二 恭仁京の流れ星 安積親王の死
七四二年(
七四二年、秋八月十日。
十歳になった
しばらくすると宅嗣が門を出てきた。待ちかまえていた三人が宅嗣をかこむ。五歳の種継が宅嗣の袖をにぎった。
二年前の九月に「
遷都のときは、前の都で住んでいたところと同じような場所に宅地が与えられる。だが当主が流刑中だった石上家は、式家から離れて遠くに移ってしまった。だから、この二年間、藤原式家と石上家は連絡がとだえたままだった。
成人して
きれいな子供だったが、いまは美しい少年になっている。
雄田麻呂を見ると、宅嗣は種継の手を振りほどいて深々と頭をさげた。十三歳と十歳。宅嗣の父の乙麻呂と、雄田麻呂の母の
ちょうど
「宅嗣さん。そういうのはやめてください」と雄田麻呂。
「会いたかったよ。宅嗣兄さん」と蔵下麻呂。
「でも、わたしは…ここで失礼します」ともう一度、宅嗣が深く頭をさげる。
「
「もう知っているのでしょう?」と宅嗣が雄田麻呂の顔を見た。
「母の身に起こったことなら知っているけれど、それは宅嗣さんには関係がないでしょう。宅嗣さんは生まれたときから宿奈麻呂兄さんと、兄弟のようにくらしてきたのでしょう?」と雄田麻呂。
「わたしは父の息子で、父の罪はわたしの罪です」と宅嗣。
「そんなことを言わないで、ちょっとだけ来てよ。宿奈麻呂兄さんが会いたがっている」と雄田麻呂。
人目を気にして小路の角で待っていた宿奈麻呂が、ようすをみて寄ってきた。
「宅嗣。大きくなったなあ」と宿奈麻呂。
「ご無沙汰しています」と宅嗣。
「なんだ。その、よそよそしい態度は!
どうしているか気になっていたが、こっちも色々ありすぎて、おまえの家を訪ねるわけにも行かず、わたしは
「宿奈麻呂さんも、お元気でなによりです」と宅嗣。
「どうした。宅嗣? 人が変わってしまったのか」と宿奈麻呂。
「いまも雄田麻呂さんに言っていたのですが、父の罪はわたしの罪です。
尊敬できる親なら孝行もできるが、そうでない親にも孝行をしなければいけないのだろうかという思いがある。若女に怪我をさせた父の気持ちなど、宅嗣は理解できない。
「わたしが十代のころは、蔭位の子が大学に通う義務がゆるんでいた。
だから、わたしは大学に行ったことがないし、難しいことは嫌いだから儒教がなんだか分からない。
だがな、宅嗣。その儒教が正しいものなら、子供のおまえが理解できるほどカンタンなものではないと思うよ。
人は良い面だけでなく悪い面も持っている。親だっておなじだろう。
乙麻呂叔父さんのことは、お前とは関係がない。
それとも、わたしたちが反逆者の家のものだから、おまえはさけようとしているのか」と宿奈麻呂。
「とんでもない。わたしは若女さんや雄田麻呂さんに申し訳なくて、どのように接してよいのか分からなくて・・・式家の方にご迷惑をかけてもうしわけございません」と宅嗣がまた頭を下げる。
「式家の方? 言葉をおぼえたころから、おまえは、わたしのことを兄さんと呼んでいたよな?」と宿奈麻呂。
さっきから大学の門の前で立ち止まって、なりゆきをみていた内舎人が近づいてこようとした。大勢で宅嗣をいじめているように見えたのだろう。
ちょうど通りかかった子連れの貴族が内舎人に話しかけた。知りあいなのか、内舎人は足を止めて言葉を交わしはじめた。
宿奈麻呂は宅嗣の肩をおして、内舎人と離れるために場所を移った。
「わたしは、おまえに距離をとられるのがさびしい。かなしい。
おまえが親のことを気にして人をさけて生きるつもりなら、そんな、おまえを見るたびにグッサとくる」と宿奈麻呂。
「わたしも、かなしいです。
藤原に引きとられて心細そかったときに、田麻呂兄さんと宅嗣さんがやさしくしてくれた。いろんなことを教えてくれた。
宅嗣さんは、わたしのはじめての友達です。
あのときのように、宅嗣さんと色々な話がしたい。
それができないのなら、すごく辛くて胸が痛い。母もおなじ気持ちだと思います」と雄田麻呂。
「式家との、つきあい方なら教えてやる。
おまえは生まれたときから知っている弟同然のイトコだ。
前のように、なんでも話そう。おまえや田麻呂は、頭が良くて考えすぎるから難しいことを言いだす。ときどきはバカになれ。宅嗣」と宿奈麻呂が宅嗣の肩をつかんで
それを目にした内舎人が、手に持っていた文箱を
「石上の若さま。なにか、お困りですか!」と内舎人。
「雄田麻呂! 元気だった?」と走ってきた男の子の方が、いきなり雄田麻呂の体に抱きついたので内舎人がキョトンとする。
「この子、知りあいか?」と宿奈麻呂が、雄田麻呂に聞く。
「?」
「いっしょに太政天皇が都にくるのを見たよネ。雄田麻呂」と体をはなしながら、雄田麻呂の両手をにぎりしめて男の子がいう。
白い上着を着て、髪は
たしかアヤさんが部民かと聞くと、母がちがうと答えた。部民のように「べ」がつく名前・・・
「そうか。知りあいか。こんにちは。わたしは藤原宿奈麻呂です」と宿奈麻呂が身を屈めてあいさつをする。
「こんにちは。藤原宿奈麻呂。昨日ね。
今度、雄田麻呂も、いっしょに登ろうね」と言ってから、こんどは宿奈麻呂の手をつかむと、山部が顔をクチャクチャにした笑顔をむける。
「ねえ。宿奈麻呂は、雄田麻呂のお父さん?」
「ジョウダンじゃない。兄です。お兄さん。分かるかな?」と宿奈麻呂も、むりに笑顔を作ってみせた。
「いいなあ。お兄さん、欲しい。決めた。雄田麻呂をお兄さんにする。宿奈麻呂は大きい兄さん。蔵下麻呂は小さい兄さん。種継は弟。
宿奈麻呂。この人、イソノカミのだれ?」と宅嗣をさして山部がきく。
「宅嗣だけど」と宿奈麻呂。
「三笠山に行こうよ。ね。イソナカミノヤカツグ」と山部は宿生麻呂の手をにぎったままで、内舎人を指さした。
「この人、オオトモノヤカモチ。ワカのテンサイ。テンサイって、なんのこと?」
「エーッと…何のことかなァ? どんな話しのなかで使ったのかな?」と宿奈麻呂。
「あっ! 伯父上が呼んでるから行くよ。
また会おうね。雄田麻呂兄さん。約束だよ」と山部はニコニコ笑いかけると、連れの貴族のところに戻っていった。
「やけに人懐こくて、おしゃべりだ。雄田麻呂。どこの子だ?」と宿奈麻呂。
「太政天皇が入京なさるのを見に行ったときに、タマタマとなりにいただけだよ。
それなのに、わたしたちの顔と名をおぼえていた」と雄田麻呂。
「かないませんね。
「王?」と雄田麻呂。
「山部王?」と宿奈麻呂雄。
王は皇嗣系に与えられる称号だが、王と名乗る人は大勢いる。
天皇の息子は
「一緒におられたのは
「そうなのですか」と雄田麻呂。
「さきほど湯原王が、山部王に和歌の天才と紹介してくださいました。それれを覚えられたのでしょう。和歌はたしなみますが天才などと恐れ多い。ただの未熟者です」
「山部王は、湯原王のお子なのですか」と宅嗣。
「いいえ。さきほどのお話では、山部王は湯原王の弟君の
きっと昨日が、ご命日だったのですね」と家持。
「志貴皇子って、どの天皇のお血筋ですか」と雄田麻呂。
「むかしは
志貴皇子は、
「えっ。あの天智天皇の。じゃあ山部王は、天智天皇の…三世王?」と宅嗣。
「はい。ひ孫にあたられます」と家持。
「宅嗣さん。天智天皇とは、どういう方?」と雄田麻呂が聞く。
「そうだな。簡単には説明できないから、あとで
「田麻呂は、いまは
だから宅嗣。おまえが教えてやってくれ。わたしにはムリだ」と宿奈麻呂。
「家持さん。山部王は、おいくつか、ご存知ですか」と宅嗣が聞く。
「さっき湯原王が、
「種継とおなじ歳だ」と宅嗣が、蔵下麻呂の肩に乗って
「まだ五歳か。それにしては口が達者だよね。記憶力は、ばつぐんだ」と雄田麻呂。
「あまえのことを気に入っているようだ。今度会ったら遊んでやれよな。雄田麻呂兄さん」と宅嗣。
子供たちのようすを見ていた家持が、ホッとした優しい目をした。
「それでは、わたしは失礼します」と家持は懐から文箱をだして、大学の方に戻っていった。
いまの
「宅嗣は、大伴家持さんを知っていたのか?」と宿奈麻呂が聞いた。
「うん。うちは都の東北のすみに宅地をもらって住んでいる。
そこが大伴一族の邸と近いんだよ。父も和歌を
だれもたずねてこないけど、家持さんだけは和歌と土産を持って顔をだしてくれる」と宅嗣。
