二  恭仁京の流れ星  安積親王の死 


七四二年(天平てんぴょう十四年)から七四九年(天平勝宝しょうほう元年)  


七四二年、秋八月十日。

十歳になった雄田麻呂おだまろと八歳の蔵下麻呂くらじまろと五歳の種継たねつぐが、仮校舎のような恭仁京くにきょうの大学の前にいた。

陰位おんいで叙位されて登庁する貴族の子は、成人してから二十歳までは大学に通う決まりがあって、人より早く十三歳で成人した石上いそのかみ宅嗣のやかつぐが大学に通っていると聞いて、出てくるのを待っている。

しばらくすると宅嗣が門を出てきた。待ちかまえていた三人が宅嗣をかこむ。五歳の種継が宅嗣の袖をにぎった。


二年前の九月に「広嗣ひろつぐの乱」が起こって藤原式家が謹慎きんしんしてから雄田麻呂たちは宅嗣に会っていない。

遷都のときは、前の都で住んでいたところと同じような場所に宅地が与えられる。だが当主が流刑中だった石上家は、式家から離れて遠くに移ってしまった。だから、この二年間、藤原式家と石上家は連絡がとだえたままだった。

成人してかんむりを被った宅嗣の姿に、雄田麻呂たちは目をみはった。

きれいな子供だったが、いまは美しい少年になっている。

雄田麻呂を見ると、宅嗣は種継の手を振りほどいて深々と頭をさげた。十三歳と十歳。宅嗣の父の乙麻呂と、雄田麻呂の母の若女わくめのあいだに何があったのか、強姦罪のほうは良く分からなくても暴行罪なら理解している。

ちょうど文箱ふばこをもって大学の門を入ろうとしていた若い内舎人うとねりが、その様子を見て足を止めた。

「宅嗣さん。そういうのはやめてください」と雄田麻呂。

「会いたかったよ。宅嗣兄さん」と蔵下麻呂。

「でも、わたしは…ここで失礼します」ともう一度、宅嗣が深く頭をさげる。

宿奈麻呂すくなまろ兄さんが、その角で待っているので、いっしょに来てください」と雄田麻呂。

「もう知っているのでしょう?」と宅嗣が雄田麻呂の顔を見た。

「母の身に起こったことなら知っているけれど、それは宅嗣さんには関係がないでしょう。宅嗣さんは生まれたときから宿奈麻呂兄さんと、兄弟のようにくらしてきたのでしょう?」と雄田麻呂。

「わたしは父の息子で、父の罪はわたしの罪です」と宅嗣。

「そんなことを言わないで、ちょっとだけ来てよ。宿奈麻呂兄さんが会いたがっている」と雄田麻呂。

人目を気にして小路の角で待っていた宿奈麻呂が、ようすをみて寄ってきた。

「宅嗣。大きくなったなあ」と宿奈麻呂。

「ご無沙汰しています」と宅嗣。

「なんだ。その、よそよそしい態度は!

どうしているか気になっていたが、こっちも色々ありすぎて、おまえの家を訪ねるわけにも行かず、わたしはふみを書くガラでもないし、元気そうでよかった」と宿奈麻呂。

「宿奈麻呂さんも、お元気でなによりです」と宅嗣。

「どうした。宅嗣? 人が変わってしまったのか」と宿奈麻呂。

「いまも雄田麻呂さんに言っていたのですが、父の罪はわたしの罪です。儒教じゅきょうは、親に孝行して仕えるようにと説いています。だから、わたしは、式家の方には顔向けができませんから・・・」と宅嗣が言葉につまってうつむいた。

尊敬できる親なら孝行もできるが、そうでない親にも孝行をしなければいけないのだろうかという思いがある。若女に怪我をさせた父の気持ちなど、宅嗣は理解できない。

「わたしが十代のころは、蔭位の子が大学に通う義務がゆるんでいた。

だから、わたしは大学に行ったことがないし、難しいことは嫌いだから儒教がなんだか分からない。

だがな、宅嗣。その儒教が正しいものなら、子供のおまえが理解できるほどカンタンなものではないと思うよ。

人は良い面だけでなく悪い面も持っている。親だっておなじだろう。

乙麻呂叔父さんのことは、お前とは関係がない。

それとも、わたしたちが反逆者の家のものだから、おまえはさけようとしているのか」と宿奈麻呂。

「とんでもない。わたしは若女さんや雄田麻呂さんに申し訳なくて、どのように接してよいのか分からなくて・・・式家の方にご迷惑をかけてもうしわけございません」と宅嗣がまた頭を下げる。

「式家の方? 言葉をおぼえたころから、おまえは、わたしのことを兄さんと呼んでいたよな?」と宿奈麻呂。

さっきから大学の門の前で立ち止まって、なりゆきをみていた内舎人が近づいてこようとした。大勢で宅嗣をいじめているように見えたのだろう。

ちょうど通りかかった子連れの貴族が内舎人に話しかけた。知りあいなのか、内舎人は足を止めて言葉を交わしはじめた。

宿奈麻呂は宅嗣の肩をおして、内舎人と離れるために場所を移った。

「わたしは、おまえに距離をとられるのがさびしい。かなしい。

おまえが親のことを気にして人をさけて生きるつもりなら、そんな、おまえを見るたびにグッサとくる」と宿奈麻呂。

「わたしも、かなしいです。

藤原に引きとられて心細そかったときに、田麻呂兄さんと宅嗣さんがやさしくしてくれた。いろんなことを教えてくれた。

宅嗣さんは、わたしのはじめての友達です。

あのときのように、宅嗣さんと色々な話がしたい。

それができないのなら、すごく辛くて胸が痛い。母もおなじ気持ちだと思います」と雄田麻呂。

「式家との、つきあい方なら教えてやる。

おまえは生まれたときから知っている弟同然のイトコだ。

前のように、なんでも話そう。おまえや田麻呂は、頭が良くて考えすぎるから難しいことを言いだす。ときどきはバカになれ。宅嗣」と宿奈麻呂が宅嗣の肩をつかんでさぶった。

それを目にした内舎人が、手に持っていた文箱をふところに入れると駆けだしてきた。そのあとを内舎人と話していた貴族が連れていた小さな男の子が追ってくる。

「石上の若さま。なにか、お困りですか!」と内舎人。

「雄田麻呂! 元気だった?」と走ってきた男の子の方が、いきなり雄田麻呂の体に抱きついたので内舎人がキョトンとする。

「この子、知りあいか?」と宿奈麻呂が、雄田麻呂に聞く。

「?」

「いっしょに太政天皇が都にくるのを見たよネ。雄田麻呂」と体をはなしながら、雄田麻呂の両手をにぎりしめて男の子がいう。

白い上着を着て、髪は天頂てんちょうで結んだポ二―テール。そこに一枝の萩の花をさしている。この髪形をした子は…太政天皇が恭仁京に入られるのを見物していたときに派手な母親と一緒にいた子だと、雄田麻呂も思いだした。

たしかアヤさんが部民かと聞くと、母がちがうと答えた。部民のように「べ」がつく名前・・・伴部ともべ品部しなべ文部ふみべ織部おりべ史部ふひとべ山部やまべ、そうだ・・・やまべ。あいつだ!と困ったような顔で雄田麻呂がうなずく。

「そうか。知りあいか。こんにちは。わたしは藤原宿奈麻呂です」と宿奈麻呂が身を屈めてあいさつをする。

「こんにちは。藤原宿奈麻呂。昨日ね。三笠山みかさやまに登ったの。

今度、雄田麻呂も、いっしょに登ろうね」と言ってから、こんどは宿奈麻呂の手をつかむと、山部が顔をクチャクチャにした笑顔をむける。

「ねえ。宿奈麻呂は、雄田麻呂のお父さん?」

「ジョウダンじゃない。兄です。お兄さん。分かるかな?」と宿奈麻呂も、むりに笑顔を作ってみせた。

「いいなあ。お兄さん、欲しい。決めた。雄田麻呂をお兄さんにする。宿奈麻呂は大きい兄さん。蔵下麻呂は小さい兄さん。種継は弟。

宿奈麻呂。この人、イソノカミのだれ?」と宅嗣をさして山部がきく。

「宅嗣だけど」と宿奈麻呂。

「三笠山に行こうよ。ね。イソナカミノヤカツグ」と山部は宿生麻呂の手をにぎったままで、内舎人を指さした。

「この人、オオトモノヤカモチ。ワカのテンサイ。テンサイって、なんのこと?」

「エーッと…何のことかなァ? どんな話しのなかで使ったのかな?」と宿奈麻呂。

「あっ! 伯父上が呼んでるから行くよ。

また会おうね。雄田麻呂兄さん。約束だよ」と山部はニコニコ笑いかけると、連れの貴族のところに戻っていった。

「やけに人懐こくて、おしゃべりだ。雄田麻呂。どこの子だ?」と宿奈麻呂。

「太政天皇が入京なさるのを見に行ったときに、タマタマとなりにいただけだよ。

それなのに、わたしたちの顔と名をおぼえていた」と雄田麻呂。

「かないませんね。山部王やまべおうには」と和歌の天才の大伴おおともの家持やかもちと紹介された内舎人が言った。

舎人とねりは、天皇の身近に仕えるボディガードで雑用係だ。左右の舎人りょうに八百人ずつ、計千六百人の舎人がいる。その中から皇族の身近に仕える九十人の内舎人うとねりが選ばれる。内舎人は天皇、太政天皇、皇后、皇太子、皇太夫人、親王、内親王に割り当てられて仕えている。

「王?」と雄田麻呂。

「山部王?」と宿奈麻呂雄。

王は皇嗣系に与えられる称号だが、王と名乗る人は大勢いる。

天皇の息子は親王しんのう娘は内親王ないしんのうで、孫からをおう女王にょうおうと呼ぶ。孫は二世王、曾孫ひまごは三世王・・・五世王までが朝廷から援助費がでて、六世王までが王と名乗ることができる。

「一緒におられたのは湯原王ゆはらおうで和歌を良くなさいますので、わたしもお目にかかる機会があり親しくさせていただいています。しかし山部王とは、たったいま、そこで、お会いしたばかりです」と二十三歳の大友家持。

「そうなのですか」と雄田麻呂。

「さきほど湯原王が、山部王に和歌の天才と紹介してくださいました。それれを覚えられたのでしょう。和歌はたしなみますが天才などと恐れ多い。ただの未熟者です」

「山部王は、湯原王のお子なのですか」と宅嗣。

「いいえ。さきほどのお話では、山部王は湯原王の弟君の白壁王しらかべおうのお子だそうです。お二人とも志貴皇子しきおうじのお子さまで、そういえば志貴皇子は、萩の季節に春日かすがのみやで亡くなられて、三笠山で荼毘だびにされたとか。皇子をしのぶすばらしい挽歌ばんか(亡き人に送る歌)が残されております。

きっと昨日が、ご命日だったのですね」と家持。

「志貴皇子って、どの天皇のお血筋ですか」と雄田麻呂。

「むかしは親王しんのうのことを皇子おうじと呼んだそうです。

志貴皇子は、天智てんじ天皇の親王です」と家持。

「えっ。あの天智天皇の。じゃあ山部王は、天智天皇の…三世王?」と宅嗣。

「はい。ひ孫にあたられます」と家持。

「宅嗣さん。天智天皇とは、どういう方?」と雄田麻呂が聞く。

「そうだな。簡単には説明できないから、あとで田麻呂たまろ兄さんに聞くと良いよ」と宅嗣。

「田麻呂は、いまは明日香村あすかむらの山の中にある小屋に住んで、本ばかり読んでいる。

だから宅嗣。おまえが教えてやってくれ。わたしにはムリだ」と宿奈麻呂。

「家持さん。山部王は、おいくつか、ご存知ですか」と宅嗣が聞く。

「さっき湯原王が、痘瘡とうそうで多くの方々が亡くなられた年に生まれた、運の強いオイだとおっしゃっていました」と家持。

「種継とおなじ歳だ」と宅嗣が、蔵下麻呂の肩に乗ってせみろうしている種継を見た。

「まだ五歳か。それにしては口が達者だよね。記憶力は、ばつぐんだ」と雄田麻呂。

「あまえのことを気に入っているようだ。今度会ったら遊んでやれよな。雄田麻呂兄さん」と宅嗣。

子供たちのようすを見ていた家持が、ホッとした優しい目をした。

「それでは、わたしは失礼します」と家持は懐から文箱をだして、大学の方に戻っていった。

いまの大学だいがくのかみは、右大臣のたちばなの諸兄もろえ嫡男ちゃくなんで従五位上のたちばなの奈良麻呂ならまろだ。父親が現役の大臣だから二十一歳で役職についているのだが、縁故えんこ出世をしただけの能無しではない。

「宅嗣は、大伴家持さんを知っていたのか?」と宿奈麻呂が聞いた。

「うん。うちは都の東北のすみに宅地をもらって住んでいる。

そこが大伴一族の邸と近いんだよ。父も和歌をむから、父が戻ってからは、家持さんが叔母さんの使いだといって見舞いにきてくれる。

だれもたずねてこないけど、家持さんだけは和歌と土産を持って顔をだしてくれる」と宅嗣。

「フーン。それで、おまえのことを気にしてくれたのか。

宅嗣。ウチに寄ってくれるよな」と宿奈麻呂。

「なぜかバラケちゃった。行くよ。兄さん。

父も変わった。家のものに口うるさくすることがなくなって、わたしのことも詮索せんさくしたり制限したりしなくなった。父も家で本ばかり読んでいる」と一緒に歩きながら宅嗣がつぶやく。

「ウチだっておなじだよ。たまに南家の豊成とよなりさんが来てくれるけれど、ウチなんか反逆者の家族で、わたしや田麻呂は流刑から戻ってきた前科者だからなあ」と歩きながら、宿奈麻呂が宅嗣の肩に腕をまわした。

