、必ず一家を守るようにと介の池原禾守が命じているので、嶋主の話を信じてくれる人が少ない。

村国嶋主は朝廷から追捕の人が来たときに、美濃の人が巻き添えにならないように、これまでのいきさつを細かく書いて、地方との連絡を受ける民部省みんぶしょうにあてて手紙を送った。



この夜、都では太政官たちが邸に戻った。吉備真備は、ずっと授唐衛府に泊まり込んでいる。

仲麻呂たちは、船もなく人影もない大津まで移動して泊まった。



九月十三日。

五時。近江国。琵琶湖東岸。坂田郡さかたぐん柏原かしわばら。 

「都で会おう」

「生きて戻ってこいよ」

たがいに声をかけあいながら討伐軍は半分にわかれて、一手は不破関へ一手は愛発関へと向かった。

柏原から不破関までは約三十三キロ。愛発関へは、関の登り口になる塩津までも高低差のある少道で約四十キロ、塩津から愛発関までは山道で三キロ。あわせて四十三キロある。



七時。平城京。田村第。

高麗福信と奈貴王が、十人の外衛舎人をつれて田村第にやってきた。

「内から出てくる生きものがいたら、みんな外に放してやってくれ。

二本足の生きものも放してやれよ!」と門を守る舎人に奈貴王が大声で言った。

「二本足の生きものって、残っている人を逃がすのか?」と福信。

「そう言われただろう」と奈貴王。

「そういう意味だったのか?」

「出て行きたい者は行ってよいぞ!」ともう一度、奈貴王は大声で田村第の中に向かって怒鳴ってから門をくぐった。

三日まえまで正一位の大師だった恵美仲麻呂と、その家族が暮らしていた田村第は静まりかえっている。

「夢のあとか。人がいないと、さらにデカイな」と奈貴王がつぶやく。

「ザクッと見まわるだけでも時間がかかりそうだ。この人数で隅々までしらべるのはムリだな」と福信。

「それはザクッとで良いってことだよ。あの先生は、それぐらい見通している」と奈貴王。

「吉備真備という老人は、クソ生意気なおまえが、先生と呼ぶほどスゴイ人なのか」と福信。

「ああ、スゴイ」と奈貴王が、一昨日の朝からのことを福信に教えた。

「じゃあ仲麻呂を近江に逃がしたのは、都で戦をしないためか。

公募で集めた遊撃隊ゆうげきたいか。行きたかったなあ」と福信。

「わたしも名乗りでたが却下された」と奈貴王。

「歳だからか」

「わたしは、まだ三十歳だ。福信は幾つになった」

「五十五歳になった。少しはうやまっていたわれ」と福信。

「先生は、仲麻呂を滅ぼしても皇位継承問題は解決しないと言った。

世を治める力をもった帝が即位するまで、わたしは功名を立てずに目立たず生きのびて役に立てとさ」と奈貴王。

「言えてる。あの道鏡どうきょうという僧のことは、なにか言ってたか」と福信。

「聞いてない」

「昨日、はじめて道鏡をみたが、噂ほど悪い男のようには見えなかった」

「そう思うか。上台さまは道鏡が好でたまらないらしい。色恋か、どうかは分からないが、そばから手放せないのは確かだ。

あの僧は困惑しながらも、裏切らないように仕えているように見える。そう見せているだけかも知れない。腹の中までは分からない。だが野心的な男ではない。

考えてみたら上台さまもかわいそうだ。利用されてばかりだから信じられる人が欲しいのだろう」と奈貴王。

「奈貴王。あのときのたちばなの奈良麻呂ならまろの最期の姿を、おまえも見ただろう」と福信。

「怖くて目を反らしていた」と奈貴王。

「わたしは脳裏のうりに焼きつけた」と福信が足もとの庭土を蹴った。

「あの姿を思いだすと仲麻呂をナグリたくなる。橘奈良麻呂は善い男だった。

われらを別荘に招いてくれた加茂かもの角足つのたりも悪人ではない。

国のことを考える官人だったが、縛られて、なぐり殺された。

皇太后さまが止めようとされたのを、仲麻呂と一緒になって死ぬまで拷問をつづけさせた上台さまを、わたしは利用されて可哀想だとは思わない。

奈貴王。わたしを殺すときは一思いに斬ってくれ」と言いながら福信は、孝謙太政天皇と道鏡が太政官たちの連帯感から浮いていたと思いだした。

たしかに仲麻呂がいなくなっても後継者問題は解決しない。そして奈貴王が言うとおり、孝謙太政天皇は利用しやすい天皇だ。

もしかしたら仲麻呂の失脚は、ただの余震かも知れない。

これから先に大きな噴火が起こって、新しい山ができるのかも知れない。



十時。 近江国。琵琶湖の西岸。舞子まいこの浜。

漁師がつかう小舟が、何そうか沖に浮いている。

「高島郡のつぬの家足いえたりがよこした船です」と仲麻呂のそばから戻ってきた阿部小路が言った。

「どうして小舟ばかりなのだ」と氷上塩焼。

「この浜は遠浅とおあさで、あの場所で小舟も砂に乗り上げたのでしょう。

浜までいてきてくれます」と阿部小路。

「大船は使えないのか」と仲石伴が聞く。

「大船は、滋賀郡は大津港、高嶋郡は海津港に入ります。

そこに見える岬の向こうが高嶋郡で、角家足の家は山添いにあります。

岬の向こう側には田畑が広がっています。その先は今津浜いまづはまという砂地になっています。

岬は坂になりますから、輿に乗っておられる方々は舟でお運びすればよいかと思いましたので、角家足のもとに使いにやった田村第資人に船の用意を伝えさせました」と阿部小路。

恵美朝狩たちが、輿から女性と子供たちを下ろしはじめた。

そのうち子供や女性の泣き声が聞こえてきた。恵美一族の男たちが、輿と仲麻呂の間を行き来している。

「舟に乗るのをイヤがったか・・・」と、そのようすを遠目に見ながら塩焼がつぶやく。

「結局は舟に乗るのでしょうが、まったく余計な…」と言いかけて、大伴古薩が言葉を切る。

「この湖も手こずりますよ。ここは遠浅ですが、小舟が泊っている所から先は急に深くなります。高嶋郡との境にある岬のそばの鬼江おにえも深く、水面からは分からない水流が下に流れているので、地元のものしか舟をあやつれません。

