四  杖下に砕けた王  橘奈良麻呂の乱


七五四年(天平勝宝てんぴょうしょうほう六年)から七五七年(天平勝宝九年)          


五十五歳になる聖武太上天皇の体調がひどく悪い。もう一度、難波宮なにわのみやに行きたいという太上天皇の願いを、孝謙こうけん天皇はかなえたかったが実現できなかった。

不穏な動きがあるからと、柴微令しびれい仲麻呂なかまろ光明こうみょう皇太后こうたいごうが反対したからだ。


七五六年二月二日。

左大臣のたちばなの諸兄もろえが退職を願いでて許可された。

諸兄は七十二歳だから、その年になってもいない人が後でなにを言おうと、本人の奏上そうじょうのとおりに高齢のための退職だ。

諸兄が退職して自宅にこもってから、聖武太政天皇が望んでいた難波宮への行幸ぎょうこうが実現した。

聖武太上天皇の体調にあわせた、ゆっくりとした行幸で、行き帰りに知識寺ちしきじ(大阪府河内)の仮宮かりみやに泊まった。知識寺には十六年まえに聖武太上天皇に感銘をあたえた盧舎那仏るしゃなぶつがあり、大仏を造ろうと思いたったのも、その仏を見たのがキッカケになった。

難波宮は聖武太上天皇にとっては、さまざまな思いが残る宮で、安積親王あさかしんのうの死を知ったのも難波宮。紫香楽京しがらききょう恭仁京くにきょうの造営に失敗したあとで、大仏だけは完成させようと決心するのも難波宮だ。


「はじめてですって?」と裸足で砂浜を歩きながら、吉備由利きびのゆりが聞きかえす。

「ええ。難波も、ここの宮もはじめてよ。海を見るのもはじめて」と久米若女くめのわくめも靴を手にぶらさげて、裸足で砂浜を歩きながら答えた。

「うれしそうね」

「こうして手を広げて空にむかって叫びたい。宇合うまかいさま。おばあさんになってしまったけれど、わたしが分かりますか。久米若女は、ここにいます。

色々あったけれど、若女はこうして生きています。見ていてくださーいッて」と若女。

「おばあさんは早いでしょう。まだ、おばさんでいいんじゃない」そういう由利も三十八歳だ。

「宇合さまが、この難波宮を改築するぞう難波宮なにわのみやのつかさ長官かみになられたのは三十二歳のとき。亡くなったときは四十三歳だった。今のわたしより年下なのよ」と若女。

「若かったのね」

「そんなことをいう年になってしまったのよ。わたしの姿をみて、きっと笑っていらっしゃるわ。

亡くなってからのほうが身近に感じられるけど、宇合さまは年をとらないから…。

アラ? おおぜいの人が出ているわね」と若女。

「都の人は海がめずらしいから。帝も太上天皇とご一緒で楽しそうだし、それに話し相手に淡海おうみの三船みふねさまを召されてから、お元気になられたし。難波行幸が許されて良かった~!」と由利。

「退官された橘諸兄さまを、平城京で押えているものね」と若女。

「どういうこと?」

「柴微令は、諸兄さまを押えておけば、反対派は動かないと思っているのでしょうよ」と若女。

「諸兄さまが、反対派の中心人物とでもいうの?」と由利。

「ちがうわよ。ただ光明皇太后と柴微令を相手にするには、それなりの大物が必要でしょう。

諸兄さまを押えておけば、反対分子がおとなしくしていると判断したのでしょうね」と若女。

「右大臣は?」と由利。

豊成とよなりさんは仲麻呂さんを知りすぎているし、光明皇太后にはさからわないわ。

弟に同調はしないけれど、反対もしないでけるでしょう」と若女。

「せっかく楽しんでいたのに、柴微令の話をすると気が重くなる。

いまだけは頭を使うのはよしましょうよ。

若女さん。あそこ、なにかしら。人があつまっている」と由利。

がくがきこえる。異国の音楽のようね」と若女。

「行ってみよう。辻芸人つじげいにんが来ているのかも」と由利。

人の輪のなかで、あでやかな衣装をきた女が踊っていた。かたむいた松の木にもたれた若者が、見慣みなれない楽器を弾いている。

「あの子、カワイイ」と由利が、楽器をかなでている若者を目で指していった。

「わたし、ああいう子に魅かれるの。

華やかに人目を集めても、ホントのくらしは闇のなか。

危険で美しい、一瞬だけ人を惑わす仇花あだばなにドッキとしちゃう。

あの子、色白で女みたいにしなやかで不思議な色気があるわ。チラッと流す目線も、首のかしげかたもゾックとくる。

楽の音もステキ~! わたし、この音色ねいろが好きよ。異国の香りがする。

きっと父の血のせいね」と由利。

「由利さん! 女官らしくシャンとしなさい!」と踊り手を見て若女が叱った。

「見て楽しんで妄想もうそうするだけなら、わたしのカッテでしょ!」と由利。

「カッテは通らない。さっさと靴をはいて、サカリのついた鹿みたいに鼻息を荒くしないで、吉備真備の娘らしくなさい!」と若女は、足の砂をはらって靴をはきはじめる。

「サカリのついた鹿! ナンてこというのよ!」と由利。

踊りがおわると、見物人のなかに祝儀しゅうぎを出そうとする人がいた。二人の小者が「余興よきょうですので、ご祝儀はいただきません」とことわっている。踊っていた女が四方に笑顔をむけ、若女に目をとめた。

「アラ!」と女がよってくる。靴を履きおえた若女が腰をかがめた。

「久米若女さん」

「新笠さん。お久しぶりです」と若女。

「見てたの。こちらは、お友達?」と話しかけた踊り子は、派手な衣装をまとったやまとの新笠にいがさだ。

若女は、片手に一足ずつ靴をもち、裸足でキョトンと立っている由利をにらんだ。

「ご紹介します。同僚の吉備由利です。吉備真備の娘です」と若女。

「吉備真備の娘?」と楽器をもった若者が、もたれていた松からはなれてそばにきた。

「山部王さま・・・ですか。大きくなられましたね。

わたしよりズット背が高くなられて分かりませんでした。

由利さん。こちらは白壁王のご子息の山部王。そして母君の和新笠さんです」と若女。

由利が靴を落とした。それでも、さすがにしっかり立って「お見苦しい姿で申し訳ございません。吉備由利ともうします」と腰を屈めてあいさつをする。

「まるで昼の月のように、白くて美しい足をしておられる。眼の保養ができました。

砂浜を素足で歩くのは、わたしも好きです」と山部王が由利に微笑みかける。

種継たねつぐとおなじ年だから十九歳。三十女を相手にマセたガキ!と、若女がにらむ。若女の眼をとらえた新笠が、肩をすくめてささやいた。

「気にしないでね。あの子は人転ひところがしだって」

「はァッ?」と若女。

「人転がし。父親に似たのよ」と新笠。

「あァ。なるほど。こちらには白壁王と、ご一緒に?」と若女。

「そう。海はいいわね」と新笠。

「いまの舞と楽は、どちらのものです?」と若女。

百済くだらのものを、わたし流に変えてみたの。どう。ウケていたでしょう」と新笠。

「種継とは会うけれど、雄田麻呂兄さんや蔵下麻呂くらじまろには会えなくなった。元気ですか」と山部王が聞く。

蔭子おんしが通う大学は二十歳までで、雄田麻呂は二十四歳、蔵下麻呂は二十三歳だから、とっくに卒業している。種継と山部王は、今年が最後の学年だ。

「みんな元気ですよ」と若女。

「会いたいな。雄田麻呂兄さんは登庁しているの?」と山部王。

「まだ従七位下の散位ですから」と若女。

「家にいるのなら訪ねてみます。

じゃあ、由利さん。いつか、どこかで、また、お会いしましょう」と山部王が楽器を小者に渡して、アッケにとられている由利に笑顔を向けた。

「じゃあね。若女さん。由利さん。美しい素足を見てくれてありがとう」と新笠たちは去っていく。

難波宮への行幸は、二月二十四日から四月十七日までの長い旅になった。

三月末からは聖武太上天皇の体調が悪化して、難波宮からもどると太上天皇は内裏だいりに入った。



四月二十二日。

都から額田部ぬかたべ(奈良市大和郡山)への道を、四騎がける。

牡鹿おじかの嶋足しまたりは、久しぶりに解放感を味わっていた。

このまま駆けてゆきたい。駆けて、駆けて、故郷へ帰りたい。帰りたい。故郷に帰りたい。

牡鹿嶋足は、大仏開眼かいげん供養くようが行われた四年まえの七五二年に、父や叔父につれられて都にやってきた。故郷は陸奥国むつのくに牡鹿郡おじかぐん(宮城県栗原市)で、嶋足は蝦夷えみし族長ぞくちょうの息子だ。

 

反乱をおこした式家の藤原広嗣ひろつぐ綱手つなての兄弟が、南九州で集めたのは南端に住む隼人はやとと呼ぶ先住民族だ。

蝦夷は陸奥(東北)に古くから住んでいる先住民族で、こちらも大和朝廷をつくる民族とは人種が違う。

大和朝廷が支配しているのは九州から四国と本州の西で、九州南端と東北は含まれていない。稲作がはじまり弥生時代やよいじだいになったときに、そのまま狩猟をつづけた縄文じょうもん文化圏ぶんかけんと重なる地域に、隼人も蝦夷も住んでいる。

今から三十六年まえ(七二〇年)に、大和朝廷は阿部比羅夫ひらふを大将として大規模な軍団を東北に送り込み、はじめて領土を拡大するための戦をした。そして新しく占領した土地に多賀城たがじょう(宮城県多賀城市)を建設して、これを陸奥国府とし東北支配の拠点にする。

ただ蝦夷に対しては減税をしたり、これまでの族長を群司ぐんしにして同族を治めさせる優遇策をとったので関係は穏やかだった。


嶋足の家は丸子王まろこおう(七世紀)に部民べみんをだしていたと伝えられているから、早いうちに朝廷に帰順きじゅんしていた。それで嶋足の父と叔父は大仏開眼供養のために、はるばる都までやってきて多額の喜捨きしゃをした。

故郷で一番の弓取りと言われる嶋足もつれてこられて、官人たちの歌や踊りのあいだに、おおぜいの大和人やまとびとのまえで弓技を披露した。十九歳の嶋足は、はりきって強弓ごうきゅうを引き、ことごとくまとを射止めた。

結果としては、それが良くなかった。

大仏開眼供養の翌年の七五三年の六月に、孝謙天皇から牡鹿おじかのむらじといううじかばねと、外正六位下と正七位上という位階をもらった父と叔父は故郷へ引きあげたが、嶋足だけは都にのこされた。

小柄だが筋肉のしまった美しい身体と、清々しい顔立ちをした蝦夷の若者は、すぐれた弓技を認められて孝謙天皇直属の授刀寮じゅとうりょうに入れられて、官人にされてしまったのだ。

官人でも三十階ある位階の一番下の大初位下だから、給料で食いつなぐのがむずかしい下級官人だ。

言葉も通じない。習慣もちがう。知っている人がいない都に残された嶋足は、孝謙天皇の護衛をする授刀じゅとう舎人とねりとして、二十歳から二十三歳までの青春のさかりを孤独にすごしてきた。


「とまれ!」と先頭を走っていた高麗こまの福信ふくしんが右手をあげた。

「なんだ?」と手綱てづなを引いた奈貴王なきおう

「急ぐこともない。ここらで馬を休めていこう」と福信。

小川が流れている。嶋足は馬に水を飲ませながら空にむかって大声をあげた。帰りたい気持ちが体から飛び出して空を飛んでゆくようだ。一度、声をあげると止められなくて、なんどもえた。

「嶋足。どうした?」と坂上さかのうえの刈田麻呂かりたまろが心配して寄ってくる。

「ほっとけ。そいつは言葉が通じない。息抜きをしているだけだろう」と福信。

「言葉は分かっている。話そうとしないだけだ」と刈田麻呂。

苅田麻呂は、おなじ授刀寮につとめていて、日ごろから蝦夷の嶋足のことを気にかけてくれている。

「なら、なおさら、ほっといてやれ。

深緑の森を馬で駆けたので、国を思いだしたのだろう。帰りたいだろうさ」と腰をのばしながら、まだ登庁まえの奈貴王が言った。

高麗こまの福信ふくしんは四十五歳、奈貴王なきおうは二十二歳、坂上さかのうえの刈田麻呂かりたまろは二十八歳、牡鹿おじかの嶋足しまたりは二十三歳。

年齢も出自しゅつじも身分もちがう四人は、世に名を知られた武芸者だった。その四人を名指しして、加茂かもの角足つのたりが額田部の自分の別荘でうたげを開いてくれるという。

「ところで、どうして招かれた?」と高麗福信が、川辺の石にすわりながら聞く。

「この面子めんつだ。金や出世が目当てで親しくなろうとは思わないさ」と奈貴王が、福信のとなりの石に腰をおろす。

「おい。そっちの若いのも、こっちへこい」と福信が、坂上刈田麻呂と牡鹿嶋足に声をかける。

「このなかに加茂角足と親しい者がいるのか?」と福信。

「聞いたことがない名だ」と奈貴王。

「父がかもの虫麻呂むしまろと親しいが、加茂角足の名はきいていない。わたしは顔も知らない。嶋足もおなじだろう」と刈田麻呂。

「自分で答えさせろ。どうだ?」と福信が嶋足に聞く。

嶋足は首を振って知らないことをつげた。都にも官人にも興味がないから見かけていても覚えていない。

「では角足を知っているのは、わたしだけだな」と福信が念をおす。

高麗福信は従四位下の中衛府ちゅうえふ少将しょうじょうで、紫微しび中台ちゅうだい少弼しょうすけを兼任している。加茂角足は正五位下で柴微中台の大忠だいじょうをしているから福信の部下になる。

