星(短編)
キクチ イオリ
第1話
星
私は昔から、やたらと目につく星があった。
ふと夜空を見上げた時、目にとまるその星は、その時々で変わったものだった。
青白く、磨き尽くされたダイアモンドのような、白く清廉としていて少し青みがかった星。
赤黒く、
私はこの星々はそれぞれ予兆するものがあった。
青白く光る星は幸運の前兆、幸せの星。一方で赤黒く光るのは不幸の前兆、妖星というらしい。
これらの星を見た日や、その翌日、必ずその星通りの出来事が起きた。
なぜこんなことを思ったのかと言うと、初めはまだ8歳だった頃、家のベランダから見上げた時だった。
私は自分の頭上で青白く光る星を見つけた。少しだけぼやけた視界でもはっきりと捉えたその星は、
見惚れるほどに美しかったのだ。
そして、その日は父が仕事帰りにケーキを買ってきてくれた。私は滅多にないこの機会に無邪気に喜んだのを覚えている。
その日も泣き虫で泣き腫らした目をぐっと輝かせ、いちごの乗ったショートケーキを口いっぱいに頬張った。
——あれから父は家に帰ってこない
「出張。」そう繰り返す母の言葉が嘘で塗り固められていることくらい、幼かった私にも分かっていた。
夜中にトイレに行きたくなり目を覚ますと、居間で喧嘩する母と父の声がよく聞こえていた。
私は2人に気づかれないように足音を消し、気配を消し、トイレまで行っていた。
考えてみれば、トイレの流した音で起きてしまったことがバレてしまうが、それでもそうしてひっそりとしていた。せめて2人が、私に気を遣わないように。
私から精一杯の、両親への気遣いのつもりだったのだ。
それからというもの、母の私に対する躾は日に日に激しさを増していった。
酒に酔っているのか、私への怒りを顔に滲ませているのかは分からないが、真っ赤な顔をして、
まだ小学生だった私の胸ぐらを掴み、所々掠れたり上擦って、はっきりとは聞き取れない怒号で、
私を叱っていた。
部屋から追い出され、ベランダに放り出された私。冷え切った空気が頬を刺す中、見上げた夜空には、
ぼうっと赤黒い星が浮かんでいたのを覚えている。
泣き虫で要領の悪い私が「ごめんなさい」を繰り返すことは、むしろ母の逆鱗に触れた。
「良い子にしてなさい。」母は決まって、私へのお説教の後にこう言う。
それにまた「ごめんなさい」と返せば、深いため息を吐かれ、吐き出されたため息が私の赤く腫れた瞼をそっと撫でた。
もっと出来た子なら母と仲良く暮らせていたかもしれない。そう思うと自分が嫌いになって、
やり直したいと思う度に涙が溢れた。その時もまた、ベランダに立っていたように思う。
赤く、黒く、地球から遠く離れた場所から、妖星が私を見下して笑っていた。
——昨晩は、自室の窓から青白い星が顔を覗かせているのが見えた。
その星と目が合うと私は「きっといいことが起こる」と少しだけ胸を躍らせた。
父がケーキを買ってきてくれた日。祖母が私に可愛いワンピースをプレゼントしてくれた前の日。
決まっていいことが起こるその青白い星を私は信じて、縋っていた。
ただ、その翌日、私にもたらされた幸運は、母が最近、家に連れ込んでいる男が母と激しく口論をした末に出ていくという、私にとって、そこまで喜びを感じさせない微妙なものだった。
もっと大きい幸せを。またいつか浮かび上がる幸せの星に期待せざるを得なかった。
もっとも、私の超能力でもなければ、確信のないこの星は、時々外れることもあった。
あれは中学生に上がる前のことだ。日課としてべランダに立っていると、家の前に立つ垂れた木々の隙間、その奥に見える中心街のビルの上に青白く光る星を見つけた。
「何かいいことがあるのかも」そう淡く期待した私は、星を完全に信じ切っていた。
次の日になると、珍しく朝から起きていた母が電話を受け、私に祖母が亡くなったことを伝えた。
