第五十三話 何すれぞ 君遠くに行くや

 医薬くすり所に運びこまれた奴隷たちは何とか一命を取り留めたと聞いた時、若菜は膝から崩れそうなほど安堵した。


(大丈夫……誰も死んでないなら、大丈夫……)


 に言われるまま医薬所から薬を盗み、奴隷棟に運ぶ食事に混ぜ込んだのは、一時辰近く前のこと。

 死にはしないと言われていたし、何よりこうすることでより桃漣の印象を徹底的に破壊し、完璧な悪として位置付けることができると言われ、若菜は震えながらやり遂げた。

 奴隷棟の外から盗み見た時は、もしかしたら取り返しのつかないことをしでかしたのかと恐ろしくなったが。


(それが、疎影のためなんだもの……!)


 これで疎影の心も完全に桃漣から離れられる。そうすれば、何もかも上手くいく。

 若菜は何度目とも知れない自己弁護を自分に言い聞かせると、いまだに苦しそうに喘ぐ声が聞こえてくる医薬所の壁から逃げるように離れた。

 火事だ、という叫びが聞こえたのは、そんな時だった。


(まさか、また声が……!?)


 若菜は、最悪の可能性に心の臓を握られたように恐ろしくなった。

 声の正体が何か、ここまでくれば嫌でも推察できる。姿を見せないくせにどこにでも現れ、望む言葉で心の隙間に入り込む、心地好くも空恐ろしい存在。

 若菜に毒を盛るように唆すくらいなのだから、放火くらい平気でするだろう。


(やっぱり、鬼魄ルアハの言葉なんか聞いちゃダメだったんだわ……!)


 心の臓がどくどくと暴れ馬のように跳ね狂う。火事場を探して必死で走る。

 月のない夜空に向かって伸びる赤々とした炎と黒煙は、樹木で建物を隠すように配置された中でもすぐに見つけられた。

 正房の隣に建つ西耳房だ。


(何で、あんな所を……)


 後ろめたさから、咄嗟に耳房の入口が見える辺りで近くの木の幹に隠れていた。耳房の周りには、既に幾人かの下人たちが駆け付けている。

 どうしようと焦る間に、今度は家君の鴨跖と家従の烏梅まで駆け付けてきた。


(ど、どうしよう、声のせいだってバレたら……!)


 若菜は生きている心地がしなかった。

 華族は花を操る以外にも不思議を力を持つともいう。もしかしたら、若菜のことも分かってしまうのだろうか。

 一度考えだすと疑問と焦燥に恐怖もまざって、若菜の呼吸はどんどん浅くなっていた。

 それを救ってくれたのは、徐々に聞こえ始めてきた声だった。


「……呪いだ……」

「島殺しの呪いだ」

「みんな、殺されるんだ……」


 それは、呆然と火事を見上げるだけで火を消すこともしない、奉公人たちだった。

 その恐れるような口ぶりに、若菜はそれまで散らばっていただけの点が突然意味を持って繋がった気がした。


『その場にいなくても、尊厳などいくらでも潰すことができる』


 いかにも愉しそうに告げた鬼魄の声が蘇る。


(こういう、ことなんだ)


 奴隷たちに毒を盛るのも、西耳房が燃えるのも、華殿の皆を怨んでいた桃漣の仕業。何の確証もないのに、誰もが勝手にそう思い込む。そこに本人はいないのに。

 否、姿が見えないからこそ、恐れ、慄き、敵意を募らせる。

 若菜を唆したのは、確かに鬼魄かもしれない。それは少しも善意ではなくて、状況だけを見れば華殿に禍を振りまいたようにしか見えない。

 けれど結果は、若菜の望む通りに進んでいる。


「なんだ……私、間違ってないじゃない」


 火事を見つめる若菜の瞳に、安堵がすぅっと入り込んできた。にわかに平常心が戻ってくる。

 すると次に浮かぶのは、やはり疎影のことだった。


(疎影、どうしたかしら)


