天明に立つ 桓武天皇
中川公子
0 律令制の夜明け
六四五年(
六四五年(大化元年)六月。
雨の降る日に、
このあと中大兄皇子は都を
これで、わが国は、定まった法がある
中大兄皇子は皇太子のままで(
これが
この話は、七二〇年に撰進された日本の歴史を示す「日本
天智天皇が亡くなってから五十年も経ってから纏められているしィ、天智天皇のころは天皇を
六月の雨に濡れて、時の最高権力者に刃を向けた十九歳の皇子。そのあと政界の黒幕となって「大化改新」を推し進めた皇子。朝鮮半島まで出兵して百済国再興を試みた皇子。琵琶湖畔の近江大津宮を帝都とした皇子。半端ない革命児じゃないか。
天智天皇の子は女子が多く、男子は
六七二年。天智天皇の死後に皇太子の大友皇子と争って、王位を勝ち取った天智天皇の弟の
天武天皇は、急な改革で不満をつのらせる有力
壮年で即位した天武天皇は、在位十三年目の六八六年に亡くなった。
天武天皇の子は男子が多く、大津皇子、
このうち大津皇子の母は、天智天皇の娘の太田皇女。
草壁皇子の母も、天智天皇の娘で太田皇女の同母妹の
長皇子と弓削皇子の母も、天智天皇の娘の大江皇女。
舎人親王の母も、天智天皇の娘の新田部皇女になる。
つまり十皇子の内の五人は天智天皇の孫になり、皇女を母とする血統の良い皇子になる。
さらに大津皇子の妻は、天智天皇の娘の
草壁皇子の妻も、天智天皇の娘の
高市皇子の妻も、天智天皇の娘の
天智天皇が亡くなったあとも婚姻をしているので強制されたわけでなく、天武天皇は七人もの兄の娘を自分か息子の妻にしていた。
由緒正しい皇子が多ければ、後継者でもめる。
姉の太田皇女が早くに亡くなって、天智天皇の皇女では年長で天武天皇の大后になっていた鸕野皇女は、自分の息子の草壁皇子が皇太子に立坊されていると主張した。
しかし、その草壁皇子は身体が弱く、皇太子として政務に関わることもなく即位をすることもなく、一人の皇子と二人の皇女を残して亡くなってしまう。
またまた後継者でもめる展開になった。
このときに鸕野皇女に仕えていたのが、天智天皇の腹心だった中臣鎌足の息子だという藤原
これが
持統天皇も律令国家の完成のために力をいれた。
持統天皇と供に「
六七九年。
持統天皇は十四歳になった孫息子の
天孫降臨神話が記録されている日本最古の古書となる「古事記」は、七一二年に撰進される。それよりも前、持統天皇が祖母から孫息子への皇位継承を行った。
文武天皇が即位しても
そして文武天皇も、これからという二十四歳で一人息子の
すると今度は、天智天皇の娘で草壁皇子の妻だった、文武天皇の母の阿閇皇女が即位する。もう一度、祖母から孫息子への皇位継承をくり返すのだ。
即位した阿閇皇女を、元明天皇という。
七一〇年。
右大臣になった藤原不比等の主導で、元明天皇は
このときに不比等より上位にいる
置き去りにされた石上麻呂は藤原京で亡くなり、平城京に移った藤原不比等の力は絶大なものになった。
藤原不比等には、四人の息子と
長男の
次男の
三男の
四男の
長女の宮子は、文武天皇夫人で、元明天皇が皇位を渡そうとしている孫息子の首皇子の母になる。
次女長娥子は、天武天皇の孫の
三女は
平城京に遷都したときに、天智天皇の皇子では
ほかに天武天皇の長男の高市皇子を父に、天智天皇の娘の御名部皇女を母にもつ両天皇の孫で、元明天皇の娘の吉備内親王を正夫人にしている
元明天皇は孫の首皇子を皇太子に立てて、娘婿の長屋王の子を
首皇太子が若いので、元明天皇のあとは
史上初の独身女帝だが、元正天皇は草壁皇子と元明天皇の娘で文武天皇の姉。甥の首皇太子に皇位を渡すための即位だった。
藤原不比等と元明太上天皇が相次いで亡くなったあと、元正天皇は二十四歳になった首皇太子に譲位する。
それが
父の不比等を亡くした藤原四家は、律令(法律)のもとに皇族の権利を守る長屋王に押されはじめた。
七二九年二月。
