第四十八話 坐して月石を守り

 桃漣が懲罰房から奴隷棟に戻って以来、疎影はまだ一度も桃漣の姿を見かけていなかった。


(傷、大丈夫かな)


 少女の背中は何度も棒に叩かれて新旧無数の赤い線が走り、最早白いところがない程だった。十一、二歳ほどの姿にその様はあまりに痛ましく、元々の火傷痕とも相まって直視できない程惨たらしかった。

 懲罰房では薬を塗ってあげられたが、奴隷棟には男は入れない。薬を塗ってくれるような仲間もいないと言っていた。

 それに、傷よりももっと心配なこともある。


「聞いた? あの島殺し、とうとう幽閉されたらしいわよ」


 西跨院の仕事場をあちこち走り回っていると、女たちの潜める気もない噂話が嫌でも聞こえてきていた。


「奴隷の分際で、下女に手を上げたんでしょ?」

「その憂さ晴らしに、夜な夜な下男棟に忍び込んで男漁りしてたんですって」

「あちこちで揉め事起こしてるとは思ってたけど、痴情の縺れもあったってこと?」

「態度も品性も、今までの奴隷の中で最低ね」

「奴隷になって当然の女だったってわけだ」

「そりゃ、家君様だって堪忍袋の緒が切れるってもんよ」


 誰もが眉を顰めながら、隠した手の奥では皆一様に口端が吊り上がっている。

 その醜悪さを、疎影は赤子の頃から知っている。


「なに? 半花が内膳かしわ所に来ないでちょうだい」

「……はい。ごめんなさい」


 大きな声で噂話をしていた厨女くりやめの一人に、ぎろりと睨まれた。

 本当は布類の洗い物を取りに来たのだが、この様子ではいつもの下男が戻るまで近付かない方が良さそうだ。

 こういう時、疎影は無意識に桃漣を探すようになっていた。

 手ぶらで戻っても怒られるし、どこかで時間を潰しても遅いと怒られる。それなら、せめて怒られるまでは嫌なことを忘れて過ごしたい。


(本当に、幽閉されちゃったのかな)


 奴隷が消えるのは、昔からよくあることだ。

 奴隷は元々衛生環境や健康状態がよくない者が多く、少し雑に扱えば病死することもざらだ。加えて奉公人の優越感を満たすため、常に様々な嫌がらせを受ける。

 大抵は新しく入った一人が生贄にされる。そういう者はそのうち家君に呼ばれ、姿を見なくなる。

 桃漣もまた、その負の連鎖に絡め捕られてしまったのかもしれない。


(あんなに、強い子だったのに)


 その強さが、仇となった。

 だから、疎影はいつまでたっても強くなれない。


「疎影!」

「っ」


 木の幹に凭れて悄然としていた疎影は、突然名を呼ばれ、驚いて振り返った。

 叱られるかと身構えたが、こちらに駆け寄ってくる姿を認めて内心安堵する。


「若菜」


 数少ない同年代の少女が、息せき切って走ってきていた。

 その表情は久しぶりに柔らかく、どうやら怒られる心配はなさそうだ。


「どうしたの? 何かあった?」

「ううん。姿が見えたから」


 そう言って笑う若菜は無邪気で、なんだか久しぶりに屈託のない笑顔を見た気がする。

 最近はずっと眉間に皺を寄せていて、疎影が近付いてもそっと離れてしまうから、もう嫌われたものと思っていたのに。


「どこに用事?」

「内膳所。でも、いつもの人がいないから」

「そっか。じゃあ、一緒に待ってあげる」


 にこっと笑って、若菜が一緒になって幹に背を預ける。久しぶりの距離の近さに、疎影は嬉しさ半分、気まずさ半分で視線を泳がせた。

 奴隷が奉公人に近付きすぎるのは、良くない。後で必ず痛い目に遭う。

 だが正直にそう告げて逃げていくのも良くない気がして、疎影は必死に話題を探した。

 そして、若菜の頬や足にある擦り傷に目が留まった。


「怪我、大丈夫?」

「ぜーんぜん! まだすっごく痛む。あの女、ほんと最低よね」


 ぷりぷりと、年相応に怒る。その口ぶりから、やはり母や他の者からも折檻などはされていないだろうことが窺えた。


(最低……そうなんだろうか)