「田麻呂兄さんにも会いたいな」と宅嗣。

「おまえたち子供だけなら、明日香村に行く許可も下りるだろう。おおのの小虫こむしに連れて行ってもらえば良い」と宿奈麻呂。

「田麻呂兄さんのところには本があるのでしょう。日本書紀にほんしょきもあるかな」と宅嗣。

「家にあるのは移したから、たぶん、あるだろう」と宿奈麻呂。

編纂へんさんが終わって大学の教科書につかわれている日本書紀について、宅嗣は田麻呂と話をしたくなった。雄田麻呂にも教えて意見を聞いてみたい。

父のせいで後ろめたい気持ちを抱きつづけている宅嗣を、ゾクッとさせる天皇が日本書紀の中にでてくるからだ。それが山部王の曾祖父になる天智天皇だ。

善悪とはなにだろう。人とはなにだろう。清濁せいだくをあわせ飲むという言葉があるが、人には善と悪とが同時に存在しているのだろうか。その人が治めるまつりごととはなにだろう。理想や正義だけではなく、策略や謀殺ぼうさつも必要なのかと考えさせられる天皇だ。

ほかの子と話せないことも、田麻呂や雄田麻呂とは心置きなく話合えた。そんな子供時代を宅嗣は過ごしてきた。

赤とんぼが群れをつくって、宿奈麻呂たちの頭上をかすめて飛んでいった。



八月十一日。

聖武しょうむ天皇は近江おうみのくに(滋賀県)にある紫香楽しがらき村に行幸ぎょうこうして紫香楽離宮りきゅうを造るとみことのりをだし、恭仁京の造宮そうぐうのかみ智努王ちぬおうに、紫香楽離宮をつくるようにと命じた。

まだ遷都してから一年八か月で恭仁京は未完成だ。それなのに、その造宮卿を紫香楽村にうつして離宮を造らせるという。

恭仁も百姓家が何十軒かあるだけだったが、それでも貴族の別荘地だった。

紫香楽村は、もっと田舎で少しの村人とタヌキしかいない。



右大臣の橘諸兄はナデシコの花が好きだ。

平城京の邸も恭仁京の邸も、庭一面にナデシコを植えて花の季節にナデシコのうたげをひらく。今年も十月十八日に宴をひらいた。

痘瘡が流行して重職にいた者が次々に死亡してしまったあとで、長屋王の弟の鈴鹿王すずかおう太政官だじょうかんになり、橘諸兄は右大臣になった。そのときは二人は同じ正三位で、痘瘡のあとの臣下の最高位にいた。

ただ鈴鹿王には「長屋王の変」のときに藤原四兄弟と手を結んで、兄の一家を見殺しにしたという噂がつきまとっている。そのためか、あるいは本人に能力がなかったからか、鈴鹿王は正三位のままで留守官はするが、大政官をまとめる力がない知太政官事だ。

いつも聖武天皇と行動をともにしている右大臣の橘諸兄は正二位にまで昇位しょういした。五十八歳になる諸兄は官僚かんりょうの最高位にいる年長者で人柄も良いが、政治家としての力量があるとは本人も思っていない。


熱心な仏教徒である諸兄が右大臣になってから、いままでよりも聖武天皇は仏教に熱中しだした。

藤原氏の権勢欲から起こった長屋王家の悲劇や、多くの人が亡くなった疫病の流行を体験して、聖武天皇は自分の無力さを身にしみて感じている。だから全国に国分寺こくぶじと国分尼寺にじを作り、恭仁京に遷都して、さらに紫香楽離宮を作ろうとしている。

聖武天皇が目指しているのは、争いや災いがおこらないことを祈る宗教国家だった。ただ、そのための急な遷都で民は動揺しているが、諸兄は聖武天皇をいさめもせずにいる。祈りにしか活路かつろを見いだせない聖武天皇の心を重んじたからだ。

言いなりになる諸兄を、ふがいないと思っている人たちがいるのも知っているが、これが限界だった。


諸兄は出世欲や権勢欲があったわけでなく、平凡で平穏無事なくらしを望んでいた。ただ痘瘡で高官が多く亡くなったときに、生き残った壮年の太政官が諸兄だけだったから右大臣になった。

橘諸兄の父は美努王みぬおうと言う。祖父は天智天皇から天武てんむ天皇に移るときのとう新羅しらぎへの対応が大変な時代に、交渉にあたった筑前ちくぜんのかみ栗隈王くりすまおうだ。諸兄も臣籍降下しんせきこうかするまでは葛木王かつらぎおうと名乗っていた。

問題は諸兄の母のあがた犬養いぬかいたちばなの三千代みちよにある。

母の美千代は、県犬養氏のうじに橘を加えてもらえるほど、持統じとう天皇や元明げんめい天皇から信頼された女官だった。

美千代は美努王とのあいだに諸兄や佐為さいらの子をもうけ、そのあとで藤原不比等ふひとの妻になって光明こうみょう皇后こうごうをもうけた。

だから諸兄と光明皇后は異父兄妹になる。

出身が皇嗣系で、母の三千代は元正げんしょう太上天皇にも信用されており、光明皇后の異父兄で、聖武天皇の唯一の息子である安積あさか親王の母のあがた犬養いぬかいの広刀自ひろとじの親族にもなる。

自分の権勢欲を満たすために生きる野心家なら、皇族をあやつれるポストだと喜ぶだろうが、信心深い諸兄にとっては身を削る立場に生きている。


聖武天皇にとって、元正太上天皇は皇位を守って譲ってくれた先帝で、血のつながる叔母であり、教え導いてくれた育ての親でもある。

光明皇后は妻であり、実母の妹でもあるから叔母にもなり、同じ年に生まれた幼友達だ。

広刀自夫人は、はじめて好きになった人で、安積あさか親王の上に二人の娘もいる。

しかし元正太上天皇は、長屋王の妻だった同母の妹とオイたちを藤原四兄弟に殺されているから、光明皇后と藤原一族が嫌いだ。

光明皇后は、息子のもとい皇太子を広刀自夫人に呪い殺されたと信じているから、広刀自と、その息子の安積親王が憎い。

これが普通の家族なら一緒に食卓を囲めない関係だが、すべてが大切な家族と思い、だれも憎んでいない聖武天皇が真ん中にいる。さいわい全員が信心深いから、家族が語り合えて理解できるのが仏教のことだけだった。

諸兄は宗教国家をつくろうとする聖武天皇を、ただ見守ることしかできない。


いま諸兄が抱えている難題は、痘瘡流行の直後に、聖武天皇が光明皇后の娘の阿部あべ内親王ないしんのうを皇太子にしてしまったことを、なんとかすることだった。

元正太上天皇は、成人する年になった安積親王を皇太子にたてて、阿部皇太子を廃することを望んでいる。聖武天皇も賛成なのだが、光明皇后を説得できるほどではない。

聖武天皇が阿部皇太子を立てたときは、太政官の過半数が亡くなって不在だった。

諸兄が右大臣になったのも太政官が補填ほてんされたのも、阿部皇太子が立坊した日と同じ日だから、止める人は誰もいなかった。

しかし、これまでの女帝は生まれながらの皇女で、天皇か大王おおきみ正妃せいひだった。既婚女性だから自分の息子や孫息子という皇位を譲る日嗣ひつぎ御子みこがいた。元正太上天皇だけが未婚の女帝だが、自分が育てた血のつながるオイの聖武天皇に皇位を渡すための即位だった。

阿部皇太子は初めての女性の皇太子で、即位してしまったら人臣の上に女帝として君臨する。阿部皇太子が皇位を渡す相手は弟の安積親王だが、はたして、この異母弟に皇位を譲るかどうか分からない。

なにしろ安積親王を日嗣の御子にしないために、藤原四兄弟は長屋王を殺して妹を皇后にした。阿部皇太子は藤原四兄弟の妹の光明皇后が母で、四兄弟の姉妹の宮子と文武天皇のあいだに生まれた聖武天皇が父だ。皇族の血は四分の一だけで、四分の三は藤原氏の血が流れている。

もともと仇敵のような立場の阿部皇太子と安積皇子は異母姉弟といっても、ほとんど面識がないから情もないだろう。

元正太上天皇や聖武天皇が元気なうちに、皇太子を変えたほうが後の世が乱れないと諸兄も思う。思うけれど手が出せない。


しかし同じ母から生まれた異父妹でも、藤原不比等を父にもつ光明皇后は肝がすわっている。

長屋王の邸で、長屋王と正妻の吉備内親王きびないしんのうと、二人のあいだに生まれた十代の膳夫かしわでおう葛木かつらぎおう鈎取かじとりおうと、石川夫人の子で十歳未満の幼い桑田王くわたおうの六人が首を吊されて亡くなった。

その邸をとりこわして、その上に皇后宮こうごうぐうを建て、そこに光明皇后は二十九歳から住んでいた。そんな恨みが染みついている不気味なわけありの土地に、諸兄なら住む勇気がない。

阿部皇太子の件もそうだ。大勢の人が亡くなった太政官不在のときを狙って、よくも娘の立太子を聖武天皇から取りつけたものだ。人の不幸につけ込んだだけではない。光明皇后も、四人の兄を亡くした直後だった。

豪胆とほめて良いのか、冷淡と怖れて良いのか、光明皇后を説得するのは諸兄もためらう。


ナデシコの宴は親しい人を招いて小規模にしていたのだが、右大臣になってからは招待客の人選がむずかしくなった。家族と相談して決めているが、最近では息子の奈良麻呂が若い人を招き規模も大きくなってしまった。

「そろそろ、お集りです」と奈良麻呂が呼びにきた。

「経をあげたらいく」と諸兄は香をつまんで燃した。

「父上。塩焼王しおやきおうのことを帝に告げたのは、どなたか知っておられますか?」と奈良麻呂が聞いた。

まじめで良くできた息子なのだが、諸兄は答えずに数珠じゅずを手にして仏前にむかいチンとりんを鳴らして経をあげはじめた。


安積あさか親王の使いがきております」と諸兄の部屋からでてきた奈良麻呂に、使用人が伝える。

「どなただ」と奈良麻呂。

「大伴家持さまです」

「会おう。わたしの部屋へよんでくれ」

奈良麻呂の部屋に通された大伴家持が、文箱をささげた。

「やはり、ご欠席ですか」と文を読んだ奈良麻呂。

「楽しみにしておられましたが」と家持。

今年のナデシコの宴に、奈良麻呂は安積親王をさそってみた。そのために九月の半ばごろからふみのやりとりを交わしていた。安積親王の内舎人の大伴家持が、いつも文使ふみつかいをしている。

「どうしておられます」と奈良麻呂。

「お変わりはございません」と家持。

橘奈良麻呂は二十一歳で従五位下の大学頭で、大伴家持は二十三歳で従六位上の内舎人だ。

橘氏は諸兄から始まる新しい氏族だが、大伴氏は古くから大王に仕えてきた古代豪族系の官人だ。大伴氏は途切れそうになった大王の血統を、継体けいたい天皇を擁立して守り、いまも多くの眷属けんぞくをかかえる武人系の名門だった。

家持の父は大伴氏をまとめる氏長者うじのちょうじゃ(氏族のおさ)で、歌人として名高い大伴旅人たびとだが、十二年前に亡くなっている。そのとき家持は十一歳だったので、旅人の直系も苦しい状況におかれた。

氏族をまとめる氏長者は世襲せしゅうとはかぎらず、そのとき一族の中で最高位にいる者がつぐ。いまの大伴氏では平城京の留守官をしている親戚筋の大伴牛養うしかいが従四位上で一族に対しての影響力も強い。

父の旅人の異母妹に、大伴坂上さかのうえの郎女いらつめという家持の叔母になる女性がいる。

坂上郎女と呼ぶのは、平城京で彼女が住んでいる邸が、北東から都の中心を流れる佐保川さほがわのそばの坂の上にあるからで、一族が呼びならして通称となった。

女性は自分の本名を明かさないで、通称で呼ばれることが多い。

若女わくめ郎女いらつめじょうは固有名詞ではなく娘をさす普通名詞で、もう娘と呼ばれる年ではないが、坂上郎女は坂の上の家に住んでる娘という意味だ。

 

この坂上郎女が当代きっての女流歌人で、最初は天武天皇の子の穂積ほずみ皇子おうじの恋人だった。つぎが藤原京家きょうけ始祖しそである藤原麻呂まろの恋人で、どちらとも別れたあとに異母兄の大伴宿奈麻呂すくなまろの妻になった恋多き女でもある。

若い家持に代って大伴一族の財産をしっかりおさえて切り盛りしているのが、いまも平城京の坂の上の家に住んでいる坂上郎女だ。

坂上郎女は、大伴氏の氏長者を牛養うしかいや、ほかの大伴氏にゆずる気などない。夫の宿奈麻呂の娘の大嬢だいじょうが成人したら家持の妻にして、家持を氏長者にするつもりでいる。

大伴氏のような古代豪族は、藤原氏が出てきてから高官になるのがむずかしくなった。そのうえ眷属けんぞくが多い大所帯なので、かえって一丸となりづらい状況にあった。

 

