一  波乱の藤原式家  藤原広嗣の乱

       

七三九年(天平てんぴょう九年)から七四一年(天平一三年) 


七三九年(天平十一年)の春。

三月二十三日の早朝に、聖武しょうむ天皇は叔母の元正げんしょう太政だじょう天皇と一緒に、みかの原に出かけた。

みかの原は平城京へいじょうきょうの北東にあり、盆地のなかを木津川きづがわが流れていている。聖武天皇は川の北側にある右大臣うだいじんたちばなの諸兄もろえの別荘に招かれてから、この地を好んで今では離宮りきゅうを持っている。

木津川の北側は山が迫って平地がせまく、その平地も北から南へのゆるい坂になっているが、川をこえた南側には広く平らな土地が開けていて明るくのどかな場所だ。平城京とそれほど離れていないので、早朝に都を立てば午前中に着ける。

貴族きぞくと呼ばれる五位以上の官人かんじんは天皇と太政天皇のお供をして、みかの原に行ったから、宮城きゅうじょう(高さ五メートルのへいで囲まれた、官庁かんちょう儀式ぎしきの場や天皇の住居がある地区)には五位以下の官人の姿があるだけで、内裏だいり(宮城のなかにある天皇の居住区)も静まりかえっている。

天皇が都に戻るのは三月二十六日だから、内裏に残った女官にょかん久米くめの若女わくめにとっては骨休めができる三日間のはずだった。


都の人口を半減させるほどの猛威を振るった痘瘡とうそうの流行で、一年七か月前に久米若女は愛する人を亡くした。藤原不比等ふひとの三男で、藤原式家しきけ当主とうしゅ宇合うまかいだ。

宇合がって、まだ一年七か月。今朝、聖武天皇が出立されたあとで上司から留守中の心がまえなどを説明され、家に帰るものは届けるようにと言われた。それで若女は戸惑とまどっている。

なにかをしなければと思っても、しなければならないことを後回しにしているせいで、気だけはあせるのに何事にも身が入らない。宇合を亡くしてから、ずっと若女はこうなのだ。言いつけられることはできても、自分で決めたり動いたりすることが、めんどうでたまらない。

二十七歳の久米若女には、宇合とのあいだに今年で七歳になる息子がいる。宇合が亡くなったときは五歳で、まだ宇合の家族に紹介されていなかった。藤原一族に息子を認めさせたいが、どうすればよいのか、いまの久米若女には分からない。

許可をとって里帰りしても良いといわれたときに息子に会いに行こうと思ったが、「行こう」が「行かなくては」という義務感にかわって気が重くなる。息子が嫌いなわけではないし、会いたくないわけでもないが、なぜか、おっくうなのだ。

久米若女は、六歳のときからめのわらわとして内裏で働いてきた。女童は女官にょかん女儒にょじゅの下で働く幼女で、掃除、使い走り、しもの世話などなんでもする。

若女は人形のように左右対称の整った顔立ちをした物覚えのよい子供だったので、早くから女官たちに覚えてもらえた。それがはげみになって良く働いた。そのころの夢は、いつか女官になることだった。

成長すると女官になることのほかに、貴族と恋をしたいという夢が加わった。内裏で働く独身女性の多くが持つ夢だ。その夢を若女は手に入れた。だからかもしれない。宇合が亡くなったあとに、どうやって生きてゆくかの切りかえができない。

幼いころから内裏で働いてきた久米若女にとって、十八歳も年上の宇合はいとしい人であるとともに、頼ることができる保護者のような存在だった。

宇合が生きていたころは、いまより、ひんぱんに実家である兄の家に帰っていた。さとは宇合との逢瀬おうせの場であり、息子を交えて団欒だんらんをする家でもあった。若女の息子は体が弱くて熱をだすことがあり、無事に育つかどうかと心配したものだ。その子が歩きだして、歯が生えて、言葉を話すようになってと、育ててくれている兄嫁もまじえて、宇合と会うたびに息子の成長を喜んだ。

宇合が亡くなってからは、息子の成長を見聞きするのが辛くなった。一緒に喜び、一緒に心配する人がいなくなったからだろう。里帰りして息子に会っても、健康のことをたずねるぐらいで話がはずまない。

息子は年より小柄で、若女によく似た美しい顔だちをしている。もしも宇合の面影をしのべる子だったら違ったかもしれない。


なんとなく頭が重いから息子に会うのは明日にしよう…。久米若女はふすま(掛け布団)をかぶって横になった。

「若女さん。久米若女さん」

いつの間にか眠っていたのだろう。顔見知りの女儒じょじゅ大野仲千おおののなかちが座っていた。

「お休みのところをすみません。もう黄昏時たそがれどきですから、うたた寝をなさると風邪をめしますよ」と仲千。

「ご用?」と起きて座った若女が聞く。

鳥女とりめさんが、夕餉ゆうげのあとに訪ねても良いかとおっしゃっています」と大野仲千。

「あなたに使いをたのんだの? しょうがない人」

勝部すぐりべ鳥女は、若女と仲の良い采女うねめだ。

内裏につとめる女性の出自しゅつじは色々で、皇族の女王にょうおうも、高官の妻や娘も女官として働いている。

若女のように子供のころから女童として仕えるのは下級官人の娘で、中、上級官人の娘は成人してから仕えはじめる。

大野仲千は、参議さんぎ(国政に関与する太政官だじょうかんの一人)で鎮守府ちんじゅふ将軍しょうぐん大野おおのの東人あずまびとの娘で、今年から内裏で働くようになった十九歳。貴族のなかでも公卿くぎょうとよばれる高官の娘で利発だから、見習いとして女儒を一年ほどしたあとで、すぐに女官になるのだろう。

そのほかに地方の国司こくしから送られてくる采女うねめがいる。采女はぐんの少領しょうりょうから上の家柄の、美しく頭の良い娘が選ばれるが、采女から女官になるものはいない。私生活では、ため口を使っているが、これは、いつ立場が逆転するか分からない女性たちが、仲良く共同生活を送るための知恵だ。

「そうねえ…」と若女。

内裏で働く女性たちの楽しみは貝合かいあわせに双六すごろく、そして、おしゃべり。頭の回転が早くて言いたいことを口にする鳥女とのおしゃべりは、良い気晴らしになるだろう。

「お待ちしていますと伝えてくださいな。それから、わたし、今夜は食べたくないから」

「おかげんが悪いのですか?」

「そうではないけど、悪いけど仲千さん。伝えてくださいな」

「はい」

仲千が帰ったあと襖をたたみ、若女はあてがわれている場所を掃除した。若女のような散位さんい(役職がない)の女官は自分の部屋を持っていない。大きな部屋に几帳きちょう(動かせる間仕切り)をたてて小分けにして使っている。若女が使っているのは東に突きだした場所なので、ほかの人よりは密閉感がある。それに今夜は人が少ないから、好きなこうをきいてもよいだろう。勝部鳥女を迎えるために若女は香をそろえはじめた。


「若女」と低いささやきを聞いたときに、そら耳かと若女は思った。

「若女」まちがいではない。聞き覚えのない男の声がする。どうして内裏のなかで、男が自分の名を呼ぶのだろう。

「どなた?」と不思議に思った若女が外をうかがった。

「どなたは、ないだろう。久米若女。今夜、訪れるとふみで知らせただろう」と大弁だいべん石上いそのかみの乙麻呂おつまろが、ヌッと顔をだした。     

「そのような文のことは存じませんが」

「こうして香を焚いて待っていたのに?」と石上乙麻呂。

「左大弁さま。なにか思いちがいをしておいでです」

「これまで何通も文をかわし、心を結びあった仲ではないか」

「たしかに二回ほど文をいただきましたが、読まずにお返ししました。このようなことをなさらないでくださいと、お使いの従者じゅうしゃにはっきりと言づてました。わたしから文を送ったことはございません」と若女。

「十二通、いや十三通だ。若女。おまえは、そのたびに喜んで返事をよこした」

「左大弁さまと文を交わしたおぼえはありません。

わたしは届けられた文も読まずに返しましたし、わたしから返事を送ったことはありません。なにか思いちがいをしていらっしゃるのでは、ございませんか」

「なかなか抜けだせなくて、さぞ待ちがれただろう。

それで、すねているのか」と乙麻呂。

ようすが変だと若女も気がついた。それに今夜は人がいない。

「お酔いになっておられますか。ここは内裏です。ともかく、すぐにお引きとり下さい!」と若女。

「やっと二人になれた。きげんを直してくれ。いまめあわせをするから」と石上乙麻呂が部屋に入ろうとする。

「聞きわけのない。どうぞ、帰ってください。でないと人を呼びます!」と若女が乙麻呂を押しだそうとする。

「つれないそぶりで思わせぶりなことをする。そういうところが可愛いくてたまらない」と乙麻呂が、若女の腕をつかんで部屋に入ってきた。

「はなしてください。出ていってください。

この香は宇合うまかいさまが好まれたかおりです。

わたしが待っているのは、ただ一人、宇合さまだけ。

左大弁さま。はなしてください!」

若女をおさえようとしていた乙麻呂が、いきなり若女の顔をなぐりつけた。たおれた若女のうえに馬乗りになって、さらに乙麻呂は若女をなぐった。

「宇合の名を口にするな! 宇合は死んだ。死んでしまった。藤原のやつらは、みんな死んだ!」とわめきながら、乙麻呂が若女の着ているものを引きちぎる。

若女は助けを呼ぼうとしたが、恐怖で声がでなかった。のしかかってくる乙麻呂が重く、華奢きゃしゃな若女は息もつげない。

乙麻呂が若女の足を体で押さえつけた。足のつけ根に激痛が走しる。つづいてちつに刃物で切られたような鋭い痛みを感じた。乙麻呂の体が動くたびに膣や股関節や胸が激しく痛む。それでも若女は声がでなかった。

そのとき勝部鳥女が入ってきた。

「……タスケテ」と若女が小さなカスレ声をだした。

「助けて! 鳥女さん。助けて!」少し声が大きくなった。

「なにをしているの!」と事情を理解した鳥女が、乙麻呂の肩を両手でつかんで離そうとしたが突き飛ばされた。ころがった鳥女は起きあがると、乙麻呂の烏帽子えぼしを両手でつかんでもぎとり、まげをにぎって腰を落としてうしろに引っぱる。

「痛い!」と乙麻呂の体が若女からはなれた。

「大変だ! だれか、だれか来て! 助けて! だれか助けて~! ケダモノ! 人殺し! ヘンタイがいるーゥ!」と、鳥女が大声で叫びはじめる。

乙麻呂が立ちあがって、着ているものを直しはじめた。鳥女は叫びつづけている。

人が集まってくる気配がしたが、若女は顔をうごかす力も残っていなかった。

「左大弁さま。ここで、なにをなさっておられます!」と、飯高いいだか笠目のかせめの声が聞こえた。体調をくずして、めずらしく帝の行幸に供奉ぐぶしなかった笠目は、聖武天皇や元正太政天皇の信頼が厚い古参こさんの采女だ。