母の実家に帰省する度、私の頭を優しく撫でてくれた、その温かい体温を通して、優しさが染み込んでくるような、優しい祖母だった。
また、会うたびにお小遣いや、可愛い洋服を買ってくれた。
最も、母はその祖母がくれた洋服を気に食わず、私に着せてくれる前に箪笥に仕舞い込んでいた。
祖母の気持ちだけが嬉しかった。でも、一度も着ることはなかったのだ。
祖母のくれたフリルのついたワンピースを身に纏ってしまえば、
母と私は、日々繰り返し行われるその親子のやりとりを、他人に悟られてしまうから。
祖母の訃報。夜空に浮かぶ星たちの読みが外れた。それでも私はこの星に縋るしかなかったのだ。
昨晩の青白い星はさほど大きな幸せを私には運んでこなかった。
母の交際相手だろう男が出て行ったことで、私は少し安堵を覚えるだけで、大きな恩恵を受けるものではなかったからだ。
がっかりした気分にカーテンの隙間から覗く夜空を見つめる。
あ、青白く輝く星、幸せの星。今日はなんだか、より一層と輝きを放っている。
何か良いことがあるかもしれない——と思った刹那、木造のきつく軋んだ音がした。
ドアを激しく平手で叩く音。少なくともノックとは呼べないほどに荒々しく、開けろと主張する振動が私の体にまで伝わってきていた。
ドアノブに手をかけた時、勢いよくドアを引かれ、私は自室と居間を繋ぐ廊下に前のめりに倒れ込む。
体を起こそうとすると、腰のあたりにずっしりとした重みを感じ、母が馬乗りになってきたことを悟る。
逃げようと強く身を翻し、倒れ込んだ状態のまま母と向き合う形になったその瞬間。
母は私の首に手をかけた。
「ヒュッ。」と、か細い音が喉から鳴り、肺から押し出された空気が喉元で止まる感覚がする。
思わず母の前で顔を
「こんな私でごめんなさい」
「良い子になれなくてごめんなさい」
「お母さんの前で、顔を顰めたりしてごめんなさい」
頭の中でそう唱えてはいたものの、本能的に身体が危機を察知して反応し、母を突き飛ばす。
もう50歳近い母は体勢を崩し、私はその隙に馬乗りになった母から身を抜き、居間へ逃げた。
母にいつも怒られた後は、ベランダに放り出されていた。
夏でも冷たい空気の夜の中、ただ星を眺めるばかりだった、その時間。
そこからだった。輝く星に予兆や前兆を見い出したのは。
——ベランダに出て、勢いよく扉を閉め、ようやく自分が激しく肩を揺らし、荒い呼吸をしていることに気づく。額にじっとりとした汗をかき、激しく鼓動を打つ心臓のせいで火照る身体とは対照的に、指先はやけに震えていた。
母が追ってきて、ベランダの扉を強く叩きつけた。
風の音や外の騒音を防ぐ分厚い扉。母の怒号はあまりにも小さく途切れ途切れでしか、聞き取れなかった。
しかし、何を言っているかは大方の予想がついている。いつもそうだから。
「あんたさえいなければ。」そう言っている、聞こえずとも伝わってくる。
その言葉とともに育ってきた私だから。清く美しく生きることなど、とうに諦め、匙を投げた私に、
母の躾は日々エスカレートしていくばかりだったから。
母のつけた傷さえなければ、祖母のくれたワンピースだって着れた。
母の怒りに任せた罵声さえ聞かなければ、私だって笑顔を忘れることはなかったはずだ。
母に扉を開けられないよう押さえつけている私の背中を、さっき自室で見た青白い星が照らしていた。
何が幸運の星だ。幸運の前兆だ。
昨日だって大した幸せもなく、今日だってこのザマだ。過去にも祖母が亡くなった日の前日に夜空に浮かんでいた。何が幸運の星だ、何が幸運の星だ。頭の中で目の前の母より、青白く輝く星に恨みを吐き捨てていた時に、ふと引っかかることがあった。
今まで私が幸運の星だと信じていた青白く、ダイアモンドのように輝く星。
浮かんでいたのはいつだ?
