四 杖下に砕けた王 橘奈良麻呂の乱
七五四年(
五十五歳になる聖武太上天皇の体調がひどく悪い。もう一度、
不穏な動きがあるからと、
七五六年二月二日。
左大臣の
諸兄は七十二歳だから、その年になってもいない人が後でなにを言おうと、本人の
諸兄が退職して自宅にこもってから、聖武太政天皇が望んでいた難波宮への
聖武太上天皇の体調にあわせた、ゆっくりとした行幸で、行き帰りに
難波宮は聖武太上天皇にとっては、さまざまな思いが残る宮で、
「はじめてですって?」と裸足で砂浜を歩きながら、
「ええ。難波も、ここの宮もはじめてよ。海を見るのもはじめて」と
「うれしそうね」
「こうして手を広げて空にむかって叫びたい。
色々あったけれど、若女はこうして生きています。見ていてくださーいッて」と若女。
「おばあさんは早いでしょう。まだ、おばさんでいいんじゃない」そういう由利も三十八歳だ。
「宇合さまが、この難波宮を改築する
「若かったのね」
「そんなことをいう年になってしまったのよ。わたしの姿をみて、きっと笑っていらっしゃるわ。
亡くなってからのほうが身近に感じられるけど、宇合さまは年をとらないから…。
アラ? おおぜいの人が出ているわね」と若女。
「都の人は海がめずらしいから。帝も太上天皇とご一緒で楽しそうだし、それに話し相手に
「退官された橘諸兄さまを、平城京で押えているものね」と若女。
「どういうこと?」
「柴微令は、諸兄さまを押えておけば、反対派は動かないと思っているのでしょうよ」と若女。
「諸兄さまが、反対派の中心人物とでもいうの?」と由利。
「ちがうわよ。ただ光明皇太后と柴微令を相手にするには、それなりの大物が必要でしょう。
諸兄さまを押えておけば、反対分子がおとなしくしていると判断したのでしょうね」と若女。
「右大臣は?」と由利。
「
弟に同調はしないけれど、反対もしないで
「せっかく楽しんでいたのに、柴微令の話をすると気が重くなる。
いまだけは頭を使うのはよしましょうよ。
若女さん。あそこ、なにかしら。人があつまっている」と由利。
「
「行ってみよう。
人の輪のなかで、
「あの子、カワイイ」と由利が、楽器を
「わたし、ああいう子に魅かれるの。
華やかに人目を集めても、ホントのくらしは闇のなか。
危険で美しい、一瞬だけ人を惑わす
あの子、色白で女みたいにしなやかで不思議な色気があるわ。チラッと流す目線も、首のかしげかたもゾックとくる。
楽の音もステキ~! わたし、この
きっと父の血のせいね」と由利。
「由利さん! 女官らしくシャンとしなさい!」と踊り手を見て若女が叱った。
「見て楽しんで
「カッテは通らない。さっさと靴をはいて、サカリのついた鹿みたいに鼻息を荒くしないで、吉備真備の娘らしくなさい!」と若女は、足の砂をはらって靴をはきはじめる。
「サカリのついた鹿! ナンてこというのよ!」と由利。
踊りがおわると、見物人のなかに
「アラ!」と女がよってくる。靴を履きおえた若女が腰をかがめた。
「久米若女さん」
「新笠さん。お久しぶりです」と若女。
「見てたの。こちらは、お友達?」と話しかけた踊り子は、派手な衣装をまとった
若女は、片手に一足ずつ靴をもち、裸足でキョトンと立っている由利をにらんだ。
「ご紹介します。同僚の吉備由利です。吉備真備の娘です」と若女。
「吉備真備の娘?」と楽器をもった若者が、もたれていた松からはなれてそばにきた。
「山部王さま・・・ですか。大きくなられましたね。
わたしよりズット背が高くなられて分かりませんでした。
由利さん。こちらは白壁王のご子息の山部王。そして母君の和新笠さんです」と若女。
由利が靴を落とした。それでも、さすがにしっかり立って「お見苦しい姿で申し訳ございません。吉備由利ともうします」と腰を屈めてあいさつをする。
「まるで昼の月のように、白くて美しい足をしておられる。眼の保養ができました。
砂浜を素足で歩くのは、わたしも好きです」と山部王が由利に微笑みかける。
「気にしないでね。あの子は
「はァッ?」と若女。
「人転がし。父親に似たのよ」と新笠。
「あァ。なるほど。こちらには白壁王と、ご一緒に?」と若女。
「そう。海はいいわね」と新笠。
「いまの舞と楽は、どちらのものです?」と若女。
「
「種継とは会うけれど、雄田麻呂兄さんや
「みんな元気ですよ」と若女。
「会いたいな。雄田麻呂兄さんは登庁しているの?」と山部王。
「まだ従七位下の散位ですから」と若女。
「家にいるのなら訪ねてみます。
じゃあ、由利さん。いつか、どこかで、また、お会いしましょう」と山部王が楽器を小者に渡して、アッケにとられている由利に笑顔を向けた。
「じゃあね。若女さん。由利さん。美しい素足を見てくれてありがとう」と新笠たちは去っていく。
難波宮への行幸は、二月二十四日から四月十七日までの長い旅になった。
三月末からは聖武太上天皇の体調が悪化して、難波宮からもどると太上天皇は
四月二十二日。
都から
このまま駆けてゆきたい。駆けて、駆けて、故郷へ帰りたい。帰りたい。故郷に帰りたい。
牡鹿嶋足は、大仏
反乱をおこした式家の藤原
蝦夷は陸奥(東北)に古くから住んでいる先住民族で、こちらも大和朝廷をつくる民族とは人種が違う。
大和朝廷が支配しているのは九州から四国と本州の西で、九州南端と東北は含まれていない。稲作がはじまり
今から三十六年まえ(七二〇年)に、大和朝廷は阿部
ただ蝦夷に対しては減税をしたり、これまでの族長を
嶋足の家は
故郷で一番の弓取りと言われる嶋足もつれてこられて、官人たちの歌や踊りのあいだに、おおぜいの
結果としては、それが良くなかった。
大仏開眼供養の翌年の七五三年の六月に、孝謙天皇から
小柄だが筋肉のしまった美しい身体と、清々しい顔立ちをした蝦夷の若者は、すぐれた弓技を認められて孝謙天皇直属の
官人でも三十階ある位階の一番下の大初位下だから、給料で食いつなぐのがむずかしい下級官人だ。
言葉も通じない。習慣もちがう。知っている人がいない都に残された嶋足は、孝謙天皇の護衛をする
「とまれ!」と先頭を走っていた
「なんだ?」と
「急ぐこともない。ここらで馬を休めていこう」と福信。
小川が流れている。嶋足は馬に水を飲ませながら空にむかって大声をあげた。帰りたい気持ちが体から飛び出して空を飛んでゆくようだ。一度、声をあげると止められなくて、なんども
「嶋足。どうした?」と
「ほっとけ。そいつは言葉が通じない。息抜きをしているだけだろう」と福信。
「言葉は分かっている。話そうとしないだけだ」と刈田麻呂。
苅田麻呂は、おなじ授刀寮につとめていて、日ごろから蝦夷の嶋足のことを気にかけてくれている。
「なら、なおさら、ほっといてやれ。
深緑の森を馬で駆けたので、国を思いだしたのだろう。帰りたいだろうさ」と腰をのばしながら、まだ登庁まえの奈貴王が言った。
年齢も
「ところで、どうして招かれた?」と高麗福信が、川辺の石にすわりながら聞く。
「この
「おい。そっちの若いのも、こっちへこい」と福信が、坂上刈田麻呂と牡鹿嶋足に声をかける。
「このなかに加茂角足と親しい者がいるのか?」と福信。
「聞いたことがない名だ」と奈貴王。
「父が
「自分で答えさせろ。どうだ?」と福信が嶋足に聞く。
嶋足は首を振って知らないことをつげた。都にも官人にも興味がないから見かけていても覚えていない。
「では角足を知っているのは、わたしだけだな」と福信が念をおす。
高麗福信は従四位下の
ただ福信は呼ばれない限り柴微中台に顔をださないし、とくに角足と親しいわけでもない。
「われらを招いたのは武勇をかってのことだ。加茂角足は、よく知りもしない、われらを集めて飲み食いをさせて親交をもち、自分に力をかせと頼むつもりだろう。
食い物でツルとは安くみられたものだ。気にくわない」と福信。
「武術を競う大会でも開いてくれるのなら、喜んで参加するけどな。
おそらく今の政治を批判して、なにかを企んでのさそいだろう。
仲麻呂は嫌いだが、わたしは政治にかかわりたくない」と奈貴王が刀を抜いて、夕方になって生えたヒゲを
「奈貴王のいうとおりだ。
そのうち仲麻呂を討つのに手をかせと頼むための準備だろう。
奈貴王は関わらないといっているが、そっちの二人は、どうする?」と福信が苅田麻呂にきく。
「わたしは帝を護衛する授刀舎人だ。帝の命令しか受けない」と刈田麻呂。
「おまえはどうだ。おまえは朝廷にも帝にも義理はなかろう?」と福信が嶋足に聞いた。
父たちが帰ってしまってから嶋足は人と話したことがない。はじめは言葉が聞き取れなかったが、そのうち理解できるようになった。それでも正しく話せる自信がないので、話さずに仕草で意志を伝えている。福信が嶋足を見たまま返事を待っている。
「わたしは」と嶋足は声をだしてみた。苅田麻呂と奈貴王が、嶋足を見る。
「勇者だ。勇者は守る…」と、そこまで言って嶋足は、しばらく言葉をさがした。
帝を守る義理はないし朝廷を守る気もない。なにを守ると言えばよいのか。なんという言葉だったっけ…。そうだ。約束だ。
「わたしは約束を守る。裏切らない」と嶋足が言葉を足した。
「おう。話した!」と苅田麻呂が喜んだ。
「勇者か。いいことをいうじゃないか。それで、だれと、どんな約束をした?」と奈貴王。
「授刀寮で働けといわれて、うなずいた。それは約束だ」と嶋足。
「そういうときは嶋足。いつも上役が職務を果たせと、どなっているだろう。
与えられた職務を果たすといえばよい」と苅田麻呂。
「奈貴王! 濃くもない髭を刀であたって振りまわすな!」と福信。
「安心しろ。まだ人も動物も斬ったことがない」と言いながら、奈貴王が刀を収める。
「嶋足の言うとおり、われらは勇者で
帝の
みんなの意志は一つだな?」と福信が確認をする。
「そうだ」と奈貴王。
「加茂角足の別荘についたら、わたしが話をそらそう。
角足から、なにかを聞いてしまうと、上に報告しなければならない。
わたしも藤原仲麻呂のやりかたに納得がゆかないから、角足たちの企みを報告したくない。
なぜ招かれたのか分からないままに、飲んで食って引きあげてくるのがいい」と福信。
「そうしてくれ。わたしが酔いにまかせて加勢する」と奈貴王。
「メイワクだ!」と福信。
「加茂角足のように
ところで福信。おまえはホントに
「若造に、おまえ呼ばわりをされるほど、年も位も低くはないぞ!