しかも雲行きしだいで風が変わります」と湖水を見ながら阿部小路が目を細めた。



十五時半。美濃国。不破関。

美濃に向かった百五人の討伐隊と、九人の伝令が不破関についた。

「われわれは朝廷から使わされた討伐隊です。

反逆者の恵美執棹を捕えにきました。開門してください!」と佐伯さえきの三野みのが大声で名乗ると、すぐに関の門が開いて関兵が顔をだした。

「そんなに声を張りあげなくても、見えていますし聞こえています。

静かにしてくれませんか」と関兵が手招く。

「逆賊の恵美執棹と、その子を捕らえにきた朝廷の討伐ですね。

何人ですか」と関兵。

「討伐です。百十五人と伝令が九人です」と大野おおのの真本まもと

五人の権少尉がまとめるこの隊は、伝令一人が瀬田から都に帰っている。

「すると百二十四人。馬は何騎ですか?」

「三十九騎です」と田口たぐちの牛養うしかい

「それぐらいなら人も馬も、なんとか詰め込めますから、さわがないで静かに入ってください」と関兵に呼ばれて門までやってきた関司せきのつかさが言った。


「関は勅に従います。しかし国府は違います。

昨日の昼過ぎに、勅書と太政官符をもった伝史でんしを国庁に通しました。

そのあとで、もう一人の伝使が来ましたので、それも通しました。

しかし勅書は公表されていません。偽の勅を出した賊がくるからと、あなた方を迎え撃つ準備をしているそうです」と関所のなかへ入った討伐隊に、関司が説明する。

「われわれは恵美執棹と家族を捕らえに来ただけです。

美濃国府は関係がありません。彼らを引き渡してくれれば、それですみます。

なぜ反逆者をかばって、われわれを妨げようとするのでしょう。

われわれを妨害すると反逆者と同罪になります」と佐伯三野。

「恵美執棹が国守ですよ。勅書を受けとって読んだのは執棹です。

自分と子供が反逆者と書かれている勅書を発表すると思いますか?」

「しないでしょうね」と久米くめの子虫こむし

「そうでしょう。

国府につとめる役人たちは、恵美一族が反逆者になったことを知りません。

国守を狙って賊が来るからと、賊ってのは、あなた方のことですよ。

賊を迎え討つ準備をしていると聞いています。

ですから気づかれないように、息をひそめて静かにしてください」と関司。

「やっかいなことに、なっているな」と葛井ふじいの立足たちたり

「いまは、どんなようすですか」と田口牛養。

「さあ。国守を狙った賊が来るから通すなと、国庁から連絡がきたのが今朝です。

厳重に警戒すると答えておきました。それからは連絡がありませんが、国庁の方も準備をしているはずです」と関司。

「待ちうけている敵に、これから当たるのは危険だ。

大半が歩きつづけている。体を休ませたほうが良いのではないか」と大野真本。

重いヨロイを着て重い武具を担いで、討伐隊は今日も三十三キロの道のりをきた。

「休んでいるうちに日が暮れる。いま恵美執棹は、どこに居るか分かりますか」と田口牛養が、都を発つ前にもらった美濃国府の絵図を広げた。

「いつもなら、この刻限には、この国司のたち(官舎)に戻っているはずですが、おそらく国庁こくちょう(政務を執るところ)にいるのではないでしょうか。

国庁のほうが築地塀で囲まれて、門衛や警備の舎人がいますから安全です」と関守が絵図を指しながら説明する。

「まず恵美執棹がどこにいるか、しらべよう」と大野真本。

「それがいい。各組から二人ずつだして他は休もう」と佐伯三野。

「関の小者を案内につけましょう」と関司が言った。

この日、美濃にむかった討伐軍の佐伯三野、大野真本、田口牛養、葛井立足、久米子虫らは、ヒッソリと不破関で肩を並べて雑魚寝ざこねをした。



十八時すぎ。近江国。琵琶湖の西岸。高嶋郡たかしまぐん

押勝たちは五台の輿をかつがせて、やっと角家足の家に落ちついて休息していた。高嶋郡は湖西で最も広い耕地をもつ土地だ。

家足の邸は山裾にあり、田畑が湖に向かって広がって農家にも人がいた。



琵琶湖の北岸。越前塩津しおづ

越前国の愛発関あらちのせきに向かう佐伯伊多治いたじ日下部くさかべの古麻呂こまろ物部もののべの広成ひろなりきの鯖麻呂さばまろ、大伴形見かたみの討伐隊は、そのころ湖北にある塩津の駅家うまやにいた。

仲麻呂たちがいる高嶋の角家足の家と、討伐隊がいる塩津の駅家は七十余キロほど離れている。瀬田川で遮られて琵琶湖の西と東を北に進んだ両者の距離が、また近くなった。

討伐隊が休憩をとって愛発関に向かおうとしたら、塩津の駅長が止めた。

「もう日が暮れます。これから峠に向かうと辺りは真っ暗になります」と塩津の駅長。

「まだ余力があります。空に雲はなく今夜は満月のはずです。

われわれは一刻も早く愛発関を固めて、越前国府にいる恵美辛加知しかちを討ちとらなかればならないのです。行けるところまで行きます」と佐伯伊多治。

「関への道は、馬が一頭しか通れない山道です。野宿する場所もありませんよ。

それに、この季節は熊が多くてねえ。年貢を納めるために都と越前を往復する百姓が、命を落とすことがあります」と塩津の駅長。


駅家うまやは主な街道の三十里(16km)ごとに造られていて、朝廷からの高官を泊めたり、勅などを伝達する国の施設だ。そのために駅家には馬が飼われていて、天皇の勅を伝えるときには駅史えきし(伝使)と馬を交代させる。これを駅伝えきでんといい、緊急事態を知らせる駅史にわたすのが淳仁天皇が内印と一緒に返納した駅鈴えきれいだ。

駅家は国の施設だが、運営しているのは官人ではなく地元の有力者が駅長えきちょうをしている。塩津の駅長は六十歳をすぎた、当たりがやわらかくて人の良さそうな、おジイさんだった。

「あなた方のことは、さきに愛発関には知らせてありますから、ゆっくりしてお行きなさい。こんなに大人数を泊めたことがありませんが、なんとか寝る場所を作りましょう。食事も用意しましょう」と駅長が言う。

「愛発関は、越前国にあるのでしょう?

そこに知らせたってことは、われわれが向かっていることを、恵美辛加知は知っているのですか?」と物部広成が怖い顔をした。

「なにを寝ぼけたことを。いいですか。ここは越前塩津といって越前国です」と駅長。

「近江じゃない?」

「はい。越前国です。わたしは琵琶湖の水で産湯うぶゆを使い、琵琶湖の水を飲んで生きてきましたが、なぜか租税は越前国に納めています。

どこまでが越前国で、どこからが近江国かも知りませんがねえ。塩津は越前国です。

言っておきますが、越前国が朝廷に反逆したわけではありませんよ。

愛発関を守る者も、われわれも、朝廷から許可をいただいて朝廷に仕えています。

反逆者ではありません。

あなた方のことを、反逆者に報告したりはいたしません。

悪いことはいわないから、今夜は、ここに泊まって早く寝て、暗いうちに起きて関に向かいなさい。登山口まではなだらかで、山道に入るころには空が白みます」と駅長が勧める。

「ここから関まで、どれぐらいかかります」と日下部子麻呂。

「早く出れば、こく(十時ごろ)には着くでしょう」

「ほかに愛発関に行く道はありますか」と紀鯖麻呂。

「この塩津からの山道は五里半ごりはん越えと呼ばれます。海津かいづから七里半ななりはん越えとよぶ西近江山道がありますね」と駅長。

「海津って?」と大伴形見。

「ほれ、そこ」と駅長が指さした。

討伐隊は駅長の指さした方を見たが、琵琶湖に突き出ている山が見えるだけだ。

「その山の先にも大崎おおさきの断崖があるので見えませんがね。

海津は大崎のむこうにある港で、近江国の高嶋郡にあります。

見れば分かるでしょう。塩津も海津も山を背にしています。どっちの道を登っても関につきます。

この塩津には大きな港がありますから、舟でくる人は、ここから五里半越えという深谷街道ふかやかいどうを登って愛発関にゆきます。

海津にも駅家があって港がありますから、あっちを使う人は七里半越えと呼ぶ西近江山道を使います。

七里半と五里半ですから、ここから登る方が楽でしょう」と言いながら、駅長が両手で三角形を作った。

「このテッペンが愛発関とします。

あなたたちから見て底の右の角が今いる塩津で、左の角が海津になります。

分かりますか。

そして底辺が塩津と海津を結ぶ道です。この道は、比良山の端が湖にのびて断崖絶壁だんがいぜっぺきとなるので、通りやすい路ではありません。

琵琶湖から関へ行く道は、この二つの山道のほかに、ちょうど底辺の中ほどに大浦川おおうらがわという川が流れていて川沿いに細い道がありますが、これは途中で深谷越えといっしょになります。

すべての道は愛発関につづき、そこで止められます。

山には他にも細い道がありますが、地元の人が狩猟しゅりょうをしたり、柴やキノコや山菜を狩りにゆく道で越前までは通っていません。

比良の山には修験道者しゅげんどうじゃがつかう道もありますが、わざわざ険しい場所をグルっと回って道場に戻って来ます。

これらの道をはずれると、熊笹やくずのようなつる草が生い茂って歩くのに不自由しますし、方向を見失います。

よろしいですか。もし敵が道をはなれて山に逃げ込んでも追わないで、ふもとで待ちうけなさいよ。かならず、もどってきます」と駅長さん。

「はい」と討伐隊が素直にうなづいた。

「ウワサでは恵美一族らしい一行は、高嶋郡にいるようです」と駅長。

「高嶋郡って、もう一つの関への登り口がある海津があるところですか?」

「海津も高嶋郡ですが、恵美一族たちがいるところは、もっと南です。

陸路なら、ここまでくるのに二日はかかるでしょう。

いまから食事を作りますから、それを食べて早く寝て、早く起きて出かけなさい。

年寄のいうことは聞くものですよ」と越前塩津の駅長が、やさしい目にシワをよせた。



平城京。内裏。

内裏では、「遅くに申し訳ありませんが、明朝、討伐への参加者募集の公布を出したいのですが」と藤原田麻呂が、吉備真備からの伝言を太政官たちに伝えていた。

「畿内から徴兵するのですか」と藤原永手が聞く。

「農民からの徴兵はしないそうです。

このまえと同じように宮城のなかだけで公布します。

今回は皇嗣系の方や名門氏族の応募もつのります。

まだ任官していない陰子おんしや、五位以上の貴族も歓迎します。

明日の朝に公布して、明後日、十五日の朝から授刀衛府じゅとうえふで受けつけます」と田麻呂。

藤原永手、藤原真楯、白壁王、石川豊成、中臣清麻呂の五人の太政官と文屋大市が、それぞれ妙な反応をした。耳を疑うほど非常識な話だ。

「徴兵をしないで、また官人を集めるということですか」と永手が確かめる。

「はい。先発した討伐隊を援護するために、ふるって応募ください。

応募のときは平服でおいでくださいとのことです」と田麻呂。

「どうして、ふつうに徴兵しないのですか?」と文屋大市までも首をひねる。

「わたしは使いを頼まれただけですので私見しけんしか申せませんが、ふつうに徴兵すれば、いつごろ、どのくらいの兵が集まるかを逆賊が読めるからではないかと思います」と田麻呂。

藤原田麻呂は、従五位上で四十二歳になる。式家は出世が遅いが、なかでも十代のときに兄の広嗣の連座で流刑にされ、そのあとは隠遁いんとん生活をしていた田麻呂の位階は低い。

