第五十二話 朱火 独り人を照らす

 遠く、火事の喧騒が、静まり返った正房の奥まで聞こえてくる。

 木々が燃える音、何かが焼け落ちる音、怒鳴り声……。

 中でも一際大きいのは悲鳴だった。

 呪い、という単語が何度も聞こえる。


(今のところは、想定通りかな)


 真新月の夜、まがきは星灯りが雲に翳るのを待ってから西耳房に火を放った。

 家令の鶯宿には、籬がわざとらしく騒いで異変を報せた。その後、家君の鴨跖もまた正房から出ていったのを見届けてから、籬はそっと正房に忍び込んだ。


 この時間は、鴨跖は気に入りの奴隷を呼んでへやに籠る。周りには最低限の人員だけを残し、ほとんどの奉公人が下がらされるのも調査済みだ。

 突然の非常事態に、数少ない衛士や侍女たちも浮足立ち、半数以上が野次馬に動いている。東耳房側から侵入すれば、誰からも見咎められず鴨跖の室まで辿り着くのは容易だった。

 念のため、華殿に忍び込む時にも使った、現在は狩猟禁止となった攪乱狼アパトスの外套を羽織っておいたが、これならばなくとも気付かれなかっただろう。

 そもそも、華殿は小さな世界と言われることもあり、外に対しての警戒は強いが、内にはまるで緊張感がない。一度潜入してしまえば、奉公人のほとんどは鷹のいない小鳥のように敵に対する行動が組み込まれていなかった。


(さて、神体具おたからはどこかな)


 薄暗い灯火しかない薄闇の中、片っ端から全ての棚や引き出しを漁る。隠し扉や二重底がないか、壁や床や柱も隅々まで入念に改める。

 だが内心では、珍しく焦っていた。


(どこだ? 早く……!)


 西耳房に精霊術で火をつけたのは、既に二刻程前のことだ。

 その直前、奴隷少女の容態を確認するため小窓の下に寄ってみた所、嘔吐の声は聞こえなかった。月石の忠告を守っているのならば、火事に気付いても動けないということはないだろう。


 神体具ソーマの呪いは、その形や用途によって様々だ。すぐに致命的な結果をもたらすものもあれば、真綿で首を締めるようにじわじわと症状が現れるものもある。

 グロサであれば、使い始めると味が分からなくなり、次第に強い吐き気が現れる。使用を続けると徐々に日常生活にも支障が出始め、最後には血を吐いて死に至るとか。

 だが頻度を下げ、吐き気が落ち着くのを待って使えば、すぐに死ぬようなものでもないはずだ。

 だが鴨跖の州府での使い方を窺うかぎり、考えなしに乱用しているようだった。その反動は、一週間も経てば気絶している時間の方が長くなるくらいだろう。

 それでなお意識を保っているとなれば、見上げた精神力といえる。


 それでも、籬は少女にこの放火と計画を話すつもりはなかった。

 籬は当然、新しい生贄のことも調べた。数か月前にやってきた新しい奴隷で、正確は短気で直情的、自尊心が強い問題児。

 そんな相手に、火を放つけど、逃げられるかどうかは鶯宿の行動次第と正直に伝えたらどうなるか。そんな危険があるとは聞いてないなどと喚き散らされては、元も子もない。 

 そもそも、籬の目的は慈善でも救済でもない。

 奴隷の少女の命など、二の次だ。


(悪いとは、思っているよ)


 それでも、躊躇はなかった。

 少女の願いは、この牢獄から出ること。

 どんな形であれ、それだけは叶えてやれるのだから。

 そうして、遠く聞こえる悲鳴が、逃げ惑うような無数の足音に代わり始めた頃。


「やっと、見つけた……!」


 室の奥の一段高くなっていた本床の隠し床の下から、いかにも怪しげな白金造りの透箱すきばこを見つけることができた。

 蓋を開ければ、案の定、予想通りの気持ちの悪い物体が現れる。


「これが、舌か」


 舌だというのに掌ほどもあるそれは、ネオン神族の本体から切り離されてなおまだ生きているかのように、赤黒い筋が不規則にどくどくと脈打つようだった。

 そこから放たれる不気味なほどの神力からも、この持ち主がどれ程の巨躯を有した強い神だったかが分かる。


「こんなもんがあるから……」


 切り落とされた舌の底に施された真鍮の握り飾りを持てば、ひやりと冷たい感覚が籬の心臓をぞっと締め上げる。このままぱっくりと割れた舌先を何かに触れさせれば、そこに起きた虚実を容赦なく暴き出すだろう。

