第10話 水中花

 今日の椿はどうしても欲しいものがあると言ってサントムーン柿田川に出かけた。沼津市の外、東に隣接する駿東郡清水町のショッピングセンターだ。すぐ近くに柿田川公園という湧き水で有名な公園があり、三回二人でデートに行ったことがある。だが二人の目的はあくまで柿田川公園であり、サントムーンはついでに過ぎなかった。何せたいていの買い物はららぽーと沼津で事足りる。なのに今回はわざわざサントムーンにそれもバスを乗り継いで出かけるとはいったいどういうことだろう。


 しかし向日葵は根掘り葉掘り聞かずに椿を送り出した。あまりしつこくすると気難しい彼の機嫌を損ねてしまうのだ。彼が自主的に出かけてくれると言うのは嬉しい。そんなに欲しいものなら無事に目的を達成して入手してきてほしい。そんなことを考えながら母のような気持ちで外出準備をする椿を見守った。


 よっぽど欲しいものがあるのだろう。


 出勤してから、向日葵は会社のブレイクスペースでひとり笑いを噛み殺した。


 椿は昨日バイト代を入手した。例のグレートピレニーズのベリーを散歩させるバイトだ。それで買い物に行きたいのだと思うと可愛くていじらしくて今夜は盛り上がってしまいそう。


 社長がコーヒーを片手に歩み寄ってきた。向日葵の隣に腰を下ろして「私も休憩」と微笑む。


「ひまちゃん、今日ご機嫌ねえ」


 向日葵は隠すことなく「えへへへ」と笑った。


「夫がサントムーンまで日帰りの冒険の旅に出たそうで、なんか可愛いな、と思って……することが初めてバイト代をゲットした高校生みたいなんですよね……」

「あらーいいわね、楽しんできてくれるといいわね。帰りは迎えに行かなくて大丈夫?」

「あんま口出すと拗ねるもんで黙って連絡を待ちます。何もなかったら自分で帰ってくるっしょ」




 椿は結局向日葵が帰宅するまで何の連絡もよこさなかった。


 冒険の旅はどうやら無事に終わったらしい。帰ると何事もなかったかのように母屋で夕飯を作っていて、そのまま両親と祖母と家族五人の団欒に突入した。サントムーンの話題は出ない。


 目的の物は買えたのだろうか。何を買ったのだろう。聞きたい、でも聞けない。夕飯が終わって離れで二人きりになってから詰め寄ろうか、他の家族の前で彼の愛鷹山あしたかやまより高いプライドを直火焼きするわけにはいかなかった。


 夕飯を片づけた後、彼はなぜか食器棚からティーポットを取り出した。耐熱ガラスで透明のティーポットだ。香爽園の店頭でも販売しているものだが、しゃれすぎているのかあまり出ない商品である。


 二人で離れに下がる。


 離れのリビングに辿り着いてまず椿が電気ケトルでお湯を沸かし始めた。


「ねえひいさん、ちょっとカップふたつ持ってきて」


 棚からおそろいのマグカップを取り出し、ローテーブルの上に置く。そして自分自身もテーブルのそばに腰を下ろす。


 椿がティーポットに何か丸いものを入れた。


「見てて」


 そして、そこに電気ケトルで沸かしたお湯を注いだ。


 向日葵はびっくりして目を真ん丸にした。


 小さな丸い毬のような物体が、透明なポットの中で文字どおり花開いた。お湯でほぐれたと思ったら、中から大きな赤い花と白い小さな花輪が出てきたのである。


「すごい! なにこれ!」


 椿が得意げに「工芸茶っていうんや」と答える。


「ルピシアで売っててん」


 なるほど、言われてみれば確かにルピシアはららぽーと沼津にはない。


 ティーポットから花のかぐわしい香りがする。湯気と美しい花、黄緑色に薄く色づいたお湯――お茶。


「可愛いやろ」

「すごい、すごい、めちゃめちゃ可愛い、めちゃめちゃ」


 興奮して覗き込む。ポットに手を伸ばそうとして椿に「手ぇ火傷するで」とたしなめられる。


「こんなのあるんだ!? わたし生まれた時から製茶業に携わってんのに世の中にこんなお茶が存在すんの知らなかった!」

「まあうちで出るの基本うちで作った緑茶やしな。これは中国茶なん。ジャスミンティーで、茉莉花茶ともいって、中国や台湾でこういう細工をしたお茶を一個一個手作業で作らはるんやて」

「よく知ってんね」

「従姉が台湾に行くたびに買うてきたはってな」


 蒸らして少し温度が下がったのを見計らってから、椿がポットのふたを布巾で押さえながらマグカップに注いでくれた。


「母屋では中国茶なんて出せへんやろ、自分ちでお茶作ってるっていうのに国外で生産されたものをわざわざ買うてきて淹れるなんて」

「うちの親はぜんぜん気にしないと思うけど。なんならうちも和紅茶作ろうって流れになってるから勉強のために国外の紅茶飲んだほうがいいと思うし」

「あ、ほんま。ほな余計な気回したかな」


 そこまで言ってから、彼は「あ、でも」と微笑んだ。


「花、綺麗やろ?」

「うん、すっごく」

「この花をひいさんに贈りたかってん。せやから、二人きりの秘密にしといてな」


 愛しさが天井を突き破ったので、向日葵はジャスミンティーを即飲み干してテーブルを押し退け、椿を床に押し倒した。椿は最初こそ「あかん、お茶飲んでリラックスしたらもう寝なさい」と怒ったが、まあ、そういうことである。



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