ただ福信は呼ばれない限り柴微中台に顔をださないし、とくに角足と親しいわけでもない。

「われらを招いたのは武勇をかってのことだ。加茂角足は、よく知りもしない、われらを集めて飲み食いをさせて親交をもち、自分に力をかせと頼むつもりだろう。

食い物でツルとは安くみられたものだ。気にくわない」と福信。

「武術を競う大会でも開いてくれるのなら、喜んで参加するけどな。

おそらく今の政治を批判して、なにかを企んでのさそいだろう。

仲麻呂は嫌いだが、わたしは政治にかかわりたくない」と奈貴王が刀を抜いて、夕方になって生えたヒゲをりはじめた。

「奈貴王のいうとおりだ。

そのうち仲麻呂を討つのに手をかせと頼むための準備だろう。

奈貴王は関わらないといっているが、そっちの二人は、どうする?」と福信が苅田麻呂にきく。

「わたしは帝を護衛する授刀舎人だ。帝の命令しか受けない」と刈田麻呂。

「おまえはどうだ。おまえは朝廷にも帝にも義理はなかろう?」と福信が嶋足に聞いた。

父たちが帰ってしまってから嶋足は人と話したことがない。はじめは言葉が聞き取れなかったが、そのうち理解できるようになった。それでも正しく話せる自信がないので、話さずに仕草で意志を伝えている。福信が嶋足を見たまま返事を待っている。

「わたしは」と嶋足は声をだしてみた。苅田麻呂と奈貴王が、嶋足を見る。

「勇者だ。勇者は守る…」と、そこまで言って嶋足は、しばらく言葉をさがした。

帝を守る義理はないし朝廷を守る気もない。なにを守ると言えばよいのか。なんという言葉だったっけ…。そうだ。約束だ。

「わたしは約束を守る。裏切らない」と嶋足が言葉を足した。

「おう。話した!」と苅田麻呂が喜んだ。

「勇者か。いいことをいうじゃないか。それで、だれと、どんな約束をした?」と奈貴王。

「授刀寮で働けといわれて、うなずいた。それは約束だ」と嶋足。

「そういうときは嶋足。いつも上役が職務を果たせと、どなっているだろう。

与えられた職務を果たすといえばよい」と苅田麻呂。

「奈貴王! 濃くもない髭を刀であたって振りまわすな!」と福信。

「安心しろ。まだ人も動物も斬ったことがない」と言いながら、奈貴王が刀を収める。

「嶋足の言うとおり、われらは勇者で傭兵ようへい(金銭で雇われる兵)ではない。

帝の勅命ちょくめい以外の、どんな企てにも加担しない。

みんなの意志は一つだな?」と福信が確認をする。

「そうだ」と奈貴王。

「加茂角足の別荘についたら、わたしが話をそらそう。

角足から、なにかを聞いてしまうと、上に報告しなければならない。

わたしも藤原仲麻呂のやりかたに納得がゆかないから、角足たちの企みを報告したくない。

なぜ招かれたのか分からないままに、飲んで食って引きあげてくるのがいい」と福信。

「そうしてくれ。わたしが酔いにまかせて加勢する」と奈貴王。

「メイワクだ!」と福信。

「加茂角足のように文官ぶんかんをしてきた者は、武官ぶかんは頭のなかも筋肉でできていると思っている。その期待に応えてやろう。

ところで福信。おまえはホントに高麗人こまじんなのか?」と奈貴王。

高麗こま国(または高句麗こうくり国)は紀元前二世紀から朝鮮半島北部で栄えた国で六六八年。いまから八十六年まえに、とう新羅しらぎの連合軍によって滅ぼされている。

「若造に、おまえ呼ばわりをされるほど、年も位も低くはないぞ!

奈貴王。おまえこそ王を名のっているが、どの天皇の末裔まつえいなのだ。ついぞ、聞いたことがない」と福信。

「聞いたことがない程度なら、名乗るほどのこともない」と奈貴王。

「ほんとうに皇嗣系こうしけいか? 仲間なら答えろ」と福信。

「仲間なら、いちいち気にするな!」と奈貴王。

「ほう。弱みでもあるのか?

わたしは高麗人だ。高麗が滅んだあとで、じいさんが日本に逃げてきた」と福信。

「日本まで逃げてきたなら、じいさんは高麗の高官か。それとも水手かこ(船をこぐ人)の子孫か?」と奈貴王。

「よく知らないが、わたしは背奈王せなおうと名乗っていた。

若いころに相撲で名をあげて、そこの嶋足と同じよ。官人にとり立てられて高麗こまの朝臣あそん福信ふくしんといううじかばねをもらった。

聖武太政天皇に可愛がられて、いまじゃ従四位下で、これでも貴族だ」と福信。

「貴族が一人で出歩くのか」と奈貴王。

「供をつれると世話が焼ける。

嶋足。おまえも授刀舎人の牡鹿連嶋足だろう。

一度、官人になると辞めるのはむずかしい。故郷をなつかしむ気持ちは分かるが、おまえは都で、おまえのことを分かってくれる娘を見つけて家族をつくればよい。

おまえの家族には連という姓があるから、たいした出世はできなくとも穏やかに生きてゆけるかもしれない」と福信。

「坂上氏はやまとのあやの一族だったな。

かんは、ずっとむかしに大陸で栄えた国だろう。

まえから不思議に思っているのだが、刈田麻呂。大陸から来る唐人とうじんの髪や眼は黒いが、おまえの眼は、なぜ青い?」と奈貴王。

「じいさんに聞いた話では、大陸には目が青くて髪が黄金のように輝く人もいるそうだ」と福信。

「髪が黄金。金糸みたいにか。ほんとうか?」と奈貴王。

「ああ。大陸は北や西の方まで侵略して統一国をつくり、それを奪い合って分割させるような争いをくり返している。だから言葉も習慣もちがう人種が混ざっている。

東漢と名乗っていても、苅田麻呂。それぞれ出自はちがうのだろう?」と福信。

「われわれは、後漢ごかんの阿智王の末裔まつえいだが、皇位がに移ったあとで大陸から帯方たいほう(朝鮮半島中西部にあった中国の郡)へ逃げたそうだ。この国には、帯方の人たちと供に来た。帯方は人が交流するところだったと聞かされている。

だからなのか、東漢氏には見かけのちがう人もいる」と苅田麻呂。

「そうか。よし。じゃあ、そろそろ行こう。

いいか。われらはの仕事は帝を守ること。われら四人の勇者は、主と友を裏切らない!」と福信がいった。

「おう!」と全員が声をあげた。

なんとなく意味を理解した嶋足も声をあげていた。

坂上苅田麻呂と牡鹿嶋足が勤めている授刀寮は、光明皇太后の息子のもとい皇太子こうたいしのためにつくられたが、基皇太子が亡くなったので一年もしないで廃止された。

そのあと孝謙天皇が皇太子になったときに授刀寮は再建されて、孝謙天皇に直属する親衛隊しんえいたいになり、このときには四百人の授刀舎人がいた。

高麗福信がいる中衛府も天皇の親衛隊で四百人がいるが、こっちは八省はっしょうのなかの兵部省ひょうぶしょうに属していて、緊急時は大臣が長官に任命される。



五月二日。

聖武太政天皇が内裏の寝殿で亡くなった。

聖武太政天皇は遺詔ゆいしょう(遺言)で、天武天皇の皇子の新田部にいたべ親王しんのうの子で、従四位上で中務なかつかさのかみをしている道祖王ふなとおうを皇太子に指名した。

道祖王は、聖武太上天皇の三女の不破ふわ内親王ないしんのうを妻にしている塩焼王しおやきおうの弟だ。

在位二十五年のあいだに、聖武太政天皇は遷都をくりかえした。

おかげで臣下も庶民も右往左往うおうさおうして、国庫も空になってしまった。そのあげくに平城京を都と決めてもどったのは、天皇ではなく庶民の方だ。

長男の基親王の死。母方の実家の藤原氏がおこした長屋王家の惨劇さんげき。そして民の半分を失った痘瘡の流行。次男の安積親王の死。

人々の心のよりどころと死者の冥福めいふくを願って、国分寺をつくり東大寺の大仏を建ることに後半生をついやした聖武太政天皇は、治世者ちせいしゃとしては問題の多い天皇だったが、それでも民を慈しむ優しい心をもつ天皇だった。だから身近につかえた人々に愛された天皇でもあった。

今回も佐伯今毛人は造山やまづくりのつかさの一人に選ばれたが、宮子太皇太后の御陵を作ったときと心のありようがちがう。役夫えきふの割りあてをしながら涙を流していることがある。

はじめて紫香楽宮しがらきのみやにあった甲賀寺こうがでら廬舎那仏るしゃなぶつ体骨柱たいこつばしらを建てたときに、役夫たちに交じって懸命けんめいに綱をひいていた天皇の姿。行基ぎょうき法師ほうしと話しているときの無邪気な笑顔。

内舎人だった今毛人は、その顔や姿を思いだすと切なくなる。今毛人が建築に興味をもっているのを知って、地方官にせずに東大寺造営の仕事につけてくれたのも聖武太上天皇だ。

大伴古麻呂も造山司の一人に選ばれていて、幾度か今毛人に会いにきた。おなじく造山司の一人の高麗福信が、なぜかタイミングよく分からないことを聞きに顔をだしてくれたので、今毛人が古麻呂と二人になることはなかった。



五月十日。

日の出とともに官庁は始まるから、みんな朝が早い。

とくに聖武太政天皇が亡くなったあとなので、淡海おうみの三船みふねは空が白むまえに木綿の白い喪服をビッシっと身につけていた。

三船は、昨年から内竪ないじゅとして孝謙天皇のそばに仕えている。内竪は天皇のそばに仕える少年や青年のことだが、三十四歳になる三船は内竪という肩書で孝謙天皇の相談相手になっている。

ちょうど日が昇るころに、左衛士さえじの兵に邸をとり囲こまれて淡海三船は拘束され、そのまま左衛士石牢いしろうに入れられた。

逮捕の理由だけは、大伴古慈斐こじひと二人で政道を批判したからだと知ることができたが、このころは、まだ大伴古慈斐と親しくなかったから思い当たることがない。

薄暗い牢に入れらたまま放っておかれたので、土の上に端然たんぜんと座って三船は経を唱えはじめた。

五年前に博識が評判になって孝謙天皇の勅命で還俗げんぞくさせられるまで、淡海三船は僧だった。勅命でなければ還俗したくなかったし、官人にもなりたくもなかった。

いきなり牢に入れられて驚きはしたが、うろたえてはいない。なにが悪くての逮捕か分からないから、呼吸をととのえて体の力をぬき、経文を唱えて心と体を安定させようとした。

ところが無心になろうとすればするほど、雑念がよぎる。夢の断片のように頭をよぎる想念のなかに、難波宮の南殿の庭にいる大伴古慈斐の姿が浮かんできた。

あれは聖武太政天皇の最後の行幸になった難波宮でのことだから、三月のはじめのころだった。思いだしたとたんに三船の知覚が現実的に動きだした。

三月のはじめなら、もう二ヶ月もまえのことだ。後にも先にも大伴古慈斐と二人で話したのは、あのときだけだ。

ちょうど三船が宮城に戻ろうとしていたときに、退出しようとしていた古慈斐と行きあって目礼もくれいをした。すると古慈斐が「淡海三船さまですね」と声をかけてくれた。

大伴古慈斐は六十一歳。若いころから頭脳明晰な知識人として知られ、藤原不比等ふひとに信用された。いまは従四位上で出雲守を遥任ようにんしている。

あのとき古慈斐と三船は、聖武太政天皇が重体なのに孝謙天皇の皇太子が決まっていないことを心配して言葉をかわした。話の内容は官人なら、だれもが不安に思っていたことで、次期後継者に誰が良いなどの俗な話はしていないから大した内容ではない。

三船が思い出したのは、あのとき、声がとどくところに誰もいなかったことだ。話が聞こえたのは三船がつれていた一人の従者と、古慈斐がつれていた二人の従者だけだ。藤原仲麻呂が情報を買っているという噂は聞いている。あのとき二人がつれていた従者のなかに密告者がいて、それが告訴人になったのだろう。

汚いやり方だと思うと無心になるどころか、淡海三船は無性に腹が立ってきた。

聖武太政天皇の崩御ほうぎょで、現状を不快に思っている人が動かないように先手を打ったのだろうが、しかし、なぜ二世王(天皇の孫)が何人もいるなかで、臣籍降下した天智天皇の四世王(天皇の孫の孫。玄孫やしゃまご)の自分が巻き込まれたと思ったとたんに、三船なりに仲麻呂を理解した。


藤原仲麻呂は光明皇太后に才気を認められて、若いころから可愛がられたと聞く。

ただ仲麻呂が得意なのは算術だけで、それも自分の野心のための損得勘定そんとくかんじょうだけだろう。

三船が好む漢書かんしょや仏教の知識は、それを引用するときの言葉から察してて初級クラスだ。薄っぺらな知識に屁理屈へりくつを加えて、さも知っているように見せているだけだ。