 桃漣がこんな悪事をしでかしたと知れば、優しい疎影はきっと傷付く。その前に、若菜が慰めてあげなければ。

 それを考えると、また少し気分が上がる。

 さぁ早く疎影を探そうと、火事に背を向ける。

 その一歩はしかし、次に聞こえてきた悲鳴に強制的に引き留められた。


「父上!?」


 烏梅だ。普段は下司たちに無関心な、お高くとまっているような烏梅の、女子供のように震えた声。

 思わず振り返った先で見たものに、若菜は知らず息を呑んでいた。


「助けに来たっていうから、助けてもらっただけよ。壁になってね」

「壁って……まさか、父上を炎の盾にしたのか……?」


 烏梅の引き攣った問いに、桃漣が赫赫とした炎の明かりを受けながら笑う。


「だって、そうしないと、私が燃えちゃうでしょ?」


 それは若菜と同じくらいの背格好と幼さなのに、酷く大人びて妖艶な笑みを浮かべる桃漣だった。その恍惚たした表情に、若菜は戦慄した。

 疚しさや後ろめたさからではない。鴬宿を犠牲にしたと宣う桃漣から、悪意や罪悪感が一切感じられなかったからだ。

 そしてそれは、その場にいた全員にも強烈な印象を与えたようで。


「狂ってる……」

「これが、呪い……!」

「皆殺しにされる……!」


 消火を命じられていたはずの下人たちが、脱兎のごとく逃げ出した。

 それを満足そうに見渡しながら、炎と同じ色の瞳が、ある一点に留まる。


「心配しなくてもいいのに。ちゃんと、順番に殺してあげるわよ」

「ヒッ――――」


 その声はまるで掃除の仕上げに取りかかるかのように普通で、だからこそ鳥肌が立った。

 悠然と持ち上げられる左手と、その先にいる鴨跖の顔に、視線が縫い付けられる。

 そして。


「何を……その手は……お前は、何なんだ……!?」


 恐れるのなら逃げ出せばいいのに、鴨跖はまるでその場に足が凍り付いたように震え、桃漣を凝視し続けていた。

 まるで目を離せば、その間に命を奪われてしまうとでもいうように。

 けれど、そんな心配は無意味だった。


「なに……? 何が起きてるの……?」


 鴨跖が抗うように桃漣を睨みつけているが、それは何の功も成さず、表情が見る間に苦悶に歪み始めた。皺深い額には脂汗が浮かび、その焦点は次第に合わなくなる。

 まるで身の内に入ってきた嵐に抗うこともできないまま翻弄されるようにその足元は覚束なくなり、鴨跖はついに頭を抱えてその場に蹲ってしまった。


「家君様……? 家君様!?」


 烏梅が、驚愕に見開いて何度も名を呼ぶ。だが鴨跖は、蹲ったままもう動かない。

 その無様な姿を、桃漣は満足そうに笑みすら浮かべて見下していた。自らは、一歩も動くことのないまま。


「……呪い……」


 若菜は、それ以外の言葉を見付けることができなかった。

 まるで命を吸い取る左手。或いは、気が狂うほどの恐怖を与える左手。

 ただ相手を貶めるためだけの、空虚な痛罵とはわけが違う。

 そこには、本当の呪いがあった。


(……あぁ、やっぱり)


