七  軍師 都へ帰る  孝謙天皇の離反 

七六二年(天平宝字てんぴょうほうじ六年)から七六四年(天平宝字八年) 


      

七六二年の暮れ、十二月一日に太政官が補充された。

ふつう政治の中核にいる太政官は、左大臣一人と右大臣一人。その下に二人の大納言。さらに下に三人の中納言で構成される。大臣は二人の大納言の中から選び、大納言は三人の中納言の中から選ぶ。

ほかに、参議さんぎとして太政官になる四位以上の人がいる。

参議の場合は、年功序列や功績を飛び越えて任命されることがあり、恵美巨勢麻呂こせまろと恵美真先まさき氷上塩焼ひかみのしおやきが、これまでの参議の太政官だった。

このほかに各省が提出する事案や帳簿を受けとって調べ、太政官が審議する議題の資料をつくる最高事務官の左右の大弁官だいべんかんと、書記官の大外記だいげき少外記しょうげきが太政官会議に出席する。


この日、中納言の藤原永手ながてが大納言になり、これまで参議として太政官に加わっていた従三位の氷上塩焼と、新しく白壁王と、太宰帥だざいのそちをしていた永手の弟の藤原真楯またてが中納言になった。

真楯は信部卿しんぶきょう中務なかつかさのかみ)も兼任することになって大宰府から都へ戻り、押勝の次男の真先まさきが参議と兼任して太宰帥になった。

そして参議として新たに太政官に加わったのが、従三位の山背やましろ王と押勝の三男の訓儒麻呂くすまろと四男の朝狩あさかりだった。

ほかに左大弁の中臣なかとみの清麻呂きよまろと、右大弁の石川豊成とよなりが参議になったが、この二人は大弁官なので、すでに太政官会議に出ている。

中臣清麻呂は六十歳。中臣氏は藤原不比等の父といわれる内臣ないしんの中臣鎌足かまたりを出した朝廷の神祇官じんぎかん(神職)をつとめる古い氏族だ。清麻呂は真面目な人柄で、長年まちがいをおこさずに仕事をしてきた。

石川豊成は五十八歳。石川氏は古代大豪族ごうぞく蘇我そが氏の末裔まつえいで、中臣清麻呂と石川豊成の二人は、出自も実力も経験も太政官になるべき人だった。

だが、あとの三人の参議はちがう。


山背王は、長屋王ながやおうと藤原不比等の次女の長蛾子ながこのあいだに生まれて、「長屋王の変」のときは母が不比等の娘だったので生きのび、「橘奈良麻呂の乱」のときは奈良麻呂たちを告訴こくそして生きのびた。

その結果、兄の黄文きぶみ王は殴り殺され、もう一人の兄の安宿あすか王は流刑になっている。

血筋はよく熟年で人生経験は豊富だが、仕事の経験は紫微しび中台ちゅうだいに限られていて、参議になったあとに押勝の養子になって藤原弟貞おとさだと名をかえる。

訓儒麻呂は押勝の三男で美濃守みののかみ(岐阜県南部)からいきなり参議になった。母は次男の真先と同じ宇比良古で藤原永手や真盾の甥になる。

四男の朝苅も宇比良古の息子で参議として太政官になり、仁部卿じんぶきょう民部卿みんぶのかみにもなった。

さきに参議で太政官なっていた押勝の次男の真先と、押勝の弟の巨勢麻呂をいれると、十二人の太政官のうちの五人までが押勝の家族で、藤原北家の永手と真盾と、妹の陽候女王が仲麻呂の妻になっている氷上塩焼は、押勝の息子たちの叔父になる。

押勝の縁族でないのは、文室浄三と中臣清麻呂と石川豊成と白壁王の四人だけだ。



山部王という人が来たと告げられた藤原雄田麻呂おだまろは、自分の邸の通用門まで出て来て、あわてて山部王を引きずり込み、通りの人影をたしかめてから戸を閉めた。

「どうしたのです」と雄田麻呂。

「大丈夫。だれにも見つかっていない。歳の瀬だし雪が降りそうだから、今夜は人っ子一人、犬一匹、外に出ていないよ」と山部王。

「はやく部屋へ入って火にあたってください。供も連れずに通用門を叩くなどと何があったのです?」と雄田麻呂が山部王を部屋に入れて、白湯さゆを注いだ椀を渡す。

「雄田麻呂兄さん。ここに宿奈麻呂すくなまろさんを呼べるかな」と山部王。

「兄に用ですか。隣ですから呼びにやります」と従者をうながしたあとで、部屋の戸も閉めて「なにか、あったのですか?」と雄田麻呂が聞く。

「なにもない」と山部王。

広刀自ひろとじ夫人の葬儀のときも、姿を変えて従者に混じっていたでしょう。いまは疑われるようなことはしないほうが良い。

山部王。なにか企んでいるのですか」と雄田麻呂。

トントンと部屋の戸が叩かれた。雄田麻呂が戸をあけて駆けつけた宿奈麻呂を入れる。

「どうした。雄田麻呂」と入ってきた宿奈麻呂が、「あれ…山部王? 山部王ですね。しばらく会っていないから見間違えるところだった。なぜ、ここに?」と聞く。

「お願いがあってきました。すぐに出ていきますから単刀たんとう直入ちょくにゅうに聞きます。

大師にたいしての式家の立場は、どうなのでしょう」と、いきなり山部王が切りだした。宿奈麻呂と雄田麻呂が顔を見合わせる。

「単刀直入すぎて何を聞かれているのか分かりませんが、帝と上台さまが対立されていることに関係する問いですか?」と雄田麻呂。

「淳仁天皇と上台さまの反目は、われわれ臣下が関われる問題ではありません。あれは、ひとまず横に置いてください。

わたしは大師に対して、どういう立場をとるつもりかと聞いています。

式家は大師を批判しますか。それとも大師を支持しますか。どっちです?」と山部王。

「どうしたのですか。山部王。なにかに取りつかれたのですか。それとも徒党ととうでも組みましたか」と宿奈麻呂。

「大師も藤原氏でしょう。おなじ藤原一族として、どのような関係を式家は大師と築くつもりなのか教えてください」と山部王。

「あのね。山部王。まず落ち着きましょう」と宿奈麻呂。

「落ち着いています。藤原北家は、太政官の永手さんと真盾さんが大師を支持しています。上の二人が大師を支持しているので残りの方も同じでしょう。

藤原氏の中では京家と式家の立場があいまいですが、京家の場合は家長の浜足はまたりさんは和歌や占いに凝っていて少々つきあいづらいところがあります。だから京家も、ひとまず横に置いておきます。

それで式家は、どういう立場をとるつもりか伺いたいのです。大師を支持して近づきたいですか?」と山部王。

「いきなり、そんなことを問い詰められてもね。山部王。どう答えていいか分かりません」と宿奈麻呂。

「本音を聞きたいだけです。

大師は、宿奈麻呂兄さんと雄田麻呂兄さんのイトコです。

天皇でも太上天皇でも皇族でもありません。ここで本音を語っても反逆罪にはなりません」と山部王。

「それは、そうかもしれないけど、わたしは大師の兄になる、先の右大臣の豊成とよなりさんに可愛がってもらいましてね。豊成さんの世話で、姉が南家の巨勢麻呂こせまろさんの夫人になっていて息子がいます」と宿奈麻呂。

「そうだったのですか。豊成さんは大師と反目しています。

大師をだした南家の兄弟で、残っているのは四弟の巨勢麻呂さんだけです。

巨勢麻呂さんは恵美氏を名乗って大師の一翼いちよくをになっていますね」と山部王。

「一族のあいだでの婚姻は当たり前のことです。北家の永手さんも真盾さんも、大師との縁組みが足かせになると思っていなかったでしょう」と雄田麻呂。

「豊成さんは左遷させんされて、豊成さんの息子たちも冷遇されて都から遠ざけられています。式家も大師に逆らうと弟たちの出世が遅れます。

イトコと言っても今じゃ大師は特別ですし、大師の考えが任官に影響しますからね。本音を語れと言われても、割り切れないのが本音ですよ」と宿奈麻呂。

「そうですか。分かります。

五位以上の任官は太政官が協議して名簿を作り、それを参考にして帝が決められますが、その太政官のなかの五人は大師の息子か養子です。大師を入れれば六人ですね。任官は大師の一存で決まるでしょう。

そのうえ姉君が巨勢麻呂さんの夫人なら身動きがとれない。

宿奈麻呂兄さんが一族のことを思って、大師に逆らえない気持ちは良く分かります」と山部王。

「分かってくれましたか」と宿奈麻呂。

「でもねえ、宿奈麻呂兄さん。たとえ大師の影響力が強くても、臣下であることに変わりはないでしょう。

田村第だって、臣下が住むには広すぎると思いませんか?」と山部王。

「それは、まあ・・・」と宿奈麻呂。

「山部王。兄をあおらないでください。

いきなり忍んできて、なにを企んでいるのです?」と雄田麻呂。

「雄田麻呂兄さんは、一氏族から二人までと決まっている太政官の過半数を、大師の家族が占めていても良いと思っているのですか?」と山部王。

「良いと思っていませんが、今の大師に逆らうのは危険です」と雄田麻呂。

「今の大師が危険なら、無為無策むいむさくのまま大師を見逃して、上台さまが欠けたらどうなります。大師の独裁が盤石ばんじゃくになるだけです。

そうなればつぶすも残すも、式家は大師の意のままでしょう」と山部王が、宿奈麻呂と雄田麻呂を目で押えた。

「ここに伺ったのは、お願いがあるからです。

太政官の中で大師を止めようとしているのは、文室浄三さんと父だけです。

しかし文室浄三さんは六十九歳(数え七十歳)と高齢で、老人特有の持病もあるから、いつまで大納言を続けられるか分かりません。

文室浄三さんは、大師を除くには吉備きびの真備まきびさんが必要だと考えています。吉備真備さんを目立たないように都に呼び戻したいのです」と山部王。

「吉備真備って、広嗣ひろつぐ隼人はやとの軍を率いて重用ちょうようするのをやめるようにと聖武天皇に訴えた、あの人ですか?」と宿奈麻呂。

「そうです。わたしは知りませんが、浄三さんや、浄三さんの弟の大市おうちさんや父は、広嗣さんをそそのかせて反乱を起させたのは大師ではないかと疑っているようです」と山部王。

「そうなのですか? 兄さん。聞いたことがありますか?」と雄田麻呂が宿奈麻呂に聞く。

「ん・・・同じようなことを、ずっと昔に聞いたような気がする。たしか若女さんが、何か言っていたような・・・」と宿奈麻呂。

「母から、何を聞いたのです?」と雄田麻呂。

「おぼえていない。あのころ、わたしは謹慎きんしんしていて誰とも会わなかった。話ができたのは若女さんだけだ。若女さんに外の情報を伝えてくれていたのは豊成さんだ。それしか、おぼえていない」と宿奈麻呂。

「大師が広嗣さんを、そそのかしたという証拠はありません。

でも広嗣さんのたたりりがあるからと、吉備真備さんを九州に送ったのは大師です。真備さんを太宰府に留め置いているのも大師です。

お願いというのは吉備真備さんを呼び戻すために、宿奈麻呂兄さんの力を借りたいのです」と山部王。

「わたし?」と宿奈麻呂。

「イトコである大師への不満を、藤原一族の一人として言いふらしてもらえませんか」と山部王。

「どうして?」と宿奈麻呂。

「政道批判をしてはいけません。帝や上台さまのことはゼッタイにふれてはいけません。それは大逆罪です。

言うのは大師への個人的な悪口だけです。藤原一族の仲違いと受けとられることだけです」と山部王。

「田村第が大きすぎるとか、大勢の私兵に邸を守らせて、夜なんか見張り台で篝火かがりびをたいていて、あの見張り台の高さがあれば宮城のなかをのぞけるに違いないとか? 私兵に着せているよろいの趣味が悪いとか?」と宿奈麻呂。