きっと歴史や法律などの知識も、その道の知識人からみたら皮相ひそうだけの浅薄せんぱくなものだろう。

仲麻呂は、なにかに優れる人に異常なほどの嫉妬心をもつと聞いたことがある。だから実力のある人を活かすのではなく、つぶそうする。

そう考えると古慈斐と三船がねらわれたのも納得がゆく。

三船は孝謙天皇の相談相手をしている。古慈斐は知性と知識を尊敬されて、官人たちに頼られることが多い。

一度しか会ったことがないが、強い感銘をうけた学識者で孝謙天皇の学士がくしだった吉備真備きにのまきびは、ずっと都から遠ざけられて九州に追いやられている。

仲麻呂は、光明皇太后と孝謙天皇の側から、有能な官人や善良な官人を除いて自分が一番でいたいのだ。

それは天皇を助けてまつりごとを補佐する者がしてはならないことだ。

いままで柴微しび中台ちゅうだいは、光明皇太后の力を強くするためのものだと思っていたが、もしかすると皇太后を隔離かくりするのが目的かもしれない。

柴微中台ができてから、仲麻呂の立ち会いなしで誰も光明皇太后と会えなくなった。光明皇太后は、仲麻呂からの情報しか受けとっていないのだろう。

僧だった三船は出世欲や物欲は少ないが、知識欲は強い。知識人や能力のある人を尊敬していて、知識は世に広めるものだと思っている。

こみあがってきた怒りに白い喪服を着た三船は、立ちあがって足をふみならし両手をにぎりしめた。

暗い石牢いしろうの上の方に、明りをとるための小さな窓が開いている。

そこから入ってくる光の帯が三船の肩を照らした。光の帯のなかに舞うチリがキラキラと輝いていた。


おなじときに大伴古慈斐は、右衛士うえじの兵に邸を囲まれて拘束されて右衛士府の牢に入れられた。

大伴古慈斐が政道を批判して投獄されたことは、すぐに大伴家持やかもちにも伝わった。

家持は、安積親王の不審死で仲麻呂の恐ろしさを知っている。

政道批判などするはずがない温厚で常識のある六十一歳の古慈斐が捕らえられたのは、武門の大伴一族にたいする牽制けんせいだろうと家持は思った。

藤原仲麻呂には、光明皇太后と孝謙天皇がついている。仲麻呂に反撃することは、天皇に反抗することにもなる。大伴氏が動揺して仲麻呂を恨まないように、三十七歳の家持は帝にそむくなという渾身こんしんの和歌を詠んでちまたに広めた。


やからさとす歌」という長歌ちょうか(万葉集・巻二十・四四六五)は、高千穂たかちほに天皇の祖先が天下あまくだっていらい、大伴一族は武器を手に戦って天皇に仕えてきた。大和に宮ができてからは、先祖代々のものが天皇を守るために仕えてきた。その先祖から伝えられた一族の名をしんで、浅はかな行いをして、先祖から伝えられた大伴の名を絶やすなと呼びかける。

そのあとに短歌たんかが二首つづく。


磯城島しきしまじまの やまとの国に あきらけき 名にとも こころつとめよ

(日本中に知れ渡った 天皇の一番のとも(臣下)の名にかけて 大伴の名を継ぐ者は心してつとめよう)


剣刀つるぎたち いよよぐべし いにしえゆ きよけくいて にしその名を

(剣や刀を いまこそ研いでおこう 昔から天皇の忠臣として 揺るぎなく仕えた大伴一族の名にかけて)


孝謙天皇は聖武太政天皇が好きだったから、父を亡くしたあとの喪失感そうしつかんが大きかった。

親しい身内を亡くしたあとは、しっかりしているように見えても判断力や行動力がズレて鈍ってしまう。淡海三船と大伴古慈斐が捕まったのは、聖武太政天皇の崩御の直後だったので孝謙天皇は気がつかなかった。

聞きたいことがあって内竪の三船を呼んだときに囚獄しゅうごくされていることを知らされたが、なぜそうなったかと気を回すほどのえがない。二人を監禁するのに、孝謙天皇の許可もなく左右さゆう衛士府えじふが動いたことにも気がつかなかった。

それでも五月十三日にみことのりをだして、三船と古慈斐を放免させた。

このあと淡海三船は内堅を解任されて、孝謙天皇から遠ざけられる。

かわりに藤原仲麻呂が、執務室でも太政官院だじょうかんいんでも内裏でも孝謙天皇のそばに張りつくようになった。


五月十七日は、聖武太政天皇の二七日ふたなのか(二・七日、二週間目)で七つの大きな寺で読経させた。

五月十九日に、聖武太政天皇は佐保さほ山稜さんりょうほうむられた。

山稜に向かう葬列は、仏につかえるようにのはたをなびかせ、道行みちゆきの曲をかなでかなでながら白い喪服を着た人々が歩く壮麗そうれいなものだった。この手配は仲麻呂がした。こういう企画の才能を仲麻呂はもっていた。

六月二十一日の七七日しちなのか(四十九日)をすませたあとで、孝謙天皇は聖武太上天皇の一周忌は東大寺で行うから、大仏殿の歩廊ほろうを諸国に命じて造るようにとみことのりをだす。

孝謙天皇は両親の影響で仏教を信じているが、美しく華やかなことも好きだ。

聖武太政天皇の葬儀や葬送そうそうや一周忌に、仲麻呂は孝謙天皇の好みにあわせた進言をした。

一番弱っているときに寄りそって、受け入れやすい好みの助言をしてくれる仲麻呂に、孝謙天皇は信頼という依存いぞんをしめしはじめた。



秋七月十七日。

孝謙天皇の勅で、授刀寮が中衛府の下におかれることになった。

「どういうことだ?」と授刀寮をたづねてきた奈貴王が首をかしげる。

「このまま、ここに寝泊まりして帝の警備に当たるらしい」と奈貴王といっしょに授刀寮にきた中衛府ちゅうえふ少将しょうじょうの高麗福信。

「することは、いままでと変わらないのか?」と奈貴王。

「呼び名も授刀舎人のままで、中衛舎人にはならないと聞いている。制服も変わらない」と、授刀舎人の坂上苅田麻呂。

「することがおなじで呼び名も変えないのなら、なぜ中衛府に移して授刀寮を廃止した? 中衛府には、すでに中衛舎人がいる」と奈貴王。

「授刀寮は、いまの帝が皇太子になられたときに再設置された。いまの帝だけに直属する舎人寮で、どの省にも属しておらず帝の命令しかきかない。

中衛府は、兵部省ひょうぶしょう管轄かんかつしている。

つまり朝廷のものではない帝個人の親衛隊を、朝廷の親衛隊のなかに吸収したということだ。

こんなことをすれば手足をもぎ取るようなものなのに、なぜ帝は自分に不利なことをする?」と福信。

「刈田麻呂や嶋足に会いにくるには都合が良いが、おい。嶋足。

相変わらず愛想がないな。せっかく来たのにあいさつもしないで、さっきから一人でなにを読んでいる?」と奈貴王。

漢書かんしょだ。勉強のジャマをしないでくれ。

官人として通用するように、一から教育することにした。こいつは物覚えが良い」と刈田麻呂。

「漢書が読めるのか?」と福信。

「嶋足は丸子部まるこべをだす族長の息子で、ある程度の読み書きはできる。

あとは官人が知っている本を読み込んで、和言葉やまとことばの言い回しを覚えればよい」と坂上刈田麻呂。

「おまえが教えるのか? 刈田麻呂」と奈貴王。

「はじめから、ていねいに教えている」と刈田麻呂。

「はじめから、どこまで?」と奈貴王。

「わたしの知っているところまでは、まかしておけ」と刈田麻呂。

「どうして、やる気になった? 嶋足」と福信。

「戻れないなら、進むしかないでしょう」と牡鹿嶋足が、本を閉じて福信に向きあった。

「そんなふうに考えるヤツだったのか。話すのがうまくなったな」と福信。

一芸いちげいひいでている者は、鍛練たんれんするコツを知っている。わたしも手をかそうか」と奈貴王。

「ありがとうございます」と官人らしい所作で嶋足が礼をした。

「授刀寮を中衛府に吸収するとは、帝の力を弱めるような動きだ。

刈田麻呂。嶋足。おまえらは個人的に名が知られた弓の名手だ。

妙な誘いにはのるな。いつもとちがうことに誘われたり、いつもとちがうことを頼まれたときは、かならず帝の勅命かどうかを確かめろ。

とくに嶋足は知人が少ないし都の生活にもなれていない。刈田麻呂。気をつけてやってくれ」と福信。福信と奈貴王は、これを伝えにきたらしい。

「そのうち出自しゅつじを知ったうえで、嶋足を大切に思ってくれる娘を紹介しようと思っている」と坂上苅田麻呂。

「そりゃよい。わたしも探そう」と福信。

「おねがいします!」と牡鹿嶋足が若者らしい明るい声をだした。



吉備真備は、もう六年も九州に赴任していて六十一歳になった。

六年の内の一年余は遣唐使として唐に行き、帰国したときに数日だけ都に戻った。

それからは太宰帥だざいのかみ(長官)を遙任ようにんしている石川名足なたりにかわって、太宰の大弐だいすけとして大宰府を治めている。大宰府は九州全域を管下かんかにおいて外国との交渉もす重要な政庁で、真備はしっかり務めているが地方官の任期は四年から五年と決まっている。この冬までには、真備も配置換えをされる時期だった。

ところが七月になって「現職のままで、外敵を防ぐため大宰府に城を築くことに専念するように」という六月二十二日付のヘンな令書が真備のもとにとどいた。六月二十一日が聖武太上天皇の四十九日だから、それを待ってだされているが天皇の勅令ではない。太政官印(外印げいん)が押されているが、通常の太政官令書と違って太政官たちの連署れんしょもない。

昨年から大陸にある唐の国は、安禄山あんろくざん挙兵きょへいして大混乱がおこっている。半島の新羅しらぎも影響をうけて乱れている。だから海をへだてた日本まで、内戦中の唐や新羅が攻めてくるはずがない。いますぐに外敵を防ぐための城を造る必要など、どこにもない。

由利からの知らせでは、太上天皇が亡くなったあとは藤原仲麻呂が孝謙天皇のそばにいて、まつりごとへの口出しをしているらしい。

おそらく築城は太政官たちが合議して決めたことではなく、仲麻呂が天皇に上奏して決めたのだろう。届いたのが詔勅しょうちょくでないのは、内印ないいんをもつ光明皇太后が難色をしめしたか、あるいは皇太后に知らせなかったからだろう。外印げいん・太政官印なら、皇太后が仲麻呂に渡しているかもしれないと真備は推理した。

築城に専念するようにということは、地方官とちがって城造りの任期など法令化されていないから、ずっと九州から帰ってくるなということだ。


でも大宰府は日本の外交の玄関だから、外国からの侵入を防ぐための城があっても良いと真備は考えた。

それに、なんたって、かんてったって、城だ! 城造りだ! 知識を形にして実現できる、こんなチャンスを逃してたまるか!

それからの真備は土地をさがし、高祖山たかすやま怡土城いとじょう(福岡県前原まえばる市)と名付けた城を築くことに熱中しはじめた。

白村江はくそんこうで敗北したあとで、中大兄皇子(天智天皇)は新羅の侵入を防ぐために多くの山城やまきを造ったが、そのとき以来、おおよそ九十二年ぶりの城造りだ。

真備のふるさとの吉備にも、中大兄皇子がつくった山城が残っているが半島の様式だった。真備が造ろうとしているのは大陸様式の土塁どるいに囲まれた広大な城だ。

平城京にいる官人がピリピリしているときに、九州に釘付くぎづけにされた吉備真備は充実した日々を送っていた。



ナデシコの花が咲いている。

寝ついたたちばなの諸兄もろえのそばで、息子の奈良麻呂ならまろがナデシコの花をながめている。

聖武太上天皇に寄り添うように生きてきた父。おだやかで人と争うことを好まなかった父。ナデシコの主張しない可憐さを愛した父。十五歳下の聖武太上天皇に先だたれてから、諸兄は床について眠ったり目覚めたりをくりかえしている。

ロウのように肌が透けてきた父は、もう先が長くないだろう。

奈良麻呂は三十五歳になる。太政官だじょうかん会議かいぎに参加できる参議さんぎのなかで一番若い。

「来ていたのか」と諸兄がつぶやいた。

「おめざめですか」と奈良麻呂。

「奈良麻呂」

「はい」

「……すまなかった」と、かすれた声で諸兄がつぶやいた。

「なにがでしょう」と奈良麻呂。

「わたしに力がなかった。そのせいで、おまえを辛い立場に残すことになった」と諸兄。

「なにを心配しておいでです。わたしのことは大丈夫です。水を飲まれますか」と奈良麻呂が、諸兄の肩を抱いて半身を起し湯呑ゆのみを口元にあてた。

背中の骨が、はっきり手に伝わるほど痩せている。一口だけ諸兄はのどをしめらした。

「おまえは大丈夫なのか」と諸兄。

「はい。ご安心ください」そっと父を寝かせながら、奈良麻呂が答える。

「大丈夫だな」とつぶやくと、諸兄はウトウト眠りはじめた。

奈良麻呂は父の眼もとに、にじむむ涙をふいた。

若い参議として、奈良麻呂は同世代の官人たちから慕われている。紫微中台を中心とする政治に反発する人は、奈良麻呂を頼ってくる。

おなじ思想をもつ者が集まることは危険だと思いながら、かれらの考えやいきどおりは、国を思えばこそのものだと奈良麻呂は思う。

つぎの年の七五七年正月五日。

聖武天皇と供に生きた橘諸兄は、あとを追うように七十三歳で亡くなった。

橘諸兄が亡くなり聖武太政天皇の一周忌いっしゅうきが近づくにつれて、なんともいえない緊張感が高まってきた。



七五七年。三月十日。

毎日、柴微令の藤原仲麻呂が内裏にやってきて、孝謙天皇と二人で話し込んでいる。

「まだ、お気持ちが決まりませんか」と仲麻呂。

「太上天皇が遺詔ゆいしょうで皇太子にさだめた者を、いまさら変えるのは気が進まない」と孝謙天皇。

「これを、ごらんください。太上天皇が皇太子にすると遺言された道祖ふなと皇太子の私生活をしらべました」と仲麻呂が書きものを取りだした。それを読むうちに、孝謙天皇の表情が硬くなった。