 足に力が入らないような感覚を味わうとともに、若菜は確信する。

 自分は正しかった。一刻も早く、疎影からあの女を引きはがすべきだったと。

 だがそれは、一足遅かった。



「桃漣……?」



 優しい声が、戸惑いながら呼びかける。

 それに、二人は同時に反応した。


「「疎影!」」


 驚きと、歓喜。重なった声のそのあまりの類似に、若菜はぞっとした。

 桃漣に見つかるのは怖いが、あの女が疎影に近付くのはもっと嫌だ。

 気付けば、考えるよりも先に飛び出していた。


「近寄っちゃダメ、あいつは危険なの!」


 早速爪先を向ける桃漣から守るため、西小門の前に立つ疎影の前に躍り出る。だが肝心の疎影は、突然現れた若菜に困惑しながら、その先を見て眉尻を下げるだけだった。


「危険って……あんなところにいる桃漣の方が危ないよ」


 言いながら、疎影が若菜を避けて桃漣の元へ歩み寄ろうとする。そのあまりの暢気さに、若菜は恐怖が生み出す焦燥に任せて怒鳴りつけていた。


「あいつがやったのよ! あいつが火をつけて、家君様も殺したの!」

「ころ……?」


 突拍子もない単語に、疎影が辿々たどたどしく繰り返す。その困惑しきった視線が、若菜から再び桃漣へと滑り、それからゆっくりと周囲を見回す。

 その視線は、最後にある一点で止まった。口端から泡を吹き、白目を剥いて倒れている鴨跖の上で。


「典医……典医を呼べ! 早く!」


 そのやり取りを聞いてか、呆然と蒼白になっていた烏梅がやっと辺りに向かって叫びだす。だが野次馬に集まっていた下人たちは既に散り散りに逃げ去ったあとで、その命令に従う者などどこにもいなかった。

 それもそのはずだ。

 烏梅の命令が聞こえる者はつまり、鴨跖が桃漣に睨まれただけで絶命した姿を目の当たりにしたということだ。誰が近寄りたいと思うだろうか。

 その異様な惨状を、疎影もやっと呑み込めたらしい。桃漣に視線を戻すと、微かに戦慄わななきながら、かさついた唇をどうにか押し開いた。


「君が、やったの……?」


 そんなわけがないよねと、その問いが言外に否定を求めていることは、若菜にさえ分かった。

 だが桃漣は、その願望にまるで気付かぬように無神経に笑った。


「だって、私の邪魔をするんだもの」

「邪魔って……」


 まるでそれ以外の理由がどこにあるのかというような答えに、疎影がついに返す言葉を見失う。


(当然よ)


 邪魔だから消すなどと、疎影にはそんな発想は微塵もない。疎影は優しいのだから。

 だが優しさなど持ち合わせていない桃漣は、そんなことにも理解が及ばない。意気揚々と続ける。


「それに疎影だって、こいつらがいなくなってほしいって思ってたでしょ?」

「ッ」

「疎影が半花なのも、半花を虐げるのも、華殿ここがいけないのよ。ね、私と一緒にここを出よう?」

「…………」

「ダメよ!」


 桃漣の無神経で危険な言葉に、若菜の方が我慢できずに口を挟んでいた。


「疎影はずっとここにいるの。ここにいるのが幸せなのよ!」


 疎影にはそんな言葉は一つも必要ない。考えてもいけない。疎影は華殿にいるべきなのだ。だって疎影のことは、若菜が守るのだから。


「そうでしょう!?」


 息を切らして必死に叫ぶ。最後は、背後に庇った疎影に向かって悲鳴のように同意を求めていた。

 だが。


「――しあ、わせ?」

「……!」


 桃漣に凝視されて固まっていた疎影が、若菜の言葉をぎこちなく繰り返す。

 まるで、未知の言葉を初めて突きつけられたように。


(しまっ……)


