第9話 神隠し

 池谷家には『書庫』がある。百八十センチサイズの本棚が三つ詰め込まれている三畳ほどの納戸だ。ここに、向日葵が集めたハードカバー、母が集めた文庫、祖母が集めた新書、三代にわたって伝わる絵本、今は亡き祖父の趣味で揃えた百科事典や全集、そして兄が集めたコミックスが並んでいる。


 椿はこの部屋が大好きだった。何時間でもこもっていられる。誰にも話しかけられない。何より本の、紙の匂いがいい。向日葵は最近漫画をすべて電子書籍に切り替えてしまった。読みたかったらアカウントを共有してあげると言ってくれたが、紙をめくる感じがないと思うと気が乗らない。


 壁に背をつけ、体育座りで漫画を読む。


 もともと漫画はあまり好きではなかった。俗っぽい読み物だと思っていたし、なんなら一番ひねくれていた時期は下等な人間が読むものぐらいに見下していた。それにイラストを目で追うのが苦手だった。

 しかし大学に入って友人たちが子供の頃に読んだ漫画の思い出を語ったり誰かが買った漫画を回し読みしたりして楽しそうにしているのを見てしまい、自分だけ話題にのれない疎外感を味わわされてしまった。それでそれとなく向日葵に相談してみたら貸してくれるようになったのである。


 食わず嫌いは良くない。漫画も日本の伝統文化であり、特にアニメ化されたような作品はもはや教養だ。


 今日、椿は向日葵の兄が大人買いして置いていった呪術廻戦を読んでいた。鬼滅の刃、ゴールデンカムイ、と来てこれも勉強したほうがいい気がして読み始めたのである。さすがアニメ化するくらいだからおもしろい。それにわりと哲学的で頭を使うのがいい。


 のめり込んでどれくらいの時間が経っただろうか。


 スマホが音を鳴らした。

 見ると向日葵からLINEが来ていた。


『今どこにいる?』


 しおりを挟み、閉じ、返事をする。


『書庫にいます。』

『今家に帰ってきたところなんだけど、そっち行っていい?』

『どうぞ。』


 ほんの数十秒で向日葵が顔を出した。


「ね、ね、何読んでる?」

「呪術廻戦」

「何巻まで来た?」

「七巻」

「邪魔しちゃった?」

「ええよ。そろそろ夕飯の準備もせなあかんし出なね」


 向日葵が椿の正面に膝をつき、「これ何の話してる巻だっけ」と言いながらめくった。さすが向日葵、しおりが挟まっていることには配慮してくれてぺらぺら無神経に広げることはない。


「椿くんこの部屋好きだね。なんか時々ここで読書してない? 勝手に持ってっていいから居間のこたつとかもっと居心地のいいところで読みなよ」

「ええねん僕この部屋めっちゃ好きなん」

「なんで?」

「本に囲まれてると安心するんや。それに古本屋の匂いがする」

「ああ、そうだね。古き良き本屋さんの匂いさね」


 きっと今頃向日葵の脳裏にも椿が思い浮かべた古本屋が浮かんだに違いない。大学の近くの古本屋で、二人で定期的に通ったところだ。


「京都には古本屋さんがいっぱいあるって言ってたね」

「学生街やしね。あそこ以外にも僕何ヵ所か行きつけのお店あったよ。常連やし店長さんに九条くじょうくんが好きそうな本入ったから取り置きしといたでーて言われて」

「顔と名前おぼえられてるじゃん」


 なつかしい記憶がよみがえると同時に、胸の奥から漠然とした不安も浮かんでくる。


「あの辺のお店、今どないしてはるかな。潰れてないとええんやけど……まあ大学が一掃されない限りは商売できると思うんやけど、こんなご時世やしな」


 向日葵は漫画を電子書籍にしてしまったし、とまでは言わなかった。


「僕のことおぼえてはるかな。今頃何してると思われてるかな。急に来なくなったし死んだとでも思ってはるかな?」


 向日葵がにっと微笑む。


「様子、見にいってみる?」

「って、どういう――」

「二人で京都旅行する? 実家には寄らないで、馴染みの店だけ巡ってさ」


 椿はちょっと考えた。それはそれでいいような気もしてきたのだ。

 どんなに嫌な思い出のある地でも、ノスタルジーは止まらない。


「だめかな。小さいお店でお客さんの顔と名前をおぼえるようなとこだと椿くんが今どこで何してるかとか言いふらされちゃうかも?」


 首を横に振った。


「京都の商売人は義理堅くて、顧客の個人情報は親族でも漏らさへんよ」


 それこそ、本物の誇りだ。漫画を見下す驕りなどとは根本的に違う、真のプライドだった。



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