長屋王が国を滅ぼそうと
これは左大臣として藤原氏を抑える長屋王を滅ぼすために、藤原四兄弟が仕組んだ
長屋王の一族で死を逃れたのは、夫人の一人だった藤原不比等の次女の長娥子と、長娥子が産んだ長屋王の子と、長屋王の弟の
長屋王が亡くなると藤原四兄弟は、聖武天皇の夫人だった異母妹の安宿媛を
天武天皇のときに大王は天皇と呼び方を変えたが、天皇の
律令では、天皇(大王)の妻は、
妃になれるのは
藤原不比等は三位以上の公卿だから、娘の安宿媛は夫人であり、妃から選ばれる大后にはなれない。当然、反対するだろう長屋王をえん罪で殺し、律令にない皇后という名を使って、藤原四兄弟は妹の安宿媛を天皇の正妃に立てた。
皇后は中国の皇帝の正妃の呼び名で、日本では光明皇后が最初に使った。
律令国家をつくるのに
法のことを古代では
長屋王家が滅んでから八年後の、七三七年(天平九年)。
一年半ほどまえから
前年に、長屋王亡き後の政府の重鎮だった
都の人口が半分に減った、つまり死亡率五十パーセントの痘瘡の流行で、藤原四家の四兄弟も亡くなってしまう。
この災難の年に、
翌年の七三八年。
政府の高官の多くが亡くなって政務が止まっているなかで、聖武天皇は光明皇后の娘の阿部
物語は痘瘡の流行が収まって、日常が戻り始めた七三九年から始まる。
主人公となる山部王は、まだ二歳の嬰児だった。
(注)天皇の子息を
年月日は、年は西暦で、月日は続日本紀にのせられているとおりに記載したため、西暦に直すとずれがある。
年齢は、その歳の誕生日が来るとなるはずの満年齢を使った。
天智天皇(中大兄皇子)の夫人と子女
夫人 子女
蘇我
鸕野皇女・持統天皇(天武妃)――外孫・草壁皇子
健皇子(夭折)
蘇我蛭娘―――――――――――阿閇皇女・元明天皇(草壁皇子妃)
御名部皇女(高市皇子妃)――――外孫・長屋王
阿部橘娘―――――――――――飛鳥皇女
新田部皇女(天武妃)
蘇我常陸娘――――――――――山辺皇女(大津皇子妃)
忍海色夫古娘――――ー――――大江皇女(天武妃)―――――――外孫・長皇子
川島皇子 外孫・弓削皇子
泉皇女
栗隅黒媛娘――――――――――水主皇女
超道君郎女――――――――――志貴皇子――――――――――――白壁王
伊賀采女宅子―――――――――大友皇子(天智皇太子)
天武天皇の夫人と子女
夫人 子女
大田皇女(天智娘)――――――大伯皇女(初代 伊勢斎王)
大津皇子(第三皇子・謀殺)
鸕野皇女・持統天皇(天智娘)―草壁皇子(第二皇子)――――――文武天皇
元正天皇
吉備内親王
阿閇皇女・元明天皇(天智娘・草壁皇子妃)―――――――――――文武天皇
大江皇女(天智娘)――――――長皇子―――――――――――――智努王
弓削皇子 大市王
新田部皇女(天智娘)―――――舎人親王――――――――――――淳仁天皇
藤原氷上
藤原五百重娘(鎌足娘)――――新田部親王―――――――――――塩焼王
蘇我大蕤
紀皇女
田形皇女
額田
胸形尼子―――――――――――高市皇子(第一皇子)――――――長屋王
かじ媛娘―――――――――――忍壁皇子
磯城皇子
泊瀬部皇女(川島皇子妃)
託基皇女(志貴皇子妃)
天皇継承
舒明天皇 元明天皇(女帝・天智娘) 元正天皇(女帝・文武姉)
‖――天智天皇―――持統天皇(女帝) ‖――――文武天皇
‖ ‖―――――草壁皇子 ‖―――聖武天皇
‖――ーー――――――天武天皇 藤原宮子 ‖
皇極天皇(女帝) 藤原安宿媛
(光明皇后)
藤原不比等の子
北家 一男 武智麻呂
南家 二男 房前
式家 三男 宇合
京家 四男 麻呂
子女
一女 宮子(文武天皇夫人)―――聖武天皇
二女 長我子(長屋王夫人)―――山背王
安宿王
黄文王
三女 安宿媛(聖武天皇皇后)――阿部皇太子
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