第五十四話 冥冥として 寒雨来たる

 ぽつりぽつりと降り始めた雨は、一足飛びにその雨脚を強めていった。


(また、雨)


 雨は好きじゃないと、疎影は昏い気持ちで思った。

 雨の日は洗濯物が溜まって怒られるし、掃除をしてもしても汚れが入り込むし、濡れるのを嫌がる下司からの使いっ走りが増えるし、足をひっかけられて水溜りに転ばされる回数も増える。

 それに、母が死んだのもこんな雨の夜だった。


『……鴨跖、さま』


 母の最期の言葉は、また父のことだった。

 まともに顔を合わせたことも、話したことすらない父親。


『何かあったら、鴨跖さまを頼るのよ。あなたの、お父様、なんだから……』


 シミの増えた、枯れ枝のような手を握って、虚ろな瞳を覗き込む。

 最期まで、美しい母の瞳に疎影が映ることはなかった。

 そしてその日のうちに疎影は家族用の庵を追い出され、下男棟に押し込まれた。

 あの夜と同じだ。

 自分で選べる道はなく、自分の罪でないもののために苦しみ苛まれる。視界はどこまでも翳り、辿り着く先さえ蒙昧として分からない。


(……そんなの、もう嫌だ)


 あの惨めで孤独な晩の、遠い雨の匂いに呼び起こされるように、不意に強い情動が湧き上る。

 否、それはあの日から今までずっと気付かぬふりで蓋をし続けてきた結果、濁り淀みきって腐り果てた、紛うかたなき本音だった。

 花が咲かぬよう感情を抑えるのも、曖昧に笑って誤魔化すのも、同い年の女の子に守られるのも、何もかも嫌だ。

 生き辛いのも、何から何まで儘ならないのも、すり鉢の底のような場所でへつらいながら生きなければならないのも、疎影のせいではないはずなのに。


「待って……」


 気付けば、そう口走っていた。

 それが、何か一つでも良いから抗いたいと渇望する生存本能ゆえなのか、それとは違う、ずっとぐちゃぐちゃなまま整理のつかない感情のせいなのか、自分でも分からないまま。


「待っ……、待ってって!」


 西跨院の宿舎棟群も通り過ぎた森深い所で、疎影はついに桃漣の手を振り払った。

 桃漣が驚いた表情をするも一瞬で、すぐに疎影に向き直る。


「疎影? どうしたの? あ、もしかして、持っていきたい物でもあった?」

「桃漣、あの……」

「私も、本当は首飾りを取り返したかったけど、仕方ないわ。今は逃げる方が」

「だから待ってよ!」


 言い立てる桃漣を、疎影は精一杯大きな声を上げて遮った。

 桃漣が急ぎたい気持ちは分かる。下人たちは戸惑っていたが、烏梅のあの取り乱しようでは早晩追手が差し向けられるだろう。

 華殿は広大で、耳房から英華門までは距離がある。子供の足では、悠長にしていたら追い付かれてしまう。

 問題は、追い付かれた後だ。桃漣が追手に容赦をするとは思えない。

 時間がないのは疎影も同じだった。


「待つって……だから、どうしたの?」

「だから、その……」


 言わなければ。

 機会は今しかない。

 そう思うのに、いざとなると何と言えば良いのか分からなかった。降りそぼつ雨の重さに負けるように、疎影の首がどんどん下に折れ曲がる。

 その思い切りの悪さに呆れるように、桃漣が促した。


「よく分からないけど、話は歩きながら聞くから、とにかく行こう?」


 冬の夜の雨は冷たい。立ち止まっていては、指先だけでなく足まで凍えて動かなくなってしまう。迷うくらいならば、今は進むべきだ。

 頭では分かっている。これは二度とない好機だと。

 これを逃したら、疎影は死ぬまで華殿から逃れられない。だって疎影は、一人で逃げるような勇気も知恵も、持ち合わせてはいないのだから。

 けれど。


「……行けないよ」


 気付けば、雨滴が葉を叩く音にも負けそうな声で、しかし確かにそう言っていた。


「え?」


 桃漣が思わず聞き返す。だがそれは、疎影も同じだった。