ただ目上の人にも目下の人にも、年寄りにも若い人にも好かれるのが田麻呂で、頼みづらい使いのときは真備は田麻呂を使う。

仲麻呂をさけて、同じように登庁をやめていた経験がある文屋大市と藤原真楯は田麻呂を評価しているし、永手や中臣清麻呂や石川豊成も田麻呂を可愛がっている。

「あれから伝令は来ていないのですか」と真楯。

「瀬田唐橋を焼いて賊軍を湖西に閉じこめたという、最初の伝令が来ただけです」と田麻呂。

「討伐隊は、どこで、どうしているのでしょうねえ。

それで新しく集める方の年齢制限は?」と白壁王。

「審査をしますから、制限をしなくても、怪我をしそうな方は採用されないと思います」と田麻呂。

「今回の討伐隊も実戦に加わるのでしょうか」と中臣清麻呂。

「はい。実戦に出ます。ただ吉備真備さんは、多くの官人を戦で亡くすような指揮はなさらないと思います。今回は討伐として大将を選ぶようです」と田麻呂。

全員の顏を見まわして確認してから、「分かりました。上台さまに上奏して承認していただきますと伝えてください」と永手が答えた。



十七時。琵琶湖の西岸。高嶋郡。角家足つぬのいえたりの家。

髪をいて結いなおし、体を拭いてさっぱりした恵美仲麻呂たちが、角家足の家の座敷で北を向いて並んでいた。山すそに建てられた家足の家は大きい。

恵美仲麻呂、真先まさき朝狩あさかり小湯麻呂おゆまろ刷雄よしお薩雄ひろお真文まふみ(十男)たちと、呼びかけで集まったなかの石足いわたり、石川氏人うじひと大伴古薩こさつ、阿部小路こみちや、陽候やこ女王をはじめとする恵美氏の夫人や娘や幼い子供たち、私兵の主要なものが百人も入れる座敷がある。

廊下にも庭にも、仲麻呂に付いてきた私兵の田村第資人がならんだ。

北につくられた上座に、人々と対面する形で氷上ひかみの塩焼しおやきが座ると、仲麻呂がうやうやしく礼をした。

それから体の向きをかえて並んだ人たちに告げる。

「本日、塩焼王が天皇として即位されました。

これからは一丸となって新天皇を助けて新朝廷軍を立ち上げ、すでに六年もまえに退位した太政天皇と旧朝廷を攻め落とすことを誓います」

そして仲麻呂が塩焼に向きあって「天皇。万歳。万歳。万々歳」と平伏すると、全員が唱和しょうわして平伏した。

この夜、琵琶湖のほとりの山裾にある地方豪族の邸で、迫り来る闇に灯りをともし、妖しい幻影のように氷上塩焼の即位式が行われた。目の前で繰り広げられる即位の儀が、美しいのか、おぞましいのか、おごそかなのか、かなしいのか、塩焼には分からなかった。

それでも新天皇を掲げたことで、仲麻呂たちは新朝廷軍を名乗り士気しきがあがった。


二十一時。

塩焼天皇即位の祝い酒で酔った仲麻呂たちは、すでに眠りについていた。

角家足の家の近くの山のなかで、満月の明かりを頼りに七人の男たちが動いている。淡海三船と祖先がおなじという大友おおともの村主すぐり人主ひとぬしと、その村人たちだ。

「これに名はあるんか?」と一人が聞く。

「ヘキレキや」と人主。

「おまえの頼みには、へきえきしとる」

「その、へきえきやない。こいつの名がヘキレキや。早う元のように組み立てろや」と人主。

「ほんまに大石が飛ぶんか」

「亡くなったジイさんが造った形見やが、使ってないから知らね」と人主。

「三人がかりで運んだ石やぞ。やめたがええんちゃうか」

「一度だけ飛ばそ」と人主。

「元通りに組み立てたぞ。人主」

「ほな、狙え」と人主。

「どこを?」

「角家足さんチの、人にケガさせんように端のほう狙えや」と人主。

「狙えやって、どないやって?」

「ええから、そうれ。いくぞ」

「だいじょうぶか。こっちに落ちてこんかい?」

 一抱えもある石を組み建てたヘキレキに乗せて、人主たちは綱を何度か引いてから「ホウレ!」と放した。みごとに石は宙を飛んで、角家足の蔵の屋根をぶち抜いて落ちた。

「オリャ‥…」

「飛びよった!」

「どないする?」

「逃げよ!」

「おい。人主。ご隠居の形見やろ。ヘキレキ、置いてくんか! この、ジジ不孝者がァ!」

人主と六人の村人はガキのころからの友達だ。ヘキレキを解体して担ぐと、ワッセワッセと月明かりが照らす浜を目指し,何隻かの小舟に乗ると湖に消えた。


青天せいてん霹靂へきれきという言葉は晴れた空から雷が落ちることだが、もともと霹靂はテコと遠心力を応用して大石を飛ばす大陸の投石機で日本にはない。村長をスグリと呼ぶのは半島の呼び方だ。スグリは文字では村主か勝と書くが、どちらも渡来系で村主と書くのは坂上刈田麻呂とおなじ東漢ひがしのあや氏系になる。

塩焼天皇が即位した夜に、空から大きなかめほどある石が落ちてきて角家足の蔵をつぶした。

空から光の帯を引いて星が落ちてくることがあり、地上に落ちた星は石のようにみえることを知識人は知っている。しかし実物の隕石や隕石孔いんせきこう(クレーター)を見たことがないから、大友村主人主たちが飛ばした石を塩焼たちは星だと信じた。

せっかく新天皇というにしき御旗みはたをかかげて、士気があがった仲麻呂たちの高揚こうよう感がはじけとんだ。



九月十四日。

四時。越前塩津。

塩津の駅家に泊まった佐伯伊多治、日下部古麻呂、物部広成、紀鯖麻呂、大伴形見たち百五人の討伐隊と十人の伝令が愛発関あらちのせきに向かった。

空が白みはじめる天明てんめいのころに、勾配が強くなって山道に入った。たしかに馬が一頭しかとおれない狭いところや、下に川が流れている崖もある。

昨日、駅家のオジイサンが止めてくれて良かった。


 

四時半。美濃国。国府。

不破関ふわのせきにいた佐伯三野、大野真本、田口牛養、葛井立足、久米子虫らの討伐隊は天明の下を、まっすぐ美濃の国庁こくちょうを目指して走っていた。

国庁は、国府の中でも地方の行政を執り儀式などをする場所で、一町(一万四千平方メートル)の広さがあり築地塀で囲っている。一町は四位、五位の貴族の邸宅とおなじ広さだ。築地塀で囲まれた国庁の外に、国司こくしたち(国守の官舎)や、もろもろの役所が建てられていて、それらをあわせて国府こくふと呼ぶ。

美濃国の場合は不破関も国府の一部のように近い。


「われわれは、逆賊の恵美えみの執棹とりかじを捕らえにきた朝廷の討伐隊だ。すぐに開門してほしい」と国庁まで来た大野真本が大声で名乗った。

南門を守っていた十人余りの国庁の門衛もんえいは、百人をこえる武装した討伐隊に圧倒された。

門衛たちは逆賊が国守を狙ってくるから守るようにと、昨日、すけの池原禾守に命じられたばかりで、こんなに早く大勢でやってくるとは思っていない。

「門を開けないと、逆賊の一味として成敗する」と田口牛養が叫んで太刀を抜く。

討伐隊の何人かが弓に矢を構えると、門衛たちは逃げだした。

恵美執棹と家族が国庁の後殿こうでんで寝泊まりしていることを、討伐隊は昨日のうちに調べている。

国庁には美濃国府の役人や衛士がいるだろうし、かれらが執棹の仲間なのか、なにも知らずに上司の命令に従っているだけなのかも分からない。そこで逃げる者は追わず、刃向かってくるものは斬るか捕らえようと前もって話し合っていた。

門衛が逃げてしまったから、門をやぶって討伐隊は国庁になだれ込んだ。


国庁は、正面に儀式のための正殿せいでんがあり、その両脇に脇殿わきでんがある。正殿のうしろに前殿ぜんでんがあって、さらに奥に後殿こうでんがあり、それらが廊下でつながっている。

恵美執棹たちは一番奥の後殿にいる。討伐隊が声をあげて走り出した。

その音で、国庁の後殿に泊まり込んでいた役人や衛士(兵)は飛び起きた。

「賊だ! 賊だ!」と、あわてて出てきた美濃介の池原禾守がどなる。

「ここを打ち破られないように守れ。入ろうとするものは討ちとれ。

わたしは国守さまを守りにいく。良いか。だれも中に入れるな!」と命じて、禾守は奥へ走っていった。

禾守が見えなくなるの待って、美濃少掾の村国嶋主が立ちあがって叫ぶ。

「賊ではありません。朝廷軍です。抵抗しないで武器を置いてください!」と嶋主。

「村国さんは、そう言いふらしているけど、あなたが賊の手先なのじゃないですか?」

「ちがいます。かれらは恵美執棹を捕らえにきただけです。

なんども説明しているように勅書がでて、恵美一族は反逆者になったのです。

わたしたちが抵抗しなければ、朝廷軍は何もしません!」と嶋主。

「池原さまは、ちがうと言っておられます。それに国守さまは、毎日、ここで仕事をしておられて反逆などしてません」

渡り廊下を走る足音と叫び声が、どんどん近づいてくる。

恐ろしさで後殿にいる役人や衛士は、なにも考えられなくなった。

九十二年も戦がないから、国庁が襲われると考えたこともなかったのだ。

「われわれは、朝廷から派遣された討伐隊だ。逆賊の恵美執棹を捕らえにきた。

扉を開けなさい。抵抗して妨害すれば逆賊として捕らえなければならない。

すぐに扉を開けなさい!」と外から討伐隊の大声が聞こえてくる。

「開けろ! 開けろ!」と後殿の戸が叩かれた。

村国嶋主が素早くカンヌキを外したが、ほかの人たちが嶋主を押さえて、開けられまいと戸を引いた。討伐隊も開けようと外から戸を引く。中から人が防いでいるのが分かるので、討伐隊は明らかな妨害だとみなした。