 疎影が駆け付けた時、確かに桃漣は若菜に掴みかかっていたし、その頬を叩いていた。けれど若菜だって撫子色の髪がごっそり抜けるぐらい引っ張っていたし、足で押し返してもいた。

 華殿内での喧嘩は両成敗のはずなのに、懲罰を受けた桃漣の方が最低なのだろうか。

 桃漣の言い分では、若菜が突然つっかかってきて、仕事を邪魔したということだったのに。


「ね、疎影もそう思うでしょ?」

「……、うん」


 疎影は、曖昧に笑うしかできなかった。

 同意を求められることが、疎影は昔から何より苦手だった。

 罵倒されたり、否定されたりしても、耐えればいい。けれど同意するとなると、まるで良心を切り売りするような居心地の悪さを味わうからだ。

 心臓がぎゅっと縮む気がする。弱者でいるのは耐えられるが、悪者になる最後の一線は、怖くて越えられない。


「ねぇ、疎影」

「っ」


 若菜が、ぴたりと肩を寄せて疎影に凭れかかる。その温かさと重みは初めてではないはずなのに、疎影は何故か懐かしさよりも不安を覚えた。

 どきりと、心臓が高鳴る。

 だがそれに若菜が気付くことはなく、心配そうに続ける。


「疎影は、あいつに泣かされてない?」

「あいつって……桃漣のこと?」

「そう。あいつが来てから、何もかもがぐちゃぐちゃになっちゃったでしょ? 折角私が疎影と距離を取って守ってたのに、全部台無しにして」

「……そう、だったの?」


 意想外のことを言われ、疎影は瞠目した。

 若菜と疎影は立場が違うから、確かに離れていることで余計な諍いが減ることは事実だ。だがそれが、疎影を守っているつもりの行動だったとは。


「そうよ」


 と、若菜は自信満々で肯定した。


「だって疎影は奴隷でしょ? だから、私が守ってあげなきゃ」

「――――」


 ガツンと、金槌で頭を殴られたような衝撃だった。

 若菜とは物心つく前からともに育ち、何をするにも一緒で、守られることもあったが、疎影なりに守っているつもりもあった。

 疎影は、弱くても男の子だから。

 けれど、そんなことはどうでも良かったのだ。

 疎影の思考も、行動も、勇気も、何も意味がない。

 疎影が奴隷だから。

 そのたった一つの覆しようのない事実が、全てを無意味にする。


「…………、そっか」


 それしか、疎影は言えなかった。余計なお世話だと、喉元までせり上がった言葉は何とか呑み込んだ。

 けれど笑みは下手くそにぎこちなく、ありがとうとは口が裂けても言えなかった。


「だから疎影も、あんな女、早くいなくなった方がいいと思うでしょ?」


 若菜が、心なし頬を桃色に染めて疎影の瞳を覗き込む。その笑顔は記憶の中よりもはるかに大人びて女性らしくて、怖くて。

 疎影はやはり、曖昧に笑うしかできなかった。




       ◆




 鑾駕らんがが州府から戻ってくる時間が、ある時から僅かに遅くなり始めた。

 鴨跖の動きを監視し続けていたまがきは、その変化にすぐに気が付いた。


「動き出した……ってことは、生贄を見つけたのか」


 神体具ソーマを使うのならば、華殿ではなく州府にいる時だということは分かっていた。

 生贄を閉じ込めて置く場所は、既に幾つか目星をつけてある。小さな神体具と違い、生きている人ひとりならば見つけ出すのは容易だ。

 ここからは、時間との勝負になるだろう。


「壊れる前に、見つけないとな」


 ぽそりと呟く。

 どこか諦観の滲む独白は、早くも厳寒を匂わせる冬の乾いた空気に攫われ、誰にも届かず消える。




       ◆




 あの後、桃漣は両手を縛られたまま正房を出、傍らに建つ西耳房にしじぼうへと移された。