「家持さんは勤めにもどられますか」と奈良麻呂がきいた。

宿直しゅくちょく明けですから家にかえります」と家持。

内舎人は天皇家のボディガードで秘書で雑用係だから、シフトで夜勤や日勤や持ち場が変わる。家持は内舎人になった三年前から安積親王のもとに配属はいぞくされている。

「それなら出席していただけませんか。和歌をんでいただきたいのです」と奈良麻呂。

家持が困った表情をした。右大臣の息子の頼みはことわれないし、和歌を詠めるチャンスを逃して帰ったら、それを聞いた坂上の叔母に、あとで何を言われるか分からない。

しかし安積親王につかえる身だから、今夜は人と接したくない。とくに地位と年齢が高く、相手の気持ちを思いやらない酔っぱらいにからまれたくない。

「和歌のご用があるまで、目立たぬように庭のすみで待たせていただけますなら」と家持は答えた。

奈良麻呂は家持を思いやった。奈良麻呂も聞きたいのだが、内舎人の家持が答えられないのが分かっているのでガマンしている。宴の席で人と交じりたくはないだろう。

「目立たぬところがありますので、そこへ案内させましょう」

家持が、奈良麻呂と目を合わせた。安積親王の使いで四回ほど会っただけだが、横柄おうへいなところがなくて気がきく若者だ。

宴の席として、南にナデシコの庭が見える大きな部屋が用意されていた。垂れ布が張りめぐらされているが、布と部屋の広さがピッタリあっているわけではなく、ぜんを運ぶ使用人が通る西側にスキマがあった。

そこに家持は案内された。開いている南面には障子しょうじをおいて客が立ち入らないように区切ってある。

家持のまえにも小卓しょうたくと椅子が運ばれて、飲み物や食べ物がだされた。奈良麻呂の心配りだろう。


家持は仕事のことは、すべて叔母の坂上郎女に報告している。安積親王がナデシコの宴に招待されて、その文使いをしたことも叔母と会ったときに話している。

「親王さまが和歌を求められたときに困らないように、かわりに何首なんしゅか作っておきなさいよ」

そのとき叔母が言ったのは、それだけだった。

五日前に和歌の修作しゅうさくを持ってくるようにと叔母から使いがきて、五位以下の家持は出入りの制限がないから平城京の坂の上の家までいった。

習作を見せたら「なに? これ! 情けない。どうして、こんな歌を平気で詠めるのか、おまえの気が知れない。ここと、ここ。なおしなさい!」と塗りつぶされた。

「いまになって、どうして」とぼやくと叔母は言った。

「塩焼王のことがあるから、安積親王は欠席さるかもしれない。

もしかして、おまえが親王さまの文使いを頼まれて、もしかして、おまえの和歌を所望されたときのためです。

親王さまは、ご本人に和歌の才がおありなら、ご自分で作られるべきでしょう。

だから代作が必要なときは、ソコソコのもので良いの。

でも、おまえの名で、おまえが詠むときは、ソコソコの歌など和歌で名高い大伴の恥です!」 

武門のほまれと、和歌の名人の両方をおしつけられたら息苦しくなる。だいたい戦うことで大王につかえた大伴氏が和歌で有名になってしまったのは、亡き父の旅人と、この叔母のせいじゃないか! 

武人は感情を捨てて心によろいを着るものだ。歌人は心を裸にして感情をむきだすものだろう。両立させろというのはムリじゃないかと、大伴家持も悩める二十三歳だった。

 

日が暮れてナデシコの花の色もうすれ、垂れ布ごしに聞こえる宴の席のざわめきも増してきた。

「ご安心ください。ここにいるのは右大臣さまのお味方ばかり。みな口がかたく、右大臣さまを、うらぎる者などおりません。さあ右大臣さま。塩焼王が、なにを、とがめられたのか教えてください」と大きな声が宴の席から聞こえる。

坂上の叔母にダメだしされた和歌をなおして、酒を口にしたばかりの家持は、自分に与えられた灯台とうだい(置き照明)を吹き消して垂れ布のすきまから宴席をのぞいてみた。

右大臣の橘諸兄につぐ朝廷の重鎮じゅうちんで知太政官事の鈴鹿王が、諸兄にからんでいる。


六日前の十月十二日に、聖武天皇は三女の不破ふわ内親王の婿むこで、天武てんむ天皇の孫の塩焼王を平城宮のごく監禁かんきんした。そして昨日、塩焼王は伊豆いずのくに三嶋みしまに流刑にされることが決まったが、どんな罪に問われたのかは公表されていない。

塩焼王は、支出が多くなる遷都や国分寺の建設に批判的だから、それを、どこかで口にして、だれかが天皇の耳に入れたのだろう。

塩焼王の亡父の新田部にいたべ親王は、皇太子のときの聖武天皇を補佐していて、そのことに強い誇りを持っている塩焼王は、ときどき大罪である政道批判をする。

仏教国をつくろうとしている聖武天皇と、貴種で仕事もできると娘婿にした塩焼王は、親しく知り合ってみると相性が悪かった。

だけど、すでに処分が決まった人を、酒のさかなにするのは下品だと家持は思う。塩焼王は、家持が仕える安積親王の義兄で強気の発言ができる後ろ盾だから、家持が宴の席にいたら鈴鹿王のような人にからまれていた。

「わたしは、なにも知りません」と静かな声で諸兄が応じている。

日頃の鈴鹿王はおとなしいのだが、酔っ払うと品性が落ちるタチの悪いからみ酒だ。

「右大臣さまは帝と親しく、毎日のように帝にお目にかかっておられる。

わたしなどは、お情けで政庁のスミの席を汚している身ですから、帝にお会いする機会も少なく肝心なことは耳に入りません。

しかし知太政官事ちだじょうかんじとして知らないではすみませんので、こうして伏しておねがいしております」と鈴鹿王。

「今夜は俗事を忘れて酒を酌み交わし、可憐かれんな花をでてひいでた和歌を楽しんでください」と諸兄。

「鈴鹿王。マア、ご一献いっこん」と提銚子さげちょうしをもって藤原南家の豊成とよなりが割って入った。

「いつも弟が、お世話になっております」

豊成は正四位下の兵部ひょうぶのかみで三十八歳になった。いまの藤原氏の最年長者だ。

「これは、豊成さん。おめずらしい。久しくお目にかかっておりませんな。

そういえば仲麻呂さんが、こちらに招かれていないと寂しがっておられましたよ。

アレ、右大臣は? まだ、話が残っています。お戻りください。右大臣!」と鈴鹿王が声を高めたときに、ドスンと大きな音がした。

少し離れたところで、椅子ごとひっくり返った男がいたのだ。招かれていた七十人ほどの貴族や貴族の息子が、会話を止めて音のしたほうを見ている。

「だいじょうぶですか。白壁王しらかべおう」と奈良麻呂が従者じゅうしゃ(使用人)をつれて走りよる。

「イヤ。イヤ。すっかり心地よく船をいでおりましたところ、海に落ちてしまったようで、助けてくださってありがとう。

お若いお方。あなたさまは、どなたさま?」と肩をさすりながら白壁王が床に座る。

「橘奈良麻呂です」

「あれまあ。これは、これは。すっかり大きくなられて。

どれ、ドッコイショ。オオ! 足が立つ。ここは浅瀬あさせですな。

みなさま。ご安心ください。どこも怪我をしておりません。

アレ。アレレ! みなさま。チョッと、こちらに集まってください。ホウレ。月が出ました。なんと、さえざえと美しい月でしょう。

そろそろ良き歌がきけましょうな。ン?……ウグーッ」と白壁王が袖を口元にあてて庭にむかった。

「どうなさいました」と奈良麻呂が追う。

「ちょっと船酔いをしたようで・・・その辺にち・・・ウグッ」と白壁王。

「だれかタライを、早く!」と奈良麻呂が従者に命じる。

「フー、おさまってまいりました。

奈良麻呂さんでございましたね。この月を逃してはいけません。あなたさまは歌の準備をなさいませ。みなさまが、お待ちかねです。

それと・・・どこかで、ウチの従者が待っているはずですので、どなたか、わたしを従者のところに届けていただけませんか」と白壁王。

垂れ布のすき間からのぞいていた家持は、逃げだすのによい機会だと白壁王のそばに飛びだしてひかえた。 

「わたしがお連れします。

奈良麻呂さま。つたない歌ですが、これを」としたためた和歌をさしだす。

「これはうれしい。お若い舎人が、酔いどれ船をいてくれますか」と、白壁王は家持の背中にまわると、両肩にそれぞれの腕をのせて寄りかかった。ハァーっ?と思ったが、なりゆきで家持は白壁王をオンブする羽目はめになってしまった。

「では、みなさま。おさきに。またね~。おげんきで~ェ。楽しんでくださァーイ」と背中の白壁王は気楽に手をふっている。体はきたえているのだが、大人の男の酔っ払いは家持にも重い。

人前で落とさないように案内の橘家の従者のあとを足早に追って、家持は宴席をあとにした。

「そろそろ、おろしてください」

宴席からはなれてしまうと、白壁王が家持の肩をたたいた。

「ごくろうさん。あなたは、どなたかな」と家持の肩をかりて歩きながら、白壁王がきく。

「大伴家持といいます」

「そう。すると、もしかして大伴旅人たびとさんの、ご子息かな」と白壁王。

「はい」

「兄の湯原や、息子の山部から聞きましたよ。

山部はカンの鋭い子でね。和歌の天才の、あなたのことが気に入ったようですな」

ほんとうに吐きそうなぐらい酔いつぶれているのかと、家持が白壁王の顔を見た。

とたんに白壁王が体重をかけて、家持にもたれかかってきた。 

天智天皇の孫になる白壁王は、従四位下で三十三歳だ。白壁王は、まだ職についたことがない貴族で、ずっと散位さんい(無職)でいる。仕事をしたことがないから功績も業績もなく、勤務評価の対象とならない。しかし無類の宴会好きで、宴会があると呼ばれていなくてもヒョイと顔をだす。陽気で楽しい酒なので、来られた方もイヤな顔をしない一種の有名人だ。

散位は仕事しないから収入が少ないが、白壁王は父の志貴皇子が持っていた近江国の鉄穴てっけつ(鉱山))を相続しているので、金にも困っていない。

それでも七歳で父親を亡くし、五歳上の同母の姉の難波なにわ女王にょうおうと二人で暗雲あんうんがたちこめる宮中を、天智系皇族として生きぬいてきた、したたかな苦労人だった。


 

年の暮れから天皇は、紫香楽宮へ行幸して七四三年の元日をすごし、正月二日に恭仁京に帰ってきた。だから正月の行事は一月三日を過ぎてからおこなった。

そして一月十三日に、聖武天皇は「仏教の中興ちゅうこうは、今日にある」というみことのりをだして。自身が仏教の中興のになり、仏教国家をつくろうとしていることを明確にした。

たびたびの行幸も、急な遷都も、国分寺の造営も、すべては仏教国をつくるためだと、はっきりさせたかったのだろう。仏教のもとに平和な国をつくろうとする理想は良いのだが、政治や経済を考える官人には、政務をほったらかして都を留守にしがちな聖武天皇のやりかたは不評だった。 

四月にも聖武天皇は紫香楽宮に行幸をした。聖武天皇が紫香楽に行幸するときは、光明皇后は、いつも恭仁京の皇后宮こうごうぐうにとどまった。


夏四月。皇后宮にも爽やかな風が流れている。

「どうして、わたしが人前で踊る必要があるの!」と阿部皇太子が、母の光明皇后に不満そうな顔を向けた。

「あなたの即位を、太政天皇に認めさせるために必要な手順の一つです」と光明皇后。

「即位ですって。早く即位させるようにと仲麻呂なかまろが勧めたの? お母さまは仲麻呂の言うことなら何でもきくのね。

世間では、宮子おばあさまと玄昉げんぼうの仲をとりざたしているけれど、人を遠ざけて二人だけでコソコソ会っている、お母さまと仲麻呂の方がズッと怪しいわよ!」と阿部皇太子が口をとがらせる。

「おだまり! そのように恥知らずでいやしいことを、だれに聞いたの。

女官にょかん女儒じょじゅたちでしょう。これからは女官たちと私的な話をしてはいけません。分かりましたか」と光明皇后。

「……」

「分かりましたか!」

「じゃあ、わたしは、だれと話せばよいの。

一日中、あれをしろ、これをしろと言われつづけて、わたしには、だれかと話をする自由もないの!」と阿部皇太子。

「そんなヒマがあったら、いまが、どういうときか理解したらどうなの。

この恭仁京への遷都も、紫香楽離宮の造営も、良く思っていない人が大勢いることが、あなたには分からないの。

民が不安をもっているときは、官人の中に徒党を組んで体制をこわそうとする者があらわれます。

太政天皇は、安積親王を皇太子にと望んでおられる。

不満を抱えた者たちが、太上天皇のもとに集まったらどうなると思うの。

母君が藤原氏でも、帝は宮中でお育ちになったから、太上天皇を大切にしておられる。皇太子なんて、帝の一言で代えることができますよ。

塩焼王などは、安積親王を皇太子にしようと同志を集めていた。

だから仲麻呂が、うまく帝をうごかして塩焼王を遠ざけてくれたのです。

藤原一族のなかで、先を読んで思い切った手を打てるのは仲麻呂だけでしょう。

それが、どうして分からないの」と光明皇后。

「お母さまは藤原一族でしょうが、わたしは生まれながらの内親王です」と阿部皇太子。

「藤原氏のわたしがいなければ、あなたは生まれていないでしょう!

藤原の兄たちがいなければ、わたしは皇后になっていません。

あなたが皇太子になることもなかった。わきまえなさい!」と光明皇后。

「わたしが、皇太子になりたかったと思っているの。

だれもかれもが、女のわたしが皇太子になったことを納得していない!

もといが産まれたときのことを、わたしは九歳だったからおぼえているわよ。基の誕生を祝って、それこそ百官が争うようにして邸にやってきた。毎日、毎日が、お祭り騒ぎで、みんなが基を祝福したわ。

一ヶ月の嬰児みどりごを皇太子にしても、反対する者はいなかった。

あのときのわたしの存在は、空気よりうすかった。お母さまも、おじさまたちも、わたしがいることさえ忘れていたのよ。 

二十歳になるまでズッーと、そうだったのよ!