戸が開いたときには外が明るくなっていたから、討伐隊には暗い室内のようすが良く見えなかった。後殿にいた美濃国府の役人も、急に差し込んだ陽の光がまぶしくて周りが見えなかった。

「戸を引っぱって朝廷軍を妨害したものを、すぐに捕らえて見張るように」と田口牛養が命じる。

討伐隊が室内になだれ込み、戸のそばにいた人を捕らえて縛った。美濃少掾の村国嶋主も捕らえられて縛りあげられた。

「恵美執棹は、どこだ!」と佐伯三野。

討伐隊におびえた国府の役人が、恵美執棹のいる方を指さした。

この日、討伐隊は、妻や子供を布や素手でかばうだけの若い美濃守と、彼らを守ろうとして必死に太刀を振り回す美濃介の池原禾守と、恵美執棹が連れている私兵たちを討ちとった。


「どうする」とヨロイに返り血をつけた田口牛養がドサッと座る。

はじめて人を斬ったのだ。鼻の中に入ったように血の匂いが染みこんで、みんな、ひどく疲れている。

「捕らえた人はどうする」と佐伯三野。

執棹をかばおうとして向かってくる者は斬ったが、抵抗をしない女子供は捕らえた。後殿の戸を開けさせまいとした役人も捕らえたので、思っていたより捕縛者の数が多い。

「ここの牢には入れてはおけないだろう。逃がすかも知れない」と壁にもたれた久米子虫が、だるそうに答える。

「われわれは、すぐに押勝を追わなければならない」と手についた血をこすりながら葛井立足。

「伝令を出そう。女や幼児の処分は聞いていない。捕らえたものは近江国府へ送って、近江の牢に入れよう。

それに美濃にはかみすけもいない。そのことも伝えさせよう」と冷静な大野真本。

始めて人を斬って、始めて人が斬られて死ぬのを見て、心が壊れそうな仲間をふるい立たせようと佐伯三野が立ち上がって足を踏みしめた。三野は造東大寺司の佐伯今毛人の息子になる。やったことはないが、こういうときの気持ちの支えかたを武門の佐伯氏は伝えていた。

「みんな立て。逆賊の恵美執棹を討ちとった。カチドキをあげる。いいか。いくぞ。エイエイオー!」と佐伯三野。

この討伐隊にいる三野の同族の佐伯国益、佐伯真守、佐伯久良麻呂、佐伯家継と、武人系の大野真本と久米子虫が途中から一緒に声をあげた。

「もう一度」と佐伯三野。

「エイエイオー。エイエイオー。エイエイオー」

「もう一度!」

「エイエイオー。エイエイオー。エイエイオー」

「もう一度だ!」

「エイエイオー。エイエイオー。エイエイオー!」

血と汗と涙を流しながらカチドキを上げて、戦を知らなかった官人討伐隊は戦闘員せんとういんへ変わっていった。



七時。平城京。

宮城のあっちこっちに、賊軍討伐に参加したい者の二次募集の高札が立てられた。



八時。琵琶湖の西岸。高嶋郡。角家足の家。

角家足の家では、天皇になった氷上塩焼と、仲麻呂、真先、朝狩、小湯麻呂、刷雄、薩雄、仲石足、石川氏人、大伴古薩、阿部小路らがあつまっている。


「これから、越前塩津しおづに向かう」と仲麻呂が言った。 

「どうして塩津まで行くのですか。阿部小路は、海津かいづから愛発関へ登れると言っています。海津の方が近くて早いでしょう」と仲石伴が聞き返えした。

「大師さま。高嶋郡の港は北岸の海津にあります。塩津に行くとしても、海津までは陸路を移動して行かなければなりません。

どうして海津から、そのまま愛発関に向かわないのですか?」と阿部小路も聞いた。

これまで命じるだけで反論されることなく天皇や高官を動かしていた仲麻呂が、不愉快そうに小路を睨みつけた。

「ここから海津までは、どれぐらいです?」と二男の真先が、父の仲麻呂かばうように小路に聞く。

「三十七里(二十㎞)ぐらいですか。わりと平坦な路です」と小路。

「海津から愛発関までは?」と真先。

「山道になりますが、関までは七里半です。今から出ると、男の足なら一日半もあれば関に着きます」と小路。

「すると海津から関を目指すと、明日、十六日には着きますね」と大伴古薩。

「海津から越前塩津までは、どれぐらいかかりますか」と仲石伴。

「海津から塩津への路は三十里ほど(十六㎞)ですが、山道で一部は急峻なところがありますから、輿を担いで行くのなら一日では無理だと思います。

この道は、途中で泊まれるところがありません」と阿部小路。

「ならば、海津から舟で塩津に向かう。角家足に言って、すべての舟を集める手配をせよ」と仲麻呂。

「海津から関に登るより二日は遅れると思いますが、どうしても越前塩津に向かわれますのか」と仲石伴。

「塩津は越前だ。まず越前に入る」と仲麻呂。

「越前と言いましても、越前国へ行く人は愛発関で調べますから、塩津には越前の役人や衛士が配備されていません。塩津は、海津と変わらない港です。

関への登山口になりますから、駅家があって強力ごうりきたちがいるだけです。わざわざ塩津まで行かないで、海津から関に登った方が早く越前に入れます。

どうぞ。ご再考をお願いします」と阿部小路。

「真先。舟の手配をするように」と仲麻呂は、阿部小路を無視した。

「では何人かを先に、海津から関に向かわせたらどうでしょうか」と仲石伴が提言する。

「分かりました。腕の立つ田村第資人を選んで、すぐに先発させます。

それなら明日の昼には愛発関まで行けます。さきに辛加智しかちに連絡をとらせます」と顔をそむけて膝を指で叩いている仲麻呂の代わりに真盾が答えた。

「舟で海津から越前塩津まで行くのなら、馬はどうするのでしょう。舟を往復させて運べますか?」と大友古薩。

「海津と塩津のあいだは距離は近いのですが、大崎という断崖がそびえていて潮流が落ち着きません。馬は陸路を運んだほうが良いと思います」と小路。

「さっき陸路も一部は急峻だと聞いたが、馬を運べるのか」と塩焼王。

「はい。ところどころは引かなくてはならないでしょうが、馬は運べます」と小路。

「わたしが陸路で馬を運びます」と四男の朝狩が答える。

「二十人の田村題資人をつれて、わたしも運びます」と真先。

「二十人で百騎を超える馬をつれて、山道をいくのはムリでしょう。

われわれも私兵を連れて、陸路で塩津に向かいます。

帝と大師さまは、海津から舟で塩津に向かってください。

帝、いかがでしょうか」と仲石伴が、塩焼に意見を求めた。

昨夜、塩焼が即位してから、呼びかけに応じて加わった仲石伴、阿部小路、大友古薩、石川氏人、阿部小路の態度が変わった。

仲麻呂が即位させた権威のない天皇だが、仮にも帝となれば一行のなかでは最も尊い存在になる。それに氷上塩焼は、皇位にふさわしい天武天皇の孫という血を引いていた。

ちんは時がおしまれる。そのように、はからえ」

天皇だけに許される朕という一人称を、はじめて塩焼が使った。

口にする方も耳にする方も、この言葉には重みがある。

結んだ口をゆがめて、仲麻呂がジロリと塩焼と仲石伴をにらんだ。


九時に三十人の田村第資人が馬で角家足の家をやち、海津から愛発関に向かった。

越前守の恵美辛加知に援護を頼みに行く者たちだ。

十時過ぎには、仲麻呂の一行も海津に向かって動きだした。

海津までは、塩焼や仲麻呂や恵美氏の家族や田村第資人と一緒に行くが、真先と朝苅と仲石伴たちは、そこから分かれて陸路で塩津に向かう予定だった。 



十時。越前国。愛発関あらちのせき

越前塩津から、五里半越えの道を登って来た討伐隊が愛発関についた。塩津の駅家から知らせを受けていた愛発関は、すぐに討伐隊をなかに入れた。

国府と関がおなじ郡にある不破関とちがって、愛発関は越前国の敦賀つるがぐんにあるが、国府があるのは丹生郡にうぐんだ。愛発関は、越前国府より塩津のほうが近く、塩津は琵琶湖を共有して生活圏を同じにする近江国府おうみこくふと親しい。

