第五十一話 星辰つとに没して 夜初めて長し

 家扶の烏梅うばいが鴨跖の寝室に血相を変えて飛び込んできたのは、夕食の膳が下げられて二時辰ほども過ぎた夜中だった。


「家君様、烏梅でございます。お休みのところを申し訳ありませんが、火急の報せがございます」

「……何事だ」


 気に入りの奴隷である天青てんせいと共寝をしていた鴨跖は、珍しく焦った様子の烏梅に億劫ながら上半身を持ち上げた。

 烏梅は家令である鶯宿の息子であり、現在は家扶としてもっぱら鴨跖の息子や孫に付いている。

 鶯宿の補佐には家従が行っているし、烏梅がこんな時間に鴨跖のもとに駆け込んでくるなどまず有り得ない。

 聞き流せる話ではないことは明らかだ。


「西耳房にて火事でございます」

「……何だと!?」

「きゃっ」


 情報を理解した瞬間、鴨跖は寝台から飛び起きた。隣で寝ていた天青が腕の羽毛を踏まれて悲鳴を上げる。

 それを無視して、鴨跖は長羽織に袖を通しながら足早に正房を飛び出した。


「鶯宿は何をしておる!」

「家令は先に現場にて対応すると」

「そ、そうか」


 烏梅の返事に、鴨跖はひとまず安堵した。

 ここしばらくは都合の良い冴媛が用意できず、グロサを使いたくとも使えずにいた。奴隷を使えばいいだけのことだが、あまり頻繁に奴隷を買うのは流石に外聞が悪い。

 奴隷の扱いは自由とはいえ、州司が奴隷をすぐに死なせる人物だと思われるのは色々とよろしくないからだ。だからと言って、代わりの者を遣いに出して、好みでもない奴隷を買うのも金の無駄だ。

 その点で言えば、桃漣は良い買い物と言えた。素行があそこまで悪いのは想定外だったが、華族でないと確信できればいずれ冴媛にすることは最初から決めていた。

 お陰で州府に溜まっていた嘘吐き共を、ようやっと暴いて更迭することができ始めたところだ。

 今桃漣を見捨てては、また冴媛の選定から始めなければならない。見捨てるには時期尚早だろう。

 よしんば死なせたとしても、鍵のかかった深夜の宝物庫から、行方知れずのはずの奴隷の遺体が出てくるのはいかにも不自然だ。

 助けるにしろ間に合わないにしろ、その処理は秘密裏に済ませなければならない。


(儂が神体具ソーマを持っていることは、誰にも知られてはならん)


 神体具を持っていることを誇示する者もいるが、舌はその性質上、秘密裏に所持することにこそ意味がある。

 相手の言葉を舐め、嘘の味を見極め、暴き、論破し、最後には自滅に追い込む神体具。持っていることが知られれば、警戒され、決定的な証拠を掴み損ねる。

 噂程度であれば牽制にも役に立つが、目立つことに利点はない。

 そしてそのことは、鶯宿も十分理解している。


(鶯宿が先に向かったのならば、何も問題はないだろうが)


 誰もが先代と比べ落胆の眼差しを向けてくる中、子供の頃から共に育った鶯宿だけは、鴨跖への態度を変えることはなかった。

 鶯宿に任せておけば、全ての事は上手く運ぶ。

 はずだったのに。


「……鶯宿はどこだ?」


 正房を飛び出して脇に建つ西耳房を目にした鴨跖は、呆然と辺りを見回した。

 真新月の闇に沈んでいたはずの古い建物は、ごうごうと燃え上がる炎に包まれて赤々と浮かび上がっていた。両開きの扉は開け放たれ、そこからあふれ出した炎が扁額も柱も塗壁も残らず舐め上げ、本来の厳かながら美しい建物の面影はどこにもない。

 これでは、水などによる初期消火は既に手遅れだろう。

 加えて、今日は冬特有の乾いた風が強く吹いている。火の粉は高く舞い上がり、いつ周囲の庭木に燃え移ってもおかしくない。

 だが鴨跖にとっての何より問題は、いるはずの鶯宿がどこにも見当たらないことだった。


「恐らく、消火のために人や道具を集めているところでは……」


 烏梅がどうでもいいことを話している。

 だが辺りにそれらしき奉公人は少なく、ただ遠巻きに蒼褪めた顔を炎の灯りに晒しているだけだ。誰も桶や布や、斧さえ持っていない。


(既に桃漣を連れ出してどこぞに逃げ込んだのか?)


