第五十六話 万事に情無くして唯道をのみ念ふ

 その後、新たな追手が現れることはなかった。

 恐らく烏梅はあの後も散々に喚き散らして下男たちを追い立てたのだろうが、西跨院の途中には点々と奉公人たちが転がっている。彼らの悲惨な姿を目の当たりにして、なお追走しようと思う忠義者はいなかったということだろう。


 辿り着いた側門の周囲には、もう隠れられる建物や植物はない。思案している間に先に門衛たちに見付かってしまったが、彼らは桃漣だと気付くと、呆れたように手で帰れと示しただけだった。

 桃漣は逃亡の前科があると思われているから、またかとでも思ったのだろう。案の通り、西耳房の火事騒ぎはまだここまでは届いていないらしい。

 桃漣はその思い込みを利用し、それらしい顔をしてぎりぎりまで近付いた。門衛たちが、面倒臭そうな顔をしながらも打擲する準備に入る。

 その間合いに入る数歩手前で、桃漣は何でもないことのように左手を向けた。


「……!?」


 二人の門衛が、突然の異変に顔色を変える。だがその後に続いた藻掻き苦しむ声は、降りしきる雨音に掻き消され、背後の門房で待機する他の門衛たちには届かなかったようだ。

 倒れた大男の背中の上に、大粒の雨がざあざあと降りしきる。

 念願だったはずの光景を見下ろしながら、しかし桃漣の中には、予期したはずの達成感の類いは欠片も湧いてはこなかった。肩透かしを食らったような気分だ。


「……こんなもの、なのね」


 ずっとここから逃げたいと思っていた。けれどどんなに足掻いても叶わないものなのだと、半ば諦めてもいた。

 けれど現実には、域外のように一度入ったら二度と出られない場所でも、世界の中心にある混沌の未界の島でもなかった。

 そっと左手を向けるだけで、平然と歩いて出られる、ただの地続きの場所に過ぎなかった。


「馬鹿みたい」


 何か月も我慢して虐げられて、こんな場所に留まっていたことのなんと蒙昧なことか。


「さぁ、行こうか」


 隠れていた優男が、門房の戸が開かれないのを見届けてから、ひゅぅ、と口笛を吹きながらのうのうと現れる。

 まるで自分の手柄のように先に側門を潜るその姿は、相変わらず恬然として腹立たしい。


「…………」


 桃漣はやはり今回も無視して、門の先に続く側道へと大股で歩き出した。


「あれ? ちょっと」


 周囲への警戒の必要がなくなったからか、優男がしつこく桃漣に話しかける。

 が、やはり無視。


「……」

「なんでそんな無視するの?」

「……」

「このまま先に進んでも、あるのは州府だよ?」

「……」

「その恰好で行くと、十中八九御錠口番に止められると思うけど?」

「……、……」


 その指摘には、さすがに桃漣も無視することは難しかった。

 桃漣の道行きを邪魔する者には全て左手を向ければいいとは思っているけれど、見た目の点で言えば確かに多少みすぼらしいことは否めない。

 服は生成りの小袖だが、着丈は大人の時の桃漣に合わせたものだから、子供となった今は裾が地面に付き、泥水が跳ねて薄汚れている。加えて、あちこちに火の粉が飛んだせいで焼け焦げや焦げ穴が広がる。

 誰が見ても事件性を疑うだろう。

 州府の中であれば左手でどうにでもするが、州府の外に出てまで同じ方法で通すのは流石に無理がある。服をどうにかした方が良いというのは正論と言えた。

 だがそんなことを言っても、桃漣の手元に金銭などは一切ない。

 あるのは、たった一つ。


「まさか、月石を持ってきたの?」


 桃漣が懐から取り出した月石に気付き、優男がぎょっと目を剥いた。珍しく慌てたように口を出す。


「そんなのどこにも売れないよ。今すぐ捨てていくべきだ」


 確かに、華族から盗んだ月石などまともなみせでは買い手がつかないだろう。そもそも、神体具ソーマと繋がっているまま持っていること自体、安全ではない。

 それでも、桃漣はそれを笑って拒絶した。


「捨てる? 冗談じゃない。これは私のものよ。私の月石」

「君の……? そんな希少なもの、何で持ってたの?」

「なんでって、そんなの……」


 決まってるじゃない、と言おうとして、桃漣はその先の言葉に詰まった。

 桃漣は月石を持っていた。それは紛れもない事実だ。

 大陸列車に奪わせるつもりなど微塵もなかった、母から渡された大切な石。

 けれどその理由は、分からない。


(……思い、出せない)


 桃漣は何故月石を持っていたのか。

 何故持たされていたのか。


『絶対に、無くしちゃだめよ。肌身離さず、友達にも……里の誰にも、決して見せてはいけないわ』


 いつの時のかも分からない母の声がする。

 とても真剣で、少し怖かった母の瞳。

 それを、桃漣は一度として疑うこともなく生きてきた。

 けれど、それは何故なのか。


『月石を通して、神体具の呪いを』


 あの薄暗い室で聞かされた、鴨跖の声が木霊する。


(違う……! お母さんは、そんなこと……ッ)


 母はそんなことはしない。

 そう頭では思うのに、曖昧な記憶が確信へと至らせない。

 母は何故あんなにも怖い顔をして、誰にも見せるなと言ったのか。

 桃漣は、あの幸福な島の中でさえ、誰かの身代わりに過ぎなかったのではないか――?