「そう。その手の悪口です」と山部王。

「そんなことをしたら兄は捕まります。いくら個人的な悪口でも、国を呪ったとかの冤罪えんざいをきせられて尋問じんもん中に獄死ごくしするかもしれません」と雄田麻呂。

「捕まってもらいたいのです。そのときに佐伯今毛人いまえみしさんも連座で捕まって欲しいのです。

宿奈麻呂兄さんは、佐伯今毛人さんと付き合いがありますよね」と山部王。

「石上宅嗣が大伴家持やかもちをよく知っていて、家持が佐伯今毛人と仲が良いから、集合禁止令しゅうごうきんしれいが出るまえは四人で飲むこともありましたけどねえ」と宿奈麻呂。

「今毛人さんは外せないから、これからも時々、会ってください」と山部王。

「山部王。兄を混乱させないでください。

なぜ吉備真備さんを都へ戻すのに、うちの兄が大師さまの悪口を言いふらして捕まらなければならないのです。呼び戻すだけなら真備さんが病気だからとか、老齢だからとか、なんとでも他に理由をつくれるでしょう」と雄田麻呂。

「病気や老齢を理由にすると、解官される恐れがあります。

宿奈麻呂兄さんが承知してくれたら、どのあと吉備真備さんの家族から老齢だから都に戻して欲しいと上奏じょうそうしてもらいます。

そして来年の正月の任官で、雄田麻呂兄さんは侍従として上台さまの側に仕えることになります。末弟の蔵下麻呂くらじまろさんは少納言しょうなごんとして、やはり上台さまのそばに任官されます。

それをしてしまえば、式家は上台さまについたと思われる。少なくとも大師は、そう判断しますよ。

だから先に、式家の立場を知りたかったのです。

宿奈麻呂兄さんが捕まったら、すぐに雄田麻呂兄さんが上台さまに断罪を求めてください。浄三さまが手はずを整えてくださいますから、獄死することはありません」と山部王。

「兄が捕まることと吉備真備さんを都の呼び戻す話が、どうつながるのです」と雄田麻呂。

「佐伯今毛人さんを連座れんざの罪で太宰府に送って、造東大寺司の長官として吉備真備さんを呼び戻します。造東大寺長官は政治に関わりませんが官職です。真備さんは退官することもなく、大師も都へ戻すことに疑念を抱かないでしょう」と山部王。

「待ってください。真備さんにとっては、わたしたちは広嗣の弟です。真備さんが九州に送られたのは広嗣のせいです。式家を恨んでいるかも知れません。

兄を危険な目にあわせて吉備真備さんを都に戻すことは、式家にとって利がある話ではありません」と雄田麻呂。

「浄三さんは吉備真備さんを高く買っています。それほどの人物なら、広嗣さんの乱の真実も理解しているはずです。それと式家が吉備真備さんと結託したとは大師も思わないでしょう。

大師を滅ぼすことができたら、宿奈麻呂兄さんは再評価されます」と山部王。

「滅ぼせなかったら、わたしは左遷されっぱなしですか?」と宿奈麻呂。

「そうならないように手を尽くします。でも大師を除かないと、ますます危険になります。そして大師に立ち向かえるのは、文室浄三さんと上台さまだけです。

返事は、みなさんで相談してからでかまいません。

若女さんが、吉備真備さんの娘さんの由利さんや、保良宮から還都された時のいきさつをご存じです。

そういえば、諸姉さんと人数さんは女儒になられたのですね」と山部。

「えっ。どうして娘を知っているのです? 会ったのですか。どこで?」と宿奈麻呂。

「由利さんの供で、浄三さんのところに来られました。

では、わたしはこれで」と山部王が立ち上がった。

「口止めはしないのですか?」と雄田麻呂。

「断られても式家は友達です」と親しげな笑みを残して山部王は出ていった。


「子供のころから、あいつの口車くちぐるまにウマウマと乗せられる」と宿奈麻呂。

「そのあと、どんな気持ちになりました?」と雄田麻呂。

「ヤラレタ!と思った」と宿奈麻呂。

「腹が立った?」と雄田麻呂。

「そういえば不思議に腹が立ったことはない。若い頃のことを思い出すときに、あいつの笑顔が浮かんでくることもある。こうして顔を見ると嬉しいし、思い出すと懐かしい」と宿奈麻呂。

「兄さんは山部王が好きなのですか」と雄田麻呂。

「えっ?」と宿奈麻呂。

「放っておけない。目が離せない。気になる。だから言うことをきいてしまう。

それがイヤではない。むしろ頼まれると嬉しい気がする。

これは引きつけられているからでしょうね。

きっと、わたしも山部王が好きなのでしょう。

兄さん。大師の悪口を言いたくなってきたのじゃないでしょうか」と

雄田麻呂。

「腹の中では、とっくに何回も言っている。わたしに家族がなかったら、すでに、あっちこっちで言いふらしている」と宿奈麻呂。

「兄さんの性格なら、たしかに文句を言うのが似合います。

兄さんが悪口を言って捕まれば、大師は皇族ではなく臣下だったと官人たちは思い出すでしょう。藤原氏が大師を批判すれば、その効果も大きい。

わたしは下官ですから、お目にかかったことはありませんが、文室浄三さまは清廉せいれんな気性で、知恵と気骨きこつのある公卿くぎょうだと聞いています」と雄田麻呂。

「文室さまは、上台さまを擁護ようごなさっている。しかし軍事権は大師が握っているから、上台さまでも大師を滅ぼすことはできないだろう」と宿奈麻呂。

「動いているのは重鎮じゅうちんたちですよ。なんらかの勝算があるのかもしれません。

式家では広嗣さんの話題を避けていますから、どんな人だったのか、わたしは知りません。兄さん。まず広嗣さんが、どのような方だったか教えてください。

わたしなりに、なぜ広嗣さんが乱を起したのかを考えて見たいのです。

それから母から、広嗣さんのことや吉備真備さんこと、保良宮から還都したときのようすも聞いてみましょう。

式家も立場をはっきりさせる時がきたのです」と雄田麻呂。

「おまえまであおられたのか。あいつは式家の疫病神やくびょうがみか?」と宿奈麻呂が首筋を掻いた。



七六三年。

朝鮮半島と大陸の一部にかけて、むかし新羅国しらぎこくに滅ぼされた高麗国こまこくがあった場所に、今は渤海国ぼっかいこくという国がある。

渤海国は旧高麗人もふくまれている多民族国家で、日本とは友好的な外交をつづけている。

大陸や半島の情報を伝えるためと交易のために、正月の朝賀ちょうがに合わせて、毎年、渤海使がやってくる。かれらは太宰府ではなく、越前国えちぜんのくに敦賀つるがに入港する。去年の暮れにも渤海使がやってきた。


正月。淳仁じゅんにん天皇は、渤海使をもてなすために何度か盛大なうたげを開いた。

恵美押勝は、二男の恵美真先まさき、三男の恵美訓儒麻呂くすまろ、四男の恵美朝狩あさかりに、養子の藤原弟貞おとさだ(山背王)と、弟の恵美巨勢麻呂こせまろの五人の太政官を引きつれて、その宴に姿をみせた。

淳仁天皇も養子のようなもので、渤海国の使節に向けて自分の権威を目に見えるように示したのだ。

大師という職名と淳仁天皇を超える力は、日本人より大陸から来た渤海人のほうが評価してくれる。大陸では皇帝が太師に操られたり、禅譲ぜんじょうしたことが何回かあったからだ。遣唐使を送るつもりでいる押勝は、日本の天皇の禅譲が近いだろうという評判を、渤海使が持ち帰って唐に伝えてくれることを期待した。

一月十七日には歌や踊りがおこなわれて、全ての官人が集められた。その席で渤海大使の王新福おうしんぷくが、唐の玄宗げんそう皇帝と息子の粛宗しゅくそうの死去を伝えた。


二月四日に押勝は田村第に王新福らを招いて宴をもうけ、唐についてのくわしい情報をもとめた。

押勝は、玄宗皇帝が弓を作るのに必要な牛の角を求めていると聞いて、すでに七千八百本の牛の角をあつめていた。それを献上けんじょうして自分を認めてもらうつもりだったが、玄宗や粛宗だけでなく唐の皇帝をしていた李家りけが滅びそうだという。

これまでに渤海使が伝え藤原清河を迎えに行った使者も報告しているのだが、唐の内乱を軽くみていた押勝にとっては悪い知らせだった。


二月十日に、今度は新羅使しらぎしが二百余人でやってきた。

新羅国は四世紀の前半から朝鮮半島にあった国で、シルラ、シラ、または辰韓しんかんとも呼ぶ。七世紀になって半島をほぼ統一した。統一するときに日本と深い関りがあった百済国くだらこく(四世紀半から六六〇年まで。ペクィチェ、または馬韓ばかんと呼ぶ)を滅ぼしたので、日本との関係は非常に悪い。

日本の歴代の大王おおきみが、新羅討伐を望みながら果たせなかった。

押勝は、小弁しょうべん大原おおはらの今城いまきと、讃岐国さぬきのくに(香川県)のすけに任じられたばかりの池原いけはらの禾守あわもりの二人の腹心を大宰府にいる新羅使のところにやって、「今回の使者は常のように接待するが、使者の身分が低いから、今後は新羅の王子か高官を寄こせ」と伝えさせた。


 

二月二十四日の早朝。

越前国えちぜんのくに(福井県)敦賀郡つるがぐんにある松原まつばら客館きゃくかんという宿泊施設から渤海使たちが出てきた。

「ほんとうに、あいつが送使そうしをするのか」とそれを眺めていた敦賀つるがの嶋麻呂しままろが、松原客館を護衛している衛士えじに聞く。

嶋麻呂は敦賀郡の群司ぐんじの跡継ぎだ。

「ああ。国守こくしゅの許しがでたってよ」と地元出身の衛士が答えた。

「だけど、あいつは船の修理を見とどけるために来ただけだろう。朝廷がよこした送使なら、国府こくふにいるじゃないか」と嶋麻呂。 

「そんなこと知るかよ」

「まあ、わしらにゃ関係ないことだけど、朝廷の送使を国府にとめて、修理の立ち会いにきた野郎を勝手に送使にするなんてことを、国守が勝手に決めちゃいけないだろう」と嶋麻呂。

「そうなのか。いまの国守は、そんなことも知らないのか。どんなヤツだ?」

「どんなヤツって言われても良くは知らない。朝廷を牛耳ぎゅうじっている大師の六番目か七番目かの息子で、藤原恵美薩雄ひろおと言う名らしい。

わしより若いそうだから、何も知らないのだろうさ」と嶋麻呂。

わかより若けりゃ、まだ二十代の半ばか」

「都の偉いさんが何考えてんだか知らないがよ。ともかく、あんな男を送使にしちゃいけねえ。

たしか板振いたぶりとかいったな。あの男はどこか危ない。まともじゃねえ。いきなり人を殺しそうなヤツだ。

わしらが心配したってしょうがないが、ヤなことが起こりそうな気がする。

まあ、いっか。オイ。渤海使が帰ったら、ここの警備から解放されるだろう。

今夜、みんなで飲みに来いよ」と嶋麻呂。

「いつも気を配ってもらって、ありがとな。敦賀の若。おまえ、良い群司になるだろうな」

「うれしいこと言ってくれるなあ。待ってるよ」と嶋麻呂が、表情豊かな目をクリッと回した。

 

この日に右虎賁うこほん右兵衛さひょうえ)の下官の板振いたぶりの鍵束かぎつかが送使となって、渤海使たちは帰国した。

外国から来た国賓こくひんを送る送使を、朝廷の許可もなく勝手に代えたことは、まだ経験も知識もない七男の恵美薩雄を越前守にした恵美押勝のあやまちだった。



三月はじめの風の強い夜。

藤原北家の永手の邸には、三弟の真盾またてがいた。永手は大納言、真盾は中納言で二人とも太政官だ。

「遣唐使の中止が決まった」と永手。

清河きよかわを、あきらめなければなりませんか」と真楯。

「今の唐へは近寄れないという。帰国の途中で船が南方に流されて捕らえられ、そこから逃げて唐に戻ったと聞いてからでも、すでに九年がすぎている。

一度、便りが届いただけで、今では生きているのか、どうかも分からない」と永手。

遣唐大使として唐に行って、帰国の途中で海で遭難した北家の四弟の清河は、唐へ戻ることはできたが戦乱に巻きこまれて日本へは帰国できなかった。清河にたいしては今も叙位と任官が行われていて、正四位上の仁部卿にんぶきょう民部卿みんぶのかみ)になっている。