「フーン。それで、おまえのことを気にしてくれたのか。
宅嗣。ウチに寄ってくれるよな」と宿奈麻呂。
「なぜかバラケちゃった。行くよ。兄さん。
父も変わった。家のものに口うるさくすることがなくなって、わたしのことも
「ウチだっておなじだよ。たまに南家の
「田麻呂兄さんにも会いたいな」と宅嗣。
「おまえたち子供だけなら、明日香村に行く許可も下りるだろう。
「田麻呂兄さんのところには本があるのでしょう。
「家にあるのは移したから、たぶん、あるだろう」と宿奈麻呂。
父のせいで後ろめたい気持ちを抱きつづけている宅嗣を、ゾクッとさせる天皇が日本書紀の中にでてくるからだ。それが山部王の曾祖父になる天智天皇だ。
善悪とはなにだろう。人とはなにだろう。
ほかの子と話せないことも、田麻呂や雄田麻呂とは心置きなく話合えた。そんな子供時代を宅嗣は過ごしてきた。
赤とんぼが群れをつくって、宿奈麻呂たちの頭上をかすめて飛んでいった。
八月十一日。
まだ遷都してから一年八か月で恭仁京は未完成だ。それなのに、その造宮卿を紫香楽村にうつして離宮を造らせるという。
恭仁も百姓家が何十軒かあるだけだったが、それでも貴族の別荘地だった。
紫香楽村は、もっと田舎で少しの村人とタヌキしかいない。
右大臣の橘諸兄はナデシコの花が好きだ。
平城京の邸も恭仁京の邸も、庭一面にナデシコを植えて花の季節にナデシコの
痘瘡が流行して重職にいた者が次々に死亡してしまったあとで、長屋王の弟の
ただ鈴鹿王には「長屋王の変」のときに藤原四兄弟と手を結んで、兄の一家を見殺しにしたという噂がつきまとっている。そのためか、あるいは本人に能力がなかったからか、鈴鹿王は正三位のままで留守官はするが、大政官をまとめる力がない知太政官事だ。
いつも聖武天皇と行動をともにしている右大臣の橘諸兄は正二位にまで
熱心な仏教徒である諸兄が右大臣になってから、いままでよりも聖武天皇は仏教に熱中しだした。
藤原氏の権勢欲から起こった長屋王家の悲劇や、多くの人が亡くなった疫病の流行を体験して、聖武天皇は自分の無力さを身にしみて感じている。だから全国に
聖武天皇が目指しているのは、争いや災いがおこらないことを祈る宗教国家だった。ただ、そのための急な遷都で民は動揺しているが、諸兄は聖武天皇をいさめもせずにいる。祈りにしか
言いなりになる諸兄を、ふがいないと思っている人たちがいるのも知っているが、これが限界だった。
諸兄は出世欲や権勢欲があったわけでなく、平凡で平穏無事なくらしを望んでいた。ただ痘瘡で高官が多く亡くなったときに、生き残った壮年の太政官が諸兄だけだったから右大臣になった。
橘諸兄の父は
問題は諸兄の母の
母の美千代は、県犬養氏の
美千代は美努王とのあいだに諸兄や
だから諸兄と光明皇后は異父兄妹になる。
出身が皇嗣系で、母の三千代は
自分の権勢欲を満たすために生きる野心家なら、皇族をあやつれるポストだと喜ぶだろうが、信心深い諸兄にとっては身を削る立場に生きている。
聖武天皇にとって、元正太上天皇は皇位を守って譲ってくれた先帝で、血のつながる叔母であり、教え導いてくれた育ての親でもある。
光明皇后は妻であり、実母の妹でもあるから叔母にもなり、同じ年に生まれた幼友達だ。
広刀自夫人は、はじめて好きになった人で、
しかし元正太上天皇は、長屋王の妻だった同母の妹とオイたちを藤原四兄弟に殺されているから、光明皇后と藤原一族が嫌いだ。
光明皇后は、息子の
これが普通の家族なら一緒に食卓を囲めない関係だが、すべてが大切な家族と思い、だれも憎んでいない聖武天皇が真ん中にいる。さいわい全員が信心深いから、家族が語り合えて理解できるのが仏教のことだけだった。
諸兄は宗教国家をつくろうとする聖武天皇を、ただ見守ることしかできない。
いま諸兄が抱えている難題は、痘瘡流行の直後に、聖武天皇が光明皇后の娘の
元正太上天皇は、成人する年になった安積親王を皇太子にたてて、阿部皇太子を廃することを望んでいる。聖武天皇も賛成なのだが、光明皇后を説得できるほどではない。
聖武天皇が阿部皇太子を立てたときは、太政官の過半数が亡くなって不在だった。
諸兄が右大臣になったのも太政官が
しかし、これまでの女帝は生まれながらの皇女で、天皇か
阿部皇太子は初めての女性の皇太子で、即位してしまったら人臣の上に女帝として君臨する。阿部皇太子が皇位を渡す相手は弟の安積親王だが、はたして、この異母弟に皇位を譲るかどうか分からない。
なにしろ安積親王を日嗣の御子にしないために、藤原四兄弟は長屋王を殺して妹を皇后にした。阿部皇太子は藤原四兄弟の妹の光明皇后が母で、四兄弟の姉妹の宮子と文武天皇のあいだに生まれた聖武天皇が父だ。皇族の血は四分の一だけで、四分の三は藤原氏の血が流れている。
もともと仇敵のような立場の阿部皇太子と安積皇子は異母姉弟といっても、ほとんど面識がないから情もないだろう。
元正太上天皇や聖武天皇が元気なうちに、皇太子を変えたほうが後の世が乱れないと諸兄も思う。思うけれど手が出せない。
しかし同じ母から生まれた異父妹でも、藤原不比等を父にもつ光明皇后は肝がすわっている。
長屋王の邸で、長屋王と正妻の
その邸をとりこわして、その上に
阿部皇太子の件もそうだ。大勢の人が亡くなった太政官不在のときを狙って、よくも娘の立太子を聖武天皇から取りつけたものだ。人の不幸につけ込んだだけではない。光明皇后も、四人の兄を亡くした直後だった。
豪胆とほめて良いのか、冷淡と怖れて良いのか、光明皇后を説得するのは諸兄もためらう。
ナデシコの宴は親しい人を招いて小規模にしていたのだが、右大臣になってからは招待客の人選がむずかしくなった。家族と相談して決めているが、最近では息子の奈良麻呂が若い人を招き規模も大きくなってしまった。
「そろそろ、お集りです」と奈良麻呂が呼びにきた。
「経をあげたらいく」と諸兄は香をつまんで燃した。
「父上。
まじめで良くできた息子なのだが、諸兄は答えずに
「
「どなただ」と奈良麻呂。
「大伴家持さまです」
「会おう。わたしの部屋へよんでくれ」
奈良麻呂の部屋に通された大伴家持が、文箱をささげた。
「やはり、ご欠席ですか」と文を読んだ奈良麻呂。
「楽しみにしておられましたが」と家持。
今年のナデシコの宴に、奈良麻呂は安積親王をさそってみた。そのために九月の半ばごろから
「どうしておられます」と奈良麻呂。
「お変わりはございません」と家持。
橘奈良麻呂は二十一歳で従五位下の大学頭で、大伴家持は二十三歳で従六位上の内舎人だ。
橘氏は諸兄から始まる新しい氏族だが、大伴氏は古くから大王に仕えてきた古代豪族系の官人だ。大伴氏は途切れそうになった大王の血統を、
家持の父は大伴氏をまとめる
氏族をまとめる氏長者は
父の旅人の異母妹に、大伴
坂上郎女と呼ぶのは、平城京で彼女が住んでいる邸が、北東から都の中心を流れる
女性は自分の本名を明かさないで、通称で呼ばれることが多い。
この坂上郎女が当代きっての女流歌人で、最初は天武天皇の子の
若い家持に代って大伴一族の財産をしっかりおさえて切り盛りしているのが、いまも平城京の坂の上の家に住んでいる坂上郎女だ。
坂上郎女は、大伴氏の氏長者を
大伴氏のような古代豪族は、藤原氏が出てきてから高官になるのがむずかしくなった。そのうえ
「家持さんは勤めにもどられますか」と奈良麻呂がきいた。
「
内舎人は天皇家のボディガードで秘書で雑用係だから、シフトで夜勤や日勤や持ち場が変わる。家持は内舎人になった三年前から安積親王のもとに
「それなら出席していただけませんか。和歌を
家持が困った表情をした。右大臣の息子の頼みはことわれないし、和歌を詠めるチャンスを逃して帰ったら、それを聞いた坂上の叔母に、あとで何を言われるか分からない。
しかし安積親王につかえる身だから、今夜は人と接したくない。とくに地位と年齢が高く、相手の気持ちを思いやらない酔っぱらいにからまれたくない。
「和歌のご用があるまで、目立たぬように庭のすみで待たせていただけますなら」と家持は答えた。
奈良麻呂は家持を思いやった。奈良麻呂も聞きたいのだが、内舎人の家持が答えられないのが分かっているのでガマンしている。宴の席で人と交じりたくはないだろう。