奈貴王。おまえこそ王を名のっているが、どの天皇の
「聞いたことがない程度なら、名乗るほどのこともない」と奈貴王。
「ほんとうに
「仲間なら、いちいち気にするな!」と奈貴王。
「ほう。弱みでもあるのか?
わたしは高麗人だ。高麗が滅んだあとで、じいさんが日本に逃げてきた」と福信。
「日本まで逃げてきたなら、じいさんは高麗の高官か。それとも
「よく知らないが、わたしは
若いころに相撲で名をあげて、そこの嶋足と同じよ。官人にとり立てられて
聖武太政天皇に可愛がられて、いまじゃ従四位下で、これでも貴族だ」と福信。
「貴族が一人で出歩くのか」と奈貴王。
「供をつれると世話が焼ける。
嶋足。おまえも授刀舎人の牡鹿連嶋足だろう。
一度、官人になると辞めるのはむずかしい。故郷をなつかしむ気持ちは分かるが、おまえは都で、おまえのことを分かってくれる娘を見つけて家族をつくればよい。
おまえの家族には連という姓があるから、たいした出世はできなくとも穏やかに生きてゆけるかもしれない」と福信。
「坂上氏は
まえから不思議に思っているのだが、刈田麻呂。大陸から来る
「じいさんに聞いた話では、大陸には目が青くて髪が黄金のように輝く人もいるそうだ」と福信。
「髪が黄金。金糸みたいにか。ほんとうか?」と奈貴王。
「ああ。大陸は北や西の方まで侵略して統一国をつくり、それを奪い合って分割させるような争いをくり返している。だから言葉も習慣もちがう人種が混ざっている。
東漢と名乗っていても、苅田麻呂。それぞれ出自はちがうのだろう?」と福信。
「われわれは、
だからなのか、東漢氏には見かけのちがう人もいる」と苅田麻呂。
「そうか。よし。じゃあ、そろそろ行こう。
いいか。われらはの仕事は帝を守ること。われら四人の勇者は、主と友を裏切らない!」と福信がいった。
「おう!」と全員が声をあげた。
なんとなく意味を理解した嶋足も声をあげていた。
坂上苅田麻呂と牡鹿嶋足が勤めている授刀寮は、光明皇太后の息子の
そのあと孝謙天皇が皇太子になったときに授刀寮は再建されて、孝謙天皇に直属する
高麗福信がいる中衛府も天皇の親衛隊で四百人がいるが、こっちは
五月二日。
聖武太政天皇が内裏の寝殿で亡くなった。
聖武太政天皇は
道祖王は、聖武太上天皇の三女の
在位二十五年のあいだに、聖武太政天皇は遷都をくりかえした。
おかげで臣下も庶民も
長男の基親王の死。母方の実家の藤原氏がおこした長屋王家の
人々の心のよりどころと死者の
今回も佐伯今毛人は
はじめて
内舎人だった今毛人は、その顔や姿を思いだすと切なくなる。今毛人が建築に興味をもっているのを知って、地方官にせずに東大寺造営の仕事につけてくれたのも聖武太上天皇だ。
大伴古麻呂も造山司の一人に選ばれていて、幾度か今毛人に会いにきた。おなじく造山司の一人の高麗福信が、なぜかタイミングよく分からないことを聞きに顔をだしてくれたので、今毛人が古麻呂と二人になることはなかった。
五月十日。
日の出とともに官庁は始まるから、みんな朝が早い。
とくに聖武太政天皇が亡くなったあとなので、
三船は、昨年から
ちょうど日が昇るころに、
逮捕の理由だけは、大伴
薄暗い牢に入れらたまま放っておかれたので、土の上に
五年前に博識が評判になって孝謙天皇の勅命で
いきなり牢に入れられて驚きはしたが、うろたえてはいない。なにが悪くての逮捕か分からないから、呼吸をととのえて体の力をぬき、経文を唱えて心と体を安定させようとした。
ところが無心になろうとすればするほど、雑念がよぎる。夢の断片のように頭をよぎる想念のなかに、難波宮の南殿の庭にいる大伴古慈斐の姿が浮かんできた。
あれは聖武太政天皇の最後の行幸になった難波宮でのことだから、三月のはじめのころだった。思いだしたとたんに三船の知覚が現実的に動きだした。
三月のはじめなら、もう二ヶ月もまえのことだ。後にも先にも大伴古慈斐と二人で話したのは、あのときだけだ。
ちょうど三船が宮城に戻ろうとしていたときに、退出しようとしていた古慈斐と行きあって
大伴古慈斐は六十一歳。若いころから頭脳明晰な知識人として知られ、藤原
あのとき古慈斐と三船は、聖武太政天皇が重体なのに孝謙天皇の皇太子が決まっていないことを心配して言葉をかわした。話の内容は官人なら、だれもが不安に思っていたことで、次期後継者に誰が良いなどの俗な話はしていないから大した内容ではない。
三船が思い出したのは、あのとき、声がとどくところに誰もいなかったことだ。話が聞こえたのは三船がつれていた一人の従者と、古慈斐がつれていた二人の従者だけだ。藤原仲麻呂が情報を買っているという噂は聞いている。あのとき二人がつれていた従者のなかに密告者がいて、それが告訴人になったのだろう。
汚いやり方だと思うと無心になるどころか、淡海三船は無性に腹が立ってきた。
聖武太政天皇の
藤原仲麻呂は光明皇太后に才気を認められて、若いころから可愛がられたと聞く。
ただ仲麻呂が得意なのは算術だけで、それも自分の野心のための
三船が好む
きっと歴史や法律などの知識も、その道の知識人からみたら
仲麻呂は、なにかに優れる人に異常なほどの嫉妬心をもつと聞いたことがある。だから実力のある人を活かすのではなく、つぶそうする。
そう考えると古慈斐と三船がねらわれたのも納得がゆく。
三船は孝謙天皇の相談相手をしている。古慈斐は知性と知識を尊敬されて、官人たちに頼られることが多い。
一度しか会ったことがないが、強い感銘をうけた学識者で孝謙天皇の
仲麻呂は、光明皇太后と孝謙天皇の側から、有能な官人や善良な官人を除いて自分が一番でいたいのだ。
それは天皇を助けて
いままで
柴微中台ができてから、仲麻呂の立ち会いなしで誰も光明皇太后と会えなくなった。光明皇太后は、仲麻呂からの情報しか受けとっていないのだろう。
僧だった三船は出世欲や物欲は少ないが、知識欲は強い。知識人や能力のある人を尊敬していて、知識は世に広めるものだと思っている。
こみあがってきた怒りに白い喪服を着た三船は、立ちあがって足をふみならし両手をにぎりしめた。
暗い
そこから入ってくる光の帯が三船の肩を照らした。光の帯のなかに舞うチリがキラキラと輝いていた。
おなじときに大伴古慈斐は、
大伴古慈斐が政道を批判して投獄されたことは、すぐに大伴
家持は、安積親王の不審死で仲麻呂の恐ろしさを知っている。
政道批判などするはずがない温厚で常識のある六十一歳の古慈斐が捕らえられたのは、武門の大伴一族にたいする
藤原仲麻呂には、光明皇太后と孝謙天皇がついている。仲麻呂に反撃することは、天皇に反抗することにもなる。大伴氏が動揺して仲麻呂を恨まないように、三十七歳の家持は帝に
「
そのあとに
(日本中に知れ渡った 天皇の一番の
(剣や刀を いまこそ研いでおこう 昔から天皇の忠臣として 揺るぎなく仕えた大伴一族の名にかけて)
孝謙天皇は聖武太政天皇が好きだったから、父を亡くしたあとの
親しい身内を亡くしたあとは、しっかりしているように見えても判断力や行動力がズレて鈍ってしまう。淡海三船と大伴古慈斐が捕まったのは、聖武太政天皇の崩御の直後だったので孝謙天皇は気がつかなかった。
聞きたいことがあって内竪の三船を呼んだときに
それでも五月十三日に
このあと淡海三船は内堅を解任されて、孝謙天皇から遠ざけられる。
かわりに藤原仲麻呂が、執務室でも
五月十七日は、聖武太政天皇の
五月十九日に、聖武太政天皇は
山稜に向かう葬列は、仏につかえるようにの
六月二十一日の
孝謙天皇は両親の影響で仏教を信じているが、美しく華やかなことも好きだ。
聖武太政天皇の葬儀や
一番弱っているときに寄りそって、受け入れやすい好みの助言をしてくれる仲麻呂に、孝謙天皇は信頼という
秋七月十七日。
孝謙天皇の勅で、授刀寮が中衛府の下におかれることになった。
「どういうことだ?」と授刀寮をたづねてきた奈貴王が首をかしげる。
「このまま、ここに寝泊まりして帝の警備に当たるらしい」と奈貴王といっしょに授刀寮にきた
「することは、いままでと変わらないのか?」と奈貴王。
「呼び名も授刀舎人のままで、中衛舎人にはならないと聞いている。制服も変わらない」と、授刀舎人の坂上苅田麻呂。
「することがおなじで呼び名も変えないのなら、なぜ中衛府に移して授刀寮を廃止した? 中衛府には、すでに中衛舎人がいる」と奈貴王。