十一年も国にいない清河に官位を与えるのも、永手と真盾が太政官でいるのも、北家を味方にするために恵美押勝がした優遇処置で、それに答えて北家も押勝に追従してきた。

「渤海使をもてなした正月の宴の席で、冷ややかな反応をする者たちを見ました」と真楯が言う。

「上台さまは欠席だった。代わりに淳仁天皇と押勝が並んだから、わたしも冷ややかな目を向けたくなった。まるで押勝が帝のようにみえる。

田村第資人たむらだいしじんに赤と黄の線が入った目立つよろいを着せて太刀を持たせ、それを百人も引き連れて宮城へやってくる。

つぎは、なにをしでかすつもりだろう」と永手。

「仲千さんと会っておられますか」と真楯。

「上台さまが帝と反目するようになってから、互いの立場を想って一度も会っていない」と永手。

「大師は、大納言の文屋浄三さまの退官を待っているのでしょう。もし‥」と、真楯が言葉を止めた。

「押勝が上台さまを葬るとしたら、文室浄三さまが退官された後だろうか」と永手が続ける。

「おそらく」

「上台さまは、藤原氏の血が濃いお方だ。母君の光明皇太后には大恩がある」と永手。

「兄上」と真盾が座り直した。

「なんだ」と永手。

「こんなことは、言いづらいが…」と真盾。

「改まって、どうした」と永手。

「いま言わないと、生涯、口にできない気がします。兄上。わたしのことを恨んでいますか」と真盾。

「なぜ?」

「聖武天皇は、わたしを取り立ててくださった」と真盾。

「昔のことか。そうだなあ・・・。

わたしは、もともと嫡子ちゃくしだったわけではない。長男は鳥養とりかい兄上だったから、わたしは庶子しょしとして育った。

わたしは、おまえのように風雅ふうがではないし気転も効かない。人にも好かれない。兄上が亡くなったときには、三弟のおまえのほうが上位にいた。

それなのに、たった一歳だけ年上の、わたしのほうが家長になった。

あのころは家長にされたが何をやっても上手く行かず、なんでも上手くやる、おまえがねたましかった。妬みが恨みにもなった」と永手。

「だから大師と接触したのですか?」と真盾。

「いや。むこうからやってきた。

今にして思えば、わたしが不安と不満と焦りを抱えているのを見すかされて、おまえを押えるために利用されただけだ」と永手。

「奈良麻呂さんのときは?」と真盾。

「わたしを支援してくれたのは押勝だけだった。だから押勝の言葉を信じようとした。奈良麻呂たちが謀反を企てたと信じたかった」と永手。

「奈良麻呂さんは、わたしたちの母方のイトコですよ」と真盾。

「渦に巻き込まれたように、押勝に逆らうことができなかったのだ。

おまえは押勝を避けて登庁していなかったが、あのときは、おまえに助けて欲しい。渦から引き上げて欲しいと願った。生まれて初めて、おまえに手を握ってほしかった」と永手。

「官職に戻ったわたしに、兄さんは要職への任官と昇位を推薦してくれた。

官僚に唐風の名を名乗れと大師が強要したときも、兄さんは一人で逆らった。

わたしは大師が怖くて名を変えた。わたしは逃げてばかりだった。兄さんのほうが骨がある」と真盾。

「押勝は、おまえを嫌っている。殺しかねないほど嫌っている。

おまえが逃げるのも、従うのも当たり前だ」と永手。

「…わたしたち、やりなおせませんか」と真盾。

「なにを?」

「互いを信用して、こだわりなく手を組めませんか」と真盾。

「そうだな」と永手。

「兄さんが大納言になって、わたしが中納言になった。わたしは、やっと居心地の良い立場に立てました。

兄さんは家長です。家長を助けて北家を守るのが弟の勤めです」と真盾。

「真盾。可哀想だが、清河はあきらめなければならないだろう。

残された兄弟は、魚名うおな楓麻呂かえでまろ御盾みたてだけになった」と永手。

「御盾は本気で大師を敬っているのでしょうか。都に帰ってきたときに、ゆっくり話してみましょう」と真盾。

「このまま行くと、押勝が上台さまを葬るかも知れないか・・・」と永手。

「不本意なままで大師に従い続けるのが、北家のためになるでしょうか。

淳仁天皇と上台さまの反目で、文室浄三さんと白壁王が上台さまに付きました。

ここで北家が上台さまについたら、大師を押えることができます」と真盾。

「分かっている。北家には北家の意地がある。押勝が上台さまを退けようとすれば道義どうぎもたつ。儀を通すときにはじょうは切る」と永手が言った。


藤原恵美押勝は、長男を亡くしたのでは九人の息子が残っている。

次男は真先まさき(太政官)、三男は訓儒麻呂くすまろ(太政官)、四男は朝苅あさかり(太政官)、五男は小湯麻呂おゆまろ(丹波介)、六男は刷雄よしお(図書頭)、七男は薩雄ひろお(越前守)、八男は辛加知しかち、九男は執棹とりかじ、十男は真文という。

このうち次男の真先と、三男の訓儒麻呂と、四男の朝苅と、長女の児依こよりの母が藤原宇比良古うひらこで、永手と真盾は彼らの伯父になる。児依は、永手たちの六弟の御盾みたての妻でもある。

そして押勝の八男の辛加知の母は、氷上塩焼の妹の陽候やこ女王になる。

永手たちが切らなければならない情は、誕生や成人を祝った甥や姪たちなのだ。



春三月の末の夜に入ってから、内裏に仕える雑色ぞうしき(雑用係)が使う門をたずねてきた男がいる。

大史局だいしきょくにつとめる大津おおつの大浦おおうらといいます。緊急のことで、友人に会いたいので入れていただけませんか」

「この時間には、お通しできません」と内裏の門を固める衛門えもんの舎人とねりが答える。

「友人に会うだけです」と大浦。

「大史局って、どこですか?」と衛門舎人。

「もとの陰陽寮おんみょうりょうです」

「陰陽師ですか。位階は」

「正七位上です」

「友人の名は」

「人に見られたくないので、門の中に入れてから調べてもらえませんか」と大浦が小銭を衛門舎人ににぎらせる。

「内裏に上がれるのは五位以上の貴族だけです。まず友人の名を教えてください。相手によっては言付けますよ」

看病かんびょう禅師ぜんじ道鏡どうきょうさんです」と大浦。

「道鏡って…道鏡さん?」

「はい。あの道鏡さんです。

道鏡さんに頼んで、上台さまのお耳に入れていただきたい大切な話があります。

ともかく中に入れてから調べてください。ここに来たことを誰にも知られたくないのです」と大浦。

「そうだな。庭には入れませんが門の中までなら入ったほうがいい。上司に聞いてみるから待っていて」と言って、衛門舎人は握っている小銭に目をやった。

「取っておいてください」と大浦がうなづいた。

孝謙太政天皇が保良宮からもどってから、淳仁天皇との亀裂きれつのもとは道鏡という太政天皇の愛人にあるという噂が都中に広がっている。いまは二人のことを口にしただけで、捕縛されて牢にぶち込まれる。

その道鏡に会いたいと陰陽師が訪ねてきた。衛門舎人は上官に、上官は侍従に、どうしたものかと取りついだ。


尼僧姿の孝謙太政天皇は、就寝まえのひとときを女官や、正月から侍従じじゅうと言う名で集めた側近たちとすごしていた。道鏡もいる。その道鏡のところに、侍従が衛門舎人からの知らせを届けた。

「知っている男か。道鏡」と孝謙太政天皇が聞く。

「はい。存じています。一年まえに保良宮ほらのみや宮室きゅうしつのそばで会ったのが始めてで、そのあと三、四回、会う機会があって宿曜しゅくようの話をしました」と道鏡。

「どんな男か」と太上天皇が聞く。

「大師さまにつれられて保良宮に来て、お邸を使っていると言っていました」と道鏡。

「押勝の手先ではないか!」と孝謙太政天皇。

「はい。大師さまに可愛がられているそうです。

だから、ここへ来るのは危険ではないでしょうか。

上台さま。おねがいします。話だけは聞いてきても良いでしょうか」と道鏡。

「それも、そうですね。しきりと周囲を気にしていると言いますから、なにか重大なことを知らせにきたのかもしれません」と笠目かさめ

「通せ。会おう」と孝謙太政天皇。

「それはいけません。上台さま。その者は正七位上だそうです。殿上でんじょうできる身分ではございません」と笠目。

内裏にあがれるのは内舎人や授刀舎人や、新たに作られた侍従をのぞくと、五位以上の貴族だけだ。

ちんの耳に入れたいのなら、本人を見て聞いたほうが確かだ」と太上天皇。

「それでしたら、上台さまは御簾みすのなかにお隠れください。授刀舎人に守らせます。安全のために女官や侍従も同席させてください」と笠目が勧めた。


「お話なさいませ」と笠目。

「はい。わたしは陰陽師ですが危険なを見つけました」と御簾に向かって平伏ひれふしたまま大浦がいう。

「顔をあげて、声がとどくように大きな声で話すように」と笠目。

「はい。来年の九月に戦乱がおこります」と身を起して大浦が言った。

侍従や女官たちがザワついた。

「どこで起こるかと、おたずねです」と大野仲千が御簾から出てきて聞く。

「都を中心とした畿内きないです」と大浦。また動揺がおこった。

「だれが戦乱をおこすか、とおたずねです」と吉備由利が出てきて聞く。

「大師さまが関わられております」と大浦。

こんどは全員が静まって、耳をそばだてて身をのりだした。

「来年の九月に藤原恵美押勝が謀反むほんをおこすのか、とおたずねです」と、こんどは仲千。

「わたしに分かりますのは、来年の九月に入ってから武器をつかった戦闘が起ります。それが七日から八日も続きますから、わたしは戦乱だろうと推測しました。

大師さま個人の運気うんきにも、同じときに同じように戦乱の相が現れておりますから、大師さまが関わっていると判断しました。

場所は都か、都に近いところで起ります」と大浦。

孝謙太上天皇からの返事はない。

「伏しておねがい申しあげます。

それまでに大師さまに気づかれることなく、万全の準備をしてください」と大浦。

「なぜ陰陽寮が異変を見つけずに、おまえが見つけたと、おたずねです」と由利。

「陰陽寮は、三ヶ月先までの星の動きを計算して予測をします。あまり先では予測と現行している星の動きに狂いが生じることがあるからです。

わたしは一年も先の星の動きを計算しております。

それと大師さまの星運を見ておりますので、大師さまに大きな変化が起ることも予測できます。それを重ねて考えて、お知らせしております」と大浦。

「日時は確かか、とおたずねです」と由利が出てきた。

「来年の九月の始めと言うのは、まちがいありません。

近くなったら、はっきりした日時を出せると思います」と大浦。

「そなたは大師に可愛がられていると聞くが、なぜ奏上そうじょうに来たか、とおたずねです」と仲千。

「わたしは大史局につかえる陰陽師です。大師さまに呼ばれましたら従いますが、朝廷につかえる陰陽師で大師さまの従者ではありません」と大浦。

「予測が当たらなかったら、どうするつもりだ、とおたずねです」と由利。

「命はないものと覚悟しております」と大浦。

「いままでどうりに押勝に仕え、不審な動きや、新しい予測がでたら伝えるように。みなも、このことは口外こうがいしないように」と仲千が出てきて伝え、御簾の外にいる笠目をうながした。