「すぐに、お引きとりください。舎人とねり衛兵えいへい)が案内しますから、お立ちのきください!」

笠目にうながされて乙麻呂が出て行く音がする。鳥女が若女の体を几帳でかくした。

「あの方、大弁官の石上乙麻呂さまでしょう?」

「なにがあったの?」と騒ぎを聞いて集まった女たちが、小声で話しているのが聞こえる。

「笠目さん。若女さんの鼻からもくちびるからも血がでています。

あのクソ野郎。女の顔をなぐったのよ。サイテイの畜生だよ!」と鳥女が、集まった女たちにも聞こえるように、大声で飯高笠目に告げた。

「けがをしているのですか。そばに寄っても良いですか」と言いながら、笠目が几帳のなかに入ってきた。

「たしか女医さんは、こちらに残っておられるはずです。

由利さん。連絡をして来てもらってください」と自分が連れてきた女需に、笠目が命じる。

鳥女が若女を抱き起そうとしたが、若女が悲鳴をあげた。

「どうしたの。ここが痛いの。

笠目さま。きっと足のつけ根の骨がはずれていますよ。骨接ほねつぎの先生も必要です」と鳥女。

「なぐったの!」「最低」「本気で抵抗したのね」と集まった女たちの声の調子が、好奇心から怒りに変わってきた。

「どなたか、骨接ぎの先生を呼んでください」と笠目が言う。

「わたしがやります」と大野仲千が答えた。

「女儒たちは熱いお湯と、きれいな布を持ってきてください。ほかの方は、お引きとりください!」と笠目が女たちをさばく。

それらのようすをぼんやり聞きながら、若女は粉々にこわれた自分を感じていた。このまま死んでもいいと思うかたわら、こうなると息子の顔が浮かんでくる。

いま死んでしまったら、父親のいない幼い息子はどうなるのだろう。こんなわたしが、息子のために何かできるのだろうか。

鳥女と笠目が、若女を着がえさせて寝かしてくれた。日が落ちて暗くなった室内に鳥女が明かりをともした。

勝部鳥女は二十六歳になる采女だ。飯高笠目も伊勢国いせのくに(三重県海岸沿い)出身の采女で四十一歳になる。若女が女童として働きはじめたときに、すでに笠目は内裏にいたから二十年余りもおなじ所でくらしている。

笠目がつれていた女儒が戻ってきて「女医さんは、すぐに来てくれるそうです」と伝えた。

「紹介しましょう。わたしのそばにおいている新しく入った女儒の下道しもつみち由利のゆりです」と笠目。

「お見知りおきください」と由利が頭をさげた。

「骨接ぎの先生をむかえに舎人をやりました」と大野仲千も報告にきた。

「お湯の具合を見てきましょうか」と由利。

「由利さんと仲千さんは、ここにいてください。

体を拭くのは女医さんが来てからにしましょう。

それで、若女さん。このあとは、どうしましょう」と若女のそばに座った笠目が聞く。

「どうするって。若女さんを見てよ。傷だらけよ。

左のほほが赤くなって目がつぶれている。決まっているでしょう。

あのケダモノを罰してもらいましょうよ」と鳥女。

「鳥女さん。あなたにも関係することなのですよ」と笠目。

「わたし?」と鳥女。

「だれが見ても、若女さんは暴力をふるわれて犯されています。

でも、これを訴えると、内裏での強姦罪ごうかんざいになります」と笠目。

「そうよ。まちがいないわよ」と鳥女。

「内裏での強姦罪は、犯した者も犯された者も罪になります。両方の友人も連座れんざの罪(罪人の家族や友人も罪になること)でさばかれます」と笠目。

「そんなバカな・・。悪いのは、あの男よ」と鳥女。

「鳥女さんの場合は連座でなくても、暴行罪でしょうか、それとも上官への反抗罪でしょうか。りっぱに犯罪者にされるでしょう」と笠目。

「ナゼ?」と鳥女。

「左大弁さまに手をあげて、烏帽子をとったでしょう?」と笠目。

「止めようとしただけよ。つかみやすかったから引っぱったら烏帽子がとれたのよ」と鳥女。

「こちらが騒がなければ、むこうも恥の上塗うわぬりはされないと思います。

今夜、ここに残っていた女官や采女や女儒には口止めをします。そうすれば罪に問われません」と笠目。

「わたしは若女さんを助けようとしただけよ。

若女さんは、あいつに暴力をふるわれて大けがをしているのよ。被害者でしょ。

どうして、あのヘンタイを訴えると、若女さんや、わたしが裁かれるのよ。おかしいじゃない!」と鳥女。

「そう決められているのです」と笠目。

「笠目さん。もし、わたしが罪になるとしたら、どんなけいを受けるの。殺されるの?」と鳥女。

「まさか。流罪るざいですよ」と笠目のうしろから、女儒の由利が口をはさんだ。

「流罪って何年ぐらい。どんな扱いをされるの?」と鳥女。

「おそらく、つぎの恩赦おんしゃで帰れますから一年ぐらいだと思います。

疫病えきびょうが流行ってもかんばつが起こっても恩赦がでます。

経験がありませんから、流刑先での扱いはしりません。

想像ですが、出身国の郡司ぐんじさまから流刑先の役人にお金でも渡せば、それほど、ひどい扱いはされないと思います。群司さまは、お金持ちでしょう?」と由利。

「たしか下道由利って聞こえたようだけど、あなたは吉備きび下道氏しもつみちし?」と鳥女。

吉備は国ではない。もっと、ずっと古い時代に、今の備中びっちゅうのくに(岡山県西部)、備前びぜん国(岡山県東南)、美作みまさかのくに(岡山県北東)、備後びんご国(広島県東部)をまとめて吉備と呼んだ時代があった。

「はい」と由利。

「わたしは出雲いずもの国(島根県東部)からきた采女よ。

さすが出雲を滅ぼした吉備人だよね。よくもまあ新入りが、えらそうに言ってくれること!」と鳥女。

「知っていることを言っただけです。知らないことは口にしていません!」と由利。

「何百年も昔のことで、ケンカをしてるときですか! 

いまは二人とも、内裏に仕える仲間でしょう」と笠目。

「あなた、いくつなの?」と鳥女が由利に聞く。

「二十一さいです」と由利。

「ふーん。いま言ったことホントだよね」と鳥女。

「はい」と由利。

「それなら、わたしは流刑になってもいい」と鳥女。

「鳥女さん?」と若女が、鳥女に顔を向けた。

「わたしは来たくて、ここに来たわけじゃないのよ。

わたしの夢は出雲の国で、わたしの言うことを何でもハイハイときく男を見つけて、子供をたくさん産むことだった。

だれも都に行きたがらないから、わたしが引きうけただけ。

どこに流されようと、たった一年でしょう。ひどい扱いをされないのなら行ってやるわよ」

若女が片手をついて半身を起こした。

「ありがとう。こんなことに巻きこんでしまって、ごめんなさい。

勝部鳥女さん。この、ご恩は生涯わすれません。

笠目さん。わたしは藤原宇合の妻で息子もいます。

亡くなったときに、宇合さまは正三位の式部しきぶのかみで、参議さんぎ太政官だじょうかんでした。

宇合さまのためにも、息子のためにも、あんな男とじょうを交わしたと思われたくありません。暴力で犯されたのです。わたしは、あの男を訴えます」と若女。

「おおやけにしてしまうと、いずれは出仕されるご子息に、このことを背負わせることになりませんか?」と笠目。

「隠しても同じだと思います。噂はおさえられませんんし、あいまいにすると、かえって何を言われるかわかりません」と若女。

「そうね。どっちみち若女さんの子は、これを背負って宮仕えをしなければならないでしょう。なら裁いてもらって、あのクソが力ずくで強姦したことを、はっきりさせたが良いわよ。

そのほうが、あることないことを付け加えた噂よりはましよ」と鳥女。

「わたしも、そう思います」と若女。

「分かりました。若女さんは、藤原氏のどなたかと懇意こんいにされていますか」と笠目。

「いいえ。宇合さまが亡くなられたときに息子は五歳でした。

五歳になったら、おやしきでの正月の祝いの席に呼んで、式家しきけのご家族に引きあわせると言っておられました。

でも痘瘡の流行で正月の祝いもなく、連絡も取れないままに亡くなられたので、式家の方々は息子のこともご存じないでしょう。

まだ息子は、藤原式家に認められておりません」と若女。

「あのう…若女さんと宇合さんのあいだに、お子があることは、藤原百能ももよしさんも、わたしも知っていますが、手助けになるでしょうか?」と女需の仲千が控えめに言った。

みかの原行幸の供ををしている藤原百能は、藤原京家きょうけ麻呂まろの娘で、藤原南家なんけの嫡男の豊成とよなりの妻だ。大野仲千は、藤原北家ほっけ永手ながての妻で、同じ年で同じときに内裏につかえはじめたから仲が良い。

「子供の認知なら安心なさい。宮中の女たちが、あなたが宇合さまの妻だったことも、お子が生まれて宇合さまが喜んでいらしたことも知っています。

噂ならみかども、ご存じかもしれません。

お子の名は? いまは、どちらにおられます」と笠目。

「名は雄田麻呂おだまろで、久米の兄の家で育っています」と若女。

「帝のお供で高位の方々は、みかの原におでかけですが、光明皇后こうみょうこうごうさまは、こちらにとどまっておられます。

明日、わたしが皇后宮に参上さんじょうさせていただき、皇后さまに子細しさいを伝えて、お力ぞえをおねがいしてまいりましょう」と笠目。

「笠目さん。そのときに女医さんと骨接ぎの先生の診断書をもっていってください。明日になれば、若女さんの顔はもっとはれあがって、ひどくなります。似顔絵もお持ちになったらいかがでしょうか」と由利が助言した。

「あなたって、知恵がまわるのね」と鳥女。

中宮ちゅうぐうにおられる皇太夫人こうたふじんのお耳にも、入るようにしておきますか?」と鳥女をチラッと見ただけで、由利がつづける。

「皇太夫人って、帝のお母上の?」と鳥女。

「はい。お耳に入れても何もなさらないでしょうが、皇太夫人もご存じだということが力になるかもしれません」と由利。

皇太夫人とは聖武天皇の母の藤原宮子みやこのことで、藤原不比等ふひとの長女だ。母はちがうが光明皇后は不比等の三女になる。聖武天皇は母の異母妹を妻にした、藤原氏の血が濃い天皇だった。

「皇太夫人は、ずっと中宮院に引きこもって、帝にもお会いになったことがなく…そういえば去年の暮れに、なんて方だっけ? 長くとう(中国)に留学していた看病かんびょう禅師ぜんじ(病人の世話をする僧)の治療が効いて、はじめて帝にお会いになったって騒いだっけ。

まって。ちょっと変な噂を聞いたわ。皇太夫人と、その看病禅師の仲が怪しいとかって」と鳥女。

「鳥女さん! あなたも流刑になるのですよ。いま、ここで、そんな話が必要ですか!」と笠目が叱る。

「その看病禅師は玄昉げんぼう法師ほうしです。一緒に十八年も唐に留学していたのが下道真備まきび

身ごもった母を残して唐に渡った、わたしの父です。そのあいだに、わたしの母は亡くなりました」と由利。

「アララ…」と鳥女。

「若女さん。ご存じだと思いますが、宇合さまのご嫡子で、式家の当主の広嗣ひろつぐさまは、玄昉法師とわたしの父を嫌っておられます。

わたしも父とのなじみは浅いのですが、広嗣さまが嫌われるほど悪い人とも思えません。父を通して、皇太夫人のお耳に届くように玄昉法師に知らせても良いでしょうか」と由利。

「広嗣さまは儀式ぎしきうたげの席で、なんどかお姿を見かけしていますが、息子のことを相談する気になれませんでした。

おおやけにするのですから、どうぞ皇太夫人のお耳にも入れてください」と若女。

「女医さまがこられました」とお湯を運んできた女儒たちが知らせる。

若女は部屋に残っている石上乙麻呂の臭い臭いを消そうと、香炉を引き寄せて宇合が好んだ香を吸いこんだ。

もし光明皇后と宮子皇太夫人が助けてくれれば、きっと藤原氏が息子を守ってくれるだろう。おきてしまったことは、もう戻せない。これからは過去をかえりみるのではなく、息子の未来のために今できることを何でもしてゆこう。

この夜のできごとが、宇合を亡くした喪失感そうしつかんに埋もれていた久米若女を、現実にひき戻して立ちあがらせた。



三月二十六日。

若女がおそわれてから三日後の早朝に、しき家の次男の藤原宿奈麻呂すくなまろは、なん家の長男の藤原豊成とよなりの突然の訪問をうけてアタフタと衣装をととのえてでてきた。

