五  戒厳令下の蠢動  藤原仲麻呂の時代


七五七年(天平宝字てんぴょうほうじ元年)から七六一年(天平宝寺五年) 


百済くだらのこにしき敬福きょうふく交野かたのの別荘に、白壁王たちがきている。

「なんとも後味が悪い。イヤですね。イヤです」と敬福が、庭の東屋あずまや杏子あんずざけをあおった。

「あなたも獄舎ごくしゃに捕らえられた方を、じょう(板)で殴りましたか?」と白壁王。

「とんでもない。わたしは長く陸奥むつのくに(東北地方)に赴任していましたから、これでも武芸は少しできます。馬も乗れます。でも、しばられた人は殴れません。ふつう殴れませんよ。そうでしょう。

ですから獄舎の警備を担当しました。獄舎です。人ではなく建物の警備です」と敬福。

「ズルいですね。じゃあ船王や、藤原永手ながてさんが尋問を監督をしたのですか」と白壁王。

「船王だけでしょう。船王が張り切ったのでしょうよ。

永手さんは途中で倒れて、邸に運ばれたそうです。

永手さんの母君は、橘諸兄さんの妹の牟漏むろ女王です。橘奈良麻呂とはイトコですよ。お気の毒です。

ところで、ですね。殴り殺すような尋問をして自白しましたね。自白した証言は本物ですか」と敬福。

「はい?」

「最初に自白した小野東人あずまびとの話。あれは本人がしたものでしょうか?」と敬福。

「本人じゃないなら、だれが自白したのです」と白壁王。

「証言というのは、あてになりません。あてにならないものですよ。たとえば、ホラ、あそこに山部王が見えます。はっきり見えますね。よく見ましたか。白壁王。

じゃあ、チョット目をつぶってください。山部王が話している相手は、どんな人ですか」と敬福。

「相手? …そう。若い女性ですね」と白壁王。

「どんな服装をしています」と敬福。

「青っぽい上着を着ていますか」

「自分で見てごらんなさい。

相手はウチの老僕ろうぼくです。老僕。着物の色は茶色。これが、ふつう。

覚えようとして見たのではなく、なんとなく目にした。それだけですとね。急に聞かれても分かりません。ふつうは分かりません。

ところが今回の人たちはですね。別々に尋問したのに、最初の小野東人とですね。あとから尋問された人たちの証言が同じ。まったく同じです。

薄暗い月明かりのなかで見たのに、服の色まで同じです。

まるでお手本があってですね。書き写したみたいにです」と敬福。

「手本ねえ。例の田村記たむらきですか」と白壁王。

「仲麻呂が田村記に書いていたことをつなぎ合わせて、自白としてですね。公表したとすればですね。すべて同じでも、おかしくないでしょう。

船王は田村記を調べました。隅々まで調べましたからね」と敬福。

「船王が自白の草案そうあんを作ったというのですか」と白壁王。

大炊おおい皇太子が即位すれば、仲麻呂の思いどうりです。仲麻呂の天下です。国を思う官人が集まって嘆くのは当たりまえ。

かれらと皇位継承権のある王たちは、はめられたのですよ。

きっと小野東人も、ほかの方たちもですね。話すどころではなく撲殺されたのでしょう」と敬福。

「そんな恐ろしい。

でもね。敬福さん。まったく根も葉もないところから、話を作ったわけではないでしょうよ。今の体制に不満を持っている官人が、仲麻呂を殺そうとする計画はあったのでしょう」と白壁王。

「でも決行日は七月二日です。それなのに武器が見つかっていない。どこからも出てきません。馬もいません。人もいません。武器も兵も馬もなしで、反乱は起こせないでしょう。起こせますか?」と敬福。

「決行すると、決まっていなかったのではありませんか。

仲麻呂を殺して、光明皇太后が保管されている天皇御璽や駅鈴をいただき、仲麻呂の傀儡ではない男性天皇を立てたいと話し合っていたでしょう。

それを嗅ぎつけた仲麻呂が、天皇を田村第にとどめて、謀反に作り変えたのかもしれませんがね。

イヤな時代が、はじまりそうですね」と白壁王。

「目立たず、おとなしくです」

「そうですねえ。ここへ来るのも控えたほうがよろしいかな」と白壁王。

「交野までは、さすがに」

「でも、ここには都に一番近い駅家がありますよ」と白壁王。

「まあ、みなさん。疑心ぎしん暗鬼あんきになりますね。身近な人を疑います。いやな世がはじまりますねえ。

藤原仲麻呂が、天皇を操る暗黒の時代ですよ。イヤですねえ。イヤです」と敬福がため息をついた。



田村第から内裏にもどった孝謙天皇は、八月になっても興奮がしずまらなかった。

怒りを爆発させたり、胃腸の痛みや頭痛をうったえて眠らずにイラついたり、反対に意識を失ったように長く眠りつづける。

八月二日には、乳母までが反逆者と内通していたと仲麻呂から聞かされて、ますますイラつきがひどくなった。

眠れない夜に、獄死した黄文王の名をクナタブレ(たぶらかす者)、一度は皇太子にして獄死した道祖王をマドイ(迷ってばかりいる者)、おなじく獄死した加茂かもの角足つのたりをノロシ(のろま)などと名をつけて、孝謙天皇は自分のみことのりにその名を使った。

詔勅しょうちょくは天皇令を伝えるもので、詔には中務なかつかさのかみ太政官だじょうかんたちが署名し、勅には弁官べんかんが署名するが、どちらも天皇のことばを聞いて内記ないきという役人が草案(下書き)をつくる。

これまでの孝謙天皇の詔勅は、仏教の教えが加えられているが、内記の手が加わっている分かりやすい文体でまともだった。天皇御璽(内印)をあずかっていた光明皇太后が、印を押すまえにチェックしていたからだ。

それが「橘奈良麻呂の乱」のあとからは、クドクドと同じことをくりかえし、拷問死した王たちの名をいやしめ、ヤツ、ヤツラなどの下品なことばが使われる感情的な文体に変わってくる。

考謙天皇は人の名前を変えるのが趣味という、大人になりきれない幼稚さをもっていた。それを詔勅で自ら白日はくじつのもとにさらけ出してしまった。



八月十三日に駿河国するがのくに(静岡県中東部)から、かいこが文字の形に卵を産んだという祥瑞しょうずいが報告された。この蚕の卵は宮中に献上けんじょうされたが、「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」と小さな卵がならんでいる。文字が読めない庶民でさえも、人が読めないむずかしい文字の形に、おカイコさんが卵を生んだという話を信じる人はいない。

しかし孝謙天皇は、この文字の意味を群臣に議論させる。

「五月八日は聖武太政天皇の一周忌のために、帝が行った法会ほうえが終わった日です。この日に帝釈天たいしゃくてんが、帝と皇太后の誠意をほめて天の扉をあけ、帝の御代みよが百年もつづくことを表したものです。大きな祥瑞しょうずいです」と、殴り殺されたくない役人たちは解釈した。

この祥瑞を孝謙天皇は、かなり本気でよろこんだ。

蚕の卵が届けられた日から、天皇の詔勅がガラッとかわる。

クドクドしくて幼く感情的な文体から、やはりクドクドしているが中国の古例これいを引いて説明したあとで、その古例があるから、こういうことを決めるという形になる。この詔勅の変化に、官人たちはきもを冷やした。

マドイやノロシにヤツラという言葉を並べる詔勅もこまったものだが、ヘリクツが得意で唐風が好みの仲麻呂の化身けしんのような詔勅は「こまった」ですむものではない。

詔勅は国の根幹こんかんに関わることを決めることができて、それが、そのまま法になる。

詔勅には太政官や弁官の自署が必要だが天皇は自署しない。自署に代わるのが天皇御璽てんのうぎょじ(内印)を押すことだ。

仲麻呂が、孝徳天皇に代わって詔勅をだしはじめた。



光明皇太后も危機を感じて、法華寺ほっけじに女官の飯高いいだか笠目のかさめを呼びだした。伊勢の采女うねめとして宮中にあがった笠目は、采女出身としては異例なことだが女官になり従五位上を授けられている。

「蚕の卵が字を書いたという祥瑞をだしたなら、大炊皇太子が即位する日が近いのだろう。そのようなことを仲麻呂は言ってきていないか」と光明皇太后が聞く。

「はい。皇太子が即位しても、帝が太上天皇だじょうてんのうとしてまつりごとを行えばよいから、さきの大逆の事件から一年がたったら皇太子に譲位じょういして欲しいと言っておられます」と笠目。

「太上天皇が政を行えばよいと言ったのだな」と皇太后。

「はい」

「ほかに、なにかおぼえていないか」と光明皇太后。

「たしか…皇太子に立てるときに、大炊王は養子のようなもので、なんでも言いなりになるから傀儡かいらいとして立てるだけだと、おっしゃったことがございます」と笠目。

「傀儡と言ったか。言葉をつくして、かき口説いたのが使えるかもしれない。

笠目。そなたは何代の天皇に仕えた」と光明皇太后。

「四代でございます」

「何年、内裏だいりに住んでいる」

「四十・・・二年になります」と笠目。

「女官は天皇が代わっても内裏に住み続ける。内裏と女官は切り離せない。

四代の天皇に忠実につかえて信頼をえているおまえに、むずかしいことを頼みたい」と皇太后。

「なにでございましょうか」

「大炊皇太子に譲位したあとも、退位した帝が内裏に住めるように力をかしてほしい」と皇太后。

「太上天皇になられたあとも、内裏に住まわれるようにでございますか?」と笠目。

「大炊は、即位すれば天皇として内裏に入る。内裏と供に生きる女官は、次の天皇に忠実につとめるのが職務だ。

それを知ったうえでの頼みだ。腹を割って話そう」と光明太上天皇が座り直した。笠目も居住まいをただす。

「わたしは藤原一族のために生涯をついやしてきた。そのために仲麻呂を重用して、非道な手段をもちいるのも黙認した。

それが藤原一族の存続のために、欠かせないことと思っていた。わたしは藤原一族が、臣下で最上の氏族として繁栄はんえいすることを願った。

だが、笠目。大炊が即位したあとの朝廷はどうなるだろう。

大炊は傀儡だと仲麻呂はいっている。その大炊に皇位をつがすために、皇位継承ができる諸王たちを仲麻呂は無残に殺した。

仲麻呂は、自分の野心を満たすことしか考えない冷酷な男だ。

これから先は、どうなると思う」と光明皇太后。

「・・・」

「なにを言ってもとがめない。正直な意見を聞かせて欲しい」と光明皇太后。

「平穏な時代ではなくなりましょう。また反逆するものが出るかも知れません」と笠目。

「仲麻呂の傀儡である大炊が皇位にいるぎり、仲麻呂に反抗すれば大逆罪にされるだろう」と光明皇太后。

「そうでございますね」

「このまま大炊が即位すれば、天皇御璽は大炊の手に渡り、仲麻呂は帝を必要としなくなるだろう。

しかし大炊と仲麻呂を良く思わない者たちに担がれやすい立場に、帝はおかれることになる。仲麻呂はジャマ者を消す。

だから帝に、抵抗できる力を持たせたい」と皇太后。

「それが太上天皇になっても、内裏に住み続けられることですか?」と笠目。

「宮城の東の地域にある内裏は、南に大極殿だいごくでんをもち、その南に朝堂院ちょうどういん(太政官院)をそなえている。天皇が政務を執るために造られている」と皇太后。

