三  紫微に立つ暗雲  孝謙天皇の即位 


七五〇年(天平勝宝てんぴょうしょうほう二年)~七五五年(天平勝宝六年) 


孝謙こうけん天皇が即位して半年が過ぎた。


七五〇年一月十七日。

「由利。ユリ!」

巻物や本がつめこまれた棚がならぶ、自宅の書庫をのぞいた吉備きびの真備まきびが声を大きくした。

「なによ!」と頭からふすま(ふとん)をかぶって座ったまま、顔も向けずに由利が答える。

四年まえ(七四六年)に聖武太政天皇から新しいうじをもらって、下道真備から吉備真備になった由利の父は、従四位下で五十五歳。孝謙天皇が即位するまで学士がくしをつとめていた。

 

吉備地方(備前国びぜんのくに備中国びっちゅうのくに美作国みまさかのくに備後国びんごのくに。広島県と岡山県東部)は、日本最古の鉄鉱石の産地でササラを踏んで刀や工具や農具などの鉄製品を作っていた。四世紀ごろに大和の政権は、吉備の鉄鋼業を支配しようと遠征軍えんせいぐんを送りだす。

大将は吉備津彦きびつひこ稚武わかたけの吉備津彦きびつひこの兄弟で、おとぎ話の「桃太郎」のモデルだ。この兄弟に退治される「鬼」は温羅うらと呼ばれる渡来系とらいけいの鍛冶師の集団のおさだった。

征服したあとで吉備津彦と稚武吉備津彦は、大和政権から吉備地方の統治をまかされる。このときに兄の吉備津彦が上道かみつみち氏、弟の稚武吉備津彦が下道しもつみち氏、ほかに吉備一族として、笠氏かさし美濃氏みのし賀陽氏かやしなどがいて、吉備地方を分割して治めた。

吉備を統治した地方豪族は、鉄の産地だから裕福でだい古墳群こふんぐんを残している。

この吉備一族は大和朝廷の戦闘員だったらしく、すでに国として治まっていた出雲いずものくにをほろぼし、ヤマトタケルの東北とうほく遠征えんせいにも従軍している。

五世紀後半に入って、大王の継承けいしょうにからんで、大和政権のなかで対立があった。それに負けた吉備一族の勢力はおとろえて、それからは都で出世をすることがなく、吉備真備の父は衛士えじの少尉しょうじょうで官職を終えている。このころの吉備氏は、五位を最終さいしゅう官位かんいにして終わる氏族だった。


吉備真備まきびは、二十二歳のときに官費留学生の試験に受かって、亡くなった玄昉げんぼうや、いまも唐に残っている阿部あべの仲麻呂なかまろたちといっしょにとう(中国大陸の統一帝国)に渡った。

真備が留学したころの唐は、世界屈指くっしの文明大国だった。

ときの玄宗皇帝げんそうこうていは、各国から集まってくる留学生を受け入れて、才能のある者は唐の朝廷に召しかかえた。

阿倍仲麻呂と吉備真備は、留学生のなかでも優等生の双璧そうへきとたたえられるほど優秀だった。真備は唐で十七年半を過ごし、政情に不安を感じはじめたころに、いち早く皇帝の許可をもらって日本から来た遣唐使船けんとうしせんが帰国するのに便乗びんじょうして帰国した。

留学生は二十年を唐で勉学する決まりなので、早めに切りあげての帰国だ。玄宗皇帝が手放さなかった阿倍仲麻呂は、今も、まだ唐の朝廷に官吏として仕えている。

帰国したとき真備は四十歳で、留学するときに妻の腹にいた子が十八歳の娘になっていた。それが、いまは女官をしている吉備由利だ。


帰国した十五年まえに、真備と玄昉が乗ってきた遣唐使船に同船していた人が痘瘡とうそう(天然痘)の第一波の流行を九州で起こした。このときは九州でおさまったかにみえたが、一年後に帰国したけん新羅使しらぎしのなかに感染者がいて、ムリをして朝廷に登庁とうちょうして帰国の報告をしたことから、都の人口が半分になるほどの痘瘡の被害がでた。

つまり真備が戻ってきた年に、舎人とねり親王しんのう新田部にいたべ親王しんのうが亡くなり、いったんは治まったように見えたが、翌々年には藤原四兄弟をはじめ政府の高官がつぎつぎに亡くなってしまい、官人に欠員ができた。

人手不足になった聖武天皇は、真備と玄昉を重用ちょうようする。

といっても、さいしょに真備がもらった位階は従五位下、職務は中宮ちゅうぐうのすけ。つぎが従五位上で右衛士督うえしのかみだ。

遣唐使を一回すると二階級は昇位しょういされるから、長い留学で得た真備の知識と、帰国後に献上した文献などの多数の資料を考えれば、驚くほどの優遇ではない。

それでも玄昉と真備の重用を批判しておこったのが、十年まえの「広嗣ひろつぐの乱」だ。

真備が本領ほんりょうを発揮できる東宮とうぐうの学士がくし(皇太子の家庭教師)になるのは、「広嗣の乱」が終わったあとの七四一年で、阿部皇太子だった孝謙天こうけん皇が二十三歳、真備が四十六歳のときだった。

それから八年のあいだ、吉備真備は孝謙天皇が即位するまで東宮学士をしていた。

東宮学士は東宮(皇太子、春宮とも呼ぶ)が即位したあとも、宮中に職をあたえられて天皇のそばに残ることが多い。その方が新天皇も相談ができて心強い。

しかし、今年の一月十五日に、真備は筑前ちくぜんのかみ(福岡県北東部)として九州に赴任ふにんすることになった。その理由が広嗣の祟りがあったからで、祟りなら避ければ良いのに、わざわざ広嗣が隼人たちを率いて向かっていた筑前への左遷だ。どんな祟りがあったのかは、真備も知らない。

そして真備を九州に送ることが決まった翌日に、正三位の大納言で柴微令しびれいをしている藤原仲麻呂が従二位になった。

従二位は、仲麻呂の兄で右大臣の藤原豊成とおなじ位だ。



「由利。客人だ!」と真備が声を大きくした。

由利は、かぶっていたふすまをのけて立ちあがり、髪をなおしながら父の真備をにらみつけた。女官の吉備由利も三十二歳で、秀でた額と理知的な目が印象的な腹のすわった女性になっている。

「見苦しい姿をお見せしました」と父が連れてきた官人に、由利がかるく頭をさげる。

「紹介しよう。娘の由利です。こちらは佐伯さえきの今毛人いまえみしさん」と真備。

「お顔は存じています」と由利。

聖武天皇の内舎人うとねりだった佐伯今毛人も、従五位下になり貴族の仲間入りをした。年は由利より一歳下の三十一歳だ。

「由利。どこかに寺の設計図や写生があるはずだが出してくれ」と真備。

少し考えただけで、いくつもある棚のなかから、迷わず由利は大型の紙を重ねたものを引きだして机にのせた。

「ここは用心して火をつわないから寒くて暗い。それをもって、あっちの部屋に移りましょう」と真備が今毛人をうながす。部屋を出てゆく二人の姿を目でおった由利も、自分が見ていた絵図をもって後を追った。

真備の書庫しょこ天窓てんまどから明かりが入るほかは窓がなく、火事を恐れて壁が厚いから、この季節はとても冷える。夢中で気がつかなかったけれど、由利は体のしんまで冷えていた。

邸の一角を仕切って造った書庫のあるむねに、老僕と小者をおいて真備は住んでいる。邸の中には別の区画もあり、帰国してから真備がめとった由利とは義理の仲になる真備の妻子が住んでいるが、そこには余り顔をださない。

由利も休みの日には、父が暮らす書庫のある一棟に戻ってくる。

「これを、すべて真備先生が描かれたのですか」と炭櫃ずひつ(火鉢)の火が温かい部屋で、今毛人が大きな声をだした。その部屋に由利も入って、いままで見ていた市街図を広げる。

絵図面えづめんを見せてもらえるものは写しました。見ることができないときは、だいたいの寸尺すんしゃくを自分で測って、わたしが起こしました」と真備。

「わたしにも写させていただけますか」と今毛人。

「持ちかえって写しなさい」と真備。

「ありがとうございます。少しずつ持ちかえって写させていただきます」と今毛人。

「日本にも四天王寺してんのうじなどの立派な寺がありますから、そちらも参考にさると良いでしょう」と真備。

「もしかして、佐伯さまは東大寺の大極殿だいごくでんの仕事をなさるのですか?」と由利が聞いた。

「はい。ありがたいことに、太政天皇の夢を完成させる仕事を任命されました。ですが、わたしには寺院建築の知識がありません。

これから学ばなければというときに真備先生が筑前に行かれるので、心細い思いがします」と今毛人。

「そうだ! お父さん。左遷ですってね。荷造りはできたの?」と由利が座りなおした。

「大声をだすな。持ってゆくものは、むこうの部屋にまとめはじめているが、由利。なぜ、ここにいる。おまえの休みは三の日。今日は、たしか七の日だ」と真備。

「お父さんがたたられて飛ばされるときいたから、休みをとって見舞いにきたのじゃありませんか」と由利。

「おまえは、あいさつもせずに書庫のなかで転がっていた。さっきから、なにを見ている?」と由利が見ている市街図の方に顔を向けた真備が「長安ちょうあんか」と言った。長安は、真備が十八年近くも住みくらした唐の都だ。