お母さまが子どもを生むのをあきらめて、娘も自分の子だったと気がつくまではね!」と阿部皇太子。

「あなたは体が弱くて、引きつけを起こしてひっくり返るか、食べたものをくか、頭が痛いと寝込んでばかりいたじゃないの」と光明皇后。

「あれほど騒いだ基が一歳になるまえに亡くなってしまって、体が弱くて頭の悪い女のわたしが生きていて、お母さまはくやしいでしょう!」と阿部皇太子。

「くだらない。あなたは皇太子なのに、どの官庁がどんな仕事をしているのかさえ覚えようとしない」と光明皇后。

「子供のころから皇太子になると決められて、育てられたわけではないもの」と阿部皇太子。

「だったら、さらに努力をするべきでしょう。皇太子なら勉学に励みなさい。

いまのあなたに何ができます。官庁の業務も知らないで、太政官が奏上してくる国のできごとが理解できるのですか。何も分からないでしょう。

あなたは、だれかの補佐が必要です。一人では何もできない!

藤原の兄たちが亡くなって、残された息子たちは、まだ若い。

その中では南家の次男の仲麻呂が、一番しっかりしていて受け答えもすばらしい。

仲麻呂は、藤原氏の権力を保とうとしています。

あなたが頼りにできるのは、わたしと仲麻呂だけだと承知なさい。

あなたは、わたしと仲麻呂の言うとおりにしていれば良いのです。

さあ、笑いものにならないように東宮とうぐうに帰って、まい稽古けいこをしていらっしゃい!」

このとき光明皇后は四十二歳。阿部皇太子は二十五歳。光明皇后が可愛がっている藤原仲麻呂は三十七歳だった。

年の差は光明皇后と仲麻呂が五歳差。阿部皇太子と仲麻呂は十二歳差だ。


五月五日。阿部皇太子は、聖武天皇と元正太政天皇のまえで五節ごせちの舞を舞った。

元正太政天皇は喜んで声明をだしたが、そのなかで甥である聖武天皇を「わが子」と呼び、阿部皇太子を皇太子でも内親王でもなく「この王」と呼んで、光明皇后と仲麻呂の警戒レベルを上げさせた。

阿部皇太子が舞った宴のあとで、橘諸兄は左大臣に、鈴鹿王は太政大臣だじょうだいじん律令外りつりょうがいの職)に、石上乙麻呂が従四位上を叙位された。そして乙麻呂と同じ従四位上の藤原仲麻呂は参議さんぎになり、右京うきょう大夫のかみを兼任する。仲麻呂の兄の豊成も昇位して従三位で兵部へいぶのかみと兼任で中納言ちゅうなごんになった。

中納言と参議は太政官でもある。

藤原四兄弟が亡くなって七年。豊成と仲麻呂の二人が太政官になるほど、藤原氏は盛りかえしてきた。若い藤原氏の甥たちを、ここまで引き上げたのが光明皇后だ。

しかし橘諸兄が左大臣になったあとの右大臣は、空席のままで保留された。ふつうは左大臣は空席でもよいが右大臣はかならず置くから、ただごとではない人事だ。


恭仁京と紫香楽離宮の造営と国分寺(官営の寺)の建設で国の経済はゆきづまっていたが、聖武天皇は各地につくる国分寺の総本山となる大官寺だいかんじ廬舎那仏るしゃなぶつ(大仏)を造ろうとしていた。そんな余裕はない。

七月から聖武天皇は、また紫香楽離宮に滞在した。

七月の末に行基ぎょうき法師ほうしが紫香楽にやってきて、大仏を造るために弟子たちに民衆の参加を呼びかけると天皇に奏上した。弟子たちを全国に派遣して、一本の稲でもよいから民の布施ふせを呼びかけ、大仏を造るための費用を集めると約束してくれたのだ。

すでに行基は七十五歳になっていた。小僧こぞうとあざけられ朝廷から迫害されていた壮年のときでさえ一万人をこえる信者を集めた行基は、民衆に大きな影響力をもっている。

行基の参加で力をえた聖武天皇は、十月十五日に廬舎那仏るしゃなぶつ(大仏)造営ぞうえいみことのりをだした。


天皇が恭仁京にもどってきたのは、四か月後の十一月に入ってからだった。

そして十二月の末には、遷都して四年しかたっていない恭仁京は、経費かかるから工事を終わりにするという詔がでる。

聖武天皇は、紫香楽の甲賀寺こうがでらに大仏を造るつもりだった。

天皇は仏教国家を造ろうと着実に動いているのだが、官人や庶民には理解されない。かれらが分かるのは、まだ都が移って四年しかたっていないのに天皇は四ヶ月も都を留守にして、やっと帰ってきたと思ったら都の造営を打ち切って、紫香楽京を造ると決めたことだけだから動揺した。

聖武天皇は政治家に向いていないし経済観念もないが、民のことを思う天皇だったので人々の動揺を気にした。恭仁に二ヶ月だけ落ちついただけで、次の七四四年の一月十五日には難波宮なにわのみや(大阪市中央区法円坂)への行幸ぎょうこうを決める。

そしてうるう一月一日に五位以上の貴族を朝堂ちょうどうに集めて、都にするのは恭仁と難波の、どちらが良いかとアンケートをとる。

天皇は貴族のなかでも三位以上の公卿くぎょうや太政官の意見しか聞かないから、まったく型破りな天皇だ。

結果は、恭仁が百八十一人。難波が百五十三人。もう動くのがイヤで恭仁を選んだ人もいるから、難波の支持の多さがおどろきだ。

さらに閏一月四日には、今度は市人いちびとにアンケートをとる。市人の場合は、平城が一人、難波が一人、のこり全員が恭仁を選んだ。

いち(マーケット)で商いをする人は、めんどうな店の移動を拒否したのだ。このときも選択できる都市の中に平城京は入っていないのに、それに一票を投じた度胸がある市人の答えが、民の本音をしめしていた。


うるう一月十一日。留守官るすかん鈴鹿王すずかおうと藤原仲麻呂なかまろをおいて、恭仁京に戻ってくるつもりで聖武天皇は難波宮に向かって出発した。ちょうど恭仁宮と難波京の中ほどにあたる桜井さくらい(河内郡桜井市)の仮宮かりみやに着くころに、行幸ぎょうこうにしたがっていた安積あさか親王のヒザの痛みがひどくなった。

安積親王は活発な子で、幼いころから蹴鞠けまりが好きだった。十歳のときに左足をひねって転び、それからは長く蹴鞠をすると軸足じくあしになる左のヒザの内側が痛んで熱をもってれてしまう。日常生活には支障ししょうがなく、医師たちも骨が若いから蹴鞠けまりをやめて、体をはげしく動かさずにいれば大人になるころには治るだろうと、そのつど痛止めをせんじて飲ませていた。

いままでに安積親王がした一番長い旅が平城京から恭仁京までの遷都で、そのときもゆれる輿に座りつづけてヒザに痛みがでた。桜井の仮宮は恭仁と難波のなかほどだから、安積親王は恭仁宮に帰って休みたいと天皇にねがいでる。

このとき元正太政天皇げんしょうだじょうてんのうは、医師が同行しているから難波宮に行って休むようにと言ったが、安積親王は十五歳の少年だった。

安積親王の姉の不破内親王ふわないしんおうは、夫の塩焼王しおやきおうが流刑中なので行幸に参加せずに、子供たちと恭仁京にとどまっている。母の広刀自も恭仁宮に残っていたから、母や姉がいる恭仁に帰るほうが良いだろうと聖武天皇が許可をだした。

安積親王は閏一月十一日の夕方に、桜井から恭仁に帰ってきた。内舎人うとねりの大伴家持も供をしている。恭仁宮にもどり内裏のなかの親王の部屋に収まったあとで、まず挨拶にきたのは留守官の鈴鹿王だった。

「お痛みは、いかがでございますか」と鈴鹿王。

「この椅子に座ると楽に感じます」と脚の高い椅子におさまった安積親王が答える。

「わたしも腰痛ようつう持ちでございましてな。

年寄りと同じにしては申しわけございませんが、あの低い木の腰かけに座って、輿で揺られるのが苦痛でございます。もっと座り心地のよい椅子をおける輿をおあつらえなさいませ」と鈴鹿王。

「帝や太政天皇さまをさしおいて、とても、そのようなことはできません」と母のあがた犬養いぬかいの広刀自ひろとじが言う。


広刀自は、聖武天皇の最初の夫人で安積親王の母だ。聖武天皇には、ほかにも夫人がいるが、光明皇后が入内じゅだいしたときに夫人としての務めを辞退した。つまり夫人の待遇はうけても同衾どうきんしないと申し出た。

すでに長女の井上内親王いかみないしんのうをもうけていた広刀自は辞退をせずに、そのあとで三女の不破内親王ふわないしんおう安積親王あさかしんのうをもうけている。光明皇后にとっては目障りだっただろう。

安積親王は元服前げんぷくまえで自分の邸がなく、母のくらす内裏の後宮こうきゅうに部屋を持っている。


あいさつにきたときに机の上においた、唐のものらしい彩色さいしょくされた小さなふたつきの磁器じきを、鈴鹿王が手で少し前におした。

「これは、わたしが常々つねづね、飲んでいる痛み止めの丸薬がんやくです。よろしかったらお試しください。わたしには、よく効きます。

ただ親王さまが常用しておられる薬がございましたら、一緒には飲まないでください。それから一日一錠、夕食あとのお休みまえに一錠だけです。

それ以上は、決してお飲みになりませんように」と鈴鹿王。

そのとき、もう一人の留守官の藤原仲麻呂が来たという知らせがあった。自分の邸から内裏に戻ってきたのだろう。仲麻呂は三十八歳で従四位上の民部卿みんぶのきょう参議さんぎの太政官だ。

すらりとした体形で容姿も整い、衣装もさわやかに着こなしている。仲麻呂が部屋に入ってくるまえに広刀自は姿を消した。

「おそくなりました。女官も女儒も少ししか残っておりません。ご不便がありましたら、すぐに、ご連絡ください。

残っております内膳職ないぜんしきが食事の支度をしております。

お疲れのことと思いますので下がりますが、ご用のときは、いつでもお呼びください」と、にこやかにあいさつをすると仲麻呂は早々に引きあげた。鈴鹿王も食事の支度ができると下がった。


内膳職が用意した食事は、いつもと変わらず、安積親王にも変わりはなかった。食後に出された痛み止めの薬湯やくとうを手にしたとき、安積親王は少し考えてから「この薬湯は痛みを少し和らげてくれるけど、それ以上は効かない」と飲まずにわんをもどした。

「鈴鹿王の薬が効くのなら試してみたい」と安積親王。

「いつもとちがうことは、おやめなさい」と仲麻呂が帰ったあとで、部屋に戻った広刀自が止める。

「母上は、なんでも疑われます。そうやって世間をせまくしておられる」と安積親王。

「親王さまは人のみにくさや怖さが、まだ分かっておられません」と広刀自。

「母上が鬼のように恐れる藤原氏の、北家の八束やつかさんの邸に招かれて、遅くなったからと泊ったことがあったでしょう。あのときは、とても楽しかった。

それに、わたしは食われもせずに、八束さんの邸から帰ってきました。

藤原氏も鬼ではなく、ふつうの人ですよ」と安積親王。

「わたしは親王さまが、長く健康にくらされることだけをねがっています。

それだけです。だから気を許してはなりません」と広刀自。

「母上は心配症なのです。それに、その薬は知太政大臣の常備薬でしょう。

長屋王家は、わたしが生まれたからほろぼされたと聞いています。鈴鹿王は長屋王家で生き残った方です。その方が、わたしを心配してくださったのです。

そこまで疑っていたら信じられる人がいなくなります。

人を疑うばかりでは辛い。わたしは人を信じたいのです。鈴鹿王の薬を試してみます。家持。取ってください」と安積親王。

「はッ」と棚においた蓋つきの小さな器をとってきた家持が、「毒見どくみをさせてください」と言う。

「毒見?」と安積親王。

「それが内舎人うとねりのつとめです」と家持。

「まあ、良かった。おねがい。家持。飲んでみて」と広刀自が、ホッとしたような声をだす。

蓋を開けると生薬しょうやくの独特のにおいが鼻にくる。器のなかには飲みやすい小指の先ほどの大きさの黒い丸薬が入っていた。

「出して一粒づつ調べてみましょう」と家持がいうと、「そこまでしなくてもいいよ。見た目は、どうなの?」と安積親王が聞いた。

「器の中では見えませんので、失礼して皿にうつしてみます」と家持が丸薬を皿にうつして子細しさいに見たあとで、同僚の六人の内舎人にまわした。

「十一粒入っています」「見た目は、おなじに見えます」と内舎人たちが、それぞれに答える。家持は一粒をつまんで口にふくみ白湯さゆ(お湯)で飲みこんだ。

「どう。家持?」と安積親王。

「まだ、なんとも」と家持。

「どこか苦しかったり変だったら、すぐに吐きだしてね」と安積親王。

「どこも苦しくはありません。それに飲み込んでしまいました」と家持。

「気分が悪くなったら、わたしが腕を突っ込んで吐きださせるよ。痛みはどう。痛みは、やわらいだの」と安積親王。

「もともと、どこも痛くありません」と家持。

「親王さま。そう、すぐに変化はないでしょう。だいじょうぶだと分かるまで待ちましょう」と広刀自。

家持に変りがなかったので、安積親王は鈴鹿王が持ってきた痛み止めを飲んだ。

安積親王に従ってきた六人の内舎人と三十四人の舎人は、ここからは、いつもの三交代制で働くことにした。家持は当直とうちょくになったので安積親王のそばに残った。

「家持」と寝るしたくをすませた安積親王が言う。

「はい」と家持。

「つぎに生まれるときは、わたしは風になりたいな」

「妙なことを。はじめてお目にかかったときには幼くていらした親王も、すっかり大人びてこられました。それでも、まだ大人ではありません。

来世らいせの話は、老いてからするものです。どうして、そんなことを思われたのでしょう」と家持。

「長屋王のことを考えていたら、なんとなく。わたしが生まれたために、ずいぶん多くの人が亡くなったから」と安積親王。

「それは親王さまの責任ではありません」と家持。

「母上が心配ばかりするのは、わたしのせいでしょう」と安積親王。

「母親は子供のことを心配するものです。それが愛なのですよ。

どうして風が良いと思われました?」と家持。

「風は、だれも悲しませないから」

「なにを言っておられるやら。風害ふうがいで木が倒れて家が飛ばされ、多くの人が亡くなります。穀物も実らなくなって餓死がしする人がでます」

「そうか。そよ風だけではなかったね。水も害をあたえることがあるし、石だって役に立つこともケガをさせることもあるよね。なんでも良いところと悪いところがあるね」と安積親王。