「はい」

「いま大炊が住んでいる中宮院は、大極殿や朝堂院や八省はっしょうとは塀で区切られて、宮城の中央部に建っている。中宮院にいれば政務は執れない」と皇太后。

「分かります。内裏に住みつづければ、退位されても帝を軽んじることができません」と笠目。

「仲麻呂は、かならず大炊に内裏を譲れと言ってくる。

そのときは太上天皇になっても政を執れと言ったことや、大炊は傀儡だと言うことを持ち出して、決して内裏を明け渡すな。

もう一つ帝を守れるのものは、大炊は傍系ぼうけいだということだ。

帝は、正統な草壁皇子くさかべおうじの血をついでいる。

聖武太上天皇がお認めになり、天皇として即位された真の帝である」と光明皇太后。

「はい」

「大炊は、帝が引きたてて皇太子にした傍系の身であるから、たとえ皇位を継いだあとでも不審ふしんのことがあれば廃位させるてもよいと、聖武太上天皇がおっしゃり、わたしが聞いた」と光明皇太后。

笠目は返事をせずに、皇太后を見返した。

「さすがに忠臣だ。おまえに嘘は通じないな。

笠目。聖武太上天皇は、草壁皇子の血統にこだわる皇位継承を嫌っておられた。

こんなことを言い残されるはずがない。

わたしは浅学せんがくで、なぜ草壁皇子の血統が尊ばれるのか分からない。

草壁皇子は病身で、政務を執られたこともなく、即位されることもなく、息子を一人と娘を二人残して若くして亡くなられた。実績も功績もないお方だ。

草壁皇子の母君の持統じとう天皇が、我が子とその子孫に皇位を継承させたいと願われたのだろうことしか、わたしには分からない。

だが帝を守るためには、草壁皇子の血統だけが正統だと帝に言い聞かせよう。

そうすれば、内裏と草壁皇子の血統が帝の身を守る」と光明皇太后。

「皇太后さま。たとえ皇位を譲られたあとでも、新帝を廃位はいいさせても良いと、ほんとうに聖武太上天皇がおっしゃったと伝えられるおつもりですか?」と笠目。

「言い聞かせて、帝を信じこませるつもりだ。おまえは忘れるように」と皇太后。

「忘れることはできませんが、口にしないのが女官でございます」と笠目。

「頑固者だ。今回の橘奈良麻呂たちの件で、諸臣の心は帝からはなれただろう。

くだらない詔をだし、蚕の卵が書いた祥瑞を喜び、バカにもされているだろう。

わたしでさえ、あの娘は天皇の重責じゅうせきになえる器ではないと思う。

だが聖武太上天皇のお言葉だと言って草壁皇子を持ち出せば、大炊を押えられるだろう。

わたしが仲麻呂を増長させた。仲麻呂を止めなければ、聖武太上天皇に申し訳がない」と皇太后。

「皇太后さま。わたしは内裏のあるじに仕える女官です。

どなたが住まわれても忠実にお仕えいたします。いまは帝に仕えております。

帝には、政務を執るおつもりなら、譲位をされたあとも内裏を離れないようにと進言させていただきます」と、しばらくして笠目が言った。

「承知してくれるか」と光明皇太后。

あがた犬養いぬかいのたちばなの三千代みちよさまを拝見したことがございます」と笠目。

「母を知っていたのか?」

光明皇太后と、異父兄弟になる橘諸兄もろえと橘佐為さい牟漏むろ女王の母の三千代は、持統じとう天皇、元明げんみょう天皇、文武もんむ天皇の三代の天皇に仕えた女官だった。

「まだ仕事に慣れない采女でしたから、お姿を拝見して学ばせていただきました。

仕事ができれば女性でも重く用いられることができると、深い感銘をうけました」と笠目。

「笠目。ときどき訪ねてきて娘のようすを教えてくれないか」と五十六歳になる光明皇太后が言う。

「はい。寄せていただきます」と五十九歳になる飯高いいだか笠目のかさめが答えた。



七五八年二月二十日。

孝謙天皇の勅で、禁酒令と集合禁止令が再び発令はつれいされた。

酒は祭祀さいしと病気の治療のときをのぞいては、飲んではならない。

親族、知人、友人、同僚を訪問するときは、前もって所属の官司の許可を必要とする。

違反者は、五位以上の者は一年間の封戸ふうこ(給料)の停止、六位以下は現職を解任する。それ以外のものはじょうで八十回叩く罰をうける。

これは軍事権を握った仲麻呂が、個人の自由な生活を抑制した戒厳令かいげんれいだった。

これより官人たちは親族を訪ねるときも、所属している所管の許可をとるようになった。



二月二十九日。

こんどは、大和の三輪山みわのやまの藤の木の根元に、「王大則仠天下人此内仁太平臣守昊命」と字の形に、虫がかじって穴をあけたものが祥瑞として上奏された。

博士たちが集まって「臣下が天下を守り、王の大きな法則に心をあわせている。内政をこの人にまかせれば天下は太平だろう」と解読した。そして虫が喰った木が、藤原氏にゆかりのある三輪山に生えている藤の木だったから、天下を守る臣下とは柴微内相の藤原仲麻呂のことを指しているとも言った。

「卿たちは自らをいましめ、神の教えを敬い、職務をまっとうし、ちんとともに良い政治をおこなおう」と、その解釈を聞いたあとで孝謙天皇は勅をだした。

祥瑞しょうずいは自然現象が起こす素朴なもので、天皇の治世を祝うものだ。

「天下泰平」の文字が天井に書かれたり、人が読めない漢字の羅列られつに、蚕が卵を産んだり虫が喰ったりするものではない。臣下をたたえる祥瑞などもってのほかだと、誰しもがそう思った。

だが、そんな見え透いた小細工も、孝謙天皇が勅をだして祥瑞にしてしまうと、ありがたい天啓てんけいとして受け入れなければならない。

すべての人が口をつぐみ、恐怖と猜疑心が支配する時代が到来した。



八月一日。

「橘奈良麻呂の乱」から一年が過ぎた。

二十五歳の大炊皇太子が大極殿だいごくでんで即位をした。のちに淳仁じゅんにん天皇と諡号しごうされる天皇だ。

即位の儀では、明皇太后の手から天皇御璽てんのうぎょじ(内印)と駅鈴えきれいが淳仁天皇にわたされた。


淳仁天皇が即位したあと、臣下と僧綱そうごう(僧尼を管理する僧侶の官職名)が孝謙天皇に上台じょうだいという尊称を送った。正確には上台じょうだい宝字ほうじ称徳しょうとく孝謙こうけん皇帝こうていという。

唐風好きで、漢字を並べるのか得意な仲麻呂がやらせたことだが、いままでどおり太政天皇と呼ぶほうが分かりやすいのに、長ったらしい名前の最後に皇帝がついている。

日本では天皇が国をおさめるが、唐では国をおさめる人を皇帝と呼ぶことは官人なら知っているから、淳仁天皇と上台皇帝がいることが、まず理解できない。

これからも政務をとるつもりの孝謙太上天皇も、皇帝という立ち位置が分からず、自分で高野たかの天皇と名乗りはじめる。

こうなると天皇が二人いることになる。

詔勅の草案をつくる内記ないきは天皇の日常も記録しているが、書くのに困って帝と天皇という二つの名称を使うことになった。

そして新しい尊号が送られたから役所の名も変えると、上台で高野天皇の孝謙太上天皇が詔をだした。

律令で決まっていた八省の名と、八省に属する職場の名と、それぞれの役職の名がすべて唐風に変わってしまった。

一夜にして、これまでの伝統的な日本名が外国名に変わってしまったのだから、官人は自分の役所の名と上官の職名をおぼえるだけで精いっぱいで、ほかの役所の名まではおぼえきれずに仕事が混乱しはじめる。

そのうえ仲麻呂は、官人たち個人の名までを漢風に変えるようにと言い渡した。



法華寺に、飯高笠目がやってきた。

施薬院せやくいん(薬を与えて病を治す病院)や悲田院ひでんいん(老人や孤児を養う施設)で、多くの人が中台ちゅうだいさまの、ご恩恵にあずかっております」と笠目。

「今更だが、しないよりは良いと思っている。変わりはないか」と蹲踞つくばいの水で手を洗ってから、部屋に入ってきた光明皇太后が聞く。

上台じょうだいさまは、お変わりございません。

女官たちの長官かみである尚蔵しょうぞう尚侍しょうじが、藤原宇比良古うひらこさまに決まりました」と笠目。

「宇比良古。北家の永手ながての妹で、仲麻呂の妻の宇比良古か。

大炊皇太子について田村第から来た者に、いきなり尚蔵と尚侍の両方がつとまるのか」と光明皇太后。

「さあ…」

「宇比良古は、今は、どこに住んでいる」と皇太后。

「淳仁天皇が皇太子になられたときから、中宮院におられます」と笠目。

「中宮院には、尚持と尚蔵が執務できる部屋はないだろう。

尚蔵や尚侍の仕事は、これまでどうりに内裏でおこなえ。

宇比良古には、あとで報告だけすれば良い。

中宮院に仕える女官の管理だけをまかせて、内裏のことは宇比良古に口出しをさせるな」と皇太后。

「はい」

「太政天皇を上台とよび、わたしを中台ちゅうだいとよぶ。

八省の名を漢風に変える。そんな、やり方は、いつかは、こわれるだろう。

わたしのことは、今までどうり皇太后と呼んでほしい」

「はい」

「笠目。わたしは疲れた。いつまで生きていられるかも分からない。

わたしが死ねば、仲麻呂は太上天皇を滅ぼすだろう。すべての責任は、わたしにある。こうして仏と向きあっても悔いばかり残る人生だ。

たった一人の我が娘が、心の底から笑う姿さえ、わたしは見たことがない」

藤原四家の始祖の四兄弟が亡くなってから、残された藤原一族を守った女傑がさびしそうにつぶやいた。



八月二十五日に、孝謙太政天皇の勅で仲麻呂は大保たいほになった。

大保は日本では始めてつかう役職名で律令りつりょうにはないが、とうの国の大臣のことらしい。

そして広く恵みをもたらす美徳をもつからと、藤原の氏に恵美を加え、橘奈良麻呂たちの反乱を未然におさえたから押勝という名をもらった。

藤原南家の庶子だった藤原仲麻呂は、藤原ふじわら恵美えみの押勝おしかつになって、藤原一族とはべつの藤原恵美氏の家長になった。

ほかに功封こうふ三千戸、功田こうでん百町という、大臣(二千戸)より多い高給をあたえられる。そのうえ銭を鋳造ちゅうぞうする権利と、稲を出挙すいこ(利子を取って貸し付ける)する権利も与えられた。

米は金銭とおなじ価値があるから、これは銀行と造幣局ぞうへいきょくを私物として与えたようなものだ。だれが考えても銭の鋳造と稲の出挙は国家がもつ権利で、一臣下が持ってよいものではない。

大保の藤原恵美押勝となった仲麻呂は、このときに臣下の域をこえた。



淳仁天皇の即位で少し祝賀モードになったときに、藤原式家しきけは祝いごとをした。

家長の宿奈麻呂すくなまろ阿部古美奈あべのこみなの縁組の祝いだ。

宿奈麻呂は従五位上で四十一歳の民部少輔みんぶのしょうすけ。阿部古美奈は二十四歳。古美奈は父を亡くしていて家長の兄は従六位下で目立たず、親族の家に行くのにも届けがいる窮屈きゅうくつな時代だが、警戒されずに集合の許可が下りた。