「長安?」と今毛人も寄ってきた。

「平城京をつくるときの模範もはんとなった唐の都です。ただ形式は少しまねていますが規模がちがいます。それに、ここは立地が悪い。

いつか日本にも、もっと良い都ができるといいのですが、まだ時節じせつがきていないのでしょう」と真備。

「平城京では、いけませんか」と今毛人。

「北には御陵ごりょうが並んでいて、東と西と南は山に囲まれています。

それに難波港に流れ出る大和川は、船を陸に上げなければならない難所があります。守るには良いが、閉塞へいそくされた土地ですから、都として栄えるとは思えません。

ただ何事も人知じんちをこえた大きな流れにそって起こります。

そのときがくれば、てんの時と、と、人のがととのい千年もつづく都もできるでしょうが、それは今ではないのでしょう」と真備。

「千年も先のことより、明日の自分を心配したらどうなの。お父さん。

ケガもしてないようだから祟られたわけじゃなくて、紫微令に煙たがられて帝のそばから追放されるのでしょう?」と由利。

「さっきから左遷だとか、飛ばされるとか、追放されるとか、うるさいぞ。由利。

筑前の人が聞いたら気を悪くする!」と真備。

「どこに筑前の人がいるのよ! 佐伯さまは、筑前のお生まれですか?」と由利。

「いえ。ちがいます。あの…う。真備先生。

柴微しび中台ちゅうだいとか、柴微令しびれいとかの柴微って、どういう意味ですか?」と今毛人。

聞こえないふりをして、真備が炭櫃ずひつの炭をつつきはじめた。

「…ご存じないのですか」と仕方なく由利が応じる。

「はい。これまで聞いたことがない役所ですから」と今毛人。

「柴微は北斗七星ほくとしちせいの北にある星の名ですが、天子てんしさまのことを指します。唐では皇帝がおられるところを紫微宮と呼ぶそうです。

中台は分からないけれど、紫微宮じゃあまりにもアケスケだから、中宮ちゅうぐうの中とだい(役所)をくっつけたのかしらん」と由利。

「わが国の天子は天皇です。どうして光明皇太后こうたいごうさまのための役所に、天子を示す紫微と名がつくのですか?」と今毛人。

「だって、皇太后を天皇に擁立するわけにはいかないでしょうに」と由利。

「当たり前です。皇太后さまは藤原氏で皇族ではありません!」と今毛人。

「帝の補佐をされるためでしょうけど、内外印や駅鈴を皇太后が持っていらっしゃるってことは・・・」と由利が口をにごす。

「補佐をなさるなら、母君として帝に助言されれば済むでしょう。

紫微中台という役所が必要ですか?」と今毛人。

「今毛人さんは、よけいなことを考えずに東大寺を完成させてください」と真備が口をはさんだ。

「ですが、わたしも官人ですので、このところの皇太后を中心にした動きが気になります」と今毛人。

「これからは、帝の皇太子をめぐって騒動が起こります。

たくらみごとをする人は、まず軍部をおさえて武門ぶもんの人を取り込もうとします。大伴おおとも氏と佐伯さえき氏は武門の名門です。

今毛人さんは東大寺の完成だけを目指して、よけいなことに巻き込まれないようにしてくださいよ」と真備。

「でも…」と今毛人。

「さっき、あなたは、聖武太上天皇の夢を完成させる仕事ができると感謝していたでしょう。大仏と東大寺を完成させることが、あなたの天命です。

太政天皇の祈りと、行基法師ぎょうきほうしの愛と、民の願いを形にできるのですよ。

知らぬまに時は移ろいます。人の世の争いは、いつかは過ぎた昔のこととして数行の記録を国史こくしに残すだけになります。

しかし大仏と東大寺は、それこそ千年のときをこえて輝きつづけるでしょう」と真備。

「また千年。いつから予言ができるようになったのよ。お父さん」と由利。

「わたしは人相もみるし、人のもみれる。星の配置を見て宿曜しゅくようもできる。立派な予言師だ。

今毛人さん。大仏と東大寺に集中して、政争の関わらないでください」と真備。

「はい」と今毛人。

「そうだ! これから行く筑前国は、宇佐八幡うさはちまんがある豊前国びぜんのくに(福岡県東部・大分県北部)に近いから、今度は、ご神託しんたくも習ってこよう。

由利。言いつけたように、わたしの蔵書ぞうしょの世話を忘れないように」と真備。

「聞いてない!」

「いま言った! それから手紙をくれ。欲しいものは知らせるから送ってほしい。

今毛人さん。あとは由利にまかせますから、ここにある資料を好きなだけ使ってください」と真備。

「由利さんは三の日に、こちらに戻ってこれれるのですね。

そのときに、お借りした絵図面を返しにきます」と今毛人。

「いつでもかまいませんよ。家の者にいっておきますから」と由利。

「分からないことがあるかもしれませんので、お目にかかって借りたものをお返しして、新しいものをお借りします」と今毛人。

「あら、そう。わたしが居るときがいいの?」と由利が今毛人の顔をのぞき込んだ。

まあ、いいか。父が九州に行けば寂しくなるから、色恋抜きなら休みの日の退屈しのぎになるかもしれないと由利は思った。



夏五月の風が舞いこんだように、両手を上にのばしてクルッと一回転した少年が「スゴイな!」と感嘆の声をあげた。

「近くで見ると大きいだろう」と大仏を見あげながら市原王いちはらおうが言う。

「スゴすぎ。全面に金箔きんぱくを張るのでしょう。完成したところを想像すると胸がパクパクする」

「あっ、今毛人さんだ。チョッと、今毛人さん!」と市原王が声をかけた。

大仏を囲む足場に登ろうとしていた佐伯今毛人が、足を止めて戻ってきた。

市原王は、今毛人といっしょに大仏と東大寺の造営に関わっている。市原王は従五位上で今毛人は従五位下。市原王の方がワンランク上の位階をもっていて、ぞう東大寺とうだいじのつかさ長官かみだが高所恐怖症こうしょきょうふしょうだ。

でも今毛人にとって、市原王は良い上司かもしれない。

高所恐怖症だから現場のことは今毛人にまかせっきりで、送られてくる大量の書類の処理を部下を使ってやってくれている。

造営中の大仏を見学にくる貴族を、案内してもてなすのも市原王だ。

「こちらが次官すけ佐伯さえきの今毛人いまえみしさん。今毛人さん。こちらは山部王やまべおうです」と市原王が紹介した。

「はじめまして。今毛人さん。いま足場あしばに登ろうとされていましたね。

一緒に行ってもいいですか」と満面の笑みを浮かべて山部王が聞く。

「危険ですから」と今毛人はことわった。

王と名のつく少年を足場になどのせられない。ケガでもされたら、こっちがメイワクだ。

「お仕事のジャマはしません。チョッとだけならいいでしょう。ねえ。今毛人さん」と山部王は首をチョッとかたむけると、両手を軽く合わせてお願いのしぐさをすると、「さあ行きましょう」と今毛人の腕をとって先に歩き出した。

ナンダ? この気安はと思いながら「怖くなったら、すぐに下りてくださいよ。足元に気をつけて」と気をそがれた今毛人は言ってしまった。

「はい」と腕を放した山部王が、竹で組上げた足場をヒョイヒョイ身軽く登ってゆく。なれたもので危険はなさそうだ。

大仏の頭部のそばの作業台の上で、木工寮もっこうりょう才伎さいぎの長官かみ神磯部かんいそべの国麻呂くにまろが、上を見上げながら腕を組んでまっていた。今毛人は、この人に呼ばれていたのだ。

「どうしました。才伎長官」と今毛人。

「大仏のうしろに光背こうはいがつくと、もう少し天井を高くしたが良いと思いませんか」と国麻呂。

才伎長官というのは木工寮につとめている職人の頭で、このときの国麻呂は正六位上だ。才伎長官は位階の上限が六位ぐらいまでで、五位以上の貴族にはなれない官人だが力はある。

木工寮にも専属の職人はいるが、大仏や東大寺などの国家的な大工事のときには、礎石をつくる職人や、壁を塗る職人や、瓦焼きの職人などを集めなければならない。

ずっと昔に、中国のの国(南北朝時代)や、ずいの国や、半島の高麗こまの国、新羅しらぎの国、百済くだらの国の帝王から、インフラ工事に必要な技人てひと(職人)たちが大王に献上けんじょうされたことがある。

国から国へ技術が送られたので、その技術をもつ技人たちは、技を他にもらさないように隔離かくりされた。かれらの持つ技術は、それを使役しえきできる大王の権力を象徴するもので、他の人に知られてはいけないからだ。

この人たちを職業しょくぎょう部民べみんという。

部民べみん良民りょうみん(庶民)より身分が低く、戸籍にも乗せない人たちだ。労働力として貴族の邸に送られる、地方に本籍地をおく名前や人数が分かる部民もいるが、職業部民は天皇のためにだけ技術を使う隠された技術者たちだったので日常の動静が分からない。献上されたときに、姿を隠すように指示されているからだ。

良民との通婚は禁止、良民と同じ火ををつかうことも禁じられている。

この渡来系の職業部民は、はじめは大王の側近の犬養いぬかい氏が犬養部いぬかいべを、久米くめ氏が塗部ぬりべをというように別々に管理していた。そのうち大伴おおとも氏や、蘇我そが氏の管理下におかれ、いまははた氏や東漢ひがしのあや氏や土師はじ氏が統括している。

国家的大工事のときは、この職業部民を集める必要があった。才伎長官は彼らと連絡がとれなければならない。

「そうですね」と今毛人も上を見あげる。

聖武太政天皇の健康がすぐれないので、とりあえず大仏をおおう大仏殿の仮舎でもよいから完成させてくれと急かされている。

「わたしも高い方が良いと思いますが、これから変更ができますか」と今毛人。

「屋根の勾配を工夫すると、五しゃくぐらいは上げることができるでしょう」と国麻呂。

「勾配をかえて、強度に影響はでませんか」と今毛人。

模型もけいを造ってたしかめてみます」と国麻呂。

「できるのなら、すべてお任せします」と今毛人。

「屋根の勾配を変えるなら、瓦の反りも変わってくるよ。さっさと手配しないと、焼きはじめるかも知れないよ」と山部王が口をはさんだ。

国麻呂が、山部王に顔をむけて目をしばたいた。

「国ジイ。忘れちゃったの。紫香楽しがらき瓦工房かわらこうぼうでイノシシをさばいて猪鍋ししなべをつついたでしょう」と山部王が笑顔になる。

「紫香楽なら、もう六年も七年もまえのことだが…紫香楽の瓦工房でイノシシを食ったと…オ! 山部かい。オイ。新笠にいがささんの山部王か。

あの細っこいチビスケが、すっかり大きくなって見ちげえたが、その笑顔と達者な口のききようは変わらねえなァ。オイ。ほんとに山部だな」と国麻呂。

「ジイ。会えてうれしいなあ。あのときのことを、よく思いだすよ」と山部王が両手を広げて国麻呂の首に抱きついた。

「おぼえていてくれたのかい。あれっきり会っちゃいねえだろう。

それなのによ。おぼえていてくれたのか。え。おい」と首に抱きつかれた国麻呂は、山部王の細いからだに両腕を回して、すごくうれしそうだ。

ずんぐりとして色の黒い国麻呂と、色が白くてしなやかな山部王が抱きあっている姿から、なんとなく今毛人は眼をそらした。

「忘れるわけないよ。ジイ。あのとき国ジイにもらった彫り刀を大切に使っているよ」と国麻呂から身をはなして山部王。

「新笠さんは、お元気かい。ホレ。うわさでは、その、伊勢から戻られた内親王さまと白壁王は、なんだから…。

まだ分からねえか。まあ、仲よくやっているかい?」と国麻呂。

「父と母のことなら、去年、わたしに弟が生まれた。仲がよいってことでしょう」と山部王。

「そいつは、よかった」と国麻呂。

「大仏ってスゴイね。大きいよね。人が造ったもので、こんなに大きなものを、はじめて見たからドキドキする。表面に金を張るのでしょう?」と山部王。

「全面に張れるほどの金は集まちゃいねえが、まだ採れるらしい」と国麻呂。

「ちょっと、さわっていいかな。ワァ、ツメたくって気もちイーィ!」と山部王。

「山部王。足場が揺れて危険ですから、そろそろ下りましょうか」と、一人だけハグられているように感じた今毛人が声をかけた。

 

「市原王。いまの方は、どういう方なのですか」と山部王が帰ってから今毛人が聞く。

「なにか気にさわることでもしましたか」と市原王。

「あの方は、才伎長官と親しいのでしょうか?」と今毛人。

「山部王の母君はやまとの新笠にいがささんといいまして、和乙嗣おとつぐさんと土師はじの真妹まいもさんのあいだに生まれた方ですから、知っているかもしれません」と市原王。

「それで、ですか。和氏には、かまどの神をほうじて山で暮らしている枝族しぞくもいると聞きますから、きっと瓦工場の技人ともつながりがあるのでしょうね」と今毛人。

「新笠さんは母方の大枝おおえ(京都府亀岡市)の土師氏の家で生まれ育って、いつだか聖武太政天皇がお若いころに都で盛大な歌垣うたがきがあったとか?」と市原王。

「ああ、あったそうですね。大伴と佐伯が武具をつけて路の両側に並んだと伝わっています」と今毛人。

「それを見るために、まだ少女だった新笠さんは平城京に遊びにきたそうです。

その新笠さんを見て、恋に落ちた青年貴族がいましてね。

新笠さんは、いまでも十分に目立つ女性で、勝手気ままというのか、天真爛漫てんしんらんまんというのか、とても魅力的な人です。

歌と踊りが大好きで、そのうえ工事現場が好きで、どこへでも出かけるので職人たちも顔を知っていて、あこがれている方です」と市原王。

「そうなのですか。山部王の父君は」と今毛人。

「歌垣の日に見初みそめた新笠さんを、二年越しで口説くどいていて妻にしたそうです」と市原王。

「どなたです?」

白壁王しらかべおうですよ」と市原王。

「ああ。それで得心しました。白壁王は食えない方ですからね。山部王はお幾つです」と今毛人。

「まだ十三歳ですが、山部も白壁王に敗けず劣らず食えない子ですよ。

ニコニコしながら人使いが荒くってね。いつの間にかふところに忍び込まれて、良いように、こき使われてしまいます」と市原王。

「あなたとは、どういう関わりですか。市原王」と今毛人。

「白壁王は志貴皇子しきおうじの子です。わたしの父安貴王あきおうといって、志貴皇子の孫です。

異母兄弟は年が離れていますから分かりずらいでしょうが、山部と、わたしの亡くなった父がイトコになります。分かります?」と市原王。

「まあ、どこも異母兄弟がいて家族婚をしますから、関係が良く分からなくなりますねえ。わたしなどは、すべてイトコで済ましています」と今毛人。

「そうでしょう。

いまの関係だけを言えば、わたしの妻は山部の姉の能登のと女王にょうおうです。だから山部は義理の弟で、白壁王と新笠さんは、わたしの義父と義母になります」と市原王。

「分かりました。そっちだけ、おぼえておきます」と今毛人がうなずいた。



九月一日に、中納言ちゅうなごんで従三位の石上いそのかみ乙麻呂おとまろが亡くなった。

恩赦で帰ってきてから八年。もともと能力があった乙麻呂は、まじめに仕事をした。去年は大仏のまえで、黄金が出たことを伝える天皇の宣命せんみょうを読んだ。

帰ってきてからの乙麻呂は、職にめぐまれたわけではない。はじめは西街道せいかいどう巡察使じゅんさつしという重要な役目だが臨時の職をあたえられて九州に行き、つぎは地方官として常陸ひたちのくに(栃木県)に行った。

中央に戻ってからは右大弁うだいべんになった。同名で左右がある役職の場合は左が上位で右が下位になるから、流刑前の左大弁より一段下位で旧職に復帰した。

そのあとで中務なかつかさのかみになる。

中務卿は、天皇のそばに仕えて相談を受ける要職だが、管轄かんかつするなかに後宮の女官も入るから、乙麻呂にとっては気をつかう職場だっただろう。

最終位階は、公卿くぎょうと呼ばれる三位以上の貴族で、中納言の太政官だった。

大王のときからつづく古代豪族の物部もののべ氏を祖先に持つ、名門の石上家に汚点をつけた乙麻呂は、それでも、なんとか名誉挽回にふんばりをみせて逝った。

つぎの年の正月二十二日に、遺児の石上宅嗣やかつぐは、左大臣の祖父と公卿の父の蔭位と本人の実力で、二十二歳という若さで従五位下になった。


律令(法律)に、蔭位おんいという制度がある。

官人の身分をしめす位階は一位から八位までに別れている。一つの位は、例えば七位だったら、下から従七位下、従七位上、正七位下、正七位上と四段階に別れていて、ほかに五位だけは外従五位下と外のつく階位もあり、全部で三十階級に分けられている。