(いや……知りたくない……っ)


 やっと得たはずの幸福への手がかりが、自由が、足元から瓦解していくような不安に襲われる。どこを目指せばいいのか分からなくなる。

 まるで、立っている場所も向かう場所も知らぬまま、ただ独りくるくると回り続けるだけの独楽つむくりのように。


『どうか、幸せでいて』


 かつては純粋な願いであったはずの母の末期の言葉さえ、繰り返されるうちに最早呪いのように桃漣を追い詰める。

 幸せのために、幸せでいるために、桃漣は生きると決めた。他の誰かを不幸にしてでも。

 それが、母のためと信じるから。


(でも、それっていつまで?)


 幸せが何かも分からないのに、いつまでこうやって歩き続けなければならないのか。

 あの島に戻って、母や榊を救うまでだろうか。

 少女のような具眼者の言葉を信じれば、二百年の時が過ぎたというあの島で。

 母が、島の皆が生きていた頃にまで時を戻し、あの時の生活全てを取り戻せば、幸せになれるのだろうか。

 それとも、島を滅ぼした男たちを特定し、見つけ出し、報復のために皆殺しにするまでだろうか。

 或いは、その両方か。


(それは、なんて、途方もないの……)


 漠然と求め続けた夢が、華殿という牢獄を飛び出したことで初めて生々しい重みを伴って桃漣の全身にのしかかる。

 そこに、無意識に期待していた華やかさや軽やかさなどはまるでなかった。まるで水中に沈み始めた羽虫のように、視界が霞み、身動きが取れなくて、ただただ息苦しい。

 爪先が、指先が、雨のせいだけでなく冷たくなっていく。


 た す け て。


 そう、声が出そうになった。

 そこに、声がした。


「良かった。追い付けた」

「!」


 声変わり前の細い声が背に届き、桃漣はバッと振り返った。

 そこにいたのは、桃漣を切り捨てたはずの、二度と会うことはないと思った疎影だった。ここまで走ってきたのか、全身で荒く息を吐きながら、側門の下に立っている。


「なんで……」


 桃漣は、駆け寄ることも逃げることもできないまま、呆然と呟くしかできなかった。

 そんな桃漣に困ったように笑いながら、疎影が握り締めた右手を持ち上げる。拳の端からは、何か紐のようなものが垂れているのが見える。


「君に、これを渡したかったんだ」


 訝しむ桃漣に示すように、結んだ拳を解く。そこには、雨粒を弾いて灰色に光る小さな板のようなものが収まっていた。


「首飾り……!」


 桃漣は理解すると同時に疎影のもとへと駆け戻っていた。

 食い入るように疎影の掌上を覗き込む。

 それは桃漣が初めて棒叩きの刑を受けた日、鴨跖の傲慢な理屈によって奪われてしまった首飾りだった。薄く削った灰玉髄に刻まれた、幾つかの数字と、欠けて読めない文字。

 革紐に通されたそれを、桃漣は至上の宝物のように丁寧に受け取った。


(帰って、きた……)


 月石も、八角柱の水晶も、全て奪われてしまった。けれどこの首飾りだけは、帰ってきてくれた。

 そしてそれが、惑い始めてしまった今この時にもたらされたということに、桃漣は天啓のように大きな意味を感じ取っていた。


(……そうよ。取り戻せばいいだけなんだわ)


 奪われたのなら奪い返す。

 自由も、尊厳も、本当の名前も、幸福も、全て。

 形も、経過も、方法も、そんなことはどうでもいい。

 桃漣が望むものを全て、取り返す。

 ただ、それだけのことだったのだ。


「私は屈しない。絶対に」


 首飾りを首にかけながら、桃漣は誓うようにそう言った。

 疎影は一瞬驚いたように栗色の瞳を見開き、それから、くしゃりと破顔した。


「うん」


 それは、今までの曖昧な、どっちつかずの笑みとは違う、年相応の素直な笑みだった。


(何よ、その笑顔)


 本当は、内心ではもう一度だけ、一緒に逃げようと誘おうかと思った。

 けれどそんな風に笑われてしまっては、そんな言葉はもう彼には必要ないのだと分からざるを得ないから。


「ありがと。……さようなら」

「……うん。さよなら」


 言葉だけで、決別を告げる。

 踵を返せば、もう二度と疎影との縁は繋がらない。

 視線は感じたけれど、それも僅かな時間だった。

 冷たい雨が、何もかもを洗い流す。

 寂寞も、葛藤も、未練も。

 もしかしたらあったかもしれない、二人が共にいる未来も、何もかも。


(それでいい。私は、私の望みを叶えるまで、身軽でいなくちゃいけない)


 だからもう、二度と誰とも寄り添わないし、惑わされないし、期待もしない。

 疎影になら心を許せるかもしれないと思ったのは、榊と同じ年頃で、少し、似ているような気がしたから。それだけだ。

 自覚をする前の淡い恋心は、ここに捨てていく。

 もう二度と、踏み出す先を迷ったりはしない。

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