「目立たぬところがありますので、そこへ案内させましょう」
家持が、奈良麻呂と目を合わせた。安積親王の使いで四回ほど会っただけだが、
宴の席として、南にナデシコの庭が見える大きな部屋が用意されていた。垂れ布が張りめぐらされているが、布と部屋の広さがピッタリあっているわけではなく、
そこに家持は案内された。開いている南面には
家持のまえにも
家持は仕事のことは、すべて叔母の坂上郎女に報告している。安積親王がナデシコの宴に招待されて、その文使いをしたことも叔母と会ったときに話している。
「親王さまが和歌を求められたときに困らないように、かわりに
そのとき叔母が言ったのは、それだけだった。
五日前に和歌の
習作を見せたら「なに? これ! 情けない。どうして、こんな歌を平気で詠めるのか、おまえの気が知れない。ここと、ここ。
「いまになって、どうして」とぼやくと叔母は言った。
「塩焼王のことがあるから、安積親王は欠席さるかもしれない。
もしかして、おまえが親王さまの文使いを頼まれて、もしかして、おまえの和歌を所望されたときのためです。
親王さまは、ご本人に和歌の才がおありなら、ご自分で作られるべきでしょう。
だから代作が必要なときは、ソコソコのもので良いの。
でも、おまえの名で、おまえが詠むときは、ソコソコの歌など和歌で名高い大伴の恥です!」
武門の
武人は感情を捨てて心に
日が暮れてナデシコの花の色もうすれ、垂れ布ごしに聞こえる宴の席のざわめきも増してきた。
「ご安心ください。ここにいるのは右大臣さまのお味方ばかり。みな口がかたく、右大臣さまを、うらぎる者などおりません。さあ右大臣さま。塩焼王が、なにを、とがめられたのか教えてください」と大きな声が宴の席から聞こえる。
坂上の叔母にダメだしされた和歌をなおして、酒を口にしたばかりの家持は、自分に与えられた
右大臣の橘諸兄につぐ朝廷の
六日前の十月十二日に、聖武天皇は三女の
塩焼王は、支出が多くなる遷都や国分寺の建設に批判的だから、それを、どこかで口にして、だれかが天皇の耳に入れたのだろう。
塩焼王の亡父の
仏教国をつくろうとしている聖武天皇と、貴種で仕事もできると娘婿にした塩焼王は、親しく知り合ってみると相性が悪かった。
だけど、すでに処分が決まった人を、酒の
「わたしは、なにも知りません」と静かな声で諸兄が応じている。
日頃の鈴鹿王はおとなしいのだが、酔っ払うと品性が落ちるタチの悪いからみ酒だ。
「右大臣さまは帝と親しく、毎日のように帝にお目にかかっておられる。
わたしなどは、お情けで政庁のスミの席を汚している身ですから、帝にお会いする機会も少なく肝心なことは耳に入りません。
しかし
「今夜は俗事を忘れて酒を酌み交わし、
「鈴鹿王。マア、ご
「いつも弟が、お世話になっております」
豊成は正四位下の
「これは、豊成さん。おめずらしい。久しくお目にかかっておりませんな。
そういえば仲麻呂さんが、こちらに招かれていないと寂しがっておられましたよ。
アレ、右大臣は? まだ、話が残っています。お戻りください。右大臣!」と鈴鹿王が声を高めたときに、ドスンと大きな音がした。
少し離れたところで、椅子ごとひっくり返った男がいたのだ。招かれていた七十人ほどの貴族や貴族の息子が、会話を止めて音のしたほうを見ている。
「だいじょうぶですか。
「イヤ。イヤ。すっかり心地よく船を
お若いお方。あなたさまは、どなたさま?」と肩をさすりながら白壁王が床に座る。
「橘奈良麻呂です」
「あれまあ。これは、これは。すっかり大きくなられて。
どれ、ドッコイショ。オオ! 足が立つ。ここは
みなさま。ご安心ください。どこも怪我をしておりません。
アレ。アレレ! みなさま。チョッと、こちらに集まってください。ホウレ。月が出ました。なんと、さえざえと美しい月でしょう。
そろそろ良き歌がきけましょうな。ン?……ウグーッ」と白壁王が袖を口元にあてて庭にむかった。
「どうなさいました」と奈良麻呂が追う。
「ちょっと船酔いをしたようで・・・その辺にち・・・ウグッ」と白壁王。
「だれかタライを、早く!」と奈良麻呂が従者に命じる。
「フー、おさまってまいりました。
奈良麻呂さんでございましたね。この月を逃してはいけません。あなたさまは歌の準備をなさいませ。みなさまが、お待ちかねです。
それと・・・どこかで、ウチの従者が待っているはずですので、どなたか、わたしを従者のところに届けていただけませんか」と白壁王。
垂れ布のすき間からのぞいていた家持は、逃げだすのによい機会だと白壁王のそばに飛びだして
「わたしがお連れします。
奈良麻呂さま。つたない歌ですが、これを」としたためた和歌をさしだす。
「これはうれしい。お若い舎人が、酔いどれ船を
「では、みなさま。おさきに。またね~。おげんきで~ェ。楽しんでくださァーイ」と背中の白壁王は気楽に手をふっている。体は
人前で落とさないように案内の橘家の従者のあとを足早に追って、家持は宴席をあとにした。
「そろそろ、おろしてください」
宴席からはなれてしまうと、白壁王が家持の肩をたたいた。
「ごくろうさん。あなたは、どなたかな」と家持の肩をかりて歩きながら、白壁王がきく。
「大伴家持といいます」
「そう。すると、もしかして大伴
「はい」
「兄の湯原や、息子の山部から聞きましたよ。
山部はカンの鋭い子でね。和歌の天才の、あなたのことが気に入ったようですな」
ほんとうに吐きそうなぐらい酔いつぶれているのかと、家持が白壁王の顔を見た。
とたんに白壁王が体重をかけて、家持にもたれかかってきた。
天智天皇の孫になる白壁王は、従四位下で三十三歳だ。白壁王は、まだ職についたことがない貴族で、ずっと
散位は仕事しないから収入が少ないが、白壁王は父の志貴皇子が持っていた近江国の
それでも七歳で父親を亡くし、五歳上の同母の姉の
年の暮れから天皇は、紫香楽宮へ行幸して七四三年の元日をすごし、正月二日に恭仁京に帰ってきた。だから正月の行事は一月三日を過ぎてからおこなった。
そして一月十三日に、聖武天皇は「仏教の
たびたびの行幸も、急な遷都も、国分寺の造営も、すべては仏教国をつくるためだと、はっきりさせたかったのだろう。仏教のもとに平和な国をつくろうとする理想は良いのだが、政治や経済を考える官人には、政務をほったらかして都を留守にしがちな聖武天皇のやりかたは不評だった。
四月にも聖武天皇は紫香楽宮に行幸をした。聖武天皇が紫香楽に行幸するときは、光明皇后は、いつも恭仁京の
夏四月。皇后宮にも爽やかな風が流れている。
「どうして、わたしが人前で踊る必要があるの!」と阿部皇太子が、母の光明皇后に不満そうな顔を向けた。
「あなたの即位を、太政天皇に認めさせるために必要な手順の一つです」と光明皇后。
「即位ですって。早く即位させるようにと
世間では、宮子おばあさまと
「おだまり! そのように恥知らずで
「……」
「分かりましたか!」
「じゃあ、わたしは、だれと話せばよいの。
一日中、あれをしろ、これをしろと言われつづけて、わたしには、だれかと話をする自由もないの!」と阿部皇太子。
「そんなヒマがあったら、いまが、どういうときか理解したらどうなの。
この恭仁京への遷都も、紫香楽離宮の造営も、良く思っていない人が大勢いることが、あなたには分からないの。
民が不安をもっているときは、官人の中に徒党を組んで体制をこわそうとする者があらわれます。
太政天皇は、安積親王を皇太子にと望んでおられる。
不満を抱えた者たちが、太上天皇のもとに集まったらどうなると思うの。
母君が藤原氏でも、帝は宮中でお育ちになったから、太上天皇を大切にしておられる。皇太子なんて、帝の一言で代えることができますよ。
塩焼王などは、安積親王を皇太子にしようと同志を集めていた。
だから仲麻呂が、うまく帝をうごかして塩焼王を遠ざけてくれたのです。
藤原一族のなかで、先を読んで思い切った手を打てるのは仲麻呂だけでしょう。
それが、どうして分からないの」と光明皇后。
「お母さまは藤原一族でしょうが、わたしは生まれながらの内親王です」と阿部皇太子。
「藤原氏のわたしがいなければ、あなたは生まれていないでしょう!