 東西の耳房は宝物庫として使われ、家君が認めた者しか出入りが許されない。桃漣がこの中に入るのは初めてだった。

 だが平民が一年は余裕で食べていける宝石や反物、陶物すえものがぎっしりと並ぶ棚が林立していても、それらを眺めて感心している余裕などはあるはずもなかった。


「ここです」


 家令の鶯宿に示されたのは、耳房の最奥に置かれた棚、その後ろに隠すように作られた小さな室だった。

 出入口はいかにも頑丈そうな鉄扉で、室内には天井近くに小窓が一つだけあったが、鉄格子が嵌っている。

 だが何より異様だったのは、狭い室の中を更に前後に区切るように鉄格子があったことだ。鉄格子にはまた扉があり、その向こうには布団と幾つかの壺がある。


「なに、ここ……牢獄?」


 奴隷商での記憶が蘇る。

 渡された着物も、鑑賞奴隷用の煌びやかなものから一転、薄い麻の小袖一枚であることもまた、桃漣に追い打ちをかけた。

 収まっていたはずの震えが、再び桃漣の膝を揺らす。


冴媛さえひめの室です」


 桃漣の怯えに、鶯宿が淡々と答える。

 月の女神である冴月媛命さつきひめのみことの名をもじったのだろう。隠語にしては皮肉なものだ。

 だが桃漣は、そんなことが聞きたかったわけではない。


「しばらくは、食事と一緒に膏薬も届けます」

「あっ」


 言い切るよりも先に、鶯宿に背を押され、鉄格子の向こうへと押し込まれた。意図的に作られた足元の段差に躓き、呆気なく布団の上に倒れ込む。

 その背後で、ガチャン、と重々しく錠が閉まる。それは、何度聞いても心が沈む、絶望の音だった。


(折角、逃げられたと思ったのに……)


 饐えた臭いのする畳の上で拳を握り締めながら、桃漣は何も変わらない現実に打ち震えた。

 背中の傷が開いて、全身が痛くて熱い。悔しくて憎らしくて、でも恐ろしくて心細くて、涙が後から後から零れた。

 それでも喚き出さずにいられたのは、両手でしっかりと握り締めた月石があったからだ。


「おかあ、さん……っ」


 懐かしくて冷たくて少し痛い月の石を握り締めて、嗚咽を呑み込む。布団を敷く力もなくて、桃漣はしばらく古くて固い畳の上でひたすらに涕泣した。

 泣くのにも力がいるのだと、こんな状態になって初めて知った。次第に呼吸もままならない程に疲れ切れて、事切れるように気絶した。

 そして目が覚めると、また何も変わらない現実にさめざめと泣くのを繰り返した。

 その間にも食事は差し入れられていたが、最初のうちは手を付ける気にもならなかった。

 盆には膏薬もあったが、一人では背中になど塗れるはずもない。

 それが何日続いたろうか。

 涙が枯れ始めた頃、やっと空腹を感じ始めた。胃が空っぽで、しくしくと痛む。

 何度目のものなのか、差し出された食事に目を向ける。白い粥だ。乾燥した実が何種類か入っているが、それだけだ。

 試しに口を付けてみたが、味は一つもしなかった。


「まず……」


 そんな日が、更に何日も続いた。

 小窓からは光が入るが、立地が北向きに加え木々の影が被り、日照時間はごく短い。加えて不規則に寝て起きてを繰り返していたせいで、今が何日目か見当もつかない。

 世界が進んでいるのか、現実か夢かも区別がつかない中、唯一の拠り所となったのは、やはり片時も離すことのない月石だった。

 夜な夜な光る月石を眺め、撫でるごとに、恐怖や絶望が薄れ、徐々に思考力も戻ってくる気がする。


 すると次には、背中の傷にどうにか薬を塗ろうと努力しようと思えた。身を捻る度に激痛が走ったが、塗らなければ治りは遅くなるだけだ。

 そうして、薬と食事に気を回して時を過ごせば、その次にやってくるのはやはり、呪いについてだった。


(呪いって……何が起こるんだろう)