集まったのは、宿奈麻呂の四弟の田麻呂(三十六歳)、五弟の雄田麻呂(二十六歳)、六弟の蔵下麻呂〈二十四歳)、甥の種継(二十一歳〉、宿奈麻呂の次女の諸姉もろね(十九歳)、三女の人数ひとかず(十九歳)、雄田麻呂の母の若女(四十六歳)、種継の母のアヤ(三十八歳)たちの、ほんとうに身近な親族だ。

宿奈麻呂の娘の諸姉は、叔父になる雄田麻呂の夫人になって、隣の雄田麻呂の邸に住んでいる。男性が女性の家を訪れる通い婚だが、正妻は夫と同居することがある。

「雄田麻呂。諸姉が押しかけて住みついているが、ジャマなら引き取る」と宿奈麻呂。

「よけいなこと言わないでよ。わたしは、もうすぐ宮中に出仕するの。

だから、いまは少しでも長く雄田麻呂さんと一緒にいたい。ジャマしないでよ」と諸姉。

「人数。ほかの娘たちは元気か?」と宿奈麻呂。

「お姉さんは、すごいの。永手さんの正室になって、永手さんのお邸のそばに邸を建ててもらって、そこに引っ越すって」と人数。

諸姉と人数は同じ年の異母姉妹で、北家が宿奈麻呂の娘たちを妻にしたので、人数は北家の五弟の魚名の長子の夫人になっている。この二人は時期を見て宮中に出仕させるつもりだと、古美奈は宿奈麻呂から聞いている。

「お母さまのご容態はいかがですか」と古美奈が人数に聞く。

「代わり映えしないけれど、医師さまは静かに暮らしていたら問題ないっておっしゃっています」と人数。

「息子の宅美さんと、お会いになりたいでしょうね」と古美奈。

「会いたいでしょうが、妹が一緒に暮らしているから寂しくはないと思いますよ」と人数。

「妹さんたちって?」と古美奈。

「わたしの母が産んだ妹と」と人数。

「わたしの母が産んだ妹」と諸姉。

「わたしの妹は、永手さんの弟の楓麻呂さんの夫人です」と人数。

「わたしの妹は、永手さんの息子の家依さんの夫人。姉さんは、わたしの母の子です」と諸姉。

「古美奈さん。うるさいでしょう? 出仕したら厳しく仕込んでください。

幼いころは赴任先で一緒の館で育てられ、それから、ここでアヤさんが育てたので、異母姉妹と言っても仲が良いのですがとどめがない。

義父ちちが甘いからです」と雄田麻呂。

「雄田麻呂! 今、なんと言った。義父と言わなかったか?」と宿奈麻呂。

「妻の父親だから義父でしょう?」と雄田麻呂。

「二度と言うな。わたしは、おまえの兄だ! ずーっと、兄さんと呼べ」と宿奈麻呂。

「イトコたちがうるさいのは育ちじゃなくて親に似たからです。

古美名さん。ふつつかな伯父ですが、よろしくお願いします」と種継。

「ガサツなのですよ。注意力が散漫さんまんで全体を把握はあくする能力に欠けています」と蔵下麻呂。

「それなのに訳も分からずに突っ込んでいく力だけは、まるでイノシシのようです」と種継。

「蔵下麻呂! 種継! お前たちからは言われたくはない」と宿奈麻呂。

「宿奈麻呂さん。ちょっと静かにして。

古美奈さん。次に帰ってきたときに、宅美をお母さんのところに連れて行きましょうよ。田麻呂さん。そんなことでも届がいるの?」とアヤ。

「いえ、庶民の外出は止めてないはずです」と田麻呂。

若女は笑って聞いている。仲の良い家族だと古美奈は思う。若女の話では、雄田麻呂も蔵下麻呂も種継も幼いときに父親を亡くしたという。宿奈麻呂は、彼らの兄であり父でもあるのだろう。

まだ五位は家長の宿奈麻呂だけだが、次世代をになう若き官人たちが藤原式家にそろいはじめていた。



葛城山かつらぎさん(大阪府と奈良県の境にある山)で道鏡どうきょうは星空を見ている。

葛城山は、標高は千メートルに満たないが連山なので奥が深い。その山波のくぼ地の枯草のうえに寝ころんで、道鏡は星降る空をながめている。

 

道鏡は、河内国かわちのくに若江郡わかえぐん弓削郷ゆげきょう(大阪府八尾市弓削町)を本貫地ほんがんちとする弓削ゆげ氏に生まれた。

もとは物部もののべの弓削ゆげのむらじといって、物部一族の弓部隊だったと伝わっている。石上いそのかみの宅嗣やかつぐの枝族だ。

法相ほうそうしゅうを広めた義淵ぎえんが建立した岡寺に、道鏡は六歳のときにあずけられて二十歳をすぎるまでいた。そのころに修験しゅげんの山として信仰されている葛城山に、いくどとなく登った。

二十三歳になったときに、聖武天皇の命で東大寺の前身である金鍾寺こんじゅじに、華厳けごんきょうを学ぶための学僧があつめられた。その一人として道鏡も東大寺の良弁ろうべんに師事するようになった。

東大寺の良弁は、今はだい僧都そうずとして仏教の勢力拡大に力をいれている。


道鏡は子供のころから人と群れる性格ではなかったが、つまはじきにされることもなかった。好きなことに熱中する少し変わった少年だったが素直な性格で、そのまま大人になった。だから、まんべんなく勉強ができる優秀な学僧ではないが、好きなことだけは人より抜きんでている。

その好きなことがサンスクリット語(古代インド語)と薬草学やくそうがくと、そして占星術せんせいじゅつだった。

占星術は星を眺めるのが好きな少年が、ある日サンスクリット語で書かれた占星術の資料を読む機会をえて、独学でのめり込んだだけで正しく教わったわけではない。

占星術は、紀元前に中東のバビロニアで始まったといわれる。それがインドに伝わってインド式の占星術となり、中国に伝わって中国式の占星術となった。

道鏡が独学で学んだのはインド占星術で、宮中の陰陽寮おんみょうりょうが使う中国占星術とは少し異なる。ただ、どの占星術も、恒星こうせいとはちがう動きをする月と惑星を使う。恒星はおなじ配置で全体がゆっくりと動くが、月と肉眼で見える土星までの太陽系惑星は、恒星をバックにして一本の軌道の上を動いているように見える。

この月と惑星が、どの恒星のうえにいるか、惑星同士がどのような角度をとっているかで事変を読みとるのは、どの占星術もおなじだ。

占星術にひかれた道鏡は、十代のころから月と惑星の配置を眺めつづけてきた。

記録したかったが紙は高価で、朝廷でも日常の記録は木板に書いている。

寺にあずけられた小僧の道鏡に自由に使える紙はないし、夜ごとの月と惑星の移動を木の板に書いたら保管する場所に困る。記録をとる手段がないから、道鏡は惑星の運行を頭のなかに記憶した。

道鏡だけでなく学生はだれもがおなじで、紙が貴重で印刷技術もないから教科書もノートもない。資料となる書物を読ませてもらえ書き写せることが幸運で、日本書紀にほんしょき漢書かんしょ史記しき後漢書ごかんしょ三経さんけいなどの官人になるためには欠かせない書物を写して丸暗記する。

書物を読んだといえるのは、理解してすべてを覚えたということで、読んだような気はするけど、どんな内容だっけ・・・?ではない。

道鏡が長年にわたって記憶した月と惑星は、頭のなかで一定の法則をもって運行をくりかえしている。ときどき辰星じんせい(水星)、太白たいはく(金星)、熒惑けいこく(火星)、歳星さいせい(木星)、鎮星ちんせい(土星)が、地軸ちじくの傾きで天の王道おうどうという惑星軌道を逆行するように見えることがある。これは予測ができなかったが、道鏡の頭のなかの星の動きと実際の惑星の運行に、大きなズレはないほどになっていた。

東大寺の僧となったいまも、ときどき葛城山に登って夜をすごす。道鏡が師事する東大寺の良弁は、聖武天皇に可愛がられて大仏だいぶつ開眼かいげん供養くようのときに東大寺別当べっとうになった。

いまは大僧都だいそうずとして聖武太政天皇の葬儀や一周忌を仕切り、聖武天皇の仏教促進政策をうけついだ藤原恵美えみの押勝おしかつ(仲麻呂)とも親しくしている。

良弁は、もとは聖武天皇の看病かんびょう禅師ぜんじで山岳修行僧だったから、たまに道鏡が薬草をさがしに山に登って、そのまま夜をすごすことを許してくれている。

山で過ごすして星をみているときが、道鏡には心がはずむ楽しいひとときだった。



七五九年。

渤海国ぼっかいこくからの使者の情報で大陸の近況がわかった。安禄山あんろくざんの反乱で、まだとうは不安定な状態がつづいているという。

二月に渤海からきた使者が帰るときに、唐に留まったままになっている北家の四弟の藤原清河きよかわを迎えるために、日本の使者を同乗させて渤海国へ送った。


五月の任官で、大保の藤原恵美押勝の息子の訓需麻呂くすまろ美濃守みののかみになった。

この時すでに訓儒麻呂の弟の朝苅あさかりが、陸奥むつ守と按察使あぜち鎮守将軍ちんじゅしょうぐんに任じられて陸奥国府の多賀たが城(宮城県多賀城市)に着任していて、蝦夷の居住地の中に桃生ももう城(宮城県石巻市)と雄勝おかち城(秋田県横手市)を造っているところだった。朝廷の命だと強引に進めた二城の建造が、これまで友好的に帰順をうながしていた朝廷と蝦夷の関係を壊すことになる。

ただ恵美押勝が任命して陸奥守となった息子が動いているので、このことは都では余り取りあげられなかった。むしろ別の息子を美濃守にしたことが警戒された。


六月には淳仁天皇が官人を集めて詔をだして、父の舎人とねり親王に天皇の位を追贈ついぞうして母を大夫人とし、兄弟姉妹を親王と内親王にした。

亡くなった人に天皇位を送る始めての例で、淳仁天皇の兄の船王と池田王は、船親王と池田親王になった。

 


「橘奈良麻呂の乱」のときに、押勝があつめていた田村記という密告書を隅々までしらべて二世王を告発するのを手伝い、そのあとで収監しゅうかんされた人々に過酷かこくな尋問して多くの犠牲者をだした船親王は、いまは九州の太宰帥だざいのそちになって吉備真備の上司をしている。

六月になって、その船親王が新羅を討つための軍事規定をつくるようにと真備に命じた。

「新羅を討つのでございますか」と真備。

「朝廷からの命だ」と船親王。

「帝が勅をだされたのですか」と真備。

「わたしのいうことに不満でもあるのか!」と船親王のこめかみの血管がピクピクする。

「新羅からは、多くの難民が太宰府に逃げて来ております。唐の戦乱のあおりを食って、今の新羅は内乱がつづいているようです」と真備。

「だから新羅を討伐する。こんな機会は二度とないと大保たいほさまも言われている」と船親王。

「軍事規定と申しますと、兵士たちが日常に守るべき規則をつくればよろしいので?」と聞いて、真備は船親王から木簡もっかんを投げつけられて平伏した。

うけたまわりました。さっそく軍事規定を作ります」と真備。

七月の末になると、今度は香椎かしいびょうに詣でるから用意するようにと、船親王が真備に言いつけた。

香椎廟(福岡市東区香椎)というのは、新羅を討伐するようにと神託しんたく(神のおつげ)があったのに、討伐に行かなかったために急死したと伝えられる、はるか昔の大王おおきみだった仲哀ちゅうあい天皇の陵だ。