「そんなに色々思われるのでしたら、その思いを言葉にして和歌をつくってみませんか。思いをめると心が病みます。言葉にして外にだすと、少しは楽になるでしょう」

「家持が教えてくれるの」

「はい」

「約束だよ」

「はい。約束です」

「指切りしよう」

「はい」まだ細くてやらかい安積親王の指が、家持の指とからまった。

「さあ、そろそろ、お休みください。わたしどもが、ついておりますから」

家持は、安積親王が十一歳のときから、そばに仕えている。感受性が豊かで、やさしい少年だ。


翌朝の閏一月十二日は、目覚めたときから膝の腫れや痛みがとれたと安積親王は元気で、広刀自夫人と一緒に姉の不破内親王の邸をたずねた。不破内親王の邸には男子一人と女子三人の子供がいる。

宿直のあとで交代して休んだ家持が、午後に不破内親王の邸にいくと、安積親王は幼い甥が舎人を相手に蹴鞠の練習をするのを見物していた。塩焼王は伊豆に流刑中だが、もともと住む邸が別だから子供たちは父親の不在を気にしていない。

安積親王と広刀自夫人と不破内親王と三人の幼い女王が、楽しそうに蹴鞠を見ている。母子三代が冬の陽だまりのなかで笑いあっている姿を、家持はほほえましくながめた。

広刀自夫人には、もう一人、井上内親王いかみないしんのうという聖武天皇の長女がいるが、四歳のときに伊勢大神宮の斎王さいおうになって、もう二十何年も伊勢の斎宮さいぐうでくらしている。聖武天皇は幼いときに手放した井上内親王をあわれんで、伊勢斎宮を小さな都のように大改造している。井上内親王は阿部皇太子あべこうたいしより一歳年上だから、もう二十七歳になったはずだ。


不破内親王の邸から内裏に戻って、安積親王と広刀自は夕食をとった。この夜も安積親王は鈴鹿王からもらった丸薬を、食後に一錠だけ飲んだ。そのあと宿直の内舎人と交代した家持は、空いている舎人寮とねりりょうで寝ることを仲間に伝えて眠った。

こくの終わり(午前一時)ごろに「家持さん!」と舎人に起こされた。「すぐ来てください」

安積親王の寝所に行くと、宿直の二人の内舎人がおびえている。

「どうした?」と家持。

「親王が亡くなられた」と宿直の内舎人が、こわばった声でいう。

「バカな!」と家持は寝所に入って安積親王の体にふれた。呼吸がなく脈もない。

「どうして。なぜだ」と家持。

「寝入りばなに、うなされておられたから、お側に寄った。そのときは、すぐに静かに眠られた」

「眠っていらしたのだな」と家持。

「たしかに呼吸をしておられた。胸のあたりが上下していた」

「なんどきだ」と家持。

こくに入ったころ(九時ごろ)」

「つぎにこくり(十二時ごろ)に、声をあげて激しく動かれた。すぐにそばへ寄ったが静かになられていた」

「眠られたのか」と家持。

「いや。そうじゃない。眠っておられるように見えたが、静かすぎるような気がしたので声をかけた。

なんどか、お呼びしたが動かれないので、そばまで寄って声をかけた。

胸騒ぎがして勝手に鼻の側に指を置いた。呼吸が感じられなかったから、お手にふれて脈をみた。脈がなかった。わたしの不始末ふしまつだ。気がつかなかった」と宿直の内舎人が泣きながら話す。

「わたしだって、おなじことしかできなかった。

眠られるまえは、お元気だった。急に亡くなるなど、だれにも分からない」と家持。

「家持さん。これは病気なのか。眠りながら急に亡くなることがあるのか」

「分からない」 

もう一度、家持は安積親王の息と脈をたしかめて胸に耳を当てた。皮膚に弾力がない。表情が消えた安積親王の目元がうるんでいるように見える。それを見て家持の体がふるえた。

「医師は呼んだのか」

「着くころだ」

「広刀自夫人には連絡したのか」

「…できない」

「留守官には」

「まだ」

「鈴鹿王さまと仲麻呂さまのところに使いをやろう。わたしたち舎人には、それ以上のことができない」と家持。そのころには非番の舎人たちも集まってきた。

「どうしてだ」

「あんなにやさしい親王が、なぜ」

「急に亡くなるなんて、おかしい」

「鈴鹿王の薬は持って帰ろう」と誰かがいった。



夜が明けるまえに恭仁宮を立った使者が、難波宮にいる聖武天皇と元正太政天皇に、安積親王の死去を知らせた。その日のうちに難波宮から葬儀そうぎの監督と警護のために大市王おうちおうらが送られてきた。

まだ十五歳の安積親王の死は悲しいことであるとともに、大きな衝撃だった。これで親王しんのう(天皇の子息)と呼ぶ皇位継承者がいなくなってしまったのだ。いまの阿部皇太子が即位しても独身を通すので、皇位をゆずる親王がいない。

こういう場合は二世王にせいおう(天皇の孫)のなかから後継者が選ばれる。

だが持統天皇には草壁皇子くさかべおうじしか、草壁皇子には文武天皇しか、文武天皇には聖武天皇しか子息がいなかったから、直系の二世王もいない。      

すると文武天皇のまえの男性天皇の天武天皇てんむてんのうか、そのまえの天智天皇てんじてんのうの二世王から選ぶことになる。

安積親王あさかしんのうの死で、皇位をあらそう時代がはじまった。

 

二月二日に、恭仁京の留守官があずかっていた駅鈴えきれい内外印ないげいん(天皇御璽ぎょじ太政官印だじょうかんいん)が難波宮にとどけられた。駅鈴と内外印は即位のときに新天皇にわたされるもので、いつもは天皇がくらす内裏に保管されて中務省なかつかさしょう少納言しょうなごんが管理している。

三月三日、安積親王の埋葬が恭仁京で終わった。白い喪服を身につけた大伴家持は、安積親王を送る挽歌ばんかみあげた。


あしひきの 山さえ光り 咲く花の 散りぬるごとき わがおおきみかも

(山を輝かせるように咲く 満開の花のような わたしの王が 散ってしまった)



安積親王の葬儀を終えたあとで、家持たちも難波京に移った。

二月十五日の日暮れどきに、前々から約束していた佐伯さえきの今毛人いまえみしが、難波京にある大伴家持の家をたずねてきた。大伴氏と佐伯氏は先祖を同じにする武門の氏族で、おなじ二十五歳の家持と今毛人は気のあう幼友達だ。

職までおなじ内舎人うとねりなので休みが合わず、こうして二人で会う機会は少ない。佐伯今毛人は、ずっと聖武天皇のもとに配属されて可愛がられている。


「で、どうだった」と奥まった部屋で、家持がきく。

「おまえらが持ってきた鈴鹿王の薬は、ただの痛み止めだそうだ」と今毛人が、天皇のそばで耳にしたことをもらす。

「ほかには、思い当たることがない」と家持。

「残っている薬が痛み止めでも、一粒だけ毒薬を混ぜておけば、いつかは、それを飲むだろうよ」と今毛人。

「見た目は、おなじに見えた」と家持。

「それは、おまえらが言っているだけだ」と今毛人。

「本当に見分けがつかなかった。すると時間をかけて、おなじように見える毒入りの丸薬を用意していたことになる。鈴鹿王にしかできないことだ」と家持。

「鈴鹿王が、なぜ、そんなことをする。安積親王は不審死ふしんしだと思っておられるが…」今毛人が言葉を飲みこんだ。天皇のそばで見聞きしたことを語るのは禁止されている。

「だれが?」と家持。

「言葉にできない方々だ。さっしろ」と今毛人。

「複数か」と家持。

「ああ」

「帝と太政天皇」と言ってから、家持は今毛人の顔をみて「左大臣もか?」と加えた。

「言葉にするな。吐瀉物としゃぶつはなかったのだろう?」と今毛人。

吐血とけつもなく、もどされておられなかった」と家持。

難波なにわから送った医者も判断できなかった。毒殺だという証拠はなにもない。安積親王は足の病で恭仁京に戻って亡くなった。それ以上は確かめようがない」と今毛人。

苦々しそうに家持が酒を空けた。夕鶴ゆうづるの声が聞こえる。

「ところで、つぎの配属先は決まったのか」と今毛人。

「帝のもとになる」と家持。

「じゃあ、しばらくは一緒だ。すぐに紫香楽しがらきにお供をすることになる。行ったことはあるか?」と今毛人。

「安積親王は輿にのられると膝の痛みが悪化したから、紫香楽へ行かれたことがない」と家持。

「ちょっと待て、家持。…オイ! と、いうことは、こんどの難波への行幸でも、途中で膝の痛みがでるのは予想されたのだな」と今毛人。

あやぶんでいた」

「もし塩焼王が流刑にされず、塩焼王と不破ふわ内親王が難波行幸に参加しておられたら、広刀自ひろとじ夫人も一緒だったはずだ。

それだったら安積親王は、恭仁宮に引き返しただろうか」と今毛人。

「それはない。桜井の仮宮からなら、難波も恭仁もおなじような距離だ。むしろ難波の方が随行ずいこうしている医師や薬師くすしが多い。

広刀自夫人と不和内親王と塩焼王が一緒だったら、安積親王は難波に行かれただろう」と家持。

「広刀自夫人は、どうして恭仁に残られた?」と今毛人。

「どうするかと打診だしんされたらしい。

広刀自夫人は皇后をさけておられたから、塩焼王が罪に服していて不破内親王が残るからと辞退された」と家持。

「帝は夫人からの辞退の報告しか受けておられないはずだ。だれが広刀自夫人に、行幸に行くかどうかと伺った?」と今毛人。

「留守官が決まってすぐに…」

「どっちだ。鈴鹿王か、藤原仲麻呂か」と今毛人。

同僚どうりょうから聞いただけだが…仲麻呂がうかがいに来た」と家持。

「国政をかえりみず宗教国家をつくるなど、馬鹿な治世者ちせいしゃだと、酒を飲んで女孺じょじゅに話したと、塩焼王の政道批判を帝に告げたのは仲麻呂だ。仲麻呂は鈴鹿王と親しいのか」と今毛人。

「親しいかどうかは知らないが、たしか塩焼王が流刑にされたあとで、帝が紫香楽へ行かれたときの留守官は、やはり鈴鹿王と仲麻呂だったと覚えている」と家持。

「鈴鹿王と仲麻呂が共謀きょうぼうしたのなら…。藤原氏は、安積親王に皇位を渡さないだろう」と今毛人。

「仲麻呂か…」と家持。

二人とも黙り込んでしまった。耳れない鶴の声が妙に切ない。

「暗殺だとしたら、こんなに複雑で、成功するかどうかも分からない計画をたてるだろうか」と今毛人がつぶやく。

「だが、悪い偶然ぐうぜんが重なりすぎている」と家持。また二人は黙った。

「空席の右大臣のことは、なにか聞いていないのか」と家持。

「われわれに厳しい警護を命じて、ときどき帝は、太上天皇や左大臣と話されているが、内容までは聞こえない」と今毛人。

「…そういえば坂上さかのうえの叔母が…」と家持。

「ああ。お元気か?」と今毛人。

「イヤになるほど元気だ。その坂上の叔母が、田村たむらの里に持っている土地と邸を仲麻呂に売ることにしたと知らせてきた」と家持。

田村の里は平城京の左京四条にあり、坂上郎女の今の夫である大伴宿奈麻呂すくなまろの娘、つまり坂上郎女の義理の娘で家持の許嫁いいなづけが住む邸があった。

「平城京の田村の里か? 

