第五十五話 此の恨み綿綿として 絶ゆる期無からん
半花は感情を隠せない。
花が咲いたということは、表情をどんなに取り繕おうとしても、その内側には激情があるということ。
(たった一人の、家族)
嫌な言葉だと、桃漣は思った。そんな言葉を向けられたら、桃漣はもう何もできない。
自分を買い、奪い、虐げ、苦しめてきた憎き鴨跖でさえ、疎影にとっては世界で唯一の父親で、最後の家族で。
それを、桃漣が奪った。
(どうして、そんなこと言うのよ)
高揚と興奮で誤魔化していた感情が罪悪感に剥がされて、手に負えない寂寞だけが残される。
その真ん中にあるのは、ずっと押し込めていた郷愁で。
(……榊だったら、一緒に逃げてくれたのに)
重ねていないつもりで縋っていた思い出が、桃漣の深層に押し込めた本音を抉り出す。その絶望的な夢想に、息ができない程胸を突かれた。
(……バカじゃないの。そんなの、許されるわけない)
確かなことを思い出せなくとも、榊の命を奪ったのは、きっと他ならぬ桃漣だ。そんな桃漣を、榊が許してくれるわけがない。
何より、疎影は榊ではない。疎影にはまだ華殿があり、憎むべき仇がある。
そしてここを――解放よりも安穏を選んだ。
(そんなの、大したことじゃないわ)
ただ、選ばれなかった。それだけのことだ。
(……ううん、違うわ。私が選ぶのよ)
もう二度と、選ばれるのを――助けられるのを待ったりはしない。
機械のように歩かされていたあの雨の日とは違う。今走っているのは桃漣の意思だ。
桃漣はいつだって一人で走れる。温もりなんか要らない。
だから、平気だ。
独りでも、裏切られても、罪が今更になって桃漣を苦しめても。
幸せなら、一人で掴む。分かち合う相手など必要ない。
桃漣には、島に残した母と榊がいるのだから。
「一緒に連れて行かなくて良かったのかい?」
「!」
突然脇から声をかけられ、桃漣は反射的に反対側に跳び退った。暗くけぶる森の中を油断なく見回す。
桃漣が睨み付ける先、がさりと枝葉を押しのけて現れたのは、鳶色の瞳を細めた、二十代前半くらいに見える優男だった。頭頂の
背中に背負った一弦胡弓から、男が華殿の奉公人でないことは明らかだ。かといって、こんな深夜に客や講師がうろついていることもまずない。
何より、立領に筒袖の袍と、ゆったりした対領の
だがそんな外見など、桃漣には些事だった。
桃漣の癇に障ったのは、その声。
「よくも焼き殺そうとしてくれたわね」
桃漣は迷うことなく左手を向けた。その左手に向けて、不自然にも小枝が急に飛んできた。寸前で引っ込める。
「今の……」
「そんな危なっかしいもの、気軽に向けないでよ。怖いなぁ」
足元に落ちた枝から視線を戻せば、男がへらへらした顔で笑っていた。その腑抜けた笑みに、確信する。
「どうやってやったの」
「精霊術だよ」
返された答えに、後ろめたさは微塵もなかった。
精霊術のことは、聞いたことはある。この世のあまねく全てに存在すると言われる
操花術は華族の特権であり、四操術の才能もまた生まれる前から決まっているというが、精霊術であれば通力の弱い者も修練次第で扱うことができるのだとか。
「それで耳房にも火をつけたのね」
「ちゃんと逃げられたでしょ?」
恨みがましく言ったというのに、返ってきたのは何の屈託もない実に爽やかな笑顔だった。罪悪感どころか、まるで良いことでもしたかのような顔である。
(信じられない)
桃漣は呆れ返ったが、同時にその笑顔に確信した。
「それで、何の用? 顔を見せる気なんかないと思っていたけれど」
小窓越しに会話をしている間も、この優男は名乗りもしなければ所属も明かさなかった。盗み出した後、火事の騒ぎに乗じて逃げ出す算段だったことは疑いようがない。
桃漣が左手を向けた途端に精霊術で妨害したのも、鴨跖への仕打ちをどこかで隠れて見ていたことの証左だ。
だが桃漣も、そもそも
どうせ、ろくでもない悪人に決まっているのだから。
それが、何故気が変わったのか。
「まぁ、逃げなきゃいけないのは、僕も同じだからね」
男はへらりと笑って誤魔化すと、先に立って歩き出した。どうやら問い質しても答える気配はなさそうだ。
だがこんな所でぐずぐずしている時間がないのは事実だ。
桃漣は数歩で男を追い越すと、そのまま速度を落とすことなく走り続けた。
月石には直接肌が触れないようにして、今回は三日が経っている。
鴨跖が神体具を使っていないのか、鶯宿からの催促がなかったのは幸いだった。お陰で吐き気は少し収まり、体力も多少は戻ってきていた。