ここに参詣するのは、必ず新羅討伐を果たしますという誓いを立てたことになる。

八月六日に船親王は、香椎廟へ行って新羅を討伐すると報告した。


吉備真備は、九州にきて九年目になる。

これまでは太政官を兼ねる石川年足としたりが大宰帥を遙任ようにんしていたから真備は自由だった。

建設途中の怡土城いとじょうは壮大な姿をあらわしはじめ、六十四歳になる真備は太宰府に骨を埋めるつもりでいた。

大宰府には朝廷からの報告がくるし、娘の由利が都のようすを知らせてくるから「橘奈良麻呂の乱」のことも、孝謙天皇が淳仁天皇に皇位を譲ったいきさつも知っている。だが大宰府にいれば都は遠くに感じられて、宮中の動きには鈍感になる。

そんなところに船親王がやってきて、急に都の政争せいそうの匂いのする風が吹きはじめた。


もともと新羅と日本は古くから対立しているが、ここ何十年かは互いの国を訪問しあうことで均衡をとっている。

たしかに何年かまえに、真備が副使として唐に行ったときに上席をめぐって競ったり、来日した新羅使節の身分が低いと追い返したりはしたが、これぐらいは毎度のことで緊迫した状況のうちには入らない。

新羅が日本を攻めてくるなら防戦が必要だが、船親王は日本が新羅を攻めるために香椎廟に参詣した。

宮中で、だれがなにをしようと太宰大弐の真備には何もできないし、どうでもよいことなのだが、新羅討伐はちがう。藤原恵美押勝(仲麻呂)が進めているらしいが、新羅の内乱に乗じて討伐しようと考えているのなら、押勝は野心家ではなくバカか狂人だと真備は思った。

遣唐使けんとうしは、最高の技術を集めてつくった四せきの大きな船を連ねて行く。それでも一隻か二隻は遭難そうなんすることがある。

遭難の危険をおかして、わざわざ海を越えて、地理も分からず食料の補給もできない土地へ百姓から集めた若い兵を送り、なんのために新羅と戦をするのかと真備には理解しがたい。


八月二十九日に台風が九州に上陸して、大宰府は建物がこわれる被害がでた。

建設途中の怡土城いとじょう急峻きゅうしゅんな山の尾根を土塁どるい(とりで)の一部としているので損害が大きく、真備は復興に忙しくなった。

だが九月十九日に、全国の各地方に分担させて新羅討伐のための船を五百せきつくるから、九州も一部を負担するようにと朝廷から令書が届いた。

船の完成は三年以内と、ゆとりをもたせているから、このさき三年間の猶予ゆうよはあるが、本気で新羅討伐を進めるらしい。

十月十八日には、二月に渤海使とともに藤原清河を迎えに行った日本の使いが大宰府に帰ってきて、唐は戦乱がつづいて入唐すれば殺されるだろうと報告した。

つまり藤原清河の救出はムリだと伝えた。



十一月十四日に、飯高笠目は法華寺に呼ばれた。

このところ光明皇太后は体調を崩している。痩せられたと、その姿を見て笠目が目を伏せた。

「笠目。太上天皇と仲麻呂の仲は、どのようにみえる」と光明皇太后が聞いた。

「淳仁天皇が即位されてからは、大保さまが内裏に来られることが少なくなりました」と笠目。

「任官のことなどは、まえもって仲麻呂から相談をうけているのか」と皇太后。

公卿くぎょうの任官は、大保さまが内裏にみえて伺われております」と笠目。

「太上天皇は、どう対処している」

「しばらく考えるとおおせになることもありますが、結局は許可されます」と笠目。

「すべてをか。それでは仲麻呂の言いなりではないか。

国司の人事は太政官が決めるが、この前の人事で仲麻呂の息子の薩雄ひろお越前えちぜんのかみになったと聞く。

さきに五月の人事で、仲麻呂は息子の訓需麻呂くすまろ美濃みののかみにした。

幼いころに会っただけだが、たしか訓需麻呂も薩雄もまだ二十代のはずだ。

都を守る三関さんげんがおかれた越前(福井県)や美濃(岐阜県南部)や伊勢(三重県)の国司が、そのように若く経験のないものにつとまるはずがない。

それを太政官が決めたのか」と光明皇太后。

「内裏で起きたことしか存じませんが、たしか大保さまが外印げいん(太政官印)を管理されておられるはずです」と笠目。

「どこで?」と皇太后。

「ぞんじません」

「外印は、少納言が少納言局で管理しているはずのものだ。

だれが仲麻呂に管理を命じた?」と皇太后。

「去年、帝が即位されたあとで上台さまがお認めになりました」と笠目。

「なんということを」と皇太后がため息をつく。

「それでは、近ごろの仲麻呂の動きで変わったことはないか」と皇太后。

「このまえ内裏に見えたときに、保良ほらのみやをつくることと、身辺を警護する帯刀たいとう資人しじんを二十人増やして欲しいとおっしゃっていました」と笠目。

「保良宮とは?」

「淳仁天皇が、滋賀国しがのくにに新しく造る宮だそうです」と笠目。

「滋賀に? 聖武天皇は滋賀に仏教の国を作るつもりであられた。

帯刀たいとう資人しじんというと、舎人寮とねりりょうから送られてくる者たちか?」と皇太后。

「ちがいます。大保さまの場合は、ご自分が雇って田村第に住まわせている食客しょっきゃくのことをおっしゃっております。

わたしたちは田村第資人たむらだいじしんと呼んでおりますが、武勇にすぐれた帯刀の従者のことです」と笠目。

「つまり仲麻呂の私兵だな。太上天皇は許可をしたのか」と光明皇太后。

「すでに大保さまには、帯刀資人を二十名まで従えても良いという勅をだされています。あと二十人を増やせば、四十人の私兵を従えることになります。

今回も太上天皇の勅をいただきたいと申されるのですが、二十騎以上の集団で宮城内を移動してはならないと禁止令をだされたあとですから、上台さまは考えておくとお答えになりました」と笠目。

「欲は深いが、心も狭くきもの小さな男よ。それを見抜けなかったことが恥ずかしい。

まだ許可をしていないのなら、帯刀の従者を二十名ふやす勅をだすかわりに、授刀寮じゅとうりょうを復活させ授刀舎人じゅとうとねりをもとにもどして、太政天皇の警護につけるようにと仲麻呂と交渉するように」と光明皇太后。

返事をせずに、笠目が考えるような表情をした。

「授刀寮は聖武天皇の勅で、皇太子だった孝謙太上天皇のために再建された。どこにも属さずに太上天皇だけに直属する舎人寮だ。

授刀寮を中衛府に組み入れることは、聖武天皇の勅を軽んじることになる。もとに、もどすことが条件だと仲麻呂とかけあえ」と光明皇太后。

「皇太后さま。わたしは内裏に住み続けられることや、皇太后さまに会いに行かれるようにと、たびたび上台さまを説得してまいりました。

わたしが皇太后さまにお目にかかっていることは、上台さまもご存じです。

あまり重なりますと上台さまが反発されます。

何人かの女官に話を通して、上手く持ちかけた方が効き目があるように思います。二、三の者に打ち明けて、手伝わせてもよろしいでしょうか」と笠目。

「それもそうだ。あの娘の気性では、わたしが裏から口をはさんでいると知ったら、かえって反対のことをする。心当たりのものは?」と光明皇太后。

「大野仲千なかち」と笠目が言う。

「笠目。ほうけたのか。北家の永手の妻ではないか。

永手は仲麻呂の指示で、二世王たちを殴り殺すような尋問をした。

妹の宇比良古は仲麻呂の妻で、仲麻呂の息子たちにとっては永手は叔父になる。

永手の弟の御盾みたての妻は、仲麻呂の娘の児依こよりだ。

北家は、仲麻呂の縁者ではないか」と光明皇太后。

「仲千は忠臣の大野東人あずまびとの娘で、上台さまを裏切ることはありません。むしろ仲千にうち明けておいたほうが、北家を味方にできる日が来るかもしれません」と笠目。

「その責任を、おまえがとれるのか」

「はい。わたしは内裏で二十年も一緒に暮らしてきた仲千を信用します。

大野仲千は永手さまの妻ですが、信頼するにたりる女官です」と笠目。

女官として人を見てきた笠目の目を信じて、光明皇太后がうなずいた。

「もう一人は久米くめの若女わくめ。藤原式家と縁があります」と笠目。

「兄の宇合うまかいの息子をもうけて、たしか石上いそのかみの乙麻呂おつまろに…あの若女か?」と光明皇太后。

「はい。あのときの皇太后さまのご配慮を、いまでも感謝しております。

若女も皇太后さまをうらぎりません。そして若女は藤原式家に強い影響力を持っています」と笠目。

「ほう。宇合兄の子らとは、小さいころに上の二人と会っただけだ。広嗣ひろつぐのことで遠慮があるのか、向こうから訪ねてくることもなく、長く会っていない。

久米若女に、わたしの甥たちや、その家族を連れて会いに来るようにつたえてほしい。ここは病の者や、暮らしに困った者を受け入れる法華寺だ。気安く幼い子も連れて来るよう」と光明皇太后。

「よろこびます。もう一人は吉備きびの由利ゆりがよいかとぞんじます。

上台さまの学士がくしをしておられた吉備真備まきびの娘です」と笠目。

「吉備真備を弾劾だんがいして兵をおこした広嗣の身内と、弾劾された真備の娘か。敵味方だろうに」と皇太后。

「若女の災難のときに、まだ女儒だった由利と仲千が立ち合っています。

それいらい、あの三人は心を許した仲のようです」と笠目。

「後宮を出てから会うことも無かった笠目が、皇后宮こうごうぐうにやってきたのも、あの一件のときだったか」と皇太后。

「はい。もう二十年も昔になります。若女にも孫娘が生まれたそうです」と笠目。

「そうか。笠目。人の世はおもしろいな。

わたしがちても、人と人との交わりはつづく。仏の導きか天の思し召しか、人知を超えた力にいざなわれて、それぞれが、しかるべき命の途をたどってゆくようだ。そう思えれば、わたしも少しは心が軽くなるだろう。

笠目。娘に会いたいと伝えて欲しい。まつりごとには駆け引きがいる。

わたしの息があるうちに伝えておきたい」と光明皇后が言った。

「はい。必ず」と笠目が請け合う。

十一月三十日に、大保の藤原恵美押勝の帯刀資人を二十人増加して四十人とするという勅がでた。

そして二日後の十二月二日に、孝謙太政天皇直属の授刀衛府じゅとうえふが復活した。



「それで授刀衛府は、どこに所属する」と二十六歳になった牡鹿おじかの嶋足しまたりが、井戸の側で下着を洗濯棒で叩きながら聞く。

「だから所属するのではなく授刀衛府として独立した。中衛府や他の衛府の長官は大保たいほさまの下におかれているが、授刀衛府は上台じょうだい(孝謙太上天皇)さまに直属する。

