第四十九話 また燃えんことを欲す

(鶯宿……じゃ、ないものね……?)


 幻聴を疑ったあと、桃漣は正気に戻って、西耳房にしじぼうの外で交わされている誰かの会話だろうと思い直した。人通りは少ないが、それでも時折人の気配はする。

 何より、この場所は鶯宿が直々に雑用をするくらいには隠匿されているのだ。他の者が来るとも思えない。

 だというのに、声はしつこ聞こえてきた。

 まるで桃漣の生存確認でもするように。


「おーい。聞こえてる? まだ返事できるー?」


 けれどその声はどこまでも軽くて、桃漣は自分に呼びかけられているとは思えなかった。

 西耳房の宝物庫には他にも出入りする奉公人はいるが、この鉄扉は棚などで隠されている。仮に気付いたとしても、あの頑丈な錠をわざわざ開けて中を確認しようとする者はいない。

 そもそも、宝物庫だというのに明り取り窓があるということ自体が不自然なのだ。その違和感に気付く者は、大抵口を噤む。

 不用意に暴き立てる者から消されていくと、気付いた者なら理解できるはずだろうに。


「もう手遅れなのかな? 今どんな感じー?」


 声は見切りを付けることなく発せられ続けた。

 まるで、明り取りの窓の向こうに桃漣がいることを確信しているかのように。

 だからこそ煩わしい。


「ねーえー、もう喋れないとか?」

「…………うる、さい」


 もうやめてと、苛立ちを込めて口を開く。

 二週間以上喋っていなかったせいで、喉が張り付き、声は掠れ、まるで音になっていなかった。

 だというのに。


「お! いいね。まだ活きが良い」


 耳聡く聞きつけた声が、喜色を滲ませて食いついた。


「じゃあ早速、どこが痛む? 症状は?」


(なんなの、こいつ……)


 桃漣は布団から起き上がれないまま、信じられないと軽蔑した。

 もう喋れない可能性もあると知った上で、お構いなしに質問攻めにする。桃漣を心配しているのでないのは明白だ。

 そう分かっているのに、桃漣は痛む喉をおして答えていた。


「喉……吐き気が、ある」

「吐き気……グロサか?」


 舌という単語に、ぞくり、と肌が粟立つ。と同時に理解する。

 この塗壁の向こうにいる男は、神体具ソーマのことを知っている。その上で、鉄扉から入ってこない。

 怪しいことこの上ない。


「まさかと思うけど、月石を握ったりしてないよな?」

「……もう、握る、力もない……」


 何のことかと思いながら、随分前に指先から転げ落ちた月石を見つめる。

 孤独な桃漣の、最後の拠り所。

 それを。


「あぁ、そいつは良かった」


 男はあろうことか、朗らかに笑い飛ばした。

 その瞬間、桃漣は枯れたと思っていた怒りに頭がくらくらした。ぎりりと奥歯を噛みしめる。


(何が、何が良かったのよ!? 私は、頼りの月石を持つことすらままならないって、そう言ってるのに!)


 どいつもこいつも、ここにいる者はどうしてこう会話が成り立たないのか。

 桃漣がこんなに苦しくて辛いと分かった上でこんな下らない問答をしかけてくるなど、今度はどんな悪意があるのか。


「……馬鹿にするだけなら、帰って……!」


 息も絶え絶えに、それでも凄む。

 先程までは喋るのも辛い程だったのに、沸々と込み上げる怒りのせいだろうか、徐々に声も意識もはっきりしてきた。


「馬鹿にするなんて心外だな。僕は君を助けたいんだ」


 男は笑いながらそう言った。

 今まで聞いた中で一番薄っぺらい言葉だと思った。


「嘘つきに用はないのよ」

「まぁ聞いてよ」

「嫌よ」


 言下に桃漣は切り捨てた。

 桃漣を助けると言った連中は、ことごとく桃漣を閉じ込め、押さえ付け、搾取した。この男もどうせ同じだ。もう期待などしない。

 だが男は、構わず勝手にしゃべり続けた。


「僕が良かったって言ったのは、月石に触れていると呪いが発動し続けるっていう理由からくりがあるからなんだ」

「……どういうこと?」


 呪い、という単語に桃漣の冷静な思考が僅かに戻ってくる。

 得たりというように、男は続けた。


「君は家君から神体具ソーマを見せられたと思うけど、それが何だったのかは分かってる?」

「知らないわよ。ただ……気持ち悪い、舌みたいな形をしたと思っただけで」

「神体具っていうのは、幸運の女神ラナ・ラウレア・エア・ヒアとの戦争に敗れ、この世とは異なる次元である高裏原ドゥアトに閉じ込められたネオン神族たちの、散らばった体の一部のことなんだ。古代の神様の体だからね、それを加工したり利用する者は、その大きすぎる力の反動を受けると云われている。それが呪い――いま君を苦しめているものの正体だ」