 冴媛の存在は、二人以外には秘密にしてある。処罰し姿を消したことになっている奴隷を、医薬所に連れて行くことはしないだろう。

 となると向かうべきは正房内のはずだが、そんな気配は感じなかった。


(待つか、戻るか?)


 どんどん燃え上がり、既に屋根まで達し始めている炎と黒煙を見上げながら、鴨跖は判断が出来ないでいた。

 扉が開いているのは、放火した誰かの仕業か、或いは鶯宿か。

 鶯宿だとしても、ここまで火の手が広がった中にまだいるとは思えない。鶯宿ならばさっさと切り替えて、救出から、鎮火後の焼死体の処理について思考を巡らすだろう。

 待っていることに意味があるとは思えない。かと言って、この状況で鶯宿を探すために人をやるわけにもいかない。


「……呪いだ……」

「島殺しの呪いだ」

「みんな、殺されるんだ……」


 騒ぎを聞きつけたらしい奉公人が、続々と西小門からやってくる。だがどいつもこいつも燃え盛る西耳房を見上げるだけで、消火に動き出さない。

 それどころか、口々に物騒なことを呟いて、怯えるように後ずさっていた。


「家君様、いかが致しますか?」


 野次馬をするだけで一向に消火を始めない奉公人たちに、烏梅が焦ったように指示を仰ぐ。鴨跖は無意識のうちに鶯宿に任せようとして、そもそもいないのだと思い出す。


「火……火を消せ! ぼさっとするな!」


 鴨跖は結局何を優先すべきか決断できず、目の前の事態を鎮火させることを選んだ。

 怒鳴られた烏梅が、慌てて近くの下男たちに下知を飛ばす。そこから、やっと状況は動き出した。

 呆然と火事に怯えていた奉公人たちが慌てて井戸に走り、ある者は耳房の傍にある燃えやすい物を退かしたり、火の粉のかかる枝葉を切り落とし始めた。


(もうこの耳房は駄目だな)


 先に壁を壊して中の宝物を取り出すように命じてもいいが、それでは鉄扉の奥の空間が露わになってしまう。未練はあるが、金銭で買えるものなどたかが知れている。

 家宝や替えのきかないものは他の場所にあるし、今は延焼を防げればそれでいい。

 消火は烏梅に任せて、鶯宿を探すべきだ。

 最悪、この中にまだ桃漣がいて焼死体として発見されても、逃げ込んで隠れていたということにすれば済む。少しの不審点には目を瞑るくらいには、あの桃漣という奴隷は嫌われていた。


(……戻るか)