二年余りつづいた痘瘡の流行で働き盛りの人が亡くなってしまったので、藤原一族も年長者がなく、いまの藤原氏のなかで一番年かさなのが三十五歳の南家の豊成だ。

「どうも、すいません。おまたせしました。ずいぶん早くお帰りになりましたね。

真夜中に、みかの原を立ったのですか?」と宿奈麻呂。

今日は天皇が平城京に戻られる日だということは知っているが、一緒に行った豊成が空が白みはじめたときに、なぜ式家に来たのか分からない。

豊成と宿奈麻呂はイトコだが、父親が十四歳も年の差がある兄弟だったので、宿奈麻呂は二十三歳。豊成は従四位下の参議さんぎ兵部ひょうぶのかみと貴族の中でも高い身分で、宿奈麻呂は正七位下。二十歳を過ぎた蔭子おんしとして位階はもらったが、まだ朝廷に出仕しゅっししていない。

「お許しをいただいて、昨夜、帰ってきた」と豊成。

「兄がなにか?」と、まず宿奈麻呂が聞いた。

宿奈麻呂の兄で式家の当主の広嗣ひろつぐは、従五位下という最下位の貴族の官位をもらっているが問題児だ。長い留学をおえて唐から帰ってきた玄昉と下道真備を、多くの官人を痘瘡で失った聖武天皇が重用ちょうようするのを非難して、去年の暮れに大和やまとの(奈良県)かみから太宰だざいのしょうすけにされて九州に左遷させんされたばかりだ。政道批判をしたのだから、藤原氏でなければ左遷ではなく流刑になっただろう。

「また広嗣が、なにかしでかしたのか?」と豊成。

「いや、そういうわけでもありませんが…。先月、兄が綱手つなてを大宰府に呼びよせました。なぜ弟を九州に呼んだのでしょう」と宿奈麻呂。

「綱手は、たしか四男だったか。まだ二十歳になったばかりだろう」と豊成。

「そうです。綱手は、お調子者ちょうしもので兄と仲は良いのですが、わたしに隠れてコソコソしているのがイヤな感じで・・」と宿奈麻呂。

「たしかに気がかりだが、まあ九州は遠いから心配することもないだろう」

「そうですよね。大宰府にいてくれれば大丈夫ですよね」と宿奈麻呂。

「兄弟のことは、他人ひとさまのことより面倒なものだ。

わたしも、いつか弟の仲麻呂なかまろに足をすくわれるのではないかと気が気じゃないから、おまえの気持ちも分からないではないが・・」と豊成。

「どうして仲麻呂さんが豊成さんを?」と宿奈麻呂。

「仲麻呂は、わたしの同母の弟で二歳下だ」

「ええ、それが?」

「それが、仲麻呂にとっては大問題なのだ。

たった二年だけ早く生まれた凡庸ぼんようなわたしが長男で、できの良い仲麻呂は次男だ。わたしは嫡子ちゃくしとして大切にされて当主となったが、次男以下は正妻の子だろうが妾の子だろうが庶子しょしで、わたしの下におかれる。

仲麻呂は、それが腹にすえかねるらしい。

幼いころから嫌われていると思っていたが、このごろは敵意さえ感じることがある」と豊成。

仲麻呂は三十三歳。いまの藤原四家の中で豊成につぐ二番目の年長者で、叔母の光明皇后のお気に入りだ。世間では才子さいしと評判だが、藤原氏のなかでは実直で気安い豊成の方が親しまれている。

「今回の、みかの原の行幸ぎょうこうには仲麻呂も行っている。だから光明皇后さまも、わたしを呼び戻されたのだろう。

ところで宿奈麻呂。たしか、お母上は亡くなられたはずだな」と豊成。

「はい。痘瘡で亡くなりました、葬儀にきてくださったでしょう」と宿奈麻呂。

「あのころは、わたしも父上の葬儀の手配をして、そのうえ、毎日、毎日、叔父たちや親族や知人の葬儀がつづいたから、どれに出たのか、どれを代理ですませてもらったか、どなたが亡くなったのかの記憶があいまいで…。

そうだ! 思いだした。まちがいない。たしかに、おまえのお母上の葬儀にうかがった。亡くなっていた…それは良かった。なによりだ」と豊成。

「豊成さん。いま、母が亡くなって良かったって言いましたか?」と宿奈麻呂が怖い顔でにらみつけた。

「イヤイヤ、宿奈麻呂。怒らず気をしずめて聞いてほしい。

久米くめの若女わくめを知っているか」と豊成。

「話を、そらしましたね」

「そらしてない。そのうち分かる。久米若女を知っているか?」と豊成。

「会ったことはないけど、名だけなら知っていますよ。宮中一の美女と噂に高い女官でしょう」と宿奈麻呂。

「その久米若女が、宇合叔父の息子を生んでいる」と豊成。

「へえー。初耳です。父もやるもんですねえ」

「内裏では良く知られていて、わたしも百能から聞いて知っていた」と豊成。

「父の子なら、わたしの弟ではないですか。名や年は?」と宿奈麻呂。

雄田麻呂おだまろ。七歳と聞いた。

そこでだ。石上いそのかみ乙麻呂のおつまろも知っているな」と豊成。

「豊成さん…。知っているもなにも、乙麻呂は、わたしの母の弟で、わたしの母方の叔父で、わたしは乙麻呂叔父の邸で生まれて育ち、兄が大宰府に赴任した三か月まえまでは、その邸に住んでいました。

どうしたのです? 熱でもあるのですか。それとも頭を叩かれでもしました?」と宿奈麻呂。

「どんな人だ?」と豊成。

「どんな人って・・・。なんなら医者を呼ばせますが」と宿奈麻呂。

「石上乙麻呂のことを、おまえが、どう思っているか教えてくれないか」と豊成。

「どうしてもというのなら…いいですよ。

乙麻呂叔父さんは、元明げんめい天皇のときの左大臣さだいじんで、都が平城京へいじょうきょうに移るときに、一人だけ廃都にのこされて亡くなった石上麻呂まろの子です」

「そこは知っているから、はぶいていい。おまえが感じたことを教えてくれ」と豊成。

「そうですね。固くて几帳面な人です。教養があって和歌わかも上手です」と宿奈麻呂。

「それも知っている。一緒にいて、どんな感じだ?」と豊成。

「一緒にいてですか。面白くないというか…。いえ。そうですねえ。

どう言えば良いかな。なんというか、父上と一緒にいると色々話すことができました。叱られたり笑ったりしてね。

石上の叔父さんと一緒にいると疲れます。そうしてか分かりませんが、長くいると頭が痛くなります。

そういえば、もしかしたら石上の叔父さんは、父を嫌っているのじゃないかと思ったことがあります。石上の叔父さんの父上を旧都に置き去りにしたのは、わたしたちのおじいさんの不比等ですからね。

それに父は亡くなったときに正三位でした。石上の叔父さんは、いまも豊成さんとおなじ従四位下でしょう。年は父と変わらないのに出世に開きがありましたから、ねたみですか。うらみですか。そんなものを感じましたね」と宿奈麻呂。

「やはりな」と豊成。

「石上の叔父さんには、宅嗣やかつぐという息子がいまして、この子が愛らしい子で性格も良く、亡くなった母が息子のように可愛がっていました。こんど会ってやってください。

それで、どうしたのです? 急に石上の叔父さんの話などして」と宿奈麻呂。

「良いか。気をしずめて聞いてくれ」と豊成。

「なにを?」

「石上乙麻呂が、内裏で久米若女を強姦した。

そのことは内裏にいた女官たちが証言して、すでに皇后さまも皇太夫人さまもご存じだ。帝も知らせを受けとられた。明日にでも判決がでる。二人とも流刑だろう。

皇后さまは、残される若女の息子の身を案じておられる。宇合叔父の子だ。

どうした? 宿奈麻呂」と豊成。

「まってください。ついていけない。…ぜんぜん分かりません! 

そういう難しいことは、だれか、ほかの人に言ってください。

わたしは次男で、まだ正七位下で、自分の邸もなくて、兄に代わって亡き父の邸をあずかっているだけで、まだ二十三歳で」と宿奈麻呂。

「もう二十三歳だろう。宿奈麻呂! 宇合叔父の嫡男は広嗣だ。広嗣はどこにいる!」

「…大宰府」

「頼れる兄か? 信用できるのか? さっきは気をもんでいただろう。

広嗣は素直ともいえるが、単純で気が短く物事の筋道が分からないうえに、早とちりをして、すぐに、かんしゃくを起こす乱暴な男だぞ。

それに、ここにいない。おまえはいる。

いいか。良く聞け。いまの式家の代表は、おまえしかいない!」と豊成。

「イヤだ!」

「嫌でも聞け! 光明皇后さまは、若女の息子の雄田麻呂を式家の子として育てて欲しいと望まれている。これは皇后さまの命令だ」と豊成。

「子供を引きうけることはできます。はい。弟ですから、それはできる。

でもバカな。なんとバカな。あんなに真面目な叔父が、どうしてです。どうして?

雄田麻呂ですね。わたしの弟。その雄田麻呂と、宅嗣を…。

宅嗣はイトコです。母が可愛がっていた、わたしのイトコです。

生まれたときから知っていて、わたしを兄のように慕ってくれて、わたしも弟だと思っています。なぜ叔父は、こんなバカなことを」と宿奈麻呂。

「たしかなことではないが、痘瘡の流行で多くの人が亡くなった。

あれから、だれもが悲しみや恐怖を引きずっている。それで心を病んだ者もいると聞く。乙麻呂も心の病根びょうこんを深くしてしまったのだろう。

乙麻呂は、何通もの文を持っていたそうだ。若女どのとの相聞歌そうもんか(恋人がやりとりする歌)の形をしているが、若女どのと交わしたものではない。どの歌も乙麻呂の筆跡で、歌の調子から乙麻呂が作ったらしい。

心をむしばまれていたのだろうよ」と豊成。

「ハアー」と宿奈麻呂がためいきをついた。

「フーッ」と豊成も息をはきだした。


三月二十八日。石上乙麻呂は久米若女を犯した罪で土佐とさのくに(四国・高知県)に配流はいるされ、若女も下総しもうさのくに(千葉県北部と茨木県)に流された。

石上氏は、古代豪族の物部もののべ氏の末裔まつえいだ。若女は大和やまと政権が成立するときの軍部だった久米あたいの子孫だった。

乙麻呂の事件のあとで、聖武天皇は行幸(天皇が宮城から出ること。御幸みゆきともいう)するときの宮城に、代表責任者となる留守官るすかんをおくようになった。



つぎの年の七四〇年二月、聖武天皇は難波宮なにわのみやに行幸する。留守官は長屋王ながやおうの弟の鈴鹿王すずかおうと藤原豊成とよなり

この二人は、このさきも、たびたび留守官に任命される。

五月に聖武天皇は右大臣のたちばなの諸兄もろえの、みかの原にある別荘に行幸する。

そして六月十五日に天皇から大赦たいしゃみことのり(天皇の命令)がだされた。

「七四〇年六月十五日いぬの時(午後八時ごろ)以前の死刑以下すべての罪を赦免しゃめんせよ。管理責任者であるのに国の財産を盗った人、故意の殺人、計画殺人、他人の妻を犯したもの、贋金にせがねづくり、軍関係者の罪人はしゃのなかに入れない。久米若女は流罪地から京に召しいれる。勝部鳥女は郷里に帰らせる。石上乙麻呂は恩赦に入れない」

七月になって、一年五カ月ぶりで久米若女が下総国から奈良の都に帰ってきた。


秋七月も終わりのころに、久米の家に戻ってきた若女のもとに藤原式家から迎えがきた。

式家が息子の雄田麻呂を引きとることは流刑の前に知らされていたが、その式家の次男の母が石上乙麻呂の姉だということは、帰京したあとで若女は知った。そのときから雄田麻呂が、どんな扱いをうけているのか不安だった。