われわれは上台さまの命令だけに従い、われわれの仕事は上台さまを守ることだけだ。

まだ上の人事は決まっていないそうだが、ほかの衛府とおなじにかみには四位、その下のすけには五位の貴族がなられる。

佐の下のじょうは、大尉だいじょう少尉しょうじょうの一名づつ。その下のさかんは、大志だいさかんが二名と小志しょうさかんが二名の四人だ。

わたしは、少尉になった」と三十一歳になった坂上さかのうえの苅田麻呂かりたまろが言う。

「すごい! 現場で二番目に高い位だ。苅田麻呂が上官なら仕えるのが楽しい。

大尉は、だれだ?」と嶋足。

佐味さみの伊予麻呂いよまろさんだ」と苅田麻呂。

「知らない」と洗濯物を絞りながら、嶋足が言う。

「中衛府のなかから選ばれたが、わたしも知らない。腕が立つ方ではなく、高位の方にコネがある人だろう。

それで良く聞け、嶋足。おまえが小志だ」と苅田麻呂。

「ん?」

「大志と小志は二人づつだから、おまえは現場で五番目か六番目に高い位で、授刀衛府の四百人の舎人を束ねる」と苅田麻呂。

「え?」

「そのかわり、役がついたら武術だけではまずいぞ。

小志はおもに部下の訓練にあたるが、それぞれの成績を評価して報告書を書かなくてはならない。文章のまちがいや誤字は許されない。わたしが厳しく指導する。

もし、おまえの出自しゅつじのことで、とやかく言うものがいたらかばわずに連れてこい。

授刀衛府の規律を、わたしが教える」と苅田麻呂。

「ああ」

「はい!と言え。小志しょうさかん」と苅田麻呂。

「はい。少尉しょうじょう!」と嶋足。

寮に寝泊まりしていても、薄給で自分一人が食べて行くのが精いっぱいだが、苅田麻呂の世話で嶋足も通える妻をもった。

坂上氏は職業部民しょくぎょうべみんと繋がりがあるから、蝦夷えみしに対しての偏見がない人を知っている。嶋足の妻の家族も、嶋足を暖かく向かえてくれている。嶋足は家族のために、しっかり仕事をしようと思っている。

坂上苅田麻呂には待望の息子が生まれた。苅田麻呂の目の色は濃い青なのだが、去年生まれた息子は空のように青い瞳と、陽があたると金色に光る茶髪をしている。

このあと授刀かみには、藤原北家の五男で従四位上の御楯みたてが任命された。

孝謙太政天皇に直属する授刀衛府に、藤原恵美押勝は自分の娘婿と、息のかかった配下の佐味伊予麻呂を入れて監視させた。



七六〇年。

自由な外出を禁じた戒厳令下で、不思議な体制がつづいている。

退位したはずの孝謙太政天皇は高野天皇と名乗り、二年まえに即位した淳仁天皇と二人そろって正月の朝賀ちょうが出御しゅつぎょした。

退位はしたが孝謙太政天皇は四十二歳。皇太子時代を入れると二十二年も正月の朝賀に姿をみせている。

淳仁天皇は二十七歳。皇太子になるまで存在さえ知られていなかった。天皇となってからも中宮に住んでいて、官人たちの馴染みが薄い。

 

正月四日の叙位で、孝謙太政天皇が藤原恵美押勝に大師たいしという位をあたえた。それまで名乗っていた大保も始めて使われた職名だったが、大師も始めて使われる職名だ。

孝謙太政天皇の説明によると、大師というのは太政大臣だじょうだいじんのことで、左右の大臣の上に位置するという。

ところが太政大臣というな名でさえ、今の官人には耳慣れずピンとこない。もともと律令りつりょうにはない職名で、ほとんど使っていないからだ。

孝謙太上天皇は、まず藤原氏の始祖の藤原不比等をもちだして、歴代の天皇に明るく清い心でつかえ、政治のことも助言したから太政大臣となるべき人であったと説明した。そのあとで藤原恵美押勝も功があるから、太政大臣に相当する大師にすると口勅こうちょくした。

これだと不比等は臣下として天皇に政治のことも助言したが、執政しっせい(政治を代行する)はしていない。この勅を最後に、光明皇太后の体調がすぐれないからと、孝謙太上天皇は公の場に出席しなくなった。


あとで、それぞれの官人が調べたところ、百年ほどまえに太政大臣になった人が二人いた。一人は天智てんじ天皇の皇太子だった大友皇子おおとものおうじで、もう一人は天武てんむ天皇の長子の高市皇子たかいちのおうじ(長屋王の父)だ。

この二人は、天皇に代わって執政する権利を持っていた。

孝謙太政天皇は、恵美押勝を太政大臣に相当する大師に任命しても、執政する権利を与えなかった。だが淳仁天皇が「大師に執政を許す」という詔をだすと、その日から藤原恵美押勝が政権を握ることになる。



六月七日に、光明皇太后が五十九歳で亡くなった。

光明皇太后は日本で初めて皇后と称された女性で、娘の孝謙太上天皇が即位してからは後見役こうけんやくとして太政天皇のような力を持っていた。

その葬儀のために装束司しょうぞくのつかさ造山司やまづくりのつかさが決められた。

宮子皇太夫人と聖武太政天皇の葬儀で造山司をした佐伯今毛人いまえみしは、三度目になる造山司になった。今毛人は四十一歳で従四位下になり、ずっと関わっている東大寺の完成も間近になってきている。

光明皇太后の存在が大きかったので、皇族の重鎮じゅうちんが造山司に任じられて参加した。

淳仁天皇の兄で三品の池田親王、従三位で六十七歳になる文屋ふんや智努のちぬ。従三位で五十二歳の氷上ひかみの塩焼しおやき。おなじく従三位で五十一歳になる白壁しらかべ王。淳仁天皇の亡くなった長兄の三原王の子で従四位下で三十七歳の和気わけ王。正五位下で白壁王の娘婿になる市原いちはら王も造山司になった。

氷上塩焼は天武天皇の二世王(孫)で、聖武天皇の娘の不破ふわ内親王ないしんのうを妻にして息子がいる。有力な皇位継承者として幾度か名がでたが、聖武天皇の治世下で流刑になったことがあり、「橘奈良麻呂の乱」では警告をだされて臣籍降下した。息子は聖武天皇の外孫になる。

文室智努も天武天皇の二世王で、この年に中納言ちゅうなごんになった。長老として皇族に大きな影響力がある。

和気王も淳仁天皇の即位で、祖父の舎人とねり親王に天皇位が追贈ついぞうされたので二世王の一人になる。

天智天皇の二世王の白壁王も、聖武天皇の娘の井上いかみ内親王を妻にしている。白壁王にとっては、これが、生まれてはじめて与えられた仕事らしい仕事だった。集合禁止令がでてから宴会男の出る幕がないが、公卿とよばれる位を持ちながら、五十一歳になるまで仕事をしたことがないという経歴も珍しい。 



光明皇太后の死去から十日ほど後に、全ての衛府を統括する武部ぶぶきょう兵部ひょうぶのかみ)として、軍事権を握っていた南家の藤原乙麻呂が亡くなった。

藤原南家は四兄弟で、長兄の豊成は押勝と対立して左遷されている。

押勝は藤原恵美氏という特別な一族を立てたが、自分の子供たちはまだ若い。南家の三弟になる乙麻呂と四弟の巨勢こせ麻呂は、押勝にとって貴重な壮年の弟で協力者だった。押勝は三弟の乙麻呂に軍事権を任せ、四弟の巨勢麻呂に参議として政治の中枢に入れた息子たちをまとめさせていた。

その軍事権を持った三弟の乙麻呂が亡くなったのは押勝には大きな痛手だったが、乙麻呂の家族にとっては、このときに乙麻呂を失ったことが後の幸いになる。

乙麻呂は、二人の息子と一人の娘を残した。嫡男の黒麻呂は三十三歳で正六位下。

まだ押勝が気を止めるほどの者ではなく、黒麻呂は徐々に恵美氏との距離を取り始めた。この黒麻呂は、のちに是公これきみと改名する。

藤原氏の四代目は似た名を持つ者が多くてまぎらわしい。巨勢麻呂の二男も黒麻呂で、北家の鳥養の二男は小黒麻呂というので、これから乙麻呂の長男は是公と表記する。


藤原北家は兄弟が多く、長男の鳥養は早世して四男の清河は唐から帰ってきていないが、それでも五人の兄弟が残っている。早くから押勝は、壮年の兄弟が多い北家を取り込もうとしてきた。

今の北家は、家長で二男の永手ながてが四十四歳。

三男の真盾またてが四十三歳。このひとは八束やつかと名乗っていたが、押勝が官僚も唐風の名を名乗るようにと命じたときに名を変えている。

四弟の清河は、遣唐使になって唐に渡ってから帰国が出来ずにいる。

五男の魚名うおなは三十九歳。

六男の御盾みたても三十九歳。

七南の楓麻呂かえでまろは三十七歳。

この兄弟の立場や考え方はマチマチだった。

三男の真盾は、八束と名乗っていた頃に安積あさか親王を邸に泊めるほど、聖武天皇に信頼されていて、光明皇太后に取り立てられて頭角を現した押勝より出世が早かった。聖武天皇が退位したあと、真盾は押勝の粛清しゅくせいをおそれて休職していたほどで、押勝とは相容れない。今は官職に戻って参議の太政官をしているが、押勝は警戒を解いていない。

北家の姉妹の宇比良児うひらこは、女官の長である尚持しょうじ尚蔵しょうぞうで、押勝とのあいだに三人の息子と娘がいる。

六弟の御盾は、この押勝と宇比良古うひらことのあいだに生れた娘の児依こよりを妻にしていて押勝の信頼が厚い。授刀衛じゅとうえいのかみになったのが、この御盾だ。

押勝は、淳仁天皇の兄の船親王を都にもどして、気の合わない北家の三男の真盾を太宰帥にして都から離した。



太宰大弐の吉備真備にとっては話の分かる人が来てくれたことになるが、十一月には都から六人の授刀舎人とねりや中衛舎人が送り込まれてきた。

新羅を討伐をするから、かれらに諸葛しょかつりょう諸葛しょかつ孔明こうめい)や孫子そんし兵法へいほうを教えろというのだ。

九月に新羅から使者がきたが、押勝の四男の藤原恵美えみの朝狩あさかりが大宰府までやってきて、「身分が低いから帰れ」と追い返している。

わざわざ刺激をしなくても良いのにと思ったが、吉備真備は黙って見すごした。

新羅討伐が天命ならば、一人の地方官が反対したところで止められるものではない。天命に反したものなら自然と中止されるだろう。

真備は、ないものを当てにすることがない。今あるもの、今できることを最大限に生かすために知恵をしぼる。無理をしない生き方こそが天命に添っていると思っている。

だから兵法も熱心に教えた。長らく手をつけていなかった兵法だが、教えてみると面白くて熱中した。唐の長安ちょうあんで夢中になって書を読みあさり、諸葛亮や司馬懿しばいの姿を思い描いて胸をときめかした若い日を思い出した。



この年に、藤原式家の宿奈麻呂と阿部古美奈のあいだに女の子が生まれた。

前の年に雄田麻呂と諸姉のあいだに生まれた旅子たびこと、宿奈麻呂と古美奈のあいだに生まれた乙牟漏おとむろは、どことなく似ていて色が白くてあごが可愛く、鼻筋が細く通っている。