藤原の兄たちがいなければ、わたしは皇后になっていません。
あなたが皇太子になることもなかった。わきまえなさい!」と光明皇后。
「わたしが、皇太子になりたかったと思っているの。
だれもかれもが、女のわたしが皇太子になったことを納得していない!
一ヶ月の
あのときのわたしの存在は、空気よりうすかった。お母さまも、おじさまたちも、わたしがいることさえ忘れていたのよ。
二十歳になるまでズッーと、そうだったのよ!
お母さまが子どもを生むのをあきらめて、娘も自分の子だったと気がつくまではね!」と阿部皇太子。
「あなたは体が弱くて、引きつけを起こしてひっくり返るか、食べたものを
「あれほど騒いだ基が一歳になるまえに亡くなってしまって、体が弱くて頭の悪い女のわたしが生きていて、お母さまはくやしいでしょう!」と阿部皇太子。
「くだらない。あなたは皇太子なのに、どの官庁がどんな仕事をしているのかさえ覚えようとしない」と光明皇后。
「子供のころから皇太子になると決められて、育てられたわけではないもの」と阿部皇太子。
「だったら、さらに努力をするべきでしょう。皇太子なら勉学に励みなさい。
いまのあなたに何ができます。官庁の業務も知らないで、太政官が奏上してくる国のできごとが理解できるのですか。何も分からないでしょう。
あなたは、だれかの補佐が必要です。一人では何もできない!
藤原の兄たちが亡くなって、残された息子たちは、まだ若い。
その中では南家の次男の仲麻呂が、一番しっかりしていて受け答えもすばらしい。
仲麻呂は、藤原氏の権力を保とうとしています。
あなたが頼りにできるのは、わたしと仲麻呂だけだと承知なさい。
あなたは、わたしと仲麻呂の言うとおりにしていれば良いのです。
さあ、笑いものにならないように
このとき光明皇后は四十二歳。阿部皇太子は二十五歳。光明皇后が可愛がっている藤原仲麻呂は三十七歳だった。
年の差は光明皇后と仲麻呂が五歳差。阿部皇太子と仲麻呂は十二歳差だ。
五月五日。阿部皇太子は、聖武天皇と元正太政天皇のまえで
元正太政天皇は喜んで声明をだしたが、そのなかで甥である聖武天皇を「わが子」と呼び、阿部皇太子を皇太子でも内親王でもなく「この王」と呼んで、光明皇后と仲麻呂の警戒レベルを上げさせた。
阿部皇太子が舞った宴のあとで、橘諸兄は左大臣に、鈴鹿王は
中納言と参議は太政官でもある。
藤原四兄弟が亡くなって七年。豊成と仲麻呂の二人が太政官になるほど、藤原氏は盛りかえしてきた。若い藤原氏の甥たちを、ここまで引き上げたのが光明皇后だ。
しかし橘諸兄が左大臣になったあとの右大臣は、空席のままで保留された。ふつうは左大臣は空席でもよいが右大臣はかならず置くから、ただごとではない人事だ。
恭仁京と紫香楽離宮の造営と国分寺(官営の寺)の建設で国の経済はゆきづまっていたが、聖武天皇は各地につくる国分寺の総本山となる
七月から聖武天皇は、また紫香楽離宮に滞在した。
七月の末に
すでに行基は七十五歳になっていた。
行基の参加で力をえた聖武天皇は、十月十五日に
天皇が恭仁京にもどってきたのは、四か月後の十一月に入ってからだった。
そして十二月の末には、遷都して四年しかたっていない恭仁京は、経費かかるから工事を終わりにするという詔がでる。
聖武天皇は、紫香楽の
天皇は仏教国家を造ろうと着実に動いているのだが、官人や庶民には理解されない。かれらが分かるのは、まだ都が移って四年しかたっていないのに天皇は四ヶ月も都を留守にして、やっと帰ってきたと思ったら都の造営を打ち切って、紫香楽京を造ると決めたことだけだから動揺した。
聖武天皇は政治家に向いていないし経済観念もないが、民のことを思う天皇だったので人々の動揺を気にした。恭仁に二ヶ月だけ落ちついただけで、次の七四四年の一月十五日には
そして
天皇は貴族のなかでも三位以上の
結果は、恭仁が百八十一人。難波が百五十三人。もう動くのがイヤで恭仁を選んだ人もいるから、難波の支持の多さがおどろきだ。
さらに閏一月四日には、今度は
安積親王は活発な子で、幼いころから
いままでに安積親王がした一番長い旅が平城京から恭仁京までの遷都で、そのときもゆれる輿に座りつづけてヒザに痛みがでた。桜井の仮宮は恭仁と難波のなかほどだから、安積親王は恭仁宮に帰って休みたいと天皇にねがいでる。
このとき
安積親王の姉の
安積親王は閏一月十一日の夕方に、桜井から恭仁に帰ってきた。
「お痛みは、いかがでございますか」と鈴鹿王。
「この椅子に座ると楽に感じます」と脚の高い椅子におさまった安積親王が答える。
「わたしも
年寄りと同じにしては申しわけございませんが、あの低い木の腰かけに座って、輿で揺られるのが苦痛でございます。もっと座り心地のよい椅子をおける輿をおあつらえなさいませ」と鈴鹿王。
「帝や太政天皇さまをさしおいて、とても、そのようなことはできません」と母の
広刀自は、聖武天皇の最初の夫人で安積親王の母だ。聖武天皇には、ほかにも夫人がいるが、光明皇后が
すでに長女の
安積親王は
あいさつにきたときに机の上においた、唐のものらしい
「これは、わたしが
ただ親王さまが常用しておられる薬がございましたら、一緒には飲まないでください。それから一日一錠、夕食あとのお休みまえに一錠だけです。
それ以上は、決してお飲みになりませんように」と鈴鹿王。
そのとき、もう一人の留守官の藤原仲麻呂が来たという知らせがあった。自分の邸から内裏に戻ってきたのだろう。仲麻呂は三十八歳で従四位上の
すらりとした体形で容姿も整い、衣装もさわやかに着こなしている。仲麻呂が部屋に入ってくるまえに広刀自は姿を消した。
「おそくなりました。女官も女儒も少ししか残っておりません。ご不便がありましたら、すぐに、ご連絡ください。
残っております
お疲れのことと思いますので下がりますが、ご用のときは、いつでもお呼びください」と、にこやかにあいさつをすると仲麻呂は早々に引きあげた。鈴鹿王も食事の支度ができると下がった。
内膳職が用意した食事は、いつもと変わらず、安積親王にも変わりはなかった。食後に出された痛み止めの
「鈴鹿王の薬が効くのなら試してみたい」と安積親王。
「いつもとちがうことは、おやめなさい」と仲麻呂が帰ったあとで、部屋に戻った広刀自が止める。
「母上は、なんでも疑われます。そうやって世間をせまくしておられる」と安積親王。
「親王さまは人の
「母上が鬼のように恐れる藤原氏の、北家の
それに、わたしは食われもせずに、八束さんの邸から帰ってきました。
藤原氏も鬼ではなく、ふつうの人ですよ」と安積親王。
「わたしは親王さまが、長く健康にくらされることだけをねがっています。
それだけです。だから気を許してはなりません」と広刀自。
「母上は心配症なのです。それに、その薬は知太政大臣の常備薬でしょう。
長屋王家は、わたしが生まれたから
そこまで疑っていたら信じられる人がいなくなります。
人を疑うばかりでは辛い。わたしは人を信じたいのです。鈴鹿王の薬を試してみます。家持。取ってください」と安積親王。
「はッ」と棚においた蓋つきの小さな器をとってきた家持が、「
「毒見?」と安積親王。
「それが
「まあ、良かった。おねがい。家持。飲んでみて」と広刀自が、ホッとしたような声をだす。
蓋を開けると
「出して一粒づつ調べてみましょう」と家持がいうと、「そこまでしなくてもいいよ。見た目は、どうなの?」と安積親王が聞いた。
「器の中では見えませんので、失礼して皿にうつしてみます」と家持が丸薬を皿にうつして
「十一粒入っています」「見た目は、おなじに見えます」と内舎人たちが、それぞれに答える。家持は一粒をつまんで口にふくみ
「どう。家持?」と安積親王。
「まだ、なんとも」と家持。
「どこか苦しかったり変だったら、すぐに吐きだしてね」と安積親王。
「どこも苦しくはありません。それに飲み込んでしまいました」と家持。
「気分が悪くなったら、わたしが腕を突っ込んで吐きださせるよ。痛みはどう。痛みは、やわらいだの」と安積親王。
「もともと、どこも痛くありません」と家持。