迎えの輿こしは正門から式家のやしきに入り、通されたのは身分のある客をもてなすための部屋のようだ。丁重ていちょうなあつかいに若女は少しホッとした。出むかえてくれた女性が、椅子に座って待つように勧めてくれたが若女はことわった。

女官は立ち仕事も多いから、無表情な顔をしていくらでも立っていられる。

すぐに若い男が入ってきたので、若女はていねいに立礼りつれいをした。子供のころから二十年以上も宮中につとめた、若女のような叩きあげの女官は作法にうるさい。

「藤原宇合の次男の、宿奈麻呂すくなまろです」と礼を返して男が名のった。

「雄田麻呂の母の久米若女です。このたびは、お世話になりありがとうございます」と若女も名のる。

「どうぞ」と宿奈麻呂が椅子をすすめて自分も座った。若女も座る。そのまま会話がない。

乙麻呂の姉で宿奈麻呂の母が亡くなっていることは確かめているが、宿奈麻呂は乙麻呂の甥になるから若女に対してこだわりもあるだろう。無言で座っているのは息苦しいが、呼ばれた方だから話かけることはしないで、若女は静かに成りゆきを待つことにした。

黙ったままの宿奈麻呂の目線が若女に向けられて、頭の上でとまっている。結いあげたつやのある髪に、若女は宇合からもらった深みのある翡翠ひすいのかんざしを挿していた。若女が一番大切にしているものだ。

「それ…」と、宿奈麻呂が自分の頭を指さした。

若女も手を頭にかざして「かんざし、でしょうか?」と聞きかえす。

「もしかしたら、父から?」

「はい。いただきました。見おぼえがおありですか」まさかと思うが、この人の母親とそろいのものとか、あるいは式家にとっては門外もんがい不出ふしゅつの品とか…と案じながら、若女が聞きかえす。

「いいえ。はじめて見ました。いま、雄田麻呂を呼びに行かせます」と宿奈麻呂。

「なにをしているのでしょうか」と若女が聞く。

「さあ?」と宿奈麻呂が、若女を出むかえて傍らにひかえている女性を見た。

田麻呂たまろさまがいらしているので、みなさんと、ご一緒に庭におられます」と、その女性が答える。三十代半ばでポッチャリした大きな手をしている。服装や髪型から、家族ではなく使用人の女性だ。

「息子と会う心がまえができておりません。さきに、そっと姿をのぞかせていただけませんでしょうか」と若女が切りだした。この邸で雄田麻呂が、どう扱われているのか普段の姿を知りたいからだ。

宿奈麻呂がためらいをみせた。そのあとで宿奈麻呂は、黙って若女のかんざしに目をすえる。またも無言の時に、若女の胸は不安でしめつけられる。

「わかりました。ヒナ。雄田麻呂たちを、そっと見られないか」と、やっと宿奈麻呂が、かたわらの女に聞く。

ヒナ女は目を上にむけて考えると「ございます!」

「若女さまを案内してください」と宿奈麻呂。

「宿奈麻呂さまは、ご一緒されないのですか」とヒナ女。

「わたし? 行く。はい。行きます」

そのやりとりを見て聞いて、宿奈麻呂の不愛想な態度に若女は世なれていない若さを見つけた。

宿奈麻呂は二十四歳と聞いている。陰位おんいの制(貴族の子孫に与えられる官人登用の特別待遇)で叙位されたのだろうが、まだ仕事の経験がなく社会性もない。四歳しかはなれていないが、二十八歳の若女はベテランの職業婦人だ。

たがいの立場が複雑だから社交辞令もなく、ぎこちないのもしかたがない。わざわざ呼んでくれたのは、この子の親切心なのだろう。

若女は四歳違いの宿奈麻呂を、わが子の兄だから子もおなじと思うことで気が軽くなった。

若女は貴族の邸を知らない。呼ばれたことがないので、なかに入ったことがない。貴族のなかでも宇合は公卿くぎょうとよばれる三位いじょうの高官だったので、邸も一|町(一万四千平方メートル)の広さがある。その一町を、いくつかに区切って使っているらしい。

若女が案内されたのは、新しい建物が見える低い生垣いけがきの横だった。生垣の向こうに大きな庭石があるので身を隠すのにちょうどいい。建物のまえにおかれた陶器の長椅子に、雄田麻呂が腰をかけていた。八歳になるので体が一回りも大きくなって、顔つきが少年らしく変わっている。

「わたしは次男で妻も子もおりません。式家の家長は長男の広嗣です。広嗣は知っておられますか?」と宿奈麻呂が庭に目を向けたままで、若女に聞いた。

「宴の席につかえましたから、お姿は拝見しております」と若女。

「兄とわたしは子供のころから勉強より体を動かしていることが好きで、このような遊び場を父がつくってくれました」と宿奈麻呂。

建物のまえは広く開けられていて、わらをまいた木や、矢のまとがおかれ、丸太まるたが綱で水平にぶらさげられている。丸太にまたがった少年が二人いて、それを前後にゆすっている。若女の知らない宇合の家庭の光景だ。

「ご存じでしょうが、長兄の広嗣は大宰府だざいふにいます。それで、わたしが留守番として、この邸に移ってきました。

三弟は清成きよなりですが、この春に亡くなりました。あの丸太で遊んでいる小さいほうの子が、清成の忘れ形見がたみ種継たねつぐです」と宿奈麻呂。

「おいくつです」と宇合の孫になる子に目を向けて、若女が聞く。

「三歳で、痘瘡とうそうがはやった年に生まれました。そばに立ってい女性は種継の母で、図書づしょのかみをしている外従五位上のはたの朝元ちょうげんの娘です。彩朝さいちょうという名ですが、わたしたちはアヤさんと呼んでいます。

秦のおじいさんが感染を恐れて、妊娠中のアヤさんを都からはなれた葛野かどのぐん(京都府)へ避難させていましたから、父は孫に会わずに亡くなりました」と宿奈麻呂。

秦氏は渡来とらいけい(外国から帰化した人)の豪族ごうぞくで、のちに京都となる葛野という土地に地盤を持っている。

「四弟は綱手つなてです。この弟は兄を追って大宰府に行ってしまいました。子供はいません」と宿奈麻呂。

「どうして太宰府へ行かれたのですか?」と若女。

子供たちを見て説明していた宿奈麻呂が振りかえった。それまでは似ていないと思ったのだが、振りかえるしぐさがドキッとするほど宇合とそっくりだ。

「どうしてだか、わたしも知りたいです」と宿奈麻呂。

「広嗣さんと綱手さんは、同母のご兄弟ですか?」と若女。

「いいえ。二人とも武芸が好きで気が合ったようです」と言って、また宿奈麻呂は庭を向く。

「雄田麻呂の横で本を読んでやっているのが、十八歳になる五弟の田麻呂たまろです。田麻呂は成人していますから近くに自分の邸を持っているのですが、大学が終わるとここにきて、子供たちの相手をしてくれています」と宿奈麻呂。

雄田麻呂は本を読んでもらっているのか。

烏帽子えぼしをかぶった青年を挟んで、雄田麻呂と、雄田麻呂よりは二、三歳は年上の子供が座っている。ときどき両脇の二人が、田麻呂の膝に身を乗りだして言葉を交わして笑っている。

「田麻呂は兄弟の中で一番やさしく、頭も良いので信頼して良い弟です。

そして種継と一緒に丸太に乗っている大きい方が、蔵下麻呂くらじまろです。

父には雄田麻呂のほかにも認知していない息子が残されていると聞いて、南家の豊成さんが探してくれました」と宿奈麻呂。

「雄田麻呂とおなじ年ぐらいですね」と若女。

「体は大きいけれど雄田麻呂は八歳。蔵下麻呂は六歳です。

蔵下麻呂の母親は佐伯氏ですが、痘瘡で亡くなっています。そこで相談して、こちらに引き取ることにしました。ここから見える家屋に雄田麻呂と蔵下麻呂が住んでいます。下働きの女従じょじゅうが二人の世話をしています。

ほかには夫のいる姉が二人いて、そばに住んでいます」と宿奈麻呂。

涙がでそうなほど若女はホッとした。式家は、へだたりなく雄田麻呂をうけ入れて育ててくれていた。でも一人だけ田麻呂を真ん中にして座り、雄田麻呂と親しげにしている子を紹介していない。

「田麻呂さまの左側に座っておられるお子は、どなたでしょうか」と若女が聞いた。

宿奈麻呂が、ゆっくり若女に向きあった。

「若女さま。わたしの母が石上乙麻呂の姉だということは、ご存知ですか」と宿奈麻呂が聞く。

この話はさけて通れないだろう。若女も静かに宿奈麻呂と目を合わせようとしたが、宿奈麻呂の目線は若女の目より上にあって、翡翠のかんざしに向けられている。

「わたしの母は、父のあとを追うように亡くなりました。痘瘡です」

若女のかんざしに向かって、宿奈麻呂は言わなければならないことを話そうとしている。若女はだまって聞くことにした。宿奈麻呂が両手を握りしめたが、怒りを感じないから緊張しているだけだろう。

「うちも、ほかの方たちとおなじように、親戚縁者が近くに住んでいます。

石上乙麻呂の邸は路をへだてた西の辻向かいで、こことおなじ右京四条二坊のなかにあります。わたしの母は、亡くなるまで乙麻呂の邸の一部を区切ったところで暮らしていました。

わたしが生まれて育ったのは、その母の邸です。母が亡くなってからは、それを自分のものにしましたから、わたしの邸は石上乙麻呂の邸の一部になります」と宿奈麻呂。


邸は小さいが、久米氏も親類縁者が近くに集まっている。婚姻は一夫いっぷ多妻たさい通婚つうこんで、男が女のもとを訪れて子供は母親と住む。

夫と一緒の邸に住むのは身分の高い正夫人だけだ。宇合の夫人のなかでは、先の左大臣の石上麻呂の娘である宿奈麻呂の母の身分が一番高いが、同居をせずに近くの石上乙麻呂のところにいたらしい。

人形のような顔の表情を変えず、若女は心のなかで乙麻呂をののしった。バカ。大バカ者! どうして、こんなに複雑な罪を犯した。なぜ、わたしだった?

「父に同居する妻はいませんでしたが、子供たちが遊びに来て泊まれるようにと、子供の家と遊び場を造ってくれていました。そこを改築して雄田麻呂と蔵下麻呂の家にしています」と宿奈麻呂が、かんざしに語りかける。

「おたずねの田麻呂の横で、雄田麻呂と一緒に本を読んでもらっている子は、石上乙麻呂の息子の宅嗣やかつぐです。わたしにとっては母方のイトコで母親がおりません」

「痘瘡ですか?」と若女。

「いえ。産後の肥立ひだちが悪かったからです」と宿奈麻呂。

「そうですか。それでは生まれたときからお母さまがなくて……」と若女が言いよどむ。

「父親は流刑中です」と宿奈麻呂がつづける。

「…かわいそうに。あのお子は、おいくつですか」と若女。

「十一歳です。わたしの母が、わが子のように可愛がっていました。

宅嗣は性格も頭も良い子です。幼いころから、いつも、ここで遊ばせていました」と宿奈麻呂。

若女は、思いっきり乙麻呂をぶん殴っている自分を想像した。守るべき石上家の家族があり、支えあうべき縁族の藤原式家がありながら、あのクソ麻呂。流刑先で肥溜こえだめに落ちておぼれ死ネ!

