第五十七話 野火 焼けども尽きず
驟雨の中を決然と進み出した物語はしかし、数歩と行かず投げ掛けられた緊張感のない声に台無しになった。
「また誘うのかと思った」
当たり前のように再び隣を歩き始めた優男が、挑発するように無駄口を叩く。と思ったのだが、今度は桃漣の返事を待たずに先を続けた。
「誘わなくて正解だよ。自ら陰府に残りたいだなんて酔狂、助ける労力が勿体ない」
その声はやはり恬然として掴み所がないのに、どこか独白のふりをしながら過ぎ去ったはずの愚かしい罪を睨み付けるような厳しさがあった。
「結局、生き残った奴が正しいんだよ。経過はどうあれね。正しいから生き残った。その機会を棒に振る奴なんて、助ける価値もない」
信念を貫く声。
或いは、過ちを悔い続けている声。
その初めて見せる人間らしい感情に、歯痒いことに桃漣にも覚えがあった。
だからだろう。こんな無駄なことを聞いてしまったのは。
「……名前」
「え?」
「聞いてなかったわ」
口にしてしまってから、無意味なことだと気付いた。だが取り消す気には、何故だかならなかった。
この男とも、ここで分かれて、二度と会わないはずなのに。
「……
籬が、桑茶色の前髪から滴る雫を揺らして笑う。
その時、ちょうど二人の間に光が射した。厚い雨雲が途切れ、か細い月光が一閃、地上に届く寸前で掻き消える。
その光に浮かび上がった籬の顔に、桃漣は思わず顔を顰めた。
(なんで、その色なのよ)
目の前の男の瞳は、皮肉なことにたった今振り切ったばかりの面影と同じ、鳶色だった。
珍しい色ではないと頭では分かっていても、この男がその色を持つのは何だか忌々しい。
そんな桃漣の不機嫌に、籬は気付きながらも無視して笑う。
「君の名前は?」
「私は……」
答える義理はない。そうは思うものの、先に聞いたのはこちらだ。
桃漣は名乗ろうとして、はたと根本的な間違いを思い出した。
「名前は、今はないわ」
そう、桃漣とは鴨跖が勝手に髪色から名付けただけの識別名で、本当の名前ではない。
本当の名前は、まだ思い出せない。
「じゃあ、なんて呼べばいいの」
「好きに呼べばいいでしょ。というか、呼ぶ必要なんかないと思うけど」
当然の疑問に、投げやりに返す。すると籬は軽く首を捻ると、本当に適当な名前を捻り出した。
「じゃあ……シャルシャルトって呼ぼう」
「は?」
「首飾りって意味だよ」
東西大陸の上流階級ではパリョ神族が用いた
そんな知識は少女には勿論なかったが、重要なのはそこではない。
「私はモノじゃないわ」
憤然と言い返す。二度と物扱いはされたくない。
「じゃあ、シャルシャルト・アルマー――首飾りの娘、それでいいね?」
「長い……」
そんなに長い名で呼ばれては、いざという時に困るのではと思ったが、そもそもそう呼ばれるのもこれきりだ。そう思えば、別に苦にもならない。
何より、物としての名前よりは、余程いい。
少女はもう、鴨跖の奴隷でも宝石でもない。
ただの首飾りをした娘。今はそれで十分だ。
本当の名を思い出すまでは。
「じゃあ、シャル。早速行こうか」
「なっ」
気軽に呼ばれ、少女――シャルは驚いた。次の言葉は「じゃあね」、それで終いだと思っていたのに。
籬は当たり前のように手を差し伸べてくる。
「行くって……どこに」
「とりあえず、手っ取り早く壁を越えよう」
「……は?」
シャルは今度こそ目を点にした。思わず叫ぶ。
「そんなことができるなら、なんでこんな所まで悠長に走ってきたのよ!」
「華殿の中ってのは、四操術や精霊術はあまり大っぴらには使えないように制限されてるんだ。で、四方を囲む外壁は特に、操花術も含むあらゆる術を跳ね返す術式が組み込まれてるから、ここまで来ないと何もできないんだよね」
「…………あ、そう」
確かに、言われてしまえば当然とも言える。
華族は操花術により圧倒的な力を有するかもしれないが、それでも防御を疎かにするのは愚かなことだ。思えば華殿の規模に対して
「さぁ、こっちだ」
「…………」
籬が手を振って促す。それに何故か既視感を覚えて、シャルはそれを振り払うように目を細めた。
「まだ私を利用する気?」
「利用だなんて心外だな。結果的にそうなっただけで、お互い利点はあっただろう?」
「よく回る口ね。……まぁ、お前のためだとか下らないことを言わない所だけは、信じてあげてもいいけど」
「それはどうも。信じてくれるお礼に、服くらいなら誂えてあげられるよ」
「何が目的かは知らないけど、遠慮なく受け取るわ」
籬がシャルを心配して救い出してくれたなどとは、露とも思わない。だが今は、子供のシャルには左手の力しかなく、服も、食事も用意できないという現実がある。
生きていくために、利用できる間は利用する。それで十分だ。
どちらが先に捨てるのか、そんなことは、些末なことだ。
拭えない臆病と淡い熱望を猜疑に隠して、手を伸ばす。
それは構図だけを見れば、あたかもこの
だが現実には、そこに神話の始まりのような希望も信頼もありはしない。それが実に二人らしくて、皮肉でもあり、爽快ですらあった。
「飛ぶよ」
「っ」
シャルの手を握り返してすぐ、籬が招願文を唱えて足に力を入れる。風がどこからともなく逆巻き、雨粒が弾かれ、二人の体がふわりと舞い上がった。
大人の背丈よりもずっと高い壁はあっと言う間に
(これが、自由……!)