 男の滔々とした説明に、一度見たきりの神体具がまた眼前に浮かび上がるようで鳥肌が立った。

 神様がどんな存在かは知らないが、つまり昔は人体の一部だったということだ。そんなものをぎらぎらに加工して有難がって隠し持っているなど、猟奇的で常軌を逸している。


「でも、私はあんな気持ちの悪いもの、触ってもないわ」

「だろうね。でも現に、君は呪われている」

「なんで……」

「神体具を使いたい連中はみんないけ好かない金持ちばかりだ。そういう連中は大抵、利益は得ても犠牲は払いたくないっていう我が儘な考え方をしてる。その理想を実現する方法が、厄介なことにたった一つだけあったんだ」

「……まさか」


 男の説明に、鴨跖の不穏な言葉が重なる。


『くれてやるとも。この月石を通して、神体具の呪いをな』


 果たして、予感は男の言葉によって現実となった。


「そう、月石だ」

「――――」


 男の言葉に、定まっていなかった視線がある一点に戻る。

 薄暗い座敷牢に射し込むかそけき月光に、滲むように転がる月石。

 いつも無意識に手を伸ばしては、母に縋るように抱きしめていた。悲憤慷慨していた桃漣を慰め、支えてくれた唯一の存在。

 その、はずなのに。

 男の言葉を受けた今、隠していた本性を現したかのように勃然と不気味に煌めいたような気がして、桃漣はびくりと伸びかけていた手を止めていた。


「月石は元々、弓月ゆづき――上古の神魔大戦で砕け散って天上に囚われた冴月媛命さつきひめのみことの体――の欠片だと云われてる。同じ神の体だからかどうか、それを神体具に一定時間以上触れさせておくと、呪いを引き寄せ始めるんだと。けど引き寄せるだけで、浄化するわけでも跳ね返すわけでもない。月石に触れている者に呪いを移すだけだ」

「……うそ……」


 男の長々しい説明に、桃漣はそうとしか言うことができなかった。

 鴨跖のあの態度からも男の言葉が真実であることは疑いようもないのに、心が理解することを拒否している。

 けれど男に、そんな思いが届くはずもなく。


「嘘じゃない。現に、いま君が月石に触っていないのなら、少しずつ気力だけでも回復し始めているはずだ。そう感じない?」

「それは……あなたへの、怒りで……」

「はは。それもいいね」


 口籠る桃漣を、男はやはり小馬鹿にするように笑う。

 それに腹が立ったのも束の間、男は軽口のまま続けた。


「信じられないなら、二、三日だけでも月石を遠ざけておくといい。吐き気だけだけど、嘘のように消えるよ。そしてすぐに監視者が言うだろう。月石を待っていろってね」

「それって……」

「呪いを移された神体具は、月石が誰かに触れていないと発動しなくなるんだ」

「な――」


 その言葉に、桃漣は今度こそ絶句した。

 自分が得をするためだけの、生贄を前提とした最低の仕組み。他人の苦しみも痛みも、起こると知りながらないものとして扱い、命を強制的にすり減らせる傲慢な行い。

 そんな連中が、平然と同じ空気を吸いながら、桃漣を苦しめている。

 その事実に、怒りを通り越して眩暈がした。


(どうして……どうして、この世はどこまでも不公平で、無慈悲で、糞なのよ……!)