そして、おだやかな表情で静かに言う。

「わたしが穏便にすませれば良かったのでしょうね」と若女。

「そんなことをしたら父が怒ります」と宿奈麻呂が、かんざしに向かって首を振る。

「乙麻呂は、父の大切な家族を軽んじたのです。わたしの弟の母に暴力を振るったのです。叔父であっても、わたしは乙麻呂をゆるしません。

でも、わたしの母は、宅嗣を見捨てないでとたのむでしょう。子供に罪はありません。あの子たちも、いつかは官人として登庁とうちょうします。

雄田麻呂も可哀想ですが、父の罪を背負う宅嗣も哀れでなりません」と宿奈麻呂。

「子たちは事情を知っているのでしょうか」と若女が聞く。

「わたしは話していません。家のものにも口どめをしています」と宿奈麻呂。

「隠しごとは、もれやすいものです。とくに子供は思がけないところにいますから、色々なことを耳にしています。十一歳の宅嗣さまは,うすうす感じておられるでしょう」と若女。

「そういうものですか?」と伝えづらいことを伝えて気がゆるんだせいで、宿奈麻呂は全身に汗をかいている。秋七月といっても暑い。

「いずれ二人は宮中につかえますから、いまのうちから互いの人となりを知って欲しいと考えられたのですね」と若女。

「いいえ。わたしは考えると疲れるたちですから考えたわけではありません。ただ雄田麻呂も宅嗣も二人ともが哀れで、わたしにできることは二人の味方になることだけだと思っています」と宿奈麻呂の口調から堅さがなくなった。

「これからは宅嗣さまの方が、雄田麻呂より大変でしょう。

おっしゃるように子供に罪はありません。わたしも、できるかぎりのことをしましょう」と若女。

「良かった。そう言ってくださったのでホッとしました。若女さまは復職ふくしょくなさるのでしょうか」と宿奈麻呂。

「まだ好奇の目で見られるでしょうから、当分は家にいます。お声がかかりましたら、宮中で働かせていただきたいとは思っています」と若女。

「それなら、いつでも雄田麻呂を訪ねてください」と宿奈麻呂。

「ありがとうございます。そうさせていただきます。ところで宿奈麻呂さま」と

若女。

「はい」

「わたしのために、二度と式家の正門を開けないでください」と若女。

「はい?」

「式家の正門は格式高く世間にかまえているものです。

朝廷からのお使いや、藤原一族の方々のお出入りのほかは、めったなことで開けてはなりません」と若女。

「はい」

「わたしを通された部屋も、藤原氏の集まりや賓客ひんきゃくのためにだけ使われますように。それから、わたしのことを若女さまと呼ばないでください」

「なんと呼べば?」と宿奈麻呂。

「ワクメ。さまは、いりません」と若女。

「呼びづらい」

「じゃ、若女さん」と若女。

「わたしも、宿奈麻呂さんと呼んでください」と宿奈麻呂。

「あなたは式家の方なのですよ。いずれ高位こういに上がられます」と若女。

「落ちつきません」

「しかたない。ウチウチでは、そうお呼びしまじょう。では宿奈麻呂さん」

「はい」

「このかんざしの向こうに、なにか見えるのですか?」と若女。

「そこから父が見ているようで‥…」と宿奈麻呂が赤くなってうつむいた。

「そういうことですか。

では心がまえもできましたので、雄田麻呂に会いに行きましょう」と若女が言う。


「お母さま! 来てくださったのですか」と雄田麻呂の顔がほころんだ。

若女は、かがみこんで息子の右手を両手でにぎった。暖かな小さな手だ。

「お母さまが来られるのを、ずっと待っていました。

もしかしたら、わたしがいるところを、ご存じないのかと心配でした」と雄田麻呂。

もともと久米の家にあずけていたから、始終、会っていたわけではないが、それでも月に二、三回は顔を見ていた。二年近くも遠ざかっていたのは、はじめてだ。

「元気そうで安心しました。みなさんと仲良くできていますか」と若女。

「田麻呂兄さんは、色々なことを知っているのですよ」と雄田麻呂。

「お世話になっています」と若女が、田麻呂に頭を下げた。田麻呂のはにかんだ笑い方は宇合の笑みに似ている。田麻呂は邪気のない目をした十八歳だ。

「宅嗣さん。雄田麻呂と仲良くしてくださってありがとう」

居心地が悪そうにしている宅嗣には、若女から声をかけた。どうしてクソ麻呂のところに、この子が生まれたのかと思うほど、利口そうな澄んだ目に光がある美少年だ。。

「わたしは、このようなお邸をはじめて拝見します。宿奈麻呂さん。子供たちに案内して見せていただいてもよろしいでしょうか」と若女が聞く。

「ええ。どこでも見てください。わたしも一緒に行きましょう」と宿奈麻呂。

「宿奈麻呂さんは、お気をつかってお疲れでしょ。

さあ、宅嗣さん。雄田麻呂。連れていってくださいな」と若女が二人の手をしっかりとにぎった。

女官は、色々な特技を持っている。

顔と名前のおぼえは良い。天皇のそばに上がれる五位以上の貴族の位や職や、それぞれの性格や好みや交友関係も記憶する。はじめて式家を訪れて、久米若女は宇合が残した藤原式家の家族をおおざっぱに把握はあくした。

雄田麻呂を藤原氏が認めてくれれば安心だと思っていたが、その式家は頼りない青少年の集まりだった。でも、その青少年たちは、どこかが少しづつ宇合に似ていた。

八月に若女は式家をたびたびたづねて、宿奈麻呂や子供たちや邸につかえる従者とよぶ使用人たちとなじんでいった。

そして若女が都にもどって一か月半が過ぎた秋、八月二十八日の陽が落ちはじめるころに、再び宿奈麻呂が「すぐ来ていただきたい」と若女に輿を寄こした。



邸に着くと待ちかまえていたヒナ女が、はじめての日に通された部屋に案内する。

そこには、すでに藤原南家の豊成と、宿奈麻呂と田麻呂がいた。

「これは、久米若女さん。あいさつは抜きです。椅子にお座りください」と豊成が声をかける。

「わたしは立っております」と若女。

「急をようする家族会議だ。あなたにも、たのみがありますから席についてください。ヒナ女も、どこかに座って、いや。そのまえに、ここの家司けいしおおのの子虫こむしと、稲の収穫や支出を帳簿をつけたりする男…大和の、だれだったか…」

大和やまとの弓明きゅうめいです」とヒナ女。

「それそれ、彼らも呼んできて立ち会わせなさい。それから、のどがかわく。冷たい水をたくさん用意してくれ」と豊成。

雄田麻呂を心配してきた若女は、それとはちがう大事が起こったことを悟って椅子に座った。すぐに子虫と弓明とヒナ女が座り、小女こおんなが井戸から汲んだ冷たい水を水差しに入れてきた。

「そろったところで、はじめよう」と豊成があらたまった声をだす。

「本日、大宰府だざいふ広嗣ひろつぐが、帝に送った奉書ほうしょが朝廷にとどいた。僧正そうじょう玄昉げんぼうと、衛士えじのかみ下道しもつみち真備まきびが天下の災害の原因になっていると政治を批判して、二人を追放することを言上げんじょうしてきた」と豊成。

「まえに、それをして大宰府に左遷されたのに、どうして、また同じことを奏上そうじょうするのですか?」と宿奈麻呂。

「わたしもヤツの気がしれん。藤原一族のなかでは、わたしが一番高位にいて参議さんぎとして太政官会議だじょうかんかいぎに出席できるが、まだ従四位下で発言力が弱い。

なにを血迷ったかと思うのだが、近日中に広嗣が武装ぶそう蜂起ほうきをするだろうという」と豊成が水を飲む。

ほかのものは訳もわからず、固唾かたづを飲んで豊成の話をまった。

「かなりまえから広嗣の不審な行動が、大宰府から報告されていたようだ。すでに帝や大臣は知っておられたらしい。

今日になって太政官会議でおおやけにされた。

わたしは、はじめて知った」と豊成は、みんなを見まわして言葉をついだ。

「朝廷は、広嗣の動きに関係なく、準備ができたら、すぐに討伐のための軍を編成するときめた」と豊成。

「朝廷の討伐軍って、兄を討伐するのですか。兄一人のために軍を作るのですか?」と宿奈麻呂。

綱手つなても一緒だ。広嗣は大宰府に行って何年になる?」と豊成。

「エーッと」と宿奈麻呂。

「大宰府に着かれて一年と九か月になります」と家司の子虫が答えた。

「綱手は?」

「二か月おくれて出発されました。到着なさったとの、ご連絡はございません」と子虫。

「広嗣から連絡は?」と豊成。

「到着なさったあとで、足りないものを送るようにと手紙が届きました。それを送りましたが返事はございません。そのあとは季節が変わるときに、大宰府に手紙と衣類を送っておりますが、ご返事がありません」と小虫。

「どんな文をだした?」と豊成。

「ごあいさつと、こちらの、みなさまのごようすと、必要なものはないかとか…お体をお大切にとかですね」と思いだしながら子虫が答える。

「広嗣から便りはなかったのだな」と豊成が念をおす。

「一度もありません。だから返事がないから心配だとか、ごようすを知らせて欲しいなどグチめいたことも書きました。余計なことをしたのでしょうか」と子虫。

「宿奈麻呂は、広嗣と連絡をとったか?」と豊成。

「いいえ。兄もわたしも手紙は書きません」と宿奈麻呂。

「田麻呂は?」

「連絡していません」

「子虫。おまえの手紙は広嗣には渡されずに、大宰府があずかっていると思う。

都にいる弟たちが、広嗣と関係がないことを示す証拠になるだろう。

大宰府に行ってから、広嗣と綱手は隼人はやとを集めて軍を作ったらしい」と豊成。

隼人というのは九州南部を中心とする、まだ大和政権に完全に服従していない人たちのことだ。

「隼人の軍! なんのために? 玄昉と下道真備を討つためにですか。

九州から隼人をつれて都に攻めいり、宮中にいる僧侶と官人を討つつもりですか。

ワケが分からない。兄は浅慮せんりょなところがありますが、そこまでバカじゃありません」と宿奈麻呂。

「たった一年九か月で南九州の隼人をまとめた。

そんな大声をださなくても、思っていたほど馬鹿でないことは分かる。

それだけの力と魅力があるのだろう。

だが宿奈麻呂、そういう疑問はあとにしてくれ。

いまは、この式家を守ることが問題だ。一両日中に広嗣は謀反人とされる。

軍を起こして帝にそむけば大逆罪だいぎゃくざいだ。なるべくるいが広くおよばないようにしたいが、式家は連座れんざを逃れられないだろう」と豊成。

連座というのは、事件に関係がなくても、罪人の家族や親しい友人を同罪として裁くことをいう。

「兄や綱手はどうなるのです」と宿奈麻呂。

「宿奈麻呂。そういう話はあとでしろ。

式家では、宿奈麻呂と田麻呂が成人しているが、あとは未成年だ。

連座になるのは宿奈麻呂と田麻呂だけですむはずだが、軍をひきいての反逆とは、ことが大きすぎる。いいか。みんな。

すぐにでも宿奈麻呂と田麻呂は捕縛ほばくされて牢につながれるかもしれない」と豊成。

「わたしが?」と宿奈麻呂。

「罪状が決まるまでは邸で謹慎きんしんができるように、できるかぎりのことはするが約束はできない。

邸で謹慎することができたら、門を閉めて衛府えふの兵が監視かんしすることになる。ほかとの連絡はできない。

子虫。ヒナ女。弓明。日常の動きもひかえめにしろ。監視のものに疑われないようにしてくれ」と豊成。

「はい」「わかりました」と良く理解できないまま、子虫とヒナ女と弓明が答える。

「久米若女さん。痘瘡で式家は手慣れた奉公人も失った。もとから家刀自いえとじ女主おんなあるじ)はいない。

それに宇合叔父の妻で残っているのは、あなただけなのだ。

宿奈麻呂と田麻呂が囚獄しゅうごく配流はいるにされたら、子供だけになる式家を守れるものもいなくなる」と豊成。

「配流?」と宿奈麻呂。

「宿奈麻呂。わたしが帰るまで、その口を閉じていてくれ。

若女さん。わたしは式家をつぶしたくない。

あなたは女官としての経験がある。しばらくのあいだで良い。この式家を守ってくれないだろうか」と豊成。

「若女さま。弟たちをお願いします」と、それまで黙っていた田麻呂が静かに頭を下げた。


……雄田麻呂を藤原式家の一族に紹介するまえに、痘瘡が流行して宇合が亡くなって、石上乙麻呂に強姦されて、下総国しもうさのくにに一年五カ月のあいだ流刑にされて、帰ってきて一ヶ月半で式家の嫡男ちゃくなんが武装蜂起。どうして、こうなるの! それでも、いまできる最善のことが、雄田麻呂や、その兄弟たちを守ることなら、やるしかないだろうと思いながら、表情を変えずに若女が答えた。

