第四章 槿花始めて笑く

第五十話 利きこと 刀に似たり

 桃漣を見なくなって既に二週間ほども過ぎたが、若菜の不安が消えることはなかった。

 その理由に、最初は気付いていなかった。


「ね、疎影もそう思うでしょ?」

「……う、ん」


 最近またよく話をするようになった疎影が、前を向いたまま曖昧に頷く。

 最初の頃は気付かなかったが、その横顔は明らかに曇って元気がない。


「疎影? また何かされたの?」

「え? いや……、いつものことだから」


 やっと振り向いた疎影が困ったように笑い返したが、その表情はやはり晴れ晴れとは言い難い。

 桃漣がいなくなってやっと平和を取り戻したように見えるが、根本的な不満と閉鎖的な心的負荷が消えたわけではない。その捌け口は、結局以前のように疎影に向かい始めていた。


(……違う)


 疎影がまたいじめられ始めたのは事実だ。けれど疎影は以前ほど、そのことに悩んでいるように見えない。

 関心が、他のことに向いている。

 その他の事が何なのか、若菜には本能的に分かった。


「あの女のこと、まだ気にしてるの?」

「……消えた奴隷は、戻ってこないっていうから」


 今度は、聞き返すこともなく返事があった。それが、益々若菜の気に障った。

 気にしていると答えているようなものではないか。


《存在を消すべきだ》


 夕刻。一人になった若菜に、また声が囁いた。

 疎影の態度に苛々していた若菜は、それにぞんざいに問い返した。


「存在?」

《彼の中に、あの女の存在がまだ大きく残ってる。それを粉々に砕いて消すしかない》

「でも、あの女は家君様に掴まってもう二度と出てこれないようにしたって、あんたが言ったんじゃない。これ以上、どうしたら……」

《その場にいなくても、尊厳などいくらでも潰すことができる》


 その言葉に、若菜は何故だかゾッとした。

 具体的な手段も結果も何一つ思い浮かばないのに、それが最低な行為だということだけは分かる。


(……これ以上は、まずい)