「親王さま。そう、すぐに変化はないでしょう。だいじょうぶだと分かるまで待ちましょう」と広刀自。
家持に変りがなかったので、安積親王は鈴鹿王が持ってきた痛み止めを飲んだ。
安積親王に従ってきた六人の内舎人と三十四人の舎人は、ここからは、いつもの三交代制で働くことにした。家持は
「家持」と寝るしたくをすませた安積親王が言う。
「はい」と家持。
「つぎに生まれるときは、わたしは風になりたいな」
「妙なことを。はじめてお目にかかったときには幼くていらした親王も、すっかり大人びてこられました。それでも、まだ大人ではありません。
「長屋王のことを考えていたら、なんとなく。わたしが生まれたために、ずいぶん多くの人が亡くなったから」と安積親王。
「それは親王さまの責任ではありません」と家持。
「母上が心配ばかりするのは、わたしのせいでしょう」と安積親王。
「母親は子供のことを心配するものです。それが愛なのですよ。
どうして風が良いと思われました?」と家持。
「風は、だれも悲しませないから」
「なにを言っておられるやら。
「そうか。そよ風だけではなかったね。水も害をあたえることがあるし、石だって役に立つこともケガをさせることもあるよね。なんでも良いところと悪いところがあるね」と安積親王。
「そんなに色々思われるのでしたら、その思いを言葉にして和歌をつくってみませんか。思いを
「家持が教えてくれるの」
「はい」
「約束だよ」
「はい。約束です」
「指切りしよう」
「はい」まだ細くてやらかい安積親王の指が、家持の指とからまった。
「さあ、そろそろ、お休みください。わたしどもが、ついておりますから」
家持は、安積親王が十一歳のときから、そばに仕えている。感受性が豊かで、やさしい少年だ。
翌朝の閏一月十二日は、目覚めたときから膝の腫れや痛みがとれたと安積親王は元気で、広刀自夫人と一緒に姉の不破内親王の邸をたずねた。不破内親王の邸には男子一人と女子三人の子供がいる。
宿直のあとで交代して休んだ家持が、午後に不破内親王の邸にいくと、安積親王は幼い甥が舎人を相手に蹴鞠の練習をするのを見物していた。塩焼王は伊豆に流刑中だが、もともと住む邸が別だから子供たちは父親の不在を気にしていない。
安積親王と広刀自夫人と不破内親王と三人の幼い女王が、楽しそうに蹴鞠を見ている。母子三代が冬の陽だまりのなかで笑いあっている姿を、家持はほほえましくながめた。
広刀自夫人には、もう一人、
不破内親王の邸から内裏に戻って、安積親王と広刀自は夕食をとった。この夜も安積親王は鈴鹿王からもらった丸薬を、食後に一錠だけ飲んだ。そのあと宿直の内舎人と交代した家持は、空いている
安積親王の寝所に行くと、宿直の二人の内舎人が
「どうした?」と家持。
「親王が亡くなられた」と宿直の内舎人が、こわばった声でいう。
「バカな!」と家持は寝所に入って安積親王の体にふれた。呼吸がなく脈もない。
「どうして。なぜだ」と家持。
「寝入りばなに、うなされておられたから、お側に寄った。そのときは、すぐに静かに眠られた」
「眠っていらしたのだな」と家持。
「たしかに呼吸をしておられた。胸のあたりが上下していた」
「なん
「
「つぎに
「眠られたのか」と家持。
「いや。そうじゃない。眠っておられるように見えたが、静かすぎるような気がしたので声をかけた。
なんどか、お呼びしたが動かれないので、そばまで寄って声をかけた。
胸騒ぎがして勝手に鼻の側に指を置いた。呼吸が感じられなかったから、お手にふれて脈をみた。脈がなかった。わたしの
「わたしだって、おなじことしかできなかった。
眠られるまえは、お元気だった。急に亡くなるなど、だれにも分からない」と家持。
「家持さん。これは病気なのか。眠りながら急に亡くなることがあるのか」
「分からない」
もう一度、家持は安積親王の息と脈をたしかめて胸に耳を当てた。皮膚に弾力がない。表情が消えた安積親王の目元が
「医師は呼んだのか」
「着くころだ」
「広刀自夫人には連絡したのか」
「…できない」
「留守官には」
「まだ」
「鈴鹿王さまと仲麻呂さまのところに使いをやろう。わたしたち舎人には、それ以上のことができない」と家持。そのころには非番の舎人たちも集まってきた。
「どうしてだ」
「あんなにやさしい親王が、なぜ」
「急に亡くなるなんて、おかしい」
「鈴鹿王の薬は持って帰ろう」と誰かがいった。
夜が明けるまえに恭仁宮を立った使者が、難波宮にいる聖武天皇と元正太政天皇に、安積親王の死去を知らせた。その日のうちに難波宮から
まだ十五歳の安積親王の死は悲しいことであるとともに、大きな衝撃だった。これで
こういう場合は
だが持統天皇には
すると文武天皇のまえの男性天皇の
二月二日に、恭仁京の留守官があずかっていた
三月三日、安積親王の埋葬が恭仁京で終わった。白い喪服を身につけた大伴家持は、安積親王を送る
あしひきの 山さえ光り 咲く花の 散りぬるごとき わが
(山を輝かせるように咲く 満開の花のような わたしの王が 散ってしまった)
安積親王の葬儀を終えたあとで、家持たちも難波京に移った。
二月十五日の日暮れどきに、前々から約束していた
職までおなじ
「で、どうだった」と奥まった部屋で、家持がきく。
「おまえらが持ってきた鈴鹿王の薬は、ただの痛み止めだそうだ」と今毛人が、天皇のそばで耳にしたことをもらす。
「ほかには、思い当たることがない」と家持。
「残っている薬が痛み止めでも、一粒だけ毒薬を混ぜておけば、いつかは、それを飲むだろうよ」と今毛人。
「見た目は、おなじに見えた」と家持。
「それは、おまえらが言っているだけだ」と今毛人。
「本当に見分けがつかなかった。すると時間をかけて、おなじように見える毒入りの丸薬を用意していたことになる。鈴鹿王にしかできないことだ」と家持。
「鈴鹿王が、なぜ、そんなことをする。安積親王は
「だれが?」と家持。
「言葉にできない方々だ。さっしろ」と今毛人。
「複数か」と家持。
「ああ」
「帝と太政天皇」と言ってから、家持は今毛人の顔をみて「左大臣もか?」と加えた。
「言葉にするな。
「
「
苦々しそうに家持が酒を空けた。
「ところで、つぎの配属先は決まったのか」と今毛人。
「帝のもとになる」と家持。
「じゃあ、しばらくは一緒だ。すぐに
「安積親王は輿にのられると膝の痛みが悪化したから、紫香楽へ行かれたことがない」と家持。
「ちょっと待て、家持。…オイ! と、いうことは、こんどの難波への行幸でも、途中で膝の痛みがでるのは予想されたのだな」と今毛人。
「
「もし塩焼王が流刑にされず、塩焼王と
それだったら安積親王は、恭仁宮に引き返しただろうか」と今毛人。
「それはない。桜井の仮宮からなら、難波も恭仁もおなじような距離だ。むしろ難波の方が
広刀自夫人と不和内親王と塩焼王が一緒だったら、安積親王は難波に行かれただろう」と家持。
「広刀自夫人は、どうして恭仁に残られた?」と今毛人。
「どうするかと
広刀自夫人は皇后をさけておられたから、塩焼王が罪に服していて不破内親王が残るからと辞退された」と家持。
「帝は夫人からの辞退の報告しか受けておられないはずだ。だれが広刀自夫人に、行幸に行くかどうかと伺った?」と今毛人。
「留守官が決まってすぐに…」
「どっちだ。鈴鹿王か、藤原仲麻呂か」と今毛人。
「
「国政を
「親しいかどうかは知らないが、たしか塩焼王が流刑にされたあとで、帝が紫香楽へ行かれたときの留守官は、やはり鈴鹿王と仲麻呂だったと覚えている」と家持。
「鈴鹿王と仲麻呂が
「仲麻呂か…」と家持。
二人とも黙り込んでしまった。耳
「暗殺だとしたら、こんなに複雑で、成功するかどうかも分からない計画をたてるだろうか」と今毛人がつぶやく。
「だが、悪い
「空席の右大臣のことは、なにか聞いていないのか」と家持。
「われわれに厳しい警護を命じて、ときどき帝は、太上天皇や左大臣と話されているが、内容までは聞こえない」と今毛人。
「…そういえば
「ああ。お元気か?」と今毛人。
「イヤになるほど元気だ。その坂上の叔母が、
田村の里は平城京の左京四条にあり、坂上郎女の今の夫である大伴
「平城京の田村の里か?