このなかで三位以上の位階をもつ人を公卿、五位以上の位階をもつ人を貴族と呼ぶ。

貴族だけでも、だいたい百余人はいる。

この公卿も含む五位以上の貴族の子と孫は蔭子おんしと呼ばれて、蔭位という特権がある。蔭子は嫡子も庶子も二十一歳以上になれば、父や祖父の位に応じて七位以上の位階をもらえる。

最終階位が六位から下で亡くなった官人の嫡子は位子いしと呼ばれて、一番下の八位の官人になり勤務評価きんむひょうかをもらって位階を上げていくのだが、一生かかっても五位以上になれない人が多い。

六位以下の官人の庶子しょし白丁はくちょうとよばれて、官人になるより貴族の家の使用人になることが多い。

たまに特出する人もいるが、生まれた家によって出世の上限が決まる身分制度が敷かれている。


 

石上乙麻呂の訃報をきいた久米若女は、宅嗣の顏がチラッと浮かびはしたが、それでもホッとした。二度と見たくない顔を、二度と見なくてもすむのは気が楽だ。うれしい。だが人の訃報を喜んで祝い酒でも飲みたい自分を、チョットだけ持て余していた。

「若女さん。入っていい?」と几帳きちょうの外から吉備由利が声をかけた。

「ええ。どうぞ」

由利が銚子ちょうしをもって入ってきた。さかづきさかなをのせた小皿を並べた高杯たかつき(丸い足のついたおぼん)をささげた若い女儒をつれている。

「新月で月もないけれど、過ごしやすい季節だから、今夜はいっしょにお酒をと」と由利。つれてきた女儒が、高杯をおいて盃やはしをそろえる。

「顔は知っているけれど、まだ言葉を交わしたことがないというので、この人を月のかわりにつれてきたわ。同郷の女儒で和気わけの広虫ひろむしさんよ」と由利。

「わたしは、お月さまのかわりですか。わたしは、なにをすれば?」と広虫が由利をあおぐ。

「あなたは、いるだけで良いの。若女さん。この人には葛木かつらぎ戸主のへぬしという夫がいるの」と由利。

「ヤ~ダ。由利さん」と広虫が照れる。

「どうして宮中に出仕する気になったの?」と若女。

「子供が多くて養わなければいけませんから」と広虫。

「お若いでしょうに。おいくつ?」と若女。

「二十歳です。あら、わたしの子じゃありませんよ。孤児たちです。

子供たちが成人するときに戸籍をもらいたいし、わたしには弟がいて、弟が出仕しゅっしするときの役にたてるかも知れないと思いました」と広虫。

「そういうワケらしいの。ねえ。若女さん。わたしは、お酒に弱いけれど、広虫さんは水のように飲んでも酔わないから、今夜は安心してトコトン酔っぱらって、腹に残っている汚いゲロをいちゃいましょうよ」と由利。

「聞いたの?」と若女。

「だれかの訃報なら聞いたわよ。アレ? どこに行くの。広虫さん」と由利。

「さきにタライや布や、お水を用意してきます」と出てゆく広虫を目で送ってから、由利がつづける。

「人は自分の中に、良い人と悪い人を抱えているでしょう。

子供だって両面を持って生まれてくるわよ。

善である自分と、悪である自分を知っていて、そこに境界線をつくって、それを超えない自制心があるのがすじの通った人。自制心がないのが性悪しょうわる。自分の善悪も分からないのはバカ。そんなものだと思っていたの。

それがね、若女さん。わたしは、あの広虫さんに会って、はじめて邪気じゃきをもたずに生まれてくる人もいると思った。

あの人は無垢むくな心をもった無邪気むじゃきな人。あの人のそばにいると、わたしまで良い方の自分だけになる。

だから今夜は、お月さんのかわりよ。サラサラと過去をほおむって、きれいに再出発しましょう」と由利。

「いがいに良い人ね。あなた」と若女。

「理性という強固きょうこな自制心を持ってますからね。

でも、わたし自身が超えようと決心したときには、ためらいもせずに境界線を越えて悪人になれそうだけど」と由利。

「わたしも、そうかもしれない。必要だと判断したら悪いことに手をだすかもしれない」と若女。

「そんな気はしていた」と由利が笑う。

「そのとき、おなじ方向を向いているといいわね」と若女。

「そう願っている。たしかめておきたいけど、若女さんは石上家のご子息のことを、どう思っているの」と由利。

「子供は関係ないでしょう。

式家の家長は藤原宿奈麻呂すくなまろ。石上宅嗣さんは宿奈麻呂の母方のイトコで式家の子供たちの幼なじみ。わたしの子供たちの、大切な友達だと思っているわ。

宅嗣さんは性格も良いし頭も良い。これからが楽しみな官人よ」と若女。

「心から?」

「そう。心から」

「了解。あら、広虫さん。ずいぶん色々もちこんだこと」と由利。

「これで安心して酔いつぶれてゲロってください。さ、注ぎましょう。若女さん。由利さん」と広虫。

久米若女は三十八歳。吉備由利は三十二歳。和気広虫は二十歳。

明日は二日酔いで若女も由利も使いものにならないだろうが、古参こさん飯高いいだか笠目のかさめ万端ばんたんみこんで少しの説教で解放してくれるだろう。


内裏も新しくなって、昔とは変わった。

もとの宮城は、恭仁京に遷都したときに木材や石材をつかうために大極殿だいごくでん朝堂院ちょうどういんなどを壊したので、七四五年に還都かんとしてからは、もとの宮城の敷地の東側に袖のように敷地を広げて高さ五メートルの壁で囲み、そこに新しく内裏や大極殿や各官庁つくっている。

孝謙天皇は、改築された内裏に住んでいる。

ずっと中宮から動くことがなかった宮子皇太夫人は、もとからあった宮城の中央地区にある中宮に閉じこもりを続けながら住んでいる。皇后の住居が中宮とよばれるのは後の世のことで、宮子皇太夫人は聖武天皇の母だが、文武もんむ天皇の正妃ではなく夫人だった。

光明皇太后は皇后になったときから、宮城の外にある皇后宮こうごうぐうに住んでいた。

皇后になってから住んだ皇后宮は、長屋王ながやおう邸の跡地(左京三条二坊)で、恭仁京から戻ってきてからは父の藤原不比等ふひとの旧邸(奈良市法華寺町)を皇后宮にした。

紫微中台しびちゅうだいという役所も、光明皇太后の住居につくられている。



九月二十四日に、天皇交代を知らせる遣唐使が送られることが決まった。

遣唐けんとう大使たいしは藤原北家の四弟の清河きよかわで、副使には従五位下の大伴古麻呂が任命された。

遣唐使は航海中に遭難そうなんして亡くなることがある命がけの任務なので、出発前に昇位させて、つとめを果たして帰国すると、もう一度昇位する。

遣唐使になって無事に戻ってくると、将来が開けてくる。

すでに従四位を与えられている藤原清河は任務を果たせば、いずれ太政官になるだろうと藤原北家が期待している有能な若者だった。

副使の大伴古麻呂は、二十八年前にも遣唐留学生として四年ほど唐にいた経験がある。そのときに大乗仏教の経典をもちかえり日本に伝えた功績があった。孝謙天皇が即位した日に昇位した官人の一人だ。

 

同じころ、もう一人、優秀な人材として考謙天皇の勅で還俗げんぞくさせられた英才と評判が高い僧がいた。十五年前に来日した唐僧の道璿どうせんに師事して、大安寺の禅院にいた元開げんかいという三十八歳の僧だ。

還俗してからの名は御船王みふねおうという。

壬申じんしんの乱」(六七二年)で天武天皇と戦った大友皇太子のひ孫になるから、天智天皇の四世王だ。

この次の年の七五一年正月二十七日に、四世王以下の王たちの多くが臣籍降下しんせきこうか(皇籍を捨てて家臣になること)をうながされた。前年に還俗させられて官人になった御船王も臣籍降下して、淡海おうみの三船みふねという名になった。

王たちを臣籍降下させるとともに、孝謙天皇は身分が低くてかばねを持たない人にきみむらじなどの姓を与えはじめた。



大伴家持の妻のおおいらつめが住んでいた田村の里と呼んだ左京四条二坊に、柴微令の藤原仲麻呂が造っている八ちょうもある田村第たむらだいという大邸宅の全貌が、外からも分かるようになった。

律令では、三位以上の公卿が持てる邸の大きさは四町までと決まっている。八町の私邸を造るのは、あきらかな違法行為だ。

一町が一万四千㎡だから、単純に八倍しても、おおよそ十一万二千㎡。それに東西南北に通る路も敷地として加算されるから、十二万㎡以上(三万七千坪以上)はある広大な邸だ。東京ドームのグランドを九固入れても、まだ余る。

官人たちは田村第の建造を批判したが、仲麻呂をいさめる人がいない。   

譲位じょうい後の聖武太上天皇は薬師寺やくしじに住んで政治に関わらず、左大臣の橘諸兄は太上天皇のそばにいて朝廷に出てこない。

仲麻呂の兄で右大臣の藤原豊成とよなりは「まだ仲麻呂は若いから、そのうち気がつくだろう。いまは許してやってくれ」と反発する官人をなだめるだけだった。

この田村第と光明皇太后が住む宮は、皇太后の宮が北で田村第が南に位置するが、両方とも東二条大路に面していた。つまり広い道をまっすぐ行くだけだから、とても近い。



十二月三日。佐伯今毛人いまえみしが、いつものように吉備きびの真備まきびの留守邸に来ている。

「聖武太政天皇の、お具合はいかがです」と今毛人が聞く。

「伝え聞くところ、あまり良くないようです。今毛人さん。薬師寺にお見舞いに行ってあげなさいよ」と由利。

「呼ばれてもいないのに、わたしなどが伺えますか」と今毛人。

「内舎人として仕えていたのでしょう。きっと喜ばれると思いますよ。

孝謙天皇が即位されてからは、左大臣の橘諸兄さまが話し相手をなさっているようで、たまに右大臣の藤原豊成さまがお見舞いに行かれますが、光明皇太后さまは、お出かけになっていないと聞きます」と由利。

「それは、おさびしいことです」と今毛人。

「ご出家されてますから、のんびりされて良いのかもしれません。

でも行くときは注意してくださいよ。カーさまが、利用できる情報に褒美ほうびを与えているという話ですから」と由利。

「かあさま。どなたの母上が?」と今毛人。

「女官のあいだで、あの方を符丁ふちょうで呼ぶことにしています。先月はナーさま。今月はカーさま」と由利。

「もしも、それが紫微令の藤原仲麻呂さまのことなら、あの方で、じゅうぶんでしょう」と今毛人。

「まあね」

「でも間諜かんちょう(スパイ)を放っているとは聞き捨てになりませんね」と今毛人。

「間諜? その方がマシよ。

あの方は、役所や貴族の邸や寺につとめている者から、情報を買い集めているのよ」と由利。

「情報って?」と今毛人。

「名のある人たちの話しなら何でも良いらしい。役に立つものは買ってくれるって」と由利。

「それって身近な人を信用できなくなるから、性質たちが悪くないですか?」と今毛人。

「だから、そう言っているでしょう。薬師寺にも僧侶や小者やてら奴婢ぬひ(寺の奴隷)がいるから、余計なことを言わないように」と由利。

「わたしは廬舎那仏るしゃなぶつと東大寺のことしか話すことがありません」と今毛人。

「そうだった。お父さんに大仏と東大寺をつくるのが天命だと言われたからか、今毛人さんは話の種が少ないものね」と由利。

「いま、ちがう話をしているじゃないですか」と今毛人。

「これが?」と由利が手にしたキビを庭にまいた。

冬の陽だまりで砂浴すなあびびをしていた、ふくらすずめがチュンチュンとキビをつつき始める。

「ああ。そういえば、父も今回の遣唐使の副使になったそうよ」と由利。

「エッ! どうして先に教えてくれないのです。真備先生は、一度は都に戻ってこられるのでしょうか」と今毛人。

「父は大宰府だざいふで、都からくる遣唐使を待って出国するようよ。

寺院建設に必要な資料を集めるようにと、手紙を出しといたわ」と由利。

「なれた場所とはいえ、よく海を渡って唐までいらっしゃいますね。

わたしには、とても無理です。舟板ふないた一枚の下は底なしの大海原おおうなばらですよ。

真備先生が渡航されると聞いただけで、今夜からは心配で眠れそうにもありません」と今毛人。

「武門の生まれでしょうに、肝っ玉が小さいのね」と由利。

「なんと言われても、わたしは水が怖いのです。水際みずぎわに近寄っただけで足がすくみます。真備先生は、お幾つですか?」

「出航は来年の春ごろでしょうから、そのころには五十七歳ね。

今毛人さんが心配しなくても、いまごろは子供のように、はしゃいでいるわよ。

なによりも知識欲を満たすことが好きな人だから、もう一度、唐に行けるのはうれしいでしょう。

で、東大寺のほうは、どうなっているの?」と由利。

「聖武太上天皇のご容態をたしかめて、できるかぎり急ぎます」と今毛人が言った。


 