父がケーキを買ってきてくれた日?祖母が私にフリル付きのワンピースをくれた日?
——違う。そうじゃない。どこかずれている気がする。そうじゃない。
夫がいなくなる前日。虐待の痕が見えてしまうワンピースを母が娘にプレゼントした日。
母が亡くなる前日。夫を失った悲しみを埋める愛人と喧嘩別れをした日。
——なんだ。
————私じゃない。
そうか、そうだったのだ。夜空に爛々と輝く青白い星は私の幸運の前兆なんかじゃなかった。
目の前で怒り狂った女の、母の、不幸の前兆だったのだ。
夜空に数多ある星にすら見放されていたと思うと、私は空っぽになるような虚しさを感じた。
——青白い星は母の不幸。では、赤黒い星はどうか。
私の不幸の前兆だと思っていた。母からベランダへと追い出され見上げる度に、私を見下ろしていた赤黒い星。でも、きっとこれもそうじゃない。
母の幸運の星。我が子という絶対的に逆らわない立場の人間を傷つけることで優位に立ち、満足感を得ていた。
日頃の鬱憤を晴らすために八つ当たりをして、ある種、私への虐待行為に依存し、精神の安定を求めて傷つけていた。
母の気持ちが清々しく晴れた夜。決まって夜空には赤黒い星が浮かんでいたのだ。
私がこれまで信じて見つめていた星は、私ではなく母を見ていた。
その事実を噛み締めた瞬間、ふと身体から力が抜けるのを感じた。
瞬間的な脱力、肩の荷がすっと降りたような感覚に襲われた。
何かが私の中から抜け落ちたような気がして、ただただ星の意図する結末に引っ張られるような感覚。
私は徐に扉を押さえていた手を離した。母は全体重を乗せて扉を開けようとしていたため、
急に扉が軽くなったことにより、勢いよく後ろに仰け反り倒れた。
激しい音をたてて背中をぶつけ、小さくうめき声をあげている。
流し目で母の状態を確認した後、居間のテーブルに置いてある、ある物に目が止まる。
躊躇いなくそれを握りしめて、母と向き合う形で立つ。
思えばこうして、母と向き合うことが今までどれほどあっただろうか。
身体が向き合うことはあれど、私はいつも顔を、そして心も、母から逸らしていた。
今はもう違う。今度は私から母をまっすぐと見つめる。
私は許せなかった。
私の人生を端から大切に扱う気がなかったこと。身体にも心にも消えない傷を残したこと。
——なにより、私が心の拠り所にしていた星の見つめる先が母だったこと。
お母さん。だめ、この星は私の星。
赤黒い星が幸運の星だったのね。それ、ちょうだい。
私の……幸せの星。
初めての握り方をしたキッチンナイフは、母の不幸を予兆する青白い星のように、けれども冷たく無機質に輝いていた。
私と母が暮らしていたアパートの一室、今日はやたらと風が強い。
先程まで
満天の赤黒い星たちが光を浴びて輝いていた。
振り返った私は、ぼやけた輝度を放つ我が家の照明によって、ガラス扉に反射した私の姿を見た。
ガラス扉の奥、夜空に光る青白い星。ガラス扉に撥ねた赤黒い星。
そしてまた私も、身を赤黒く染めていた。
これが幸運の色。幸せの象徴。
ガラスに反射する私が、久しぶりに笑った。
——終——
(文字数:約4700字 制作時間:3時間6分)
星(短編) キクチ イオリ @IORI_k
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