帝は
「さあな。仲麻呂は、田村の里の周囲を安く買い占めているそうだ。
平城京にある旧右大臣の邸(藤原
「いやな感じだ…」家持と今毛人は黙りこんだ。
二月二十四日、聖武天皇は難波宮から
(愛しい皇子が目にしただろう路は荒れてしまった→愛しい皇子が活きる道は荒れていた)
大伴の 名に
(大伴氏の名にかけて刀を負い 先々までと頼りにしていたのに 皇子がいないこれからは 心を寄せる人もいない)
家持だけでなく多くの官人が、聖武天皇の一人息子の安積親王の死におなじ思いを持っていた。
聖武天皇が紫香楽に移ったあとの二月二十六日に、難波宮に残った元正太政天皇と左大臣の橘諸兄が
三月十一日には難波宮の
難波宮は、中大兄皇子(天智天皇)が「大化の改新」の詔をだしたところで、中大兄皇子の叔父の
難波宮にいるのは、六十四歳の
聖武天皇は、未完成の
造営が打ち切られた
平城京は、街としての路や塀は残っているが、恭仁に移ったときに宮城のなかにある
平城京に住んでいるのは、
こんな状態では、どこに住んでよいのか分からない。
とくに位階はあるが職がない
散位の官人は無職でも位階をもっているから、多少の給料を受けとっている。
だから半年に七十日以上の
藤原式家の
「どうなるのでしょうねえ。この先」と宿奈麻呂。
「阿部皇太子の
でも宿奈麻呂さん。噂に振りまわされずに、なにが起こっても、わたしたちは帝に忠誠をつくしましょう」と若女。
「まず逆賊をだした家の信用をとりもどすのが第一ですね。それで、わたしは、どうすれば良いと思いますか」と宿奈麻呂。
「いまのところ難波が
恭仁京に住んでいる人で、心から難波京に移りたいと願うものは、自由に移住を許可するという
「なんだか、へんな勅ですねえ」と
小虫は貴族(五位以上が貴族)の邸では
「心から願わない者は恭仁京にいても良いのですか」と式家の経理係の
「帝は難波宮には、いらっしゃらないのでしょう。
それに市もありませんから、大勢が難波に移ったらどうなるのでしょう」とヒナ女。式家ではたらく女性をまとめている。
「帝は、紫香楽におられると聞きます」とアヤ。宿奈麻呂の亡くなった弟の未亡人で、若女と一緒に式家を守っている。
「紫香楽に行かなくても良いのかな?」と宿奈麻呂。
「紫香楽は、まだ宅地をくださるという知らせがありません。行ったって住むところがありませんよ。帝都は難波京という勅に従いましょう。
わたしが紫香楽に行って、いつ宅地を頂けるのか、家を建てられるのかを調べてきます。宿奈麻呂さんは難波宮に行って、そこで散位寮の方を訪ねてください。
難波なら宮を改築なさった宇合さまの立派なお邸があるのでしょう。
小虫とヒナ女、男女の従者(使用人)をえらんで連れて行ってください。
弓明を残してくだされば、こちらで財産管理などはやって、衣服などは届けます」と若女。
「子供たちのことを、よろしくおねがいします」と宿奈麻呂。
すでに宿奈麻呂には二人の夫人がいて、上が六歳で、つぎに同じ四歳が二人、そして一歳になる四人の娘がいる。四人とも恭仁京にある母親の家で育っている。
「はい。まめに顔をだします」と若女。
「広嗣の乱」のときに式家を守った人たちだ。いつのまにか、みんなで式家を立て直そうという気風が育ち、なんでも話しあうのが当たりまえになっている。
宿奈麻呂が難波に向かう日に、残る家族や使用人が木津川のほとりまで送りにでた。
夏四月は花の盛りだ。冬のあいだ
「
「足りないものがあったら、すぐに知らせてくださいよ」と別れをおしんでいたときに、舟から降りた女と子供たちが道に向かってきた。今度は遠目で
今日は山部王より人目をひく派手な母親と、少女とお供の女性が一緒だ。
「母上。あの子」と雄田麻呂が目で指す。
「なに?」と若女。
「山部王です」と雄田麻呂。
「山部王?」と若女。
「
「白壁王の…」
若女は陽気な酔っぱらいの白壁王を、宮中の宴席で何度も見ている。酔っぱらいだが、いやらしさがなく、それとなく気遣いができる人だ。天智天皇の二世王で、母親は
「お子さまがいらしたの。それじゃ、あの方が、お子さまの母君でしょうね。
まえに、この先でお目にかかったわね」と若女。
「さすが母上。おぼえていらした」と雄田麻呂が言ったとたん「オーイ。雄田麻呂兄さん!」と山部王が手を振った。
「いつのまに親しくなったの?」と若女。
「三、四回、偶然に出会っただけです。でも巻き込まれて虫をとらされたり、宿生麻呂兄さんは、よその邸の果実を盗まされました。
みていてください。山部王は種継とおなじ七歳だけど、あきれるほど記憶力が良くて、おしゃべりで、甘え上手だから」と話していると山部王が近くまできた。
「あれ。宿奈麻呂兄さん。どこかへ行くの」と山部王がニコッと微笑んで首をかしげる。
「こんにちは。山部王。これから難波に行くところですよ」と手をとられないように後ろで組んで、宿奈麻呂が一歩さがって答える。
「そうか。いってらっしゃい。でも帰ってきてね。
宿奈麻呂兄さんに、助けてもらいたいことがあるから」と山部王。
「なにを? イヤ。イヤイヤ。こんどね。こんど。出かけなければいけないからね。
では、若女さん。そろそろ出かけます。あとは、よろしく」と宿奈麻呂があいさつをした。
「いってらっしゃい。なにがあっても
みんな体に気をつけてね。ムリはしないでね」と若女。
「ヒナ女さん。小虫さん。宿奈麻呂さんを頼みますよ」とアヤ。
「小虫さん。手紙をくださいね」と若女。
若女とアヤが
「ああ、姿が小さくなった。行っちゃったね。雄田麻呂兄さん。
体に
「どうして、わたしを呼び捨てにする!」と種継。
「だって種継とは、おなじ年でしょう。友達だ」と山部王が空いている手を種継の肩にのせた。
「母上。この子が藤原雄田麻呂。そっちの子は弟の蔵下麻呂。こいつが、末の弟の種継だよ」と山部王が紹介する。
「種継は甥だよ」と雄田麻呂。
「オイ?」と山部王。
「亡くなった兄の子だ。種継の母上は、そこのアヤさんだよ」と雄田麻呂が教えた。
「そうか。アヤさん。こんにちは。山部です。これが母上と姉上だよ」と山部王。
「あなたは、どの子のお母さんなの?」と青い
「こちらは雄田麻呂さまの母君の
「わたしを知っているの?」と新笠と呼ばれた山部王の母が、弓明の顔を見た。
「はい。わたしは大和弓明。
久米刀自さま。こちらは
「そう。老人さんのところの弓明さんねえ…」といいながら、新笠が若女の眼を
「藤原氏のお子を持つ久米刀自さん? まちがっていたら、ごめんなさい。ぶしつけなことを聞くけど、藤原氏と縁のある女性で久米刀自と呼ばれる方は、もしかして
「はい。そうです」と迷わず若女も答える。
「ほんとうに、きれいな人。たしか、どこかで会っているわ。わたし、あなたのように強い女が好きよ」と新笠。
「わたしが強い?」と若女。
「ええ。あの件を、あいまいにしなかったでしょ。それに、あなたの表情を見ると芯の強い、まっすぐな人だと思う。じゃあ、あなたたちは藤原式家の方たちなのね」と新笠。
「そうです」と若女。
「若女さんとアヤさんが、式家の世話をしているの?」と新笠。
「みんなはアヤさんと呼ぶけど、わたしは
「彩朝さん。もしかして、その種継さんのお父さんは…」と一緒に歩きながら、新笠が声をおとした。
「…ヤダ。変な
「ゴメン!」と新笠。
「
他の人には悪いけど、あのころは楽しかった」とアヤ。
「わたしも痘瘡が流行っていたときに、大原野の大枝で山部を生んだの。蜂岡と大枝は近いよね」と新笠。
「うん。
「さっきの宿奈麻呂さんが、式家の