「授刀寮は、いまの帝が皇太子になられたときに再設置された。いまの帝だけに直属する舎人寮で、どの省にも属しておらず帝の命令しかきかない。
中衛府は、
つまり朝廷のものではない帝個人の親衛隊を、朝廷の親衛隊のなかに吸収したということだ。
こんなことをすれば手足をもぎ取るようなものなのに、なぜ帝は自分に不利なことをする?」と福信。
「刈田麻呂や嶋足に会いにくるには都合が良いが、おい。嶋足。
相変わらず愛想がないな。せっかく来たのにあいさつもしないで、さっきから一人でなにを読んでいる?」と奈貴王。
「
官人として通用するように、一から教育することにした。こいつは物覚えが良い」と刈田麻呂。
「漢書が読めるのか?」と福信。
「嶋足は
あとは官人が知っている本を読み込んで、
「おまえが教えるのか? 刈田麻呂」と奈貴王。
「はじめから、ていねいに教えている」と刈田麻呂。
「はじめから、どこまで?」と奈貴王。
「わたしの知っているところまでは、まかしておけ」と刈田麻呂。
「どうして、やる気になった? 嶋足」と福信。
「戻れないなら、進むしかないでしょう」と牡鹿嶋足が、本を閉じて福信に向きあった。
「そんなふうに考えるヤツだったのか。話すのがうまくなったな」と福信。
「
「ありがとうございます」と官人らしい所作で嶋足が礼をした。
「授刀寮を中衛府に吸収するとは、帝の力を弱めるような動きだ。
刈田麻呂。嶋足。おまえらは個人的に名が知られた弓の名手だ。
妙な誘いにはのるな。いつもとちがうことに誘われたり、いつもとちがうことを頼まれたときは、かならず帝の勅命かどうかを確かめろ。
とくに嶋足は知人が少ないし都の生活にもなれていない。刈田麻呂。気をつけてやってくれ」と福信。福信と奈貴王は、これを伝えにきたらしい。
「そのうち
「そりゃよい。わたしも探そう」と福信。
「おねがいします!」と牡鹿嶋足が若者らしい明るい声をだした。
吉備真備は、もう六年も九州に赴任していて六十一歳になった。
六年の内の一年余は遣唐使として唐に行き、帰国したときに数日だけ都に戻った。
それからは
ところが七月になって「現職のままで、外敵を防ぐため大宰府に城を築くことに専念するように」という六月二十二日付のヘンな令書が真備のもとにとどいた。六月二十一日が聖武太上天皇の四十九日だから、それを待ってだされているが天皇の勅令ではない。太政官印(
昨年から大陸にある唐の国は、
由利からの知らせでは、太上天皇が亡くなったあとは藤原仲麻呂が孝謙天皇のそばにいて、
おそらく築城は太政官たちが合議して決めたことではなく、仲麻呂が天皇に上奏して決めたのだろう。届いたのが
築城に専念するようにということは、地方官とちがって城造りの任期など法令化されていないから、ずっと九州から帰ってくるなということだ。
でも大宰府は日本の外交の玄関だから、外国からの侵入を防ぐための城があっても良いと真備は考えた。
それに、なんたって、かんてったって、城だ! 城造りだ! 知識を形にして実現できる、こんなチャンスを逃してたまるか!
それからの真備は土地をさがし、
真備のふるさとの吉備にも、中大兄皇子がつくった山城が残っているが半島の様式だった。真備が造ろうとしているのは大陸様式の
平城京にいる官人がピリピリしているときに、九州に
ナデシコの花が咲いている。
寝ついた
聖武太上天皇に寄り添うように生きてきた父。おだやかで人と争うことを好まなかった父。ナデシコの主張しない可憐さを愛した父。十五歳下の聖武太上天皇に先だたれてから、諸兄は床について眠ったり目覚めたりをくりかえしている。
ロウのように肌が透けてきた父は、もう先が長くないだろう。
奈良麻呂は三十五歳になる。
「来ていたのか」と諸兄がつぶやいた。
「おめざめですか」と奈良麻呂。
「奈良麻呂」
「はい」
「……すまなかった」と、かすれた声で諸兄がつぶやいた。
「なにがでしょう」と奈良麻呂。
「わたしに力がなかった。そのせいで、おまえを辛い立場に残すことになった」と諸兄。
「なにを心配しておいでです。わたしのことは大丈夫です。水を飲まれますか」と奈良麻呂が、諸兄の肩を抱いて半身を起し
背中の骨が、はっきり手に伝わるほど痩せている。一口だけ諸兄はのどをしめらした。
「おまえは大丈夫なのか」と諸兄。
「はい。ご安心ください」そっと父を寝かせながら、奈良麻呂が答える。
「大丈夫だな」とつぶやくと、諸兄はウトウト眠りはじめた。
奈良麻呂は父の眼もとに、にじむむ涙をふいた。
若い参議として、奈良麻呂は同世代の官人たちから慕われている。紫微中台を中心とする政治に反発する人は、奈良麻呂を頼ってくる。
おなじ思想をもつ者が集まることは危険だと思いながら、かれらの考えや
つぎの年の七五七年正月五日。
聖武天皇と供に生きた橘諸兄は、あとを追うように七十三歳で亡くなった。
橘諸兄が亡くなり聖武太政天皇の
七五七年。三月十日。
毎日、柴微令の藤原仲麻呂が内裏にやってきて、孝謙天皇と二人で話し込んでいる。
「まだ、お気持ちが決まりませんか」と仲麻呂。
「太上天皇が
「これを、ごらんください。太上天皇が皇太子にすると遺言された
「ほんとうか?」と孝謙天皇。
「ほんとうです。どう思われます。
太上天皇の一周忌がすぎれば、すぐに皇太子に
こんなに女性関係が乱れている皇太子が即位後されたあと、帝を親として敬われると思いますか。
それに道祖皇太子の兄は、帝の異母妹の
太政天皇となられる帝のお立場は、どうなるのでしょう。
わたしには藤原氏に近い帝が大切です。太上天皇となられても、帝に国を
ごぞんじのように大炊王は、たいした器量をおもちでははありませんし、頼りになる後ろ盾は、わたししかおりません。
大炊王を立てて、帝が太上天皇として国を治めてください」と仲麻呂。
「大炊王は
「舎人親王の
庶子といわれるなら、大炊王の兄になる船王も池田王も庶子です。道祖皇太子も庶子ではありませんか。
お考えが決らないのなら、こうなさったらどうでしょう。
ここに書かれている道祖皇太子の日ごろの行いを良く読まれて、このまま譲位をするか、それとも大炊王を皇太子にして譲位し、帝が太上天皇として
天の
藤原仲麻呂は五十一歳になる。聖武太政天皇が亡くなってから十か月と少し。
毎日つきっきりで「太政天皇として国を治めてほしい」「国を治められるのは帝だけだ」「わたしが支える」と孝謙天皇を口説きつづけている。
それを聞く三十九歳の孝謙天皇は、天皇の責任の重さへの自覚が薄い天皇だった。
いまから三十一年前の七二七年九月二十九日。
すでに亡くなった祖父の藤原
この基親王は生後一ヶ月で皇太子になり、もうすぐ一歳の誕生日を迎える七二八年九月十三日に死去してしまう。この年に
天皇の外戚になれると思っていた藤原氏二世代目の四兄弟は、基皇太子の死と安積親王の誕生にがく然とした。このときの安宿姫と広刀自は同格の夫人だったから、安積親王が皇位継承権を持つことになるからだ。
そこで妹の安宿媛を正妃にしようとして、反対するだろう左大臣の長屋王をさきに葬ろうと企む。
長屋王が国を呪ったと密告されるのは、基皇太子の死から五ヶ月後の七二九年二月十日。長屋王一家が
密告を受理して長屋王邸を包囲し、長屋王たちを拘束して
このとき長屋王と供に
長屋王が
その日、孝謙天皇は母と一緒に皇后宮で父を迎えた。
聖武天皇は、宮城をでるときから笛や
聖武太上天皇を
孝謙天皇は「長屋王の変」のときは十一歳だったから、なにも知らない。
長屋王のことを話す人も周りにはいなかった。それでも謙天皇の立太子を認めようとしなかった元正太上天皇がいたから、引け目だけは感じていた。
そして仲の良かった父の聖武天皇は、内外印と駅鈴を母に託し皇太子を遺詔して亡くなった。父も孝謙天皇の治世を望んでいなかった。
孝謙天皇は自信のなさからくる
仲麻呂にとって孝謙天皇は、光明皇太后より扱いやすい天皇だった。
三月二十日。
孝謙天皇の
三十九歳にもなるのに、どうして、こうも孝謙天皇はだまされやすいのだろう。そのうえ、だまされたことが分かるとヒステリーをおこすほど傷つく。
宮中一の美貌を誇った若女も、髪に白いものが光る四十五歳になった。
若女のような
若女があずかっている女儒の
阿部氏は、大和の
阿部古美奈は、ひかえめな性格だが頭が良くて
大野
女官にも経理や職務状態を記録して、所属している