 直感が若菜の足を引く。この言葉を受け入れてしまったら、もう引き返せない。

 きっと人の道に悖る。そう分かっているのに、そうしなければ疎影を取り戻せない恐怖が、震える唇を勝手に押し開いていた。


「……何を、すればいいの?」


 さすがにそんなことは出来ないと、言うべきだった。

 けれど、覆水は決して盆に返らない。

 にたりと嗤う声だけが、夕闇迫る跨院に音もなく響いた。




       ◆




 異変は、弓月も妻月の影に入る、真新月の夜に起きた。


「……あの女、もう戻ってこないかしらね」


 煌びやかな奴隷の衣装を返し、質素な生成りの小袖を寒そうに掻き合わせながら、額の角を揺らして虎目こもくが言う。


「桃漣? 短かったわね。三月くらいだったかしら?」


 目の前の皿に匙を差し込みながら、透輝とうき火死鼬レプティクの丸い耳を伏せつつ鼻で嗤う。


「あれだけあちこちに噛みついていればね。全く、人騒がせな子供だったわ」


 指先に咲いた花の花弁を一枚ずつ毟り取りながら、柘榴ざくろもまた同意した。

 はっきり言って、桃漣は世間知らずの井蛙せいあだった。だからこんなにも恵まれた環境であそこまで憤慨できるのだ。

 柘榴は知っている。息をするだけで否定される屈辱を。自分の指先すら食べ物に見える飢餓を。

 人におもねるだけで生きられるのなら、自分を偽るだけで食事にありつけるのなら、自尊心など簡単に捨てられる。


「結局、子供だったのかな」


 蛇紋じゃもんが、手首の鱗を撫でながら呟く。

 奴隷の中で唯一子供を産んだことのある蛇紋は、いつも子供には甘くなる。奴隷棟にいる時は特に子供の姿が多かったから、同情的になっているのだろう。

 だが半花の柘榴にとっては、子供など全ての不幸の始まりにしか見えない。不吉な子供を産んだがために住処を追われ、食事にもありつけず、不気味だと石を投げられる。

 子供など、いない方が幸せだ。


「どうでもいいわ。消えていく奴のことなんて」


 この話題は終いだとばかりに、柘榴もまた目の前の皿に手を付ける。木匙を口に運び、少し冷めた粥を噛みしめる。


「……?」


 少し痺れるような味がする。具は何だったかと皿に視線を戻す。

 その隣で、透輝がどさりと倒れた。


「え?」


 状況を把握する。その前に虎目が倒れ、蛇紋も倒れる。


(まさか)


 嫌な予感がして粥を見た時には、柘榴の口の中に強烈な吐き気が込み上げて、気付けば視界が霞み、体を真っ直ぐに保っていられなくなっていた。

 どさり、と倒れる視界の隅で、奴隷棟の入口に小さな子供のような人影を見る。それが誰か特定することは、月明かりのない夜には難しい。

 だが柘榴の胸中に浮かんだのは、先程まで奴隷たちの間で話題にしていた人物の姿だった。


(本当に、呪いが……)


 いつか自分たちが吐いた言葉が、ついに自分たちに降りかかる。

 恐れていたくせに、侮っていた。その報い。


(まぁ、そんなもんよね……)