「そう」とアヤ。
「難波に行ったのね」と新笠。
「都がうつったから」とアヤ。
「いつまで難波が都だか分からないわよ。
「なんだかって、どういう意味?」と若女が聞く。
「都になる場所じゃないような気がする」と新笠。
「あなたは、紫香楽に行ったことがあるの? わたしたちも見に行こうと思っていたところなの」と若女。新笠が立ち止まって目を丸くした。
「どうして?」と新笠。
「紫香楽が都になったら、子供たちが住む所を造らなければならないでしょう」とアヤ。
「そんなこと、藤原氏なら、だれかが、なんとかしてくれるでしょう」と新笠。
「迷惑をかけているから、わたしたちで出来ることはしないとね」とアヤ。
「反逆者をだした家だから、人に頼っていたら子供たちが
「あなたたち二人で? 変わっているね。あなたたち。でも、たいしたものだわ。気に入った。
紫香楽は造っているところだから現場には男が多い。女子供だけで行っちゃダメよ。彩朝さん。秦氏が工事に入っているから、行くなら秦氏と一緒に行けばいい。
でも、わたしは、あそこは都にはならないと思うよ。
もし紫香楽が都になっても、宅地だ邸だと急がずに、しばらくは秦氏が使っている現場の小屋においてもらって、ようすを見たほうが良いと思う。じゃ、気をつけてね」と路が分かれるところで、新笠たちは別の方向に曲がった。
「とっても変わった人に、変わっていると言われちゃいましたね」とアヤ。
「いきなり人の心に入ってくるのね。頭が良くて、はっきりした人だわ。
なんだか新笠さんを好きになりそう」と若女。
「わたしもかな」とアヤ。
「子供のころに遊んだことがあるのに、わたしのことは完全に忘れているようでした」と弓明が肩を落とした。
そのころ石上乙麻呂は、
十一月十三日。紫香楽の甲賀寺で大仏の
そして翌年の七四五年の正月一日に
安積親王が亡くなって一年も経っていないのに、都は恭仁京から難波京へ、そして紫香楽京へと変わった。
「白壁王。こんな所で寝たら風邪を引きますよ」と
智努王は、天武天皇の子の
白壁王は従四位下の
智努王の父の長皇子の母は、天智天皇の娘の
天武天皇は、天智天皇の娘を四人も妃にしているので、こういう関係は珍しくないが、平城京に移ったときまで生き残っていた天智系と天武系の皇子は数少ない。
天武系の皇子では、
長皇子と志貴皇子は仲が良く、その親しいつきあいは子供の代にも続いていて、智努王の弟の
留守宅に勝手にあがり込んで、うたた寝をしていた白壁王が目を覚まして「ウーン」とノビをした。
「ウチに泊まりにいらしたのでしょう?」と智努王。
「え。ああ、そう。そう。少しのあいだ、お宿を貸していただけませんか」と白壁王。
「あなたは、どうしてだか、わたしに
「はい」と白壁王。
「それとも、なにか食べますか」と智努王。
「はい」
「あなたの従者は泊まるところがあるのですか」
「…忘れてた」
「まったく。従者もウチに泊まりなさい」と智努王。
「ほんとうにありがたい。さすが紫香楽離宮造宮司のお邸は、大きくてしっかりしていますね」と白壁王。
「ここに、もう三年も住んでいますからね。内裏と大極殿と甲賀寺はできましたが、ご覧のとおり街は路も垣もできていません。官人が勤める官庁もまだです。
邸のない官人用に宿泊できる所は造ってありますが、
「ほんとうに、ここが都なのでしょうか」と白壁王。
「そうなってしまいましたね」と智努王。
「官人に与える宅地も、整備されてないのでしょう」
「場所が悪すぎて、どだいムリな話なのです。
わたしは、地方から集められて労働に
「智努王。三年たっても都が完成していないことを、いばっているように聞こえますが」と白壁王。
「ただねえ。都として官人たちが集まってきますと、せかす者もいるでしょう。
役夫に心ない言葉を投げる者もでてきます。それが心配でしてねえ」と智努王。
「でも帝は、ここに何度も行幸されて
「行幸のときについてくる上位の官人は、帝のそばにいるだけです。内裏と大極殿と甲賀寺と貴族向けの宿泊所と、それぞれの
でも都となると、すべての官人がやってきます。すぐに官庁を造れとか、早く宅地を分譲しろとか…」
「と、智努王。あなたが、せっつかれるのでしょう」と白壁王。
「直接、わたしに言えるのは
「そんなものでしょうね。とりあえず、わたしは、しばらく
「そうなさい。邸を造るにも十分な宅地がありません。そのうち息子たちや弟の
大市が落ちこんでいるので、あなたがいてくれると、ちょうど良い」と智努王。
「落ちこんでいるって、大市王に、なにかあったのですか」と白壁王。
智努王の弟の大市王は四十一歳。去年の
「安積親王の死がこたえたままです。まだ根を張るまえの若木が倒されるのは哀しいことですから」と智努王。
「やはり、ご病気ではなかったのでしょうか」
「わかりません。大市が言いますには、そばにいた親王の舎人たちが、ひどく動揺していたそうです。安積親王を一番よく知っている舎人たちが、親王の死を受けとめられなかったようすを見て、大市もなにかを感じたのでしょう。
安積親王の死に不審があれば、これから先の
まあ、大市がきたら、はげましてやってください」と智努王。
紫香楽が都になって四か月が過ぎた閏四月一日から、ひんぱんに山火事がおこりはじめた。四月十三日には宮城のそばで火災がおこった。山火事は五月を過ぎても
四月十五日に、聖武天皇は伊豆に流刑にしていた娘婿の
五月六日に、天皇は紫香楽をでて恭仁に戻るが、そのあとで紫香楽は留守官も労働者も逃げだして無人になってしまう。五月七日に天皇が
五月十日の早朝から、恭仁京の
庶民の移動がはじまったのを知った聖武天皇は、五月十一日に平城京に戻り、母親の宮子
恭仁京をつくるための資材にするために、内裏や
莫大な国費と四年の歳月をかけて造営した恭仁京と紫香楽京は、最初の山火事から一か月と十日で自然崩壊してしまった。
そして八月二十八日に、今度は急に聖武天皇が、平城京をでて難波宮に行幸する。
九月十九日には
このころの聖武天皇は体調がひどく悪かった。
宗教国家を造れば人の心も穏やかになり、国も豊かになると信じて
だから自信喪失、
大伴家持は一年七カ月近く内舎人として、聖武天皇のそばに仕えている。
つい十五日前に、安積親王が亡くなってから公の場に顔をださなくなった鈴鹿王が死去している。そして、今、二世王を集めてながめている聖武天皇は、
家持は、紫香楽が帝都になったときに従五位上を
集められた二世王たちを遠くから見るともなく眺めていた家持は、すみの方にのんびりと座っている
なにもかもが不安定に移り変わってゆく。
…安積親王の文使い。ナデシコの宴。恭仁の都。その都を行きかう官人たち。すべてが
聖武天皇の憔悴の深さと二世王が集められたことから、官人たちのあいだでは阿部皇太子の後継者はだれだろうかという話題が、しきりに持ち上がることになった。仲の良い人が集まると、その話題になる。
正五位上で二十四歳になる
二世王の中では、天武天皇と天智天皇の娘の
新田部親王と舎人親王は亡くなったのが遅く、聖武天皇が皇太子だったころに補佐役をしていたから官人たちの記憶にも残っている。
九月二十六日に、聖武天皇は難波宮から平城京に戻った。平城京を都とするという詔勅はでていないが、このときが帝都としての平城京の再開だろう。
その一か月後に、聖武天皇は
罪を問うてはいないが、あつかいは流刑される罪人とおなじだ。玄昉は翌年の六月に筑紫で亡くなった。
玄昉が亡くなってから、藤原