 その魂が抜けたような顔を見て、若菜は一瞬そう思った。

 そして、そうを無かったことにしようとしたこと自体、若菜自身が気付かないふりをしてきた事実を認めているも同然だった。

 疎影にとって、幸せと言えるものなど、華殿ここには一つもなかったという事実を。


「…………ま」


 ふらふらと、疎影が再び桃漣に向かって歩き出す。若菜の傍らを、若菜に目もくれず。

 その横顔に言いようのない恐怖を覚えて、発作的にその腕を掴んでいた。


「待って!」

「…………」

「ッ」


 疎影が、虚ろな瞳で若菜を見返す。いつもの優しい笑みは、どこにもない。

 若菜は、湧き上がる不安に急き立てられるように、言うつもりのなかったことまで口走っていた。


「ど、毒も! そいつの仕業なのよっ」


 自分が仕組んだ罪を自分で口にするのは、勿論恐ろしかった。だがそれよりも、疎影が離れてしまうことの方が怖かった。


「一緒にいたら、今度は疎影まで殺されちゃうわ!」


 そしてそれは、意外にも功を奏した。

 疎影が、正気付いたように足を止める。

 疎影もまた、ここに来るまでに噂を聞いたのだ。


「毒? 何のこと?」


 足を止めた疎影に、桃漣が無邪気にも首を傾げる。疎影が、真意を窺うように答えた。


「奴隷棟の今夜の食事に、毒が入ってたって……」


 そう告げる横顔は、知らないわ、という言葉を期待していることは明白だった。

 しかし桃漣は、一瞬驚いた顔をしたあと、落胆するように肩を落とした。


「そうなの? あいつらにも、私の苦しみを味わわせてやろうと思ったのに……残念ね」

「え」


 疎影にとっては予想外の――若菜にとっては思った通りの――反応に、疎影は信じられないと瞠目した。


「心配じゃ、ないの? ずっと一緒に暮らしてた人たちが苦しんでいるのに」

「え? 死んでないの?」

「――――」


 きょとんと、今度は桃漣が瞠目する。

 疎影は、ついには声も上げられなくなった。


「まぁ、そんなことはどうでもいいか」


 返事のない疎影に、桃漣は朗らかに笑って手を差し出す。


「ねぇ、疎影。こんな所、早く出よう?」


 その笑みは、十一歳の無邪気さと大人の妖艶さが入り混じって、鳥肌が立つほどに歪で。


(……呪い)


 違うと、その瞬間、若菜は本能で悟った。

 あの目や、手や、存在が呪いなのではない。


(あの笑みが、呪いなんだわ)


 そしてその呪いは、若菜の大切なものを何もかも壊し、奪っていく。


「ぁ……」


 疎影が、呪いの笑みを拒めないかのように歩き出す。

 そこに、ずっと聞こえていた怒号が疎影にまで飛んできた。


「疎影! その女を捕まえろ!」


 烏梅だ。耳房の消火や、鶯宿や鴨跖の対応を指示しながら、桃漣のすぐ傍にいる疎影に怒鳴りつける。


「その女は、お前の父上を殺したんだぞ! 島殺しが、ここも滅ぼす! 絶対に逃がすな!」


 燃え続ける耳房の前に、いつの間にか、逃げ出した数よりも多くの下司や下人たちが野次馬に現れていた。だが烏梅の喚き散らすだけの怒声に、誰もまともに反応できずにいる。

 延焼を防ごうと桶や斧を持ってくる者はいても、桃漣には誰も近付かない。呪いが、今度は自分にも降りかかるのではないかと恐れて。


「何をしている!? 早く、あぁ、誰でもいい、早く、早くあいつを殺せ!」

「っ」


 烏梅の悲鳴のような怒号に、疎影がびくりと身を強張らせる。

 殺せという言葉に、桃漣の瞳が妖しく光を増す。

 その様に誰もがまた呪いを恐れたその時、


「!?」


 ごうっと湿った風が吹いた。炎が大きく揺れ、木々がざわめき、少しの間を置いてぽつり、と頬に雫が落ちる。

 雨だ。

 真新月だから気付かなかったが、見上げれば先程まで見えていた星々までが消え、炎に浮かび上がる黒雲が頭上を覆い尽くしていた。

 そんな兆しは、先程まで微塵もなかった気がしたのに。


「行こう!」

「えっ?」


 戸惑う疎影に、しびれを切らした桃漣が一気に駆け寄ってその震える手を掴む。


「待っ……!」


 若菜は慌てて止めようとした。だがそれを邪魔するように雨が突然の土砂降りに変わり、ろくに目も開けられなくなる。

 なんて間の悪いと思いながらどうにか目をこじ開けた時には、二人の子供の姿はもうどこにも見つけられなかった。

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