「では、お引きとりください。奈貴王なきおう。お送りしなさい」と笠目が命じる。


奈貴王につれられて大津大浦が内裏の廊下を歩ていると、道鏡が追ってきた。

「あの…待ってください。少しだけ話をさせていただけませんでしょうか。

おねがいします」と道鏡。

「少しだけですよ」と奈貴王が、顔をしかめながら承知する。 

二十九歳の奈貴王は、従五位下で大炊おおすいかみ(宮中料理人を束ねる役人)をしているが孝謙天皇の侍従でもある。侍従として内裏に居ることのほうが多い。

「わたしの部屋へ」と道鏡が大浦をつれていく。

「豪華な部屋ですね。さすがは女帝の愛人ですか」と部屋にはいった大浦。

奈貴王が、背中を部屋に向けて廊下に座った。

「ちがいます!」と道鏡。

「その言葉を、わたしは信じますよ。はい。これ」と大浦がふところから紙をだした。

「なにでしょう」と道鏡。

「二人になれる機会があったら渡そうと思っていました。あなたの宿曜表しゅくようひょうです」と大浦。

「陰陽寮の資料は持ちだせないって言ってたじゃないですか」

「わたしの家にある資料から写しました」と大浦。

「家に! すごい資料をもっているのですね」と道鏡。

「代々うけついで残したい、我が家の宝です」と大浦。

「宿曜表が二枚ありますが」と道鏡。

「これが、あなたの」と大浦が一枚の紙を指さした。

「こっちは?」と道鏡がきくと、大浦は奈貴王の背中をうかがってから、目を孝謙太政天皇がいる部屋の方に向けてうなずいた。道鏡が目を見張る。

「わたしは体が反応するのですが、たとえば大師さまに会うとジンマシンがでます。これは拒否反応です。

この方は寒かった。いずれ、わたしを始末なさるでしょう。

それとは別に、胃のあたりが石のように重く鋭い痛みを感じました。この方は、そこが弱ります」と大浦が孝謙太政天皇の宿曜表を指して言う。

「どうして、わたしに、これを?」と道鏡。

「わたしは、あなたと同じ年の同じ月の生まれで、あなたより七日だけ遅く生まれました。それだけ言えば、あなたの宿曜表から割りだして、わたしの宿曜は分かるでしょう」と大浦。

「わたしを信じても良いのですか」と道鏡。

「あなたも、わたしも上がって落ちる宿命です。ただ、わたしの月は良い配置をつくっていますから、少し上がって落ちるけれど被害が少ない。

たった七日の違いですが、あなたの月は、どこまでも上がる。そこから落ちればみじんです。

宿曜は使い方で変えることができます。手にしたものを捨てて、なにも持たずに、今ある自分に感謝して、無心にやりなおす気があれば宿命も変わります」と大浦。

「しかし…大浦さん。寄せられた信頼を捨てることはできません」と道鏡。

「そう思われるのなら、それは、あなたが選んだ道です。

これからは、こうして宿曜の話などできないと思いますが、どこに居ても、あなたの星の使い方を、わたしは見ています」と大浦。

「お二人さん。そろそろ引きあげてもらわないと、わたしが困りますがね」と奈貴王が伸びをしながら声をかけた。


一方、御簾を巻きあげた孝謙太政天皇は、侍従や女官たちをそばに呼んで「どう思う?」聞いていた。

「大師さまが可愛がっている陰陽師です。

ワナかもしれませんが、言っていることに矛盾は感じませんでした」と従五位上で三十四歳になる石上宅嗣やかつぐが言う。文部もんぶ式部しきぶ大輔だいすけと、正月からは侍従を兼任している若手の中の実力者だ。

「来年の九月まで、あと一年半もあります。

あの陰陽師とは別に、対策を早くとられた方が良いと思います」と同じく正月から侍従になった従五位下で三十一歳の藤原雄田麻呂おだまろ

「即位させた淳仁を退位させるには、それなりの理由がいる」と孝謙太政天皇。

「今夜はおそいですから、明日の午後にでも陰陽師のことを伝えに文屋浄三きよみさまをおたずねします」と、ずっしりと座った山村王やまむらおうが静かに言った。

山村王は、文屋浄三が侍従として選んだ不遇な皇嗣系こうしけい官人の一人で、四十一歳だから侍従のなかでは年長者だ。

「大化の改新」以前の用明ようめい天皇の息子の久米くめ皇子の四世王という古い大王おおきみの流れをついでいる。久米皇子は厩戸うまやど皇子おうじ聖徳太子しょうとくたいし)の同父母弟で、山村王は今は官寺かんじとなっている法隆寺の最大の檀越だんえつ施主せしゅ、後援者)だった。



都の西を流れる秋篠あきしの川と呼ぶ運河にそって北に歩いて、整地された平城京の都城区域からはなれると、雑木林の中を自然な路が延びていている。

あたりには牛の牧場や焼き物をするかまがつくられていて、土師はじ氏の邸が多くある。

その土師氏の邸の一棟で「本当に出家させた方がよいのかしら」とやまと新笠にいがさが溜息をついていた。

「おなじ年頃の子があつまる大学に通わせるのは、むずかしいだろう。それなら寺に預けたほうが良い」と白壁王が言う。

「育て方が、まちがっていたのかも」と新笠。

「母上のせいじゃありません。十三歳も離れていますから遊んでやろうとしましたが、早良さわらは子供のころから変わっていました。生まれつきの性格でしょう」と山部王。

白壁王と新笠のあいだに生まれた早良王が十三歳になる。そろそろ成人のを考えても良い歳で、成人したら貴族の子は大学に通わせなくてはならない。

「お寺にも同じ年頃の子はいるわよ。お寺は寝泊まりも同じなのよ。やっていけるの」と新笠。

「大学に通わせて朝廷に出仕させるよりは良いと思うがなあ」と白壁王。

「よりによって、あなたとわたしのあいだに、どうして早良が生まれてきたのかしら」と新笠。

「わたしにも、あなたにも、少しは要領が悪いところがあったのだろう」と白壁王。

「あれを要領が悪いとは言えないでしょう」と新笠。

早良王は五歳ごろから難しい漢字を覚えて、難しい本を読み理解もした。

ただ、そのころから感覚人間の母の新笠が「なにが鈍いような気がする」と言いだした。兄の山部王とちがって手のかからない子で、泣かない、笑わない、怒らない。そして言われたことしかしない子だった。

十歳になると父親の白壁王も、早良王が変わっていることを理解した。子供にしては博識はくしきで問いかけると正確な答えをする。ただ会話が流れても、いつまでも最初の話にこだわりつづける。周囲の状況の変化が分からないらしい。

痛い、寒い、暑いの感覚は伝えてくるが、楽しい、寂しい、哀しいの感情を口にしない。大学へやっても友達を作れるのかどうか気がかりな息子なのだ。

「奈良麻呂の乱」で二世王がほとんどいなくなり、中納言になった白壁王は嫌でも政治に関与する立場になった。

今の政局は、どう変わるか予測ができない。チョッと変わった早良王を大学に通わせて、枠にはまった官人にするのは可哀そうな気がした。

「出家した長男の開成かいせいも落ち着いた暮らしをしている。官人になるだけが、人の生きる道ではないだろう。

明日、東大寺の良弁りょうべん大僧都だいそうずに相談してこよう。

修行が終わったら寺を建ててやって、好きなことをして過ごさせるのが早良には良いだろうよ」と白壁王が言った。



四月二日。

従五位下で少納言しょうなごんの藤原蔵下麻呂くらじまろが遅刻して内裏にやってくると、廊下に座って兄の雄田麻呂おだまろを目で招いた。

それを見とがめた孝謙太政天皇が「おくれて出仕し、兄を呼びだすのは無礼であろう。どうして遅れた」と女官の笠目にとがめさせる。

式家の末弟の蔵下麻呂が、困った顔をして兄を見てから平伏する。

「上台さまが、おたずねだ。なぜ、おくれたのか答えなさい」と侍従の雄田麻呂が聞く。

「兄の藤原宿奈麻呂すくなまろ衛門府えもんふにつかまりました。

大師さまの命を狙ったそうです」と蔵下麻呂が答える。

「ええっ!」「どうして?」「ほんとうですか?」「バカな?」と女官の久米若女と阿部古美奈と、女儒の藤原諸姉と藤原人数が同時に声を上げた。

「くわしく説明しなさい」と雄田麻呂。

「昨夜は雄田麻呂が当直でしたから、わたしだけが家に戻りました。今朝、宿奈麻呂の家のものが衛門府に拘束されたと知らせてきました。

それで、わたしが衛門少尉しょうじょうの佐伯伊多治いたじをたづねて理由と処遇を聞いてまいりました」と蔵下麻呂。

「佐伯伊多治は保良宮から戻りましたときに、すぐに門を開けてくれた衛門舎人です」と女官の大野仲千が補足する。

「なにを聞いた」と雄田麻呂。

衛門府えもんふの牢に入れられているのは、兄の藤原宿奈麻呂と石上宅嗣。衛門府の牢に入れられたのは大伴家持と佐伯今毛人だそうです」と蔵下麻呂。

「なんですって!」と、今度は女官の吉備由利が声をあげた。

「上台さま。藤原宿奈麻呂と石上宅嗣はイトコで、宅嗣と大伴家持も古くから親しく連絡をとりあっています」と久米若女。

「佐伯今毛人と大伴家持は、子供のころからのつきあいだと聞いています」と由利。

「兄の宿奈麻呂は、上台さまが侍従や少納言に取り立ててくださっている式家の家長です。

石上宅嗣も上台さまの侍従で、信部しんぶ中務なかつかさ大輔だいすけの大伴家持は歌人として名高く、佐伯今毛人は造東大寺司の長官として名を知られています。大伴も佐伯も武門です」と、すばやく雄田麻呂が孝謙太政天皇に伝える。

「佐伯伊多治の話では、四人が大師さまを暗殺する計画をしているから拘束するようにと、恵美訓儒麻呂くすまろさまが衛門府に来て命じられたそうです。

早朝に四人を拘束して調べたところ、石上宅嗣、大伴家持、佐伯今毛人は、そんな事実はないと言ったきりで黙秘もくひしています」と蔵下麻呂。

「奈良麻呂の乱のまえに、淡海おうみの三船みふねさまと大伴古慈斐こじひさまが捕らえられたときに似ておりますね」と飯高笠目。

「兄の宿奈麻呂は、イトコの押勝が前々から嫌いで、臣下にあるまじき恵美押勝の思い上がった行いに腹が立ち、スキがあれば殺そうと思っていた。

狙うのは押勝一人で、だれにも胸のうちは話していない。

ほかの三人とは仲は良いが、このことは話していない。

すべて自分一人の胸の中で思い、自分一人で押勝を殺すつもりだったと自供しているそうです」と蔵下麻呂。

「えっ!」「自白じはくしちゃったのですか?」と諸姉と人数。

「上台さま。すぐに断罪のちょくをだしていただけないでしょうか。

石上宅嗣、大伴家持、佐伯今毛人は関係がありませんので放免ほうめんしてください。

兄は、いざというときに役に立つ男です。殺そうと思っていたと自供したのなら、軽くても遠流刑おんるけいになりますが、遠くにいてはイザという時に間に合いません。

官位と氏名を剥奪はくだつして、都から追放してください」と雄田麻呂が言う。

賞罰しょうばつは、わたしが決める。

参議で太政官をしているだけの若い訓儒麻呂が、かってに衛門府を動かすことはできない。宿奈麻呂も放免しよう」と孝謙太政天皇。

「上台さま。大師さまと競ってはいけません。まだ、こちらの準備が整っておりません。淳仁天皇が勅をだされたら、訓儒麻呂さまの動きは違法にはなりません。

このようなことは二度とするなと、宿奈麻呂を強く叱って追放し、ほかの三人を左遷させんして、それを大師さまに報告してください。

これで大師さまは、ますます刺客しきゃくにおびえて、なんらかの動きをなさるかもしれません」と雄田麻呂。

「雄田麻呂や蔵下麻呂や、わたしや古美奈や諸姉や人数などの、式家の者たちは自宅で謹慎きんしんした方が良いのでしょうか」と若女。

「必要ない」と孝謙太政天皇。

「ありがとうございます。

これは、あくまでも藤原一族のなかの争いで、朝廷にあだをなすものではありません。上台さま。こちらも急いで要所に人を置きましょう」と雄田麻呂。

母の若女に似た美しい面立ちをした式家の五男の雄田麻呂は、有能な官人になっていた。

藤原恵美押勝の暗殺を計画した罪で、四十六歳の藤原宿奈麻呂は名と官位を取りあげられて都の外に追いやられた。

宿奈麻呂が言いふらした「臣下なのに」という大師への悪口は、しっかりと官人たちの胸に届いた。



佐伯今毛人いまえみしは保良宮へ移る前後の、あいまいな任官が行われたときに摂津せっつ大夫たいふ(兵庫県南東部、大阪府北部)(かみ)になったが、この一月に造東大寺司の長官に戻されたばかりだった。

