オランウータンの不在証明

雨宮★智成

There was nobody there.

 『そこには誰もいなかった』。

 それだけが、この事件における唯一の目撃者から得られた証言だった。

 ――そんな馬鹿なことがあるものか。

 火のない所に煙は立たぬ。死体のない殺人事件があるわけがない。

 あるわけがない。あってはならない。それが現実である限り。

 探偵は、最後まで論理の外側に立ってはいけないのだ。

 故に、私は何度でも繰り返す。


『考えろ、何か仕掛けがあるはずだ』――と。


 吸った空気を吐き出しながら、私――班目まだらめ六花りっかは石を蹴り飛ばす。

 ――あれは、二日前の話だ。

 たった一晩で、五人の男女が殺された。

 荷錦利平。

 烏間鳴子。

 吉切真夏。

 佐々木六津。

 黄埼淳。

 五人とも、二十歳前後だったと聞いている。

 同じ大学の、同じサークルの友人だったと報じられていたはずだ。

 夜の帰路。街灯の照らす道で、彼らは殺された。

 全員、纏めて。同じ場所で。傷だらけの死体で見つかったのだ。


 即死。刃物らしき傷跡。血溜まり。肉塊。――目撃者、一名。


 コネで警察から横流しされたファイルを横目に、思考を巡らせる。

 目撃者が一名。

 すなわち――事件現場を見た人間がいるということだ。

 それでいて、なお犯人は見つかっていない。

 何故かと問われれば、答えは単純である。

 『そこには誰もいなかった』。彼はそう証言したからだ。

 誰もいなかった。誰も。誰一人として。


「そんなわけねーよぅ、って顔してますねぇ。師匠はいっつもその顔ですけど」


 顔を上げる。見知った顔がそこにはあった。

 ――鳥賀うらら。アパートの隣室に住む大学生にして、他称・私の一番弟子。今日は露出の多いファッションでキメているらしい。お出かけ日和というわけか。


「えぇ。お久し、もとい昨日ぶりですね。師匠」


 一昨日ぶりだよ、馬鹿弟子め。



           ◇



 ブレインストーミング、という言葉がある。

 集団で思考することで新たな発想を生む。発想を繋げて結論を創り出す――思考を引き出して、整える。三枚引いて、二枚戻す。読んで字のごとく、知識を渦巻かせる論議。

 うららとの会話は些細なものであったけれど、それでも私にとっては大きなものだったようで。些細な情報交換を終えたのち――と言っても、私が彼女に情報を提供し続けていたのだけれど――彼女はこんなことを呟いた。


「たぶんオランウータンですよ、それ」


 ぽかん、とあっけに取られてしまった。殺人鬼でもなく、野犬でもなく、いっそ化け物ですらなく、完全に文脈の外からやってきた類人猿の姿に。

 オランウータン。あの、森の賢者?


「それは梟です。あとゴリラです」


 む、間違えた。いや正直、どっちも似たようなものだと思うんだけれど。森の賢者と森の人。人は賢いんだからほぼ同じと言って構わないんじゃないだろうか。畑の肉と牛の肉みたいなものだろう。どっちもタンパク質だし。


「そんなこと言ったら殺人鬼も野犬もほとんどタンパク質じゃないですか。化け物だってタンパク質かもしれませんよ?」


 そう言われればそうかもしれない。少なくとも、私の知っている化け物は九割以上がタンパク質で出来ている。違うやつらはだいたい金属だ。

 ――いや、違う。そこじゃない。

 なぜ、そこで敢えてオランウータンを選んだのかという話だ。


「簡単な話なんですよ。師匠、あんまりテレビとか見ないでしょ?」


 失敬な。見ているとも。少なくとも事件に関係している報道は。


「そういうとこですよ。関係ないと思ったら見ないじゃないですか」


 諫めるようにうららが私の頭を人差し指で突く。

 ――やめてくれ、子供じゃないんだぞ。


「子供じゃないですか」


 子供じゃない。たとえ実年齢がどうだったとしても、大学を卒業して社会に出ている人間を子供というのはいかがなものだろうか。確かに私はうららよりも背が低いかもしれないが、それだけで子ども扱いされる謂れはない。