藤原南家の右大臣の
吉備由利が、めんどうをみていた
去年の暮れに広虫が育てた孤児たちが成人して、夫の
「まったく、どこまで人が好いのだか。
広虫さんが働いて、いただいたお金を家に送って育てたのに、帝が育てたことにされても、
女官に心の内を見せない孝謙天皇も、広虫だけは可愛がっている。
その広虫は天井板の下に座り込んで、手を合わせて涙を流しておがんでいる。
吉備由利も両手を合わせてなにかをつぶやいている。ありがたがっているのではなく、人に聞かれたくない
由利も三十九歳の古参の女官になった。いま由利があずかっているのは出仕したばかりで十六歳になる
そして采女出身で女官になり、従五位上をもらった五十九歳の
二日後の三月二十二日に、天皇は群臣や皇族を集めて天井の「天下泰平」の文字を見学させてから、みんなに聞いた。
「聖武太上天皇の遺詔によって
道祖皇太子自身が、幾度となく皇太子をやめたいと天皇に奏上している。
ついに来るものが来ただけで、だれもおどろかなかった。
右大臣の藤原豊成が代表して答えた。
「ご判断にさからいません」
三月二十九日に、道祖王は皇太子を廃されて自分の邸に戻った。
道祖王を廃するときに皇族や群臣に相談する形をとっているから、つぎには、だれを皇太子にするかと天皇から相談があるだろう。
そこで南家の家長の豊成(五十三歳)が、邸に藤原一族の
北家の
藤原四家は不比等の四人の息子を始祖とするが、北家が、長男の
四人は同じ年に亡くなったので、亡くなった時の最終位階に差があり、それが三代目の出世にも年齢にも影響している。
豊成は従二位の右大臣。永手は従三位の参議として公卿と呼ばれる高位にいて政治の
「どうします?」と藤原永手がきいた。
北家には、永手の下に三弟の
「仲麻呂は、自分の
帝が大炊王を立てると
「では、われわれも大炊王を立てますか」と永手。
「どんなものだろう。まだ大炊王は登庁されたこともない、だれも知らない舎人親王の二世王だ。
兄の池田王や船王をさしおいて、大炊王を立てるのは筋ちがいではないか」と豊成。
「どっちみち、だれを立てても大炊王に落ちつくと思いますよ」と永手。
「北家が大炊王を推薦するのは自由だが、わたしは仲麻呂に合わせる気はない。
仲麻呂がしていることは、まちがっている。わたしは道祖王の兄の
塩焼王には、聖武太上天皇の外孫になる子息がおられる」と豊成。
「塩焼王は、聖武太上天皇がおとがめになって流刑にされた方です。
前科がありますからチョッとむずかしいでしょう。
それに塩焼王を立てたら、豊成さんと仲麻呂さんとの仲が、もっと悪くなりませんか」と永手。
「どっちみち大炊王が皇太子になったら、わたしは右大臣を降ろされて流刑になるだろう。
いままで生きてこれたのは、あれが兄殺しの汚名を史書に残したくないからと、わたしが食べ物や飲み物に注意してきたからだ。
仲麻呂は大臣になって、天皇を操って天下を握ろうとしている。
それなら、わたしも南家の家長として筋だけは通しておきたい。
聖武太上天皇のお子の不破内親王を妻としている塩焼王を立てたい」と豊成。
「…分かりました。
わたしは個人的に塩焼王は思い込みが強すぎので苦手すが、立てるだけなら塩焼王を立てましょう」と、しばらく考えて永手が言った。
「式家も京家も同意してくれるかな」と豊成。
「豊成さんが決められたことですから、同意するしかないでしょう」と京家の浜足がトゲのある言い方をした。
豊成の妻で女官の藤原百能は、浜足の姉になる。
「式家は」と豊成。
「承知しました」と宿奈麻呂。
「じゃあ、そういうことで、わたしは行くところがありますので先に失礼します」と浜足が席を立って、永手と宿奈麻呂が残った。
「豊成さん。さきほど言われた右大臣を降ろされるって、ほんとうですか?」と宿奈麻呂が聞く。
「そうなるだろう。三原王のように急死するか、遠方に流されるかは分からないが」と豊成。
「そこまで、こじれていたのですか」と宿奈麻呂。
「それにしても宿奈麻呂。ずいぶん老けたな。何年ぶりの都だ?」と豊成。
「足かけ十一年。正確には十年とチョッとになります」と宿奈麻呂。
「長かったな。都も人も変わっただろう」と永手。
「手紙はもらっていたのですが、聞くのと見るのではちがいます。
「たしか子供たちは、こっちで育てていたな」と豊成。
「はい。
こんなときに申し訳ないのですが、個人的な相談をしてもいいですか」と宿奈麻呂。
「なんだ?」と豊成。
「じつは、わたしの娘たちに早く夫を持たせたいので、永手さん。北家の方を紹介していただけませんか」と宿奈麻呂。
「娘たちって、何人いる?」と豊成。
「最後の宅美だけが男子で、娘は十九歳を頭に十七歳が二人。その下に十四歳と十二歳の五人がいます。このうち十七歳の一人は、本人が弟の雄田麻呂と一緒になると言い張っているので除いてください」と宿奈麻呂。
「十四歳と十二歳の娘も、まだ急ぐ必要がないだろう?」と豊成。
「いえ。形だけでも早く夫を持たせたいと思います。
わたしは器用な話しができませんので、率直に言います。
都に戻ってから、豊成さんと仲麻呂さんの仲が悪いことは聞きました。
つぎの天皇が仲麻呂さんに都合の良い大炊王なら、豊成さんの立場が危うくなり、仲麻呂さんが天下を
これから先、どうしたら良いのか分かりません。
それで家族全員で考えて、北家の家長である永手さんにお願いしようと決めました」と宿奈麻呂。
「どうして、それが北家と娘の縁談話になる?」と豊成。
「知っていると思いますが、わたしの妹は仲麻呂の正妻です。
仲麻呂には息子が多く、その長男から三男までが妹の子で、宿奈麻呂さんの娘達とつり合う年頃で・・・つまり仲麻呂の息子を世話しろと言うことですか?」と永手。
「その反対です。
娘たちを仲麻呂さんの息子たちのもとにやりたくないから、急いでいます。
今のところ式家で子供がいるのは、わたしだけです。嫡男になる息子と、弟の雄田麻呂と一緒になると言い張る娘を除いて、式家には四人の娘しか子供はいません。
その全員をまとめて引き受けていただけないでしょうか」と宿奈麻呂。
豊成と永手が顔を見合わせた。
「おまえが、それを考えたのか?」と豊成。
「わたしも居たけれど、弟たちと若女さんとアヤさんと、家の従者もみんなで考えました」と宿奈麻呂。
「今日、ここで、この話をしたのは、おまえの判断か?」と豊成。
「いつものように浜足さんが先に帰ったら頼むように、三人になれなかったら別の方法を考えようと・・・」と宿奈麻呂。
「弟にか?」と豊成。
「みんなで話しているうちに、そう決まりました」と宿奈麻呂。
「どうして浜足を省いた?」と豊成。
「今の式家と京家が手を組んでも、仲麻呂さんに目を付けられて潰されるからです」と宿奈麻呂。
「永手さん。これは北家にとっても、式家にとっても良い話しかも知れない。
わたしのまえで話したのは、式家は仲麻呂には
宿奈麻呂が、コクンと首をうなずかせた。
「わたしが追放されれば、南家の弟たちは仲麻呂に従うだろう。
大炊王が皇太子になって即位すれば、姻戚だから北家は仲麻呂に従わざるを得なくなる。そうなれば、仲麻呂の天下が来る。その間、式家は北家の陰に隠れていられる」と豊成。
「じゃあ、式家との婚姻で北家は何を得るのです」と永手。
「仲麻呂という男を知れば分かる。
今の式家は位階も低く年も若いが、こんな手を考えつく知恵の回る弟や家族が居る。
わたしは式家と親しいが、宿奈麻呂に娘が五人も居ると知らなかった。貴族は娘を隠すものだ。コッソリ婚姻すれば、仲麻呂も大勢いる北家の妻妾のなかに、式家の娘が多いことに気がつくまい」と豊成。
「そんなに上手く隠せるものですか?」と永手。
「仲麻呂は信用できない男だ。
いつか仲麻呂から離れたくなったときに、違う方向を向いている式家がいる。
四人の娘を北家に出した式家は、必ず北家のために働いてくれる。
これがあるのは大きいぞ」と豊成。
「まず兄弟に相談して、よく考えて見ます。返事は、それからにします」と永手。
「こんな話をしたせいか、わたしも娘のことが気がかりになってきた」と豊成。
「去年、孝謙天皇が召されて、琴を奏でさせられた方ですか?」と永手。
「母を亡くして、まだ十歳だ。わたしの身になにかが起こったら、あの娘はどうなるのだろう」と豊成。
「十歳? そんな幼い娘さんがいたのですか?