七五二年のうるう三月六日。

内裏のなかで孝謙天皇が昼の御座所ござしょとして使っている部屋に、光明皇太后と柴微令の藤原仲麻呂がやってきた。

先月、大仏の開眼式かいげんしきの日取りが決まった。

斎会さいえ式次第しきしだいを決めました」と席に着くと、すぐに光明皇太后がいう。

内外印と駅鈴を持って政務の実権を握っている皇太后は五十一歳。ふっくらと肉つきも良く貫禄もある。藤原仲麻呂が巻物を机に広げた。

「斎会の次第は、ここに書いてあります。

法会ほうえのあとで、すべての皇族や貴族が参加する歌舞かぶが行われ、そのあと下級官人たちも歌や踊りを披露します。

そちらの手配を、あすの朝議ちょうぎで太政官に申しつけてください」と仲麻呂が言う。

仲麻呂は四十六歳。ちょうど仕事に油が乗る年齢で、野心家だけに精悍な目つきをしている。ざっと巻物に目を通した孝謙天皇が、仲麻呂にたずねた。

「廬舎那仏の造営を発願されたのは太政天皇です。太政天皇から、ご挨拶があっても良いのではありませんか」

「大仏を完成させたのは帝です。

すでに退位された太上天皇ではなく、いまの帝がすべてを取り仕切られるべきです。詔も、ここに作ってございます。このとおりにお願いします」と仲麻呂が強い眼差しをむける。

「柴微令。なにゆえちんに命令をする。

朕が、太政天皇のお言葉があっても良いと言っている」と孝謙天皇が仲麻呂をにらみ返した。朕は天皇だけが使う「わたし」を示す一人称だ。

「それは口勅こうちょく(口で述べる天皇令)のおつもりですか?」と光明皇太后が口をはさんだ。

「斎会は、すべての官人が参加して楽や舞いをしますので長くかかります。

体調を崩しておられる太上天皇が、お疲れにならないように、お言葉をいただくのは遠慮させていただきました。開眼式のときだけ、ご臨席りんせきをねがうようにと柴微令が配慮したのです。

その気配りは、お分かりになりますね」と光明皇太后が言った。

「……」 孝謙天皇が、わずらわしそうな目を母に向ける。

「それから帝。開眼式の帰りに田村第たむらだいに、お立ち寄りください」と光明皇太后。

「なんのために?」と孝謙天皇。

「開眼式のときは、何千人もの人が東大寺に集まります。このようなときは、なにが起こるか分かりません。

柴微令が、不穏な動きをつかんだと言っておりますから、警戒したほうがよいでしょう。女官たちも連れて行きなさい。

わたしのいる柴微中台に近い田村第に、安心と分かるまでお入りください。

帝。わたしを心配させないでください」と光明皇太后。

「なにが起こっても、わたしが帝をお守りします。

すべての用意はしておきますから、なにも持たずに、まえもって大臣や太政官たちには知らせずに、東大寺からそのまま、お越しください」と仲麻呂もすすめる。

「では斎会のことは、この通りにお願いします」と光明皇太后が立った。仲麻呂も立つ。

皇太后と仲麻呂が去ると、孝謙天皇が額に手をあてた。

三十五歳の孝謙天皇は、叔母と甥の家族婚で生まれたせいか小柄で痩せていて病弱だった。疲れると片頭痛をおこし、背中や胃の痛みをうったえて吐くこともある。

毎朝、天皇は太政官たちの奏上そうじょうを聞き、それに答える朝議ちょうぎと呼ぶ会議に出なくてはならないのだが、休むことも多い。どっちみち太政官の奏上はあずかるだけで、仲麻呂に渡して光明皇太后と仲麻呂が決めるたことを次の日に伝えるだけだから、休んでも政務に支障はおこらない。

「お薬をお持ちしましょうか」と吉備由利が声をかけた。

「すこし休みたい。寝所しんじょへもどる」と孝謙天皇がつぶやいた。

このころの孝謙天皇は女官に無理を言う天皇ではなかった。うち解けづらいところはあるが、仕えづらい天皇ではないと由利も思っていた。



四月九日に大仏の開眼供養が盛大に行われた。孝謙天皇は、すべての斎会を無事に行った。

もう日も沈み始めるころに開眼供養は終わり、東大寺から引き上げた孝謙天皇の車駕しゃがは田村第に入った。踊り歌い浮かれた官人たちは、それを知って水を浴びせられたような気持ちになった。

田村第は広大な敷地を高い築地塀ついじべいが囲んでいて、東と西の北側には高い楼閣ろうかく(二階建の高く建造物)を構え、南面の門は櫓門やぐらもん(四方を視察できる二階建の高い門)にしている。

貴族の邸ではなく城郭じょうかくのような建物だが、仲麻呂の私邸だ。

その田村第の一角に、仲麻呂は孝謙天皇を迎えるために大宮と呼ぶ離宮をつくっていた。


「使いやすい造りですね。池があり曲水きょくすいも流れていて風情もあります」と飯高いいだか笠目のかさめが言う。

采女から女官になった笠目は、五十四歳で従五位上になる。

女王や公卿くぎょうの娘がなることが多い尚蔵しょうぞう尚事しょうじという役職にはついていないが、元正天皇、聖武天皇、考謙天皇と三代の天皇に仕えて信頼されている実力者だ。

「桶も水差しもふすま(ふとん)も新しいものが、そろえられています。

わたしたちの部屋にも新しい几帳きちょう(置き仕切り)や衾がありました。服まで用意されております」と大野仲千なかちが言う。

父親が「広嗣の乱」のときの官軍の大将軍だった大野東人あずまびとで、北家の家長の藤原永手ながての妻の仲千は三十五歳になる。

「田村第は、柴微令さまの資人しじん(従者と食客)が警護しています。

この大宮の庭には授刀舎人が、なかは内舎人が控えて守っていますから、ごゆっくり、おやすみください」と三十四歳の吉備由利が勧めた。


途中までは聖武太政天皇も出席した斎会をやりおえた孝謙天皇は、達成感たっせいかんと疲れで早くに眠りについた。

廊下ですれちがったときに、人がいないのを確かめてから久米若女が由利のそばに寄って耳元に小声でささやいた。

「ねえ。ここの方は次男だから庶子でしょう。これを建てるお金は、どこから出たのかしら?」と言うと、由利の肩先から何かをつまむフリをして体を離し「おやすみなさい」と笑顔をむけて行ってしまった。

ずいぶん用心深いと思いながら由利も気がついた。遺産相続の律令だ。

はっきり思い出せないが、たしか総財産にたいして嫡子と正妻は四、庶子は二、正妻以外の妾と娘は一の割合で分割するはずだ。

藤原南家の始祖しそになる武智麻呂むちまろの遺産は、長男の豊成とよなりと正妻の阿部貞媛あべのさだひめに多く残されているはずだ。おなじ貞媛の子でも、次男の仲麻呂が相続した財産は豊成の半分のはずだ。

豊成の邸は二町だから、どのような資金りをして仲麻呂が八町もある田村第を造ったのだろう?

金ヅルがいるのか? 横領でもしたのか? 賄賂をもらったのか? 

ともかく持っているはずのない大金が動いている。官人たちも気がついているはずだ。光明皇太后に守られている仲麻呂に面と向かって問いただす人はいないが、仲麻呂を嫌う人を結束させる理由にはなる。

大仏ができたと浮かれている場合じゃない。これから先は、どうなってゆくのだろう…?


つぎの朝に、仲麻呂が挨拶に来たときに一人の若者をつれてきた。

舎人とねり親王しんのうのお子の大炊王おおいおうで、十九歳になられます」と仲麻呂が紹介する。

大炊王は登庁まえの若者だから、このときに始めて孝謙天皇は会った。

舎人親王の嫡男の三原王みはらおうなら正三位の公卿で、すでに四十代の半ばになっている。いま公卿になっている二世王は三原王と、七十歳近い長皇子の子の来栖王くるすおうと、その弟で紫香楽離宮の造宮司をしていて、今は中納言になった智努王ちぬおうだけだ。

三原王は次期の皇位継承者として有力な人で、亡くなった石上乙麻呂のあとの中務卿なかつかさきょうをしている。

舎人親王の次男の船王は従四位上の弾正だんじょう、三男の池田王は三十代後半で従四位上の散位だ。

大炊王は舎人親王の何番目の子なのだろうと、由利は思った。


若女は十九歳の大炊王をみて、雄田麻呂おだまろが産まれたころを思いだしていた。雄田麻呂は二十歳だから、大炊王より一年早く誕生している。

あのころの舎人親王は、臣下の最高位の太政大臣だじょうだいじんで、藤原宇合うまかいより十七、八歳は年上だった。

雄田麻呂が生まれたときに宇合は三十八歳だったから、つぎの年に生まれた大炊王は、舎人親王が五十六、七歳のときの子だ。そして舎人親王は、宇合よりも二年も早くに亡くなった。舎人親王が亡くなってから、疫病えきびょう蔓延なんえんしたから覚えている。

すると大炊王が二歳のときには、舎人親王は亡くなっていた。

自分のことと考え合わせると、兄の三原王たちは大炊王のことを知っているのだろうかと、若女は思った。


よいからうたげをひらきますので、それまで大炊王をおそばに仕えさせます。なんでも、お言いつけください」と仲麻呂。

「いつまで、ここに居ればよいのか」と孝謙天皇が聞く。

「すでに帝の御在所は田村第だと、昨日のうちに太政官につたえています。いつまででも、ご滞在ください。

これまでにも申しあげておりますように、すべての者が帝の即位を納得している訳ではありません。遷都や廬舎那仏の造営で民は疲労し、世の中が荒れています。

そのうえ皇太子が決まっておりません。

帝を退位させようとする企てがあるとも聞き及んでいます」と仲麻呂。

「だれが?」と孝謙天皇が眉をひそめる。

「まだ証拠がありませんが、帝を退位させて男性天皇を擁立ようりつしようという動きがあるのは確かです。

首謀者をつきとめて、一味の者たちを一人残さずに処分するまで、ご用心ねがいます。

帝と皇太后さまは、この身にかえて必ずお守りします。どうぞ安心しておまかせください」と仲麻呂。

由利も若女も、この野心家が嫌いだ。

それでも仲麻呂には、権力志向の強い男が放つギラついた迫力がある。

孝謙天皇が皇太子になったときは痘瘡が終息しはじめたときで、多くの官人が亡くなって大臣や太政官も足りず官庁は閉められていた。聖武天皇の詔だけで皇太子になった孝謙天皇を、元正太上天皇は認めなかった。

それでも聖武天皇には安積あさか親王がいたから、中継なかつぎの天皇にするための立坊りつぼうだろうと官人たちは思った。

その安積親王が亡くなり元正太上天皇も亡くなったあとで、皇位を譲る相手がいないのに孝謙天皇は即位した。官人が不安を持つのは当然だ。

孝謙天皇は藤原氏の血が濃い独身女性で、天皇が持つべき内外印ないげいん駅鈴えきれいを授けられていない。実に中途半端な立場の天皇で、それを一番良く知っているのが孝謙天皇自身だった。

だから仲麻呂の気迫のある言葉や態度に、孝謙天皇は頼るようになった。

この日から、朝から晩まで大炊王が孝謙天皇のそばに仕えはじめた。

天皇には身辺の世話をする内舎人と、話し相手になる内竪ないじゅという男性が仕えるが、孝謙天皇は独身の女帝だから内竪はなく、内舎人も御座所の警備をするだけで、身辺の世話は女官たちがしている。

大炊王は容姿も受け答えも際立きわだったところがない気の弱そうな青年だったが、周りに男性がいないので十九歳の青年が加わるだけで空気が変わった。

孝謙天皇が田村第を御在所としたことで田村第は離宮になり、律令に反する八町の邸や、それを建てた資金の出どころも糾弾きゅうだんできなくなった。



六月に新羅しらぎ(朝鮮半島の国)の皇子が来朝したので、孝謙天皇は田村第から内裏に戻った。

そして七月十日に、中務卿で正三位の三原王が亡くなった。舎人親王の嫡男で大炊王の兄。次の天皇候補とみられていた人だ。

昼が長くなって、うすい日差しが残っている。回廊かいろうを戻ってきた由利は、内裏の北西の庭におかれた平たい石に座って、りょうをとっている久米若女をみつけた。北西の庭は庭木がなくて見通しがいいので、周囲の人影をたしかめやすい。

「若女さん」と由利が声をかけて近づいた。

「あら、由利さん。帝は?」と若女。

「昼から御髪おぐしを洗いましたので、お疲れになって早くに休まれました。

ここは風が通るのね」とならんで腰かけながら「三原王が亡くなられましたね」と声をおとして由利がささやいた。

「急だったわね」と若女。

「ご病気?」と由利。

「そうなるのでしょうね」と若女。

「あの大炊王おおいおうだけれど、三原王や船王とは、ずいぶん歳がはなれているわね」と由利。

「七男だからよ。舎人親王は五十九歳で亡くなられたそうで、そのとき大炊王は二歳よ。母君は当麻たいま氏だから、当麻(奈良県葛城かつらぎ市)で生まれ育ったのでしょう。そのあとで痘瘡騒ぎがあったでしょう。

だから舎人親王からも三原王からも、認知されていなかった方よ」と若女。

「エーッ? 三原王の同母弟だと聞いたけど?」と由利。

「お目にかかっていないけれど、田村第の女従の話では、母君は見たところ四十になるかならない方だそうよ。どうやって四十過ぎの三原王を生むのよ」と若女。

「そっか。それに同母の弟なら認知しないままにはしないか。

ねえ。田村第の女従から聞いたって、どういうこと?」と由利。

「母子して、田村第に住んでいらっしゃるそう」と若女。

「どうして?」と由利。

「ホラ。七年ほど前に、聖武太上天皇が二世王を難波宮へ集められたことがあったでしょう。あのときに仲麻呂さんが探しだしたらしい。

それ以来、ずっと面倒を見ていて、大炊王が成人するときの親代わりにもなったって。

つまり十代の初めのころから仲麻呂さんの養いッ子、養子みたいなものよ」と若女。

「それも田村第の女従から聞いたの?」と由利。

「いいえ。右大臣から」と若女。

「南家の豊成さん? 