 まあ、天才少女ともてはやされるのは悪い気分ではないのだけれども。


「そですね、はい。話、戻していいですか?」


 そうだった。続きを聞かせてもらおう。だからその指で額をつつくのをやめてくれないだろうかあいたっ。デコピンするなんて聞いてないぞ。


「え、なんかムカついたので」


 何故だか知らないけれど、うららはイライラしているみたいだった。『そういう時期』というやつだろうか。それなら仕方ない。デコピン一発は後でジュース一缶にでもトレードしてもらうとして許してあげよう。私は寛大なのだ。

 ――さて、閑話休題。


「オランウータンが逃げ出したって話、最近ニュースでよくやってますよね」


 うららがそんなことを言う――まあ、それを認めないと話がここで終わってしまうので、私が知らないことを事実とするのは少々心苦しいところはあるけれど、前提としてそういうことにしておこう。

 しかし、それにしたってなぜそこに直接つながるのかという話だ。


「目撃者が言ってたんですよね、『誰もいなかった』って」


 言っていた――らしい。直接聞いてはいないが。私は警察の人間でもなければ目撃者に直接話を聞ける立場にもないのだ。


「それって、質問が悪かったんだと思うんですよ」


 うららが、ぴしりと人差し指を私に向けて言う。できればそれもやめてほしい。


「師匠、動物園の檻の中を見て『あそこに誰かいる?』って聞かれたらどう答えます?」


 それはもちろん、誰もいないと――なるほど。

 『そこには誰もいなかったThere was nobody there』。

 『何も』でなく『誰も』。nothingでなくnobody。

 『そこに他の人間は誰かいたか』と問われれば、そう答えるに決まっている――というわけだ。

 鉄壁の不在証明アリバイ。ただし人間に限る、みたいな。


「そういうことだと思います」


 くるり、とうららが嬉し気に一回転するのを見て、私は言った。

 ふふ、雑だなぁ。


 ――今度は本気でぶん殴られた。理不尽だ。



           ◇



 結論として、犯人はそのオランウータンだった。雑だとか言ってごめんよ。

 まあ、犯人がそうであると分かったはいいものの(胃の中に被害者のDNAと一致する肉片があったらしい)、犯人が人間でないのならその罰を与えることもできず。

 というか、そもそも街中で暴れ回る飢餓状態の殺戮オランウータンは即座に警官隊に射殺されてしまっていたわけで。

 そもそもオランウータンが肉を食べるとは聞いたことがなかったが、まあ餌がないのなら食べて然るべきなのだろう。飢餓状態で共食いする生き物というのは例も多い。人間だって人間を食べるのだ。

 そんなこんなで結局誰が一番損をしたかと言えば、目撃者なのにそんな重要な情報を伝えなかった例の彼なのだった。同輩が五人も急死したうえで警察にこってり絞られるとは、憐憫以外の感情が浮かんでこない。かわいそうに。

 私はといえば、真相にいち早く気づいたと警察に行っても取り合ってもらえなかったので、せっかく事件を解いたのに何も得られず仕舞いで。

 逆に、この事件で得をしたといえるのは、たぶんデコピン一発ぶんのジュース代を踏み倒して駆けて行ったうららになるのだろうか。あいつめ、次会った時には二倍にして返してもらうからな。

 そういうわけで、督促状代わりにうららにメールを送ったわけなのだが、彼女から返って来た返信は『何の話ですか?』だった。デコピンしたことを忘れているのかと思って後で話を聞いてみれば、そもそもあそこでの他愛ない会話の一端も記憶にないの一点張りだった。

 そうなってみると、確かにいくらなんでもうららが賢すぎるのにも納得がいく。

 もしかしたら、あのうららのような何かも人間ではなくて。

 それこそ私が件の目撃者になったように。

 あそこには、誰もいなかったのかもしれない。

 ――柄にもなく、そんなことを思った私なのだった。

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