天明に立つ 桓武天皇 

中川公子

0  律令制の夜明け


六四五年(大化たいか元年)~七三七年(天平てんぴょう九年)


六四五年(大化元年)六月。

雨の降る日に、皇極こうぎょく天皇〈女帝)の元で最高の権力を持ち、国政を動かしていた大臣おおおみ蘇我そが入鹿いるかが、女帝の息子で十九歳の中大兄皇子なかのおおえのおうじや、その腹心の中臣鎌足らによって斬り殺されるというセンセーショナルな政変が起こった。

このあと中大兄皇子は都を難波なにわに移して、政府の行政組織や人々の戸籍や賞罰や租税そぜいなどを規定して、「大化たいか改新かいしん」という政治改革を行う。

これで、わが国は、定まった法がある律令国家りつりょうこっかとしての道を歩み始める。

中大兄皇子は皇太子のままで(称制しょうせい)、叔父の孝徳こうとく天皇と母の斉明さいめい天皇(皇極天皇の重祚ちょうそ・再び即位すること)を表に立てて国を動かすが、斉明天皇が亡くなったあと四十二歳になって、やっと即位する。

これが天智てんじ天皇だが、即位して三年後の六七一年に亡くなってしまう。


この話は、七二〇年に撰進された日本の歴史を示す「日本書紀しょき」に記録されている。「日本書紀」は八世紀に朝廷に仕える官人が、漢書や論語などと一緒に読まなければならない必読書だった。

天智天皇が亡くなってから五十年も経ってから纏められているしィ、天智天皇のころは天皇を大王おおきみ、皇后を大后おおきさきと呼んでいたけど・・・などと思わずに読みこなせば良い。

六月の雨に濡れて、時の最高権力者に刃を向けた十九歳の皇子。そのあと政界の黒幕となって「大化改新」を推し進めた皇子。朝鮮半島まで出兵して百済国再興を試みた皇子。琵琶湖畔の近江大津宮を帝都とした皇子。半端ない革命児じゃないか。

天智天皇の子は女子が多く、男子はたける皇子(夭折)、川島皇子、志貴しき皇子、大友皇子で、健在な皇子は三人しかいなかった。



六七二年。天智天皇の死後に皇太子の大友皇子と争って、王位を勝ち取った天智天皇の弟の天武てんむ天皇が即位する(壬申じんしんの乱)。

天武天皇は、急な改革で不満をつのらせる有力豪族ごうぞくを上手くまとめて、都を滋賀の大津からふるさとの飛鳥に戻して、穏やかに律令国家の基礎を固めた。これは若い天智系皇子たちにはできないことで、天武天皇は国を安定させ律令を根付かせた功労者だ。天武天皇は、豪族たちの言葉にも耳をかたむける安定した政治家だった。

壮年で即位した天武天皇は、在位十三年目の六八六年に亡くなった。

天武天皇の子は男子が多く、大津皇子、草壁くさかべ皇子、なが皇子、弓削ゆげ皇子、舎人とねり親王しんのう新田部にいたべ親王、穂積ほづみ皇子、高市たけち皇子、忍壁おしかべ皇子、磯城しぎ皇子と十人の皇子が残された。

このうち大津皇子の母は、天智天皇の娘の太田皇女。

草壁皇子の母も、天智天皇の娘で太田皇女の同母妹の鸕野うの皇女。

長皇子と弓削皇子の母も、天智天皇の娘の大江皇女。

舎人親王の母も、天智天皇の娘の新田部皇女になる。

つまり十皇子の内の五人は天智天皇の孫になり、皇女を母とする血統の良い皇子になる。

さらに大津皇子の妻は、天智天皇の娘の山辺やまのべ皇女。

草壁皇子の妻も、天智天皇の娘の阿閇あべ皇女。

高市皇子の妻も、天智天皇の娘の御名部みなべ皇女だった。

天智天皇が亡くなったあとも婚姻をしているので強制されたわけでなく、天武天皇は七人もの兄の娘を自分か息子の妻にしていた。


由緒正しい皇子が多ければ、後継者でもめる。

姉の太田皇女が早くに亡くなって、天智天皇の皇女では年長で天武天皇の大后になっていた鸕野皇女は、自分の息子の草壁皇子が皇太子に立坊されていると主張した。

しかし、その草壁皇子は身体が弱く、皇太子として政務に関わることもなく即位をすることもなく、一人の皇子と二人の皇女を残して亡くなってしまう。

またまた後継者でもめる展開になった。

このときに鸕野皇女に仕えていたのが、天智天皇の腹心だった中臣鎌足の息子だという藤原不比等ふひとだ。鸕野皇女は不比等の支えで、草壁皇子が残した孫息子に皇位を渡すために、天武天皇が亡くなって四年後の六九〇年に即位する。

これが持統じとう天皇だ。


持統天皇も律令国家の完成のために力をいれた。

持統天皇と供に「飛鳥浄御原令あすかきよみはられい」という後の律令の基本となる行政法を作り、真っ直ぐな路で四方を区切る坊条制ぼうじょうせいを使って藤原京ふじわらきょうを造ったのが、持統天皇の腹心の藤原不比等だった。