 次から次へと湧き上がってくる理不尽に、汚い言葉が止め処なく溢れてくる。

 そして最後に桃漣の心に残ったのは。


「……殺してやる」


 いつかに鼓膜を震わせた少年の絶叫が、桃漣の口を借りて世界を呪う。


『殺してやる!』


 今なら、あの時の榊の気持ちが分かる。あの時に止めた己は、なんと浅はかで無知で愚かだったのか。


(えぇ、そうよね、榊。今度は私が、殺してみせる)


 桃漣たちの幸せを壊す者を。

 この道行きに立ちはだかる者を。

 ただ生きていくだけのことを邪魔する者を。

 全部、全部、全部。


「殺してやるわ」


 榊に、母に、己に誓う。

 もう奪われ、踏みにじられ、嬲られるだけの生き方は終いだ。

 やられたのならやり返す。

 だって、桃漣は。


『どうか、幸せでいて』


 幸せでいないと、いけないのだから。




       ◆




 月石を手放して二日目に、初めて鶯宿が声をかけてきた。


「月石は持っていますか」

「……持つ気力もないわ」


 桃漣は、布団に横たわったままそう答えた。


「月石を持っていなければ、食事の差し入れはできません」

「……分かったわ」


 桃漣は、這いずるように布団から出て月石を拾った。それを確認してから、鶯宿が食事を差し入れる。


「くれぐれも、手放してはなりませんよ。決して、一時たりとも」


 最後の念押しと重々しく閉じる鉄扉の音を背中で聞きながら、桃漣はハッと吐き捨てた。


(飢餓と嘔吐を天秤にかけてくるわけね)


 最低な連中は淡々と最低な辛苦を要求する。そうやって、今まで何人の奴隷を使い潰してきたのだろう。


(私は、今までの連中とは違う)


 気持ち悪くて苦しくても、鉄格子の一本も破壊することができなくても、何もできなくても。


(私をこんなに苦しめた連中を全員殺すまで、絶対に、絶対に死んでやるものか)


 決意が、満身創痍の桃漣の体に火を灯す。

 その火を更に燃え上がらせる風が、その夜再び吹いた。


「心は決まったかな」


 先夜、桃漣の誓いを黙って聞いていた男は、また来ると言ったその言葉の通り、再び月光の射し込み始める深夜に小窓の格子の向こうに現れた。


「私を逃がして」


 桃漣は、単刀直入に言った。

 顔も、名前すら知らない相手なのに、騙されているかもしれないのに。


(こいつが家君の手先で、逃げ出したっていう名目で私を殺しに来るのなら、それでもいい)


 来る者全てを、この左手で屠ってやる。もう二度と、奪われる側には回らない。

 だがその決意を、男はやはり朗らかに笑った。


「君を逃がすだけでいいの? 家君を殺して、とかじゃなくて?」

「要らないわ。私が自分で殺すから」

「へぇ」


 桃漣の仄昏い決意に、男がうっそりと嗤う。そこに多分の嘲りが含まれていることに、勿論桃漣は気付いていた。

 だが男からの評価などどうでもいい。桃漣の決意は揺らがない。

 実際、鴨跖を殺すだけなら容易く出来るような気がしていた。

 桃漣の左手が真にどんな能力を持つのかは把握しきれていないが、きっと左手を向け続ければ殺せる。殺しきれなくても、短刀が一本あれば止めを刺せる。

 鶯宿が戻らなければ、不審に思った鴨跖が人を寄越すか自ら足を運ぶ。その時に鴨跖を殺せば終わりだ。

 だがそれでは、この牢獄から出られないままになるかもしれない。殺す前に鍵を渡せと交渉すればいいのだが、その間怒りを抑えておける自信がない。

 それに、桃漣にこんな仕打ちをしたあの二人が、こんな場所で人知れず死ぬなどあっていいはずがない。

 殺すのなら、徹底的に恐れさせ、怯えさせ、後悔させた後に、一番苦しい死に方を与えてやる。


「分かった。じゃあ、ここから出られるようにしてあげるよ」

「……」


 男は実に軽く頷いた。

 十二華族の一人を相手にしようというのに、躊躇も畏怖もない。華族を敵に回して平気な人間など、余程いないだろうに。


「……あんたの目的は何なの」


 不意に言葉が零れていた。

 どうでもいいと、心底思っているのは本当なのに。

 だが隠す気もなく返された理由に、桃漣はすぐに後悔した。


「僕は神体具が欲しいんだ」

「……最悪」


 聞くんじゃなかったと、桃漣は心の底から吐き捨てた。

 それでも、男の恬然とした態度は変わらなかった。


「えぇ、なんで?」

「あんたも結局、糞野郎の同類ってことでしょ」

「まさか。逆だよ」


 男はなおも笑う。

 桃漣はもう聞く耳も持たなかった。


「どっちでもいいわ。あんたが善人でも、悪人でも、どっちでも、どうでもいい」


 正義も善行も、桃漣には要らない。

 目的を達するためなら、この世の全員から後ろ指を指されるような極悪人になるのだって、一向に構いわしなかった。


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