 できれば箱ごと持ち出したいが、それでは流石に目立ちすぎる。今しばらくは懐に入れておかねばなるまい。


(相変わらず、覚悟もないのに持つものではないな)


 だがそれも、神壇しんだんに辿り着くまでの辛抱だ。

 神壇は、ネオン神族が下界に干渉できる数少ない空間の歪みの生まれる場所に、信者によって建てられる。建てるのは神魔デュビィによって操られた人々だったり、純粋にネオン神族と知らず恩恵を受け、崇める者たちだったりと様々だ。

 そして神壇が出来ると更に神魔が寄り付き、大きいものになると近隣に暮らす人々の無意識にも影響を及ぼす。

 知識のある者であれば、決して近寄らない。もし安易に近付けば神遭災害――ネオン神族に声をかけられ、操られ、果ては神魔にされてしまうからだ。


(あとは、今のうちに逐電するだけだが)


 神体具を手に入れられれば、籬の目的はほぼ達したと言っていい。このまま華殿を出ても何の問題もないが。


(……彼女は、どうなったかな)


 奴隷の少女は、籬に復讐の代行を頼まなかった。

 ただ逃がせと言っただけ。

 その約束は、恐らく果たせたはずだ。

 その後のことを籬が気にする義理はない。


(ない、はずだろう)


 正房の暗い廊下を東へと進みながら、何度も自分に言い聞かせる。だというのに、記憶の中の声がその足を鈍らせる。


『どうして……どうして私じゃないの!?』


 助けられなかった幼馴染みが、何度も、何度でも、籬の頭の中で泣いている。


『私はただ、ただ幸せになりたかっただけなのに……!』


 命を削って生きるしか道のなかった少女の声が、いまなお籬の足に錘のように絡みついている。その声が響く限り、籬はきっと振り切れない。

 その先が、死者が向かう域外のように、決して戻ることの出来ない最果てだと知っていても。


(待っていてくれ、莢迷かがずみ。僕が必ず、助けるから)


 籬は誓い続ける。彼女を失った十一歳の、あの時から。

 自分のせいで奪ってしまった彼女の願う幸せを、この手で取り戻すために。

 それが、どんな形になろうとも。

 そんな籬を更に苦しませる、もう一つの声がある。


『……っ、たす、け……』


 掠れて今にも消えそうな、悲痛な女の子の声。

 籬が過去に囚われ、誓いを刻み直すたびに蘇る。

 彼女の声もまた、いまだ消えない。


(……くそ!)


 葛藤が、ついに籬の足を止める。

 そこに、今度は現実の声が響いた。


《行かないのか》


 薄闇のどこにも姿は見えない。だがそれが記憶でも幻聴でもないことを、籬は今夜の奴隷棟での騒ぎを聞いて確信していた。


「やはりいたか、神魔め」

《気付いていたか》


 応える声が、一気に耳元に近付く。それに応じて視線を滑らせれば、薄闇にぼんやりと浮かび上がるものを捉えた。

 人気のない廊下の真ん中にいたのは、立領たちえりに長袍を羽織った鬼魄ルアハだった。死して域外へと向かうはずの幽魄が、強い恨みにより現世に留まり、神魔にとらわれ鬼魄と成り果てたもの。

 面長の顔に満遍なく生えた髭のように長い体毛からすると、羚羊カモシカの獣族だろうか。向こう側が透けて見えるほどに儚いが、その身からは他の神魔同様強い怨念が放たれている。