「ほんとうか?」と孝謙天皇。

「ほんとうです。どう思われます。

太上天皇の一周忌がすぎれば、すぐに皇太子に譲位じょういすることになりますが、道祖皇太子は帝とおなじ年齢です。

こんなに女性関係が乱れている皇太子が即位後されたあと、帝を親として敬われると思いますか。

それに道祖皇太子の兄は、帝の異母妹の不破ふわ内親王の夫の塩焼王しおやきおうです。道祖皇太子が即位されたら、実兄である塩焼王の力は強くなります。

太政天皇となられる帝のお立場は、どうなるのでしょう。

わたしには藤原氏に近い帝が大切です。太上天皇となられても、帝に国をおさめていただきたいのです。

大炊王おおいおうなら二十四歳です。

ごぞんじのように大炊王は、たいした器量をおもちでははありませんし、頼りになる後ろ盾は、わたししかおりません。

大炊王を立てて、帝が太上天皇として国を治めてください」と仲麻呂。

「大炊王は庶子しょしであろう」と孝謙天皇。

「舎人親王の嫡子ちゃくしの三原王は亡くなっております。

庶子といわれるなら、大炊王の兄になる船王も池田王も庶子です。道祖皇太子も庶子ではありませんか。

お考えが決らないのなら、こうなさったらどうでしょう。

ここに書かれている道祖皇太子の日ごろの行いを良く読まれて、このまま譲位をするか、それとも大炊王を皇太子にして譲位し、帝が太上天皇としてまつりごとを執られるのが良いかと一心に考えてください。

天の啓示けいじが現れるかも知れません」と仲麻呂がすすめた。

藤原仲麻呂は五十一歳になる。聖武太政天皇が亡くなってから十か月と少し。

毎日つきっきりで「太政天皇として国を治めてほしい」「国を治められるのは帝だけだ」「わたしが支える」と孝謙天皇を口説きつづけている。

それを聞く三十九歳の孝謙天皇は、天皇の責任の重さへの自覚が薄い天皇だった。


いまから三十一年前の七二七年九月二十九日。

すでに亡くなった祖父の藤原不比等ふひとの邸で、孝謙天皇の母の安宿媛あすかひめ(光明皇后)が、聖武天皇の第一皇子になるもとい親王を出産した。

この基親王は生後一ヶ月で皇太子になり、もうすぐ一歳の誕生日を迎える七二八年九月十三日に死去してしまう。この年にあがた犬養いぬかいの広刀自ひろとじが、第二皇子の安積あさか親王をもうけている。

天皇の外戚になれると思っていた藤原氏二世代目の四兄弟は、基皇太子の死と安積親王の誕生にがく然とした。このときの安宿姫と広刀自は同格の夫人だったから、安積親王が皇位継承権を持つことになるからだ。

そこで妹の安宿媛を正妃にしようとして、反対するだろう左大臣の長屋王をさきに葬ろうと企む。

長屋王が国を呪ったと密告されるのは、基皇太子の死から五ヶ月後の七二九年二月十日。長屋王一家が縊死いしさせられるのは、密告から二日後の二月十二日。

密告を受理して長屋王邸を包囲し、長屋王たちを拘束して尋問じんもんし、罪科ざいか審議しんぎして罪を決め、刑を執行しっこうするまで五十時間余りだから速い。刑の執行を止められまいとするように速すぎる。

このとき長屋王と供に縊死いしさせられた正妻の吉備きび内親王は、元正天皇の同母妹で聖武天皇の叔母にあたる。同じように縊死させられた膳夫王、桑田王、葛木王の三人の少年王は、元正天皇の甥で聖武天皇のイトコだった。

長屋王が縊死いしさせられて六ヶ月後の八月二十四日に、聖武天皇が安宿媛を皇后と認めた。そして光明皇后は長屋王家の跡に造られた皇后宮こうごうぐうへ移るが、聖武天皇が皇后宮を訪れたのは五ヶ月後の七三〇年一月十六日の一日だけだ。


その日、孝謙天皇は母と一緒に皇后宮で父を迎えた。

聖武天皇は、宮城をでるときから笛やかねを鳴らし、歌い踊る人々を連れて訪れて、滞在中も帰り道も音楽と踊りをつづけさせた。

聖武太上天皇を御陵ごりょうへ送る葬送の道行みちゆきを見て、あの日のことを孝謙天皇は思い出した。あれは汚穢けげれを清めるためのはらえだったのではないだろうか。土地に対してだけではなく、光明皇后や藤原一族に対しての罪の祓えだ。

孝謙天皇は「長屋王の変」のときは十一歳だったから、なにも知らない。

長屋王のことを話す人も周りにはいなかった。それでも謙天皇の立太子を認めようとしなかった元正太上天皇がいたから、引け目だけは感じていた。

そして仲の良かった父の聖武天皇は、内外印と駅鈴を母に託し皇太子を遺詔して亡くなった。父も孝謙天皇の治世を望んでいなかった。

孝謙天皇は自信のなさからくる情緒不安じょうちょふあんを抱えている。

仲麻呂にとって孝謙天皇は、光明皇太后より扱いやすい天皇だった。



三月二十日。

孝謙天皇の寝殿しんでんの天井板に「天下泰平てんかたいへい」の文字が現われた。太政天皇になってまつりごとを執っても良いのかと念じていた孝謙天皇は大喜びをして、女官たちを集めて天井の文字を見物させた。

久米若女わくめは天井を見あげて、ため息をつきたくなった。だれが見ても祥瑞しょうずい天啓てんけいではなく人が書いたものだ。天井は高いが台にのれば字が書けるし、その場所は寝殿のなかでも夜は人気がない。内裏に仕えるものが手引きをすれば、だれでも簡単に書くことができる。

三十九歳にもなるのに、どうして、こうも孝謙天皇はだまされやすいのだろう。そのうえ、だまされたことが分かるとヒステリーをおこすほど傷つく。

宮中一の美貌を誇った若女も、髪に白いものが光る四十五歳になった。

若女のような古参こさんの女官は、若い女儒じょじゅたちの教育係でもある。言葉で教えるのではなく、身近において自分のすることを見せて学ばせる。

若女があずかっている女儒の阿部あべの古美奈こみなが、若女のようすをうかがっている。それを見て若女は、ありがたそうに手を合わせて天井の文字をおがんだ。古美奈も若女に習って手を合わせる。

阿部氏は、大和の十市郡とおちぐん阿部あべ(奈良県桜井市阿部)を本貫地とし、「大化の改新」の前には大夫まえつきみ(改新まえの太政官)を出していた古代ごうぞく豪族だったが、藤原氏が台頭たいとうしてからは、ほかの古代豪族とおなじように勢力をがれている。

阿部古美奈は、ひかえめな性格だが頭が良くてしんが強い。

 

大野仲千なかちと藤原百能ももよしも手を合わせている。

女官にも経理や職務状態を記録して、所属している中務省なかつかさしょうに報告する尚侍しょうじ尚蔵しょうぞうという官職がある。

藤原南家の右大臣の豊成とよなりの妻で三十七歳の藤原百能と、藤原北家の参議の永手ながての妻の大野仲千の二人は、尚侍や尚蔵のもとで事務を手伝っている。

吉備由利が、めんどうをみていた和気わけの広虫ひろむしも女官になった。広虫は二十七歳になるが、相変わらず邪心がなくて素直だ。

去年の暮れに広虫が育てた孤児たちが成人して、夫の葛城かつらぎのむらじの氏姓を天皇からもらった。

「まったく、どこまで人が好いのだか。

広虫さんが働いて、いただいたお金を家に送って育てたのに、帝が育てたことにされても、うじかばねをいただいたと泣いて感謝をしているのだから!」と由利が怒っていたが、そういう広虫だからだろう。

女官に心の内を見せない孝謙天皇も、広虫だけは可愛がっている。

その広虫は天井板の下に座り込んで、手を合わせて涙を流しておがんでいる。

吉備由利も両手を合わせてなにかをつぶやいている。ありがたがっているのではなく、人に聞かれたくない罵詈ばり雑言ぞうごんを音もなくいたのだろう。

由利も三十九歳の古参の女官になった。いま由利があずかっているのは出仕したばかりで十六歳になる百済くだらのこにしき明信みょうしんだ。

そして采女出身で女官になり、従五位上をもらった五十九歳の飯高いいだかの笠目かさめも静かに手を合わせていた。

 

二日後の三月二十二日に、天皇は群臣や皇族を集めて天井の「天下泰平」の文字を見学させてから、みんなに聞いた。

「聖武太上天皇の遺詔によって道祖王ふなとおうを皇太子にしたが、喪中にもかかわらずみだらな行為が多い。なんども注意をしたが改めるようすがない。そこで皇太子を廃そうと思うが、どうか」

道祖皇太子自身が、幾度となく皇太子をやめたいと天皇に奏上している。

ついに来るものが来ただけで、だれもおどろかなかった。

右大臣の藤原豊成が代表して答えた。

「ご判断にさからいません」

三月二十九日に、道祖王は皇太子を廃されて自分の邸に戻った。


道祖王を廃するときに皇族や群臣に相談する形をとっているから、つぎには、だれを皇太子にするかと天皇から相談があるだろう。

そこで南家の家長の豊成(五十三歳)が、邸に藤原一族の当主とうしゅを集めた。

北家の家長かちょうは、長男が死亡していて次男の永手ながて(四十三歳)。式家の家長も次男の宿奈麻呂すくなまろ(四十一歳)。京家きょうけの家長は浜足はまたり(三十三歳)で、それぞれがあつまった。

藤原四家は不比等の四人の息子を始祖とするが、北家が、長男の武智麻呂むちまろ。南家は、長男より一歳下の次男の房前ふささき。式家は、次男より十三歳下の三男の宇合うまかい京家きょうけは、三男より一歳下の麻呂まろと、北家と南家にたいして、式家と京家は始祖に十三歳以上も年の差がある。

四人は同じ年に亡くなったので、亡くなった時の最終位階に差があり、それが三代目の出世にも年齢にも影響している。

豊成は従二位の右大臣。永手は従三位の参議として公卿と呼ばれる高位にいて政治の中核ちゅうかくに参加している。反逆者を出した式家の宿奈麻呂は、赴任していた相模さがみのくに(神奈川県)から戻ってきたばかりの従五位下で、京家の浜成も、おなじ従五位下の散位と貴族でも最下位だ。


「どうします?」と藤原永手がきいた。

北家には、永手の下に三弟の八束やつか。四弟の清河きよかわ。五弟の魚名うおな。六弟の御盾みたて。七弟の楓麻呂かえでまろと、女子が二人いる。三弟の八束は聖武天皇に可愛がられて安積親王を邸に泊めたりしていたが、今は仲麻呂の嫉妬を怖れて隠居生活をしている。四弟の清河は、遣唐大使として唐に行ったまま帰国していない。二人の姉妹は、仲麻呂の妻になった宇比良古うひらこと、豊成の亡妻だった。

「仲麻呂は、自分の傀儡かいらい(あやつり人形)になる大炊王おおいおうを立てるだろう。

帝が大炊王を立てるとおおせられたら、帝も仲麻呂の傀儡になられたのだろうよ」と豊成。

「では、われわれも大炊王を立てますか」と永手。

「どんなものだろう。まだ大炊王は登庁されたこともない、だれも知らない舎人親王の二世王だ。

兄の池田王や船王をさしおいて、大炊王を立てるのは筋ちがいではないか」と豊成。

「どっちみち、だれを立てても大炊王に落ちつくと思いますよ」と永手。

「北家が大炊王を推薦するのは自由だが、わたしは仲麻呂に合わせる気はない。

仲麻呂がしていることは、まちがっている。わたしは道祖王の兄の塩焼王しおやきおうがよいのではないかと思う。

塩焼王には、聖武太上天皇の外孫になる子息がおられる」と豊成。

「塩焼王は、聖武太上天皇がおとがめになって流刑にされた方です。

前科がありますからチョッとむずかしいでしょう。

それに塩焼王を立てたら、豊成さんと仲麻呂さんとの仲が、もっと悪くなりませんか」と永手。

「どっちみち大炊王が皇太子になったら、わたしは右大臣を降ろされて流刑になるだろう。

いままで生きてこれたのは、あれが兄殺しの汚名を史書に残したくないからと、わたしが食べ物や飲み物に注意してきたからだ。

仲麻呂は大臣になって、天皇を操って天下を握ろうとしている。

それなら、わたしも南家の家長として筋だけは通しておきたい。

聖武太上天皇のお子の不破内親王を妻としている塩焼王を立てたい」と豊成。

「…分かりました。

わたしは個人的に塩焼王は思い込みが強すぎので苦手すが、立てるだけなら塩焼王を立てましょう」と、しばらく考えて永手が言った。

「式家も京家も同意してくれるかな」と豊成。

「豊成さんが決められたことですから、同意するしかないでしょう」と京家の浜足がトゲのある言い方をした。

豊成の妻で女官の藤原百能は、浜足の姉になる。

「式家は」と豊成。

「承知しました」と宿奈麻呂。

「じゃあ、そういうことで、わたしは行くところがありますので先に失礼します」と浜足が席を立って、永手と宿奈麻呂が残った。

「豊成さん。さきほど言われた右大臣を降ろされるって、ほんとうですか?」と宿奈麻呂が聞く。

「そうなるだろう。三原王のように急死するか、遠方に流されるかは分からないが」と豊成。

「そこまで、こじれていたのですか」と宿奈麻呂。

「それにしても宿奈麻呂。ずいぶん老けたな。何年ぶりの都だ?」と豊成。

「足かけ十一年。正確には十年とチョッとになります」と宿奈麻呂。

「長かったな。都も人も変わっただろう」と永手。

「手紙はもらっていたのですが、聞くのと見るのではちがいます。

田村第たむらだいの大きさには、おどろきました」と宿奈麻呂。

「たしか子供たちは、こっちで育てていたな」と豊成。

「はい。相模さがみで生まれた息子の宅美だけは任地で育てました。四歳になります。

こんなときに申し訳ないのですが、個人的な相談をしてもいいですか」と宿奈麻呂。

「なんだ?」と豊成。

「じつは、わたしの娘たちに早く夫を持たせたいので、永手さん。北家の方を紹介していただけませんか」と宿奈麻呂。

「娘たちって、何人いる?」と豊成。

「最後の宅美だけが男子で、娘は十九歳を頭に十七歳が二人。その下に十四歳と十二歳の五人がいます。このうち十七歳の一人は、本人が弟の雄田麻呂と一緒になると言い張っているので除いてください」と宿奈麻呂。