聖武天皇の母の宮子皇太夫人が、玄昉の子を密かに生んで寺に預けて出家させたという噂だ。その子も特定されているが、玄昉の帰国よりまえに生まれているので作り話だ。ただ急に難波宮へ移った聖武天皇が、帰ってきて命じたので噂の元となる玄昉の
玄昉は
七四六年の三月七日。小さな
祥瑞は、天皇の
「これ、ただの奇形じゃありませんか」と
「でも、あの首や
「まあ亀と言えなくもないですが、小さいし、ちょっと細長い変な形ですよ」と尾張王。
「小さくて変なのは自然のものだからでしょう。目が赤い白亀は祥瑞です。
ちがっていたときの責任はとりますから、わたしに上奏させてください」と乙麻呂。
「祥瑞! 奇形のものは育てにくいと聞きます。
手元において死んでしまったら大変だ。すぐに、これをひき取って育ててもらえますか」と尾張王。
「はい。お預かりいたします。これで帝が少しでも元気になられるとよいのですが」と乙麻呂が言った。
二年つづきの
気をとりなおした天皇は、国分寺と国分尼寺の仏像の制作のための寄付を全国に呼びかけた。
長屋王がはじめた
そのために都の周辺にも田舎にも、開拓した広い田畑をもつ
聖武天皇は紫香楽の甲賀寺に建てた盧舎那仏(大仏)の
寄付の見返りに
少しのあいだ宮内
都を離れるまえに、二十七歳の家持は恭仁を訪ねた。わずか一年半前まで、恭仁京には人が住みくらし
四月二十二日の叙位で白壁王は従四位上に、藤原宿奈麻呂は従五位下になる。
そして九月十四日に、三十歳になった宿奈麻呂も
「ほんとうに女官に復職するつもりですか。若女さん」と宿奈麻呂。
「いまの世は、先が分かりません。わたしが出仕して、少しでも情報を得られるようにしておくのが、式家のためになると思います」と三十四歳になった若女が言う。
「わたしが上総に行っているあいだの、弟たちが心配です」と宿奈麻呂。
「
立派に育っています。
あとのことはアヤさんと小虫とヒナ女と弓明がいれば安心です」と若女。
「兄上。わたしも、こちらに帰ってきます。若女さんも、ときどきは帰ってきてくれますよね」と田麻呂。
「わたしの家族が暮らす家ですから、ここしか戻るところはありません。休みがとれるたびに戻ってきます。
それより宿奈麻呂さん。五人の娘たちから目を離さないように。すこしでも目を離すとなにが起こるか分かりません。道中、怪我をさせないように気をつけてくださいよ。水も変わりますからね」と若女。
「お二人の夫人を同伴なさって、上手くやれるのでしょうかねえ」とヒナ
この年、一人の女性が平城京に帰ってきていた。
天武天皇の時代から、伊勢神宮に天皇一代につき皇女一人が斎王として赴任して、身内に不幸があったときか、天皇の交代のときに退官することになっていた。
井上斎王は弟の安積親王が亡くなったときに解任されていたが、そのあと都が定まらない時期があったので伊勢に留まっていた。この年に新しい斎王が
井上内親王は安部皇太子より一歳上で、
歴代の斎王のなかでも井上内親王の任期は長く、この人が斎王をしていたときに伊勢斎宮は新しく都のような形に造り直された。
父の聖武天皇がしたことだが、恭仁京も紫香楽京も自然崩壊の道をたどるなかで、聖武天皇が目にすることがなかった伊勢斎宮だけは、改修をくわえながら原型をとどめて残ってゆく。
つぎの七四七年一月二十日に、井上内親王は二品を叙位された。
井上内親王は、この年の誕生日で三十歳になる。結婚適齢期は初潮がはじまってから二年ほどすぎて、
四歳から斎王として伊勢大神に仕えて世間との接触がなく、適齢期をかなりすぎた井上内親王の婚姻を聖武天皇は進めた。その
すでに白壁王には複数の夫人がいて子供もいたが、一夫多妻では高位にいる妻が正妻になり、正妻の息子が
白壁王は、井上内親王の婿の資格を満たしていた。年も三十八歳で、つりあいが良い。散位だが従四位上で天智天皇の二世王だ。聖武天皇の三女の不破内親王の夫の塩焼王は、正四位下で天武天皇の二世王。位階は塩焼王が一級だけ上だが、そのうち叙位すれば問題ない。
それに、なんといっても白壁王は大仏の
白壁王は、天皇の命で井上内親王という高貴な妻をもつ身になった。
七四八年の四月二十一日に、
翌年の七四九年の二月二日には、民を愛し、民に愛された
二人とも仏教国家をつくろうとする聖武天皇を支えてきた人だ。
行基が亡くなった二十日後の二月二十二日に、従五位上の
これこそが、ほんとうの祥瑞で、行基の祈りをきいた天の助けだろう。
四月一日に、聖武天皇は東大寺(元の金鐘寺)に行幸して、光明皇后と阿部皇太子と一緒に大仏に
天皇のうしろには
最初に
居並ぶ官人のなかに、藤原一族の最年長者で
このあと黄金がでた祝いの叙位があり、四十五歳の豊成が従二位になり長いあいだ空席だった
大仏完成の
七月二日、聖武天皇は阿部皇太子に皇位を譲った。
即位した三十一歳の阿部皇太子は、
しかし天皇が
孝謙天皇は儀式をとりおこなったり日常的な政務はできるが、天皇玉璽をつかう詔勅は光明皇太后の許可を必要とする保護者つきの天皇になった。
聖武天皇と光明皇后は、孝謙天皇に全権を渡すことに不安があったのだろう。
孝謙天皇は即位した日に、
このときに叙位や任官をされた人は二十余人ほどいるが、ここに名をあげた人たちは互いに仲が良く、孝謙天皇が期待した官人たちで、のちに登場してくる。
孝謙天皇の即位から一月後の八月十日に、いままでの
それから一月後の九月七日に、この柴微中台の官位が発表された。
長官の
ほかの
このとき正三位以上をもつ人は、左大臣の橘諸兄が正一位、右大臣の藤原豊成が従二位、大納言兼任で柴微令になった正三位の藤原
構成する官人の地位の高さから、紫微中台は八省より上にあり、左右大臣がまとめる太政官府と同じの力をもつことになる。
それまでの皇后宮識は八省の中の中務省の管轄下におかれていたから、改名と任官というトリックを使って、光明皇后の元に太政官府と同等の力を持った役所が誕生した。
詔をだしたのは孝謙天皇だが、詔をだすときにつかう玉璽(内印)を使わせたのは光明皇太后だ。
光明皇太后は
柴微中台ができてから、だれが孝謙天皇の皇太子になるのかという話題が白熱した。
二世王の中で位階が高いのは、舎人親王の子で正三位で中務卿の三原王だった。三原王が皇太子になって、早く孝謙天皇から譲位されれば問題はなかった。
二十八歳の若い参議の橘奈良麻呂のもとに集まる官人たちも、奇妙な体制を
「神であるわれは、
十二月二十七日に、
自分の即位を祝うような神託に孝謙天皇は大喜びして、天皇が使う紫色の
神託はトランス状態に入った
聖武天皇の治世ではほとんどなかった
そして三十一歳の孝謙天皇は祥瑞や神託が大好きな、だまされやすい天皇だった。
和新笠
‖―――――――山部王
天智天皇――志貴皇子―――――白壁王
‖
井上内親王(伊勢斎王 聖武天皇長女)
県犬養広刀自 不破内親王(夫・塩焼王 聖武天皇三女)
‖――――――――――――安積親王(聖武天皇皇子)
聖武天皇
‖――――――――――――孝謙天皇(阿部皇太子 聖武天皇次女)
光明皇后
天智天皇――志貴皇子―――――白壁王
大江皇女(天智娘)坂合部女王(志貴娘)
‖ ‖
‖―――――――大市王(弟)
天武天皇――長皇子 智努王(兄)
大伴旅人―――――大伴家持(安曇親王・内舎人)
佐伯人足―――――佐伯今毛人(聖武天皇・内舎人)
天武天皇――新田部親王――――塩焼王
舎人親王 ‖
不破内親王
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