「わかりました。できる限りのことはいたします」

「じゃ、わたしは北家ほっけ京家きょうけに行って、宿奈麻呂と田麻呂を牢にいれずに邸で謹慎させることと、式家を残すことへ一緒に嘆願たんがんするようにたのんでくる。

若女さん。心えておいてほしいが、藤原四家の中では、わたしの南家なんけが一番やっかいだ」と豊成が言った。

若女は豊成の表情を読もうとした。南家の嫡男の豊成と次男の仲麻呂は、宴の席で同席しても言葉を交わすことがない。豊成は、仲麻呂のことを言っているのかも知れないが、表情からはうかがえない。

「わかりました。わたしは今夜から、こちらに泊まります。それから久米若女は誤解されやすい名ですので…」と若女。

「宿奈麻呂と田麻呂は成人していることだし、そうだな。少しのあいだ藤原久米くめ刀自とじと名乗ってみたらどうだろう。

連絡ができるようなら家のものに状況を伝えさせる。わたしは、あちこちをまわるので、では、これで」と豊成はあわただしく去っていった。


豊成が式家に来たのが八月二十八日。

九月二日には、式家は衛府えふの舎人に門を固められて勝手な出入りを禁じられた。宿奈麻呂と田麻呂は邸内の一むね蟄居ちっきょし、その棟のまわりも衛府の舎人が見張りに立った。


九月三日に、聖武天皇は藤原広嗣が兵を動かして反乱したことを告げ、大将軍に大野おおのの東人あずまびとを任命して節刀せっとうをさずけ、全国から一万五千人を徴兵ちょうへいして広嗣討伐に向かうようにとみことのり(天皇令)をだした。

九月五日には軍事担当の勅使ちょくし(天皇令を伝える使い)の佐伯さえきの常人つねひと阿部あべの虫麻呂むしまろが九州に向けて先発した。この二人の勅使は山陽道さんようどうで徴兵された兵を集めながら、九月二十二日に九州に上陸する。

平城京から九州まで十七日間。そのあいだに朝廷軍の兵士の数は四千人になっていた。

九月二十四日に、朝廷軍は北九州の隼人のおさを二人殺して千七百六十四人を捕虜にした。そのころ広嗣たちは南九州から北九州にある鎮所ちんじょを目指していたから、捕まった隼人たちは広嗣たちが近くまで来たら合流する可能性のあるものたちだ。

九月二十五日に筑紫つくしのくに(福岡県)の役人が七百五十人の兵を率いて朝廷軍に合流し、広嗣の居場所もつきとめた。

二十九日に、聖武天皇が大宰府管内の諸国(九州全域)に「広嗣の仲間であっても、広嗣を殺した者には高い位をあたえる。本人が殺されたときは子孫に位を与える」と懸賞けんしょうをだす。


十月九日。藤原広嗣と朝廷軍が向きあった。

九州の南から北に向かっていた広嗣は、この日、隼人軍の先鋒せんぽうとなって板櫃川いたひつがわ(大分県北九州市)にあらわれて、木を組みあわせたいかだを作り川を渡ろうとした。

朝廷軍の勅使の佐伯常人と阿部虫麻呂が六千人の兵に命じて弓を射て牽制けんせいしたので、広嗣軍は川の東に、朝廷軍は川の西にじんをしいて向き合うことになった。

朝廷軍は都から連れてきた味方の隼人に「広嗣に従って朝廷軍に弓を引くと、罪は妻子や親族におよぶぞ!」と隼人語で呼びかけさせた。そのため広嗣軍の隼人は弓を射なかった。

「藤原広嗣。われわれは勅使ちょくしである。いるなら姿をみせよ」と佐伯常人と阿部虫麻呂が何度か呼びかけると、馬に乗った広嗣が一人で前に出てきた。

「勅使がやってきたと聞いたが、勅使とはだれか」と川をはさんで広嗣が問いかける。

「佐伯常人と阿部虫麻呂だ」

「いま初めて勅使だと知った」と広嗣は馬をおり、二人に二度、二回の拝礼はいれいして、「わたしは朝廷のめいをこばむつもりはない。ただ朝廷を乱している二人(玄昉と下道真備)を退けることを願うだけだ」と言った。

「兵を集めて押し寄せてきたのは、なぜか」と佐伯常人が聞いた。

これに広嗣は答えず、騎乗きじょうすると馬の首を回して去っていった。

この日に隼人二十人と、広嗣に従っていた十人が川を渡って朝廷軍に下った。

朝廷軍と広嗣が向き合ったのは、この一回だけで、広嗣軍は矢を射返さなかったから戦闘はなかった。



十月三十日の夜に、約二か月ぶりで藤原豊成が式家を訪ねてきた。

「こちらにいらして、おとがめはないのでしょうか」と久米若女が気づかう。

「昨日、帝は旅にでられた」と豊成。

「どちらへ行かれたのですか」

「まず近江を通って伊勢いせへ。それから各地をまわられるので、しばらく宮城きゅうじょうを留守にされる。わたしは今回も鈴鹿王とともに留守官を命じられた。

帝の供に四百人の騎兵を、ふひと秦氏はたしが提供してくれて、仲麻呂なかまろ前衛ぜんえいの騎兵大将軍だ。

張りきって出かけた。

恐らく長い行幸ぎょうこうになるだろう。いつ戻られるのか、留守官のわたしですら聞いていない。五位以上の主だったものはついていった。

いま都に残っておられるのは太政だじょう天皇と、皇太こうた夫人だけだ」と豊成。

太政天皇とは、聖武天皇に皇位を譲った元正げんしょう天皇のことで、聖武天皇の伯母で六十歳になる。

「どうして、こんなときに?」と若女。

「痘瘡で多くの人が亡くなったころから計画しておられた。六月に国ごとに七重ななじゅうの塔を造るようにとみことのり(天皇令)をだされている。

九月には、広嗣を討伐して国の安泰あんたいをねがうために、それぞれ高さ七じょう(約十六メートル)の観世音かんぜおん菩薩像ぼさつぞうを造るように全国の国司こくしに命じられた。

塔の高さや菩薩像の大きさから考えると、そこに造られる各国の官寺かんじも大きなものになるだろう。それらの国分寺の総本山を造られるようで、その土地の下見に行かれたと、わたしは理解している。

宿奈麻呂と田麻呂は、おとなしくしているか」と豊成。

「はい。この二ヶ月のあいだ部屋から出ておりません」と若女。

「九州から都に伝えられたことは従者に文を持たせて知らせたが、宿奈麻呂たちも知っているのか」と豊成。

「朝晩の食事の世話は、わたしがします。そのときに話しています」と若女。

「細かいことまでは書けなかったが、九州から都にとどいた知らせによると、官軍が広嗣を見たのは一度だけらしい。

そのとき広嗣は、天皇の勅使が官軍を率いてやってきたことが理解できなかったようだという。帝の命に背くつもりはないとも言ったそうだ。

広嗣が率いていた隼人軍は、途中で参加するものが増えて、板櫃川に現れたときには一万を超えていたそうだ。

ほかの道で綱手と、多古麻呂たこまろという男が、それぞれ五千の隼人軍を率いて北九州の鎮所ちんじょ防人さきもりの駐屯所)に向かっていたという。あわせれば二万人だ。六千騎の朝廷軍より、ずっと数が多い。

もし広嗣に反逆心があれば、全軍を集めて戦闘ができただろう。

しかし広嗣は一矢も放たずに軍を解散して、自分は逃亡者となって行方をくらました。

広嗣は困った男だが、帝にむかって挙兵すれば大逆罪だということぐらい分かっている。知っているからこそ、板櫃川で勅使と話をしたのだろう。そこが、どうにもせない。

わたしは帝の密命だといつわって、広嗣に挙兵をそそのかした者がいるような気がする」と豊成が言う。

「豊成さま」と若女が改まった。

「なんだ」

「大切なことで思いちがいがあっては困りますので、はっきりおたずねします。

豊成さまが考えておられる広嗣さんをそそのかした者とは、豊成さまの弟君の仲麻呂さまのことでしょうか」

整った美しい顔をしているから、真剣な表情になると若女の顔は鬼女きじょのように怖い。その怖い目を見て豊成がうなずいた。

「どうして、そのように思われます」と若女。

「子供のころから相性が悪かったから、わたしの妄想もうそうかもしれない。

だが、あれは異常なほどの嫉妬しっと心をもっている。そのうえ野心家で悪がしこい。子供のころから、あれのワナにはまって嫌な思いをさせられてきた。

あれは人をおとしいれるためには、おどろくほど気の長い細かい計画をたてる。そういったことでは、まさに天才だ」と豊成。

「広嗣さんを反逆者にして、仲麻呂さまがとくをすることがあるのでしょうか」と若女。

「ない。しかし広嗣が非難しているのは玄昉と下道真備だ。

この二人を非難しても、広嗣には何の得もない。玄坊は皇太こうた夫人に取り入っている。でも、なぜ衛士えじのかみの真備を嫌うのか理解に苦しむ」と豊成。

「下道真備さまは優秀な留学生です。皇太子の学士がくし(家庭教師)になる可能性は?」と若女。

「あるな。ある。唐の皇帝が認めたほどの秀才だから、これ以上の学士はいない。すると阿部あべ皇太子に影響力をもつか。

光明こうみょう皇后と、宮子みやこ皇太こうた夫人と、阿部あべ皇太子は、最も高い地位におられる藤原氏の血をつぐ女性だ。

仲麻呂は光明皇后に取り入っている。あとのお二人も取り込みたいだろう。

それなら玄坊と真備はジャマだ」と豊成。

「仲麻呂さまは、そんなに回りくどいことをなさるのでしょうか」と若女。

「あれはクモが糸を張るようなワナをしかけて、先のうれいいを取り除こうとする。

まあ、すべて、わたしの杞憂きゆうかもしれない。そうであってほしいと思う」と豊成。

「広嗣さんと綱手さんは、どうなるのでしょう」と若女。

「軍を立ち上げたのだ。どうなろうと、もはや救うことはできない。

宿奈麻呂と田麻呂は連座で裁かれるだろう。

ただ光明皇后が、式家を残そうとしてくださっている。それだけが頼りだ。

久米刀自とじ。大変だろうが式家をたのむ」と豊成。

「お心配りをいただき本当にありがとうございます。

豊成さまの式家に対するご配慮を子供たちに聞かせ、生涯、忘れないようにさせます」と若女は、すっかり藤原式家の刀自になっていた。


次の日の十二月一日。

藤原広嗣と綱手の兄弟は、五島ごとう列島れっとう等保知駕とおちかのしま(福江島)で官軍につかまって首を斬られた。

広嗣たちは五島列島の知駕ちかのしまから船を出し、いったんは済州さいしゅうとうの近くまで逃げたのだが、東風が吹いて上陸できず、そのあと西風が吹いて等保知駕島に吹きもどされたところを捕らえられたという。

