第5話 街・朝


 高速道路を降りると、目的地までそれほどの時間はかからなかった。冬の夜明けの淡い空を背に立つ、街の名前を記した看板が窓の外を通り過ぎる。

 十五年ぶりに訪れた街は、記憶の中よりも遥かに小さく、寒々としていた。記憶の中では商店のあった場所にできた駐車場に車を停め、ドアを開けるとひんやりとした空気が流れ込んできた。

「ここからはどのルートを取るの?」

 助手席から降り、軽い屈伸運動で体をほぐしながら浅葱が運転席の側に回り込んでくる。シートベルトを外しながら、わたしは首を振った。

「ううん。ここが、目的地」

 ここは、わたしが、十五年前に住んでいた街。

 魔法少女だった一年間だけ居た街。

 それが、この街だった。

「茜も……この街にいたんだ」

 車から降りてドアを閉めると、浅葱がぽつりと呟いた。電子キーを操作し、ドアを軽く引いてロックされていることを確かめたわたしが顔を上げると浅葱が目をそらす。目線が道路の反対側のあたりを泳いでいた。わたしを置いて浅葱がすたすたと歩き出す。

「どうしたの?」

 浅葱が面白いと思っても、わたしにはその面白さがよくわからないことというのは確かにしょっちゅうある。けれども、そういうたぐいのものとも思えなかった。横顔を見る限り、浅葱の浮かべている表情は留守の間にわたしのお気に入りの皿を割ってしまったときに近い。

「……お手洗い?」

「……違うから」

 なんとか追い付いたわたしの質問に、浅葱は唖然としたような表情を浮かべた後、ため息をついた。「……実は、わたしもこの街に住んでたんだ、十五年前」

「え?」

 確かに、浅葱と故郷の話をしたことはなかった。それに、わたしがこの街に住んでいた話も。もっとも、わたしがここに住んでいたことを話していないのは浅葱だけではない。

 ここに住んでいたことは、そういえば誰かに話したこともなかった。転勤族の父親について全国を転々としていたから、一年だけ暮らした街はあちこちにあった。だから、ここのこともわざわざ語ったこともなかった。

「わたしも、魔法少女を……たぶん茜が、魔法少女をしているのを見たんだ」

 浅葱はわずかに足を速め、一歩先へ出る。浅葱の顔は、後頭部から生えた髪に隠れて見えない。

「それだけじゃなくて、一回……一回、魔法少女に助けてもらったことがあったんだ」

 わたしも歩調を上げるが、浅葱はムキになったようにさらに速度を上げたために追いこせなかった。

 浅葱は、あちこち旅行で歩きなれているせいか、あるいはわたしより頭一つ分高い身長のせいか、けっこう足が速い。追いつこうとペースを上げると、すぐに息が上がりそうになる。

 なんとか言葉をひねり出すと赤信号が行く手を阻み、浅葱がようやく足を止めた。ようやく追いつくと、浅葱がぽつりとつぶやいた。

「実は、ずっと憧れてた。わたしも、ああなりたいなって思ってたんだ」

「……別に、そこまですごいものじゃなかったよ」

 そう言ってから、わたしが話したことは浅葱にとって聞きたくないことだったかもしれないと思い当たった。だから、浅葱は目も合わせたくないのかもしれない

「ごめん。……すこし、幻滅させちゃったかもしれない」

「そんなことないよ。そんなことない」

 浅葱は少し大げさな仕草で肩をすくめ、手をひらひらと振る。

「……わたしさ、好きなものや気になるものはたくさんあるんだけど、それをちゃんと掘り下げるのはとても苦手なの。すこしやると、他のものに興味を惹かれちゃってそっちにフラフラ行ってしまってね」

 浅葱の言葉に、おもわずわたしはああ、と頷いてしまう。確かに浅葱の興味は、すぐに次から次へと移っていくところがある。オカルト誌を大真面目に読み漁っていると思っていたら今度は政府の統計を片っ端から読破し始める。浅葱の好奇心の向き方は、そういうところがあった。

「でも、星空だけはそうじゃなかった。なんども見上げて、また魔法少女に会えないかって思ってた。あのとき、魔法少女のひとがまた会いたくなったら空を見上げるといい、わたしたちが居なくても、きっと月は笑っていてくれるから、って言ってたから」

 わたしが知る限り、魔法少女はわたしと葵のほかにいなかった。魔法の国に行けば他にも居たのかもしれないが、少なくともこちらの世界に来れたのは葵だけだったと聞いている。となれば、わたしか葵の他に、浅葱の出会った魔法少女は居ない。

「……そんなこと、あったっけ」

「うん。あった。赤いストライプが入った、白いワンピースの魔法少女」

 それは私のことだった。赤いストライプの魔法少女がわたし、青いストライプの魔法少女が葵だった。そして、その頃のわたしは星空が大好きだったからそんな話をしてても不思議ではない。