初めて味わう超常の感覚に、全ての恐れが刹那だけ吹き飛ぶ。
次にその小さな両足が華殿の外の土を踏みしめるまでの僅かな一時、シャルはただその心地よさに身を任せた。
その先に待ち受ける、決して交わらぬはずだった女神の片割れたちとの邂逅と、願いの末路に辿り着くための大きな一歩だとは、ついぞ知らぬまま。
◆
行動を共にする理由は、一つとしてないはずだった。
服装のきな臭さも、この先の道行きも、籬には関係がない。
あのまま奴隷の少女――シャルが州府まで辿り着けば、再びあの不思議な力で騒ぎを起こし、神体具の紛失について更に対応を遅らせることができただろう。そのまま捨て置くのが、籬にとって最も利のあることだったはずだ。
少なくとも、当初はそうする予定だった。
側道を越えるのも、とっとと一人で行って良かった。誘う必要もなければ、見捨てて恨まれることに一切の痛痒も覚えない。
あの雨の中、シャルが奴隷の少年に拒まれ、必死に涙を堪えている姿を見てしまうまでは。
(馬鹿じゃないのか)
言いようのない腹立たしさが、狡猾な傍観者になると決めた籬の胸に唐突に湧き上がった。
生き延びられる機会を眼前に提示されたというのに、それを跳ね除け、自ら暗闇に閉じ込もろうという少年が、とてもではないが許せそうになかった。
そのいじけた姿が、過去のままならない自分を侮辱するようで耐えられなかったのか。或いは、全てを悟って諦め、シャルの期待を裏切ったことが単純に許せなかったのか。
炎の中に立つ少女を助け出すのを、籬は歯茎に血の味が染むほど堪えていたというのに。
(……そんなの、関係ないだろう)
頭ではそう分かっているはずなのに、結局見捨てて一人逃げ出すことはできなかった。
ここで彼女を一人にすれば、今以上の破滅と憎悪の中に落ちるだけ堕ちると、分かっていたからだろうか。
(そうなれば、さすがに仙が動き出す。流石にそれは面倒だ)
華殿や州府で大量虐殺が起これば、下界に干渉しない具眼者もさすがに仙を動かすだろう。そうなれば、肝心の神体具の捜索にも手を回されるかもしれない。
仙の仕事には、神体具の回収も含まれているのだから。
(……そうだ。それすらも利用すればいい)
その時にも、騒ぎを起こすなり注目を逸らすなりで、神魔以外の協力者も必要になってくるはずだ。
その時まで共に行動をしても、大した害にはならないだろう。害が生まれたら、捨てればいい。
そう、冷静に結論付ける前に。
「さぁ、こっちだ」
気付けば、そう口走っていた。
こんなことが、前にもあった気がすると思いながら。
「飛ぶよ」
シャルの小さな――いつの間にかこんなにも大きさの異なってしまった、小さな手を握る。
この大きな体と、血の滲むような思いで習得した精霊術とがあの時にあれば、こんな風に助け出すこともできたのにと、切なく思いながら。
(何だそれ……?
変なことを考えていると、自分を嘲笑う。
星も見えない夜、足元の小さな火事を一顧だにしないシャルの横顔を盗み見る。肌が白いからだろうか、明かりもないのにその顔はほんのり光って見えた。
その顔は、まるで大輪が花開くかのような、弾けんばかりの笑顔だった。
(……まぁ、いっか)
大変な目に遭った女の子が、今だけでも笑っている。
それだけで全ての面倒なことはどうでもよくなる気がした。
これからのことも、今までのことも、今だけはどうでもいい。
互いの背を預けることも、助け合うこともしない、ちぐはぐな二人の奇妙な道連れ。
期待も未来も抱けない、過去にだけ向かい続ける二人の、いつ終わっても不思議でない旅の、その始まりに笑顔があったことだけは、嘘ではないのだから。
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