六七九年。

持統天皇は十四歳になった孫息子の文武もんむ天皇に譲位じょうい(天皇位をゆずる)した。

天孫降臨神話が記録されている日本最古の古書となる「古事記」は、七一二年に撰進される。それよりも前、持統天皇が祖母から孫息子への皇位継承を行った。

文武天皇が即位しても太上天皇だじょうてんのう(退位した天皇)となった持統天皇と藤原不比等が政務をみていたが、文武天皇が十九歳のときに持統天皇が亡くななってしまう。

そして文武天皇も、これからという二十四歳で一人息子の首皇子おびとおうじを残して亡くなってしまう。

すると今度は、天智天皇の娘で草壁皇子の妻だった、文武天皇の母の阿閇皇女が即位する。もう一度、祖母から孫息子への皇位継承をくり返すのだ。

即位した阿閇皇女を、元明天皇という。


 

七一〇年。

右大臣になった藤原不比等の主導で、元明天皇は飛鳥あすかの藤原京から奈良の平城京へいじょうきょう遷都せんと(都を移す)をした。奈良時代の始まりだ。

このときに不比等より上位にいる左大臣さだいじん石上いそのかみの麻呂まろを、廃都とする藤原京の留守官るすかんとして残した。

置き去りにされた石上麻呂は藤原京で亡くなり、平城京に移った藤原不比等の力は絶大なものになった。



藤原不比等には、四人の息子と主立おもだった三人の娘がいる。嫡男ちゃくなんが家を継ぎ、ほかの子女は嫡男の仕える時代に、不比等は四人の息子に独立した家を持たせた。

長男の武智麻呂むちまろは藤原北家ほっけ

次男の房前ふささきは藤原南家なんけ

三男の宇合うまかいは藤原式家しきけ

四男の麻呂まろは藤原京家きょうけと、のちに呼ばれる藤原四家だ。

長女の宮子は、文武天皇夫人で、元明天皇が皇位を渡そうとしている孫息子の首皇子の母になる。

次女長娥子は、天武天皇の孫の長屋王ながやおう夫人。

三女は安宿媛あすかひめは首皇子と同年で、のちに首皇子の夫人になる。


平城京に遷都したときに、天智天皇の皇子では志貴皇子しきおうじ天武てんむ天皇の皇子では舎人親王とねりしんのう新田部親王にいたべしんのう長皇子ながおうじが生存していた。

ほかに天武天皇の長男の高市皇子を父に、天智天皇の娘の御名部皇女を母にもつ両天皇の孫で、元明天皇の娘の吉備内親王を正夫人にしている長屋王ながやおうが、大きな影響力をもっていた。

元明天皇は孫の首皇子を皇太子に立てて、娘婿の長屋王の子を皇嗣こうしとみとめて五十四歳で退位する。


首皇太子が若いので、元明天皇のあとは元正げんしょう天皇が皇位を継ぐ。

史上初の独身女帝だが、元正天皇は草壁皇子と元明天皇の娘で文武天皇の姉。甥の首皇太子に皇位を渡すための即位だった。

藤原不比等と元明太上天皇が相次いで亡くなったあと、元正天皇は二十四歳になった首皇太子に譲位する。

それが聖武天皇しょうむてんのうで、長屋王が臣下最高位の左大臣になった。

父の不比等を亡くした藤原四家は、律令(法律)のもとに皇族の権利を守る長屋王に押されはじめた。



七二九年二月。

長屋王が国を滅ぼそうとまじないをしているという密告があって、長屋王と家族が縊死(首をつる)させられてしまう。

これは左大臣として藤原氏を抑える長屋王を滅ぼすために、藤原四兄弟が仕組んだえん罪だった。このとき縊死をいられたなかに、長屋王の正妻で元正太上天皇の妹の吉備内親王きびないしんのうと、元明天皇が皇嗣と認めた幼い子供たちが含まれていた。

長屋王の一族で死を逃れたのは、夫人の一人だった藤原不比等の次女の長娥子と、長娥子が産んだ長屋王の子と、長屋王の弟の鈴鹿王すずかおうの一家だけだった。

長屋王が亡くなると藤原四兄弟は、聖武天皇の夫人だった異母妹の安宿媛を光明皇后こうみょうこうごうとして天皇の正妃に立てた。


天武天皇のときに大王は天皇と呼び方を変えたが、天皇の正妃せいひ大后おおきさきのままだった。

律令では、天皇(大王)の妻は、二人、夫人ふじん三人、ひん四人と定められている。

妃になれるのは内親王ないしんのう(天皇の娘)だけで、夫人は女王にょうおう(天皇の孫娘や姪)や三位以上の公卿くぎょうの娘。嬪は五位以上の貴族の娘と決まっている。

藤原不比等は三位以上の公卿だから、娘の安宿媛は夫人であり、妃から選ばれる大后にはなれない。当然、反対するだろう長屋王をえん罪で殺し、律令にない皇后という名を使って、藤原四兄弟は妹の安宿媛を天皇の正妃に立てた。