 何故と、内心で戸惑いながら自問する。知らず涙が出そうなのは、馬鹿なことをしているという自覚があるから。

 だというのに、疎影はなおぎゅっと拳を握り締めて続けていた。

 自分の中にある、掴めそうで掴みきれない不確かな感情こたえを、それでも手放さないために。


「ここは……狭くて、息苦しい時もあるけれど、ぼくが生まれて、育った場所なんだ。だから……」

「だから、なに? 生まれた所から、人は絶対に出ちゃダメなの? ここに、良いことなんか一つもないのに?」


 疎影の迷いの捨てきれない言葉を、桃漣が奪うように続ける。

 それはまさに正論だった。口にした疎影自身、なんだその理由はと、呆れ訝った。

 生まれ育った場所だから捨てられないのなら、人はどこにも行けやしない。

 華族の家君だけは確か穏堵おんとの森を越えられないというが、半花にはそんなことは関係ない。どこにだって行ける。

 州を越えて、島を越えて、己の意思と足だけで、どこにでも。


(……でも)


 どこに行こうとも、半花が誰からも忌み嫌われる存在である事実もまた、変えようがないことで。


(――あぁ、そっか……)


 目の前に突然降って湧いた好機に、肝心なことを見落とすところだった。

 そして同時に理解する。

 漠然と纏わりつき、疎影の足を重くしていた理由の、その根底を。


(桃漣がいてくれるから、忘れそうになってた)


 不意に光が射したからと言って、疎影がその光になれるわけではないのだ。強い光のせいで世界の見え方が変わっても、本質的には何も変わってなどいない。


「外に出たら、良いことがあるの?」


 疎影は、いつものように無知を装った、純粋な問いを投げ掛けた。その陰に、どうしようとも隠せない絶望的な諦念を滲ませながら。

 この問いに、桃漣は。


「――――」


 美しい蘇芳色の瞳を見開いて、愕然と言葉を失った。


(あるわけがないんだ)


 疎影は内心で自答した。

 華殿は小さな世界だ。それはここで生まれ育った子供なら、物心つく前から耳にタコができるほど言い聞かされる。

 小さな世界で起きることは、大きな世界ではもっと頻繁に、容赦なく起こる。嫌悪は拒絶に、虐めは人殺しに、喧嘩は戦争になる。

 だからこそ幼い頃から規則を守り、協調を重んじ、自身を戒めて善良でなければならないと。

 いつか華殿から出ることになった場合、それが出来ない者から淘汰されていくと、何度も口を酸っぱくして教えられた。

 それが半花ともなれば、どこへ行っても不吉がられ、侮辱され、まともな職には就けず、何かが起これば真っ先に疑われるだろうと言ったのは母だった。


 子供の頃にはその言葉に怯えていた。長じてからは、そんな未来は決して訪れないと冷めた心持ちで諦観していた。

 そして同時に、この小さな世界にいる限り、理不尽に死ぬことはないということも理解していた。衣食住は保証され、家君の妾子であるということで命も保証される。


 だから、もういい、と。


 出られないという言葉は、疎影に諦念を植え付けると同時に暗黙の内に彼を守ってもいたことを、疎影はもう知ってしまっていた。

 たとえそこに、幸せを一片たりと見つけられないとしても。


(世界は別に、僕の気持ち一つで急に優しくなったりしない)


 疎影を取り巻く世界は、いつだって無慈悲で残酷だ。期待した分だけ絶望するということを、忘れた者から消えていく。

 母のように。


「それに……」


 と、疎影は笑うような泣き出すような、曖昧な顔をして続けた。


「あの方は、ぼくの、たった一人の……家族なんだ」

「!」


 家族、という言葉に、桃漣がまるで胸を貫かれたように辛そうな顔をした。

 それを見たせい、だろうか。

 ずっと堪えていられたのに、疎影の首筋の皮膚がもぞりと蠢き、ついに一輪の花が芽吹いてしまった。皮膚を割り、細い茎を伸ばして、小さな青い小花がこうべを垂らす。


(最近は、もうずっと平気だったのに)