大丈夫。豊成さんのご恩は忘れていません。式家が守ります」と宿奈麻呂が請け負った。
孝謙天皇の皇太子候補は、天武天皇の第六皇子の
長生きをした舎人親王と新田部親王は平城京で高官になり、二人とも皇太子時代の聖武天皇の補佐官だった。
新田部親王の息子は、塩焼王と皇太子を廃された道祖王。舎人親王の息子は、池田王、船王、大炊王が残っている。
ほかに考えられるのは、天武天皇の第一皇子だった高市皇子の息子、長屋王の遺児(三世王。ひ孫)たちだ。藤原不比等の次女で長屋王の夫人だった
道祖王が皇太子を廃されて四日後の、夏四月四日。
孝謙天皇は諸臣をあつめて、どの王を皇太子に立てればよいかと聞いた。
藤原豊成と永手は、塩焼王を推薦した。文屋
孝謙天皇は「舎人親王と新田部親王の二世王から選ぶべきだろう。さきに新田部親王の道祖王を立てたが、教えにしたがわず淫らなことをくり返したから皇太子を廃した。
その兄の塩焼王は、聖武太上天皇が無礼をとがめられたことがある。
舎人親王の二世王のなかでは、船王は女性関係が乱れている。池田王は孝行に欠けている。大炊王だけは、まだ若いが、まちがいや悪行をしたときかない。
大炊王を皇太子に立てようと思うが、どうか」と聞いた。
まったくの
即位して九年目に入る孝謙天皇は、このとき、はじめて重大な決議を自分の口で言い、それに重臣が従うさまを見た。それは鳥肌立つような感覚だった。
この日のうちに、内舎人が
閉じこもりを続けていた宮子皇太夫人が動くのを拒んだので、中宮院は恭仁京に遷都したときも、そのままに残されていた。
紫香楽から帰ってきて再び平城京が都となったときに、内裏や大極殿や各官庁は宮城の敷地の東寄りに土地を増やして新しく造りなおされた。そのときも中宮院だけは動かなかった。
宮子皇太夫人が亡くなったあとで中宮院を建て直すが、すでに東寄りの内裏や官庁がある敷地に空きがなかったから、宮城の中央部のもとの場所に内裏を小さくしたような中宮院を造った。この新しい中宮院に大炊皇太子は入った。
一か月後の五月二日に、聖武太上天皇の一周忌が東大寺で盛大におこなわれた。
聖武太上天皇の一周忌が行われた日の夜に、女官の藤原
仲が良かった大野仲千がさびしそうにしている。
「どうして百能さんは、やめられたのかしら?」と由利が若女に聞く。
「豊成さんが、覚悟を決められたからでしょう。とんでもないことが、はじまるわよ」と若女がささやいた。
そして五月四日に、宮城の修理のためと孝謙天皇は田村第に移った。すでに、このころには、下級官人や宮城に仕える
孝謙天皇が移ってから、田村第の各門に
そこで朝晩、交代のために、舎人たちが田村第から宮城内の舎人寮まで行進することになった。
五月二十日。
孝謙天皇が藤原仲麻呂を
軍事権は大臣がもつことになっているが、これまでなかった内相という大臣に準ずる新しい位を仲麻呂に与えて、すべての軍事権を右大臣の豊成から仲麻呂に移したのだ。
それからは光明皇太后がいる柴微
中衛
柴微中台は左京一
田村第と柴微中台を中心にして、ますます緊張感が高まってきた。
「どうしてウチに、いらっしゃいました。
「すぐに失礼をしますから、おかまいなく」と白壁王。
「いつでも喜んでお迎えしますけど、こんなときに、わたしのウチにくるなんて、
どうしてです?」と市原王。
市原王の邸は一町の広さで、道をへだてた東側に田村第がある。市原王が先に住んでいたのだが、隣に田村第ができてしまったのだ。
「舎人たちは、いつ交代するのですか。どの門から出入りするのですか。ジイヤ」と山部王が、市原王家の従者(使用人)にきいた。
「調べてまいりましょう」と、ジイヤと呼ばれた従者が下がった。
「まさかと思いますが、舎人の交代を見にいらしたのですか?」と市原王。
「めったに見られないでしょう。中衛舎人が町のなかを行進するのですよ。二度と見れないかもしれませんよ」と白壁王。
「そんなに、のんきにしていて良いときですか。
大炊皇太子が立てられて、さきのことを
「憂って事を起こさなければと良いですがねえ。帝が決められたことに臣下は反対できません。いまは
帝が
あなたも、こんな所にいてはいけないでしょうね」と白壁王。
「こんな所ですか」と市原王。
「仲麻呂が
あなたも体調がすぐれないと朝廷へ休暇届をだして、
緊急事態が起こったら、都の外には出られなくなりますよ」と白壁王。
市原王の妻の能登女王は、白壁王と
「義父上は、どうなさるのです」と市原王。
「わたしは
能登とは連絡がつくようにしておきますから、困ったときは知らせてください」と白壁王。
「山部王は」と市原王。
「父と一緒です。ねえ、義兄上。待っているあいだに和琴など聞かせていただけますか」と山部王。
「毎日、息をひそめて暮らしているのに、なにをバカなこと言うのですか」と市原王。
「そろそろ交代の時刻です。中衛舎人たちは東側の南の通用門から、まず新しい当番が入って、しばらくして交代した舎人たちが出てきます」とジイが戻ってきて知らせた。
「じゃあ行こうか。ほんとうに一緒に見物しないのですか」と白壁王が立ち上がる。
「しません。こんな所に住んでいますから、いつでも見物できます。
義父上。
「あとで拾ってくれるように言ってあります。歩いて行かないと、よく見えないでしょう」と白壁王。
「まったく!」
こんなときに遊び心を持っているのはバカか
白壁王は仕事をしたことがない散位のままで四十八歳になり、ちょっとまえに正四位下になった。山部王は、まだ登庁まえの
「たくましくてイイ男」と田村第の女従(女性使用人)たちと一緒に、庭の舎人をのぞいていた百済王明信がため息をつく。
「どれ。どれ」と、吉備由利が寄ってきた。
「由利さんまで、なにをしているの!」と、それを見た久米若女が叱る。
「わたしは若女さんのように亡き人の面影を心に抱いているわけではないし、いつも言ってるでしょう! 目の保養をするくらい良いじゃない」と由利。
「まったく。いくつになっても、しょうがない人ね」と若女が、和気広虫と阿部
尚侍と尚蔵の下にいる大野仲千が、気心の合うものを一つのグループにしてシフトを組んでくれているので、若女と由利はいっしょに孝謙天皇について田村第にきている。
内裏は修理しても良いころだが、仲麻呂が孝謙天皇を田村第に移させたのは自分の身を守るためだろうと二人は思っている。天皇の
修理のために移ったのなら予定もたつが、仲麻呂を守るために移ったのなら、いつ内裏に戻れるのか見当がつかない。内裏とくらべれば狭いし、外との連絡を禁止されているから、孝謙天皇についてきた女官たちは退屈していた。
「ねえ。古美奈さん。あなたには決まった方がいるの」と若女がきく。
「いません」と古美奈。阿部古美奈は二十四歳。結婚適齢期は十五、六歳だから、かなり過ぎている。
「どなたか好きな人は?」と若女。
「いいえ」
「結婚する気はあるの。それとも女官として仕事一筋で生きてゆきたいのかしら」と若女。
「決めていません」と古美奈。
「若女さん。どうして古美奈さんにカマをかけているの」と由利が加わった。
「古美奈さんが、ウチに来てくれたらいいなと思っていてね」と若女。
「ああ、
「いいえ。
「フーン」と由利。
「あのね。古美奈さん。お家の方と相談して、その目で本人を見定めたあとで、返事はいつでも良いし断わってもかまわない話なの。でも話だけは聞いてくれないかしら」と若女。
「はい」と古美奈。
百済王明信も寄ってきた。消灯前の息抜きができる自由なときだ。
「あなたが子供だったころに、藤原式家は反逆者をだして裁かれたことがあるの。
その逆賊が
わたしは、あなたのような人が、宿奈麻呂さんの正妻になってくれたら良いなと、ずっと思っていたわ」と若女。
「宿奈麻呂さんて、いくつだっけ?」と由利。
「四十一歳」と若女。
「オジサンですねえ」と百済王明信。
「その年齢なら、夫人や子供がいるはずでしょう?」と由利。
「娘が五人いたけれど、もう全員が夫を持っている。息子は四歳の子が一人居る」と若女。
「うえに五人の娘がいて息子が四歳というのは、跡継ぎをつくるために頑張ったってこと?」と由利。
「そうでしょう。どうしても息子が欲しかったのでしょうね。
宿奈麻呂さんは十年以上も地方官をしていてね。二人の夫人が任地まで付いていって世話をしてくれたの。そのうちの一人の夫人は地方で亡くなって、帰京したのは四歳の息子の母になる夫人。この人は二人の娘の母でもあるの。
やさしくて穏やかな人でね。でも羽栗氏の出身なの」と若女。
「嫡男の母親の出自が劣るから、阿部氏の正妻を迎えたいの? その夫人が、かわいそうじゃない!」と由利。
「わたしも、かわいそうだと思うわよ。
でも娘たちと相談して、それを言い出したのは彼女よ。
よく疲れるようになったので娘のところで休みたい。宿奈麻呂さんには正妻を向かえて欲しいと言うのよ。たしかに顔色が優れないのね」と若女。
「幾つ?」と由利。
「三十八歳」
「じゃ、息子が産まれたときは三十四歳ね。
嫡男が欲しかったのだろうけど、きっと出産がひびいて身体をこわしたのよ。
それまでだって、息子が生まれないことを気にしていたでしょうにね。
なんか、すっごく腹が立つ。女は子供を産む道具じゃないわよ。
でも、その人の今の気持ちは分かる。一人でゆっくりしたいでしょうね」と由利。
「そうなの。それで古美奈さんに聞いていたってわけ」と若女。
「わたしの父は従五位上の
「阿部氏は古代豪族だから、あなたが努力して出世すればいいのよ。
こういうのも腹が立つわね。わたしは吉備氏で地方豪族の出身だから、努力しても見返りが少ない。
でも、古美奈さん。藤原式家の家長の正妻だったら、良い話しだと思うよ」と由利。
「四十一歳なら古美奈さんより十七歳も年上で、ほかに夫人はいないということでしょう? きっと古美奈さんを大切にしてくださいますよ」と広虫。
「あッ。それってイイ。いまごろは、ほかの女のところにいるのかと嫉妬したり、いつかは会えなくなると思いながら後姿を見送らなくてもすむもの」と明信。
「そんな経験があるの。明信さん」と由利。
「そうなるのがイヤだから、わたしは生涯、女官をしてつくそうと決めたの」と明信。
「つくすって、だれに。帝に?」と由利。明信の顏が赤くなった。
「好きな人がいるのね」と由利。
「独り占めできるような人ではないから、恋はしないと決めたの。
でも好きな人は、永遠にあの人だけ。
わたしは、あの人が必要とする有能な女官になりたい!」と明信が両手で自分の体を抱く。
「ばかね。それを恋というのよ。あいては誰?