関は栃木峠とちのきとうげ(標高三七〇メートル)を越えて、ほんの少し山をくだった追分おいわけの近くにある。

追分で海津からくる七里半越えと、塩津からくる五里半超えの山道が一つになって関で止められる。

「これから越前国府まで行きたいのですが、道のようすを教えてください」と佐伯伊多治が、関司せきのつかさに聞く。

「行って行けないこともないでしょうが、ふつうは塩津からここに来たら、山をくだって今日は日本海に面した敦賀つるがに泊まります」と関司。

「敦賀から国府へは、どれぐらいかかりますか」と大伴形見。

「けっこうな距離がありますからねえ。チョッと待っていてくださいよ。

いま敦賀から応援に来ている人を呼びに行っていますから、くわしいことは、その人に聞いてください」と関司。

「ここには、どれぐらいの関兵がいるのでしょう」と物部広成。

「今は関を閉じていますから、十人ほどの役人と三十人の関兵が泊まり込んでいます」

「じゃあ、我々は残る方を少なくしようか」と紀鯖麻呂。

「わたしが残る」と日下部子麻呂が言った。

「高嶋にいる賊軍は、かならず、この関を通ろうとする。防げるのか?」と佐伯伊多治。

「わたしも残る。われわれ四十二人と、関に詰めている三十人の兵がいれば、だれ一人、通さずに守ってみせる」と物部広成。

「あのう…」と関司が声をあげた。

昨夜の駅家の駅長の助言が良かったので、討伐隊が五十過ぎの関司に顔を向けた。

「敦賀から応援に来てもらっている人が来ました。

こっちへ来て話を聞いてくださいよ。敦賀の!」と関司が、筋肉質な体と表情が豊かでよく動く目をした三十過ぎの男を招いた。

恵美薩雄ひろおが越前守をしていたときに松原客館を覗いて、渤海使の送使を危ぶんでいた「敦賀の若」と呼ばれていた男だ。

敦賀つるがの嶋麻呂しままろさんです。敦賀の新しい郡司ぐんじですから、国府への道筋などは、この人に相談してください」と関司のおじさん。

「国府へ行くのですか」と敦賀嶋麻呂が聞く。

「すぐに向かいたいのですが、どれぐらいかかるのでしょうか」と佐伯伊多治。

「越前守の恵美辛加智を討ち取りにいくのですか」と敦賀嶋麻呂。

「はい。勅命をうけました」と討伐隊がうなずく。

「恵美一族が反逆者になったという勅書が、この関に届いたことは聞いています。

そのあとで勅書が偽物だという文書が届いたとも聞いています。

ただ越前国府から敦賀郡に、恵美一族が反逆者したという知らせは来ていません。

おそらく国府がある丹生郡にゅうぐんでも、勅を公開していないでしょう。

自分が反逆者となった勅は、握りつぶしますからね」と敦賀嶋麻呂。

「奇襲をかけるつもりですし、目指す相手は越前守の恵美辛加智です。

国府の役人と争うつもりはありません」と佐伯伊多治。

「それなら、まず越前国府の役人に、恵美一族が反逆者になったことを知らせなきゃ。国府の役人に協力してもらってから、恵美辛加智を襲った方がムダな争いをしなくてすみます。

国府に行く人は、今夜は敦賀郡に泊まってくださいよ。

そのあいだに、国府の役人に根回しをしておきます」と敦賀嶋麻呂。

まかせても良いものかと、討伐隊が顔を見合わせた。

「地方では郡司ぐんじの力が大きいのです。嶋麻呂さんにまかせなさい」と関司のおじさんがすすめた。

「よし。敦賀嶋麻呂さん。よろしく、お願いします」と佐伯伊多治が軽く頭を下げる。嶋麻呂が並びの良い白い歯をみせて微笑んだ。どこか人を引きつけるものをもった男だ。

都から派遣される国司こくし(四等官の守、介など)は、知事と副知事と経理官と書記官のようなもので、任官の期間は四、五年以下と短い。

国(都府県)をいくつかの地域に分けた郡(都市の区、地方の市)は、郡司ぐんじとよぶ地元の有力者が朝廷から任命されて治めている。郡司は代々、決まった家が受けつぐことが多い。

朝廷から送られる国司たちは中央官人で位は高いが、給料は郡司のほうが国守の五倍と高給を取る。もともと郡司は財力と土地と人脈をもっている地方豪族だから、地元民を動員する力も郡司のほうが強い。

とくに土地の名を名乗る郡司のなかには、大和朝廷をつくるために全国を討伐してまわったヤマトタケルの遠征軍に加わって、占領した土地を任されたと伝える古い家柄のものがいる。

越前国敦賀郡つるがぐんの敦賀氏も、その一人で、やはりヤマトタケルの遠征に参加したと伝える吉備氏とは、大昔には親族だった。


「われらが関を守るから、早く逆賊を討ちとって戻ってこい。本当の戦は、それからだ」と日下部古麻呂。

「武器はたくさんありますし、ここは四方に狭間はざま(矢を射る穴)をもつ防御にすぐれた建物です。

峠を登ってくる道は狭いので、関の側に近づけない限り、賊が広がって向かってくることもないでしょう。

両脇は山ですが、その方向にも狭間があります。

ですが、聖武天皇が崩御されたときに閉めたことはありますが、今回のように都から逃げてくる逆賊を止めるのは始めてです」と関司のおじさん。

「山のなかに回り込んで抜けるかもしれないから、対策を考えましょう」と物部広成。

「それで大将はどなたですか」と討伐隊のやり取りを聞いていた敦賀嶋麻呂が、生き生きした目で一同を見回した。

「いません。一人の権少尉こんのしょうじょうが二十人の兵をまとめています。ここには五人の権少尉がいるので、兵が百人と権少尉を入れて百五人。伝令は一組に二人で十人います」と佐伯伊多治。

「馬は?」と敦賀嶋麻呂。

「え?」と伊多治。

何騎なんき?」嶋麻呂。

「権少尉と伝令には馬が与えられていますから十五騎。ほかに一組に五騎ですから、全部で四十騎です」と紀鯖麻呂。

「国府に行くのは、何人?」と嶋麻呂。

「関には二組を残して、三組が行きます。六十三人と六人の伝令です」と大伴形見。

「わたしらは関から動かないから、伝令の馬だけをのこして使っていいぞ」と物部広成。

「ほう。じゃあ馬は三十六騎。歩くのが三十三人か。決まっているなら話が早い。

すぐに立ちましょう。ウチの者を少し連れて行きますよ。代わりは、すぐに寄越します」と敦賀嶋麻呂が指揮をとり始めた。

愛発関には、物部広成と日下部古麻呂と四十人の隊員と四人の伝令が残り、佐伯伊多治、紀鯖麻呂、大伴形見と、六十人の隊員と六人の伝令が、敦賀嶋麻呂の案内で敦賀に向けて山を下って行った。



十三時。平城京。内裏。

内裏には、孝謙太政天皇と会いたいという人が何人もくる。

形勢が有利なのをみて、近づこうとする貴族たちだ。

内裏の門の一つに受付を作って用件を聞き、受けつけても良いかを侍従たちが太政官たちに聞く。

和気王わけおうが?」と侍従から面会を求めている人の名を聞いた藤原永手が、渋い顔をして天井をみた。

「ご用件は?」と太政官ではないが、ずっと行動を共にしている文屋十市が聞く。

霊験れいげんあらたかな巫女みこがいるので、内裏の中で賊軍を近江に閉じ込めるための祈祷きとうをさせたいから、許可していただきたいとおっしゃっています」と侍従。

中臣清麻呂が口元をゆがめた。中臣氏は、代々朝廷の神祇官じんぎかん(神主)をつとめている。八百万やおよろず国神くにつかみをおまつりするのが、大王おおきみと呼んだころからの天皇の役目で、そのころから大王を補佐して国神を祀ってきたのが中臣氏だ。時代が変わってしまったから、国神を祀る天皇が出家してもガマンするしかないが、さすがに得体の知れない巫女までがシャシャリ出てくるのにはイラッとくる。

藤原真楯は、うつむいて首筋に手を当てるし、白壁王は聞こえないふりをする。石川豊成は腕を組んだ。

太政官全員と文屋大市が、和気王を拒否している。


和気王は、中宮院にいる淳仁天皇の甥になる。

甥といっても淳仁天皇は舎人とねり親王の第七子で、和気王の父の三原王は第二子だったから、三十一歳の淳仁天皇より年上の三十四歳だ。

天武天皇のひ孫で、一時は臣籍降下しんせきこうかしておか真人のまひと和気わけと名乗っていたが、淳仁天皇が即位したときに舎人親王に天皇位が遺贈いぞうされて皇籍にもどって、現在は二世王の一人に数えられる。

「橘奈良麻呂の変」のときに、仲麻呂に頼まれて誣告ぶこくに強力したから信用できる人柄ではない。

「霊験のある巫女か」と孝謙太政天皇が侍従に聞いた。

「和気王は、そのように申しておられます」

「和気に会おう」と孝謙太政天皇が言った。永手も大市も黙っている。

女官の飯高笠目が「御簾みすを下させていただきます」と天皇のまえに御簾をおろして、和気王とじかに対面できないようにした。

女官たちはもちろん、太政官たちも文屋大市も侍従たちも、孝謙太政天皇が巫女の祈祷きとう神託しんたく祥瑞しょうずいが大好きなのは承知している。そういうものに、すぐにだまされることも知っている。

仲麻呂が逆賊になって都を逃げだしたのだから、内印と駅鈴を手放した淳仁天皇は、お先真っ暗だ。

淳仁天皇の兄の船親王と池田親王は、仲麻呂の誘いに応じず自宅にこもっているが、数少ない二世王になった甥の和気王は、ここぞとばかりに孝謙太政天皇の弱点を利用してスリよってきた。