 曖昧に笑って、受け流して、鈍感なふりをして、花が咲く前に忘れたふりをする。

 上手くやれていたはずだ。

 それは、たとえ血の繋がった父親を、仄かな好意を抱いた少女に目の前で殺されたとしても、揺らがない気がしていたのに。


(桃漣が、そんな顔をするから)


 家族の喪失を悼み、取り戻せない過去に焦がれ、絶望に突き落とされる。

 それがまるで鏡映しのように、疎影自身の感情であるかのように錯覚させるのだろうか。

 一度も抱きしめてもらったことがないどころか、大切かどうかを判断する材料すら、疎影は持ち合わせていないというのに。

 だからだろう。


「それに」


 と、まるで誤魔化すように、言葉を続けていた。


「華族を殺すなんて、大罪だよ。どこまで逃げたって、必ず殺しに来る。汚名をすすぐために。華族って、そういうものだっていうことくらいは、僕にも分かる」

「そんなの、私が守ってあげるわ」


 その声は、震えてはいなかった。いつもの強気の桃漣らしい、あっけらかんとした声。

 実際、たかが奴隷に州司を殺されたという事実を、華族はその意地と血筋にかけて絶対に公にはしないだろう。

 徹底的に隠蔽した上で、金に物を言わせて手練れの暗殺者を何人でも雇い、執念深く狙うだろうことは目に見えていた。

 それに桃漣がどんな手段で応じるのかは、疎影にはとても想像がつかない。けれど本当に大丈夫なのだろうと、根拠もなく思えた。

 けれどそれ以前に立ちはだかる、すぐ目の前の不安には、とても平気なようには見えなかった。


(ぼくのせいだ)


 疎影の安い自己保身の言葉が、知らず桃漣を追い詰めた。


(あんなに強い桃漣を)


 そう思うと、少しだけ胸がすくような、儚く美しいものを決定的に壊してしまったような、得も言われぬ心地を覚えたけれど。


「……ごめんね」


 疎影はまた、曖昧に笑った。

 優しい建前と、臆病な本心のあわいで。

 或いは、傷付けた罪悪感と、傷を残せた優越感のはざまで。


「ぼくは、君も怖いんだ」


 だから、これは疎影からの精一杯の餞別だ。桃漣が二度と後ろを振り返らずに進めるように。


(本当は、ありがとうって、言いたかったけど)


 疎影の隠し続けた苦しみを見て見ぬふりをせず、優しく暴き、手を引いて未来を示してくれた、桃漣の鮮やかで強引なまでの愚直さに。

 けれどそれは、卑怯な逃げだ。

 この期に及んでまで嫌われることを恐れる、疎影の弱さ。

 そんな自分が、疎影はずっと嫌いだった。生きていくために、必要なことだったとしても。

 だから最後くらい、平気で憎まれなければならない。

 桃漣に必要なのは、生易しい感謝の気持ちではない。命を天秤にかけてでも走り続ける気魄だ。それがなければ、到底桃漣の隣には並び立てない。

 だから、疎影は行けない。行ってはならない。

 実の父親が殺されようとしていたあの時、この手でその命の灯火を掻き消さなかった疎影には、その資格がない。

 強い桃漣は、臆病者の疎影などさっさと切り捨ててくれる。

 それでいい。

 それがいい。


(軽やかな君の足枷には、なりたくないんだ)


 果たして。


「……知らない。あんたみたいな臆病者」


 桃漣は、撫子色の髪を翻して、そう吐き捨てた。凛然と美しい背中は、瞬きの間に遠ざかっていく。


(……あぁ、本当に、綺麗だな)


 その背中が木々に隠れるまで見送りながら、疎影は漫然とそう思った。

 生成りのぼろぼろの小袖はあちこち焼け焦げ、髪や肌にも血や泥が付着し、美しさとは対極のはずなのに。

 だからこそ、だろうか。


(最後くらい、したいことをしたいな)


 怯える棒きれのような二本の足が、ゆっくりと、けれど確然とした意思を持って踵を返す。

 涙の気配は、もうどこにもなかった。

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