もう登庁している人。それとも登庁前の若い人?」と由利。
「ナイショ。口が裂けても教えない」と明信。
「明信さん。右大臣の豊成さまの子息が、あなたに言い寄っているそうだけど、藤原南家との縁組みよ。
あなたこそ実らぬ恋に焦がれるより、さっさと決めたらどうなのよ」と由利。
「だって、この世で好きな方は、あの方だけだもの。
父やおじいちゃんが止めたって、好きなものは好きなのよ!」と明信。
「そう言っているうちに歳をとって、だれも相手にしてくれなくなるわ」と由利。
「古美奈さん。どうかしら。宿奈麻呂さんとの縁組みを考えてもらえないかしら」と明信と由利の騒ぎをよそに若女が聞いた。
「まずは休みがいただけるようになってから、家のものと相談してみます」と古美奈が落ち着いて答えた。
六月九日になって、孝謙天皇は五カ条の
一 氏族の
二 制限以上の馬を飼ってはならない。
三 規定以上の武器を所持してはならない。
四 武官を除いて、宮中で武器を持ってはならない。
五 宮中を、二十騎以上の集団で行動してはならない。
ほとんどが、それまでにあった規則の再確認だが、氏族を集めてはならないという禁令は始めてだ。内容が曖昧で、どこまで禁止しているのか範囲も分からないが、この禁止令が出たあとは都の人通りも少なくなった。
聖武太上天皇が亡くなってから、ずっと藤原仲麻呂は孝謙天皇のそばにいる。
だから柴微中台の光明
光明皇太后は、若いころから三十年以上も仲麻呂を可愛がってくれた。孝謙天皇が出した詔勅に内印を押してくれるから、
いまの皇后宮のなかには、紫微中台と皇太后が居住している
六月二十一日に、右大臣の藤原豊成が法華寺を訪ねてきた。
聖武太政天皇の没後に出家した光明皇太后は五十六歳になる。たびたび会っているはずだが、皇太后は豊成が老いたのにおどろいた。豊成も五十四歳だ。
「お久しぶりでございます。こうして親しく二人だけでお目にかかりますのは、十何年ぶりになりますか」と、まず豊成が言った。
そういえば豊成と会うときには、いつも仲麻呂が立ちあっていた。仲麻呂がいると豊成は黙っているから、そのあいだの印象がうすいのだろう。
仲麻呂からは
「個人的に訪ねてこられるとは、めずらしい。なにか、あったか」と光明皇太后。
「お伝えしたいことがございまして参上しました」と豊成。
「なにを」
「二年ほどまえのことです」と豊成。
「二年もまえ?」と皇太后が眉をひそめる。
「はい。聖武太上天皇と
太上天皇は笑って、おとがめにならなかったのですが、諸兄さまは後になって、そのときのことを恥じて左大臣を辞退されたと聞きます」と豊成。
光明皇太后が不快そうな表情を浮かべた。豊成が何を伝えにきたのか怪しんだからだ。
「それが、どうした?」
「ただ今、御酒の席での諸兄さまの行いが、太上天皇にたいする
「豊成。そのほうの話しが良く分からぬ。
諸兄は、この正月に亡くなった。諸兄の不敬を断罪しようとしているのは、今か?」と皇太后。
「はい。昨日、佐伯全成を呼びよせることが決まりました」と豊成。
「太政天皇がおとがめにならなかった二年も前のことを、なぜ今になって問題にする」と皇太后。
「わたしは、お伝えしたことしか存じません。
諸兄さまには、お世話になりましたので申し訳なく思っております。
わたしは
「これまで藤原一族を
「そして右大臣として、また藤原南家の家長としての力不足と不始末を、心からお
藤原四兄弟が亡くなったあと、光明皇太后がいなかったら今のように藤原氏は盛りかえせなかっただろう。
豊成は藤原氏として礼を述べ、右大臣として南家の家長としてあやまった。
皇太后は不審そうな表情を浮かべたまま、立ち去る豊成を目で追った。
三十分もしないで二十人の私兵に囲まれた仲麻呂が、一ヶ月ぶりに紫微中台の光明皇太后のもとにやってきた。
「また内印が必要か?」と光明皇太后。
「右大臣が来たとか。なにをしに来たのでしょう」と、すぐに仲麻呂がきく。
仲麻呂は豊成より二歳下の五十二歳だが、七、八歳は若く見える。
若いころから口達者で、なにを聞いても、すぐに答がかえってきた。今は人を威圧させる雰囲気をにじませている。
豊成が話したことぐらいは知っているはずで、だから急いで田村第から出てきたのだろう。
「橘諸兄の不敬を問うために、佐伯全成を呼び戻すのか」と光明皇太后が聞く。
「はい。先の左大臣が太政天皇にたいして無礼な言葉を使ったという、左大臣の側近をしていた
「証言した男は諸兄の下官か」と光明皇太后。
「はい。当時はそうでした」と仲麻呂。
「諸兄を断罪することは、太政官たちとの協議で決まったことか」と皇太后。
「はい。昨日、田村第に太政官を集めて、太政官符で佐伯全成を召喚する旨を伝えております」と仲麻呂。
「太政官符に押す外印(太政官印)は、どこに保管している」と皇太后。
「ご安心ください。わたしが田村第に保管しております」と仲麻呂。
光明皇太后の表情がこわばった。
「帝はご存じなのか」と皇太后。
「はい。ご報告しております」と仲麻呂。
「
太政天皇が不問になさったことで、わたしの亡き兄の罪を問うのなら、恐れおおくも太政天皇の御判断を
亡くなったあとで裁かれるほどの大罪が橘諸兄にあるのなら、妹のわたしも連座で裁きをうけねばならない。
それを承知したうえかと、帝に伝えるように」と光明皇太后が言った。
仲麻呂の指先が、こぶしを握ろうとするように曲がって固まった。このとき仲麻呂から、かすかな敵意を光明皇太后は感じた。
「たまわりました」と仲麻呂が目を細めて答える。
「柴微内相は、柴微中台に仕えるもの。
帝が先の左大臣を断罪されるような大事は、まず、わたしに知らせるように」と光明皇太后。
「は」
仲麻呂が帰ったあとで、光明皇太后は怖い顔をして考えはじめた。
娘を支えさせるために、仲麻呂をとり立ててきたのは光明皇太后だ。いままでは仲麻呂と二人三脚で孝謙天皇を守ってきたが、
若いころの孝謙天皇は、仲麻呂をとり立てる母を嫌っていたが、いまでは頼りにしているのだろう。仲麻呂が孝謙天皇と密接になればなるほど、それまで
孝謙天皇はブレやすい性格だ。そんな娘を、仲麻呂に任せても良いのだろうか。
豊成が
光明皇太后は、藤原一族を守るために生涯を
「高麗福信さん」と
川屋は、宮中などの主要な施設にそなえられた、下に川が流れている水洗式便所だ。
汚水は地下に埋めた木の下水管に流れる優れた設備で、柴微中台にもそれがある。
「ああ。角足さん。いつぞやは楽しかったですな」と紫微中台の
一年前の四月に角足の別荘に招かれたときは、うまく勧誘をさけて酔って騒いで一晩泊めてもらった。
「いかがですか。七月二日の夕方に、まえにご一緒された方々と、また
楽しく酒を酌み交わしましょう」と角足。
「ほう。それは残念だ。このところ、わたしは、ここに来ている中衛舎人の面倒までまかされて、昼も夜もなく泊まり込みですよ。
休みをとるなど、夢の、また夢ですな。
いつになったら、この
「坂上さんや、奈貴王や、嶋足さんは?」と角足。
「坂上苅田麻呂も牡鹿嶋足も中衛舎人ですから、休みなど取れないでしょう。
帝が田村第を
「このたび、わたしは
「それなら早く赴任先へ向かったらどうです」と福信。
「まだ、ここでの引継ぎがありますし、せめて七月二日に別れの宴をと思っています」と角足。
「
悪いことは言わない。角足さん。
もう一度、いっしょに酒が飲めるように、さっさと都から消えなさい」と福信が、大きな体を屈めて角足の耳元にささやいた。
六月二十八日の夜に、仲麻呂が光明皇太后に文を送ってきた。それに目を通した皇太后が顔色を変えて使いに問いただす。
「橘
「はい」と仲麻呂の従者が答える。。
山背王は長屋王の息子で、母は光明皇太后の異母姉の藤原
「それは、正式な告訴か」と皇太后。
「……」従者は答えられない。
「山背王は、いつ来た」と皇太后。
「さきほど、夕刻に参られました」と従者。
「どこに」と皇太后。
「田村第にです」と従者。