「これは帝。お目にかかれて光栄でございます」と和気王が礼をした。

濃い下がり眉と厚みのあるまぶたと鼻筋が通った貴族的な顔立ちをした和気王は、仕草がオーバーな男だ。

御簾の向こうの孝謙太政天皇が女官に伝えて、女官が侍従に伝え、侍従がそれを和気王に伝える。

「その巫女のことを話すようにと、おっしゃっておられます」

「ありがとうございます。その巫女は祈祷が効くとちまたで評判の巫女でございます。

わたしが、こたびの恵美のヤッコメ(奴め・やつら)の反逆をうれい悩み、早くつかまるがよいと祈っておりましたら、天にそむくものを封じ込める祈祷があると申すのです。

ただ、その祈祷は、天がこの世を治めることを許されたお方が、お住まいになるところで行わなければ効かないと申します。

僭越せんえつながら、お願い申しあげたいことは、ぜひとも、その巫女に内裏の中で祈祷をさせ、尊い帝の数えきれないご恩を仇で返した、恵美のヤッコを封じ込めたく存じます」と和気王。

「帝が巫女の名をおたずねです」と侍従が伝える。

「巫女の名はきの益女ますめと申します」と和気王。

「祈祷を許す。恵美一味を琵琶湖に封じ込めよとおっしゃっております」と、また侍従が伝える。

「わたしごときいやしき者の願いを、お聞き届けくださりありがとうございます。逆賊を琵琶湖に封じ込めるように祈祷いたさせましょう」

和気王が袖をはねて、強い香りを漂わせながら芝居がかった礼をした。



十四時。近江国。琵琶湖の東岸。柏原かしわばら

美濃国守の恵美執棹とりかじを討った討伐隊は、近江国坂田郡の柏原(米原)で捕縛した人たちを郡司にあずけた。

「朝廷からきた討伐隊を手伝うようにと回状かいじょうが回っています。

あとは近江軍士団に任せてください」と坂田郡の群司の坂田さかたの山城やまきが言う。

「オウミグンシダンって、なんですか?」と佐伯|三野。

「保良宮があったころに出来た軍士団ですが、行進の練習をしただけで、いまは近江の郡司ぐんじの友好会です。わたしらが責任をもって近江国府まで送り届けます」と山城。

「討伐隊や反逆者の動きを、なにか知りませんか」と大野真本が聞く。

「塩津から愛発関の方に、あなた方と同じ討伐隊の人が向かったと聞いています」と山城。

「佐伯伊多治や日下部古麻呂たちだ。ほかには?」と葛井立足。

「赤と黄の線が入った揃いのヨロイを身につけた兵士たちが、三十人ほどで海津かいづを目指していると聞いています」と山城。

「田村第資人だ!」と久米子虫。

「タムラダイシジン?」と山城。

「反逆者の私兵です。海津っていうのは?」と久米小虫。

「ここからだと二日半ぐらいかかるけど、そこにも愛発関への登り口がありますよ」と山城。

「もしかしたら伊多治たちは、もう敵と遭遇しているかもしれない」と佐伯三野。

「揃いの武具をつけた賊軍は、高嶋郡の中のほうに大勢いるらしいです」と山城。

「急ごう。越前に向かった仲間が危ない」と田口牛養。

「捕縛した人を、必ず近江国府にとどけてください。伝令がでついて行って囚獄しゅうごくされるのを見届けてから、みなさんの功績こうせきも都に伝えます。お願いします」と大野真本。

「それから深手を負った者が二人います」と佐伯三野。

「負傷した方は近江軍士団が預かって、できるかぎちの治療をさせていただきます。任せてください」と坂田群司の山城が胸をはった。



越前国。愛発関あらちのせき

昼の間に愛発関では、熊よけのために関の周りに張っている鳴子なるこを関から横の山のなかに張りなおして、山抜けをする賊軍を防ぐことにした。

物部広成と日下部古麻呂の組と関兵たちは、すぐに動けるように交代で武装を解かずに見張りについていた。



越前国。敦賀郡つるがぐん

敦賀に向かった佐伯伊多治、紀鯖麻呂、大伴形見たち三組の討伐隊は、敦賀嶋麻呂が全員が馬に乗れるようにと三十三騎の馬と、ほかに二十人の騎馬の郡兵ぐんぺいを用意してくれたので、国府のある丹生郡にゅうぐんに近いところまで進んで用意された宿泊所へ泊った。

敦賀郡には、渤海国からの使者を迎える松原まつばら客館きゃくかんがあるから、すぐに群兵を集める用意があった。



近江国。高嶋郡たかしまぐん

五台の輿こしかち女従じょじゅうがいる仲麻呂の一行は、なかなか距離がはかどらずに高島郡北部にある角家足の別荘まで行って、この夜を過ごした。



九月十五日。

六時まえ。平城京。

淳仁天皇が、内印と駅鈴を返してから四日目の朝だ。

昨日の夜、執棹を討ったあとに美濃を立った伝令が都についた。伝令から話を聞いた吉備真備が内裏にやってきた。

「どなたか太政官の方は、おられますかな」と真備。

「はい。昨夜は藤原永手さまと石川豊成さまが宿直されました」と侍従。知らせを受けた藤原永手と石川豊成が、真備のところにやってきた。

執棹とりさおが討たれましたか」と永手。執棹は永手の甥になる。

「はい。恵美氏の緑児みどりご小児しょうじ、女性家族。都からついて行った女従。それと国府の役人に逮捕者が出たそうです。

美濃の役人が含まれていますので、近江国府の牢に送ると伝えてきました」と真備。

「国府の役人が抵抗しましたか」と石川豊成。

「それと美濃国は、守と介が亡くなっています。すぐに代わりの者を選んで送っていただきたい。越前国も、次の越前守を送った方が良いでしょう」と真備。

「愛発関からの情報はありましたか」と永手。

「一昨日の朝、坂田郡の柏原で別れて半数が愛発関に向かったそうですが、そっちからの伝令は来ていません」と真備。

「討伐隊が出て行ったときは、すぐに戦がはじまるものと思っていましたが、つくづく琵琶湖は広いですねえ」と石川豊成。

「それから太上天皇に、恵美一族の刑罰を決めていただきたい。子供や女性などを、どのように処断されるおるもりでしょうか?」と真備が聞いた。

深く息を吸って気持ちを整えてから、永手がうなづいた。


七時。

二回目の討伐軍への希望者受付の日だ。すでに授唐衛府の外に人が並んでいる。       

藤原田麻呂と雄田麻呂の式家の兄弟や、授唐衛府に泊まっている奈貴王や百済王敬福や高麗福信らといっしょに、内裏から戻った吉備真備も応募者をのぞき見をしている。

「ほう。どことなく広嗣さんに似ておられますが、放っておられるが違う」と先頭のほうにいる男を見て、真備がつぶやいた。

「似ているのですか? 

あれは仲麻呂を狙って、名も官位も剥奪はくだつされ都を追われていた式家の家長で、次兄の宿奈麻呂すくなまろです」と雄田麻呂。

宿奈麻呂は恵美氏が反逆者となった翌日の十二日に、従四位下に昇位されて都に戻ってきている。

「おいくつです」と真備。

「四十六歳で孫もいます」と田麻呂。

「どうしても行きたいと来たのですが、年齢が高すぎますか」と雄田麻呂。

「少納言の蔵下麻呂くらじまろとの兄弟仲はどうです?」と真備。

式家の末弟の蔵下麻呂は三十歳で従五位下。孝謙太政天皇のそばで少納言として仕えているから真備も知っている。

「蔵下麻呂も、わたしも父を知りませんので、幼い頃から宿奈麻呂が父の代わりでした」と三十二歳の雄田麻呂。

「兄は身内にやさしく、その分、他人への配慮に欠けますが、みんなのジャマにならないように言い聞かせます。選んでやってください」と田麻呂。

「売りこみはずるいぞ! 田麻呂」と奈貴王。

「宿奈麻呂さんが若い人たちについて行けるかどうかは、敬福さんと奈貴王に判断してもらいます

もう一人、あそこにおられる若い方はどなたでしょう?」と真備が聞いた。

「あんな表情は始めて目にしますが、なかなかの武者ぶりです。

まだ任官されていませんが、あれは白壁王の息子の山部王やまべおうです」と百済王敬福。

「あの方が山部王ですか。娘から聞いたことがありますが、たしか母君はやまと氏ですね」と真備が目を細めて山部王をながめはじめた。ずいぶん長い時間をかけて山部王を見ている。