「……寒いね」

 けれども、そんなことを口に出すのはあまりに恥ずかしかったからわたしはわざとらしくコートの襟を立てる。

「……ねえ、魔法って、まだ使えるのかな」

 浅葱がぽつりとつぶやいたとき、信号が青に変わった。浅葱の言葉から逃げるように、わたしはできる限りの早足で横断歩道に踏み出す。けれども、すぐに浅葱はわたしに追い付いてくる。

 ピロロト、ペペリト、リェータポロン。たったそれだけの呪文、変身と違って魔法の杖もなにもいらない。

 けれども、その呪文は唱えられなかった。

 唱えるだけ、唱えてみればよかったのかもしれない。言うだけ言ってみればいいのかもしれない。

「……できないよ」

 けれども、魔法はもう使えない。

 呪文を唱えたって、何も起こらない。

 わたしの答えに、浅葱は何も言わなかった。ただ、しばらく道を進んでから首をかしげる。

「ところで、どこに向かってるの?」

 それにも、すぐには答えられなかった。ここで答えてしまったら、その場で足が止まってしまいそうな気がしたから。手袋もつけずに来たから、寒さが指先から染み入って手が冷たかった。

 けれども、浅葱の質問に対する答えにはすぐにたどり着いた。港から、海へと突き出した防波堤。わたしが生まれるよりもずっと昔、さらに北へ向かう船がここから出ていた頃、この街が北の島への玄関口として栄えてた時代。その頃に乗客を荒波から守るために、防波堤にはギリシアの神殿のような屋根が覆い被せられていた。

 そのドームの下、かつて連絡船が多くの乗客を乗せて発着していた岸壁からは、灰色の海がよく見えた。列柱が朝日に照らされて、回廊に平行線の影を投げかけている。

 あの頃は、世界の果てのように思っていた場所。それが、こんなにもすぐにたどり着いてしまえる場所になっていた。そして、その向こうにも世界は続いている。灰色の海の向こうには、北の島があった

「車を出したとき、浅葱は『どこに行くの?』って聞いたよね」

「うん」

 防波堤を覆うドームに打ち寄せる荒波の音が、かすかに響く。早朝の、人影のない防波堤のドームに反響して、わたしの声はびっくりするくらいよく響いた。

「……ここが、目的地なんだ」

 そう、ここが終着点。十五年前、ふたりの魔法少女がたどり着いた場所。

「……もうひとりの魔法少女に会いに行くの?」

「……ううん」

 葵は、この街にはいない。それどころか、この世界にすらいない。そう答えると、気まずそうに浅葱が目を逸らす。

「……別に、死んだわけじゃないよ」

 葵はもといた世界に帰っていった。この世界から、魔法の世界から怪異が追い払われた代わりに、魔法の世界との繋がりも断ち切られた。だから、もう魔法は使えない。ここにはもう、魔法はない。

 だから、ここに来たってなにもないのだ。

「……わたし、物理学なら魔法の国へ行く方法が、魔法の国のある場所がわかるんじゃないかって思ってたの。……物理学は、世界の仕組みを解き明かす学問だから、どこかにある、魔法の世界のこともわかるんじゃないかって」

 ただ、星空の異変のニュースを、あの日、葵が空から落ちてきたときと同じニュースを聞いて堪えられなくなっただけだった。

「でも……わからないんだよね。魔法が、本当にあったのかもわからなくなったんだ」

 どんな仮説も、どんな加速器も、どんなに精巧な観測装置も葵が帰っていった世界の在り処を示してはくれなかった。あのとき、離れ離れになった世界への道は、見つからなかった。

「どうなんだろうね」

 わたしの隣で、浅葱が白い息を吐く。「天文学も、とても遠くのここではない世界を見るけれど、どんなに精巧な望遠鏡でも、見えなかったから」

 わたしが吐き出した息が白く曇り、ゆっくりと消える。その向こうを、十五年前のわたしたちと同じくらいの年頃の少女がふたり、駆けていった。活発で、一瞬も止まっていられなさそうな少女を、じっと何かを観察していそうな、おとなしそうな少女が追っていく。

 その腰で、真っ白なステッキのストラップが揺れていた。同じストラップが、わたしの持つ電子キーにもついている。思わず少女へ手を伸ばしそうになる。ふらふらと、一歩前へと踏み出していた。

 少女が駆けていった先で、灰色の海の上に浮かんだ月が笑っている。

「……茜?」

 振り返ると、浅葱が不思議そうな顔で首を傾げていた。そうか、浅葱はわたしが魔法少女に変身する様子を見たことがないんだった。変身する前のピロロトポルンは、小さな、ステッキを象ったストラップの形をしている。

 そのことを説明する代わりに、わたしは片手を上げた。てのひらを、浅葱に向ける。

 いまだったら、きっと。

「……ピロロト、ペペリト、リェータポロン」

 冬の海の向こうから、北の海から春風が吹いてくる。呪文と一緒に吐いた息が、温かさに溶けていく。

 少女が駆けていった先に立つ女性が、懐かしい笑みを浮かべていた。

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魔法少女を待ちながら ターレットファイター @BoultonpaulP92

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