帝は高御座たかみくら(即位の儀式などで天皇が座る椅子)と大楯おおだて(都の印にする楯)と武器を、明日にでも恭仁から難波にとり寄せられるおつもりだ。つぎの都となるのは難波だろう。なぜ、平城の土地を買う?」と今毛人。

「さあな。仲麻呂は、田村の里の周囲を安く買い占めているそうだ。

平城京にある旧右大臣の邸(藤原不比等ふひと邸)も改造しているらしい」

「いやな感じだ…」家持と今毛人は黙りこんだ。


二月二十四日、聖武天皇は難波宮から河内かわち平野を流れる宇治川に添う路をつかって紫香楽に移った。家持は許可をもらって恭仁京に寄った。そこで再び安積親王を忍ぶ挽歌を詠んだ。


しきかも 皇子みこの命の あり通い 見しし活道いけじの 路は荒れにけり

(愛しい皇子が目にしただろう路は荒れてしまった→愛しい皇子が活きる道は荒れていた)


大伴の 名にゆきおびて 萬代よろずよに 頼みし心 いづくか寄せむ

(大伴氏の名にかけて刀を負い 先々までと頼りにしていたのに 皇子がいないこれからは 心を寄せる人もいない)


家持だけでなく多くの官人が、聖武天皇の一人息子の安積親王の死におなじ思いを持っていた。


 

聖武天皇が紫香楽に移ったあとの二月二十六日に、難波宮に残った元正太政天皇と左大臣の橘諸兄がみことのりをだして難波京が都とされた。

三月十一日には難波宮の中外門ちゅうがいもん大楯おおだてが立てられて、帝都であることがしめされた。

難波宮は、中大兄皇子(天智天皇)が「大化の改新」の詔をだしたところで、中大兄皇子の叔父の孝徳天皇こうとくてんのうが宮城として住んだ。一度は焼けたが、藤原宇合うまかい造宮卿ぞうぐうきょうになって改装をしたので、いまは離宮としての形が整っている。ここに高御座と武器と駅鈴えきれい内外印ないげいんが保管された。

難波宮にいるのは、六十四歳の元正太政天皇げんしょうだじょうてんのうと、六十歳になる左大臣の橘諸兄たちばなのもろえだ。

聖武天皇は、未完成の紫香楽離宮しがらきりきゅうにいる。そこの甲賀寺で「仏教の中興の祖になる」ために、廬舎那仏(大仏)を造っている。

造営が打ち切られた恭仁くに京は、衣食をまかなういちがおかれて、官庁かんちょうや官人たちの邸も整いつつある。難波行幸について行った官人の多くは天皇と一緒に紫香楽へ移ったが、彼らの家族や行幸に参加できなかった官人や良民(庶民)は恭仁京に残されている。

平城京は、街としての路や塀は残っているが、恭仁に移ったときに宮城のなかにある大極殿だいごくでんや内裏や官庁を解体している。

平城京に住んでいるのは、中宮院ちゅうぐういんから動かない聖武天皇の母の藤原宮子皇太夫人みやここうたふじんと、留守官を命じられた少数の官人と、寺に住む多数の僧尼そうにと寺の小者こもの寺奴婢てらぬひたちだ。

 

こんな状態では、どこに住んでよいのか分からない。

とくに位階はあるが職がない散位さんい(無職)の官人たちは身の処置に困った。式部省しきぶしょうのなかに散位の人のために散位寮さんいりょうという役所があるのだが、長官は難波行幸について行って帰らず、恭仁京に残っている下官かかんには指示がきていない。

散位の官人は無職でも位階をもっているから、多少の給料を受けとっている。

だから半年に七十日以上の登庁とうちょう義務ぎむがある。半年に七十日、一年で百四十日以上は朝廷に顔をださなくてはならない。月(二十九日か三十日)に十一日か十二日は顔を出して、好評価が欲しいときは登庁日数を増やして認められようとする。


藤原式家の宿奈麻呂すくなまろは、二十八歳になったが正六位下で散位のままだった。難波行幸に呼ばれることもなく恭仁京に残っていて、安積親王の突然死を知って一官人として葬儀にも参列した。

「どうなるのでしょうねえ。この先」と宿奈麻呂。

「阿部皇太子の世継よつぎをめぐって色々あるでしょうね。

でも宿奈麻呂さん。噂に振りまわされずに、なにが起こっても、わたしたちは帝に忠誠をつくしましょう」と若女。

「まず逆賊をだした家の信用をとりもどすのが第一ですね。それで、わたしは、どうすれば良いと思いますか」と宿奈麻呂。

「いまのところ難波が帝都ていとですから、散位が登庁する先は難波宮でしょうね。

恭仁京に住んでいる人で、心から難波京に移りたいと願うものは、自由に移住を許可するというみことのりがでていますから」と若女。

「なんだか、へんな勅ですねえ」とおおの小虫こむし

小虫は貴族(五位以上が貴族)の邸では家司けいしと呼ぶ家をまとめる仕事をしているが、主人の出世が遅いので今はただの使用人だ。

「心から願わない者は恭仁京にいても良いのですか」と式家の経理係の大和やまとの弓明きゅうめい

「帝は難波宮には、いらっしゃらないのでしょう。

それに市もありませんから、大勢が難波に移ったらどうなるのでしょう」とヒナ女。式家ではたらく女性をまとめている。

「帝は、紫香楽におられると聞きます」とアヤ。宿奈麻呂の亡くなった弟の未亡人で、若女と一緒に式家を守っている。

「紫香楽に行かなくても良いのかな?」と宿奈麻呂。

「紫香楽は、まだ宅地をくださるという知らせがありません。行ったって住むところがありませんよ。帝都は難波京という勅に従いましょう。

わたしが紫香楽に行って、いつ宅地を頂けるのか、家を建てられるのかを調べてきます。宿奈麻呂さんは難波宮に行って、そこで散位寮の方を訪ねてください。

難波なら宮を改築なさった宇合さまの立派なお邸があるのでしょう。

小虫とヒナ女、男女の従者(使用人)をえらんで連れて行ってください。

弓明を残してくだされば、こちらで財産管理などはやって、衣服などは届けます」と若女。

「子供たちのことを、よろしくおねがいします」と宿奈麻呂。

すでに宿奈麻呂には二人の夫人がいて、上が六歳で、つぎに同じ四歳が二人、そして一歳になる四人の娘がいる。四人とも恭仁京にある母親の家で育っている。

「はい。まめに顔をだします」と若女。

「広嗣の乱」のときに式家を守った人たちだ。いつのまにか、みんなで式家を立て直そうという気風が育ち、なんでも話しあうのが当たりまえになっている。


宿奈麻呂が難波に向かう日に、残る家族や使用人が木津川のほとりまで送りにでた。

夏四月は花の盛りだ。冬のあいだてついていた土がゆるみ、なんともいえない季節の香りが立ちあがる。

道中どうちゅう、気をつけて」

「足りないものがあったら、すぐに知らせてくださいよ」と別れをおしんでいたときに、舟から降りた女と子供たちが道に向かってきた。今度は遠目で雄田麻呂おだまろが先に、相変わらずの髪型をした山部王やまべおうをみつけた。

今日は山部王より人目をひく派手な母親と、少女とお供の女性が一緒だ。

「母上。あの子」と雄田麻呂が目で指す。

「なに?」と若女。

「山部王です」と雄田麻呂。

「山部王?」と若女。

白壁王しらかべおうのお子」と雄田麻呂。

「白壁王の…」

若女は陽気な酔っぱらいの白壁王を、宮中の宴席で何度も見ている。酔っぱらいだが、いやらしさがなく、それとなく気遣いができる人だ。天智天皇の二世王で、母親は氏。たしか従四位下の散位のはずだ。

「お子さまがいらしたの。それじゃ、あの方が、お子さまの母君でしょうね。

まえに、この先でお目にかかったわね」と若女。

「さすが母上。おぼえていらした」と雄田麻呂が言ったとたん「オーイ。雄田麻呂兄さん!」と山部王が手を振った。

「いつのまに親しくなったの?」と若女。

「三、四回、偶然に出会っただけです。でも巻き込まれて虫をとらされたり、宿生麻呂兄さんは、よその邸の果実を盗まされました。

みていてください。山部王は種継とおなじ七歳だけど、あきれるほど記憶力が良くて、おしゃべりで、甘え上手だから」と話していると山部王が近くまできた。

「あれ。宿奈麻呂兄さん。どこかへ行くの」と山部王がニコッと微笑んで首をかしげる。

「こんにちは。山部王。これから難波に行くところですよ」と手をとられないように後ろで組んで、宿奈麻呂が一歩さがって答える。

「そうか。いってらっしゃい。でも帰ってきてね。

宿奈麻呂兄さんに、助けてもらいたいことがあるから」と山部王。

「なにを? イヤ。イヤイヤ。こんどね。こんど。出かけなければいけないからね。

では、若女さん。そろそろ出かけます。あとは、よろしく」と宿奈麻呂があいさつをした。

「いってらっしゃい。なにがあっても辛抱しんぼう強くしてくださいよ。

みんな体に気をつけてね。ムリはしないでね」と若女。

「ヒナ女さん。小虫さん。宿奈麻呂さんを頼みますよ」とアヤ。

「小虫さん。手紙をくださいね」と若女。

若女とアヤが領布ひれをふり、宿奈麻呂たちも、ふり返りながらそでをふる。別れはいつも寂しいけれど、流刑にされる宿奈麻呂と田麻呂を見送った冬の朝にくらべれば、今日の別れはずっと明るい。

「ああ、姿が小さくなった。行っちゃったね。雄田麻呂兄さん。

蔵下麻呂くらじまろ兄さん。さみしくなっちゃうね。ねえ、種継たねつぐ」と山部王が雄田麻呂のそばに寄ってきてスッと手を握った。

体にれられるのが苦手な雄田麻呂が、その手を握り返すのをみて、若女が「オヤ?」と思う。

「どうして、わたしを呼び捨てにする!」と種継。

「だって種継とは、おなじ年でしょう。友達だ」と山部王が空いている手を種継の肩にのせた。

「母上。この子が藤原雄田麻呂。そっちの子は弟の蔵下麻呂。こいつが、末の弟の種継だよ」と山部王が紹介する。

「種継は甥だよ」と雄田麻呂。

「オイ?」と山部王。

「亡くなった兄の子だ。種継の母上は、そこのアヤさんだよ」と雄田麻呂が教えた。

「そうか。アヤさん。こんにちは。山部です。これが母上と姉上だよ」と山部王。

「あなたは、どの子のお母さんなの?」と青いつむぎ上衣うわぎの上に薄緑の領布ひれを巻きピンクの靴をいて、今日も一段とハデな山部王の母親が若女に聞いた。

「こちらは雄田麻呂さまの母君の久米刀自くめとじさまです。新笠にいがささま」と一緒にきていた弓明が答えた。

「わたしを知っているの?」と新笠と呼ばれた山部王の母が、弓明の顔を見た。

「はい。わたしは大和弓明。老人おびとの五男です。

久米刀自さま。こちらはやまとの新笠にいがささまです」と弓明。

大和やまと(和、倭)氏は、百済くだらからきた渡来系の氏族で五位ぐらいで出世が止まるが、実務をこなす文人系の官人が多い。同族の弓明は、山部王の母を知っているらしい。

「そう。老人さんのところの弓明さんねえ…」といいながら、新笠が若女の眼をとらえて真っ直ぐに見た。光のある力強い眼だ。

「藤原氏のお子を持つ久米刀自さん? まちがっていたら、ごめんなさい。ぶしつけなことを聞くけど、藤原氏と縁のある女性で久米刀自と呼ばれる方は、もしかして久米くめの若女わくめさんじゃないかしら」と新笠。

「はい。そうです」と迷わず若女も答える。

「ほんとうに、きれいな人。たしか、どこかで会っているわ。わたし、あなたのように強い女が好きよ」と新笠。

「わたしが強い?」と若女。

「ええ。あの件を、あいまいにしなかったでしょ。それに、あなたの表情を見ると芯の強い、まっすぐな人だと思う。じゃあ、あなたたちは藤原式家の方たちなのね」と新笠。

「そうです」と若女。

「若女さんとアヤさんが、式家の世話をしているの?」と新笠。

「みんなはアヤさんと呼ぶけど、わたしははたの彩朝さいちょうです」とアヤが邸にむかって歩きながら言った。秦氏も渡来系の氏族で、新笠とアヤは年ごろも近そうだ。

「彩朝さん。もしかして、その種継さんのお父さんは…」と一緒に歩きながら、新笠が声をおとした。  

「…ヤダ。変なかんぐりをしないでね。種継の父親は、宇合さまの三男の清成きよなり。病で亡くなったの。斬首ざんしゅされたのじゃないわよ」とアヤ。

「ゴメン!」と新笠。

痘瘡とうそうが流行っていたときは無事だったのに、あのあと二年ほどして胸の病で亡くなったのよ。痘瘡のときは清成もわたしも葛野くずの(京都)の蜂岡はちおか太秦うずまさ)にいて、そこで種継が生まれてね。

他の人には悪いけど、あのころは楽しかった」とアヤ。

「わたしも痘瘡が流行っていたときに、大原野の大枝で山部を生んだの。蜂岡と大枝は近いよね」と新笠。

「うん。奇遇きぐうだね」とアヤ。

「さっきの宿奈麻呂さんが、式家の家長かちょう?」と新笠。

「そう」とアヤ。

「難波に行ったのね」と新笠。

「都がうつったから」とアヤ。

「いつまで難波が都だか分からないわよ。紫香楽しがらきでは宮城用のかわらを焼いているけれど、でもねえ…。あそこも、なんだか」と新笠。

「なんだかって、どういう意味?」と若女が聞く。

「都になる場所じゃないような気がする」と新笠。

「あなたは、紫香楽に行ったことがあるの? わたしたちも見に行こうと思っていたところなの」と若女。新笠が立ち止まって目を丸くした。

「どうして?」と新笠。

「紫香楽が都になったら、子供たちが住む所を造らなければならないでしょう」とアヤ。

「そんなこと、藤原氏なら、だれかが、なんとかしてくれるでしょう」と新笠。

「迷惑をかけているから、わたしたちで出来ることはしないとね」とアヤ。

「反逆者をだした家だから、人に頼っていたら子供たちが肩身かたみせまい思いをするでしょう」と若女。

「あなたたち二人で? 変わっているね。あなたたち。でも、たいしたものだわ。気に入った。

紫香楽は造っているところだから現場には男が多い。女子供だけで行っちゃダメよ。彩朝さん。秦氏が工事に入っているから、行くなら秦氏と一緒に行けばいい。

でも、わたしは、あそこは都にはならないと思うよ。

もし紫香楽が都になっても、宅地だ邸だと急がずに、しばらくは秦氏が使っている現場の小屋においてもらって、ようすを見たほうが良いと思う。じゃ、気をつけてね」と路が分かれるところで、新笠たちは別の方向に曲がった。