伊勢や鈴鹿すづか不破ふわを旅行中の聖武天皇は、その報告を十二月五日に旅先でうけた。


十二月十五日に、みかの原まで戻ってきた聖武天皇は、いきなり「ここを恭仁京くにきょうとする」と宣言をする。

一カ月半の長旅で近江国、美濃国、伊勢国の仮宮かりのみや(宿泊所)を転々としたあげく、平城京に帰らずに遷都せんと(都を移す)を決行してしまったのだ。

みかの原には離宮りきゅうがあり、右大臣のたちばなの諸兄もろえの別荘もある。だが、ほかの官人の邸はない。官庁かんちょうもないしいちもない。町人たちの家もない。

つまり都でも町でもない田舎の別荘地だ。

遷都のみことのりから十五日後に、年が変わった。



七四一年の元日の朝賀ちょうが(新年の儀式)は恭仁京で行われた。なにもないから、室内を区切るときにつかうぬのを野原に張りめぐらして式が行われた。

豊成は叔母の光明皇后の同意をもらって、藤原氏がもらっていた五千戸の食封じきふを返納すると申しでた。食封は官人の給料の一つで、その数の封戸ふうこ(課税対象になる戸主こしゅと、その下にいる人)の税の半分をもらえる大きな収入源だ。本人が亡くなったり退官すると打ち切られるのだが、藤原氏は祖父の不比等ふひとがもらっていた食封を死後も受けとっていた。

太政だじょう天皇や大臣に与えられる食封が二千戸だから、亡くなった人に与える五千戸はビックリするほどの高額だ。

一月十五日。不比等の食封を返納するという豊成の奏上にたいして、聖武天皇が三千戸は諸国の国分寺こくぶじ釈迦しゃかぞうを造る費用にし、二千戸は藤原氏にもどすと返事をした。

一月二十二日に、死罪二十六名。官位はく奪五人。流罪るざい四十七人。徒罪とざい(首輪をつけて労働させる)二十二人。杖罪じょうざい(棒で叩く)百七十七人。計二百七十七人が「広嗣の乱」で裁かれた。



外からの陽光が入らない部屋に、冬の寒さが居すわっている。

四か月半の謹慎きんしん生活で、燈明とうみょうの火に浮かぶ宿奈麻呂しゅくなまろ田麻呂たまろは青白くなって痩せた。

「二人とも良く耐えましたね。明日の早朝に護送ごそうしゃで流刑地に送られます。これから、もう一度、大変な経験をすることになりますが、それに耐えて強くなってください」と若女がいう。

「流刑先で、どんな、あつかいをうけるのでしょう」と宿奈麻呂。

「それよりも、まず護送車です。窓がありませんし、座る場所もなく床だけです。

つまり糞尿ふんにょう用のおけをおいただけの四角い箱に、わだち(車)をつけたものです。ゆれると転がって、あちこちに体をぶつけます。

さいわい柱やはりがむきだしになっていますから、それにつかまって自分の体をぶつけないように守ってください」と若女。

「若女さんも、そうしたのですか」と宿奈麻呂。

「わたしは怪我が治っていなかったから大変な思いをしましたが、下総しもうさにつくころには、猿のように梁にしがみつくことがうまくなりました」

若女の姿を想像した田麻呂の口もとがゆるんだ。

「そうやって笑ってください。いいですか。

どんなときでも、なにか楽しいことをみつけてください。

あなた方には罪も責任もありません。広嗣さんと綱手さんは、自分で自分の道を選んだのです。お二人の最期を思いうかべて悲しむのは、なるべくやめてください。

心が痛むときは本を読みなさい。それでも苦しいときは大声できょうとなえなさい。それから体をきたええなさい。

一番苦しいのはうらみやねたみや悲しみで、心を満たしてしまうことです。

笑えるなら護送車が揺れるたびに、わたしの姿を思いだしなさい。

いつも心はすがすがしくたもつのですよ。

流刑地に着いたら、疑われるようなことを言ったり、したりしないでください。

あなたたちは連座で流刑される藤原一族です。やがて恩赦おんしゃが出て都に戻されることは、流刑先の役人も分かっています。

藤原氏は、どんな手段を使ってでもジャマ者を除いて権力をにぎる一族として恐れられています」と若女。

「そうなのですか」と田麻呂。

「はい。恐れられて嫌われています。

だから安心なさい。あなたたちをムダに苦しめる人はいないはずです。

静かに恩赦になるときを待ってください。

赦免しゃめんされたら官人としてまじめにつとめて、式家の信頼をとり戻さなければなりません。幼い弟やおいが待っています。

藤原式家は、あなた方が引きついでいかなくてはならないのです」と若女。

残される雄田麻呂おだまろ蔵下麻呂くらじまろ種継たねつぐがならんでいる。そのなかで年長の九歳になる雄田麻呂が代表して言った。

「宿奈麻呂兄さん。田麻呂兄さん。必ず元気で帰ってきてください」

そして宿奈麻呂は伊豆へ、田麻呂は隠岐おきの島へ送られて行った。



「広嗣の乱」は式家には一大事だったが、遠い九州でのできごとなので都の人への影響はなかった。しかし恭仁京くにきょうへの遷都せんとには都中が大さわぎになった。

うるう三月十五日に、天皇は五位以上のものは勝手に平城京に戻らないようにとみことのりをだした。

天皇の詔勅しょうちょく(ともに天皇令。しょうちょくは認証する役所がちがう)は法律と同じでさからえない。

これで貴族たち(五位以上の官人)は、恭仁京からはなれることができなくなった。

犯罪者の家族として平城京に残された式家を、久しぶりに南家の藤原豊成がたづねてきた。

「鈴鹿王は恭仁京に呼ばれたが、わたしは留守官のままで、大野おおのの東人あずまびとどのと平城宮を守っている」と豊成。

「広嗣さんを討伐に行かれた官軍の大将軍ですね。娘の仲千なかちさんを存じていますが、やりづらいことなどございませんか」と若女。

「あの方は高齢で、広嗣を打ちとった功で官位もわたしより上だ。

私的な話はされないし、仕事は些細ささいなことまで分かりやすく報告してくださる。宮仕みやづかえとは与えられた仕事を、私情を入れずにすることだと教えられた気がする。

今日うかがったのは、式家も恭仁京に宅地が与えられると決まったことを知らせにきた」と豊成。

「それは、ありがとうございます」と若女。

「いただいた宅地に邸を建てなくてはならないが、急な遷都で材木が不足している。ご存知かもしれないが、木はってから少なくとも二年、ものによっては何年も乾燥させないと建材として使えない。

宮城でも大極殿だいごくでんの廊下を解体して、恭仁京に移す作業が行われている。

わたしも遷都は始めてで、なにも分からない。

建材として使う材木の調達がむずかしいので、平城京の邸をこわして古材を使うことになるだろうと、だれもが頭を悩ませている。

助けにはならないが、あらかじめ心えて欲しいと知らせにきた」と豊成。

「わざわざ、ありがとうございます」と若女が丁寧に頭を下げた。


青葉が美しい季節なのに、豊成が帰ったあとで若女はため息をついた。式家の内情は楽ではない。

相続の配分は律令で決められていて、戸主こしゅが亡くなると総財産を正妻と嫡子ちゃくしが四、庶子しょしが二、娘とめかけが一の割合で分けて相続する。嫡子は戸主が嫡子と認めた息子で、ふつうは正妻の長男がなる。もし遺言があったら、それが優先される。

宇合うまかいが亡くなったときは痘瘡とうそうがはやっていたから、相続を届け出る役所も閉まっていたが、できるかぎり法にそった相続をしていた。

式家の嫡子は広嗣で、広嗣が四、正妻は痘瘡でなくなっているから相続なし。認知されていた庶子しょしの宿奈麻呂、清成、綱手、田麻呂の四人が二。二人の娘が一。清成は、そのあとで亡くなっているから、子供がいる妻のはたの彩明さいめいが清成の分を受けとっている。これも法で決められていて、正妻は亡くなったら相続権を失うが、庶子が亡くなっても息子がいたら、妻が庶子の財産を相続できる。嫡子と庶子の別は、たとえ正妻の息子でも嫡子のほかは、すべて庶子とされた。

宇合が残した式家の財産は、反逆者の広嗣が四、綱手が二の割合で相続していたが、これは国に没収された。

「広嗣の乱」のあとで、聖武天皇が「ちんの伯父になる宇合うまかいは、広嗣を廃嫡子はいちゃくしにしたがっていた」と詔をだしたので、さいわい広嗣のものとなっていた邸だけは残されたが、それでも内情は苦しい。

そのうえ成人している二人が流刑中で、あとは子供ばかりだから食封じきふ職田しょくでん季禄きろく位禄いろくなどと呼ばれる給料をかせいでくる者がいない。

遷都のときは、土地は国が場所を決めて無料で提供してくれる。邸を建てるための費用も国が用意してくれて稲が支給されることが多いが、今回はぜにが支給されるらしい。

財政面は国がささえてくれるのだが、支給される額で全てをまかなえるわけでもない。

むだな出費はおさえて子供たちのために貯蓄したいのに、建材不足のなかで邸を建てろといわれても若女にはため息しかでない。

「久米刀自さん。豊成さんがいらしていたけど、また困ったことがおこったの?」と明るい声をかけて、亡くなった式家の三男の清成の未亡人のはたの彩朝さいちょうが入ってきた。

「アヤさん。女は無力よね」と若女。

「なに、なに」とアヤと呼んでいる彩朝が、若女のそばに座って身を乗りだした。

今年で五歳になる宇合の孫の種継の母で、若女より八歳年下の二十一歳だ。

「恭仁京に、式家も宅地がいただけるそうです」と若女。

「それは悪いことかしら。恭仁京が都になったのだから、式家が宅地をいただけるのは良いことでしょう。どうして、ため息ばかりついてるの」とアヤ。

「お邸を建てなければならないけど、どうすれば良いのか分からなくて。

これ以上、ほかの藤原氏の方々にご迷惑はかけられないし、久米の兄に相談してみるけれど大した力にならないでしょうし」と若女。

「恭仁京の石垣の工事は秦氏がったと聞いたわ。

父に頼んで、だれか相談できる人を紹介してもらいましょう。

ねえ。久米刀自さん。わたしも恭仁のお邸に一緒に住んでもいいかな」とアヤ。

「邸といっても、造ることができるのは恐らく小さな小屋だけよ。

アヤさんは若いし、罪人をだした式家に義理立てしないで、自由に生きたらどうなの」と若女。

「式家が栄えていたら、そうする。でも、いまの式家は見放せないわよ。

それに息子は藤原氏だし、子供たちのために、やるっきゃないでしょう」とアヤ。

秦氏は古くから日本にいる渡来系とらいけい氏族しぞくだが、アヤのおばあさんは、おじいさんが唐に留学中に知り合った唐人で、日本人と結ばれて海を渡って来るぐらい性根しょうねすわった女だからか、アヤも前向きで落ち込むことがない。

「あなたって人は! ありがとう。

じゃあ子供だけの小さな所帯だから、みんながおなじむねに住んでもいいの?」と若女。

「うん。それも楽しいかも」とアヤ。

雑魚寝ざこねでも文句をいわないでね」と若女。

「久米刀自さんは?」とアヤ。

「わたしは自分の部屋を持ったことがないの。子供のころは雑色ぞうしきたちと並んで雑魚寝をしてね。女官になってからも几帳きちょうで区切った一角を使わせていただいただけ。隙間さえあれば、どこでも寝ますよ」と若女。

アヤの実家の秦氏の助けで、若女は宇合が造った平城京の邸をこわすことなく、恭仁仁京に与えられた宅地に家族や使用人が一緒に住める一棟だけを建てて移って行った。



七月十日に、それまで平城宮を離れることがなかった六十一歳の元正げんしょう太政だじょう天皇が、恭仁京に移ってきた。

その行列を見るために、若女とアヤは子供たちを連れてでかけた。すでに多くの人が集まっている。恭仁京は宮城になるはずの北が高く、木津川に向かってゆるやかに低くなっている。その木津川を挟んだ南側は大きく開けている。

