第23話 レシピ
お腹が空いた。
椿はぱっちりと目を開けてしまった。
正確に何時なのかはわからないが、外はまだ真っ暗のようだ。カーテンの隙間から見える空が夜だ。世界が冬至に向かってひた走るこの時季の日の出は遅い。
昨日38℃を超える熱を出して一日中寝ていたせいで睡眠のリズムが崩れた。
隣では向日葵が寝ている。起こすのは気が引けた。彼女はきっと遅くまで自分の看病を続けてくれていたに違いない。発熱の夢うつつで駄々をこねた記憶がぼんやり残っている。意識がはっきりした今思い返すと恥ずかしい限りなのだが、どうにも心細くて甘えたい気分だったのだ。
枕元に手を伸ばすとスマホが見つかった。充電器につながれている。たぶん向日葵がつないでおいてくれたのだろう。
午前四時四十五分だった。早すぎる。六時を回っていれば向日葵を起こすことも視野に入れたが、いつもより一時間以上早い。
スマホの明かりを頼りに枕元を見る。体温計といつも白湯を入れているタンブラーが見えた。まずは少し白湯を飲む。それから体温計に手を伸ばす。古き良き脇の下に挟むタイプの体温計だ。寝間着の前を開いて中に入れる。数十秒で、ぴぴ、ぴぴ、と音が鳴る。36.2℃だ。これなら活動できる。
空腹だ。昨日はほとんど食べていない。何か胃に入れたい。
椿は右手でスマホを持ったまま部屋を出た。
食べ物を探して母屋にたどり着いた。母屋もまだ真っ暗だ。みんな寝静まっている。できる限り音を立てぬよう配慮して廊下を歩いた。
台所に侵入する。ここでくらいは、と思って電灯をつける。間食用のおやつや即席麺が入っている戸棚を開ける。誰かがもらってきたのか洋菓子店のパッケージングを施されたマドレーヌを見つけたが、なんとなくバターと小麦粉の気分ではない。塩が欲しい、ポテトチップスでもないだろうか。
「だれ?」
声をかけられて振り向いた。居間のほうからパジャマの上に厚いカーディガンを羽織った義母が顔を見せていた。
「なんだ椿か、あーびっくりした」
「すみません、起こしてしまいました?」
「たまにはいいわよ」
義母が土間におりてくる。
「そんなことより体調はどう?」
「もうすっかり熱下がりましたわ。ご心配をおかけして申し訳ないです」
「そうね、顔色もいいし、いいわね。あとは手だけね」
指摘されると急に左手の傷がうずく。自分で事故を起こして切った情けない傷だ。
「ひまはまだ寝てるの?」
「はい」
「椿くんはどうしたの? 目が覚めちゃった?」
「なんやお腹空いてしもて。からいものが欲しいなぁおもて母屋に来たんですけど」
「食欲があるのはいいことよ。昨日の芋の子汁が残ってるけど食べる?」
芋の子汁とは里芋をメインに鶏肉や根野菜を醤油ベースのスープで煮込んだ料理である。彼女の出身地である秋田の郷土料理だ。椿は喜んで「いただきます」と答えた。
冷蔵庫から片手鍋を出す。コンロにのせ、ガスの火をつける。おたまで中身をかき混ぜつつ、「私も一緒に食べて朝ご飯にしちゃお」と呟く。
「お昼は家で食べる?」
「はい、家にいるつもりなんで。一応病み上がりやし」
「今日は私が請求書作りに工場行っちゃうから芋の子汁食べたらすぐ作っちゃうわね。何食べたい?」
彼女は「その手じゃ何にも作れないでしょ」と言ってきた。ぐうの音も出ない。
「夜はお鍋にして、昼は豚汁でも作っておこうかな。いっぱい作っとけば昼に誰か帰ってきても勝手にあっためて食べられるでしょ」
「ありがとうございます、手伝います」
「その手じゃ包丁握れないけどね」
「そういういけず言わんといてくれはりませんか……」
からっとした声で笑った。
「でも最近椿くんもお料理のレパートリー増えてきたし、たまには一から全部作ってもらう機会があってもいいかもね。私だっていつ何があるかわからないんだし、今時男の子でも生活力があったほうがいいんだからさ、ちょっとずつ練習して」
すぐに「やります」と宣言した。なにせ今の自分は実質的に向日葵のヒモである。少しでも家の役に立つことがしたかった。
「何を作ってもらおうかなー。関西のお料理がいいな。西友で白味噌買ってきてさー」
そう言われると少し困ってしまう。実家にいた時は料理など一切させてもらえなかったのである。したいとも思っていなかった。その楽しさは向日葵とこの義母に教わったのだ。
「なにか……、ちょっと考えときます」
ネットで検索すれば出てくるだろうか。それで京都の味が再現できるだろうか。そもそも実家では何を食べていたのだろう。頭を打ったわけでもないのに記憶が抜け落ちていてもやもやする。ここに来るまでちゃんと生きていなかったのだな、と悲しくなる。食は生に直結しているのだ。
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