「どうですか。どう見られました?」と敬福が声をかけた。

フーッと真備が息をはきだす。

「白壁王には、井上いかみ内親王とのあいだにご嫡男ちゃくなんがおられると聞きます。おいくつか知っておられますか?」と真備。

「たしか三歳。三歳ですか。みなさんが保良宮にいたときにですね。生まれたそうです。だから三歳ぐらいです」と敬福。

「山部王は?」

「二十七歳です」と雄田麻呂が答えた。

「知り合いですか?」と真備。

「なんとなく子供のころから、とくに雄田麻呂はなつかれています」と田麻呂。

真備が、おもしろそうな表情を浮かべた。

「山部王は討伐軍に入れずに、敬福さんの下で宮中の警備をしてもらいます」と真備。

「ついでに横にいるヒョロッとしたのも、一緒に連れて行ってください」と奈貴王。

「あの方は?」と真備。

「山部のイトコのみわです」と奈貴王。

「あなたとは?」と真備。

「天智系ですから親戚。山部も神も、わたしの父のイトコかな。そういう関係を何と呼ぶのか知りませんよ」と奈貴王。

「それなら宮城の東北の門。丹比門たんびもん。そこに入れます。

たしか、あなたがたの弟ですね。えーっと種継たねつぐ。そう。種継さんが、三十五人の秦氏はたし傭兵ようへいを連れて守っています。そこへ入れましょう」と敬福。

「種継は弟ではなく、わたしたちの甥で秦氏が外戚です」と雄田麻呂。

「和氏や秦氏や、母方が渡来系の人が多いですね」と奈貴王が言った。

「わたしは丸ごと渡来系。福信さんは?」と百済王敬福。

「この国で生まれ、この国しか知りませんが丸ごとですね」と高麗福信。

「さあ、みなさん。応募者の選考に入りますよ。支度をしてください」と真備が声をかけた。



同じく七時。越前国。国司こくしたち(福井県越前市武生)。

越前にむかった討伐隊は、恵美辛加智しかちが住んでいる国司の舘のそばまで来ていた。

国庁の近くにある国司の館にも塀はあるが、防御より住み心地の良さや景勝を優先した造りになっている。

孝謙太上天皇の勅書を昨日の朝に受けとったので、昨夜から辛加知も国司の館のなかに私兵や国府の兵を入れて、一応の警備はしている。仲麻呂からつけられたすけ村国むらくに虫麻呂むしまろも気にして、昨夜は国司の館に泊まってくれた。数名の門衛もつけている。

ただ勅書を受けとったのが昨日の朝で、そのあとで勅書が偽物だという仲麻呂の文書が届いたから混乱していて、まだ本格的に警備はしていない。


郡兵を入れて八十三人の武装兵を案内してきた敦賀嶋麻呂が、馬を進めて国司の館の門衛に言った。

「恵美一族が、都で反逆者になった。この方たちは朝廷から派遣された討伐隊だ。

かれらに刃向うと反逆者になる。反逆者となって殺されるか、門を開けてケガをしないように逃げるか、わたしと一緒に館を囲んで朝廷に協力するか、どれかに決めろよ」

門衛は門を開けて逃げてしまった。

「わたしらは館を囲んで、逃げる者を捕らえますよ」と嶋麻呂が二十人の郡兵を使って舘の周りを固める。

「恵美押勝と、その子、その孫は反逆者になった。

われわれは逆賊の恵美辛加知を打ちとりに、朝廷からつかわされた討伐隊だ。

恵美辛加知。おとなしく出てきなさい!」と国司の舘のなかに入った佐伯伊多治が、大声で呼びかける。

「恵美辛加知。どこだ」と紀鯖麻呂が太刀を抜いて、舘のなかに踏み込んだ。

「朝廷の討伐隊だ。恵美辛加知を成敗する」と大伴形見もつづく。

そのあとを六十人の隊員が、一丸となって建物になだれこんだ。

館のなかにいた村国虫麻呂と十五人ほどの私兵や舎人たちが応戦したが、二十分もしないで恵美辛加知は衛門舎人の佐伯伊多治の手で殺された。介の村国虫麻呂も斬り死にをした。

この討伐隊にとっても、これが最初の斬り合いだった。

仲麻呂に反感はあっても、二十七歳の恵美辛加智に恨みがあるわけではない。美濃国へ行った討伐隊とおなじに、はじめて人を斬った衝撃は大きかった。

ただ、この討伐隊には、立場のちがう郡兵が混ざっている。郡兵たちの目が、朝廷からきた討伐隊の心を保たせた。

そのうえ郡司の嶋麻呂が、やたらに元気な声をかけつづけてくれる。

「あとの始末は残った国府の下役と、丹生郡の郡司に任せて大丈夫だ。

あんたがたは愛発関を守り、反逆者を打ち取るために来たのだから、ここでグズグズしちゃおれないだろ。さっさと帰ろう。さあ、行くよう」

「そうだ。ほんとの戦はこれからだ」と紀鯖麻呂。

「よし」「引き上げだ!」と佐伯伊多治と大伴形見も立ちあがった。


都へ税を納めに行く人のために定められた日程がある。税を運ぶ上がりと、荷物がなくなった下りでは日数が違う。越前国は下り四日。

納税のために往来する人は、一日に駅家二つ以上を歩いて、駅家から離れたところで休むようにという規制もある。つまり一日に三十二キロ以上、四十キロ近くを歩けと指示されているが、この納税のあとの帰路で亡くなる人が多い。

良民(庶民)のためには宿もなく、食事を供する店もなく、納税の旅は自己負担なので金もないから行き倒れて死んでしまうのだが、この日程も衰弱死の原因になっている。都から越前の丹生まで四日で歩くのはキツい。

討伐隊が恵美辛加知を討ち取ったのは、仲麻呂と一族が反逆したという勅が出てから四日目。討伐隊が都を出てから三日と少しで、誰もが予測できない早さだった。



十時。平城京。宮城。

陰陽師おんみょうじ大津おおつの大浦おおうらは、早くから謀反の日を孝謙太政天皇に知らせていたので、恵美氏反逆の勅のあとの十一日の叙位で正七位上から、いきなり従四位上に飛び級昇進をした。

昇進したことはうれしいのだが、やりずらい。この日も大浦は陰陽寮に出仕したが、ほとんどの職員が大浦の上役で、どの上役より大浦のほうが位が上になってしまったから居心地が悪くて抜けだした。

宮城のなかは、官庁をつなぐ道を舎人や下級官人が走り回っている。

「アラ。大浦さんじゃない! でしょ?」と女童めのわらわを二人つれた巫女みこが、内裏の東の門のそばから声をかけてきた。

「‥マスメ。えっ! 紀益女きのますめ?」と大浦。

五年ほどつきあって、十何年かまえに別れた霊媒師れいばいしだ。

「ワーァ。なつかしい! 変わらないわねえ。あなた」と益女。

「あなたも変わってない。どうして宮城にいるの?」と、もともとポッチャリ形だったけど、ますます丸くなったと思いながら大浦は聞いた。

紀益女は少女のころから霊感が強くて、ご利益があると評判の霊媒師だった。

客は裕福層が多く、いろいろな邸に出入りしていたが、宮城に呼ばれることはないはずだ。

大浦は陰陽師で益女は霊媒師だから、大きく分ければ同じ生息区に入る人種だが、本人たちはまったくちがうと思っている。益女は、なにかが聞こえたり見えたりするらしく、悪霊払いや祈願成就きがんせいじゅを念じたり予知をしたり、亡くなった家族の言葉を伝えたりする。

大浦も感は鋭いが、陰陽師は過去のデータ―から未来を予測する。土地の悪霊払いもするから仕事の一部はカブッているが、大浦は生きている人しか見えないし、悪霊払いも決められた作法と決められたしゅを使って行う一種の儀式だから、なにかが憑依ひょういしてヒステリーになることなど絶対にない。

「和気王さまに頼まれて祈祷きとうにきたの」と益女。

「なんの?」と大浦。

「逆賊を近江に閉じ込めて、成敗するためよ」と益女。

「どこでするの?」

「内裏で」と益女が、うれしそうな顔をした。

そういう顔をされると、つきあっていたころを思いだす。

たしか大浦が二十三歳で、益女は十六歳だった。気を使わなくてよいアッケラカンとした明るい少女で、一緒にいて楽しかった。よく笑ったし、よく食べた。

朱雀大路すざくおうじで待ちあわせて話をしながら歩いたり、市をひやかしに行ったりと楽しかったのに、なぜ別れたのだったっけ?

たしか益女は母親と二人暮らしで、ほかに身寄りがなかった。その母親が、大浦のものでない男物の帯や着物を、これ見よがしに部屋に干すのを見て足が遠のいたのだ。

別れたときに益女は二十一歳だったか、二十二歳だったか。大浦より九歳年下だから、今は三十四歳のはずだ。

「和気王とつき合ってるの?」と大浦。

「そう」

「あまり良い評判を聞かないよ」

「そんなことないわよ。可愛がってくれて、いろんな物をくださるもの」と益女。

「あのインゴ婆さんが、すすめたの?」と大浦。

「母のこと? 一昨年の秋に亡くなったわ」

「ゴメン。知らなかった。一人きりになったんだ。それは大変だったね。

でも、ほら。あなたは亡くなった人が見えるでしょう。あんな男はやめろと注意してくれる、亡くなった伯父さんや伯母さんや、お爺さんはいないの? 