「とっても変わった人に、変わっていると言われちゃいましたね」とアヤ。

「いきなり人の心に入ってくるのね。頭が良くて、はっきりした人だわ。

なんだか新笠さんを好きになりそう」と若女。

「わたしもかな」とアヤ。

「子供のころに遊んだことがあるのに、わたしのことは完全に忘れているようでした」と弓明が肩を落とした。

そのころ石上乙麻呂は、巡察使じゅんさつしとして西海道さいかいどう(九州)に派遣されていた。もともと有能な官吏かんりだったから、不名誉な前科ができて仕事一筋にならざるを得なくなってから、乙麻呂は力を発揮し始める。


十一月十三日。紫香楽の甲賀寺で大仏の体骨柱たいこつばしらを、地方から肉体労働のために集められた役夫やくふと呼ぶ百姓たちに交じって、聖武天皇は自分も綱を引いて建ちあげた。同月十七日には元正太上天皇が難波から紫香楽宮に到着する。

そして翌年の七四五年の正月一日に紫香楽宮しがらきのみやの門に大盾おおだてを立てられて、都は難波から紫香楽に移った。

安積親王が亡くなって一年も経っていないのに、都は恭仁京から難波京へ、そして紫香楽京へと変わった。



「白壁王。こんな所で寝たら風邪を引きますよ」と智努王ちぬおうが軽く肩に手をおく。

智努王は、天武天皇の子の長皇子ながおうじの息子で、天武系の二世王(孫)になる。正四位下の五十二歳で、恭仁京の造営卿ぞうえいのかみだったが、三年前に紫香楽しがらき離宮りきゅう造宮ぞうぐうのつかさになってからは、紫香楽の造営を監督している。

白壁王は従四位下の散位さんいと変わらず、年だけは三十六歳になる。

智努王の父の長皇子の母は、天智天皇の娘の大江おおえの皇女こうじょで、白壁王の父の志貴皇子しきおうじの異母姉になる。

天武天皇は、天智天皇の娘を四人も妃にしているので、こういう関係は珍しくないが、平城京に移ったときまで生き残っていた天智系と天武系の皇子は数少ない。

天武系の皇子では、新田部親王にいたべしんのう舎人親王とねりしんのうと長皇子。天智系では志貴皇子だけだった。

長皇子と志貴皇子は仲が良く、その親しいつきあいは子供の代にも続いていて、智努王の弟の大市王おうちおうの妻は、白壁王の異母姉の坂合部女王さかいべにょうおうだ。

留守宅に勝手にあがり込んで、うたた寝をしていた白壁王が目を覚まして「ウーン」とノビをした。

「ウチに泊まりにいらしたのでしょう?」と智努王。

「え。ああ、そう。そう。少しのあいだ、お宿を貸していただけませんか」と白壁王。

「あなたは、どうしてだか、わたしになついておられるから、よろしいでしょう。いま寝所しんじょを整えさせますから、そちらで休みなさい」と智努王。

「はい」と白壁王。

「それとも、なにか食べますか」と智努王。

「はい」

「あなたの従者は泊まるところがあるのですか」

「…忘れてた」

「まったく。従者もウチに泊まりなさい」と智努王。

「ほんとうにありがたい。さすが紫香楽離宮造宮司のお邸は、大きくてしっかりしていますね」と白壁王。

「ここに、もう三年も住んでいますからね。内裏と大極殿と甲賀寺はできましたが、ご覧のとおり街は路も垣もできていません。官人が勤める官庁もまだです。

邸のない官人用に宿泊できる所は造ってありますが、生木なまきを使っているので隙間風すきまかぜが入りますから、みなさん、お困りでしょうねえ」と智努王。

「ほんとうに、ここが都なのでしょうか」と白壁王。

「そうなってしまいましたね」と智努王。

「官人に与える宅地も、整備されてないのでしょう」

「場所が悪すぎて、どだいムリな話なのです。

わたしは、地方から集められて労働に使役しえきされる、疲れきった百姓たちを追いたてて功名を立てる気などありませんから、ここに都が完成するはずがありません」

「智努王。三年たっても都が完成していないことを、いばっているように聞こえますが」と白壁王。

「ただねえ。都として官人たちが集まってきますと、せかす者もいるでしょう。

役夫に心ない言葉を投げる者もでてきます。それが心配でしてねえ」と智努王。

「でも帝は、ここに何度も行幸されて長逗留ながとうりゅうをされているでしょうに」と白壁王。

「行幸のときについてくる上位の官人は、帝のそばにいるだけです。内裏と大極殿と甲賀寺と貴族向けの宿泊所と、それぞれの膳職ぜんしき(台所)はできていますから、寝泊まりするだけならジャマにはなりません。

でも都となると、すべての官人がやってきます。すぐに官庁を造れとか、早く宅地を分譲しろとか…」

「と、智努王。あなたが、せっつかれるのでしょう」と白壁王。

「直接、わたしに言えるのは性質たちい人ですから、見れば分かることを口にしません。

性根しょうねの腐った人は、わたしではなく弱い労働者に苦情を言います」と智努王。

「そんなものでしょうね。とりあえず、わたしは、しばらく居候いそうろうさせていただけるとありがたいのですが」と白壁王。

「そうなさい。邸を造るにも十分な宅地がありません。そのうち息子たちや弟の大市おうちも居候としてくるといっています。

大市が落ちこんでいるので、あなたがいてくれると、ちょうど良い」と智努王。

「落ちこんでいるって、大市王に、なにかあったのですか」と白壁王。

智努王の弟の大市王は四十一歳。去年のうるう一月に難波宮から派遣されて、安積親王の葬儀をおこなった。

「安積親王の死がこたえたままです。まだ根を張るまえの若木が倒されるのは哀しいことですから」と智努王。

「やはり、ご病気ではなかったのでしょうか」

「わかりません。大市が言いますには、そばにいた親王の舎人たちが、ひどく動揺していたそうです。安積親王を一番よく知っている舎人たちが、親王の死を受けとめられなかったようすを見て、大市もなにかを感じたのでしょう。

安積親王の死に不審があれば、これから先の宮仕みやづかえは厳しいものになります。おそらく大市は皇位継承をめぐって、陰謀いんぼうが企てられると考えてふさいでいるのでしょう。

まあ、大市がきたら、はげましてやってください」と智努王。


 

紫香楽が都になって四か月が過ぎた閏四月一日から、ひんぱんに山火事がおこりはじめた。四月十三日には宮城のそばで火災がおこった。山火事は五月を過ぎても鎮火ちんかせず、そのうえ五月に入ると地震がつづきはじめる。

四月十五日に、聖武天皇は伊豆に流刑にしていた娘婿の塩焼王しおやきおうを呼びもどした。

五月六日に、天皇は紫香楽をでて恭仁に戻るが、そのあとで紫香楽は留守官も労働者も逃げだして無人になってしまう。五月七日に天皇が平城宮へいじょうきゅうの掃除を命じると、平城京に残っていた諸寺の僧侶たちが寺の使用人をひきつれて掃除をするために集まってきた。

五月十日の早朝から、恭仁京の市人いちびとたちが、かってに平城京に移りはじめた。市が移ると知った庶民も、我先に荷物をまとめて平城京を目指した。みんな平城京に戻りたかったのだ。

庶民の移動がはじまったのを知った聖武天皇は、五月十一日に平城京に戻り、母親の宮子皇太夫人こうたふじんが住んでいる中宮院に入った。

恭仁京をつくるための資材にするために、内裏や大極殿だいごくでんや各省は解体されていたからだ。

莫大な国費と四年の歳月をかけて造営した恭仁京と紫香楽京は、最初の山火事から一か月と十日で自然崩壊してしまった。


そして八月二十八日に、今度は急に聖武天皇が、平城京をでて難波宮に行幸する。

九月十九日には駅鈴えきれい内外印ないげいんを平城京から取りよせて、すべての二世王(天皇の孫)を難波宮に呼び寄せた。

このころの聖武天皇は体調がひどく悪かった。

宗教国家を造れば人の心も穏やかになり、国も豊かになると信じて心血しんけつそそいできたのに、安積親王が亡くなって、紫香楽に大仏をつくることもできなくなった。国費と労働力をつかってしたことがムダになってしまったが、個人としての聖武天皇は悪人でも独裁者でもない。

だから自信喪失、自責じせきの念、自己否定、自己嫌悪などののエネルギーが沸きあがり、聖武天皇の体をむしばんでいた。譲位じょうい(皇位を譲る)のときに必要な駅鈴と内外印を取りよせて二世王を集めたのも、安部皇太子に皇位を譲って次の皇太子をきめるためだ。

大伴家持は一年七カ月近く内舎人として、聖武天皇のそばに仕えている。

つい十五日前に、安積親王が亡くなってから公の場に顔をださなくなった鈴鹿王が死去している。そして、今、二世王を集めてながめている聖武天皇は、憔悴しょうすいしきって生気せいきがない。

家持は、紫香楽が帝都になったときに従五位上を叙位じょいされた。貴族になったのだが、つぎの職が決まるまでは、弱った聖武天皇のそばをはなれずに内舎人としてつかえている。

集められた二世王たちを遠くから見るともなく眺めていた家持は、すみの方にのんびりと座っている白壁王しらかべおうを見つけた。とたんに腹の底が熱くなった。紫香楽京へ遷都したあとは、火事や地震が続いたからうたげどころではなくなっている。

なにもかもが不安定に移り変わってゆく。

…安積親王の文使い。ナデシコの宴。恭仁の都。その都を行きかう官人たち。すべてが泡沫うたかたの夢のように消えてしまった。安積親王とともに、家持の青春も恭仁京に消えた。



聖武天皇の憔悴の深さと二世王が集められたことから、官人たちのあいだでは阿部皇太子の後継者はだれだろうかという話題が、しきりに持ち上がることになった。仲の良い人が集まると、その話題になる。

正五位上で二十四歳になるたちばなの奈良麻呂ならまろも、そんな話を友人と交わしていた。

二世王の中では、天武天皇と天智天皇の娘の新田部にいたべ皇女こうじょのあいだに生まれた舎人とねり親王しんのうの子たちと、天武天皇と中臣なかとみの鎌足かまたりの娘の五百重いおえのいらつめのあいだに生まれた新田部にいたべ親王しんのうの子たちが有力だろうと多くの人はみている。

新田部親王と舎人親王は亡くなったのが遅く、聖武天皇が皇太子だったころに補佐役をしていたから官人たちの記憶にも残っている。

 

九月二十六日に、聖武天皇は難波宮から平城京に戻った。平城京を都とするという詔勅はでていないが、このときが帝都としての平城京の再開だろう。

その一か月後に、聖武天皇は内道場ないどうじょう(内裏にある天皇家の仏間)に自由に出入りをしていた僧の玄昉げんぼうを、九州の筑紫つくし観世音寺かんぜおんじの造営のために赴任ふにんさせて、玄昉に与えていた封戸ふうと(給料)と財産を没収した。

罪を問うてはいないが、あつかいは流刑される罪人とおなじだ。玄昉は翌年の六月に筑紫で亡くなった。

玄昉が亡くなってから、藤原広嗣ひろつぐたたりだという噂が流れた。非業の死をげたものが祟るという考え方は、このころから始まった。式家にとっては忘れて欲しい「広嗣の乱」を蒸しかされて迷惑だが、噂ならほかにもあって祟りの噂より先に大きく広がっている。

聖武天皇の母の宮子皇太夫人が、玄昉の子を密かに生んで寺に預けて出家させたという噂だ。その子も特定されているが、玄昉の帰国よりまえに生まれているので作り話だ。ただ急に難波宮へ移った聖武天皇が、帰ってきて命じたので噂の元となる玄昉の不遜ふそんさはあっただろう。

玄昉は法相宗ほっそうしゅうを熱心に広めた。


七四六年の三月七日。小さな祥瑞しょうずい上奏じょうそうされる。 

祥瑞は、天皇の治世ちせいが善く行われているときに、天の祝福が自然現象として現れることをいう。空から甘露かんろが降ったとか、神泉しんせんが湧きでたとか、五色の雲が見えたという報告や、白い鹿や白い亀や白いカラス、赤い雀などが捕らえられて献上けんじょうされることが多い。


「これ、ただの奇形じゃありませんか」と河内かわちのくにいちで、それを買った尾張王おわりおうがタライのなかの生き物を見ていう。

「でも、あの首や甲羅こうらは亀でしょう」と答えたのは、いまは従四位上の治部じぶのかみになった石上いそのかみの乙麻呂おつまろだ。

「まあ亀と言えなくもないですが、小さいし、ちょっと細長い変な形ですよ」と尾張王。

「小さくて変なのは自然のものだからでしょう。目が赤い白亀は祥瑞です。

ちがっていたときの責任はとりますから、わたしに上奏させてください」と乙麻呂。

「祥瑞! 奇形のものは育てにくいと聞きます。

手元において死んでしまったら大変だ。すぐに、これをひき取って育ててもらえますか」と尾張王。

「はい。お預かりいたします。これで帝が少しでも元気になられるとよいのですが」と乙麻呂が言った。


二年つづきのかんばつで飢餓きがが広がっていたが、白い亀の祥瑞は聖武天皇を元気づけた。聖武天皇が即位してから祥瑞が現れていなかったからだ。

気をとりなおした天皇は、国分寺と国分尼寺の仏像の制作のための寄付を全国に呼びかけた。

長屋王がはじめた墾田こんでん開発かいはつ三世一身法さんせいっしんほう。荒れた土地を水田にしたら三世代まで私有地と認める。地位によって開発できる土地の上限は決まっている)は長屋王の死後に停止されたが、聖武天皇が永年えいねん私財法しざいほう(荒れた土地を開拓したら、ずっと私財として認める)として再開していた。