「十四歳と十二歳の娘も、まだ急ぐ必要がないだろう?」と豊成。

「いえ。形だけでも早く夫を持たせたいと思います。

わたしは器用な話しができませんので、率直に言います。

都に戻ってから、豊成さんと仲麻呂さんの仲が悪いことは聞きました。

つぎの天皇が仲麻呂さんに都合の良い大炊王なら、豊成さんの立場が危うくなり、仲麻呂さんが天下を牛耳ぎゅうじるだろうとも聞きました。

これから先、どうしたら良いのか分かりません。

それで家族全員で考えて、北家の家長である永手さんにお願いしようと決めました」と宿奈麻呂。

「どうして、それが北家と娘の縁談話になる?」と豊成。

「知っていると思いますが、わたしの妹は仲麻呂の正妻です。

仲麻呂には息子が多く、その長男から三男までが妹の子で、宿奈麻呂さんの娘達とつり合う年頃で・・・つまり仲麻呂の息子を世話しろと言うことですか?」と永手。

「その反対です。

娘たちを仲麻呂さんの息子たちのもとにやりたくないから、急いでいます。

今のところ式家で子供がいるのは、わたしだけです。嫡男になる息子と、弟の雄田麻呂と一緒になると言い張る娘を除いて、式家には四人の娘しか子供はいません。

その全員をまとめて引き受けていただけないでしょうか」と宿奈麻呂。

豊成と永手が顔を見合わせた。

「おまえが、それを考えたのか?」と豊成。

「わたしも居たけれど、弟たちと若女さんとアヤさんと、家の従者もみんなで考えました」と宿奈麻呂。

「今日、ここで、この話をしたのは、おまえの判断か?」と豊成。

「いつものように浜足さんが先に帰ったら頼むように、三人になれなかったら別の方法を考えようと・・・」と宿奈麻呂。

「弟にか?」と豊成。

「みんなで話しているうちに、そう決まりました」と宿奈麻呂。

「どうして浜足を省いた?」と豊成。

「今の式家と京家が手を組んでも、仲麻呂さんに目を付けられて潰されるからです」と宿奈麻呂。

「永手さん。これは北家にとっても、式家にとっても良い話しかも知れない。

わたしのまえで話したのは、式家は仲麻呂にはくみしないということだな。宿奈麻呂」と豊成。

宿奈麻呂が、コクンと首をうなずかせた。

「わたしが追放されれば、南家の弟たちは仲麻呂に従うだろう。

大炊王が皇太子になって即位すれば、姻戚だから北家は仲麻呂に従わざるを得なくなる。そうなれば、仲麻呂の天下が来る。その間、式家は北家の陰に隠れていられる」と豊成。

「じゃあ、式家との婚姻で北家は何を得るのです」と永手。

「仲麻呂という男を知れば分かる。

今の式家は位階も低く年も若いが、こんな手を考えつく知恵の回る弟や家族が居る。

わたしは式家と親しいが、宿奈麻呂に娘が五人も居ると知らなかった。貴族は娘を隠すものだ。コッソリ婚姻すれば、仲麻呂も大勢いる北家の妻妾のなかに、式家の娘が多いことに気がつくまい」と豊成。

「そんなに上手く隠せるものですか?」と永手。

「仲麻呂は信用できない男だ。

いつか仲麻呂から離れたくなったときに、違う方向を向いている式家がいる。

四人の娘を北家に出した式家は、必ず北家のために働いてくれる。

これがあるのは大きいぞ」と豊成。

「まず兄弟に相談して、よく考えて見ます。返事は、それからにします」と永手。

「こんな話をしたせいか、わたしも娘のことが気がかりになってきた」と豊成。

「去年、孝謙天皇が召されて、琴を奏でさせられた方ですか?」と永手。

「母を亡くして、まだ十歳だ。わたしの身になにかが起こったら、あの娘はどうなるのだろう」と豊成。

「十歳? そんな幼い娘さんがいたのですか?

大丈夫。豊成さんのご恩は忘れていません。式家が守ります」と宿奈麻呂が請け負った。



孝謙天皇の皇太子候補は、天武天皇の第六皇子の舎人とねり親王と、第十皇子の新田部にいたべ親王の遺児になる二世王が有力だった。

元明げんみょう天皇が藤原京から平城京に遷都せんとしたとき(七一〇年)に、生存していた天武天皇の皇子は舎人親王と新田部親王と第七皇子のなが皇子だけで、そのうちの長皇子は早い時期に亡くなった。

長生きをした舎人親王と新田部親王は平城京で高官になり、二人とも皇太子時代の聖武天皇の補佐官だった。

新田部親王の息子は、塩焼王と皇太子を廃された道祖王。舎人親王の息子は、池田王、船王、大炊王が残っている。

ほかに考えられるのは、天武天皇の第一皇子だった高市皇子の息子、長屋王の遺児(三世王。ひ孫)たちだ。藤原不比等の次女で長屋王の夫人だった長蛾子ながこの子供たちで、安宿あすか王、黄文きぶみ王、山背やましろ王が生き残っている。



道祖王が皇太子を廃されて四日後の、夏四月四日。

孝謙天皇は諸臣をあつめて、どの王を皇太子に立てればよいかと聞いた。

藤原豊成と永手は、塩焼王を推薦した。文屋智努ちぬと大伴古麻呂は、池田王を推薦した。仲麻呂だけは「帝のご意志のままに」と、すまして答えた。

孝謙天皇は「舎人親王と新田部親王の二世王から選ぶべきだろう。さきに新田部親王の道祖王を立てたが、教えにしたがわず淫らなことをくり返したから皇太子を廃した。

その兄の塩焼王は、聖武太上天皇が無礼をとがめられたことがある。

舎人親王の二世王のなかでは、船王は女性関係が乱れている。池田王は孝行に欠けている。大炊王だけは、まだ若いが、まちがいや悪行をしたときかない。

大炊王を皇太子に立てようと思うが、どうか」と聞いた。

まったくの茶番ちゃばんだと思いながら、集められた高官たちは「勅命ちょくめいにしたがいます」といっせいに平伏した。

即位して九年目に入る孝謙天皇は、このとき、はじめて重大な決議を自分の口で言い、それに重臣が従うさまを見た。それは鳥肌立つような感覚だった。

この日のうちに、内舎人が田村第たむらだいに大炊王を迎えにゆき、中宮院ちゅうぐういんに入れて皇太子に立てた。

閉じこもりを続けていた宮子皇太夫人が動くのを拒んだので、中宮院は恭仁京に遷都したときも、そのままに残されていた。

紫香楽から帰ってきて再び平城京が都となったときに、内裏や大極殿や各官庁は宮城の敷地の東寄りに土地を増やして新しく造りなおされた。そのときも中宮院だけは動かなかった。

宮子皇太夫人が亡くなったあとで中宮院を建て直すが、すでに東寄りの内裏や官庁がある敷地に空きがなかったから、宮城の中央部のもとの場所に内裏を小さくしたような中宮院を造った。この新しい中宮院に大炊皇太子は入った。


一か月後の五月二日に、聖武太上天皇の一周忌が東大寺で盛大におこなわれた。

聖武太上天皇の一周忌が行われた日の夜に、女官の藤原百能ももよしが健康が思わしくないという理由で宮中を去った。右大臣の藤原豊成の妻で、京家の浜足の姉だ。

仲が良かった大野仲千がさびしそうにしている。

「どうして百能さんは、やめられたのかしら?」と由利が若女に聞く。

「豊成さんが、覚悟を決められたからでしょう。とんでもないことが、はじまるわよ」と若女がささやいた。



そして五月四日に、宮城の修理のためと孝謙天皇は田村第に移った。すでに、このころには、下級官人や宮城に仕える雑色ぞうしきや庶民でさえも、なにかが起るとビクビクしながらくらしていた。

孝謙天皇が移ってから、田村第の各門に外衛府がいえふ舎人とねりが警備に立つようになった。中衛府ちゅうえふも田村第を警備している。しかし舎人は宮城の中にしかない。

そこで朝晩、交代のために、舎人たちが田村第から宮城内の舎人寮まで行進することになった。

 

五月二十日。

孝謙天皇が藤原仲麻呂を紫微内相しびないしょうとし、内外の諸兵をもたせるという勅をだす。

軍事権は大臣がもつことになっているが、これまでなかった内相という大臣に準ずる新しい位を仲麻呂に与えて、すべての軍事権を右大臣の豊成から仲麻呂に移したのだ。

それからは光明皇太后がいる柴微中台ちゅうだいも、中衛府の舎人が警備するようになった。

中衛少将しょうじょうと柴微少弼しょうすけを兼任している高麗こまの福信ふくしんは、警護の責任者として紫微中台に詰めるようになった。

柴微中台は左京一じょうで田村第は左京四条にあり、両方とも東二ぼう大路に面していて、二キロほどしか離れていない。

田村第と柴微中台を中心にして、ますます緊張感が高まってきた。



「どうしてウチに、いらっしゃいました。義父上ちちうえ」と最初の東大寺造営司の長官かみだった市原いちはら王が聞く。

「すぐに失礼をしますから、おかまいなく」と白壁王。

「いつでも喜んでお迎えしますけど、こんなときに、わたしのウチにくるなんて、

どうしてです?」と市原王。

市原王の邸は一町の広さで、道をへだてた東側に田村第がある。市原王が先に住んでいたのだが、隣に田村第ができてしまったのだ。

「舎人たちは、いつ交代するのですか。どの門から出入りするのですか。ジイヤ」と山部王が、市原王家の従者(使用人)にきいた。

「調べてまいりましょう」と、ジイヤと呼ばれた従者が下がった。

「まさかと思いますが、舎人の交代を見にいらしたのですか?」と市原王。

「めったに見られないでしょう。中衛舎人が町のなかを行進するのですよ。二度と見れないかもしれませんよ」と白壁王。

「そんなに、のんきにしていて良いときですか。

大炊皇太子が立てられて、さきのことをうれう人が多くいます」と市原王。

「憂って事を起こさなければと良いですがねえ。帝が決められたことに臣下は反対できません。いまはあせっても仕方がないときですよ。

帝が忠臣ちゅうしんの言葉に耳を傾けられないかぎり、奸臣かんしんを倒すことはできません。

あなたも、こんな所にいてはいけないでしょうね」と白壁王。

「こんな所ですか」と市原王。

「仲麻呂が軍事権ぐんじけんをにぎりましたから、すぐに事変じへんが起こりますよ。

あなたも体調がすぐれないと朝廷へ休暇届をだして、能登のとの別荘に移って子供たちの顏を見てくらしたらどうです。

緊急事態が起こったら、都の外には出られなくなりますよ」と白壁王。

市原王の妻の能登女王は、白壁王とやまとの新笠にいがさのあいだに生まれた山部王の同母姉になる。

「義父上は、どうなさるのです」と市原王。

「わたしは散位さんいですから、明日からでも櫻井さくらい(奈良県桜井市)の別荘に雲隠れします。

能登とは連絡がつくようにしておきますから、困ったときは知らせてください」と白壁王。

「山部王は」と市原王。

「父と一緒です。ねえ、義兄上。待っているあいだに和琴など聞かせていただけますか」と山部王。

「毎日、息をひそめて暮らしているのに、なにをバカなこと言うのですか」と市原王。

「そろそろ交代の時刻です。中衛舎人たちは東側の南の通用門から、まず新しい当番が入って、しばらくして交代した舎人たちが出てきます」とジイが戻ってきて知らせた。

「じゃあ行こうか。ほんとうに一緒に見物しないのですか」と白壁王が立ち上がる。

「しません。こんな所に住んでいますから、いつでも見物できます。

義父上。輿こしを呼びましょう。どこに待たせているのですか」と市原王。

「あとで拾ってくれるように言ってあります。歩いて行かないと、よく見えないでしょう」と白壁王。

「まったく!」

こんなときに遊び心を持っているのはバカか大人たいじんだ。大人・・・なわけがないから、妻の家族は大バカだと市原王は思った。

白壁王は仕事をしたことがない散位のままで四十八歳になり、ちょっとまえに正四位下になった。山部王は、まだ登庁まえの無位無官むいむかんの二十歳だ。



「たくましくてイイ男」と田村第の女従(女性使用人)たちと一緒に、庭の舎人をのぞいていた百済王明信がため息をつく。

「どれ。どれ」と、吉備由利が寄ってきた。

「由利さんまで、なにをしているの!」と、それを見た久米若女が叱る。

「わたしは若女さんのように亡き人の面影を心に抱いているわけではないし、いつも言ってるでしょう! 目の保養をするくらい良いじゃない」と由利。

「まったく。いくつになっても、しょうがない人ね」と若女が、和気広虫と阿部古美奈こみなを見て苦笑した。

尚侍と尚蔵の下にいる大野仲千が、気心の合うものを一つのグループにしてシフトを組んでくれているので、若女と由利はいっしょに孝謙天皇について田村第にきている。

内裏は修理しても良いころだが、仲麻呂が孝謙天皇を田村第に移させたのは自分の身を守るためだろうと二人は思っている。天皇の御座所ござしょとなれば、田村第をおそえば反逆罪になる。    