仲麻呂さんとは仲が悪くて、話もなさらないでしょう」と由利。

「豊成さんの正妻は、北家の藤原永手ながてさんの姉妹なのよ。仲麻呂の正妻も永手さんの姉妹。この姉妹は仲が良かったのよ」と若女。

「ややこしい。南家の兄弟が、北家の姉妹を正妻にしているの? 

じゃあ、百能ももよしさんは?」と由利。

「豊成さんの方の北家の妻は亡くなったから、今は京家の藤原百能さんが正妻。

でも話しは、亡くなる前に豊成さんにしたみたい」と若女。

「イヤねえ…。一人の男に何人もの妻がいて、それぞれに子供がいるなんて」と由利。

「わたしは幸運だった。はじめて式家をたずねたときに、宇合さまの妻で生き残っていたのは、わたしだけだったから」と若女。

「わたしは、このまま一人で生きる方が良い。

じゃあ大炊王の存在を、ほかの藤原氏も知っているのね」と由利。

「知っているはず。そしてね。最近、仲麻呂さんの嫡男になる真従まよりさんが病気で亡くなったの。お母さんは北家の宇比良古うひらこさん。

その息子の真従さんの未亡人まで、田村第に住まわせたままでね」と若女。

「仲麻呂さんが、息子の未亡人に恋情れんじょうでも持ったの?」と由利。

「それなら分かりやすい。よくある話しよ。

でも仲麻呂さんは、息子の未亡人の親が金持ちだから手放さなかったの。

その未亡人を大炊王の妻にして、田村第でくらさせている」と若女。

「金、目当て? 意地汚い。大炊王も大炊王ね。

その息子の未亡人で、いまは大炊王の夫人の親が、仲麻呂の金づるの一人ね」と由利。

「ほかにもいるのでしょうね。なにしろ田村第で、仲麻呂さんの妻妾や、それぞれの子供たちも一緒にくらしているから、金が目当ての縁組みの一つや二つ・・・」と若女。

「あってもいい。ねえ、若女さん。

右大臣の豊成さんと仲麻呂さんの仲は、正直言って、どうなの?」と由利。

「最悪」と若女。

「式家は、どっちの味方?」と由利。

「困っているときに、豊成さんは良くしてくださった。

わたしは個人的にも仲麻呂さんを信用できないから、豊成さんを選ぶわ。

でもねえ。皇太后こうたいごうさまには恩義があるの。

藤原一族で、光明皇太后さまに逆う人はいないでしょうね」と若女。

「皇太后は大炊王のことを、どこまでご存じなのかしら」と由利。

「ここ何年かのあいだ、皇太后のお耳には仲麻呂さんの話しか入っていないでしょうよ。

大炊王を知っていらしても、都合の良い話を作り上げてるわよ。

あら。暗くなってきたわ。やみにまぎれて、礼金欲しさに誰かが耳をそばだてているかもしれないから、詰め所に戻りましょう。

あなたの、お父さんはお元気かしら?」と話を変えながら若女が立ちあがった。

「どうだか。無事に長安ちょうあん(唐の都)まで行ったとしても、帰ってくるつもりがあるのかしらね。

父は二十二歳から四十一歳まで長安にいたから、あっちに家族がいても不思議じゃないでしょう。いないほうが不自然よ」と回廊をもどりながら由利が若女に言う。



九月二十二日。

三笠山みかさやまの上に下弦かげんの月がかかっている。

庭の萩の花が見えるように、書斎の東の窓を開けて文室ふんやの智努ちぬ白壁王しらかべおうと向き合った。

「どうして、あなたは前触まえぶれもなしに、フラッとわたしのところに来るのでしょう」と文屋智努。

「だれかの顔が頭に浮かんで、急に会いたいと思うことってあるでしょう。

ところで、エーッ…と、なんと、お呼びすればよいものか…」と白壁王。

「文屋さんとか知努さんとかと、呼べば良いでしょう」と文屋智努。

「慣れてないから、なんとなく恥ずかしい」と白壁王。

「これは、おどろいた。恥ずかしいという感情を持っていたのですか?」と智努が笑う。

この日、長皇子の子で天武天皇の二世王(孫)になる智努王ちぬおうと、弟の大市王おうちおう臣籍降下しんせきこうかして、文屋真人まひと智努と大市おうちなった。

五十九歳になった文屋智努は、二ヶ月前に亡くなった三原王につぐ従三位の高位を持つ二世王だ。孝謙天皇が即位してから四世王以下の王は皇籍を捨てて臣籍降下をするうにうながされたが、皇位継承権を持つ二世王で公卿になっている大物が臣下になるのは始めてだ。

白壁王は四十三歳で、相変わらずの散位で正四位下。皇嗣系の官人の中でも、めずらしいほど仕事についたことがなくノラリクラリと暮らしている。

「智努…智努さん。いったい、どうして臣籍降下をしてしまったのですか?

圧力でもかかったのですか」と白壁王。

「わたしが決めたことですよ。三原王が亡くなったでしょう」と智努。

「急でしたね。ご病気ですか」と白壁王。

「刃物のあとや絞殺こうさつされたあとがないかぎり、毒殺だろうが、寝ているときに濡れ紙を顔にかぶせて窒息させられようが、すべて病気で亡くなられたことになりますから、そういう意味では、まちがいなく病死です」と智努。

「三原王が亡くなられて怖くなったから、臣籍降下ですか」と白壁王。

「はい。そうです。舎人親王の嫡子の三原王は正三位の中務卿です。

あの方が生きていらしたら、わたしにまでおはち(飯びつ)が回ってくることもなかったのですが、色々と持ちかけてくる人もいて身に危険を感じました」と知努。

「回ってくるお鉢って、どんな、お鉢ですか?」と白壁王。

「なかに皇位が入っている、お鉢ですよ」と智努。

「次期天皇としてかつごうとする人が、寄ってくるということですか」と白壁王。

「そういうこと。かならず天皇になれる保証があり、天皇になったあとで臣下が支えてくれるという証文でもあるのなら考えますが、この状況で神輿みこしのように担がれても、こっそり殺されるか罪をきせられて斬首ざんしゅされるだけでしょうよ。

まったく今の世の中は、どうなっているのか。

なかば強制的に臣籍降下された四世王たちは、季禄きろく皇親こうしんの給与)がなくなって困っています。

内外印と駅鈴は皇太后が持っておられて、柴微令しびれいの仲麻呂の私邸が天皇の御座所ござしょですからね。

光明皇太后と仲麻呂には、皇族の血など一てきも入っていません。

二人とも、丸ごとツメの先までモロ藤氏とうしです。

その二人が国法をつぎつぎに破って、政を執っているのです。

弟の大市などは、臣籍降下しても仲麻呂の嫉妬が怖いと、出家の準備をしています。わたしも出家を考えています」と智努。

「わたしも臣籍降下して出家した方が気が楽でしょうね」と白壁王。

「あなたは、いまでも十分に気楽にくらしているでしょう。それに臣籍降下はムリでしょう」と智努。

「どうして」と白壁王。

「聖武太政天皇が決められた井上いかみ内親王ないしんのうの婿だからですよ。内親王は親王か近い王にしか嫁ぎませんから、願い出ても許可されないでしょう。

それで、内親王とは仲良くしていますか」と智努。

「あちらさまへは、ちゃんと、ご挨拶にうかがっております」と白壁王。

「ご挨拶ねえ。まあ、わたしたちの立場ですと、ご婦人方もそうでしょうが、とくに正妻は気乗りしないお相手との縁組みが多いですからねえ」と智努。

「そのとうりです。このごろは会いたくない方と鉢合はちあわせしないように、日を決めて行くことにしています。

そうすれば、互いにけられるでしょう」と白壁王。

「どなたのことですか?」と智努。

「母君の広刀自ひろとじさんと、妹君の不破ふわ内親王ないしんのう。ときどきは相婿あいむこ塩焼王しおやきおう」と白壁王。

「あちらのご親族のすべてではありませんか。どうして会いたくないのでしょう」と智努。

「広刀自さんは、安積親王が亡くなったことを、昨日のことのように思われていましてね。病死だと思っておられませんから無理もないこととはいえ、話題がうらつらみや、ねたみや哀しみばかりで、わたしの相づちの種もつきてしまいます」と白壁王。

「そんなとき、塩焼王はどうしておいでです?」と智努。

「あの方は新田部にいたべ親王しんのうの子だという自負心がつよいですからねえ。

小さめの箱をかぶせて育てたウリのように,、自然な形が損なわれていて遊びがありませんから、まわりの話と関係なく、ご自分の政治理念りねんを話されますね」と白壁王。

「知識は入っても、情や知恵が育つ余地よちはなかったのでしょうかねえ。

それはそうと、井上内親王は帝より一歳上でしたね。

ということは、失礼ですが三十五歳におなりでしょう。

お子をもたれるなら、そろそろ急がないと」と智努。

「あちらさまも、母君や妹君にきつけられたようで困ったものです。

つぎに伺ったら、ご挨拶だけで帰してもらえないかもしれません。

気の重いことですよ」と白壁王。

文屋家の使用人が顔をだした。

「いらしたか?」と文室智努がたしかめる。

「はい」

「だれか、お招きされているのですか?」と白壁王。

「あなたに会わせて欲しいと前々から頼まれていた人がいまして、さっき使いをやったのですが着かれたようです」と智努。

「わたしに? アレレ…急に酔いがまわって、まぶたが重くなってきました。

では、わたしは、これでおいとまを・・・」と白壁王。

酒肴しゅこうを出すまえに酔いがまわるとは、近ごろは一段とあからさまな手をつかいますね。

政治にかかわって、人を担ぎ上げるような方ではありませんよ。一度、お会いなさい。ただ、注意しておきますが、この人の持っているものを、ほめてはいけません」と智努。

「どうして?」と白壁王。

「なんでもかんでも、くれてしまいます」と智努。

文屋家の従者に案内されてきたのは、艶のある福々しい顔をした初老の男だった。

「もしかして…百済くだらのこにしき敬福きょうふくさんですか?」と白壁王。  

散位さんいでも登庁義務があるので、白壁王も宮城に顔をだしている。だから、この特徴のある陽気な人を、遠くから何度か見たことがあった。

「白壁王。わたしをご存知ですか。こりゃうれしい。うれしいです」と敬福が両手で白壁王の手をにぎって上下にふった。

「お会いしたかった。智努さまに、ぜひとも、ぜひともとご紹介くださいと、何度も、お願いしていました」と敬福。

百済王敬福は五十四歳。四年前に黄金が産出されたことを、聖武天皇に報告した陸奥むつ(東北地方)かみだ。そのときは従五位上の地方官だったのが、黄金を献上けんじょうしたこうによって従三位に飛び級昇位しょういした。一気に七ランクを飛びこえた昇進だ。

そのあとで宮内くないのきょうに任命されて、いまは貴族の最上位になる公卿くぎょうの一人で白壁王より位が高い。

人に妬まれるような破格の出世なのだが、百済王敬福は敵をつくらない。陽気な飲んべえで、困った人がいると何でもあげてしまい、いつも自分は貧乏をしている。

それでいて、いままで歴任していた東北の国で、蝦夷えみしをうまくまとめて国守こくしゅとしての実績も高い。

 

百済くだらのこにしきにはかばねがない。

姓は天皇が臣下に与えるもので、臣籍降下した智努王は文屋といううじと、真人まひとというかばねをもらっている。だから正式には文室真人知努というが、この真人という姓は元皇族だけに与えられる。