 万事は鶯宿が上手くやる。鴨跖が心配することといえば、次の冴媛をどうするか、それくらいだ。

 そうして踵を返した時、妙な声が聞こえた。


「な……何だ、あれ……」


 消火活動の掛け声とは別の、戸惑うような声。それが気にかかり、首だけで振り返る。

 桶を手にした下男が、めらめらと揺らめく炎の壁を、引き攣った顔で凝視していた。

 まるで、そこから何か恐ろしいものが生まれ出でる瞬間でも目撃してしまったかのように。


「何か、影が……」


 別の下男が、炎の濃淡が作る影に手を止めて怯える。

 何と臆病なと冷眼視したのはしかし、僅かばかりだった。

 ガタンッ、と何かが倒れるような大きな音がして、それに押されたように炎が膨らむ。

 それに全員が目を奪われたのを見計らったように。


「ぐぁ……ッ」

「ッ!?」


 鈍い苦鳴と共に、何かが耳房の外へと躍り出てきた。水が撒かれたすぐ目の前の地面に、まろぶように倒れ込む。

 それは、そこにいるはずのない、鶯宿だった。剥き出しの頬は赤く焼け爛れ、白髪は黒く縮れ、纏う着物にはまだ火が生々しく燃えている。

 まるで灼熱の砂漠が広がる陰府から焼け出された罪人のように、その有り様は悲惨の一言だった。


「父上!?」


 隣にいた烏梅が慌てて桶を持って駆け寄る。中の水を乱暴に振りかけて火を消してから手を伸ばす。が、触れた途端引っ込めた。

 熱いのだ。触れないほど。


「何故耳房の中から……水だ! もっと水を!」


 烏梅の怒号に、驚いてばかりいた下男たちが慌てて水を運ぶ。

 だがその手も、新たに現れた人物のためにすぐに止まってしまった。


「ま、また人が……」


 下男の誰かが、燃え盛る炎を呆然と指さす。まるでそれに応えるように入口から吹き出していた炎が揺れ、そこから小柄な人影が悠然と歩み出てきた。


「……と、桃漣……?」


 その小さな子供の姿に、誰もが目を奪われた。

 背後から吹き出す熱風に煽られて、撫子色の髪があたかも炎の一部のように天をいている。纏っている生成りの小袖は赫赫と燃え盛る炎に赤く照らされ、炎との境界線が分からなくなって、まるで炎をその身に纏っているかのようだ。

 その中にあってなお白い貌には怒気が漲り、炎よりもなお赫灼たる蘇芳の瞳は、まるで炎の精霊が宿ったように熱く鋭く、この場にいる者を残らず睨み付けていた。

 その激しさは、見られただけで命の灯火が細るほどで。


「ひっ……!」


 誰かが小さく息を呑んだ。或いはそれは自分だったかもしれない。

 だがそんなことは些末だ。


「……お、鶯宿に、何をした……!?」


 鴨跖は今にも後ずさりたい気持ちを堪えて糾弾した。

 奉公人の手前、我先にと逃げ出す無様は晒せないたいう、最低限の矜持は無論あった。だがそれ以上に、本能が恐怖していた。

 目の前に倒れたままの鶯宿は、未来の自分ではないのかと。知らなければ、次にそこに倒れているのは自分かもしれないという恐怖に。


「なにって……」


 手で髪を払って火の粉を散らしながら、桃漣がふふと嗤う。


「助けに来たっていうから、助けてもらっただけよ。壁にしてね」


 その苦笑交じりの声音には、悪意も、罪悪感すらなかった。

 だからこそ、それが意味する所を理解した烏梅が、顔を蒼褪めさせた。


「壁って……まさか、父上を炎の盾にしたのか……?」

「なっ……」


 想像するだにおぞましいその言葉に、その場に居合わせた全員が凍り付いた。

 それを満足そうに見渡して、桃漣はころころと嗤った。まるで虫も殺したことのない姫君が、宝石を掌で弄ぶように。


「だって、そうしないと、私が燃えちゃうでしょ?」


 赤々と燃える炎と真新月の夜闇とのあわいに溶け込んで、その笑みは凄絶に過ぎた。

 あまりに太々しくて、毒々しくて。だからこそ、不可能なはずの現実を疑いもせず受け入れてしまいそうになった。

 鶯宿は、痩せて年老いたとは言っても男だ。身長もそれなりにある。それを、女子供が大盾のように前に立たせて歩かせたという言葉を。

 そして一度信じてしまえば、それを行った少女の矮躯が釣り合わなければ釣り合わない程、桃漣を益々この世のものではないに見せていた。


「狂ってる……」


 誰かが、震える声で呟いた。

 その恐怖は、目の前の火災よりも圧倒的な忌避感を伴って、見る間に人々に伝播した。

 奉公人たちが、蜘蛛の子を散らすように我先にと逃げ出す。


「これが、呪い……!」

「皆殺しにされる……!」


 周囲にいた奉公人が、あっという間にいなくなる。すると鴨跖は、途端に身を守る壁がなくなったように心許なくなった。

 桃漣についての噂は鴨跖も知っていたが、勿論信じてなどいなかった。

 二百年以上前に滅んだ時辰ときの島の住人だなどと、荒唐無稽な話だ。鴨跖の操花術に何の抵抗も出来ない時点で、華族である可能性も皆無。

 残る現実は、四操術も精霊術も使えない、呪いだけしかないただの小娘。

 その呪いさえも、自分を苦しめるだけの無力なもの。

 そのはずだったのに。


「心配しなくてもいいのに」

「ヒッ――――」


 逃げ出した下男たちを鷹揚に眺めながら、桃漣が優しく呟く。

 その表情はまるで慈愛に満ちた慈母のように穏やかだというのに、悠然と持ち上げられた左手と、迷いなく向けられた蘇芳色の瞳に、鴨跖は血の気が凍るほどの怖気が走った。

 そして。


「ちゃんと、順番に殺してあげるわよ」


 幼い桃漣が、開いたばかりの仇花のように美しく嗤う。

 鴨跖は、指先一つ動かせなかった。

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