修理のために移ったのなら予定もたつが、仲麻呂を守るために移ったのなら、いつ内裏に戻れるのか見当がつかない。内裏とくらべれば狭いし、外との連絡を禁止されているから、孝謙天皇についてきた女官たちは退屈していた。

「ねえ。古美奈さん。あなたには決まった方がいるの」と若女がきく。

「いません」と古美奈。阿部古美奈は二十四歳。結婚適齢期は十五、六歳だから、かなり過ぎている。

「どなたか好きな人は?」と若女。

「いいえ」

「結婚する気はあるの。それとも女官として仕事一筋で生きてゆきたいのかしら」と若女。

「決めていません」と古美奈。

「若女さん。どうして古美奈さんにカマをかけているの」と由利が加わった。

「古美奈さんが、ウチに来てくれたらいいなと思っていてね」と若女。

「ああ、雄田麻呂おだまろさんの…」と由利。

「いいえ。宿奈麻呂すくなまろさんの正妻としてよ」と若女。

「フーン」と由利。

「あのね。古美奈さん。お家の方と相談して、その目で本人を見定めたあとで、返事はいつでも良いし断わってもかまわない話なの。でも話だけは聞いてくれないかしら」と若女。

「はい」と古美奈。

百済王明信も寄ってきた。消灯前の息抜きができる自由なときだ。

「あなたが子供だったころに、藤原式家は反逆者をだして裁かれたことがあるの。

その逆賊が嫡男ちゃくなんだったので、いまは次男の宿奈麻呂が家長をしている。

わたしは、あなたのような人が、宿奈麻呂さんの正妻になってくれたら良いなと、ずっと思っていたわ」と若女。

「宿奈麻呂さんて、いくつだっけ?」と由利。

「四十一歳」と若女。

「オジサンですねえ」と百済王明信。

「その年齢なら、夫人や子供がいるはずでしょう?」と由利。

「娘が五人いたけれど、もう全員が夫を持っている。息子は四歳の子が一人居る」と若女。

「うえに五人の娘がいて息子が四歳というのは、跡継ぎをつくるために頑張ったってこと?」と由利。

「そうでしょう。どうしても息子が欲しかったのでしょうね。

宿奈麻呂さんは十年以上も地方官をしていてね。二人の夫人が任地まで付いていって世話をしてくれたの。そのうちの一人の夫人は地方で亡くなって、帰京したのは四歳の息子の母になる夫人。この人は二人の娘の母でもあるの。

やさしくて穏やかな人でね。でも羽栗氏の出身なの」と若女。

「嫡男の母親の出自が劣るから、阿部氏の正妻を迎えたいの? その夫人が、かわいそうじゃない!」と由利。

「わたしも、かわいそうだと思うわよ。

でも娘たちと相談して、それを言い出したのは彼女よ。

よく疲れるようになったので娘のところで休みたい。宿奈麻呂さんには正妻を向かえて欲しいと言うのよ。たしかに顔色が優れないのね」と若女。

「幾つ?」と由利。

「三十八歳」

「じゃ、息子が産まれたときは三十四歳ね。

嫡男が欲しかったのだろうけど、きっと出産がひびいて身体をこわしたのよ。

それまでだって、息子が生まれないことを気にしていたでしょうにね。

なんか、すっごく腹が立つ。女は子供を産む道具じゃないわよ。

でも、その人の今の気持ちは分かる。一人でゆっくりしたいでしょうね」と由利。

「そうなの。それで古美奈さんに聞いていたってわけ」と若女。

「わたしの父は従五位上の図所頭づしょのかみでしたが、すでに亡くなっております。兄弟は、まだ従六位です。藤原式家とは、つり合わないのではありませんか」と古美奈。

「阿部氏は古代豪族だから、あなたが努力して出世すればいいのよ。

こういうのも腹が立つわね。わたしは吉備氏で地方豪族の出身だから、努力しても見返りが少ない。

でも、古美奈さん。藤原式家の家長の正妻だったら、良い話しだと思うよ」と由利。

「四十一歳なら古美奈さんより十七歳も年上で、ほかに夫人はいないということでしょう? きっと古美奈さんを大切にしてくださいますよ」と広虫。

「あッ。それってイイ。いまごろは、ほかの女のところにいるのかと嫉妬したり、いつかは会えなくなると思いながら後姿を見送らなくてもすむもの」と明信。

「そんな経験があるの。明信さん」と由利。

「そうなるのがイヤだから、わたしは生涯、女官をしてつくそうと決めたの」と明信。

「つくすって、だれに。帝に?」と由利。明信の顏が赤くなった。

「好きな人がいるのね」と由利。

「独り占めできるような人ではないから、恋はしないと決めたの。

でも好きな人は、永遠にあの人だけ。

わたしは、あの人が必要とする有能な女官になりたい!」と明信が両手で自分の体を抱く。

「ばかね。それを恋というのよ。あいては誰? 

もう登庁している人。それとも登庁前の若い人?」と由利。

「ナイショ。口が裂けても教えない」と明信。

「明信さん。右大臣の豊成さまの子息が、あなたに言い寄っているそうだけど、藤原南家との縁組みよ。

あなたこそ実らぬ恋に焦がれるより、さっさと決めたらどうなのよ」と由利。

「だって、この世で好きな方は、あの方だけだもの。

父やおじいちゃんが止めたって、好きなものは好きなのよ!」と明信。

「そう言っているうちに歳をとって、だれも相手にしてくれなくなるわ」と由利。

「古美奈さん。どうかしら。宿奈麻呂さんとの縁組みを考えてもらえないかしら」と明信と由利の騒ぎをよそに若女が聞いた。

「まずは休みがいただけるようになってから、家のものと相談してみます」と古美奈が落ち着いて答えた。



六月九日になって、孝謙天皇は五カ条の禁止令きんしれいをだした。

一 氏族の氏上うじのかみ(氏長者)は公用を捨ておいて、勝手に氏族を集めてはならない。

二 制限以上の馬を飼ってはならない。

三 規定以上の武器を所持してはならない。

四 武官を除いて、宮中で武器を持ってはならない。

五 宮中を、二十騎以上の集団で行動してはならない。

ほとんどが、それまでにあった規則の再確認だが、氏族を集めてはならないという禁令は始めてだ。内容が曖昧で、どこまで禁止しているのか範囲も分からないが、この禁止令が出たあとは都の人通りも少なくなった。



聖武太上天皇が亡くなってから、ずっと藤原仲麻呂は孝謙天皇のそばにいる。

だから柴微中台の光明皇太后こうたいごうのところには、孝謙天皇の詔勅に内印ないいん(天皇玉璽ぎょじ)を押してもらうときしか顔を出していない。

光明皇太后は、若いころから三十年以上も仲麻呂を可愛がってくれた。孝謙天皇が出した詔勅に内印を押してくれるから、気心きごころが通じ合っていると仲麻呂は思っていた。

 

いまの皇后宮のなかには、紫微中台と皇太后が居住している法華寺ほっけじがある。

六月二十一日に、右大臣の藤原豊成が法華寺を訪ねてきた。

聖武太政天皇の没後に出家した光明皇太后は五十六歳になる。たびたび会っているはずだが、皇太后は豊成が老いたのにおどろいた。豊成も五十四歳だ。

「お久しぶりでございます。こうして親しく二人だけでお目にかかりますのは、十何年ぶりになりますか」と、まず豊成が言った。

そういえば豊成と会うときには、いつも仲麻呂が立ちあっていた。仲麻呂がいると豊成は黙っているから、そのあいだの印象がうすいのだろう。

仲麻呂からは無能むのう無策むさくの兄と聞かせれつづけているが、二人だけで向き合うと落ち着きのある男だ。

「個人的に訪ねてこられるとは、めずらしい。なにか、あったか」と光明皇太后。

「お伝えしたいことがございまして参上しました」と豊成。

「なにを」

「二年ほどまえのことです」と豊成。

「二年もまえ?」と皇太后が眉をひそめる。

「はい。聖武太上天皇とたちばなの諸兄もろえさまが御酒ごしゅを召されたときに、諸兄さまが太上天皇になれなれれしく失礼なことを申されたそうです。

太上天皇は笑って、おとがめにならなかったのですが、諸兄さまは後になって、そのときのことを恥じて左大臣を辞退されたと聞きます」と豊成。

光明皇太后が不快そうな表情を浮かべた。豊成が何を伝えにきたのか怪しんだからだ。

「それが、どうした?」

「ただ今、御酒の席での諸兄さまの行いが、太上天皇にたいする不敬ふけいにあたるので、諸兄さまの罪を明らかにして断罪するために、その席にいた佐伯全成またなりを赴任先の信濃しなの(長野県)から呼び戻して事情を聞こうとしています」と豊成が淡々たんたんと話す。

「豊成。そのほうの話しが良く分からぬ。

諸兄は、この正月に亡くなった。諸兄の不敬を断罪しようとしているのは、今か?」と皇太后。

「はい。昨日、佐伯全成を呼びよせることが決まりました」と豊成。

「太政天皇がおとがめにならなかった二年も前のことを、なぜ今になって問題にする」と皇太后。

「わたしは、お伝えしたことしか存じません。

諸兄さまには、お世話になりましたので申し訳なく思っております。

わたしは藤氏とうし橘氏きっしと争うことなく帝を支えて、末永くお仕えできますことを願っております。皇太后さま」と豊成が姿勢を正した。

「これまで藤原一族をいつくしんでくださり、数々のご恩をこうむりましたことを、藤原氏の一人としてお礼申しあげます」と豊成が深々と二度、頭を下げた。

「そして右大臣として、また藤原南家の家長としての力不足と不始末を、心からおわびび申しあげます」と、もう一度、豊成は深々と二度、拝礼をした。

藤原四兄弟が亡くなったあと、光明皇太后がいなかったら今のように藤原氏は盛りかえせなかっただろう。

豊成は藤原氏として礼を述べ、右大臣として南家の家長としてあやまった。

皇太后は不審そうな表情を浮かべたまま、立ち去る豊成を目で追った。


三十分もしないで二十人の私兵に囲まれた仲麻呂が、一ヶ月ぶりに紫微中台の光明皇太后のもとにやってきた。

「また内印が必要か?」と光明皇太后。

「右大臣が来たとか。なにをしに来たのでしょう」と、すぐに仲麻呂がきく。

仲麻呂は豊成より二歳下の五十二歳だが、七、八歳は若く見える。

若いころから口達者で、なにを聞いても、すぐに答がかえってきた。今は人を威圧させる雰囲気をにじませている。

豊成が話したことぐらいは知っているはずで、だから急いで田村第から出てきたのだろう。

「橘諸兄の不敬を問うために、佐伯全成を呼び戻すのか」と光明皇太后が聞く。

「はい。先の左大臣が太政天皇にたいして無礼な言葉を使ったという、左大臣の側近をしていた佐美さみの宮守みやもりという男の証言が、わたしのところにございます。その席におりました佐伯全成の証言を取りたく召喚しょうかんしました」と仲麻呂。

「証言した男は諸兄の下官か」と光明皇太后。

「はい。当時はそうでした」と仲麻呂。

「諸兄を断罪することは、太政官たちとの協議で決まったことか」と皇太后。

「はい。昨日、田村第に太政官を集めて、太政官符で佐伯全成を召喚する旨を伝えております」と仲麻呂。

「太政官符に押す外印(太政官印)は、どこに保管している」と皇太后。

「ご安心ください。わたしが田村第に保管しております」と仲麻呂。

光明皇太后の表情がこわばった。

「帝はご存じなのか」と皇太后。

「はい。ご報告しております」と仲麻呂。

柴微内相しびないそう。橘諸兄は、わたしの兄だ。

太政天皇が不問になさったことで、わたしの亡き兄の罪を問うのなら、恐れおおくも太政天皇の御判断をただすことになる。

亡くなったあとで裁かれるほどの大罪が橘諸兄にあるのなら、妹のわたしも連座で裁きをうけねばならない。

それを承知したうえかと、帝に伝えるように」と光明皇太后が言った。

仲麻呂の指先が、こぶしを握ろうとするように曲がって固まった。このとき仲麻呂から、かすかな敵意を光明皇太后は感じた。

「たまわりました」と仲麻呂が目を細めて答える。

「柴微内相は、柴微中台に仕えるもの。

帝が先の左大臣を断罪されるような大事は、まず、わたしに知らせるように」と光明皇太后。

「は」

仲麻呂が帰ったあとで、光明皇太后は怖い顔をして考えはじめた。

娘を支えさせるために、仲麻呂をとり立ててきたのは光明皇太后だ。いままでは仲麻呂と二人三脚で孝謙天皇を守ってきたが、きしみがでてきたように感じる。

若いころの孝謙天皇は、仲麻呂をとり立てる母を嫌っていたが、いまでは頼りにしているのだろう。仲麻呂が孝謙天皇と密接になればなるほど、それまでかじをとっていた光明皇太后は外されてゆく。