 諦念が、抗いを止める。意識はそこで途切れた。




       ◆




 奴隷の食事に毒が盛られたらしいという噂は、夜だというのにあっという間に西跨院中に広まった。


「島殺しらしいわよ」

「家君様にお仕置きされてたんじゃないの?」

「今まで姿を隠してて、復讐する機会を窺ってたんだって」

「でもどうやって毒なんか仕入れたのよ」

「だから男を誑し込んだのよ。そういう女だったって、この前のあれで分かったでしょ?」


 それぞれの奉公人が暮らす棟は、深夜だというのに俄かに騒がしくなった。

 特に戦々恐々としていたのは、下女棟の中でも洗水あらい所の下女たちが集まる一角だ。


「だったら今すぐ探し出さないと! 今度は清女すましめたちでしょ」

「な、なんでよ」

「だって、仕返ししてたじゃない。若菜がやられたからって」

「あれはっ、だから、こっちが正しいんだからそんなの」

「そんなの向こうには関係ないでしょ。気に喰わないからって島ごと滅ぼすような狂った女よ」

「…………ッ」


 その言葉に、室に集まっていた下女たちは一斉に黙りこくった。

 散々に罵っていた言葉が、巡り巡ってついに自分たちの喉元に突きつけられていると、ようやっと気が付く。

 その時には最早誰も、事の真偽を確かめようなどとは考えなくなっていた。

 桃漣が今まで、無数に奉公人が出入りする西跨院の、一体どこに隠れていたのか。

 その前に、どうやって家君から逃れたのか。

 どうやって奴隷の食事に毒を盛ったのか。

 そもそもそんなことができるのならば、桃漣ならばまずこの華殿から脱走していたのではないか、などとは。

 もう、誰も考えない。

 そもそも、そんな思考に及ぶほど桃漣の人柄を知っていた者など、ここにはただの一人もいなかった。


「ねぇ、どうする? 家従を起こす?」

「でもこんなことで騒ぎを起こしたら、私たちまで家君様にどんな罰を受けるか」

「それよりも熟実うむみと若菜をどこかに隠した方がいいんじゃない?」

「でもそれで、見つかるまで手当たり次第殺されたら……?」


 一人の呟きが、揺れる灯火の影に沈む室にひたひたと不吉な予感を落とす。

 否定の声は、誰からも上がらなかった。

 些細な噂話や悪口にも凄まじい形相で飛びかかってくる桃漣を思えば、あるわけがないとは言えなかった。

 何より、桃漣と対峙して、突然の悪寒や痛苦、言いようのない恐怖を感じ、身動きが取れなくなったという者がちらほらいる。

 それが彼女の呪いの始まりではないかと、口にはしないが誰もが恐れていた。

 もし、奴隷たちが倒れたのが毒ではなく、呪いだったら。


「……そ、そういえば、二人はどこ?」

「家じゃないの? 流芳りゅうほう庵に……」


 奉公人は、家族を持つと棟から家族専用の庵に居を移すことができる。

 長く華族に仕え、次世代共々華殿で飼い慣らすための仕組みだが、奉公人たちにとっては何より私的空間が確保されることが大きな利点と言えた。


「でも、若菜はさっきここにいたでしょ?」

「え? そうなの?」

「そう言えば見かけたような……でも、なんで?」


 庵に入ったあとも、仕事終わりに世間話をしたり物々交換したりするため、既婚者が下女棟に出入りすることはままある。だがそれも、夕食の配給や湯浴みの前までだ。

 あとは眠りにつくだけというこんな時間に、しかも子供だけで行動するのは、あまり聞かない。ましてや、華殿内とはいえこんな月明かりのない夜に。


「若菜は、何でここにいたの……?」


 あるいは誰が、ここに若菜を呼び出したのか。

 言葉にならない疑念が、音もなく室に満ちる。

 緊迫した急報が飛び込んできたのは、その時だった。


「火事だ!」




       ◆




『時は来れば分かるよ』


 男は計画の概要も日取りも告げることなく、桃漣にそれだけ言うとあっさり気配を消した。

 それから、三日。

 小窓から射し込む月光が日に日に細り、ついには掻き消えた夜。


「…………?」


 ぐったりと横たわる桃漣の鼻腔に、違和感がにじり寄ってきた。どこかきな臭い空気に、目に刺すような痛みがじわりと広がる。


「……!」


 煙だと気付いた時、桃漣は理解した。


(まさか、これが『時』ってこと?)


 なんて乱暴なと思ったのも束の間、桃漣は手放していた月石を懐に仕舞うと、ずっと温存していた気力を振り絞って鉄格子に歩み寄った。


「ねぇ、ちょっと……! 誰かいないの!? ここから出しなさいよ!」


 ガンガンガンッと、固く握った拳で何度も殴りつける。鉄の鈍い音が何度も狭い牢獄に響くが、人の気配はない。

 代わりに感じるのは、鉄扉の向こうで上がるパチパチともごうごうとも聞こえる異音。

 火事だ。


 確かに厳重に管理されている宝物庫に火の手が上がれば、何を置いても駆け付けるだろう。しかも今は、桃漣という冴媛さえひめも隠している。

 事情を知らない他の者に暴かれる前に、鶯宿なりが手を打ちたいと考える可能性は高い。

 鶯宿が現れたなら、一時的退避のために錠も開けるはずだ。合理的な計画ではある。計画だけならば。


(そういうのは、私の準備が整ってからやるもんでしょ!?)


 詳細も知らされずいきなり火災のど真ん中に放り込まれて、安穏と救出を待てるほど桃漣は図太くはない。しかも相手は、あの男だ。

 顔も知らなければ名乗りもしない、はっきり言って全く信用できない男に、危なくなったら助けてくれるなどという期待があるはずもない。

 徐々に辛くなる息苦しさに、頭がくらくらして足元が覚束なくなる。

 嫌でも疑心暗鬼が先立つ。


(やっぱり、騙されたんじゃ……)


 あの男の目的が神体具ソーマならば、冴媛さえひめの危機に慌てる家君たちの隙を見て忍び込めばいいだけだ。桃漣を助ける理由も義理もない。

 その場合、桃漣の末路は二つに一つ。このまま見捨てられて火達磨になるか、家君の前に引きずり出されて、放火の冤罪で殺されるか。


(冗談じゃない!)