「きっと二人とも美しい娘になります」と休みの日に帰ってきた若女がうけあった。

「この子たちの時代は、自由で穏やかな世の中になるといいですね」と一歳ちがいの娘と孫娘をながめながら、宿奈麻呂は心からねがった。



影響力を持っていた母の光明皇太后を亡くした孝謙太政天皇は、七七なのなのか日(四十九日)が終わると、ふさぎ込んでしまった。

藤原恵美押勝からは、光明皇太后の一周忌がすんだら内裏を改装をするから、新しく造る保良宮ほらのみやの仮宮に移ってほしいと、うるさくせかされている。

たしかに聖武天皇のときに、恭仁京くにきょうからもどってきて突貫とっかん工事をして再建した内裏は傷みがひどい。修理は必要だが、孝謙太政天皇は内裏からは離れようとせず、だれとも会わなくなった。

そこで押勝は、近江国おうみのくに(滋賀県)にある自分の別荘のそばに仮宮かりのみやを建てはじめた。



七六一年。

正月五日。

大史局たいしきょく陰陽寮おんみょうりょう)につとめる陰陽師おんみょうし大津おおつの大浦おおうらが、怪しい気がでているので、しばらく小治田おはりだの岡本宮へ方違かたたがええをしたほうが良いと、淳仁天皇に奏上そうじょうした。

正月七日から四泊五日で、淳仁天皇は飛鳥の岡本宮へ行幸した。

そして、そこから帰ってくると武部省ぶぶしょう兵部省ひょうぶしょう)の庁舎で暮らしはじめた。


淳仁天皇は、皇太子として迎えられたときから中宮院に住んでいる。

中宮院は、聖武天皇の母の藤原宮子皇太夫人こうたふじんが住んでいたところだ。

平城京は、東西約8.2km。南北約4.8kmの方形に、東の部分だけ外京げきょうという袖のような張り出し部分がある都だ。宮城は都の北の端の中央に位置する。

京域きょういき(奈良の町)の入り口は、張り出し部分を除いた方形の中央にある羅城門らじょうもんで、そこから真っ直ぐ北に延びる朱雀大路すざくおうじが、町を東西に分けている。朱雀大路を北に行くと、高さ5m足らずの築地塀で囲まれた宮城の南面の中央にある朱雀門すざくもんが構えている。

この朱雀門が宮城の正門で、本来なら朱雀門を入れば、その先に朝堂院ちょうどういんがあり、大極殿だいごくでんがそびえ、両脇に内裏や官庁や諸寮が並んでいるはずだった。

ところが、今はそうではない。

朱雀門の先には、景観を整えるためと外国の使節を迎えるために作った朝堂院と、宮子皇太夫人が亡くなったあとで、元の大極殿の跡地に立て直した中宮院しかない。

それが高さ2m余りの築地塀と堀川で東西をふさがれた、幅が約300m、奥行きが1kmの細長い敷地のなかに建っている。

朱雀門を通って宮城に入った外国使節が、首をひねるような構造だ。

いまの宮城は、町と同じように東に袖のような十二町分の張り出しがあって方形ではない。その張り出し部分を除けば、一辺が約1kmの正方形の敷地になる。

恭仁京に遷都するまえは、朱雀門をくぐれば方形の敷地の中央に朝堂院があり、その北に大極殿がそびえていた。大極殿の東に内裏と中宮院と各官庁。西にも官庁と工房などがあって、それを築地塀で隠す必要もなかった。

しかし恭仁京への遷都で、大極殿を解体して恭仁京に移した。

ふたたび平城京へ戻ってきたときは庶民が先に帰るあわただしさだったから、聖武天皇は宮子皇太夫人が残っていたから壊されなかった中宮院に入った。

そして平城京が再び帝都となってから、いそいで宮城も再建した。

東に張り出した幅が約250m、奥行き750mの部分は、大極殿と朝堂院を内裏の前に作ったために広げた土地だ。

だから今は朱雀門の先ではなく、東の壬生門みぶもんの先に内裏や朝堂院や大極殿や官庁などの主要な施設がある。中央ではなく東側に施設が偏っているのだ。

宮城は七十六町分。おおよそ118万㎡の敷地面積を持つ。

宮城の中は築地塀と堀川で東西を三つに区切っていて、内裏や大極殿や官庁がある張り出した部分を含む東の区域が一番広い。西の区域には馬寮めりょうや工房が置かれた。

宮子皇太夫人が暮らして移動がなかった中宮院は、亡くなったあとには東の区域に空きがなくなり、元の大極殿跡の中央区域に再建された。


つまり東区域にある内裏は、すべての官庁をおさえられる場所にあるが、中宮院は築地塀と堀川で大極殿や朝堂院や八省と遮られていて、天皇が政務を執れる場所ではない。

光明皇太后が、孝謙太上天皇は内裏に住み続けるようにと言ったのも、押勝が淳仁天皇に譲るようにと言うのも、内裏の立地が重要だからだ。

だが、いくら恵美押勝でも、十二年も内裏に住んでいる孝謙太上天皇を強制的に立ち退かせるわけにはいかない。なんとか自らの意志で出ていってもらいたいのだが、孝謙太上天皇は、はっきりした返事をせずに動く気配がない。

そこで、保良宮遷都という大がかりなことを考えた。保良宮にいるあいだに内裏を改装して、還都かんとのときに淳仁天皇を先に立てた華々しい行列を作って、そのまま内裏に案内すれば良い。

方違かたたがえから戻ってきた淳仁天皇が住んでいる武部省ぶぶしょうの庁舎は、東の官庁が並ぶところにあるが狭いしわびしい。

天皇を庁舎に住まわせるわけにゆかないから、これは内裏をゆずらない孝謙太政天皇へのあてつけと、改修のために保良宮に遷都するための効果的なアピールになった。

それで勢いがついて、平城宮の改修ために一時的に近江に遷都をすることが内定した。


近江遷都のきっかけとなる岡本宮への方違えを淳仁天皇に奏上した大津大浦は、元正げんしょう天皇と聖武しょうむ天皇に仕えた陰陽頭おんみょうのかみ大津おおつのおびとの孫息子になる。

兄弟の中で一番素質があったので、六歳のときから祖父に陰陽道を学び、いまは従七位下で大史局だいしきょく(陰陽寮)の下級官人をしている。

藤原恵美押勝に目をかけられていて、言われるままに方違えも奏上した。

大津大浦は陰陽師の家に生まれたので、幼いころから考えることよりも感じることを大切にするように育てられた。だから人に会うと、思考よりさきに体が反応をおこす。頭痛や肩こりなどの体の部位の痛みに敏感で、それが病なのか、自分の拒否センサーが警告を発しているかの見分けはつく。

可愛がられているが、大浦は押勝と会うと体中にジンマシンがでる。

最初に呼ばれたときからジンマシンがでたが、どんどん、ひどくなってきて赤く腫れる。押勝から離れるとウソのようにジンマシンがひく。大浦の身体が、恵美押勝を拒否しているのだ。

こうも、かゆくちゃ身がもたないと思いながらも、従七位下と身分の低い陰陽師の大津大浦は、ほかの下級官人と同じように権力者の言うことをきいている。



春三月、葛野郡くずのぐん大枝おおえ(京都市右京区大枝)の山荘に白壁王がいた。

妻の和新笠が生まれ育った故郷だ。都に痘瘡とうそうが流行りかけたころに身ごもった新笠は、山部王を母の実家で生んで育てたから、ここは山部王の故郷でもある。

新笠の母は土師はじの真妹まいもという。

土師氏は平城京の西北から葛野郡にかけてと、河内国かわちのくに志紀郡しきぐん(大阪府堺市、河内市)に広がる土地をもつ大きな豪族で、大古墳時代から古墳の造営や管理をしてきた。だから土師氏が住んでいるところのそばには大古墳群がある。


白壁王の正妻で、聖武天皇の長女の井上いかみ内親王ないしんのうが妊娠したと、父から告げられた山部王が聞いた。

「で、いつ生まれるのですか?」 

きめが細やかな色白の肌で、髭もうすく体も細身なので、十代から変わっていないように見えるが山部王も二十四歳になった。まだ任官をされていない三世王で、二十一歳のときに正七位下をもらったが、出廷していないから顔も名前も人には知られていない。

「今月らしい…」と酒杯をあけてから白壁王が答える。

「臨月じゃないですか?」と山部王が盃を机にもどした。

大枝は都から遠く、あたりは同族しか住んでいないから、禁酒令など無いもおなじで昼から酒を酌み交わしている 

「そうらしいのだが、わたしは身におぼえがない」と白壁王。

「酔って忘れたんじゃないの」と新笠。

「泥酔したふりはするが、ナニをしたか分からなくなるほど酔ったことはない。

あの方と子供ができるようなことをしたのは何年も前のことで、ほんとうに身におぼえがないのだ」と白壁王。

新笠と山部王が目を見合わせてニヤけた。

「それが本当なら、ほかに男がいるってことじゃないですか」と山部王。

「いや、あの方は、そのようなお方ではない」と白壁王。

「そう思っているのが幸せかもね」と新笠。

「あの方は四歳のときに伊勢斎王さいおうになって、親からはなされて潔斎けっさいの宮に入り、二十七歳で任を終えるまで斎王だった。

都に戻ったのは二十八歳のときだ。

物心がついたときから二十八歳まで伊勢斎王だ。

人に尊ばれるのがあたりまえで、とても気位が高い」ち白壁王。

「でも酒人さかひと女王にょうおうは、父上の娘でしょう」と山部王。

「あのころは聖武天皇の体調が悪く、わたしも孫をお見せしようと張り切った。

しかし酒人を身ごもられてからは、あの方の体にふれるどころか、そばに近寄ったこともない。ずっと遠ざけられている」と白壁王。

「あなたが好みに合わないだけじゃないだけじゃないの」と新笠。

「いや。つわりが酷かったので、あの方は妊娠を嫌っておられる。

母性愛が強い方でもなさそうで、酒人もかまわれていないようだ。その方が臨月だという」と白壁王。

「臨月になるまで知らなかったのですか?

前兆ぜんちょうはなかったのですか」と山部王。

「あちらの邸を月に三日は欠かさずに訪ねているが、今年は正月に会っただけで、それからは体調がすぐれないと姿を見ていない」と白壁王。

「正月に合われているのなら、少し太られたとか腹部が張っているとか、食べ物を選り好みされるとか、なにか感じませんでしたか?」と山部王。

「とくに変わりはないようだった。

この前うかがったときに、あの方に仕える女従じょじゅうから、もうすぐお子が生まれると伝えられたから、承知しましたと答えておいた」と白壁王。

「身におぼえがないのに?」と新笠。

「フツウ、内親王の夫は、そうするものだろう?」と白壁王。

「身におぼえがない懐妊を告げられる内親王の夫が、フツウといえるほど多くいるとは思いませんがねえ」と白壁王の盃に酒を注ぎながら山部王。

「ところで女性は、いくつぐらいまで子供を産むことができるのだろう」と白壁王。

「さあ、ねえ。まあ年とともにさずかりにくくなるとは聞くけども、人によって、ちがうんじゃない」と新笠。

早良さわらが生まれたとき、あなたは、いくつだった?」と白壁王。

早良王は山部王の弟だ。

「たしか三十…五歳。そういえば、あれから、できてないわね」と四十六歳になる新笠。

「あの方は、四十四歳だ」と白壁王。

「そういう人もいるわよ。四十四歳でも四十五歳でも、できる人はできるのよ」と新笠。

「そういうものか」と白壁王。

「出産の危険は高くなりますね。命がけの出産ですか。

妊娠を嫌い子供が好きでない方が、命がけで生もうとするのは、命をかけても良いほど好きな人の子か…」と山部王が、眼差しをゆっくりと白壁王の方に向けた。

「ウソだろう」と白壁王。

「ウソをつく理由は?」と山部王。

「もしも、あの方の血族でおおやけにできない子がいるとしたら、どうする?」と白壁王。

「引き取って自分の子として世に出すと?