藤原氏は藤原朝臣あそん仲麻呂、藤原|朝臣宿奈麻呂と、朝臣が姓になる。

大伴氏は大友むらじ家持で、姓は連だ。

姓は氏族の出身と身分を示すものだが、百済王には姓がない。百済王の王は姓ではなく、百済国王の末裔まつえいなのだ。

九十余年もむかしに、朝鮮半島の南の方に四世紀前半から三百五十年以上も栄えて、六六〇年にとう新羅しらぎの連合軍によって滅ぼされた百済国くだらのくにがあった。

百済国の最後の王を義慈王ぎじおうという。義慈王の息子の豊璋ほうしょうは日本で育ち、滅ぼされた百済国の残党が国を再興しようとしたときに、日本で百済王に即位して半島に渡った。その豊璋を助けようと、六六三年に中大兄皇子(天智天皇)は日本から援軍を送る。

結果は多くの犠牲者をだして大敗し(白村江はくそんこうの戦)、これで百済国は完全に滅んだ。その後の豊璋の行方はわからない。

豊璋の弟の善光ぜんこうは日本に残っていて、その子孫が官人として朝廷に出仕している。百済王敬福は善光の曾孫になり、中大兄皇子の孫の白壁王とは因縁が深い間柄だ。


「わたしたち百済王家は、中大兄皇子に感謝しています。

あなたは中大兄皇子のお孫さん。だから、どうしても、お会いしたかった」と敬福。

「わたしの母も中大兄皇子の娘ですから、わたしも中大兄皇子の外孫がいそんですよ」と智努。

「そう。そうです。天武天皇の妃は中大兄皇子の娘さんが多いですからね。外孫になるお孫さんは、たくさんおられます。

でも、たしか中大兄皇子の男子系のお孫さんで、残っているのは白壁王だけでしょう?」と敬福。

「そうなりますかね。ひ孫や夜叉孫ならおりますが」と白壁王。

「この都に移って来られた中大兄皇子の息子は志貴しき皇子だけです。志貴皇子の息子である、あなたの兄弟も亡くなられましたからね。

中大兄皇子の男子系の孫は、あなただけです」と文屋智努。

「中大兄皇子は、どんな方だったのですか。あなたの顔は、おじいさんに似ていますか?」と敬福。

「父でさえ七歳のときに他界して、今では顔を思いだせません。三笠山で父を荼毘だびしたときの火と、空に上がる煙が、この季節になると思い出されるだけです。

まして会ったことも無い祖父のことなど、似てるかどうかと聞かれましても…ねえ」と白壁王。

「きっと、どこか似ていますよ。似ているはずです。骨格とか性格とか好みや、しぐさは、父から子へ、子から孫へと受けつがれますからね。

これ百済の酒です。さ、どうぞ。どうぞ。日本で造ったので、まったく同じではありませんが、やはり百済の酒です。似ています。

そうだ。こっちへ入ってらっしゃい」と敬福が部屋の外に呼びかける。

若い娘が二人、楽器を持って入ってきた。

「百済の楽人がくじんです。この、ご時世じゃハデなさわぎはできませんから、二人だけ連れてきました」と敬福。

哀愁あいしゅうのある音曲おんぎょくかなでられる。

さわやかな夜風にあたりながら、白壁王と文屋智努と百済王敬福は、はるか昔に消えた百済国の酒と音色ねいろを味わった。

「しみじみとして切ない曲ですね」と白壁王。

「そうですか。お好きですか。お好きですか。良かった。気に入られましたか。

わたしの本貫地ほんがんち(本拠)は交野かたの(大阪府枚方市と交野市)にあります。そこには、もっと楽人がいます。楽人がいて楽器もそろっています。

都からはなれていますから、にぎやかな曲も奏でられます。踊り子たちもいます」と敬福。

「それは楽しそうだ」と白壁王。

「そうだ。白壁王。交野にいらっしゃい。いま百済寺を建設中です。ぜひ見に来てください。

来てくださったら、わたしの別荘をさしあげます」と敬福。

「いりません」

「ご遠慮なさらずに、そうだ。交野の楽人も何人かさしあげましょう。ええ、さしあげます。それが良い。良いですねえ」と敬福。

「いらないと言ったら、いりません! 

あのね、敬福さん。わたしの妻の父はやまと氏で母は土師はじ氏です」と白壁王。

「和氏って、もしかして、わたしの親戚の大和氏?」と敬福。

「そう。その和氏。文字は大和、和、倭と書き分けますが、あなたの親族の他にを名乗る氏族がいるのですか?」と白壁王。

「だったら土師氏って、もしかして大枝おおえの?」と敬福。

「もしかしなくても大枝の土師氏! 妻の父は和乙継おとつぐで、母は土師はじの真妹まいもです。

わざわざ智努さんを煩わせなくても、義父を知っておられるでしょう?」と白壁王。

武寧王ぶねいおう系の、あの和氏?」と敬福。

「そう。義父も交野に邸を持っています。だから山陰道と山陽道の最初の駅家うまやになる交野のことは良く知っています。こんど、お邸に遊びに行きますよ」と白壁王。

「来てくださる!」と敬福が子供のように両手を合わせた。

「和氏の妻と、難波平野を挟んで向こうにある大枝で生まれた息子をつれていきます」と白壁王。

「なんと。なんと。うれしい。わたしたちは親戚ですか?」と敬福。

「親戚じゃなくて遠い縁戚です!」と白壁王。

「これは、ご縁ですね。深い深いご縁です。それはうれしい。大歓迎です。

ずっと交野にいてください」と敬福。

「散位でも官人ですから、そうは行きません。敬福さん。あなただって宮内卿でしょう。たびたび交野に帰るわけにいかないのでは?」と白壁王。

「そうですねえ。こんど常陸ひたちのかみを兼任します。

しばらく都を離れます。さびしいですね。交野にも行けなくなります」と敬福。

「敬福さんは公卿でしょう。こんどは遥任ようにん(任地に行かない国守)で都に留まれますよ。

そうですか。国守(地方官)が交代する季節がきたようですね」と智努が言った。



十一月三日。国守の任期は四年から五年で、藤原式家の家長で従五位下の宿奈麻呂は、上総かずさ(千葉県)のかみから相模さがみ(神奈川県)に配置がえをされた。

宿奈麻呂からは都に帰らず、そのまま相模国に赴任するという手紙がとどいた。その手紙の終わりに、この夏に出産のときに難産で、夫人の一人と生まれた息子を亡くしたと書かれていた。

 

帰京したら宿奈麻呂が住むはずの式家の本邸には、いまも雄田麻呂と蔵下麻呂くらじまろ種継たねつぐと、種継の母のアヤが住んでいて、ヒナおおの虫麻呂むしまろ大和やまとの弓明きゅうめいも元気にくらしている。

いまは田麻呂も花渕から戻って官人として届けを出し、近くに邸を構えている。いずれ独立する雄田麻呂や蔵下麻呂や種継の邸となる土地も探しているところだ。

従二位の右大臣と柴微令がいる藤原南家にくらべればささやかだが、一般にくらべれば十分に裕福で、なによりも兄弟仲が良いのが五の日に式家の本邸に帰ってくる久米若女にはうれしい。

まとまりの良い家族になったと思っていたところに、宿奈麻呂の手紙がとどいた。

生まれてくるはずの子と妻を亡くして辛いはずだが、そんな思いは伝えずに最後に報告しているだけの不器用さが、かえって痛ましい。

すでに宿奈麻呂は三十六歳になる。藤原一族の家長で、この歳で従五位下というのは出世がおそい。宿奈麻呂の勤務評価が悪いせいもあるが、まだ式家は「広嗣の乱」のつぐないをしている。

宿奈麻呂が出世しないかぎり、弟たちの登庁も遅くなる。責任感だけは強い宿奈麻呂も、あせりを感じているだろう。そんな兄の想いは弟たちにも伝わるようだ。

「兄上をなぐさめに行ってはいけないでしょうか」と雄田麻呂が言いだした。

「行くって、どこへ?」と若女。

上総かずさ相模さがみへ」と雄田麻呂。

「みんなで行きたいの?」と若女は蔵下麻呂と種継をみた。

「兄上のところは女の子ばかりで、きっと男の子が欲しかっただろうと思います。

あんな見かけだけど兄は落ち込みやすいから、わたしたちは任官まえですので許可がもらえたら会いに行きたい」と蔵下麻呂。

雄田麻呂は二十歳。大学を優秀な成績で終えた。体が弱いことが心配だが、将来が楽しみな若者になった。

蔵下麻呂は十九歳。武芸に秀でた、やさしい青年になった。

種継も成人して十五歳。責任感の強い、まじめな大学生だ。

近くの邸で暮らしている田麻呂は、流刑のあとで隠遁生活いんとんせいかつをしていたので二十七歳になっても正七位上だ。式家は家長の宿奈麻呂の従五位下が最高位で、藤氏のなかで最も出世がおくれているが、このまま大きな事件に巻き込まれないで欲しいと若女は思う。

「いまは、どんな小さな過ちも犯してはならないときです」と言って、若女が外をうかがう。

ヒナ女と大和弓明が、さっと立って部屋の周りに人がいないことを確かめてうなずいた。

「皇太后さまの側におられる方が、反乱を試みるものを捕まえようとされています。そんなときに式家の兄弟が兄の赴任先にむかったら、どう思われるでしょう。

どんな疑いもかけられないように過ごさなければなりません。

宿奈麻呂さんを思うのなら、だれに読まれても良いふみをだしなさい」と若女。

「母上。文なら母上が書いてください。たしか国守の交代は、先の国守と次の国守が会って受けつぎをするはずです」と雄田麻呂。

「守られていないようだが、そのように法では決まっている」と田麻呂。

「兄さんが赴任する相模国の、先の国守は石上宅嗣やかつぐさんです。

宅嗣さんなら宿奈麻呂兄さんを待って、ちゃんと受けつぎをしてくれるはずです。

母上から宅嗣さんに、兄さんが妻子を亡くして辛いだろうからよろしくお願いしますと文をかいてください」と雄田麻呂。

「なかなかの知恵者だな。雄田麻呂。

若女さんからたのまれたら、宅嗣が喜びます。

それに宅嗣なら、兄さんより行間ぎょうかんの意味をくみとれます。

いまが危険だということも、それとなく知らせてやってください」と田麻呂。

「若女さん。わたしのもお願いします。

宿奈麻呂さんの亡くなった滝子夫人の娘の諸姉もろねさんは十三歳ですよね。たしか同母の妹さんは十歳のはず。母君を亡くされたのですから、わたしが二人を都で育てても良いかと聞いてください」とアヤ。

「それは、チョッと・・・どうかしら?

残された容夫人の娘は十五歳と十三歳。下の娘も八歳になるわよ。

できれば、みんなを都に引き取った方が良いと思うけれど、このまま夫人には宿奈麻呂さんに付く添ってもらいたいし。書き方を上手く考えたほうが良いわねえ」と若女。

「五人とも? この邸に、五人の娘が来るの? それは大変だわ」とアヤ。

「アヤさんは自分でお書きなさいよ。自分の思うことを素直に書けば宿奈麻呂さんは分かってくれるわよ」と若女。

「もし娘たちを都で育てるなら、宅嗣に都まで連れて帰ってもらいましょう」と田麻呂。

「みんなの手紙は、まとめて宅嗣さんの家から送ってもらいましょうよ」と種継。

「わたしたちは兄の広嗣のことを重く受けとめて、いまも謹慎きんしんしているということを忘れずに匂わせてくださいよ。若女さん」と蔵下麻呂。

みんな良い子たちだ…良く育った。この子たちが飛び立つ空は暗雲が広がる空ではなく、明るく晴れた穏やかな空であってほしいと、四十歳になった若女はつくづく願った。 



七五四年。

一月に、遣唐使の船が戻ってきた。

遣唐副使の大伴古麻呂の船には、唐から盲目の鑑真がんじん僧侶が乗っていた。遣唐大使の藤原清河は鑑真の乗船をことわったのだが、古麻呂が密かに自分の船に乗せてきたのだ。大乗仏教を日本に伝えたことと、鑑真を連れてきたことは古麻呂の手柄だった。