 桃漣は尻に火が付いたように再び鉄格子を蹴ったり揺らしたりした。だがそんなことでびくともするはずもなく、白煙だけがゆっくりと隙間から座敷牢に忍び込み始めた。

 徐々に視界が白くなる。


「や……ぃやだ……こんなの、は……」


 大声を出したせいで、大量に煙を吸ってしまった。頭がズキズキと割れるように痛む。

 吸っても吸っても息ができず、意識が曖昧になる。こんな時に限って、ずっと取り戻したいと願っていた記憶が、嵐のように雪崩れ込んでくる。

 木造建築が焼ける焦げ臭さが。

 炎が建物を舐める声が。

 木々が焼け落ちる音が。

 鉄扉越しに感じる炎の熱が。

 目の前の景色と瞼の裏に過る断片的な映像が混ざり合って、どこまでが現実か分からなくなる。


「こわい……」


 目や耳や肌から入る情報の全てが、桃漣を押し潰そうとしているような焦燥を感じる。

 殺してやると誓ったのに、体中に染みついて拭えない恐怖のせいで、鉄格子にしがみ付くだけのことさえ儘ならない。


(誰か……ッ)


 心の中で必死に助けを求める。

 けれど眼裏まなうらに浮かぶのは母の、榊の、血塗れになった最期の姿ばかりで、一向に声にならない。

 意識が、霞む――。

 その時。


「起きなさい、早く!」


 ガチャン、と重い開錠の音に続いて、くぐもった一喝が鳴り響いた。


「……?」

「早く! ここにいては死にます!」


 霞む視界を無理やり上に向けると、今度はすぐ近くでそう急かされた。鶯宿だ。

 いつもの鉄面皮を崩し、年老いた皺面を真っ赤にしながら、力の入らない桃漣の矮躯を持ち上げようとしている。


「たす、けるの……?」

「当然です。やたらに死なせたいわけではありません」


 呆然と問う桃漣に、鶯宿が裾で口元を押さえながら答える。その横顔があまりに真っ当で、こんな時だというのに桃漣はまるで肩透かしを食らったように気が抜けてしまった。


「なに、それ……」


 開かれた鉄扉から一気に流れ込んできた煙に咽ながら、縋りつくように鶯宿の手を取る。鶯宿はその手を引っ張り上げると、そのまま子供の桃漣を老いた背中に背負い上げた。

 そのまま、燃え盛る棚の間をよろよろと歩き出す。


「あなたが子供で良かった。誰かに見られる前に、正房に入れそうです」

「正房?」

医薬くすり所では目立ちます」

「あぁ……、そういうこと」


 その言葉に、桃漣の中で僅かに浮かび上がった迷いが一瞬でまたどす黒い情動の沼に落ちた。

 医薬所は西跨院にあり、奉公人も怪我や病気をした時にはかかることができる場所だ。そこに行かないということは、桃漣は既に華殿には存在していないことになっているということ。

 冴媛となった時点で、ひっそりと死ぬ未来しか残っていなかったということだ。

 それを助けるという。あくまでも秘密裏に。

 その先にある未来もまた、一つきりだろうに。


「……ふふ。嬉しいわ……」


 鶯宿の細いながらまだ筋肉の残る背中に体を預けながら、桃漣はついに笑ってしまった。

 結局こんなものなのだ。

 こんな時、桃漣を助けてくれるのは、殺してやると誓った相手しかいない。

 それが桃漣の惨めな現実で、全てだ。

 儚い期待と失望が、いつだって桃漣の心をぐちゃぐちゃにする。


「嬉しい? 何が……――?」


 桃漣を負ぶって両手が塞がったせいで時折煙に咽ながら、鶯宿が微かに聞こえた声に問い返す。

 それに凄絶に笑み返して、桃漣は左手の平を鶯宿の首筋に押し当てた。


「あなたが、私が殺すに値する人間で、よ」

「!?」


 鶯宿が何かに気付いたようにその目を限界まで見開く。ぐらりと傾いた体を、桃漣はそのまま容赦なく踏み潰した。


「……っ」


 鶯宿が物問いたげに見上げてくるが、それに反してその口が開かれることはなかった。

 罪悪感は微塵もない。

 ただ、炎に燻された皮膚の熱さと滴る汗が手に張り付いて、気持ち悪かった。

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