《君からもよく馴染んだ匂いがするから、そうだろうとは思ったよ。腐臭を隠すしきみの香りがね》


 チッと、籬はこれ見よがしに舌打ちした。

 死花屍マヴェットは死者の体を利用するが、生命活動はしていない。そのために朽ち続ける肉体は常に腐臭を放ち、人に紛れて人心を惑わすには樒を焚いて隠す必要がある。

 それが、籬にも染みついていると言いたいらしい。


「誰についていた」


 神魔と対する時にはいつも感じる苛立ちを隠しもせず、籬は窮問した。

 本音では心の底から無視したかったが、神魔の気紛れに計画を邪魔されては堪らない。

 鬼魄は待っていたとばかりに意気込んで答えた。


《可愛い娘だ。無垢で頑なで、愛しいほどに愚かな》

「お前たちが愚かにさせていると、まだ気付かないのか」

《それでいい。それがいいんじゃないか!》

「……下衆共が」


 喜色を滲ませて声を張り上げた鬼魄に、籬は全力で吐き捨てた。嫌悪感に吐き気がする。

 これが神魔の本性で、存在理由なのだ。助けるふりをして相手の望む言葉をかけ、気付かぬうちに道を誤らせる。その先にある破滅を、愉悦をもって眺めるのだ。


《そんな下衆の手足となって働いてくれているんだろう? さぁ、渡しておくれ》


 馬面を満面の笑みに歪めて、鬼魄が手の平を向ける。自分に仙術が使えれば跡形もなく消し飛ばしてやるのにと思いながら、籬はその前を通り過ぎた。


「渡すかよ。お前らが同志でも仲間でもないことは先刻承知だ」


 籬が死花屍の協力を得て神体具を集めていることは事実だ。その神体具は最終的に死花屍を通して神壇に奉納される。

 それこそが籬の目的の一つではあるが、そのためならば渡す神魔あいてはどいつでもいいというわけではない。

 鬼魄はその態度に焦るでもなく、意味深に嗤う。


《それは残念だ。では、最後の仕上げに向かうとするか》

「! 待てッ」


 何をする気だ、と問うより早く、鬼魄の姿が掻き消える。

 刹那、籬は舌打ちとともに走り出していた。

 奴隷棟の毒騒ぎは、十中八九奴が唆した娘の仕業だ。

 大方、奴隷棟で騒ぎが起これば必ず生贄の少女に疑いがかかるとでも言って実行せさたのだろう。その先にある目的など、ろくなものではない。

 とは言っても、それを防ぐ義理は、籬にはやはりない。むしろ身を晒す危険が増すだけだ。

 だというのに、気付けば内心でこれでもかと毒づきながら、正房を飛び出していた。


(……なんで僕が、ここまで、走らなきゃならないんだっ)


 人のいない東側から正房と後房の間を駆け抜け、北側から西耳房の裏手に回り込む。視界が開ける前から、燃え盛る炎の頂が見えていた。

 そこから慎重に近付けば、煌々と輝く建物と、それを背に負うように屹立する少女が見えた。強固な意思を宿した蘇芳色の双眸が、恐怖に目を剥いて倒れる男を淡々と凝視している。

 だが何より異様だったのは、その瞳に、有り余る憎悪を上回る愉悦の色が見えたことだ。

 復讐を、支配を、恐怖を、まるで宿願を果たすように愉しんでいる。

 それを、籬は恐ろしいとは思わなかった。

 熱風に舞い上がる撫子色の髪が、見開かれた蘇芳色の瞳が、炎に照らされて益々赤く禍々しいのに、酷く寂しそうで。


――連れ戻さなきゃ……!


 気付けばそんな言葉が脳裏を支配して、計画も忘れて走り出しそうになっていた。

 隠れていた幹に、拳をぐっと押し付ける。


(何だそれは……!?)


 そんなものはあり得ない焦燥だと、籬は必死に己を律する。

 律する必要がある程のその情動が一体何なのか、無意識に蓋をしたことには気付きもしないまま。

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