「この文は、山背王が来てから書かれたものだな」と皇太后。
「はい」と従者。
光明皇太后の目が鋭くなった。
田村第は役所ではなく私邸だ。告訴は役所にするものだから、これは正式な告訴ではなく、山背王がイトコになる仲麻呂の耳に入れた話だと光明皇太后は理解した。
「
「聞こう」
「橘奈良麻呂と大伴古麻呂に謀反のたくらみがあることは、すで
「右大臣は知っていたのか」と皇太后。
「はい」
光明皇太后は豊成の言葉を思い出した。豊成は、仲麻呂が橘奈良麻呂を追いつめるのを止められないと
「奈良麻呂たちは、帝を襲うために田村第を包囲するのか」と皇太后。
「…」
「それとも仲麻呂が目当てなのか」
「…」
「どうして答えない」
「…ぞんじません」と従者。
「わたしが帝のところに参ると、帰って内相に伝えよ!」と光明皇太后が言った。
長いあいだ信頼していた身内を疑うことは、とてもむずかしい。しかし、ここにきて、光明皇太后は仲麻呂に不信感をもった。
橘諸兄の不敬につづいて橘奈良麻呂の謀反だ。仲麻呂が、橘奈良麻呂を
仲麻呂のやりかたなら、光明皇太后は熟知している。
仲麻呂なら自分を殺す企てを早くから知っていただろう。田村第は天皇を迎えられる大宮と呼ぶ離宮をもっているが仲麻呂の私邸だ。たとえ仲麻呂が軍事権をもっていても、天皇がいないと
そして仲麻呂の私邸だから、田村第が襲われても天皇が不在だと謀反にはならない。
仲麻呂は自分の身の安全のためと、橘奈良麻呂たちに謀反の罪を着せるために、わざわざ孝謙天皇を危険な田村第に住まわせている。
それに気がつくと、光明皇太后の仲麻呂にたいする長年の信用が一気にくずれた。
皇太后は、紫微中台の少弼の高麗福信を呼んだ。
「明朝から田村第に移る。いっしょに来るように」と光明皇太后。
「はい。しばらく、ご滞在なさいますか」と福信。
「そうなるかもしれない。
「持って行かれるのですか?」と福信。
「帝の
そのほうの役目は中衛舎人とは別に、田村第にいるものを密かに見張り内印とわたしを守ることだ」と皇太后。
「ハッ!」と福信の体に緊張が走った。
「
そこを使えるように手配しよう。武官の装いでなく官服で良い。
内印と駅鈴とわたしを、しっかり守れ」と光明皇太后。
「皇太后さま。一人では
「信用できる者か」と光明皇太后。
「はい!」…たぶん・・・政治に無関心だと言っていたから・・・たぶん、大丈夫だろう。
腕が立って気が利いて、こんなときにヒマを持て余しているのは、残念だがアイツしかいないと福信が考える。
「聖武太上天皇は非情なことはなさらず、天子としては心根がやさしすぎた。だからこそ、人を見る目は確かだった。
わたしは
それで目を曇らせていたようだ。
福信。そなたは聖武太上天皇が取り立てた。太上天皇が認めた、そなただ。信用しよう」
「はい。皇太后さまのお心に
七月二日。
午前中に右大臣の藤原豊成をはじめとする太政官や重臣たちが、田村第の大宮の前庭によばれた。そこで孝謙天皇の詔が読みあげられた。
「諸王、諸臣のなかに逆心を持つ者がいて、ここを包囲しようと兵を集めていると聞く。どんなヤツが
慈愛の政治を行うのはやさしいが、この陰謀は国家の大事であるから、狂い迷っている者どもを、さとして正すべきである。
身に覚えのある者は、人に見とがめられることをしてはならない。従わないものには国法による懲罰を止めることはできない」
そのあと大宮の中に人々を入れて、光明皇太后が重臣たちに会って伝えた。
「
皆、心をおなじくして朝廷を助けお仕えしなければならないときに、こんな醜いことが聞こえてきて良いものだろうか。おまえたちがしっかりしないから、こんなことになる。すべてのものが明く清い心をもって朝廷にお仕え申せ」
太政官や重臣たちは、皇太后の言葉にうなずいた。
孝謙天皇は姿を見せなかったが、田村第を包囲しようとしている者をさとして正すべきだ、見とがめられることをしてはならないと詔で伝え、皇太后は自らの言葉で明るく清い心で仕えよとさとしている。
太政官や重臣たちは、この七月二日からは、迷っている人をさとして仕えようと理解して深くうなずいた。
高麗福信は、いつでも飛びだして皇太后をかばえるようにしていたが、群臣たちからは害意を感じなかった。
田村第に来てからの光明皇太后は、孝謙天皇と仲麻呂を、
孝謙天皇は反逆者がいることで神経をとがらせているが、この日は母に従って詔をだした。
説得などという
日が暮れてから、仲麻呂が大宮にやってきた。
「大炊皇太子と、わたしを殺そうとしているものがいると、中衛府に告訴してきたものがいます」と仲麻呂。
「いつ?」と光明皇太后。
「さきほどです」と仲麻呂。
「告訴人はだれだ」と皇太后。
「中衛の舎人で従八位上の
告訴は、ちがっていたら裁かれるから命がけでするものだ。それだけに中衛府に告訴人が来たのなら、内容をたしかめて調べなければならない。
「かれらの計画は、
そのときに小野東人が口にした仲間は、
まえにお伝えしましたが、
右大臣は、そのことを隠しています」と仲麻呂。
「すぐに橘奈良麻呂と大伴古麻呂を
孝謙天皇は、即位直後のはじめての叙位で奈良麻呂や古麻呂を昇位させて、そのあとも古麻呂には遣唐使の副司などを任じて出世の糸口をあたえてきた。いわば子飼いの家臣のつもりだった。
孝謙天皇の姿に眉をひそめた皇太后が、仲麻呂にむかって命じる。
「まず告訴が正しいかどうかを確かめよ。告訴人に話したという小野東人と、右大臣に告げたという答本忠節を召してしらべよ」と皇太后。
「はい。高麗福信に兵をあたえて、迎えに行かせたいと思います」と仲麻呂。
光明皇太后は、福信を側からはなしていない。皇太后の態度が変わったことに仲麻呂も気がついている。皇太后が、福信に向かってうなずいた。
「帝。
「では兵をあつめて、小野東人と答本忠節を連れてまいります。
どちらに送ればよろしいか。どこに報告すればよいでしょう」と福信。すでに夜が更けている。
「
報告は、わたしにするよう。住まいの方で待つ」と仲麻呂が席を立った。
孝謙天皇と仲麻呂が出ていくと、福信が自分の従者を呼び寄せた。
「わたし帰るまで、昼も夜も眠らずに皇太后さまをお守りせよ」と福信。
「おまかせください!」と奈貴王がかしこまった。
このあと仲麻呂は、皇太子を廃された
七月三日。
朝から、右大臣の藤原豊成と中納言の藤原永手らに、
豊成は仲麻呂と対立しているし、北家の永手、
諸兄が元気だったころは甥として目を掛けられていたし、イトコの橘奈良麻呂とも親しくしていた。だから、このときの尋問は口頭で聞き、小野東人は黙秘をとうした。
田村第の大宮では、孝謙天皇と光明皇太后と藤原仲麻呂の話し合いがつづいていた。途中から舎人親王の子で、大炊皇太子の兄になる船王がやってきて加わった。
「十年以上まえからの記録があります。最近のものだけをもってきました」と船王が厚い紙束を差しだした。
「この三年の記録でも、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、
大炊王が皇太子になられてからは、反逆を企てていたことも分かります」と仲麻呂。
「いままで、そんな話を聞いていないが、帝は存知か?」と光明皇太后。
孝謙天皇は返事をしない。
「わたしが
「なぜ、そのつど報告をしなかった」と光明皇太后。
「太政天皇の一周忌が終わるまではと、ひかえておりました」と仲麻呂。
「これは内相の個人的な記録でしかない。まず告訴人からの正式な告訴を受けとらなければならない」と光明皇太后。
「この田村記には、ちゃんと告訴人の供述と証言の日時と署名があります」と船王。
「内相。田村第は役所ではなく、そのほうの私邸だ。
田村記というのは、田村第の覚書きにすぎない。
船王。これを告訴状とするためには、
それとも国の法をないがしろにして、弾正伊が田村第の覚書きを告訴状と認めるつもりか。
なぜ、ああ言った、こう言ったという伝え話の書き取りと署名が、田村第にあった?