摂津大夫になった以外は、聖武天皇のときから東大寺の建造に関わっている。

大師の暗殺計画をうたがわれて、今毛人は衛門府えもんふの牢に入れられて二泊したが怖かった。

佐伯氏は武門だが、建築一筋できた今毛人は牢の石壁や木の柵の染みや傷が目にとまる。それが老巧化によって自然にできたものか、この牢で無残に殺された人が残した血や、油のまじった体の一部が飛び散ってできたシミかぐらいの見当がつく。

衛門府の牢に大伴家持も入れられたと聞いたが、家持も武人というより感性の豊かな歌人だから、たまらないだろうと思った。

幸いなことにじょうで叩かれる尋問を受けるまえに、今毛人たちは釈放されて罪も問われずに邸にもどることができたが、東大寺の現場にもどることは止められた。

 

四月十二日の夜半に「起きてください。市原いちはらおうさまがみえておりますが、どういたしましょうか」と自邸で寝ていた今毛人は起こされた。

衛門えもんの舎人とねりに包囲されて拘束されてから十日とたっていないから、今毛人も邸につとめる従者たちもピリピリしている。

「どんなようすでみえた」と今毛人。

帯刀たちはきの資人しじんを一人だけつれておいでです。

怪しまれるから早く中へ入れろとおっしゃるので邸内にお入れして、庭でウチの帯刀資人が見はっています」

今毛人は政治に関わりたくない。だれの味方もしたくないし、だれを裏切るつもりもない。

市原王は東大寺を竣工しゅんこうしたときの造東大寺司の長官で、今毛人の上司だった。今毛人が摂津大夫をしているあいだは市原王が造東大寺長官をしていて、この一月に今毛人が造東大寺長官に戻されたときに市原王が摂津大夫になったから、今は摂津にいるはずの人だ。

「客殿に案内して見はっていろ」

身支度をして部屋に行くと、市原王が一人でいた。

「こんな時刻に、どうなされました」と今毛人。

もとの上司だが、今は今毛人が従四位下で市原王は正五位上と今毛人のほうが位が高い。

「近くに妻の邸がありますので、そこによって帰宅する途中です」と市原王。

「摂津から?」と今毛人。

「ええ。義父ちちに呼ばれましてね。こっそり戻ってきました。

じつは、お伝えすることがあります。お人払ひとばらいを」と市原王。

市原王も、一人だけ連れているという帯刀資人をおいていない。自分の邸内だから大丈夫だろうと今毛人は従者をさがらせた。

「明日か明後日に、わたしが造東大寺司の長官に任命されます」と市原王が声をおとして伝える。

ああ、やはり…。

今毛人にとって東大寺は、誕生から見守ってきた子供のようなものだ。東大寺の前身になる金鐘寺こんしゅじから関わっているので、東大寺の仕事をとりあげられるのは我が子をうばわれるようにさびしい。

市原王がヒザをすすめて、今毛人に体を寄せてささやいた。

「わたしの長官も一時のことです。これは、ある方を都に戻すための細工さいくです」

「おっしゃっていることが良く分かりませんが、わたしは東大寺を完成させることができないのですね」と肩を落として今毛人が言う。

「はい。うまくゆけば遠くへ送られますよ」と市原王。

「左遷ですか…遠くって、どこへ」と弱々しく今毛人が聞く。

怡土城いとじょうへ」と市原王が口元に笑みをうかべた。

「怡土城って、九州の大宰府の?」と今毛人。

「はい。怡土城を完成させるために」と市原王。

「だって怡土城は、吉備真備先生が…。

さっき、あなたの造東大寺司の長官は一時的で、ある方を都に戻すためって言われましたね。それは真備先生のことですか?」と今毛人が目を大きくした。

「秘中の秘ですよ。あなたや家持さんや宅嗣さんは、大師に目をつけられて投獄までされたので、あなたがたの身を守るために九州に左遷されます。

入れ替わりで、わたしが造東大寺司の長官になります。

今毛人さん。心配しなくても、すでに東大寺は出来ています。わたしは、あなたの東大寺をさわったりしません。

さて、そのあとで、吉備真備さんを高齢だからと造東大寺司の長官として都に呼びもどし、あなたに怡土城を造るように任命する。うまくゆくと、そうなるはずです」と市原王。

「わたしが怡土城を…それは、いつ?」と今毛人。

「すぐには無理でしょう。多分、来年になってからでしょうね」と市原王。

「どなたが、それを・・・」と言いながら、さっき市原王が義父に呼ばれたと言ったことを今毛人は思いだした。

たしか市原王は、中納言の白壁王の娘を妻にしている。義父とは白壁王のことだろう。

「もしかして、わたしたちが大師さまを殺そうとしているという密告も仕掛けの一つですか」と今毛人。

「密告はしていません。大師が、暗殺計画をでっちあげたのです。

宿奈麻呂さんが、あっちこっちで大師への不満を言いふらしましたからね。

でも宿奈麻呂さんは、百人もの授刀資人に囲まれている大師を、一人で殺そうとするほど愚かな方ではありません。

ほんとうは宿奈麻呂さんとあなただけが移動できればよかったのですが、宅嗣さんと家持さんを巻きこんでしまったのです。

でも、もともと、お二人とも大師に目をつけられていましたから、都にいないほうが安全です」と市原王。

「いったい、どなたが、こんなことを」と今毛人。

「うんと上の方です」と市原王。

「分かりました。聞きません。どなたでもいいです。その方に感謝します。

東大寺に最後の手を入れるのは真備先生なのですね。

わたしが怡土城にふれるのを、真備先生が許してくださると良いのですが・・・。

早く都を立って太宰府へ行き、真備先生にお会いしたいです」と今毛人。

「あなたにも話しておいた方が妙な動きをしないだろうと、こうして、わたしが伝えに来たのですから、くれぐれもさとられるようなことをしないでくださいよ。

さて、人々が登庁するまえに都をぬけて、わたしは摂津までもどらなければなりません」と言って市原王は立ちあがった。

二日後の四月十四日の任官で、市原王は造東大寺司長官になった。

文屋浄三は目立たない地味な任官で、人材を要所に置いていった。

 


この年は、雨が降らずに日照りがつづいた。土が乾いて穂が育つまえに稲が立ち枯れてしまう。四月、五月、六月と全国から飢餓きがが伝えられ、そのうえ疫病が流行って多くの死者が出はじめた。

そして十月十七日に、従三位で礼部れいぶきょう式部しきぶ卿)で参議の藤原弟貞おとさだ(押勝の養子)が亡くなった。

つづいて歳の暮れに、参議の巨勢麻呂こせまろ(押勝の弟)が亡くなった。

この壮年の二人が若い恵美氏の太政官をまとめていたから、弟貞と巨勢麻呂が欠けたことは押勝に大きな打撃を与えることになった。

 

律令では五位以下の官人の任官は、太政官たちが勤務成績を参考にして決める。

貴族と呼ばれる五位以上の官人の任官は、太政官の意見を参考にして天皇が決めることになっているが守られていない。

だいたい天皇が中宮院を御座所ござしょとする淳仁天皇なのか、天野天皇あまのてんのうと名乗って内裏に住む孝謙太政天皇なのかさえ分からないし、重要な任官を決めているのは、そのどちらでもなく大師の藤原恵美押勝だった。

恒例の大きな叙位と任官は、正月と新嘗祭にいなめさい(十一月の中卯なかう下卯しもうの日に行う収穫祭)に行われるのだが、この年は新嘗祭も形だけで冬の叙位と任官はなかった。

 


七六四年。

一月二十一日に一年ぶりに新しい任官が行われた。

押勝は、従五位下の九男の執棹とりさおを式家の田麻呂に代えて美濃守みののかみ(岐阜県知事)にして、越前守えちぜんのかみ(福井県知事)だった七男の薩雄ひろおを八男の辛加知しかちと交代させた。

三関さんげんがある二国を息子で押さえたのだ。


天皇が亡くなったときや都に緊急事態が発生したときに閉める、不破関ふわのせき(美濃国)、鈴鹿関すずかのせき(伊勢国)、愛発関あらちのせき(越前国)の三関とよぶ関所がある。

この三関を閉めれば、関東や北陸から都に入れなくなる。反対もありで、都から関東や北陸に行けなくなる。

鈴鹿関がある伊勢守は亡くなった大納言の石川年足の子の名足がしていて、これを交代させることはできなかったが、伊勢と近江と伊賀の按察使あぜち(地方行政の監督官)は、すでに押勝の娘婿である北家の藤原御盾みたて授刀督じゅとうのかみと兼任している。 

押勝の九男の執棹が国司となった美濃国(岐阜県)には東山道とうさんどうを閉める不破関があり、八男の辛加知が国司となった越前国(福井県)には北陸道ほくりくどうを閉める愛発関がある。

朝廷がつけた渤海送使を勝手に変えた七男の薩雄の失敗をもみ消すのに苦労した押勝は、それに懲りて仕事の経験がない若い九男の執棹には副官のすけに腹心の池原いかはらの禾守あわもりを、八男の辛加知には村国むらくにの虫麻呂むしまろをつけた。

南の九州は、すでに二男で太政官を兼ねる真先まさきが大宰帥している。

そして、これまで押勝の代わりに近江国(滋賀県)を治めていた近江介の阿部小路こみち左少弁さしょうべんにして都に戻し、越前守をしていた七男の薩雄を右虎賁うこほんそつ右兵衛さひょうえのかみ)にして、押勝と親しいなかの石伴いわとも左司門衛さしもんえいそつ左衛門さえもんのかみ)にした。

太政官と重要な土地の地方官に息子を配し、衛府を腹心で固めた。


一年ぶりの任官で文屋浄三が打った手は、いたって地味だ。

押勝の暗殺を試みたと式家の宿奈麻呂と一緒に捕まった、佐伯今毛人と石上宅嗣を大宰府(九州・福岡県)にやり、大伴家持を薩摩守さつまのかみとして鹿児島にやった。これは中央官から遠ざけたので、左遷したと言ってよい。

そして佐伯今毛人を太宰府に送ったから、怡土城いとじょうをまかせることができる。死ぬ前に一目会いたいと家族が奏上しているので、すでに古希こきを迎える吉備真備を、政治に関係のない造東大寺司の長官として都に戻したいと文室浄三は提案した。

息子の真先を大宰帥にしている押勝は、十四年も中央官から遠ざけられた真備を都に戻すことに難色を示さなかった。退職の時期は決まっていないが、七十歳をすぎると辞職を願いでる年齢だった。

吉備真備は、無事に造東大寺司の長官になった。

侍従の山村王を少納言にしたが、少納言は天皇の身の回りの世話をする仕事で、政治に関わらないから押勝は気にも止めなかった。

ただ少納言には、内印ないいん天皇玉璽てんのうぎょじ)と駅鈴えきれいを管理するという特別な任務があった。


この日の昼、「市原王!」と東大寺のそばに造られた造東大寺司のための役所を、佐伯今毛人がたづねてきた。

「なんですか。今毛人さん。その姿は?」と今毛人の旅姿を見た市原王。

「出ました。出ましたよ。わたしは怡土城の営城監えいじょうかんになりました。これから九州に向かいますますから、お別れにきました」と今毛人。

「たしか任官が発表されたのは、今朝でしょう。

ズーッと旅支度をして待っていたのですか?」と市原王。

「はい。石上宅嗣も太宰少弐しょうすけになりましたので、向こうで落ちあう予定です。大伴家持は薩摩守になりましたが、薩摩に向かうまえに大宰府にしばらく逗留とうりゅうすると言っています」と今毛人。

「三人そろって九州ですか」と市原王。

「二人は大納言の文屋浄三さまに、都を離れたほうが良いとさとされたそうです。家持は、わたしと一緒に行くといってますが、支度を待っていると出発がおくれるし、あれは風光ふうこう明媚めいびな場所や、珍しい話しを聞き込むと歌を練るために休むので、イラつくからと断りました。