走り続けるには足が随分弱っていたが、今はそんなことを言っている余裕はない。気力だけで、走れるところまで走り続けるだけだ。
それでも、疑問はある。
数刻前まで監禁され、ろくな食事も摂れなかった小娘が、何故突然の逃走劇にこんなにも走り続けていられるのか。
実に不可解だ。現実的に考えれば、栄養失調寸前のがりがりの足では、耳房を出るにも立てずに這いずる羽目になるかというくらいには酷かったのは間違いない。
少なくとも、鴬宿に背負われるまで、桃漣はそんな状態だった。
それが今、まだ足が縺れることもなく走り続けている。
その理由にも、ここまでくれば薄々思い当たることはあった。
「おい、止まれ!」
ざあざあと響く雨音の向こうに、微かに男たちの声が混ざり出す。バシャバシャと雨水と泥を跳ねながら、背後から幾つもの足音が追いかけてくる音もする。
桃漣は肩越しに背後を一瞥してみたが、優男は我関せずというように何の対処もする気はなさそうだ。
それでも、桃漣は気にせず走り続けた。だが体力も落ちている子供の足に、大の大人がいつまでも追い付けないはずもない。
「おい島殺し! 華族を殺して、逃げられると思うなよ!」
「!」
細長い棍棒のようなものを手に手に、下司らしき男たちが桃漣の背後に襲い掛かる。
その気配に、桃漣は迷わず振り返って左手を差し向けた。途端、男たちがびくりと足を止める。
「ッ」
先程の鴨跖の有り様を見ていたのだろう、一人が恐怖に堪えきれず逃げ出せば、他の男たちも我先にと慌てて木々の向こうに逃げ出した。
それを一人ずつ左手で狙いながら、桃漣は再びあの感覚を強く感じていた。
「やめ、やめろ!」
男たちがみるみる恐怖に慄くごとに、桃漣の中の絶望感が少しずつ薄らいでいく。
「その手を向けるなっ」
今までこの小さな心身に鬱積し続けてきた痛みが、苦しみが、左手を通してまるで相手に流れこむが如く、相手が苦しめば苦しむほど、桃漣の心が少しずつ穏やかになっていく。
その実感が、暗闇ばかりだった桃漣の世界に
「いやだ……っ、苦しい……!」
「そうでしょ? 私も、苦しかったのよ」
今までの桃漣は間違っていた。一人で抱え込んで耐えるなど、愚かなことだ。生きていかれない程の苦しみならば、嫌な奴に押し付けてしまえば良かったのだ。
桃漣が今まで味わってきた苦しみや絶望がどんなものか、与えた連中は誰一人として分かっていないのだから。
ましてや優しさから誰かの痛みを肩代わりするなど、愚かを通り越して道化に過ぎる。
「やめ……あぁ……
左手を向けられた男たちが、見えない絶望に苦しみ藻掻く。だがそれも、この手を下ろせば簡単に終わる。帰る場所だってある。
だから、どんなに苦しんでいたとしても、この男たちは桃漣よりも絶対的に幸福なのだ。
だから容赦など微塵も必要ない。
だというのに。
「な、何でこんな……俺は、何もしてないのに……!」
「ッ」
泥の中に倒れ込んだ男の一人が、口端から泡を吹きながら喘ぐ。
その言葉に、靄のかかった記憶が揺さぶられた。
『俺たちは何もしてないのに!』
憎悪を滾らせた少年の声が、容赦なく桃漣の胸を抉る。
突然里に現れた男たち。一夜にして失った幸せ。その原因を作ったのは、誰。
分からない。頭が痛い。
『この惨状は、お前のせいか』
思い出せないのに、音のない声が、目が、桃漣を追い詰める。
「……ち、違う」
震える声で否定する。足が勝手に震える。
和らいでいたはずの苦痛が、また桃漣の胸を締め付ける。
あんなことになったのは、本当に自分のせいなのか。
こんなことになったのは、自分がいるからなのか。
「お前さえ、現れなければ……!」
「違うッ!」
それが誰かの声なのか自問の声なのかも分からなくなって、まるで桃漣の方が追い詰められたように叫んでいた。
桃漣を苦しめる追手どもは残らず木々の間に隠れるように倒れ込み、最早立っている者など一人もいないというのに。
「私のせいじゃ、ない……」
ぜぇはぁと、上手く吸えない息をどうにか肺に送って呼吸を整える。
やっと呼吸が落ち着くと、遠ざかっていた雨の音が、ザァザァと波が満ちるように舞い戻ってきた。
世界が、桃漣独りだけを取り残して隔絶される。
それらをどこか遠くから俯瞰するような心持ちで見下しながら、桃漣は苦々しく吐き捨てた。
「……幸せなくせに、私の邪魔をしないでよ」
世界の外にある幸せなんかに、用はない。
桃漣を幸せにしてくれないものに、二度と縋ったりはしない。
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