おなじく副使の吉備真備が乗った船も、和歌山のほうに戻ってきた。

だが大使で北家の四男の藤原清河の乗った船は、奄美あまみ諸島へ向けて出港したことまでは確かめられたが、日本に帰ってこなかった。

帰国後に、大伴古麻呂は左大弁さだいべんに、吉備真備は太宰大弐だざいのだいすけに任官され、ともに正四位下をもらった。



部屋のそばの柳の枝に青い芽がふいて、クルクルと風に踊っている。都にある吉備真備の書庫つきの一棟で、娘の由利が口をとがらせた。

「一階級上がって、また九州? 古麻呂さんが左大弁で、お父さんは太宰の大弐だいすけなんて、おかしいじゃない。

どうしても、お父さんを都から遠ざけたいのね」

「大宰府は大きな都だ。大弐は大宰府の四等官しとうかんかみにつぐ二番目だ。帥は石川年足としたりさまで、高齢だから都に住まわれたままの遙任ようにんだろう。

すると、わたしが大宰府の最高官になる。身に余る栄誉えいよだ」と真備。

「鑑真さまへの帝の勅だって、お父さんしか伝えられなかったじゃない」と由利。

「わたしは通史つうし(通訳)ではないし、あれぐらいのことなら淡海おうみの三船みふねさんが話される。

あの方は唐からこられた道璿どうせんさんの弟子だったから漢語は正確だし、仏教への理解ならはるかに上だ」と真備。

「淡海三船さまは、天智てんじ天皇の四世王(玄孫やしゃご)よ」と由利。

「それが、どうした?」と真備。

「天智天皇は、勝つ見込みのない百済くだら再興の戦に、吉備国の人を集めて白村江はくそんこうに送ったでしょう?」と由利。

「ほう。わたしが子供のころには、そうやって恨む年寄が残っていたが、娘の口から、なつかしいグチを聞くと思わなかった。

おまえ。淡海三船さんにむかって、八十年前の吉備人の仇討でもする気か」と真備。

「そうじゃない。あの方は立派な方だわ」と由利。

「じゃあ、なぜ古い話をもちだす」

「お父さんが、どう思っているか知りたいから」

「たしかに百済出兵では、吉備一族から大将をえらんで、吉備の民が兵として多く狩りだされた。

勝つはずがないと分かっていて、海を越えた半島へ送りこむとは残酷な話だ。

だが、それとは別の立場で、こうも思う。

もしも、わたしが中大兄皇子(天智天皇)の軍師ぐんしだったら、勝ち目のない遠征軍に、大和朝廷に反抗する危険のある地方から兵をあつめるように進言しただろう。

吉備には造船技術があり、一族は半島にあった任那みまな国主こくしゅをつとめたことがある。そのうえ大和朝廷の王位継承に、吉備氏の血を引く星川皇子を擁立しようとして追放された過去がある。

わたしが軍師なら、吉備から徴兵ちょうへいするように勧める。

白村港の敗北で多くの人と富を失ったが、あのあと中大兄皇子は民の戸籍を作ることができた。大化の改新が目指した新しい時代への、この前進は大きい」と真備。

「軍師だったらって、お父さん。もしかして兵書へいしょにくわしいの?」と由利。

兵法へいほうは、わたしの得意とする分野だが使うことがない。

それに、この国には、わたしの兵法を活かせる人もいない。そのほうが平和だ」と真備。

「フーン。お父さんて兵法が好きなんだ。で、大宰府までは船で行くの?」と由利。

「いや。歩いていく。下道しもつみちにも寄りたいし、途中の村々もたづねたい」と真備。五十九歳になるが、吉備真備は長い旅で日に焼けて健康そうだ。

「いいわね。官費で唐だの九州だのアッチコッチに行けて」と由利。

「な。左大弁と、どっちが良い?」と真備。

「ねえ。お父さん。家族のこととか、わたしのこととか、考えたことはあるの?」と由利。

「おまえこそ、由利。家族をもつとか、子供をつくるとか。考えたことがあるのか?」と真備。

「ない」

「わたしも余り考えない」

「いつか、都に帰してもらえるのかしら」と由利がさみしそうにつぶやく。

「どうなるか、それもまた天の摂理せつりだろう。

由利、本の世話を忘れるな。それから都の情報を手紙で知らせてくれ」と真備が娘を元気づけるように言った。



交野は駅屋うまやがある宿場町で朝廷の伝使は行き来をするが、それほど人の往来が多い場所でもない。

桃やあんずの花が咲き、鳥がさえずる交野かたのの夏四月は美しい。

交野ヶ原は丘陵地だが、天野川、穂谷ほだに川、舟橋川が南東から淀川にむけて流れていて、そこに多くの野鳥が群れている。

百済王敬福きょうふく本貫地ほんがんちは、娘たちの装いも楽の音も都とはちがう異境いきょうだ。

それなのに、なぜか胸がギュッとしぼれるようになつかしい。

敬福にさそわれてから、白壁王も山部王も和新笠も、敬福がいてもいなくても、おかまいなしにチョクチョク気軽に遊びにくるようになった。

交野の百済王家の東屋あずまやで、白壁王と敬福が酒を飲みながら話している。

玄宗げんそう皇帝こうてい朝見ちょうけんするときにですね。遣唐副使の大伴古麻呂。そう。古麻呂が新羅しらぎの使節と席順をあらそって上席をとったとか言いますね」と敬福。

「そうですねえ。若いころに古麻呂は、留学生として何年か唐にいたと言いますから、新羅の使節を言い負かすほど頭が良いのでしょうね。

ただ、少々ガムシャラなところがある方ですねえ」と白壁王。

「恐らくですね。一緒に行った副使の吉備真備。玄宗皇帝のそばに仕えている阿部仲麻呂。あの二人が角が立たないように収めてくれた。きっと、そうでしょう」と敬福。

「少しまえに日本にきた新羅使への対応とか、今回の席争いとか、このところ日本は新羅にたいして強引な姿勢をとっていますね」と白壁王。

「そう。そう。あなたも、そう思う。わたしも、わざわざ新羅を刺激しなくても良いと思いますよ」と敬福。

「あなたの国の百済は、新羅と唐にほろぼされたのでしょう。それでもですか」と白壁王。

あったかい牛乳がはいったわんとハチミツがはいった壺を、若い娘が盆にのせてもってきて机にのせた。

「一杯だけか? 明信みょうしん?」と敬福がきく。

「お好きなのは山部王でしょう。おじいちゃんは、お酒を飲んでるじゃない」と敬福と白壁王のほうを見もしないで、明信と呼ばれた娘が答える。

背をむけて、しどけなく柱にもたれて河の流れを見ていた山部王が、優しい笑顔で明信をふりあおいだ。明信の顔が赤く染まる。

十七歳になった山部王は、きめの細かい白い肌をした細身でしなやかな青年になった。

「ありがとう」と山部王がハチミツをしゃもじ(スプーン)ですくって牛乳に入れてかきまわし、一口飲んでから「おいしい」と明信を見る。

「新笠さんが、大和舞やまとまいを踊りたいから来るようにって・・・」と、もじもじしながら明信が答える。

山部王は椀をもったまま驚いたように目を見開き、少し体を引いてから小首をかしげて聞きかえした。

「大和舞は男舞おとこまいだよ。母上が踊るつもりなの?」

楽曲がっきょくを教えてもらって、みんなで稽古したの。

新笠さんがいなくても、みんなで練習をして、ほんとうの大和舞の曲とは違うかもしれないけど・・・」と明信。

「稽古したの。そうか。それで楽曲に舞をつけたいの?」と山部王。

「そう。舞いを見たいの」と明信。

「わたしは上手くないけれど、みんなが稽古をしたのなら踊らないといけないね」

山部王は牛乳を美味そうに飲み干すと、そっと明信の肩に指先を触れて「行こうか」と笑顔を見せて東屋を出ていった。

「あの娘は?」と白壁王。

「明信? 孫。わたしの孫娘。

息子の理伯りはくの娘で十三歳。内裏に出仕させようかと、女帝のもとですから女儒にょじゅとしてですよ。女帝のところに入内じゅだい(婚姻)する娘はいない。女儒です」と敬福。

「きれいな娘さんですね」と白壁王。

「白壁王。さっき、なにを話していたか覚えていますか?」と若者たちを目で追いながら敬福が聞いた。

「たしか新羅がどうのこうのと」と白壁王。

「せっかく話がはずんでいたのに、場をとられてしまいました。乗っとられた。孫娘まで、とられたようです」と敬福。

「傷つけないように、山部にくぎしておきますよ」と白壁王。

東屋から見える広場に布を敷き女たちが楽器をならべている。そこで大和舞をするつもりだろう。

「ハチミツ。そうです。ハチミツです」と机に残された壺をみて、敬福が思いだした。

「ハチミツ?」と白壁王。

「わたしの、ひいジイさんの善光ぜんこうの兄の豊璋ほうしょうは、あなたの祖父の中大兄皇子に百済再建のために百済王にされました。

豊璋は、日本で養蜂ようほうをしようとしていました。養蜂です。ミツバチを飼育してハチミツを作ろうとしていたのです。

たぶん豊璋は百済を再興するより、日本で養蜂家になりたかった。養蜂家として平穏へいおんに家族とくらしたかった。そう思いませんか」と敬福。

「敬福さん。まさか豊璋を百済王にした、わたしの祖父を恨んでると言いだすのじゃ…」と白壁王。

「ちがいます。ちがいます。豊璋は王家に生まれた者の宿命を生きました。

百済のために援軍をよこしてくれた中大兄皇子に、少なくとも、わたしは百済人として感謝です。感謝しています。

でもね、あれは愚行ぐこうです。すでに滅んだ国を再興するために、海を渡って戦うなど愚行。

地理も知らない。戦に必要な食料の補給もできない。馬の補給もない。武器の補給もない。ない、ないです。

そんなところに兵を送るのは、遠征軍を全滅させるつもりじゃないとできません。

滅ぼすつもりだったでしょう?」と敬福。

「わたしに聞いて、どうするのです。

わたしは、祖父が亡くなってから生まれました。

ただねえ。あのころ、この国はとう新羅しらぎから、百済の残党を討つようにとヤイのヤイのと催促されていましてねえ。

唐軍に加われば、こんな小さな島国は属国とされて、唐が戦さをするたびに兵を送れと強要されて最前線に送られますよ。

だからといって親しかった百済の味方をしても、すでに滅んでいるから勝ち目はありません。

白村江はくそんこうに百済救援軍を送ったのは、けして属国にはならないと唐に示すための窮余きゅうよさくでしょうね」と白壁王。

「ほら、ちゃんと窮余の策と答えられる。

さすがです。さすがは中大兄皇子の孫ですね。

あれは負けると分かっていて、それでも行わざるをえなかった愚行です。

でもいまは、唐も新羅も圧力をかけてきていません。この国を守るなら、この状態をつづけることです。

それなのに、このところの日本の新羅対策はいただけません。ダメです。

些細ささいなことをもちだして、なぜ新羅をあおるのです。

あの柴微令しびれいですか。藤原仲麻呂さんは、イチャモンをつけて新羅と戦でもしたいのでしょうか」と敬福。

「どうも、そのようですねえ」と白壁王。

「日本の一番良いところは、どこだと思いますか」と敬福。

「はて、さて」

「大陸から近くもなく遠くもない、ちょうど安全な場所にある島国。これです。

大陸や半島みたいに、外敵がいてきを警戒する必要がない。ありません。

起こるのは内乱だけ。内乱なら被害者は上の人だけ。そうですね。官人たちが殺し合うだけで民に大きな被害がおよびません。

そんな国が、海の向こうの新羅を刺激してはだめです。いけませんねえ」と敬福。

大和舞いの曲が聞こえてきた。白壁王と敬福が広場に目をむける。

広場には、かがり火が焚かれて見物人が集まっている。そのまん中で和新笠と山部王が舞いだした。

見慣れている大和舞とはちがうが、二人が踊りだすと見物している人が静かになった。しばらく舞うと新笠が下がって、山部王だけが残った。

かがり火に照らされた山部王のしなやかなで躍動的やくどうてきな動きが、その場の空気をとり込んでゆく。

「山部王にははながあります。観衆を魅了みりょうする」と敬福。

「あの子は、のびやかな身体をして身のこなしが美しいが、面立おもだちはマア良い方。踊りも正式なものではありませんよ」と白壁王。

「なにを言いたいか分かっているでしょう。さっきも、この場の空気をさらわれました。あなたも場の空気を変えるのが上手いが、わたしも場をるのが好きです。大好きです。

だから分かります。山部王は天性の人転ひところがしだ」と敬福。

「人殺し?」と白壁王。

「人転がしです! その場の求めに応じて表情を変え、いつの間にか人の心を転がして、自分の好きなように動かす人転がしです。

十七歳のときのわたしは、あそこまで出来なかった。

あの歳で一気に多数の人の心をつかむ若者を、わたしは知りません。

人を引き込む才能は、英雄や覇王はおうには必要です」と敬福が白壁王をふりかえった。

白壁王は、目を細めて息子の姿を見ている。

そこには陽気な宴会男の顔はなく、冷徹れいてつな目をした男の顔があった。


この年、白壁王と井上いかみ内親王ないしんのうのあいだに娘が誕生した。聖武太上天皇の外孫だ。

満年齢で白壁王は四十五歳。井上内親王は三十七歳。出産は命がけだったが、高齢出産といっても良い井上内親王は母子ともに無事だった。

生まれた娘は、酒人さかひと女王にょうおうと呼ばれる。



六月三日。

吉備真備の邸で「忙しいですか?」と由利が、佐伯今毛人いまえみしにきいた。

「ええ。鑑真がんじんさまがこられて、日本で初めての戒檀院かいだんいん(僧尼に戒律かいりつを授ける所)を急いで造っていましたから忙しかったです。今回も、たまたま帰国して都におられた真備先生に助けていただきました。