真備先生が都に戻られるから、わたしは一刻も早く向こうについてお話を聞きたいのです」と今毛人。

「舟で行くのですか」

「いいえ。歩きます。わたしは水が怖いのですよ。水辺を歩くのでさえ怖いのです」と恥ずかしそうに今毛人が言う。

「だれにでも苦手はありますからねえ」と市原王。

やさしいなと思いながら、今毛人は市原王が高所恐怖症だったことを思いだした。

「石上宅嗣が船で行くそうです。宅嗣が都の事情をお知らせすることになっています。

じゃあ、市原王。いつ、お会いできるか分からないけど、お元気で。

あなたには良くしていただいて、ほんとうに感謝してます。お世話になりました」と今毛人。

「気をつけていってらっしゃい」

おそらく今の官人のなかで、政局に無関心で幸せを感じられる幸運な人だと思いながら市原王は今毛人を見送った。

和歌をことかなで、後の貴族文化につづくみやびを好んだ市原王は、それからしばらくして白壁王の娘の能登女王のとにょうおうとのあいだに一男一女を残して病没する。

市原王がんだ和歌は「万葉集まんようしゅう」によって後世に伝えられている。


 

三月十二日。

正四位下の吉備真備が、造東大寺司の長官として都に帰ってきた。

孝謙太政天皇が即位したあとで、藤原広嗣の祟りがあるからという理由で九州に赴任させられてから十四年が過ぎた。

あいだに一度、遣唐副使として唐に行った帰りに都に寄って、来日したばかりの鑑真がんじん大僧都だいそうずに天皇の勅を伝えたが、その鑑真大僧都も昨年、亡くなっている。


「由利か?」と書庫のある邸に入ってきた真備が、なんともいえない顔をして娘を見た。

「忘れたの?」と由利。

けたなあ」と真備。もう由利は四十六歳になる。

「それが長いあいだ留守にしていた父親が、開口かいこう一番で娘にかける言葉? お父さんこそ歯や髪は残っているの?」と由利。

「その物言いは、まちいなく由利だ。今日は休みなのか」と真備。

髪は白く、肌は日に焼けて黒く、シワが増えたが真備はいたって元気そうに見える。

「帰ってきたと知らせをもらったから待っていたのよ。それで向こうで会えたの?」と由利。

「石上宅嗣、大伴家持、佐伯今毛人のことか。あの今毛人は良い男だなあ」と真備。

「まさか、怡土城と東大寺の話ばかりしていたのじゃないでしょうね」

「今毛人とは、その話ばかりだ。話がつきなかった。あの男になら安心して怡土城を任せられる。

都の事情は宅嗣が話してくれた。

大師を倒して太政天皇を再び天皇とするための策を、わたしに練って欲しいそうだな」と真備。

「恵美真先さんに、気づかれていないでしょうね」と由利。

「大宰府では、人脈と土地勘があるから大丈夫だ。

しかし、なんだな。

大師という人は、どうして才能を伸ばそうとせずにつぶそうとするのかな。

九州に送られた三人は、それぞれが天賦てんぶの才を与えられた国の宝だ。

それを見分ける目がありながら遠ざけるのは、度量どりょうがないからなのか? 劣等感が強いのか?」と真備。

「だれも父さんに、人物評価をたのんでないわよ」と由利。

おのれを知り敵を知れば、おのずから勝つ」と真備。

「なによ。それ?」

「敵の性格を分析するのが兵法へいほうの基礎だ。

おまえたちは大師と名乗る藤原氏の庶子を追放したいと、ヤッキになっているのだろう。

それなら文屋浄三さまが線引きをされたさくを、実行にうつせば良いだけだ。

時がきたら手伝わせていただく」と真備。

「浄三さまが線引きをなさったって、そんな策があるの? 

実行に移して成功するするの。見栄はってない?」と由利。

「ありがたいことに、あの大師という人が相手なら見栄をはる必要もない。

それより由利。大宰府もだが、山陽道さんようどう悲惨ひさんだった。

餓死がしした人の遺骸いがいがつまれて、野ざらしになっているところもあった。そのために疫病が流行る。

国を治める者がしなくてはならないのは権力争いではなく、飢えている民を救うことだろう」と真備。

奸臣かんしんが権力を握って、心ある人が口を閉ざす最悪の状況だわよ。

だいたい、だれが帝か分からないしね。

飢餓を報告した国には、米をだしているはずでしょう?」と由利。

「米が行きわたっていれば、餓死者は出ないだろ?」と真備。

「まあ、そうだわねえ」と由利。

「地方に配布する備蓄米びちくまいは残っているのだろうか?」と真備。

「わたしは女官よ。知るわけないでしょう」と由利。

「今の帝を自ら立てて退位しておきながら、再びまつりごとると言っている太政天皇に仕えている女官だろう。

それぐらいのことも知らずに役に立っているのか。

二年つづきの不作だ。もし備蓄米が足りないのなら、聖武天皇が大仏建造のときにされたように、民に寄付を呼びかけるようにと太政天皇に伝えて欲しい。

餓死しそうな人を何人救ったか、自分がたくわえた米をどれぐらい寄付したかで、褒賞ほうしょうとして位階を与えるようにと伝えてくれ。

太政天皇が皇太子だったころ、わたしは学士がくし(専任教師)として、民のことを第一に考えるようにと申しあげたはずだ。

しかし太政天皇は民をいつくしみもせず、だれも望んでいなかった頼りない青年に皇位をゆずった。そして今度は、その天皇と対立している。

治世者としての自覚も、人としての見識けんしきもなさすぎる。

国の先行きを心配していた橘奈良麻呂たちを犠牲にしたことで、官人たちから信頼もされてもいない。

むごたらしく殺された憂国ゆうこくに、タブレだのノロシだのの名を与えて、亡くなったあとも恥ずかしめたから、庶民からもつたないと思われている。

そのうえ、こんどは男狂いをしているそうだ」と真備。

「ハアーッ! それを、わたしが上台さまに伝えるの!」と由利。

「ただ、これからの政治が正しければ人もついてくる。

太政天皇が正しい行いをすれば、敵も動揺して動く。そのときが敵を倒すときだ。

それまでは民を救うことを第一に考えて、ほかのことは考えないようにと太政天皇に伝えて欲しい。

民が安心して暮らせる国を作れば、国は穏やかになり富む。

日なたで寝ているネコでさえ分かることが、なぜ分からない」と真備。

「とりあえず学士だったのだし、父さんが帰京の挨拶にうかがって、言いたいことは自分で言えば」と由利。

「文屋浄三さまが選んだ少納言や侍従たち。授刀じゅとう衛府えふの舎人たち。それから評判の看病禅師にも会っておきたいから、落ちついたら参上させていただく。

飢えた民を救うのは待ったなしだ。今からすぐに内裏に戻って、おまえが伝えてくれ」と真備。

「今から? どうして、そうなるのよ。何年振りで会ったと思っているの。

お父さん。せめて今夜は食事でもして、ゆっくり話をしましょうよ」と由利。

「腹が減っているなら、たしか干し貝をもらったのを、かじりかけてふところに入れたから…おう。あった! これを食え」と真備。

「アン!」

「わたしは都の空気を感じるときが欲しい。

敵にさとられないようなら、すぐに文屋浄三さまには、お目にかかりたいがな」と真備。

「さっきからお父さんは敵って言っているわね」と由利。

「わたしは藤原恵美えみの押勝おしかつと名乗っている、藤原南家の次男を葬るための軍師ぐんしとして戻されたと聞いた。

敵がいなければ、兵法は成り立たないぞ!」と真備。


このすぐあとで、孝謙太政天皇は飢えた民を救った者に位階を与えると詔をだした。

由利が伝えた話を聞いて早く詔をだすようにすすめたのは、これまで政に口をださなかった道鏡だった。孝謙太政天皇の身近に仕える人のなかで、飢えの苦しみを知っていたのが道鏡だけだったのだ。 


 

六月九日に、授刀衛かみと、伊勢と近江と伊賀いが按察使あぜちをしていた北家の六弟の藤原御楯が亡くなった。

藤原北家と押勝を結ぶ縁が少しづつ弱くなってきた。

去年、参議の弟貞おとさだ巨勢麻呂こせまろを亡くした押勝は、今度は軍事面を支えられる娘婿を亡くした。

息子以外の縁族で押勝のもとに残っているのは、夫人の陽候女王やこにょうおうの兄の氷上塩焼と、亡夫人の宇比良古うひらこの兄弟になる藤原北家だけになった。



七月十九日に、新羅から九十一人の使いが大宰府に着いた。

今回の新羅の使者は、去年の二月に来たときに「使者の身分が低い。今後は新羅の王子か高官を寄こせ」と言った日本の対応にたいして、絶妙ぜつみょうな揺さぶりをかける。

大宰府で新羅の使者は、こう述べた。

「さきにとうから帰国した日本人留学僧の戒融かいゆうが無事に帰国したと日本から知らせがきてないので、唐にたのまれて安否を確かめにきた」

そして新羅の太政官からの文書をわたした。

その文書によると、日本人留学僧の戒融が無事に帰国したかを確かめるために、いま唐の勅使ちょくしが乗っている唐船が、新羅の西の港に泊まっている。唐船への返事をつたえる新羅の勅使は大宰府の返事をまっていて、まだ唐船の泊まっている西の港に行かずに新羅の都にいる、と書かれている。

太宰帥をしている押勝の次男の藤原恵美真先えみのまさきが、新羅の太政官文書と日本語訳を都に送ってきた。


太政官府に太政官たちがあつまっている。

遅れてきた藤原恵美押勝が、新羅の太政官文書の日本語訳を読みおえるのをまって、大納言の文屋浄三が聞いた。

「大師さまの、ご指示をあおぎたいと存じます」

むずかしい顔をしたまま、押勝は答えない。

「その留学僧の帰国をたしかめて、新羅使に知らせれば良いだけでしょう。

帰っているのですか?」と押勝の三男で参議の藤原恵美訓儒麻呂くすまろが代わりに聞く。次男の真先が太宰府にいるので、押勝の息子の中では最年長だ。

「大師さま。ご存じない方がおられるかも知れませんから、これまでの経由をご説明ねがえますか」と浄三。

押勝は遠くに目をえたままで答えず、組んだ両手の指で手の甲を叩いている。

「では、ご存じない方のために、どなたか説明してくださいますか」と浄三。

これまで太政官会議での発言をひかえていた中納言の藤原真楯またてが、大納言の兄の永手を見た。永手がうなずく。

「わたしから説明します。

去年の正月に来日した渤海使の王新福おうしんふくらを、二月に越前の敦賀港つるがこうから船をだして、右虎賁うこほん右兵衛うひょうえ)の舎人で正七位下の板振いたぶりの鍵束かぎつかが送ってゆきました。

その船が渤海から帰国するときに、唐から渤海まで来て日本に行く船便をまっていた日本人の入唐にゅうとう留学生の高内たかうちのゆみと、その妻と幼い息子と赤子と乳母。今回、新羅が問い合わせてきた入唐学問僧の戒融と、その弟子を乗せたそうです」と真楯がしずかに話しだした。

「では唐がたずねている留学僧は、帰国しているのですね」と訓儒麻呂。

「はい。戒融は去年の十月に敦賀港について、今は北吉野きたよしのの寺があずかっています。弟の清河のことで知っていることはないかと訪ねたことがありますが、心を病んでいて会えませんでした」と真楯。

「僧の行方が分かっているなら、わざわざ大師さまをお呼びしなくても、みなさんが田村第に報告に来たら良かったでしょうに」と訓孺麻呂。

「船が出たときも帰ってきたときも、敦賀港がある越前守えちぜんのかみは藤原恵美薩雄えみのひろおさまでした。

問題の舟が帰ってきたあと二ヶ月ほどしてから、弟の辛加知しかちさまと越前守を交代して薩雄さまは都に戻っておられますから、訓儒麻呂さまはご存じだと思っておりましたが」と真楯が訓儒麻呂をうかがう。