でもねえ、父上。母性愛もないのに、そんな世話をなさいますか。

それに内親王の縁族で、公にできない方などおられますか?」と山部王。

「なにかを吹き込まれたとしたら?」と白壁王。

「なにを?」と山部王。

「あの方の弟の安積親王は、亡くなったとき十五歳だった。

あの方が生まれたとき、父君の聖武天皇は十六歳だった」と白壁王。

「安積親王にお子がいても、おかしくないとでも?」と山部王。

「十代のころには子宝こだからに恵まれておられた聖武天皇にも、ほかにお子があってもおかしくない。

公にできない貴種きしゅの子を、忠実な家臣がひきとって育てることは、まま、あることだ」と白壁王。

「どこかで育った安積親王のお子か聖武天皇のお子に、孫が生まれるというのですか。バカバカしい。

勝手な妄想もうそうです。だれが信じますか」と山部王。

「妹の不破ふわ内親王には息子がいる。

不破内親王の夫の氷上ひかみの塩焼しおやきは臣籍降下をしたが、新田部にいたべ親王の息子で二世王だ。そして塩焼の息子は、聖武天皇の外孫になる。二世王が粛清しゅくせいされて、ほとんど残っていない。

聖武天皇の外孫を息子に持つ塩焼は、いまだに皇位継承者として有力だ。

そういう話を聞かれて、あの方が自分も息子が欲しいと思われたら?」と白壁王。

「父上の話は、どうもおかしい。

すでに男の子が生まれているのではありませんか?

その子が、父上の子ではないと言い切れますか?」と山部王。

「それだけは誓ってちがう」と白壁王。

「だれから生まれる、どんな血筋の子であろうと、父上が内親王の子と届ければ聖武天皇の外孫になります。

それが男の子ならば、得るものが多いのは皇籍に残っている父上です。

男の子がいると良い。公にできない縁族の子はいないかと、内親王に吹き込んだのは父上ではないのですか」と山部王。

「わたしに従われる方ではない」と白壁王。

「父上なら、まわりの人を舌先したさき三寸さんずんで抱きこめるでしょう。

二世王が粛清されたのを見計みはからったように調子よく生まれるのは、仕組んだからでしょう」と山部王。

「これは誓って、わたしが立てた筋書ではない。あちらがすることを見逃しただけだ」と白壁王。

「どっちにしろ、父上は承知したのですね」と山部王。

「二人とも冷たい目をしている。悪酔いしそう。イヤねえ…男って」と一人で飲んでいた新笠が席を立った。


光明皇太后の一周忌の斎会さいえが終わったあとの六月七日に、白壁王と井上内親王のあいだに他戸おさべ王と呼ばれる男子が誕生したと届けられた。

白壁王は五十二歳、井上内親王は四十四歳。かなりの高齢出産だが、他戸王が誕生したときは戒厳令下の遷都で人々はビクつきながら慌ただしかったから、だれの注意も引かなかった。



邸の釣殿つりどのに白壁王を案内して、頭を丸めて僧服を着た文室ふんやの浄三きよみ(文室智努)が聞いた。

「今日はまた、先触さきぶれをして訪れるとはめずらしい」と浄三。

「どなたかをご訪問するのに、いちいち許可がいりますからね。

前もって散位寮さんいりょうに訪問日と要件を届けましたので、先触れもだしました。

お会いしたいときにフラッと立ち寄れなくなって、親しい方のお顔をみて話す機会もありません。息がつまりそうです。ああ。自由がほしいですねえ」と白壁王。

「許可なく人と会えない集合禁止令が出て、もう三年と四ヶ月ですか。

人は人と供に生きるもの。親しい人と会うことまで管理されたら、人が人でなくなります。

このやりかたはいけません。そろそろ限界でしょう」と文室浄三。

中納言ちゅうなごんになられて、ご出家もされたそうですね。

いまは浄三きよみさんと名乗られているとか」と白壁王。

「ジョウゾウでもキヨミでも、お好きに呼んでください。

出家したのは、かれこれ一年も前のことですよ。

みなさんを、お招きして披露することできませんでした。

そういえば、あなたと、こうしてお会いするのも二年ぶりですか?」と文室浄三。

「はい。今日は、わたしの方に祝い事がありましたので、ご挨拶にうかがうと許可を取ってまいりました」と白壁王が、連れている若い従者を振り返った。

従者が持ってきた包みを浄三にささげて、「そこへ」と指された釣殿の机に置く。

「先日、井上内親王に、他戸おさべという息子が誕生しました。

内祝いです」と白壁王。

「男子に恵まれましたか」と文室浄三。

「はい。それと、この者を紹介させていただきたくて連れて参りました。

わたしの息子の山部です」と白壁王が従者を指す。

「山部ともうします」と山部王が身を低くする。

「ほう。なぜ従者の姿をしているのです?」と文室浄三が、静かな眼差しを山部王に向けた。

「わたしだけしか、訪問の許可をとっていません。

これからお目にかかるときは連れてきて、色々学ばせたいと思っています」と白壁王。文室浄三が、しばらく黙ってから聞いた。

「今日のあなたの言葉は、ふくみみがあっていけません。

率直に言ってください。なにをしにいらしたのです?」

「智努さん。いえ、浄三さん。では正直に申します。

もう、この体制にはうんざりです。なんとかしてください。

わたしは浄三さんのあとについて行きます。この息子にも手伝わせます。

だから、こんな世の中をひっくり返してください」と白壁王。

「わたしに謀反むほんを、そそのかしに来たのですか?」と浄三。

「謀反ではありません。奸臣かんしんを排除して自由に暮らせる世の中に戻して欲しいだけです」と白壁王。

たちばなの奈良麻呂ならまろたちも、奸臣を排除したかっただけです。

それに、わたしには、奸臣にさとられずに体制を変える知恵も力もありません」と浄三。

「皇嗣系で太政官をしておられるのは浄三さんだけです。年齢だって高い。

だから、こうして、お願いに来たのです」と白壁王。

「軽く、お願いしないでください。あなたは、わたしについてくるのですね」と浄三。

「はい。親子で、どこまでもついて行きます」と白壁王。

「一緒に捕まってろうにつながれてもですか?」と浄三。

「・・・はい」

じょうで叩かれてもですか?」と浄三。

「・・・・・・はい」

「どうにも信用できない。しかし、ちょうど会いたい者がいます。

わたしについてくる気なら一緒に会ってみますか?」と浄三。

「はい。会います」と白壁王。

「では、さっそく、山部王を使わせていただきましょう。

山部王。舎人寮とねりりょうから派遣はけんされている舎人の中に、今日は、いつもの人の代わりに中衛ちゅうえ舎人とねり土師はじの関成せきなりという男が来ています。

だれにも怪しまれずに、その男を、ここに連れてきてくれますか?」と浄三。

「だれにも怪しまれずにと言うことは、お邸の方にもですか?」と山部王。

「ウチの従者も信用できるのは数人だけです。奸臣が放った間諜かんちょう(スパイ)もいるはずです」と浄三。

「さっきの話を盗み聞きされたら・・・?」と白壁王。

「白壁さんは、なにを言い出すか分からない危険人物ですから、ここに案内しました。ここは周りが見渡せましょう? 