「長屋王の変」で妹の吉備きび内親王ないしんのうと甥たちを藤原四兄弟に殺されてから確執があった元正太政天皇の入京を、聖武天皇は喜んで木津川のほとりまで出てきて待ちかまえている。

遠くて良く見えないのだが、ときどき歓声があがるのは天皇が動くからだろう。

「見えるか? 種継」と雄田麻呂が聞いた。

いまの式家の最年長者が九歳の雄田麻呂だ。

「見える」と四歳の種継が答える。

蔵下麻呂くらじまろは?」と雄田麻呂。

「大丈夫だよ。雄田麻呂兄さん」と七歳になった蔵下麻呂。

「キタ、キタ!」と雄田麻呂のとなりで見物していた男の子が声をあげた。

太政天皇の行列が近づいてくると、庶民の歓声が大きくなった。

「キタ。ドコ。見えない」と、となりで見物している男の子がさわぐ。

「ふつうは見えないのが天皇や太政天皇よ。帝は太上天皇に育てられた方だからね。太上天皇が恭仁に移ってこられるのは、人前に姿を現すほどうれしいのでしょうけどねえ。今の帝がヘンなのよ。

それに、なんだって、こんなところに都を移しちゃったのだろう。真んなかを川がぎっているのにねえ」

天皇のことを批判すると罪になる。若女とアヤは母子の会話を聞いて二人を見た。見て、さらにビックリした。

息子は種継と同じような歳ごろだ。貴族の子のような表衣うわぎを着ているのだが、貴族の子は髪を二つに分けて耳の下でわくミズラという髪型をしているものだが、庶民のように天頂てんちょうでまとめて結わえている。

母親はアヤと同じ歳ぐらいだろうか。結いあげた髪の上にまげを大きく二つ結って、その髷に桜色や薄紫の布を巻き何本もかんざしをしている。

女性の服装ふくそう浦島うらしま太郎たろうの乙姫のイメージに近いものだが、その女性が着ている上衣じょうい(ワンピース)は、かすかに色のちがう桜色の薄布を何枚も重ねた手の込んだもので、領巾ひれ(スカーフ)は薄紫色。スゴク目立つハデな服装をしているのだが、それが形よく似あっている。

若女とアヤに見られた母親が、気さくに声をかけてきた。

「ねえ。そう思うでしょう。でも、こうやって太上天皇を待っている帝を見るとね。親しみがくっていうか、身近に感じるっていうか。

太上天皇と皇后に板挟いたばさみにされて大変だけと、元気でやってねって、ついつい応援したくなるわねえ」

若女とアヤは少しだけうなずいた。

行基ぎょうきさんを法師ほうしにしてくだすったから、良いところもあるみたいだし」と母親。

「ギョーキサン、いない」と、その女の子供がいう。

「太政天皇のおでましだもの。あんなボロ服集団は、見苦しいから追い払われたのよ」と息子に答えながら、母親がキラキラ光る眼差しを若女たちにむけて指をさした。

「ホラ。そこの河原に石や丸太が積んであるの、見える? 

上京かみきょう下京しもきょうの真んなかを木津川が流れているから、行基さんたちが橋をけようとしているの。

一度、見にくると良いわよ。すごい。

川の流れや、雨で増水したときの水の深さを測って、橋の強さや高さを計算して架けるんだから」とハデな女。

行基という僧の噂は、若女も聞いている。

はじめの内は不穏ふおん集団として朝廷がとりしまって迫害した寺のない民間の僧だった。行基をした優婆夷うばい優婆塞うばそく(出家していない仏教信者。優婆夷は男、優婆塞は女)は、ときに一万人以上になったという。戸籍に登録された日本の人口が五百万人だから、一万人は畿内きないの百姓が総出したような数だ。

朝廷の捕方とりかたがむかうと、その大集団がスルっと消えてしまう。行基の弟子でなくても、応援するものがいたせいだ。

行基の弟子は、土地を捨てて逃げてきた逃散ちょうさん百姓びゃくしょうもいるが、多くは自分の土地を耕して農閑期のうかんきに行基のもとに集まってくる百姓たちだ。

行基は工事をする土地のそばに道場をつくり、そこに彼らを寝泊りさせた。行基の集団は、水田に水を確保するためめ池を造ることからはじめ、やがて川の流れを変えたり、堤防を造ったりの河川の大工事も手がけだした。

国からの援助もない無償むしょうの工事で、つまりボランティア活動だ。

金銭が必要になると乞食こつじき行脚あんぎゃをして布施ふせをもらう。民のために溜め池をつくり、施薬せやくいん(病院)をつくるのだから、民衆は喜んで布施をした。

さいしょは長屋王ながやおうが行基をみとめた。そして長屋王が左大臣をしていたときに、聖武天皇が行基に菅原すがわらでらを与えて法師ほうしにとり立てた。

「そろそろ帰ろうか。みんなが引きあげるのにぶつかると混んじゃうから」と母親が息子をさそう。天皇が自分の車駕しゃがに乗り込まれたようだ。

「太政天皇、見てナイ」と息子。

「待っても輿から出てこられないよ。帝も車に戻られたから、あとは帰られるだけよ。では、おさきに。山部やまべ。おいで」と母親が先にはなれる。

あとを追いながら男の子が振りむいて、「オダマロ。クラジマロ。タネツグ」と一人一人を指して「ジャーァナ」と手を振った。

「横で聞いてただけなのに、あの子に名をおぼえられた…」と雄田麻呂。

「呼びすてにしたよ」と蔵下麻呂。

「変わってるわ。山部って部民べみんかしら」とアヤ。

部民べみん庶民しょみんより身分の低い人たちで、渡来系の技術者たちがふくまれている。

「それはないでしょう。あの衣装は高価なもの。でも話し方はきどりがなさすぎるし、行基さんのことを親しそうに話していたし、いったい何者かしら。

さあ、わたしたちも混まないうちに帰りましょう」と若女も子供たちをうながした。



八月二十八日に、平城京の東西のいち(国営マーケット)が恭仁京に移された。市が移れば、食材を手にいれるために庶民もついてくる。

九月八日。恭仁京遷都を祝って大赦たいしゃの詔がでた。

「広嗣の乱」で連座した宿奈麻呂と田麻呂は半年余りの流刑で、この大赦で許された。

このときに石上乙麻呂も許されて帰京することになった。こっちは二年半弱の流刑だから、久米若女が暴行されてから、まだ二年半しかたっていないのだ。

若女が襲われたときに助けてくれた采女うねめ飯高いいだか笠目のかさめは、聖武天皇が伊勢や鈴鹿を転々と行幸したときに供をして、出身国の伊勢では一族が天皇をもてなした。そのこうで笠目の一族は飯高君いいだかのきみを名乗ることを許された。

その笠目からは慣れた女官が必要なので、いつでも戻ってきて欲しいと若女に手紙が届いている。しかし若女は式家にとどまって、帰ってくる宿奈麻呂と田麻呂のために新しい棟をそれぞれに建てはじめた。式家が立ち直るまで若女は式家をはなれる気がない。

出雲に帰った勝部すぐりべ鳥女のとりめは、地元の男性と結婚して子供にも生まれたという。

新入りの女儒じょじゅだった下道しもつみち由利のゆりの父で、広嗣の攻撃の的だった下道しもつみち真備のまきび(正五位下)は、阿部皇太子の学士がくしになった。

十八年も留学した唐で玄宗げんそう皇帝が認めた秀才で、いまの日本で最高の学識者だから、広嗣以外の人はとうぜんの人事だと思っている。


伊豆から戻ってきた二十五歳の藤原宿奈麻呂は、散位さんい(無職)だが従六位下を叙位じょいされた。これで宿奈麻呂を戸主として、式家もなんとか形になった。

宿奈麻呂も妻をもらって、翌七四二年には諸姉もろねという娘も生まれた。

十九歳になった田麻呂は流刑中に色々思うことがあったようで、隠岐の島から帰ってくると明日香あすか蜷淵はなぶち(奈良県明日香村稲淵)という山のなかに隠遁いんとんしてしまった。

それでも波瀾はらん万丈ばんじょうだった久米若女と藤原式家にも、人並みな日常が流れはじめた。



いまの世の中は不安定で、さきが分からない。

四年前の七三七年(天平九年)は痘瘡とうそうでつぎつぎに人が亡くなる、明日も知れぬ恐怖の年だった。疫病が治まり始めたのは冬に入ってからだ。

三年前の七三八年正月に、四人の兄を亡くした光明皇后に泣きつかれて、聖武天皇は二人のあいだに生まれた二女の阿部あべ内親王ないしんのうを皇太子に立てた。唯一の男子の安積あさか親王しんのうは成人まえだったから、明日も知れない疫病のすさまじさを体験した直後に聖武天皇がだした処置だった。

これが、いま問題になっている。このまま阿部皇太子が即位したら安積親王に皇位を渡さないのではと、あやぶむ人が多い。元正太上天皇も、その一人だ。

それには訳がある。


十四年前の七二七年に、まだ聖武天皇の夫人ふじん安宿あすかひめとよばれていた光明皇后に、第一皇子のもとい親王しんのうが誕生した。基親王は生後一ヶ月で皇太子になり、一歳になるまえの七二八年九月に亡くなってしまう。

基皇太子が亡くなった年、別の夫人のあがた犬養いぬかいの広刀自ひろとじに第二皇子の安積親王が誕生した。

光明皇后をはじめとする藤原一族は、基皇太子が亡くなったのは広刀自夫人がのろったからだと思った。そう信じたのだ。

生まれたときの基親王と安積親王は、長男と次男の差はあったが臣下出身の夫人を母とする同格の皇子だった。

基親王が夭折したのだから、つぎの安積親王が第一皇子で皇位継承者になる。

律令に忠実な左大臣の長屋王が、国家を呪っていると、えん罪をきせられて殺されるのは、基皇太子が亡くなって五ヶ月後の七二九年二月で、その六ヶ月後の八月に光明皇后が正妃になった。

これれで光明皇后が皇子をもうければ、その皇子が夫人所生の安積親王をおさえて皇位継承権けいしょうけんを持つことになる。

長屋王一家を葬り去ってまで、藤原氏は安積親王に皇位を渡したくなかった。

ところが十六歳で父になり二男三女に恵まれていた聖武天皇が、二十七歳のときに生まれた安積親王を最後として子に恵まれなくなった。

聖武天皇と光明皇后は、今年で四十歳になる。これから二人のあいだに皇子が産まれることは、ほぼない。

だから阿部皇太子が即位したあとで、安積親王に皇位を渡すかどうか、先がまったく分からない。





敏達天皇・・・・・美努王      

        ‖――――――――――――橘諸兄(右大臣)

        ‖            橘佐為

       橘三千代(県犬養氏)

        ‖――――――――――――光明皇后

       藤 原不比等           ‖         

                     ‖――――阿部皇太子                            

       元正天皇(文武姉・太上天皇)  ‖――――基親王(夭折)      

       文武天皇            ‖

         ‖―――――――――――聖武天皇

       藤原宮子(不比等・長女)    ‖――――安積親王

                     県犬養広刀自


藤原式家   宇合――――――――――――広嗣(謀反で斬首)

                     宿奈麻呂

                     清成(死亡)――種継

                     綱手(謀反で斬首)

                     田麻呂

                     雄田麻呂

                     蔵下麻呂


      宇合

       ‖―――――――――――――藤原宿奈麻呂

       姉

石上麻呂――乙麻呂――――――――――――石上宅嗣

       × 

      久米若女

       ‖―――――――――――――藤原雄田麻呂

       宇合

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