そのために都の周辺にも田舎にも、開拓した広い田畑をもつ力田者りきだんしゃという金持ちができて、かれらが寄付をはじめた。

聖武天皇は紫香楽の甲賀寺に建てた盧舎那仏(大仏)の体骨柱たいこつばしら(シン棒)を、平城京の金鐘寺こんじゅじ(のちの東大寺)にうつして大仏の造営も再開したが、その大仏のために寄付をする人もでてきた。

寄付の見返りに位階いかいが与えられるが、それを当てにしただけではなく、大仏建立のために全国を歩いて、国分寺の建立や大仏造営のための理解を広めていた行基の弟子たちの努力が実り始めたのだ。


少しのあいだ宮内少輔しょうすけに任じられていた大伴家持は、六月二十一日に越中えっちゅう守(富山県)に任じられて都を発つことになった。

都を離れるまえに、二十七歳の家持は恭仁を訪ねた。わずか一年半前まで、恭仁京には人が住みくらしいちが賑わい、木津川には船が行きかっていた。廃墟はいきょとなった恭仁の都は、急いで出ていった人たちが落としたザルやワラが夏草のなかに転がって、ホトトギスの声が聞こえるだけだった。

四月二十二日の叙位で白壁王は従四位上に、藤原宿奈麻呂は従五位下になる。

そして九月十四日に、三十歳になった宿奈麻呂も上総かずさのかみ(千葉県中部)として赴任することになった。


「ほんとうに女官に復職するつもりですか。若女さん」と宿奈麻呂。

「いまの世は、先が分かりません。わたしが出仕して、少しでも情報を得られるようにしておくのが、式家のためになると思います」と三十四歳になった若女が言う。

「わたしが上総に行っているあいだの、弟たちが心配です」と宿奈麻呂。

田麻呂たまろさんは二十四歳に、雄田麻呂おだまろは十四歳に、蔵下麻呂くらじまろさんは十二歳に、種継たねつぐさんは九歳になります。

立派に育っています。

あとのことはアヤさんと小虫とヒナ女と弓明がいれば安心です」と若女。

「兄上。わたしも、こちらに帰ってきます。若女さんも、ときどきは帰ってきてくれますよね」と田麻呂。

「わたしの家族が暮らす家ですから、ここしか戻るところはありません。休みがとれるたびに戻ってきます。

それより宿奈麻呂さん。五人の娘たちから目を離さないように。すこしでも目を離すとなにが起こるか分かりません。道中、怪我をさせないように気をつけてくださいよ。水も変わりますからね」と若女。

「お二人の夫人を同伴なさって、上手くやれるのでしょうかねえ」とヒナがからかうと、宿奈麻呂がうれしそうに照れた。

  

この年、一人の女性が平城京に帰ってきていた。

占定ぼくじょう(占い)で四歳のときに伊勢いせの斎王さいおうにされて、安積親王が亡くなるまで斎王をつとめた聖武天皇の長女の井上いかみ内親王ないしんのうだ。

天武天皇の時代から、伊勢神宮に天皇一代につき皇女一人が斎王として赴任して、身内に不幸があったときか、天皇の交代のときに退官することになっていた。

井上斎王は弟の安積親王が亡くなったときに解任されていたが、そのあと都が定まらない時期があったので伊勢に留まっていた。この年に新しい斎王が潔斎けっさい(身を清めること)を終えるとの知らせを受けて都にもどってきた。

井上内親王は安部皇太子より一歳上で、あがた犬養いぬかい広刀自ひろとじの娘だ。塩焼王夫人の不破内親王と、亡くなった安積親王の同母の姉になる。

歴代の斎王のなかでも井上内親王の任期は長く、この人が斎王をしていたときに伊勢斎宮は新しく都のような形に造り直された。

父の聖武天皇がしたことだが、恭仁京も紫香楽京も自然崩壊の道をたどるなかで、聖武天皇が目にすることがなかった伊勢斎宮だけは、改修をくわえながら原型をとどめて残ってゆく。


つぎの七四七年一月二十日に、井上内親王は二品を叙位された。

品位ほんいは親王と内親王に与えられる位で一品から四品まであるが、生前に一品や二品を与えられるのはめずらしい。二品になった井上内親王は、女性皇族の頂上に立った。

井上内親王は、この年の誕生日で三十歳になる。結婚適齢期は初潮がはじまってから二年ほどすぎて、排卵日はいらんびが安定してくる十五、六歳がふつうだった。

四歳から斎王として伊勢大神に仕えて世間との接触がなく、適齢期をかなりすぎた井上内親王の婚姻を聖武天皇は進めた。その婿むこに選んだのが、いままで仕事をしたことがない宴会男の白壁王だ。

すでに白壁王には複数の夫人がいて子供もいたが、一夫多妻では高位にいる妻が正妻になり、正妻の息子が嫡男ちゃくなんと認められる。嫡男以外は庶子しょしで、嫡男の家臣のようなものだ。                       

白壁王は、井上内親王の婿の資格を満たしていた。年も三十八歳で、つりあいが良い。散位だが従四位上で天智天皇の二世王だ。聖武天皇の三女の不破内親王の夫の塩焼王は、正四位下で天武天皇の二世王。位階は塩焼王が一級だけ上だが、そのうち叙位すれば問題ない。

それに、なんといっても白壁王は大仏の鋳造ちゅうぞうに欠かせない鉄穴てっけつ(鉄鉱山)を、父の志貴しき皇子から相続して近江おうみのくに(滋賀県)にもっている。

白壁王は、天皇の命で井上内親王という高貴な妻をもつ身になった。

 


七四八年の四月二十一日に、元正げんしょう太政だじょう天皇が六十八歳で亡くなった。

翌年の七四九年の二月二日には、民を愛し、民に愛された行基ぎょうきだい僧正そうじょうが八十一歳で死去した。

二人とも仏教国家をつくろうとする聖武天皇を支えてきた人だ。

行基が亡くなった二十日後の二月二十二日に、従五位上の陸奥むつの(東北地方)かみ百済くだらのこにしき敬福きょうふくが、それまで日本では採れなかった黄金が出たことを上奏してきた。

これこそが、ほんとうの祥瑞で、行基の祈りをきいた天の助けだろう。


四月一日に、聖武天皇は東大寺(元の金鐘寺)に行幸して、光明皇后と阿部皇太子と一緒に大仏に北面ほくめんして黄金がでたことを報告する。

天皇のうしろには百官ひゃっかんが居並び、そのうしろに庶民も並んだ。大仏は鋳造の途中で大仏殿でんもなかったが、この大仏は庶民の寄付と協力のもとにつくられる日本の全ての人のための仏だった。

最初に左大臣さだいじんたちばなの諸兄もろえが天皇の言葉をのべ、つづいて長い宣命せんみょう(詔)を従三位で中務なかつかさのかみの石上乙麻呂が読みあげた。

居並ぶ官人のなかに、藤原一族の最年長者で大納言だいなごんになった藤原豊成とよなりがいた。采女から女官になった飯高いいだか笠目のかさめや、下道しもつみちの氏を吉備に改姓した吉備きびの由利ゆりや、大野おおのの仲千なかちや、藤原百能ももよしと一緒に、久米くめの若女わくめもいる。

このあと黄金がでた祝いの叙位があり、四十五歳の豊成が従二位になり長いあいだ空席だった右大臣うだいじんになった。

大仏完成の目途めどがついた聖武天皇は、五月二十三日に内裏を出て薬師寺やくしじ御座所ござしょ(天皇の居室)にして出家してしまう。


七月二日、聖武天皇は阿部皇太子に皇位を譲った。

即位した三十一歳の阿部皇太子は、孝謙こうけん天皇という。

しかし天皇が詔勅しょうちょくをだすときに必要な天皇玉璽ぎょじ内印ないいん)と、太政官が許可や奏上するときに必要な太政官印(外印げいん)と、詔勅を地方に知らせるときに必要な駅鈴えきれいは、母である光明皇太后に渡した。孝謙天皇の皇太子が即位するときに渡すようにと、聖武天皇が光明皇后にたくしたのだ。

孝謙天皇は儀式をとりおこなったり日常的な政務はできるが、天皇玉璽をつかう詔勅は光明皇太后の許可を必要とする保護者つきの天皇になった。

聖武天皇と光明皇后は、孝謙天皇に全権を渡すことに不安があったのだろう。


孝謙天皇は即位した日に、多治比たじひの国人くにひとに正五位下を、かもの角足つぬたりに正五位下を授けた。従五位下の大伴古麻呂こまろ左小弁さしょうべんに、従五位下の安宿王あすかおう中務大輔なかつかさのだいすけに、多治比牛養うしかい式部しくぶの少輔しょうすけに、従四位上のたちばな奈良麻呂のならまろ参議さんぎにした。

このときに叙位や任官をされた人は二十余人ほどいるが、ここに名をあげた人たちは互いに仲が良く、孝謙天皇が期待した官人たちで、のちに登場してくる。


孝謙天皇の即位から一月後の八月十日に、いままでの皇后こうごう宮識ぐうしきが、柴微しび中台ちゅうだいという聞きなれない名に変えられて、柴微中台の長官の柴微しびれいに正三位で大納言の藤原仲麻呂なかまろを任命するというみことのりがだされる。

それから一月後の九月七日に、この柴微中台の官位が発表された。

長官のれいは正三位の人がなる。次官の大小のひつは四位以上の人が、大小のちゅうも五位以上がつく。だけが五位以下だ。

ほかの八省はっしょう中務省なかつかさしょう式部省しきぶしょう治部省じぶしょう民部省みんぶしょう兵部省ひょうぶしょう刑部省ぎょうぶしょう大蔵省おおくらしょう宮内省くないしょう)の四等官しとうかん(カミ、スケ、ジョウ、サカン)とくらべると、紫微中台の役人のほうが、ずっと位が高い。

このとき正三位以上をもつ人は、左大臣の橘諸兄が正一位、右大臣の藤原豊成が従二位、大納言兼任で柴微令になった正三位の藤原仲麻呂まかまろと、他には正三位の中務なかつかさのかみになった三原王みはらおう(舎人親王の嫡子)しかいない。

構成する官人の地位の高さから、紫微中台は八省より上にあり、左右大臣がまとめる太政官府と同じの力をもつことになる。

それまでの皇后宮識は八省の中の中務省の管轄下におかれていたから、改名と任官というトリックを使って、光明皇后の元に太政官府と同等の力を持った役所が誕生した。

詔をだしたのは孝謙天皇だが、詔をだすときにつかう玉璽(内印)を使わせたのは光明皇太后だ。

光明皇太后はまつりごとにかかわれる立場ではないが、この役所は光明皇太后の意志を太政官に伝達する窓口になるはずだった。

柴微中台ができてから、だれが孝謙天皇の皇太子になるのかという話題が白熱した。

二世王の中で位階が高いのは、舎人親王の子で正三位で中務卿の三原王だった。三原王が皇太子になって、早く孝謙天皇から譲位されれば問題はなかった。

二十八歳の若い参議の橘奈良麻呂のもとに集まる官人たちも、奇妙な体制を危惧きぐして、次の天皇の即位をまっていた。


大嘗祭だいじょうさい(新天皇のための収穫祭)も終わったあとの十一月に、豊前ぶぜんのくに(福岡県東部、大分県北部)の宇佐郡うさぐんの八幡宮が、八幡大神の神託しんたく(神の言葉)を伝えてきた。

「神であるわれは、天神てんしん地祇ちぎをひきい誘って、必ず造仏を成就じょうじゅさせよう。それは格別なことではなく、銅の湯を水となし、わが身を草木土に交えて、支障が起こることなく、無事に完成させよう」

十二月二十七日に、宇佐うさ八幡はちまん禰宜ねぎ巫女みこ)の大神おおかみ杜女のもりめが神託をもって九州から都にきた。

自分の即位を祝うような神託に孝謙天皇は大喜びして、天皇が使う紫色の輿こしに杜女をのせ、聖武太政天皇と光明皇太后を伴って杜女と一緒に東大寺に参詣する。そして杜女に従四位下を、ついてきた神主の大神おおかみ田麻呂のたまろに外従五位下を授けた。

神託はトランス状態に入った巫女みこが神に代わって口走るものだが、どうして宇佐八幡の神さまは、何ヶ月か前に神託をだせなかったのだろう。黄金がでて大仏が完成する見通しが立った今では、いまさらながらの、ご神託だ。


聖武天皇の治世ではほとんどなかった祥瑞しょうずいが、孝謙天皇に代わってから、やたらと現れるようになる。

そして三十一歳の孝謙天皇は祥瑞や神託が大好きな、だまされやすい天皇だった。





               和新笠

                ‖―――――――山部王

天智天皇――志貴皇子―――――白壁王

                ‖

               井上内親王(伊勢斎王 聖武天皇長女)

県犬養広刀自         不破内親王(夫・塩焼王 聖武天皇三女)

  ‖――――――――――――安積親王(聖武天皇皇子)

聖武天皇           

  ‖――――――――――――孝謙天皇(阿部皇太子 聖武天皇次女)

光明皇后


天智天皇――志貴皇子―――――白壁王

      大江皇女(天智娘)坂合部女王(志貴娘)

       ‖        ‖

       ‖―――――――大市王(弟)

天武天皇――長皇子      智努王(兄)


      大伴旅人―――――大伴家持(安曇親王・内舎人)

      佐伯人足―――――佐伯今毛人(聖武天皇・内舎人)


天武天皇――新田部親王――――塩焼王

      舎人親王      ‖

               不破内親王

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