皇后は中国の皇帝の正妃の呼び名で、日本では光明皇后が最初に使った。

律令国家をつくるのに貢献こうけんした藤原不比等の息子や娘が、改名という形をとって法をゆがめ始めたのだ。 

法のことを古代では律令格式りつりょうきゃくしきというが、りつは刑罰を定める法で、りょうは行政を定める法になる。補足したり変化した法を記すのがきゃくで、細則を記すのがしきだが、この物語が始まるころは律令はあったが格式はまとまっていなかった。



長屋王家が滅んでから八年後の、七三七年(天平九年)。

一年半ほどまえから太宰府だざいふ(九州・福岡県)で流行しはじめていた痘瘡とうそうが、平城京で大流行をする。

前年に、長屋王亡き後の政府の重鎮だった舎人親王とねりしんのう新田部親王にいたべしんのうが亡くなって、この年に入ってからは各政庁が仕事ができずに閉められるという異常の事態になった。

都の人口が半分に減った、つまり死亡率五十パーセントの痘瘡の流行で、藤原四家の四兄弟も亡くなってしまう。

この災難の年に、交野かたのという都を少し離れたところで男子が誕生する。この物語の主人公の山部王、のちの桓武天皇だ。

 

翌年の七三八年。

政府の高官の多くが亡くなって政務が止まっているなかで、聖武天皇は光明皇后の娘の阿部内親王ないしんのう(皇女)を皇太子に立てた。これも史上初の女性皇太子だ。


物語は痘瘡の流行が収まって、日常が戻り始めた七三九年から始まる。

主人公となる山部王は、まだ二歳の嬰児だった。





(注)天皇の子息を皇子おうじ親王しんのうに違えて書いているが、呼び方が変わったからで、死亡年度の違いで名称が変わっている。


年月日は、年は西暦で、月日は続日本紀にのせられているとおりに記載したため、西暦に直すとずれがある。

年齢は、その歳の誕生日が来るとなるはずの満年齢を使った。





天智天皇(中大兄皇子)の夫人と子女             


夫人             子女

蘇我遠智おちいらつめ―――――――――大田皇女(天武妃)―――――――外孫・大津皇子                     

               鸕野皇女・持統天皇(天武妃)――外孫・草壁皇子

               健皇子(夭折)      

蘇我蛭娘―――――――――――阿閇皇女・元明天皇(草壁皇子妃)

               御名部皇女(高市皇子妃)――――外孫・長屋王      

阿部橘娘―――――――――――飛鳥皇女

               新田部皇女(天武妃)

蘇我常陸娘――――――――――山辺皇女(大津皇子妃)

忍海色夫古娘――――ー――――大江皇女(天武妃)―――――――外孫・長皇子                                           

               川島皇子            外孫・弓削皇子                        

               泉皇女

栗隅黒媛娘――――――――――水主皇女

超道君郎女――――――――――志貴皇子――――――――――――白壁王

伊賀采女宅子―――――――――大友皇子(天智皇太子)



天武天皇の夫人と子女

夫人             子女

大田皇女(天智娘)――――――大伯皇女(初代 伊勢斎王)                          

               大津皇子(第三皇子・謀殺)

鸕野皇女・持統天皇(天智娘)―草壁皇子(第二皇子)――――――文武天皇

                               元正天皇

                               吉備内親王

阿閇皇女・元明天皇(天智娘・草壁皇子妃)―――――――――――文武天皇

大江皇女(天智娘)――――――長皇子―――――――――――――智努王

               弓削皇子            大市王

新田部皇女(天智娘)―――――舎人親王――――――――――――淳仁天皇

藤原氷上いらつめ―――――――――但馬皇女(高市皇子妃)

藤原五百重娘(鎌足娘)――――新田部親王―――――――――――塩焼王

蘇我大蕤いらつめ―――――――――穂積皇子

               紀皇女

               田形皇女

額田おおきみ―――――――――――十市皇女(大友皇太子妃)

胸形尼子―――――――――――高市皇子(第一皇子)――――――長屋王

かじ媛娘―――――――――――忍壁皇子

               磯城皇子

               泊瀬部皇女(川島皇子妃)

               託基皇女(志貴皇子妃)



天皇継承

舒明天皇        元明天皇(女帝・天智娘)  元正天皇(女帝・文武姉)          

  ‖――天智天皇―――持統天皇(女帝) ‖――――文武天皇

  ‖          ‖―――――草壁皇子     ‖―――聖武天皇

  ‖――ーー――――――天武天皇           藤原宮子   ‖ 

皇極天皇(女帝)                        藤原安宿媛 

                               (光明皇后)

                               

藤原不比等の子

 北家 一男 武智麻呂

 南家 二男 房前

 式家 三男 宇合

 京家 四男 麻呂

                    子女

    一女 宮子(文武天皇夫人)―――聖武天皇

    二女 長我子(長屋王夫人)―――山背王

                    安宿王

                    黄文王

    三女 安宿媛(聖武天皇皇后)――阿部皇太子

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