「なにをです?」と訓儒麻呂。

「留学僧の戒融がつれていた弟子と、留学生の高内弓の妻と、幼い息子と、赤子と乳母の五人は、敦賀港に着いていません。

留学生の妻と乳母は唐人です。息子と赤子は唐人とのあいだに生まれています。戒融の弟子も唐人と思われます」と真楯。

「それが、どうしたのです。

唐が新羅に確かめてこいと言っているのは、留学僧の帰国だけです。

その、なんとかという名の留学僧は、帰国して吉野の寺にいるのでしょう?」と氷上塩焼。

「はい。日本人は帰国しています。ただ日本に帰る途中で海が荒れたそうです。

渤海使を送っていった板振鍵束は、唐の女や僧が乗っているからだと、唐人と唐人の血を引く子供らを海に投げこんで殺しました」と真楯。

「えっ! 荒れた海に投げこんで殺したのですか。

子供まで海に放りこんだのですか?」と左大弁さだいべんで参議の中臣なかとみの清麻呂きよまろが声をあげた。

「生まれたばかりの赤子までです」と真楯が答える。

「よく、そんな野蛮な男を渤海送使にしましたね。

だいたい正七位下の下官を、なぜ送使に任命したのですか?」と中臣清麻呂。

「この男は送使ではありません。

舟を修理するときに役夫を見張らせていた右虎賁うこほんの舎人です。

国が決めた送使は、越前守の恵美薩雄さまに呼ばれて国府に滞在していました。

松原まつばら客館きゃくかんで渤海使の世話をしなければならない送使が、どうして国府にいたのか、舟の修理を見張っていただけの男が、なぜ送使と称して渤海まで行ったのか、その辺の事情は何も報告されておりません」と文室浄三。

「じゃあ今回の新羅からの使者は、その男を唐にさしだせと言ってきたのでしょうか。その男は、今はどうしています」と右大弁うだいべんで参議の石川豊成とよなりが聞く。

「敦賀で捕らえて都へ送り、右虎賁のごくにつながれていたそうですが、これも事情は分かりませんが、そのあと獄を出て近江に居住したと届けられています」と真楯。

「居住? なぜ罪人を解き放って近江に…」と言いかけて石川豊成が言葉を飲んだ。

近江守おうみのかみは押勝で、いまの右虎賁卒うこほんのかみが事件当時の越前守の恵美薩雄だ。

息子が責任を問われる不祥事ふしょうじを起こしたので、押勝が隠蔽いんぺいしたと気づいたからだ。近江に居住と言っても、押勝が所有する鉄穴てっけつの役夫になったのか、あるいは生死も分からないのだろう。

「新羅が来た目的は、その男のことではないと思います」と真楯がつづける。

「日本の留学僧が帰国したかを確かめるために、唐が新羅をつかって問い合わせて来たことが、これまでありましたか? 

これは送使でもない男に渤海使を送らせた、わが国の行政のあやまちと、わが国の官人が罪もない唐人を殺したことを唐に伝えるというおどしです。

新羅の太政官文書には、唐の勅使ちょくしが新羅の西の港に船を泊めて、新羅の勅使の報告をまっている。新羅の勅使は、大宰府の返事を新羅の都で待っていると書かれています。

返事しだいで新羅の勅使が唐の勅使に、唐人を海に投げ込んで殺したことを報告する。唐船は新羅に停泊しているから返事が欲しいということでしょう」と文室浄三。

「いまの唐に余力があるのかは分かりませんが、わが国が新羅へ何らかの動きをみせれば、新羅は唐へ援助を求めると、ほのめかしているのでしょう」と中納言の白壁王。

新羅討伐しらぎとうばつをはじめると、唐に訴えると脅しているのですか」と中臣清麻呂。

「いいえ。新羅討伐はやめるようにと言っているのでしょうよ」と白壁王。

「その新羅討伐のことですが、わたしは太政官となって日が浅く、新羅討伐の審議しんぎには弁官べんかんとしても加わっていませんので、なぜ新羅と戦をすることが決まったのかを知りません。

ただ、わが国は不作つづきで民は飢えています。

こんなときに莫大ばくだいな費用をかけて、六万人の若い農夫を兵士や水手かこにして、なぜ戦をするのでしょうか」と中臣清麻呂が聞く。

「知らないのなら、だまってなさい!」と氷上塩焼が机を叩いて声を荒げた。

「中臣さん。わたしは長く太政官をつとめていますが、新羅討伐の審議には立ち合っておりません」と文屋浄三が静かに言った。

「文屋さまは、物忘れがひどくなられたのでしょう」と塩焼。

「わたしも審議に立ち合っておりませんから、なぜ新羅を討伐するのか存じません」と今度は藤原永手が言った。

永手の発言で、押勝の目が激しく左右に泳きはじめた。

「唐にたのまれたと言っていますし、新羅の太政官文書もんじょをもってきています。今回の新羅の使者は追い返すことができません。

淳仁天皇は外交に不慣れですから、ここは上台さまに報告して指示をいただくのが良いと思います。よろしいですかな。みなさま」と文室浄三。

押勝は動揺を隠そうと、しきりに目をしばたいていたが何も言わなかった。


灯りを少なくした御簾みすの向こうに、尼僧の姿をした孝謙太政天皇の影がある。天皇のうしろには几帳きちょうが張りめぐらされて、向かって右の隅に僧の影が、左の隅に何人かの女官の影がみえる。

内裏までやってきたのは、大師の藤原恵美押勝と、その三男で参議さんぎの藤原|恵美訓儒くす麻呂、中納言の氷上塩焼、大納言の文屋浄三、大納言の藤原永手の五人だ。

文屋浄三が新羅の太政官文書の日本語訳を読みあげたあとで、原書と日本語訳を侍従に渡した。それを侍従が御簾の横から出てきた女官に渡し、女官が御簾の中にもどって孝謙太政天皇に届ける。

御簾のなかが暗いので、人影は分かるが顔の表情は見えない。


保良宮から戻ってから、この面倒なやりとりを孝謙太政天皇は行っている。

保良宮へ行くまえは、押勝は孝謙太政天皇とへだたりなく会って直接言葉を交わしていた。

孝謙太上天皇の母の光明皇太后は、若いころから押勝を家族のようにあつかっていた。孝謙太政天皇は即位したあとで田村第にくらしていたこともある。

光明皇太后が亡くなるまでの孝謙太政天皇は、押勝にとっては扱いやすい年下のイトコだった。

保良宮から帰って出家してから、孝謙太政天皇は御簾をへだてて押勝と会うようになり、言葉を交わすことも顔をみることもできなくなった。

一度、道鏡を退けるようにと進言したことがあるが、返事もなく退出してしまった。しかも、それから御簾のなかの右の隅に、僧の影が映るようになった。

藤原恵美押勝が南家の庶子の仲麻呂でなくなったように、尼僧姿の太上天皇は扱いやすい年下のイトコではなくなった。

やがて御簾の中から女官が二人でてきた。

六十六歳になる飯高笠目と、永手の妻で四十四歳になる大野仲千だ。

仲千が紙を笠目に渡す。

「上台さまのお言葉を代読させていただきます」と笠目が言った。

文室浄三と藤原永手が頭を下げた。

ちんが大宰府に勅使をつかわして、新羅の使いが来日した真意を確かめよう。以上です」と笠目は読みあげると、仲千をつれて御簾のなかに戻った。

すると少納言の山村王が太政官たちのそばに来て、「お見送りさせていただきます。どうぞこちらへ」と五人をうながす。

山村王は重そうで堅そうな体格をして、大きな顔には太い眉と大きな鼻と小さな目がついていて、表情がまったく表にでない。

「どうぞ、こちらから、お引きとりくださいませ」と厚みのある体をおりまげて、もう一度、山村王が太政官たちをうながした。


「みなさま。内裏の外にでられました」と山村王が戻ってきて報告する。

御簾みすを上げなさい」と孝謙太政天皇が命じた。

御簾が巻きあがると、孝謙太政天皇の背後に立てられていた几帳きちょうのうしろから、吉備真備と授刀舎人たちが出てきて、太上天皇と対面する席に移った。

道鏡も移ろうとしたが「そこに控えるように」と太政天皇にとめられた。

それを真備が面白そうに見ている。座をはずしていた侍従と女官たちも部屋に入ってきた。

「真備。これでよいのだな」と孝謙太政天皇。

「はい。勅使を選んで大宰府につかわします。もし大師さまが来られて何かを望まれても、返事はなさらないでください。

いつ、いかなるときでも、大師さまとは一言も話さないで、浄三さまのお教えどうりに必ず簾をへだててお会いください。

授刀舎人は几帳のうしろに控えて上台さまをお守りください。周りの方々も、そのように気を配ってください」と真備が念をおした。


送られた勅使は大宰府で、じつに分かりやすい質問を新羅の使者にする。

「噂では日本が攻めてくると、新羅が海岸線を防衛していると聞くが本当だろうか」

「国が乱れて海賊が多いので、武装兵を徴兵して海岸線の防衛に力をいれている」と新羅の使いは答えた。

「そのことは良く理解した」

そして太宰帥の藤原|恵美真先まさきが、留学僧の戒融が帰国していることを伝えて、新羅使らは帰国した。

このあとすぐに、押勝は真先を都に呼びもどした。真先は参議を兼任しているので太政官に戻り、太宰帥を遥任ようにんすることになった。

吉備真備が帰京して空いていた太宰の大弐だいすけに、押勝は腹心の官人をおいた。

吉備真備が帰京したので、文屋浄三は退職願いを書いて届けたが孝謙太政天皇は受けとらなかった。


八月三日に節部せっぷ(大蔵)しょうの倉庫の一つである、双倉ならびぐらが火事で焼け落ちた。宮城のなかの火事で、倉庫に納めていた国の財物が灰になった。


八月は、もう秋だが残暑がきびしい。五十八歳の押勝はイラついている。

原因は一つではない。暑いし、双倉が焼けたし、遣唐使船は派遣できないし、新羅討伐も見送るしかない。なにもかもが気に入らない。思い通りにゆかないのだ。

それに北家の永手と真楯のようすがおかしい。

太政官のうちで文屋浄三と白壁王は孝謙太上天皇についていて、中臣清麻呂と石川豊成は中立していた。そこに北家の二人が中立として加わると、弟貞と巨勢麻呂を失った押勝は押されぎみになる。

押勝の手には、次男の真先、三男の訓儒麻呂、四男の朝狩と、氷上塩焼の四人の太政官しか残っていない。

こうなれば早く淳仁天皇に詔をださせせて摂政せっしょうになりたいのだが、そのまえに内裏に居すわったままの孝謙太政天皇を何とかしなければならない。

押勝は美濃みの国にいる九男の執棹とりさおと、越前えちぜん国にいる八男の辛加知しかちに、現地で兵をあつめるようにと手紙で指示をした。



八月十一日。

「まったく、夕方になっても暑いですな」と文室大市ふんやのおうちが言う。大市は正四位上の出雲守(遥任)で五十九歳になる。

「浄三さんは、まだ内裏におられるのですか」と従三位の中納言で五十五歳の白壁王。

「さすがに、もう邸に戻っているでしょう」と大市。

「よく、やってくださいますねえ。内裏に顔をだして監視の目を一人でひき受けてくださるので、われわれが動きやすい」と白壁王。

「兄も七十一歳ですからねえ。もうムリはできません。命とりになります」と大市。

「だから太政天皇の黒幕だと分かっていても、大師も手ぬるいのでしょうよ」と白壁王。

「ポックリいくのを待っていると。イヤなことを言いますねえ」と大市。

「わたしではなく、押勝が考えそうなことを口にしたまでです」と白壁王。

淡海おうみの三船みふねさまがみえました」と邸の従者が案内してきた。

「これは大市さま。白壁王。坂合部さかいべ女王のご容体はいかがですか」と淡海三船が席につくなり聞いた。

三船は従五位下の四十四歳で、七日まえに美作みまさか(岡山県東北部)のかみに任官されたばかりだ。

博識という評判が高くて還俗げんぞくさせられた淡海三船は、「奈良麻呂の乱」の直前に投獄されて孝謙太政天皇のそばから離された。そのあとは位階もすえおきのままで文部もんぶ式部しきぶ少輔しょうすけをやらされていた。

「歳をとりましたが元気ですよ。あとで会ってやってください。

あなたが来るというので、朝から待ちかねていますから大喜びします」と大市。

「姉は、三船さんが好きですから」と白壁王。

「どういうことです。坂合部女王が危篤きとくで、わたしに会いたいとおっしゃっていると知らせをいただいて、取るものも取りあえずにまいりましたのに」と三船。

「あなたに会いたかったのですがね。

あなたは大師に嫌われていて、こっそり会うとカンぐられるかもしれないでしょう。だから密談の場所に困って、妻に危篤になってもらって、あなたが来ることも役所に届けました」と大市。