水草も飛び石もなくて池は浅く、底に白っぽい石を敷いていますから、水の中に隠れることはできません。釣殿の下も石でふさいであります」と浄三。

「話はもれませんが、姿はみえますね」と山部王が周りを見渡した。

釣殿は渡り廊下でつないだ、池の中に突き出した東屋あずまやのようなものだ。

「そういえば、山部王。

あなたは、もしかして、あの新笠にいがささんのお子ですか」と浄三。

「はい。和新笠の子です」と山部王。

「若いころに、新笠さんに相手にされないと、白壁から嫌というほど悩みを聞かされました。

では、あなたの母方のおばあさんは、土師氏ですね。

その男を知っていると、つごうが良いのですが」と浄三。

「土師氏も多いので、その名に心当たりはありません。その土師関成さんは、どこにいるのですか」と山部王。

「その男をよこしてくれた舎人は、いつも南門を警備しています。

病欠の代わりで来ていますから、そこにいるはずです。

その男は中肉中背で陽に焼けていて、左の手首に青い布を巻いているそうです」と浄三。

「分かりました。文室さま。すみと筆と紙を貸していただけますか」と山部。

「そこの部屋の中にあります」と文室浄三が指さした渡り廊下の先の部屋から、山部王がすずりと筆と紙を取ってきた。

「父上。たっぷりすみが残っていますから、紙にに何かを書いたあとで、この硯をひっくり返して床を汚してください。

禁酒令がありますから酔ったふりはできませんよ。自然にやってください」と山部王。

「分かった」と白壁王が筆を執って書き始め「浄三さん。このすづりは割れても良いのでしょうか?」と聞く。

「割らないでくださいよ。大切にしているものです」と浄三。

「では」と白壁王が筆を走らせながら、ひじを硯に当てて下に落とした。釣殿の床は墨で汚れて硯は欠けた。

「割らないでって言ったでしょうに!」と浄三が立ち上がる。

「欠けただけですよ」と白壁王。

「文室さま。南門はあちらですね。それじゃあ土師関成さんを連れに行って参ります」と山部王が小走りで去った。

「まったく。あなたが来ると、ろくなことが起こらない。

しかし、なかなか面白いご子息だ」と言いながら浄三が座りなおした。

「ところで、さっきの話ですが、奸臣と対抗できるのは太上天皇だじょうてんのうだけでしょうね」と白壁王。

「わたしも二人を対立させれば、なんとかなると考えました。

ただ、どうすれば二人をいがみ合わせられるのか知恵が湧きません」と浄三。

「ああ、連れてきましたよ」と白壁王。

桶と布を持った山部王が、舎人を連れて小走りで戻ってきた。

「土師関成です」と山部王が紹介する。

「怪しまれなかったか」と白壁王。

「さきに二人の舎人に掃除を手伝って欲しいと声をかけて、断られてから関成さんに頼みましたから大丈夫でしょう」と山部王。

「どうやって断られた?」と浄三。

「断りそうな人を見つけて、断りたくなるような頼み方をしました。

関成さん。床を拭きながら話をしてください。

お二人は足を上げて、椅子に座っていてください」とおけに池の水をくみながら山部王が言う。

「あなたは、太宰府から帰ってきたのですね」と浄三。

「はい」と床を拭きながら関成が答える。

「太宰府で、吉備真備から兵法へいほうを学んだと聞くが、真備はどんなようすで、どんな風に教えたか、見たこと感じたことを教えてくれますか」と浄三。

「なんでも良いのですか。そうですね。

真備先生と一緒にいられて、すごく幸せでした。こんな風でいいですか。

真備先生は六十六歳になられますが、わたしどもより足が丈夫で、山歩きなどでは負けてしまいます。

ある日、諸葛亮しょかつりょうの話をされて、諸葛亮は軍配ぐんぱいの代わりに鶴の羽でつくった扇を持っていたと、みんなで鶴の羽を探しに行ったことがあります。

結局は見つからずに、カラスやトンビの羽を拾って真似をしました。

ともかく楽しかったことしか思い出せません」と土師関成。

「兵法は覚えてきたのですね」と浄三。

「教えていただきました。それで色々なことに興味を持つようになりました。

しかし、わたしが思いますに、兵法は短期間では取得できません。

短期でおぼえられる人がいたとしても、生来しょうらい天分てんぶんがなければ使えません。

すでに起こった戦と、これから起こる戦では、気候も人数も地理もちがいます。

すべてを計算して、その場で判断を下せる者にしか兵法は利用できません」と関成。

「この国に、兵法を使える者はいるでしょうか?」と浄三。

「真備先生です」と関成。

「ほかに、とくに思い出に残っていることはありますか」と白壁王。

新羅討伐しらぎとうばつを・・・政治批判をなさったわけではありません」と土師関成が言葉をとめた。

「心配いりません。つづけてください」と浄三。

うれいておられました。

わたしたちは国境を知りません。

陸が続いているのに、ちがう国があることが実感できません。

そこで二つの組に分けて地面に線を引き、それを国境として、隙があったら敵の領土を盗るという競争を、太宰府の人たちも参加して大勢でやりました。

眠っても食事をしても、そのあいだに敵が攻め込んできます。

大陸や半島の国は、その状態で国境を守ってきたと真備先生はおしゃいます。

わたしたちのように宮城や内裏を守るのとはちがいます。国境を守る軍団は強い。

武器の絵も見せていただきましたが、想像もできないほど破壊力が強そうなものでした。そんなところへ、徴兵した百姓を送っても刃が立ちません。

それに兵糧ひょうろうや武器や馬の補給をどうするのかと、心配されていました」と関成。

安禄山あんろくざんのことは?」と白壁王。

「安禄山は、身分のないものが立ち上がって国をおこせる機会を与えてしまった。だから、これからも国盗り合戦が続くだろう。

海を越えて日本を攻めるような余裕はないとおっしゃっていました。

そして、せっかく島国という自然の要害ようがいに恵まれた国なのだから、他国を侵略するより、内政を正して清らかな国をつくったほうが良いともおっしゃいました。

他国を侵略すれば国民に大きな被害を与え、子々孫々ししそんそんまでが侵略の汚名をになうことになるとも、おっしゃっておられました」と関成。

「そうですか。あまり長くいると疑われます。今日は話しに来てくれてありがとう」と浄三。

「送って参ります。これは粗相そそうをしました、わたしのあるじからの心付けです」と山部王が小銭を差し出す。

「いえ。そんなつもりは・・・」

「人に見られるといけないので、早く収めてください。さあ、戻りましょう」と山部王が土師関成の肩を抱くようにして、桶を持って出ていく。


「どうですか」と浄三。

「彼は、すっかり吉備真備に陶酔とうすいしていますね。それほどの人物なら、こっちに欲しいです」と白壁王。

「わたしは、真備さんをよく知らないのですよ。

真備さんが学士がくしをされていたころは、わたしは始めは恭仁京を、つづいて紫香楽京しがらききょうを造っていましたからね」と浄三。

「わたしも、ずっと散位さんいですから、姿を見たことがあるだけで存じません。もう二十数年も前に、松林苑しょうりんえん(平城宮の北にある宮室)で楽器を演奏されたのを拝見しました」と白壁王。

「ああ、あれ。おぼえています。でも吉備真備を都に呼び戻すのは、むずかしいでしょうねえ」と文室浄三。

「恵美押勝が一番、警戒している人ですからねえ。呼び戻した途端に、われわれが疑われます」と白壁王。

「娘の由利さんに頼んで、死ぬ前に会いたいと太上天皇だじょうてんのうを口説いてもらったらどうです」と戻ってきた山部王が口をはさむ。

「娘の由利さん?」と白壁王。

「はい。太上天皇の女官です」と山部王。

「連絡できるのか」と白壁王。

「いや。太上天皇のお声掛かりだと、さらに疑われるかも知れません」と浄三。

「疑われないような策をります」と山部王。

「山辺。くれぐれも勝手に動かないよう。必ずわたしに報告してから動いてください」と浄三。

「はい。こころえました。必ず許可をいただきます。浄三おじさん」と山部王が口元に笑みを作ってうなずいた。



十月二十八日

淳仁天皇が平城宮の改造のために近江国の保良宮ほらのみや(滋賀県大津市国分。瀬田川の河口近くの東)に移り、そこを北京にすると勅をだした。遷都ではなく、平城京の北に位置する保良宮を副都ふくとにするという。

式家の藤原田麻呂は、保良宮の造宮使ぞうぐうしの一人に選ばれて従五位上を叙位された。

 

近江国(滋賀県)は、聖武天皇の治世中(七四五年)に藤原恵美押勝が近江守になっている。

地方の国守になるのは五位や六位の官人が多いが、中央で重職についている貴族の収入を増やすために、遥任ようにん(現地に行かない)という形で地方官を兼任させることがある。

藤原恵美押勝が近江守になったときは正四位上の民部みんぶのかみだったから、光明皇太后の口添えがあっての兼任だった。

それから今まで十六年も、押勝は近江守をつづけている。これは異例で、単なる加増のための遥任ではなく、押勝が近江国に強い執着心をもっているからだろう。

聖武天皇は紫香楽京しがらききょうが失敗するまで、近江国を仏教の聖都とする構想を持っていた。国分寺の造営など聖武天皇の仏教促進そくしん政策を継いでいる藤原恵美押勝も、その腹づもりがあるのかもしれない。

最高権力者になった今も、押勝は近江守を兼任している。


聖武天皇の時代を知っている人が多いので、行幸にしろ遷都にしろ移動にはなれている。

六十三歳になる女官の飯高いいだか笠目のかさめなどは、一か月半も各地を転々とした聖武天皇のさすらいの行幸にも同行しているから移動には慣れたものだ。

笠目は孝謙太上天皇に、保良宮は造宮使が任じられたばかりだから不便があると思うから、いつでも帰れるようにと使っている家具や調度品の多くを宮中の蔵寮くらりょうにもどさずに、光明皇太后が住んでいた法華寺ほっけじに運ぶように進言した。そして和気わけの広虫ひろむしをはじめ、半数の女官を法華寺に残した。

この年の内に、孝謙太政天皇や五位以上の貴族は保良宮にうつった。



そのころ大宰府は、百二十一隻の船を造ることと、九州の各地から兵士を一万二千五百人、郡司ぐんじの子弟を六十五人、船の漕ぎ手を四千九百二十人あつめるようにという命令を受けとった。

九州だけではなく、すべての地方におなじ命令がでていて、全国から五万人の若者が駆りだされて兵士になり、二万人の若者が船を漕ぐ水手かこにされる。

籍を届けている総人口が五百万人と多くないから大変なことだ。


「五万人の兵で新羅に勝てるのでしょうか?」と太宰帥の藤原真盾またてが、食事にまねいた大宰大弐の吉備真備に向かって言う。

「戦には勝ち負けがありますが、今回の新羅討伐は、なにをもって勝ったとするのでしょうか?」と真備。

「向こうからしかけてきたらになら、防戦ができたら勝ったと言えますが、こちらから行くのですから、新羅を倒して日本の領土にするときですか」と真盾。

「あちらは国が地つづきで隣りあっていますから、国境には戦になれた兵を集めた軍団をおいています。武器を持ったことがない二万人の百姓の若者が勝てるでしょうか?

かりに新羅を滅ぼせたとしても、国境を越えて、つぎつぎに新しい敵が攻め込んできます。それを防げるのでしょうか?」と真備。

「苗を植え米を育てるのに必要な若者たちを、みすみす死地に追いやるようなものですか。なんのための新羅討伐なのでしょう」と真盾。

「こちらには慣れましたか?」と真備。

「冬は過ごしやすいですね。山も都とちがって雄大です。

国内でも気候や風土が、こんなにもちがうのですから、唐の山や川は、わが国とはちがうでしょうね」と真盾。

「想像もできないほど壮大で厳しいところです。

国土が広いから砂漠もあれば、寒冷な土地もあります。険峻けんしゅんな山があり、滔滔とうとうと流れる大河があります」と真備。

清河きよかわは、その厳しい土地の、どこで、どうしているのでしょう。

最後に見た弟の笑顔が浮かんできて、胸がつまることがあります。

清河を迎えに行った使者たちは、唐に入れば命がないと報告していますが、まだ大師は遣唐使を送って、清河をつれもどしてくれると約束しています。

どうしても、それに期待してしまいます。

ですから、新羅討伐が無謀むぼうだと知りながら、わたしは大師をいさめることすらしていません。自分の弟だけを助けようとし、五万人の若者の命を見放しています」と真盾が遠くを見た。

「お気になさいますな。あなたが大師さまをいさめたところで、あなたが恨まれるだけで、なにも変わりませんよ。

真盾さま。唐の都の長安ちょうあんには、わたしの家族もくらしておりました。いまは、どうしているのでしょうねえ」と真備。

「ご家族? 彼の地に、ご家族がおられるのですか?」と真盾。

「はい。二度と会えないと思っていましたが、九年前に遣唐副使になって再会することができました。留学生として唐にいたころに、わたしを支えてくれた優しくかしこい妻と息子たちです。

わたしが帰国すると決めたときに、彼女は自分の国で子供とくらすことを選びました。りっぱに子供を育ててくれていました。

清河さんにも、ご家族がおられるかも知れません」と真備。

「ああ・・・もしも、あれが一人ではないのなら・・。

清河のそばに、その身を案じてくれる家族がいてくれるのなら、ありがたい。

そうだったら、どんなに嬉しくて心強いでしょう」と真盾。

「国はちがっても、見かけが異なっても、おなじ人と人です。

唐の国にも情に厚い人がおり、心優しい人がおり、身勝手な人がいて、心いやしい人もいます。

清河さんを案じてくれる人が、そばに、おられることを願いましょう」と真備が、真盾の杯に酒をついだ。





                     市原王

和乙継                   ‖

 ‖―――――――― 和新笠       能登女王

土師真妹        ‖――――――――山部王

            ‖        早良王

           白壁王       

            ‖――――――――酒人女王

           井上内親王     他戸王


光明皇太后――――――孝謙太上天皇(上台)


舎人親王―――――――淳仁天皇

           船親王(兄)

           三原王(故人)――――和気王


新田部親王――――――氷上塩焼

             ‖

           不破内親王


           吉備真備―――――――由利


長皇子――――――――文室浄三(智努王)


藤原南家       豊成(左遷)

           恵美押勝(仲麻呂)―――真先

           乙麻呂(故人)     訓儒麻呂

           巨勢麻呂        朝苅

                       刷雄

藤原北家       鳥養(早世)      辛加知

           永手          小湯麻呂

           真盾          薩雄

           清河(在唐)      執棹

           魚名

           御盾(室 押勝の娘)

           楓麻呂

           宇比良古(恵美押勝室)


           阿部古美奈

             ‖――――――――乙牟漏

藤原式家       宿奈麻呂―――――――諸姉(雄田麻呂室)

                      人数(魚名の息子室)

                      娘(永手室)

                      娘(楓麻呂室)

                      娘(永手の息子室)

           清成(早世)―――――種継

           田麻呂

           雄田麻呂―――――――旅子(母 諸姉)

           蔵下麻呂

        )                        

藤原京家       浜足

           百能(豊成室)


授刀衛        坂上苅田麻呂

           牡鹿嶋足           


女官         飯高笠目

           








































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