いってきます。

牡丹餅

第1話 

 3月、久しぶりに実家に帰った。といっても、私の家は新宿。家から実家まで1時間もあれば着くので、「帰った」というほど大げさなことではない。しかし、なぜか実家にいると無性に安心感が湧くのだ。


 初夏の爽やか風が窓から家に流れこむ。風にのって鳥の鳴き声や木々の囁きが聞こえてくる。また別のどこからか子供たちのはしゃぐ声も聞こえてくる。



 「やっぱりここは落ちつくでしょ。」

母の声でふと現実に戻った。私は、しばらく窓の外を黙って眺めながら昔のことを思い出していたようだった。

 「そうね。武蔵野は落ち着く」

新宿は東京の中心部。昼間は人が多く、また人の流れが激しい。都会の喧騒や道行く人々の無機質さに始終さらされていて、いつの間にか武蔵野の空気に飢えていたのかもしれない。



 「この辺りは特別なものがないよね~」

中学校で「地元調べ」が課題になった時、友達とよくそう言って愚痴ったものだ。あの当時、この地域には有名な観光名所がなかった。特産物はあったがそれを積極的にPRしているわけでもない。自分たちの住んでいる場所は何もなく平凡だ、と思っていた。今でもそう思わないわけではない。昔よりも住宅が増えたし、駅周辺は綺麗になった。どちらかと言うと、昔より均一化された地域になってしまったと思う。しかし、そんな武蔵野の良さは離れてからようやく気付くことが出来た。いや、離れたからこそ気付けたのかもしれない。



「4月からつくばで働くことになった」

「そう、しっかり食べなさね。」

「うん、分かってるって。」


 いつも同じ小言を言う母がいる武蔵野、何もないけれど何故か落ち着く武蔵野、何てこともないけれどそれこそが良い、と始めて気付くことが出来た。

 

 仕事が忙しく、次はいつ実家に帰れるか分からない。でも、いつ帰ってきてもそこには変わらぬ母と武蔵野が出迎えてくれるはずだ。そう信じて新天地へ飛び立とうと思う。


爽やかな風、鳥の声、木々の囁き、子供たちの声、そしてお母さん、行ってきます。


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