孝謙天皇はブレやすい性格だ。そんな娘を、仲麻呂に任せても良いのだろうか。

豊成がながの別れのような、挨拶をしていたのも気になる。

光明皇太后は、藤原一族を守るために生涯をついやしてきた。「長屋王の変」のあとで批判を浴びながら皇后として即位したのも、痘瘡とうそうの流行で四人の兄を亡くしたときに聖武天皇に迫って娘を皇太子にしたのも、藤原一族の存続のためだ。だが自分が望んだ方向と流れがちがうようだと、光明皇太后は考えはじめた。


「高麗福信さん」と川屋かわやを出たところで、柴微大忠だいじょう加茂かもの角足つのたりが声をかけてきた。

川屋は、宮中などの主要な施設にそなえられた、下に川が流れている水洗式便所だ。

汚水は地下に埋めた木の下水管に流れる優れた設備で、柴微中台にもそれがある。

「ああ。角足さん。いつぞやは楽しかったですな」と紫微中台の少弼しょうすけの高麗福信。ちょうど周りに人がいない。

一年前の四月に角足の別荘に招かれたときは、うまく勧誘をさけて酔って騒いで一晩泊めてもらった。

「いかがですか。七月二日の夕方に、まえにご一緒された方々と、また額田部ぬかたべにいらっしゃいませんか。

楽しく酒を酌み交わしましょう」と角足。

「ほう。それは残念だ。このところ、わたしは、ここに来ている中衛舎人の面倒までまかされて、昼も夜もなく泊まり込みですよ。

休みをとるなど、夢の、また夢ですな。

いつになったら、この厳戒態勢げんかいたいせいが終わりますかな」と福信。

「坂上さんや、奈貴王や、嶋足さんは?」と角足。

「坂上苅田麻呂も牡鹿嶋足も中衛舎人ですから、休みなど取れないでしょう。

帝が田村第を御在所ござしょとされて、警備をする範囲が多くなりましたからね」と福信。

「このたび、わたしは遠江とおとみに行くことになりましたので、別れの宴をもうけます。ぜひ、みなさまに、いらしていただきたいのですが」と角足がねばる。

「それなら早く赴任先へ向かったらどうです」と福信。

「まだ、ここでの引継ぎがありますし、せめて七月二日に別れの宴をと思っています」と角足。

でも、わたしたちを額田部にさそう理由はなんでしょう。

悪いことは言わない。角足さん。

もう一度、いっしょに酒が飲めるように、さっさと都から消えなさい」と福信が、大きな体を屈めて角足の耳元にささやいた。


 

六月二十八日の夜に、仲麻呂が光明皇太后に文を送ってきた。それに目を通した皇太后が顔色を変えて使いに問いただす。

「橘奈良麻呂ならまろと大伴古麻呂こまろが、武器を持って田村第を包囲すると、山背やましろ王が密告してきたのか?」と皇太后。

「はい」と仲麻呂の従者が答える。。 

山背王は長屋王の息子で、母は光明皇太后の異母姉の藤原長蛾子ながこ。山背王と橘奈良麻呂の間に血のつながりはないが、光明皇太后にとって奈良麻呂は異父兄の子で、山背王は異母姉の子。二人とも甥になる。仲麻呂も異母兄の子で、大勢いる甥の一人だ。

「それは、正式な告訴か」と皇太后。

「……」従者は答えられない。

「山背王は、いつ来た」と皇太后。

「さきほど、夕刻に参られました」と従者。

「どこに」と皇太后。

「田村第にです」と従者。

「この文は、山背王が来てから書かれたものだな」と皇太后。

「はい」と従者。

光明皇太后の目が鋭くなった。

田村第は役所ではなく私邸だ。告訴は役所にするものだから、これは正式な告訴ではなく、山背王がイトコになる仲麻呂の耳に入れた話だと光明皇太后は理解した。

柴微内相しびないそうさまからのご伝言をあずかっています」と従者。

「聞こう」

「橘奈良麻呂と大伴古麻呂に謀反のたくらみがあることは、すで典薬寮てんやくりょうのものが右大臣の藤原豊成さまに報告していますが、右大臣は奈良麻呂たちを説得するからとおっしゃるだけで、なにも手を打っておられません」と従者。

「右大臣は知っていたのか」と皇太后。

「はい」

光明皇太后は豊成の言葉を思い出した。豊成は、仲麻呂が橘奈良麻呂を追いつめるのを止められないとびていたのだ。

「奈良麻呂たちは、帝を襲うために田村第を包囲するのか」と皇太后。

「…」

「それとも仲麻呂が目当てなのか」

「…」

「どうして答えない」

「…ぞんじません」と従者。

「わたしが帝のところに参ると、帰って内相に伝えよ!」と光明皇太后が言った。

長いあいだ信頼していた身内を疑うことは、とてもむずかしい。しかし、ここにきて、光明皇太后は仲麻呂に不信感をもった。

橘諸兄の不敬につづいて橘奈良麻呂の謀反だ。仲麻呂が、橘奈良麻呂をおとしいれようとしている。

仲麻呂のやりかたなら、光明皇太后は熟知している。

仲麻呂なら自分を殺す企てを早くから知っていただろう。田村第は天皇を迎えられる大宮と呼ぶ離宮をもっているが仲麻呂の私邸だ。たとえ仲麻呂が軍事権をもっていても、天皇がいないと衛士えじ中衛舎人ちゅうえとねりに警備させることはできない。

そして仲麻呂の私邸だから、田村第が襲われても天皇が不在だと謀反にはならない。

仲麻呂は自分の身の安全のためと、橘奈良麻呂たちに謀反の罪を着せるために、わざわざ孝謙天皇を危険な田村第に住まわせている。

それに気がつくと、光明皇太后の仲麻呂にたいする長年の信用が一気にくずれた。



皇太后は、紫微中台の少弼の高麗福信を呼んだ。

「明朝から田村第に移る。いっしょに来るように」と光明皇太后。

「はい。しばらく、ご滞在なさいますか」と福信。

「そうなるかもしれない。内印ないいん駅鈴えきれいを守るための中衛ちゅうえ舎人とねりを選んでほしい」と皇太后。

「持って行かれるのですか?」と福信。

「帝のみことのりが必要になるかも知れない。

そのほうの役目は中衛舎人とは別に、田村第にいるものを密かに見張り内印とわたしを守ることだ」と皇太后。

「ハッ!」と福信の体に緊張が走った。

大宮おおみやで使う寝所のそばに、内舎人の控え室がある。

そこを使えるように手配しよう。武官の装いでなく官服で良い。

内印と駅鈴とわたしを、しっかり守れ」と光明皇太后。

「皇太后さま。一人ではになえません。従者をつれていっても良いでしょうか」と福信。

「信用できる者か」と光明皇太后。

「はい!」…たぶん・・・政治に無関心だと言っていたから・・・たぶん、大丈夫だろう。

腕が立って気が利いて、こんなときにヒマを持て余しているのは、残念だがアイツしかいないと福信が考える。

「聖武太上天皇は非情なことはなさらず、天子としては心根がやさしすぎた。だからこそ、人を見る目は確かだった。

わたしはおのれに走り、私欲のために非情を許した。

それで目を曇らせていたようだ。

福信。そなたは聖武太上天皇が取り立てた。太上天皇が認めた、そなただ。信用しよう」

「はい。皇太后さまのお心にいます」と高麗福信が頭を下げた。



七月二日。

午前中に右大臣の藤原豊成をはじめとする太政官や重臣たちが、田村第の大宮の前庭によばれた。そこで孝謙天皇の詔が読みあげられた。

「諸王、諸臣のなかに逆心を持つ者がいて、ここを包囲しようと兵を集めていると聞く。どんなヤツがちんの朝廷にそむいて、そんなことを企てるのか。

慈愛の政治を行うのはやさしいが、この陰謀は国家の大事であるから、狂い迷っている者どもを、さとして正すべきである。

身に覚えのある者は、人に見とがめられることをしてはならない。従わないものには国法による懲罰を止めることはできない」

そのあと大宮の中に人々を入れて、光明皇太后が重臣たちに会って伝えた。

なんじら一同は、わが甥同然の近親者である。大伴氏と佐伯氏は、古くから天皇の側近の軍兵として仕えてきた。

皆、心をおなじくして朝廷を助けお仕えしなければならないときに、こんな醜いことが聞こえてきて良いものだろうか。おまえたちがしっかりしないから、こんなことになる。すべてのものが明く清い心をもって朝廷にお仕え申せ」

太政官や重臣たちは、皇太后の言葉にうなずいた。

孝謙天皇は姿を見せなかったが、田村第を包囲しようとしている者をさとして正すべきだ、見とがめられることをしてはならないと詔で伝え、皇太后は自らの言葉で明るく清い心で仕えよとさとしている。

太政官や重臣たちは、この七月二日からは、迷っている人をさとして仕えようと理解して深くうなずいた。

高麗福信は、いつでも飛びだして皇太后をかばえるようにしていたが、群臣たちからは害意を感じなかった。


田村第に来てからの光明皇太后は、孝謙天皇と仲麻呂を、逆心ぎゃくしんをもつものがいるなら説得して改心させ大ごとにしないようにと説いている。

孝謙天皇は反逆者がいることで神経をとがらせているが、この日は母に従って詔をだした。

説得などというゆるいやりかたに仲麻呂は不満をもらして、この日は大宮に顔をださず群臣たちとも会わなかった。

日が暮れてから、仲麻呂が大宮にやってきた。

「大炊皇太子と、わたしを殺そうとしているものがいると、中衛府に告訴してきたものがいます」と仲麻呂。

「いつ?」と光明皇太后。

「さきほどです」と仲麻呂。

「告訴人はだれだ」と皇太后。

「中衛の舎人で従八位上の上道かみつみちの斐太都ひたつです」と仲麻呂。

告訴は、ちがっていたら裁かれるから命がけでするものだ。それだけに中衛府に告訴人が来たのなら、内容をたしかめて調べなければならない。

「かれらの計画は、精鋭せいえい四百人をひきいて田村第をかこみ、任地へむかっている陸奥むつ鎮守府ちんじゅふ将軍しょうぐんの大伴古麻呂が、美濃国みののくに(岐阜県南部)についたら不破ふわ関所せきしょ閉鎖へいさする。そして、わたしと大炊皇太子を殺すというものだと、まえの備前守びぜんのかみ小野おのの東人あずまびとが、上道斐太都にいったそうです。

そのときに小野東人が口にした仲間は、黄文きぶみ王。安宿あすか王。橘奈良麻呂。大伴古麻呂です。

まえにお伝えしましたが、典薬寮てんやくりょう答本とうほん忠節ちゅうせつが、わたしをおどかそうとするものがいると右大臣に報告しています。

右大臣は、そのことを隠しています」と仲麻呂。

「すぐに橘奈良麻呂と大伴古麻呂を捕縛ほばくせよ!」と孝謙天皇が机をたたいた。

孝謙天皇は、即位直後のはじめての叙位で奈良麻呂や古麻呂を昇位させて、そのあとも古麻呂には遣唐使の副司などを任じて出世の糸口をあたえてきた。いわば子飼いの家臣のつもりだった。

孝謙天皇の姿に眉をひそめた皇太后が、仲麻呂にむかって命じる。

「まず告訴が正しいかどうかを確かめよ。告訴人に話したという小野東人と、右大臣に告げたという答本忠節を召してしらべよ」と皇太后。

「はい。高麗福信に兵をあたえて、迎えに行かせたいと思います」と仲麻呂。

光明皇太后は、福信を側からはなしていない。皇太后の態度が変わったことに仲麻呂も気がついている。皇太后が、福信に向かってうなずいた。

「帝。尋問じんもんは明日からになります。今夜は動きがありませんから、寝殿しんでんに、お引き上げください」と仲麻呂。

「では兵をあつめて、小野東人と答本忠節を連れてまいります。

どちらに送ればよろしいか。どこに報告すればよいでしょう」と福信。すでに夜が更けている。

左衛士府さえじふの牢に収監しゅうかんしろ。

報告は、わたしにするよう。住まいの方で待つ」と仲麻呂が席を立った。

孝謙天皇と仲麻呂が出ていくと、福信が自分の従者を呼び寄せた。

「わたし帰るまで、昼も夜も眠らずに皇太后さまをお守りせよ」と福信。

「おまかせください!」と奈貴王がかしこまった。

棒術ぼうじゅつの名手で政治に関わりたくない奈貴王は、任官されるまえから政治の裏に関わることになった。

このあと仲麻呂は、皇太子を廃された道祖ふなと王の右京にある邸を、自分の独断で兵に包囲させた。



七月三日。

朝から、右大臣の藤原豊成と中納言の藤原永手らに、左衛士府さえじふに収監されている小野東人らを尋問させたが、なんの証言もとれなかった。

豊成は仲麻呂と対立しているし、北家の永手、八束やつか御盾みたての三人の兄弟は、母親が橘諸兄の妹の牟漏むろ女王にょうおうだ。

諸兄が元気だったころは甥として目を掛けられていたし、イトコの橘奈良麻呂とも親しくしていた。だから、このときの尋問は口頭で聞き、小野東人は黙秘をとうした。

田村第の大宮では、孝謙天皇と光明皇太后と藤原仲麻呂の話し合いがつづいていた。途中から舎人親王の子で、大炊皇太子の兄になる船王がやってきて加わった。

「十年以上まえからの記録があります。最近のものだけをもってきました」と船王が厚い紙束を差しだした。

「この三年の記録でも、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿あすか王、黄文きぶみ王、塩焼しおやき王が、朝廷に不満を持っていたことがあきらかです。

大炊王が皇太子になられてからは、反逆を企てていたことも分かります」と仲麻呂。

「いままで、そんな話を聞いていないが、帝は存知か?」と光明皇太后。

孝謙天皇は返事をしない。

「わたしがひそかにあつめた資料です」と仲麻呂。

「なぜ、そのつど報告をしなかった」と光明皇太后。

「太政天皇の一周忌が終わるまではと、ひかえておりました」と仲麻呂。

「これは内相の個人的な記録でしかない。まず告訴人からの正式な告訴を受けとらなければならない」と光明皇太后。

「この田村記には、ちゃんと告訴人の供述と証言の日時と署名があります」と船王。

「内相。田村第は役所ではなく、そのほうの私邸だ。

田村記というのは、田村第の覚書きにすぎない。

船王。これを告訴状とするためには、弾正だんじょうのかみのそのほうが、ここに署名している者を弾正だいに呼び寄せ、彼らからの正式の訴状を受け、告訴人を囚獄して内容の是非を調べなければならない。

それとも国の法をないがしろにして、弾正伊が田村第の覚書きを告訴状と認めるつもりか。

なぜ、ああ言った、こう言ったという伝え話の書き取りと署名が、田村第にあった? 