わたしは、やめたほうが良いと思うよ」と大浦。

「妬いてる?」と益女。

「本気で心配しているだけだよ。

賊軍を近江に封じ込める祈祷なんて、いまさらってものでしょう。

討伐隊が追っかけているから、祈祷をしなくても恵美一族は琵琶湖から出られない。

和気王に利用されているだけだよ。和気王にはいんの気がある。

陰の気が強い人のそばにいると、染まっちゃうよ」と大浦。

「わたしの最初の男だから気にしてくれるのね。大浦さんって、やさしいのねえ」と益女。

「え? ホントに最初?」と大浦。

「ホントよ。最初のほう」と益女。

そのとき内裏の東門から武装した男がでてきて益女をまねき、不審そうに大浦をうかがった。

「こちらは陰陽師の大津大浦さまです。まえに仕事で、お世話になったことがございますので、ごあいさつをしておりました」と益女が紹介した。

「あなたが大津大浦さん。このたびは、お手柄でしたねえ。わたしは授刀督じゅとうのかみ粟田道麻呂あわたのみちまろです。

あなたとは、ゆっくりお会いしたいものです。こんど必ず、おさそいしますよ」と道麻呂が大浦に声をかけた。

「益女さん。ご案内します。じゃあ大浦さん。また」と粟田道麻呂が、益女を内裏へ連れて行く。

ずっと昔に別れた女だから、放っておけばよいものを大浦は気になった。

粟田道麻呂は、昨年、大宰府に新羅しらぎの使いが来たときに朝廷からの使者になった。今は授刀督で内裏の警護を監督しているから、官人としての能力はあるのだろう。

ただ前にいた右衛士うえじで、「橘奈良麻呂の変」で証言して飛び級昇進をした上道斐太都かみつみちのひたちとそりがあわずに、いじめたという噂を聞いているから徳がある男ではないだろう。

本人を見ても、人を引きつける明るさや魅力がない。

どうして益女は霊媒師のくせに、よどんだ空気をもつ陰の気がある男と組むのだろうと大浦は思った。



十五時。越前国。愛発あらちのせき

愛発関の見張りが「人が登ってくる」と知らせた。

関は固関使こげんしがきた十二日から閉っていることを、ふもとに公示しているから一般人は登ってこない。

物部もののべの広成ひろなり日下部くさかべの古麻呂こまろが兵を狭間はざまに配した。赤と黄の色がチラチラと木立越しに見える。辛加知に応援を求めるために先発した、三十人の田村第資人たちだった。

朝廷が軍を送るのは七日ほど先だと聞かされている田村第資人たちは、警戒をしているようすもない。押勝の息子の恵美辛加知が越前守なので、愛発関は自分たちの味方だと信じている。

全員が射程距離に入るのを待ってから、物部広成が「討て!」と命じた。

関の狭間から一斉に矢が飛んできて、たちまち何人かが倒れた。残ったものは身をかくそうとしたが動くとすぐに矢が飛んでくる。

「山を回り込んでくるかもしれない。一人も見逃すな」と日下部古麻呂。

愛発関も戦闘態勢に入った。


そのころ仲麻呂たちより先に、真先、朝狩、仲石伴、石川氏人、阿部小路、大伴古薩は、海津から越前塩津への山道を馬をつれて急いでいた。

越前塩津の駅家の駅長が手でつくった三角形の底辺を、西から東へ真先たちは馬を運んでいる。

三角形の頂点の愛発関では、先発した田村第資人を討伐隊が狙っていた。



二十時。近江国。高島郡海津かいづ

恵美仲麻呂、氷上塩焼、恵美小弓麻呂おゆまろ、恵美薩雄ひろお、恵美刷雄よしお、恵美真文まふみらと、女性と子供の一行が海津の駅家にいた。

明朝、ここの港から舟で越前塩津に向かう。

さきに愛発関へ向かった三十人と、馬を陸送するために朝苅たちが連れて行った二十人をさいいても田村第資人が百人以上は残っていて、塩焼の三十六人の私兵と合わせると百四十二人の兵士がいる。

輿は担がせて陸路を塩津にやったが、恵美氏の家族と従者も六十人ほど残っている。


「いかがですか。今日は早めに着いたので、すこしは、ゆっくり出来ますが、明日は舟に乗ります。だいじょうぶでしょうか」と塩焼が、妹の陽候やこ女王にょうおうを自分の部屋に招いて聞いた。

「わたしが置かれている立場を、やっと理解できるようになりました」と陽候女王。

「あまりにも突然のことでしたから、いまだに実感がありませんね」と塩焼。

「わたしたちと一緒に都を出ることを、お兄さまは不破ふわさまに伝えたのですか」と陽候女王。

「いいえ。次の日に伝えるようにと、家の者に頼んでおきました」と塩焼。

「わたしは辛加知しかちと、その家族さえ無事でいてくれるのなら、それ以上は望みません。できることなら辛加知たちとともに、人知れず山深いところで暮らせたらと思うようになりました」陽候女王。

「気の弱いことを。しばらくは越前に雌伏しふくしますから、辛加知と一緒に暮らせますよ。そして、みんなで都へ帰りましょう」と塩焼。

「月がのぼりましたね。中秋の名月です」と陽候女王。

「これほど、しみじみと月を味わったことが、これまで無かったような気がします」と塩焼。

「なんと美しいのでしょう。なぜか美しいものを見ると切なさが胸につまって、悲しくてたまらなくなります」と陽候女王が手布しゅきんを目元にあてた。

仲麻呂と陽候女王の間に生まれた八男の辛加知は、この日の朝に亡くなっているが、

だれも、それを知らなかった。



平城京。授刀衛府じゅとうえふ

おなじ頃、吉備真備も授刀衛府のまえで月を見あげていた。


あまはら ふりさけみれば 春日かすがなる 三笠みかさの山に でし月かも

(空を見あげれば 奈良の春日にある 三笠山の上に出ていたのと おなじ月が出ているよ)

 

さりげないこの歌は、若いころに真備といっしょに唐に渡った阿部仲麻呂あべのなかまろが、唐の都の長安ちょうあんの夜空に昇った月を眺めながら、はるか遠くにある故国をしのんで詠んだ歌だ。

阿倍仲麻呂は、もう四十八年も唐にいて、氏の玄宗皇帝げんそうこうていに仕えていた。生きていれば六十三歳になるはずだが、玄宗皇帝が滅んだ唐からは連絡もない。真備は、今日、見たことを阿部仲麻呂に知らせたかった。

オイ。仲麻呂。…ン?。恵美仲麻呂と名がカブル。唐での名の方が良いだろう。

オイ。朝仲満。月を見上げて二人で語ったよな。いつか、われらの小さな島国にも、長安のような都ができると良いなと。千年もつづく美しい都ができると良いなあと語りあったよな。

もしかしたら、わたしは今日、天の配材を見たような気がする。

同じような人々が集まっているなかで、自分を目立たせ際立たせ、わたしの目を引きつけた若者がいた。ここにきて一緒に確かめてくれないか。

あの子は、昇天しょうてんする龍と化すだろうか。同じ時を分け合う才気ある若者たちと手を取り合って、次の時代を作る覇王はおうへの途を歩めるだろうか。

法のもとに秩序が保たれる、先進国にあなどられない国をつくれるのだろうか。

四季と水に恵まれた美しい小さな島国に、わたしたちが夢見た千年も続く都を造れるのだろうか。

なあ。朝仲満。一緒に見てくれないか。

もう一度、会いたい。逢いたい。あいたい。アイタイ。チョチュウマン!





平内裏・内裏         孝謙太上天皇

       太政官 大納言 藤原永手

           中納言 白壁王

           中納言 藤原真盾

           左大弁 中臣清麻呂

           右大弁 石川豊成

              

               文室大市


               和気王

            巫女 紀益女

          授刀衛督 粟田道麻呂

           陰陽師 大津大浦



平城京 授刀衛府       吉備真備

            侍従 藤原雄田麻呂

               藤原田麻呂

            侍従 奈貴王

           但馬守 高麗福信

          外衛大将 百済王敬福


美濃国         国守 恵美執棹とりかじ 仲麻呂九男

             介 池原禾守いなもり

            少掾 村国嶋主しまぬし


           討伐隊 佐伯美野みの

           討伐隊 大野真本まもと

           討伐隊 久米小虫

           討伐隊 葛井ふじいの立足たちたり

           討伐隊 田口牛養うしかい  討伐隊・105人


愛発あらちのせき        討伐隊 物部広成

           討伐隊 日下部くさかべ古麻呂 討伐隊・22人 関兵・30人

        

越前国         国守 恵美辛加知しかち 仲麻呂八男 


           討伐隊 佐伯伊多治いたじ

           討伐隊 紀鯖麻呂さばまろ

           討伐隊 大伴形見  討伐隊・63人


        敦賀つるが群司ぐんじ 敦賀嶋麻呂  郡兵・30人

                                                   

    近江軍士団 滋賀郡司 大友人主 

          坂田群司 坂田山城


反逆者        元大師 恵美仲麻呂

          元太政官 恵美真先 二男

          元太政官 恵美朝苅 四男

               恵美小湯麻呂 五男

               恵美刷雄よしお 六男

               恵美薩雄ひろお 七男

               恵美真文まふみ 十男 田村第資人・156人            


          元中納言 氷上塩焼 私兵・36人

          元左小弁 阿部小路

         元右衛士督 仲石伴いわとも    

         元式部少輔 大伴古薩こさつ

          元周防守 石川氏人  私兵・計68人


        元高島郡少掾 つぬの家足いえたり        



作者から

すべての卿にカミとルビをふりましたが正しい読み方ではありません。

例えば式部卿は、シキブと、ノカミと呼び、中務卿はナカツカサノカミとキョウと呼びます。

作中では聞きなれた職のルビと、卿は全てをカミと読むことで通しました。

大宰帥はダザイノノカミですから、ダザイノカミというルビは落ち着かないと思いますが、どうぞ、了解ください。



              

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