どうして、紫微中台でもいいから、この者たちに役所に告訴するように勧めなかった?
証拠となる書面が、なぜ内相の私邸に保管されていた?」と光明皇太后。
「皇太后。口を出さないでください。朕が命じます。
内相。朕の朝廷に反逆する者どもを、すべて捕えて罪を問え!」と血の気が失せて顔色が白くなった孝謙天皇が、体をふるわせながら叫ぶ。
光明皇太后が田村第にきてから、孝謙天皇は神経を高ぶらせている。
大炊皇太子を不満として、皇族や臣下が反逆を企てた。それだけでもストレスが高いのに、光明皇太后がいると自分が否定されているように感じるから、母の言葉は無能さを責めているようにしか受けとれない。
「帝。橘奈良麻呂も、安宿王も、黄文王も、わが甥です。帝と血がつながるイトコではありませんか。
塩焼王は帝の義兄でしょう。大伴氏は皇族にとって大切な氏族です。
ことを荒立てるより、いさめる機会をあたえてほしい」と光明皇太后。
「内相。すぐにヤツラメを捕縛しなさい!」と孝謙天皇がキンキン声で、仲麻呂に命じる。
「失礼します」と女官の
「このところ眠っておられません。しばらく横になられますか」と笠目。
頭痛がするのだろう。孝謙天皇が笠目によりかかった。
「奥へおつれいたします」と光明皇太后に頭を下げたあとで、笠目が女官たちを呼んだ。女官たちに囲まれた孝謙天皇は寝所にむかった。
「内相。反逆を企てたという者を呼びなさい。わたしが説得します」と孝謙天皇が去ったあとで、光明皇太后が命じた。
七月三日の夕方に、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を大宮によびよせて、柴微内相の仲麻呂が光明皇太后の詔を読みあげた。
「汝ら五人が反逆を企てていると、ある人が伝えてきた。汝らは我が一族に近い人であるから、わたしを恨むとは思いもよらなかった。
朝廷で高い位置につけられているのに、なにが恨めしくて、このようなことを企んだのか。そんなことがあるはずはないと思う。
それゆえ汝らの罪は許してやる。これからさき、このようなことをしてはならない」
仲麻呂が読み上げた皇太后の詔は、五人が反逆を企んだと告訴した者がいるが、今回は許すと、はっきり言っている。
五人は田村第から帰るときに、門の外で深々とおじぎをして光明皇太后に感謝をしめした。
もしも反逆を試みていたとしても、七月三日の夕刻には皇太后から罪が許されている。この日までに田村第をおそった者はいないし、仲麻呂と大炊皇太子をおどかした者もいない。反逆行為は起こっていなかった。
ただ皇太后の言葉は、詔とは言わない。光明皇太后は、聖武太上天皇から
それは皇太后の立場を強くするために、
意見が対立し始めた光明皇太后を、仲麻呂は見限った。皇太后が何をしようが天皇が否定すればすむことだ。
七月四日。
孝謙天皇が
きつく尋問するというのは、細長い板でたたく拷問をして自白を強要したと言うことだ。
右大臣の藤原豊成をはずして、この日からは大炊皇太子の兄の船王と永手が中心になった。その結果、小野東人が反逆の計画の詳細と首謀者を自白した。
安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、
かれらは六月に三回、あつまって相談をした。一度目は奈良麻呂の邸。二度目は宮中にある
計画では、七月二日の夕刻に兵士を動員して田村第を包囲して仲麻呂を殺し、大炊皇太子を廃して、つぎに光明皇太后のいる
そのあとで右大臣の豊成をよんで、塩焼王、安宿王、黄文王、道祖王のなかから天皇をえらんで即位させようというものだった。
小野東人の自白で名がでた人々が、次々に召喚されて獄に入れられ始めた。
「昨日、すでに塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を呼んで、これからさき、このようなことをしないようにと
詔を読み上げたのは、仲麻呂。その方であろう。なぜ、かれらを逮捕した」と光明皇太后。
「帝が勅をだされました」と仲麻呂が冷やかに言った。
「天皇玉璽を渡したおぼえはない」と光明皇太后。
「口勅です」と仲麻呂。
「このような大事を、軽々しくも口勅でおこなったか。
かれらは、まだ、なにもおこしていない。ゆえに諭して許した。わざわざ事を荒立てるつもりか」と光明皇太后。
「わが国の律令は、唐の国の律令を元にしてつくられております。
わが国では未遂に終わった謀反については、まだ決められておりません。
「安宿王と黄文王は天武天皇の三世王で、
そのように高貴な方を囚獄しているのか」と皇太后。
「名がでた方が多いので、衛府の
「まさか拷問はしていないだろうな」と光明皇太后。
「謀反の企ては正式に告訴されています。今後、このような企てを起こさせないために、告訴人が名をあげた者から事情を聞いております。
すべて帝のご指示です。帝の口勅に逆らえば反逆者とみなされます」と仲麻呂が無表情に応じる。
こを聞いて、光明皇太后は田村題を引き上げて
七月五日の夜、左衛府の獄を警備している
左衛府の獄の南に、光明皇太后が住む法華寺と柴微中台がある。
敬福の姿をたしかめた、高麗福信がまえに出た。
すぐに敬福が馬をおりて、兵士たちが運んできた荷車の方に福信をつれていく。
もどってきた福信が、奈貴王と中衛舎人たちに守られている光明皇太后に告げた。
「お会いにならないほうが、よいと存じます」
「生きているのか」と光明皇太后。
「息はあるようです」と福信。
「会おう」と光明皇太后が、百済王敬福のほうに歩みだした。
皇太后に頭をさげてから、荷車にかけられた
そこには頭をつぶされた男がいた。かすかに開いてる左の眼も見えていないようだ。その目から一
原型をとどめていないが左耳の下の三つ並んだホクロを見て、それが橘奈良麻呂だと光明皇太后は確信した。腰と膝の力が抜けて、くずれそうになった皇太后を、高麗福信と奈貴王が左右から支える。
「橘氏にお渡します」と百済王敬福がいう。
光明皇太后はうなずいて、かすれた声で聞いた。
「ほかのものは」
「すでに亡くなられた方もおられるようです」と百済王敬福。
「
自白を強要するための拷問なら、亡くなるのが早すぎるではないか。
最初から殺すつもりで拷問をしたのか・・・」と奈貴王が口走った。
光明皇太后は法華寺にもどると、すぐに仲麻呂を呼びつけた。
「皇太后さま」と仲麻呂が二度目の声をかける。
仲麻呂を通り越して遠くを見ている光明皇太后が、そのままの姿で声をだした。
「反逆を企てようとして捕らえられている者たちを、すぐに
「実際の反逆は行われていない。
恐れおおくも聖武天皇が許された橘諸兄の罪は、とがめないよう」と光明皇太后がつづける。
「まだ詳細が分かっておりません。尋問をつづけて
「今回の騒ぎは終わった。いま、すぐ尋問をやめて断罪せよ。
わたしは、これから仏道に
わたしは帝の補佐をするようにと、聖武天皇から
いますぐ尋問をやめ、反逆者の罪が決まり刑が実行されたら、内印を帝に渡そう」と皇太后。仲麻呂が鋭い視線を向ける。
「尋問をやめて断罪すれば、内院を帝にお渡しになるという、お言葉をお守りください」と仲麻呂が席を立った。
その日のうちに尋問は止められたが、すでに、黄文王、道祖王、大伴古麻呂、多治比牛養、小野東人、加茂角足は、なぐり殺されていた。
安宿王らは息があって流刑にされた。
土佐にいた大伴
聖武太政天皇と橘諸兄の酒席にいたために、そのときの様子を赴任先の信濃国で聞かれた佐伯
七月九日。
仲麻呂(南家)は、藤原永手(北家)を
豊成は息子の両手をしばって、さわぐこともなく永手に差しだした。乙縄は
七月十二日。
反逆の報告を受けていて何もしなかったと、右大臣の藤原豊成は職をとかれて太宰
藤原南家には、次男の仲麻呂と三男の乙麻呂と四男の巨勢麻呂が残って、家長の豊成を追いだした。
藤原北家は、永手と八束と真盾の母が橘諸兄の妹で、仲麻呂とは二重の縁組をしているという複雑な立場で仲麻呂についた。
藤原式家と藤原京家は、この事変にかかわらなかった。
大炊皇太子に代わる天皇候補とされていた諸王のなかで、
この「橘奈良麻呂の乱」といわれる一連の騒動で、
藤原不比等
‖――――――光明皇太后――――孝謙天皇
橘三千代
‖――――――橘諸兄――――――橘奈良麻呂(獄中死?)
美努王 橘佐為
牟漏女王 藤原永手
‖―――――――藤原八束(真盾)
藤原不比等――――藤原房前(北家) 藤原御盾
天武天皇―――――舎人親王――――――船王
池田王
大炊皇太子
天武天皇―――――新田部親王―――――氷上塩焼(塩焼王)
道祖王(獄中死)
天武天皇――高市皇子―――長屋王 山背王(密告)
‖――――黄文王(獄中死)
藤原不比等――長娥子 安宿王(流刑)
藤原南家 豊成(左遷)
仲麻呂
乙麻呂
巨勢麻呂
藤原北家 永手(室 良継の娘)
八束
清河(在唐)
魚奈
御盾(室
楓麻呂(室 良継の娘)
宇比良古(仲麻呂室)
中衛舎人 高麗福信
坂上苅田麻呂(元授刀舎人)
牡鹿嶋足(元授刀舎人)
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