どうして、紫微中台でもいいから、この者たちに役所に告訴するように勧めなかった? 

証拠となる書面が、なぜ内相の私邸に保管されていた?」と光明皇太后。

「皇太后。口を出さないでください。朕が命じます。

内相。朕の朝廷に反逆する者どもを、すべて捕えて罪を問え!」と血の気が失せて顔色が白くなった孝謙天皇が、体をふるわせながら叫ぶ。


光明皇太后が田村第にきてから、孝謙天皇は神経を高ぶらせている。

大炊皇太子を不満として、皇族や臣下が反逆を企てた。それだけでもストレスが高いのに、光明皇太后がいると自分が否定されているように感じるから、母の言葉は無能さを責めているようにしか受けとれない。

「帝。橘奈良麻呂も、安宿王も、黄文王も、わが甥です。帝と血がつながるイトコではありませんか。

塩焼王は帝の義兄でしょう。大伴氏は皇族にとって大切な氏族です。

ことを荒立てるより、いさめる機会をあたえてほしい」と光明皇太后。

「内相。すぐにヤツラメを捕縛しなさい!」と孝謙天皇がキンキン声で、仲麻呂に命じる。

「失礼します」と女官の飯高いいだかの笠目かさめがよってきて、孝謙天皇の手をとり自分の手で温めはじめる。孝謙天皇の頬に少し血の気がもどってくる。

「このところ眠っておられません。しばらく横になられますか」と笠目。

頭痛がするのだろう。孝謙天皇が笠目によりかかった。

「奥へおつれいたします」と光明皇太后に頭を下げたあとで、笠目が女官たちを呼んだ。女官たちに囲まれた孝謙天皇は寝所にむかった。

「内相。反逆を企てたという者を呼びなさい。わたしが説得します」と孝謙天皇が去ったあとで、光明皇太后が命じた。


七月三日の夕方に、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を大宮によびよせて、柴微内相の仲麻呂が光明皇太后の詔を読みあげた。

「汝ら五人が反逆を企てていると、ある人が伝えてきた。汝らは我が一族に近い人であるから、わたしを恨むとは思いもよらなかった。

朝廷で高い位置につけられているのに、なにが恨めしくて、このようなことを企んだのか。そんなことがあるはずはないと思う。

それゆえ汝らの罪は許してやる。これからさき、このようなことをしてはならない」

仲麻呂が読み上げた皇太后の詔は、五人が反逆を企んだと告訴した者がいるが、今回は許すと、はっきり言っている。

五人は田村第から帰るときに、門の外で深々とおじぎをして光明皇太后に感謝をしめした。

もしも反逆を試みていたとしても、七月三日の夕刻には皇太后から罪が許されている。この日までに田村第をおそった者はいないし、仲麻呂と大炊皇太子をおどかした者もいない。反逆行為は起こっていなかった。

ただ皇太后の言葉は、詔とは言わない。光明皇太后は、聖武太上天皇から内外印ないげいん駅鈴えきれいをあずかったが天皇でも太上天皇でもない。先帝の皇后と言うだけで、後宮は政治に関われないから政治に介入かいにゅうできる立場ではない。

それは皇太后の立場を強くするために、紫微中台しびちゅうだいをつくった仲麻呂がよく知っている。

意見が対立し始めた光明皇太后を、仲麻呂は見限った。皇太后が何をしようが天皇が否定すればすむことだ。



七月四日。

孝謙天皇が口勅こうちょくで、藤原永手と船王を衛士府えじふの牢にやって、上道斐太都が告訴した小野東人をきつく尋問させた。

きつく尋問するというのは、細長い板でたたく拷問をして自白を強要したと言うことだ。

右大臣の藤原豊成をはずして、この日からは大炊皇太子の兄の船王と永手が中心になった。その結果、小野東人が反逆の計画の詳細と首謀者を自白した。

安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比たじひの牛養うしかい、多治比礼麻呂いやまろ、大伴池主いけぬし、多治比鷹主たかぬし、大伴兄人えひとの名前がでた。

かれらは六月に三回、あつまって相談をした。一度目は奈良麻呂の邸。二度目は宮中にある図書寮づしょりょうの庭で、三度目は太政官府だじょうかんふの庭で会って打ちあわせをしたと、東人は告白した。

計画では、七月二日の夕刻に兵士を動員して田村第を包囲して仲麻呂を殺し、大炊皇太子を廃して、つぎに光明皇太后のいる法華寺ほっけじを占領して駅鈴と内印(御璽ぎょじ)をとりあげる。

そのあとで右大臣の豊成をよんで、塩焼王、安宿王、黄文王、道祖王のなかから天皇をえらんで即位させようというものだった。

小野東人の自白で名がでた人々が、次々に召喚されて獄に入れられ始めた。


「昨日、すでに塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を呼んで、これからさき、このようなことをしないようにとさとして許したはずだ。

詔を読み上げたのは、仲麻呂。その方であろう。なぜ、かれらを逮捕した」と光明皇太后。

「帝が勅をだされました」と仲麻呂が冷やかに言った。

「天皇玉璽を渡したおぼえはない」と光明皇太后。

「口勅です」と仲麻呂。

「このような大事を、軽々しくも口勅でおこなったか。

かれらは、まだ、なにもおこしていない。ゆえに諭して許した。わざわざ事を荒立てるつもりか」と光明皇太后。

「わが国の律令は、唐の国の律令を元にしてつくられております。

わが国では未遂に終わった謀反については、まだ決められておりません。唐令とうりつでは、謀反を企てることも大逆となっています」と仲麻呂。

「安宿王と黄文王は天武天皇の三世王で、元明げんみょう天皇が皇嗣こうしと認められた。道祖ふなと王は聖武太上天皇が皇太子と定めた二世王だ。

そのように高貴な方を囚獄しているのか」と皇太后。

「名がでた方が多いので、衛府のごくを使っております」と仲麻呂。

「まさか拷問はしていないだろうな」と光明皇太后。

「謀反の企ては正式に告訴されています。今後、このような企てを起こさせないために、告訴人が名をあげた者から事情を聞いております。

すべて帝のご指示です。帝の口勅に逆らえば反逆者とみなされます」と仲麻呂が無表情に応じる。

こを聞いて、光明皇太后は田村題を引き上げて法華寺ほっけじに戻った。


七月五日の夜、左衛府の獄を警備している百済くだらのこにしき敬福きょうふくが、兵をつれて獄からでてきた。

左衛府の獄の南に、光明皇太后が住む法華寺と柴微中台がある。

敬福の姿をたしかめた、高麗福信がまえに出た。

すぐに敬福が馬をおりて、兵士たちが運んできた荷車の方に福信をつれていく。

もどってきた福信が、奈貴王と中衛舎人たちに守られている光明皇太后に告げた。

「お会いにならないほうが、よいと存じます」

「生きているのか」と光明皇太后。

「息はあるようです」と福信。

「会おう」と光明皇太后が、百済王敬福のほうに歩みだした。

皇太后に頭をさげてから、荷車にかけられたこもを百済王敬福が少しめくった。兵士の一人が松明たいまつをよせる。

そこには頭をつぶされた男がいた。かすかに開いてる左の眼も見えていないようだ。その目から一てきの血が涙のように耳の方に流れている。

原型をとどめていないが左耳の下の三つ並んだホクロを見て、それが橘奈良麻呂だと光明皇太后は確信した。腰と膝の力が抜けて、くずれそうになった皇太后を、高麗福信と奈貴王が左右から支える。

「橘氏にお渡します」と百済王敬福がいう。

光明皇太后はうなずいて、かすれた声で聞いた。

「ほかのものは」

「すでに亡くなられた方もおられるようです」と百済王敬福。

らわれてから一日半もたっていない。

自白を強要するための拷問なら、亡くなるのが早すぎるではないか。

最初から殺すつもりで拷問をしたのか・・・」と奈貴王が口走った。

光明皇太后は法華寺にもどると、すぐに仲麻呂を呼びつけた。


「皇太后さま」と仲麻呂が二度目の声をかける。

仲麻呂を通り越して遠くを見ている光明皇太后が、そのままの姿で声をだした。

「反逆を企てようとして捕らえられている者たちを、すぐに結審けっしんせよ。これ以上の尋問は無用である」仲麻呂の目が一瞬、泳いだ。

「実際の反逆は行われていない。罪一等つみいっとうげんじて斬刑ざんけいではなく流刑るけいとするよう。

恐れおおくも聖武天皇が許された橘諸兄の罪は、とがめないよう」と光明皇太后がつづける。

「まだ詳細が分かっておりません。尋問をつづけて全貌ぜんぼうをつかむまでは罪を決められません」と仲麻呂。

「今回の騒ぎは終わった。いま、すぐ尋問をやめて断罪せよ。

わたしは、これから仏道に専念せんねんする。

わたしは帝の補佐をするようにと、聖武天皇から内外印ないげいん駅鈴えきれいたくされた。外印は太政官符でかんりするようにと、その方に渡したが、内印と駅鈴は保管している。

いますぐ尋問をやめ、反逆者の罪が決まり刑が実行されたら、内印を帝に渡そう」と皇太后。仲麻呂が鋭い視線を向ける。

「尋問をやめて断罪すれば、内院を帝にお渡しになるという、お言葉をお守りください」と仲麻呂が席を立った。


その日のうちに尋問は止められたが、すでに、黄文王、道祖王、大伴古麻呂、多治比牛養、小野東人、加茂角足は、なぐり殺されていた。

安宿王らは息があって流刑にされた。

土佐にいた大伴古慈斐こじひは、大伴氏から反逆者が出たのは若者への指導が悪いからと捕らえられて流刑にされた。

聖武太政天皇と橘諸兄の酒席にいたために、そのときの様子を赴任先の信濃国で聞かれた佐伯全成またなりは、尋問に答えたあとで自らを恥じて縊死いしした。


七月九日。

仲麻呂(南家)は、藤原永手(北家)を勅使ちょくしとして右大臣の藤原豊成(南家)の邸へおくり、橘奈良麻呂と親しかった豊成の三男の乙縄おつただが反逆にかかわっていると伝えさせた。

豊成は息子の両手をしばって、さわぐこともなく永手に差しだした。乙縄は日向ひゅうがの(九州、宮崎県、鹿児島県の一部)じょうとして左遷された。

 

七月十二日。

反逆の報告を受けていて何もしなかったと、右大臣の藤原豊成は職をとかれて太宰員外いんがいかみとして左遷された。仲麻呂がせかして追いたて、豊成はおとしく都をはなれた。しかし難波までくると、豊成は病をとどけて難波の別荘に留まった。

藤原南家には、次男の仲麻呂と三男の乙麻呂と四男の巨勢麻呂が残って、家長の豊成を追いだした。

藤原北家は、永手と八束と真盾の母が橘諸兄の妹で、仲麻呂とは二重の縁組をしているという複雑な立場で仲麻呂についた。

藤原式家と藤原京家は、この事変にかかわらなかった。

大炊皇太子に代わる天皇候補とされていた諸王のなかで、塩焼しおやき王だけは計画を知らなかったからと罪を問われなかったが、次の年に臣籍降下して氷上ひかみの塩焼しおやきとなって皇籍を離れた。

この「橘奈良麻呂の乱」といわれる一連の騒動で、皇位こうい継承権けいしょうけんを持つ二世王は殺されるか流刑にされ、四百四十三人が連座で裁かれた。





藤原不比等

  ‖――――――光明皇太后――――孝謙天皇         

橘三千代

  ‖――――――橘諸兄――――――橘奈良麻呂(獄中死?)

美努王      橘佐為

         牟漏女王     藤原永手

          ‖―――――――藤原八束(真盾)

藤原不比等――――藤原房前(北家) 藤原御盾


天武天皇―――――舎人親王――――――船王

                   池田王

                   大炊皇太子


天武天皇―――――新田部親王―――――氷上塩焼(塩焼王)

                   道祖王(獄中死)


天武天皇――高市皇子―――長屋王   山背王(密告)

              ‖――――黄文王(獄中死)

      藤原不比等――長娥子   安宿王(流刑)


藤原南家  豊成(左遷)

      仲麻呂

      乙麻呂

      巨勢麻呂


藤原北家  永手(室 良継の娘)

      八束

      清河(在唐)

      魚奈

      御盾(室 児依こより 仲麻呂の娘)  

      楓麻呂(室 良継の娘)

      宇比良古(仲麻呂室)


中衛舎人  高麗福信

      坂上苅田麻呂(元授刀舎人)

      牡鹿嶋足(元授刀舎人)


  











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