大宰府だざいふから便りはきましたか」と今毛人。

「いいえ。ずっとまえに父が言ったと思うけど…」と由利。

「なんでしょう?」

「今毛人さんは東大寺を完成させることを天命と思い、ほかのことには、かかわらないでくださいよ」と由利。

「いまの仕事が好きで、これからも建築にかかわれる仕事をしたいので、実績をつもうと思っています。

いまさら心配するなんて、気になることでもあったのですか?」と今毛人が妙な顔をした。

「あの方が、謀反がおこると決めて、謀反人の摘発てきはつの準備をしています」と由利。

「いくどか、そういう話をされていますけど、謀反など起こっていません。

それに、もし仲麻呂さまが謀反人を洗いだしているのなら、すでに逮捕しているでしょう。すこし神経質になられているのではないですか」と今毛人。

「わたしは神経質じゃありません。

あなたは、ほんとうに世間とズレてきたみたいね。

わたしは、謀反が起こると言っていません。謀反人を摘発する準備をしていると言いました。

いまに長屋王の変のようなことが起こります。時を待っているだけでしょう」と由利。

「冤罪? 時って?」と今毛人。

「さあ、それは…」

「それも分からないのなら、まだ大事は起こりませんよ。

でも由利さん。いつも、わたしのことを心配してくださってありがとうございます」と今毛人。

「心配しているって、わたしが? あなたを?」と由利。

「ええ。ほんとうの姉上ができたみたいで心強くて、うれしい限りです」と今毛人。

「姉上? わたしが?」

そういえば由利は、はじめから今毛人のことを家族のように思っている。なぜなのだろう。父が連れてきたから…そう。父が連れてきたからだ。

家を空けてばかりいて、父親らしいことはなにもしてくれないのに、由利は父を信じているのだ。それを自覚して由利はヘコんだ。



七月十九日。

宮子みやこ皇太夫人こうたふじんが中宮院で亡くなった。藤原不比等の娘で、聖武太上天皇の生母。光明皇太后の異母姉だ。

宮子皇太夫人は、息子の聖武天皇に一度会ったきりで、中宮院から出ずにくらして生涯を終えた。藤原氏の駒として文武もんむ天皇に入内して妊娠したころから、人と会うことを怖がって閉じこもってしまった。

中宮院から外に出ずに一生を過ごしたことを思いやると、若女も由利も辛くなった。それは宮子の孫娘であり姪でもある孝謙天皇もおなじだろう。

望んだわけではないのに藤原氏のために一生をささげさせられ、おびえながら暮らしてはかなくなった人。おそらく看護かんご禅師ぜんじ玄肪げんぼうだけが、少しのあいだだけ外の世界とのつながりを持たせたのだろう。

翌日、宮子皇太夫人の葬儀のために装束しょうぞうのつかさ造山やまづくりのつかさが決められて、佐伯今毛人は十人の造山司の一人に選ばれた。

八月四日に、宮子皇太夫人は山陵さんりょうに埋葬された。



越中えっちゅうのかみ(富山県)として赴任ふにんしていた大伴おおともの家持やかもちも、任期を終えて平城京に戻ってきている。

八月十日の雲が厚くて月も星もない夜に、佐伯今毛人が佐保川さほがわを渡って大伴家持の邸をたずねてきた。

「来るという連絡もなく供も連れずに、どうしてコソコソ忍んできた?」と部屋に招きいれて家持がきく。

「大きい声をだすな。だれに聞かれるか分からない。そばに寄ってほしい」と今毛人がささやく。

「わたしの邸だ。だれを、はばかっている?」と家持。

「おまえの邸でも、わたしの邸でも、気を許すことはできない。

おまえは越中で歌会かかいを開いて優雅に過ごしてきたのだろうが、都はちがう」と今毛人がささやく。

「どうした。今毛人。声がでないのか」と家持が体をよせた。

「いいか。家持。紫微令の藤原仲麻呂を甘くみちゃいけない。仲麻呂は賞金をだして情報をあつめている。

だから、だれも信用できない。ウチの小者も、おまえの従者もだ。

われらの話を聞いたら、仲麻呂に売るかも知れない」と今毛人。

「なんのことだ?」と家持。

「自分をねらう企みがあるのを仲麻呂は知っていて、あみをはって時期をまっている。

だから不審な動きをすれば、必ずあぶりだされて反逆者として殺される」と今毛人。

「仲麻呂が反対勢力をとらえるために、邸づとめの小者たちから情報を買っていて、反逆者に仕立てようとしていると言いたいのか。

だれから、そんなことを聞いた?」と家持。

「だれかは言えないが、信用できる女官だ」と今毛人。

「佐伯の一族か」と家持。

「ちがう。真備…」と言って、今毛人があわてて口に手を当てた。

「信用する。仲麻呂なら、なにを仕掛けていてもおかしくない。

それを伝えに来てくれたのか」と家持。

「このまえ皇太夫人の御陵を造るときに、大伴古麻呂と一緒に仕事をした」と今毛人。

「ああ。古麻呂は遣唐副使として新羅の使者と席を争って勝ったから、帝の覚えもよく造山司に選ばれたと聞いている」と家持。

「そのときに、さそわれた」と今毛人。

「なにに?」と家持。

「一度、ゆっくり話がしたい。こころざしを一つにする友にも会ってくれと言われた」と今毛人。

「志? どういう意味だ」と家持。

「分からないが、腹に一物いちもつをもっているように感じた。

仲麻呂を倒す相談ではないか。まちがいはないだろう。

わたしは忙しいからと断って、そのまま会う機会を作らなかった」と今毛人。

「…古麻呂のほかには?」と家持。

「知らない。佐伯の一族もいるかも知れないが、わたしは知らない。

だれにも見られずに来たと思う。そっと帰る。気をつけろ。巻き込まれるな」と今毛人が家持にささやいた。


大伴古麻呂は、即位した日に孝謙天皇が小弁しょうべんに取りたてた。孝謙天皇が目をかけている官人の一人で、さきの遣唐副使として帰国のときに鑑真を同船させてきた。

今は正四位下で大弁だいべんをしている四十五歳の古麻呂は、行政に関与できる地位にいて大伴一族の中心になりつつある。

父の旅人たびとうじの長者ちょうじゃだったが、家持は従五位上で三十五歳と若く、古麻呂をとめる力がない。

とりあえず一族のようすを調べようとしたが、十一月一日に山陽道さんようどう巡察使じゅんさつしに任じられて、大伴家持は都を離れていった。



十一月二十三日。

「どうして!」と孝謙天皇が壺をつかむと投げつけた。

孝謙天皇の部屋にあるものは高価なものばかりなので、女儒の安部あべの古美奈こみながころがった壺をとりにいこうとした。その肩を久米若女がおさえて、目で「さがれ」とうながす。飯高いいだか笠目のかさめが、ほかの女儒や若い女官たちを部屋の外に追いやった。

「バカにして。殺してやる。あれらは死ねばいい!」と孝謙天皇が叫んで机をたおす。孝謙天皇が、このように荒れるのは始めてのことだ。

形相ぎょうそうが変わっているが、古参こさんの女官たちは動じることもなく、何が飛んでこようと平然と側にひかえている。

「わたしをだました。信用していたのに、わたしを利用した。

できるかぎり良くしてやったのに、あれらは、わたしを裏切った。

裏切りは許さない。絶対、許さない。裏切られるのはイヤだ。イヤだ!」

孝謙天皇は部屋を飾るれ布をき、かざたなをたおして、自分も床にころがると手足をバタバタさせて着ている服を破いて泣きわめいた。

そしてグッタリと動かなくなってしまった。


ヒステリーを起こさせたのは、五年まえ孝謙天皇が即位して五カ月後(七四九年十二月二十七日)に、九州の豊前びぜんのくに(大分県)の宇佐うさ八幡宮はちまんぐうが大仏の造営が成功すると神託しんたくをだして、その禰宜ねぎほふりが都にやって来たことからはじまる。

天皇になったばかりの孝謙天皇はよろこんで、宇佐八幡宮に多額の封戸ふうこ位田いでんを寄付した。都にきた祝の杜女もりめを天皇だけが使う紫色の輿こしにのせ、聖武太上天皇と光明皇太后と一緒に東大寺に参詣さんけいして神託を報告し、祝の杜女に従四位下を、禰宜の大神多麻呂おおかみのたまろに外従五位下を与えて、都に八幡宮をつらせて住まわせた。

やりすぎと思えるほど良くしてやったのだ。

その禰宜の大神多麻呂が、薬師寺の僧と一緒になって人を呪い殺す呪術じゅじゅつをしていたのが、今日になって分かった。

報告を受けてしばらくしてから、孝謙天皇が発作を起こした。


医師と薬師くすし(薬剤師)が帰るときに「ご容体は」と笠目がきいた。

「一日ほど眠られるはずです。ときどき水分をお取りになるように」と医師。

「今夜のことを覚えておられるでしょうか」と若女。

「細かなことは覚えておられないと思います。

気苦労がたまりすぎて爆発されたのでしょう。

報告はされておりませんが、このようなことが、これまでにもございましたか?」と医師。

「いいえ。よく肩こりや片頭痛へんづつうを起こされますし、胃腸の不具合も多いのですが、このようなことをなさったことはございません。

わたしたちにも声を荒げることがない、お方でございます」と笠目。

「みなさんとは、色々なことを話されていらっしゃるのでしょうか」と医師がきく。

「ご自分から話かける方ではございません。わたしどものほうからは、ご意見を伺うほかは話しかけられません」と由利。

「それは、いかんな。たった一人で良い。

みかどの話を聞いて、相談にのってくださる方はおられないのですか。

とても感受性の強い繊細せんさいなお方ですから、お一人で色々と考えておられると、また発作を起こされるかもしれません。

たびたび、このようなことがありますとしんぞうが傷つきます」と言って医師は帰っていった。


十一月二十七日。

祝の大神杜女と、禰宜の大神多麻呂は流刑になった。    

つぎの七五五年の三月二十八日に、豊前の宇佐八幡宮が都に神託を届けてくる。

「吾は神だから嘘をつきたくない。さきに受けとった封戸ふうこの千四百戸と位田いでんの百四十町は、使うことがなく役に立たない。

山野に捨てるようなものだから、これを朝廷に帰して、昔から持っている神田しんでんだけをとどめることにした」

宇佐八幡宮が都に送った禰宜と祝が不祥事をおこしたのだが、神に奉納ほうのうした封戸や位田をとりあげるわけにもゆかない。神社のほうは返したくても、まつっている神を傷つけたくない。

そこで、この神託をもって都まできたのだが、まったく人を食った神さまだ。


筑前ちくぜんのかみをしていたときに、親しくなった宇佐八幡の禰宜に泣きつかれて相談にのった」と、大宰府にいる吉備真備からの手紙を受けとった由利と、由利から話をきいた佐伯今毛人には、この神託は大いにウケた。


この事件があったから、孝謙天皇は宇佐八幡の神託をあなどるようになった。





藤原不比等――――――一男 南家 武智麻呂

           二男 北家 房前

           三男 式家 宇合

           四男 京家 麻呂

           一女 宮子皇太夫人

           二女 長娥子 長屋王夫人

           三女 光明皇太后


    

              県犬養広刀自   一女 井上内親王(白壁王室)

                ‖――――――三女 不破内親王(塩焼王室)

    文武天皇        ‖      一男 安積親王(崩)

     ‖――――――――聖武太上天皇

    宮子皇太夫人      ‖――――――二女 孝謙天皇                   

              光明皇太后


      藤原南家 一男 豊成(右大臣)        

           二男 仲麻呂(紫微令)

           三男 乙麻呂

           四男 巨勢麻呂


      藤原北家 一男 鳥養(夭折)

           二男 永手   

           三男 八束やつか

           四男 清河(在唐)

           五男 魚名

           六男 御盾

           七男 楓麻呂

            女 (豊成室)

            女 宇比良古(仲麻呂室)

      

      藤原式家 二男 宿奈麻呂 

           三男 清成(早世)――種継  

           五男 田麻呂

           六男 雄田麻呂

           七男 蔵下麻呂


      藤原京家 一男 浜足       

            女 百能(豊成室)



天武天皇――新田部親王―――塩焼王

              道祖王ふなとおう


天武天皇―――舎人親王―――三原王

              池田王

              船王

              大炊王おおいおう


天智天皇―――志貴皇子―――春日王―――安貴王――市原王

              湯原王         ‖

              白壁王         ‖

               ‖―――――――――能登女王

百済王淳陀・・・・・・・・・和新笠        山部王


百済王義慈―――豊璋

        善光・・・・敬福――――理伯―――明信



           女官 飯高笠目

              吉備由利(吉備真備 娘)

              久米若女(藤原雄田麻呂 母)

              大野仲千(藤原永手室)

              藤原百能(浜足姉 豊成室)



作者から

天智天皇は十九歳で自ら蘇我入鹿に刃を向けたのち、政界の黒幕として政治を執ったので四十一歳まで皇太子でした。そのため中大兄皇子と呼ばれる期間のほうが長いので作中でも従っています。

中大兄皇子が皇太子として実権を振るう期間には、叔父の孝徳天皇と母の皇極天皇が在位しています。

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