三人は大市の妻の坂合部女王の邸にいる。

白壁王と坂合部女王は、天智天皇の息子の志貴皇子の子で異母姉弟だ。淡海三船は天智天皇の夜叉孫やしゃまごになるので、天智系の縁族になる。

「密談の場所? なにか、わたしに、ご用でしょうか」と三船の表情がかたくなった。

「兄の浄三が、吉備真備さんを上台さまの軍師としてむかえました。

その吉備真備さんから、あなたにお願いがあるそうです」と大市。

「上台さまの軍師? どういうことです。

わたしは政争に加わるつもりはありません。どの閥にも属す気がありません」と三船。

「わたしも政争を好みませんので、頭を丸めています。

そろそろ真備さんがみえるはずですから、本人に聞いてください」と大市。

「いらっしゃいました」とちょうど真備を案内して、坂合部女王邸の従者がきた。

「遅くなりました。これは淡海三船さん。お久しぶりです」と目を細めた真備が、しばらく三船の姿を眺めて「よし」というようにうなずいた。

こうして姿を見て、相手をはかるのが真備のクセだ。

「では、さっそくですが本題に入ります。

淡海三船さん。美作守に任官されたそうですが、任地に行くまえに溜池ためいけを掘ってくださいませんか?」と真備。

「はい?」と三船。

「ここ何年か気候不順がつづいています。今年も旱魃かんばつで、すぐにでも田に水をひく溜池が必要です。

任地へ行かれるまえに溜池の用地として適当な場所をえらんで、作り方を百姓たちに教えていただきたい」と真備。

「はァ・・・?」と三船が不審そうな表情をした。

「そこで淡海三船さんには、溜池ためいけのつかさとして近江国おうみのくに(滋賀県)へ行っていただきます。三人の役人と現地の百姓を五十人まで役夫えきふとして使役しえきできるように手配しておきます。

すぐに溜池は必要ですので、畿内きない丹波たんば(京都府中部から兵庫県東部)と播磨はりま(兵庫県西南部)にも溜池司をやります」と真備。

「溜池が必要なことは分かります。喜んで溜池を造りにまいりますが、どうして、このような形で、わたしだけを呼びだして頼まれるのですか。

それに近江には琵琶湖びわこがあります。琵琶湖は真水です。

溜池を掘るより琵琶湖から水を引いたほうが早いでしょう」と三船。

「ほかの方たちにも別個にお話しします。用水路を引くか溜池をつくるかは、お任せします。

そこでです。もしもの話ですが、もしも都に事変が起こると、三関さんげん愛発関あらちのせき不破関ふわのせき鈴鹿関すずかのせき)が閉じられます。

三関のうちの、愛発関は琵琶湖の北の越前国の山中に、不破関は、琵琶湖の東岸から東山道とうさんどうを行った美濃国みののくにに、鈴鹿関は、その先の伊勢国にあります」と真備。

「はい」

賊軍ぞくぐんが都から逃亡するときは、関を目指して近江に来るでしょう。

これから溜池造りをする地方は、どこも要所ですが、近江が一番、アタリだろうと思います。

しかも近江は、長いあいだ大師さまが国守をされている国です」と真備。

「真備さん。なんの話ですか?

賊軍が都から逃亡するとおっしゃいましたが、どこに賊軍がいるのですか?」と大市が聞く。

「もしも・・・の話をしています。

たまたま三船さんが溜池か用水路を造っているときに、もしも賊軍が近江にきたらの話です」と真備。

「わたしが用水路を掘っているときに、もしもですか」と三船。

「もしも、です。そのときは三船さん。

反逆者が都から逃げたという詔勅しょうちょくのいずれかが、上台さまから各国府こくふに届きます。

太政官と弁官べんかんの署名と内印ないいん(天皇御璽)が押された詔勅です」と真備。

「内印が押された上台さまの詔勅が?」と三船が聞きかえした。

内印は中宮院にいる淳仁天皇が持っていて、孝謙太政天皇は使えないはずだ。

それに内印が押された詔勅は朝廷に保管されて、地方の国府に届くことはない。

「詔勅が届いたら、三船さん。あなたの気転で、できるかぎり賊軍の逃亡を防いでいただきたい。ただ役夫の百姓たちは一人も傷つけずに守ってほしい」と真備。

淡海三船が腕を組んで考えはじめた。大市も白壁王も同じように考えている。

藤原恵美押勝を倒すためには、まず淳仁天皇を無力にしなければならない。そのためには天皇の印である内印ないいん駅鈴えきれいを淳仁天皇から取りあげて、淳仁天皇を廃帝にするのが一番手っ取り早い。

それが文室浄三と大市と白壁王が考えた結論だが、吉備真備に話したら気安く請け負ってくれた。だが、まだ、どうやって内印と駅鈴を取りあげるのかも決まっていない。

それなのに真備は、押勝が賊軍になって都から逃げるときの話をしている。

しかし、ほんとうに押勝が都から逃げるような事態になったら、近江を目指すだろうということは見当をつけられる。

なにかを思いついた白壁王が、真備を横目で眺めて口元に笑みをつくった。

「近江に来るのが誰であれ、朝廷にそむいて都から逃げた反逆軍ですね」と三船がただす。

「はい」と真備。

「反逆軍が出たという天皇玉璽てんのうぎょじが押された詔勅が届くのですね」と三船。

「はい。それぞれの国府にとどきます」と真備。三船が組んでいた腕をほどく。

「それなら、わたしは官吏として当然のことをするまでです。

心構えのために一つおたずねしますが、それは、いつごろのことか分かりますか?」と三船。

「すでに陰陽寮おんみょうりょう大津大浦おおつのおおうらという陰陽師が、九月十一日前後という予測をしています。わたしの宿曜しゅくようでも、そのころだろうと思います」と真備が言った。

「あと一月もありませんねえ。三船さん。近江に土地勘はありますか」と白壁王。

「いいえ。保良宮から先へは行ったことがありません」と三船。

「わたしは多少知っています。

近江国府には、大師の代理で、これまですけ(副官)の阿部小路あべのこみちがいました。この正月の任官で、阿部小路は左少弁さしょうべんになって都に戻り、いまの介は着任してから半年しかたっていません。

近江の鉄穴てっけつの管理をまかされている、高嶋郡たかしまぐん豪族ごうぞくは大師の配下です。

ただ、ほかの近江おうみ群司ぐんじたちは、着任して半年しか経たない介の言うことに大人しく従わないでしょう。

近江国は、ほとんどを琵琶湖が占め、残りは湖畔にある狭い土地と山だけという特殊な地形をしています。

湖を行き来する郡司ぐんじたちの連携が強いのです。

溜池造りをされるのなら、高島郡以外の群司を頼られることをおすすめしますよ」と白壁王が助言した。


八月十四日。朝廷は溜池を造るために、大和やまと(奈良県)、河内かわち(大阪府東部)、山背やましろ(京都府南部)、近江おうみ(滋賀県)、丹波たんば(京都府中部と兵庫県東部)、播磨はりま(兵庫県西南)、讃岐さぬき(香川県)へ溜池造りの司を送った。淡海三船も近江に入った。

こういう地味な仕事への辞令じれいは、藤原恵美氏の若い太政官たちは聞き逃したり読み飛ばしたりしていて、押勝の耳にはとどかなかった。



九月一日に藤原恵美押勝が内裏にやってきて、孝謙太政天皇に奏上した。

「わたしは都督使ととくしとなり、兵士を掌握しょうあくして自衛じえいしようとおもいます。

諸国の兵を試練する法がありますから、その法で定められているように、畿内の兵士を国ごとに二十人づつ、五日交代で都督府ととくふにあつめて検閲けんえつしたいとおもいます」

御簾のなかの孝謙太政天皇はなにも答えずに、道鏡と女官をつれて退席してしまった。

押勝が内裏を去ったあとで、孝謙太政天皇は大納言の文室浄三と吉備真備を呼んだ。浄三は弟の大市と中納言の白壁王をつれてきて、この日、内裏にいるすべての女官や侍従を集めた。

「都督使とはなにであろう」と御簾をあげさせて、浄三たちを近くに招いた孝謙太政天皇が首をかしげる。

「さあて、大宰帥のことを都督と呼ぶこともありますが、畿内の兵を集めるというから、ほかにも意味があるのでしょうか」と浄三が真備に聞く。

「都督は、大陸では地方の兵を統括する軍監ぐんかんのことです。多くは国境に置かれます。

おそらく地方から徴兵することだと誤用ごようしたのかもしれません。訂正してくるでしょう。

ちょうど稲穂がつき始めたころです。これから収穫まで忙しくなるのに、徴兵される百姓には迷惑なことでしょうな」と吉備真備。

「大師が自らが畿内から都に兵を集めて訓練するのは、どうしてだろう」と孝謙太政天皇。

「武力を見せつけて上台さまを脅かすつもりでしょうかな」と浄三。

「なぜだ?」と孝謙太上天皇。

「内裏から退去させて軟禁なんきんでもするのでしょう。そのあとで毒殺ですかな」と浄三。

「軟禁? 毒殺? 朕を?」と孝謙太上天皇。

「動き始めるのを待っていましたから大丈夫、ご安心ください。

これまでの勝手なやり方をみていますと、必ず、ほころびがでるはずです。

押勝が小細工をすれば、今回は軍事に関することですから反逆行為にできるかもしれません。

上台さま。わたしは、これを太政官会議で許可するのを最後の仕事として、引退させていただきます」と浄三。

「いよいよ離れるのか。顔を見ることができなくなるのが、さびしい」と孝謙太政天皇。

最後まで裏切らずに支えてくれた文屋浄三の存在は、孝謙太政天皇に大きな自信をあたえていた。

「わたしへの連絡と、わたしの代わりに弟の大市をお使いください。

上台さま。そして、みなさん。聞いてください。

いま、まさに大きな政変が起ころうとしています。

船頭が何人もいては舵がとれません。

嵐を抜けるために、これからは吉備真備さんを軍師と仰いで、全員が真備さんの指揮に従ってください。

真備さん。遠慮なく白壁王や大市や、ほかの方々をお使いください」と文屋浄三。

 

孝謙太政天皇は天武てんむ天皇の夜叉孫やしゃまご(孫の孫)だが、文屋浄三と大市は天武天皇の孫。白壁王は天智てんじ天皇の孫になる。

「大化の改新」を起こし、「大宝律令たいほうりつりょう」を作り、日本を律令国家にしようとした二大天皇を祖父にもつ皇嗣系官僚の三老が、吉備真備を前にうながした。

正四位下の造東大寺司で六十九歳になる吉備真備はヒョイと立ちあがって前にでると、孝謙太政天皇に拝礼をしたあとで皆の方に向きなおる。

いつもと変わらないヒョウヒョウとした父の姿に、女官の由利は胸が熱くなった。




       ○ 孝謙太上天皇


         大納言 文室浄三

         出雲守 文室大市

         中納言 白壁王――――無位 山部王

             

      造東大寺司  吉備真備

             

          侍従 藤原雄田麻呂(式家)

          侍従 石上宅嗣(左遷)

          侍従 奈貴王

         少納言 藤原蔵下麻呂(式家)              

         少納言 山村王


          無位 藤原宿奈麻呂(式家 都追放)

     怡土城の営城監 佐伯今毛人

         薩摩守 大伴家持(左遷) 

       

    近江国の溜池造司 淡海三船       

     


     太政官 左大弁 中臣清麻呂

     太政官 右大弁 石川豊成


         大納言 藤原永手(北家)

         中納言 藤原真盾(北家) 



         ○大師 藤原恵美押勝   


          淳仁天皇


         太政官 恵美真先(二男)母・北家

         太政官 恵美訓儒麻呂(三男)母・北家

         太政官 恵美朝苅(四男)母・北家

        右虎賁卒 恵美薩雄(七男)

         越前守 恵美辛加知(八男)愛発関 母・陽候女王

         美濃守 恵美執棹(九男)不破関 母・北家

         

         中納言 氷上塩焼     

             陽候女王(妹)


         









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