 神体具ソーマの恐ろしさのこともあり、呪いと言われて理由もなく怖がっていたが、今のところ異変は感じていない。

 毎日苦しくなったり、怖いことが起きたりするのかと怯えていたが。


(大したことないのね)


 何も起こらないことが、桃漣に少しずつ平常心を取り戻させていた。

 最初は檻という存在そのものに怯えて思考停止していたが、黴と汚物の混じった饐えた匂いがすることと、底冷えする寒さに目を瞑れば、大して悪い場所ではない。

 ここにいれば、無駄に悪意をぶけつられることも、腹いせに否定されることも、出会い頭に暴力を振るわれることもない。気を張り詰めずに熟睡できるなど、何日ぶりだろうか。


 なにせここを訪れるのは、食事を運ぶ鶯宿一人きりだ。日に一度、いつも同じ粥で、会話は一切ない。

 家従も家扶も追い出したことから薄々分かっていたが、鴨跖は冴媛という存在を最低限の人間以外には隠しているのだろう。

 唯一の不満はその不味い粥だったが、それも最近は気にならなくなっていた。

 気が抜けているのか、感覚が鈍くなっているのか、何だか味がしないような気がするのだ。時折舌が痺れるようで、味覚も食感も大して分からない。

 だが、別にどうでもいい。

 重要なのは、一生このままなのか、ということだ。


(鶯宿を倒せば、逃げられるかしら)


 傷の手当てをし、食事を淡々と流し込めば、体感で一週間余が経過する頃には、体調も少しずつ回復し始めていた。もう少し待てば、鶯宿一人をどうにかすることくらいわけはない。

 問題は、鶯宿がこの鉄格子の鍵を持っているのを一度も見ていないことだ。

 代わりに開かれるのは、食事の盆を差し出すための足元に設けられた小さな取り出し口だけ。鍵は小さな掛金錠だが、さすがにこれは子供の姿になっても肩も通らない。

 残るは鶯宿を脅して出させることだが、恐らく鶯宿は鴨跖を裏切ったりはしないだろう。左手で脅しても、食事を貰えなくなるだけで終わる可能性が高い。


「力があれば、良かったのに……」


 終日ひねもす床に寝転がりながら、ちらもないことを願う。

 そんなことを、以前にも願ったような気がすると思いながら。




       ◆




 更に幾日かが過ぎ、傷も大分癒えてきたが、桃漣は何の行動も起こすことが出来なかった。


「っ……ぅえっ、ぉおぇ……ッ」


 度重なる吐き気に、室の隅にあった壺を抱えて嗚咽を繰り返す。

 最初は小さな違和感だった吐き気は、いつの間にか日に日に堪え切れない嘔吐となっていた。今では吐瀉物の溜まった壺から片時も手が放せない。


(呪いって、まさか、これ……?)


 これが呪いというのならば、ある意味拍子抜けとも言える。ただ嘔吐するだけのことに、何を生贄だ牢だと大袈裟なことをするのか。

 そう思ったのも、最初の二、三日だけだった。

 一日中吐き気が尽きないというのは、まともに生活できないことを意味していた。

 食事を摂取しても全て吐き戻してしまうから食べたくないし、食べないでいると胃液が込み上げて喉を焼く。胃を空にしておくと空腹を通り越してきりきりと痛み、立つことも眠ることもままならない。

 それで食事に口をつけるとまた吐き気が込み上げて、吐き続けると今度は頭が割れるように痛む。

 その繰り返し。


 強い吐き気を感じて五日も過ぎる頃には、桃漣は別人のようにげっそりと青白く痩せこけていた。

 唯一の心の拠り所である月石を握り締める気力もない。


(お母さん……)


 淡くか細く降り注ぐ月光が、擦り切れて黴臭い畳に転がる月石を包んで、溶けるように姿を隠す。

 いつかも、こんな風に月石を月光に溶かし込んでは眺めるのが好きだった気がする。けれど今は、瞼を開けているのも辛かった。

 少し吐き気が収まっても、頭痛と耳鳴りが止まない。畳に染み込んだ黴臭さが、今更に鼻につく。

 そして、止せばいいのに気付いてしまった。


(あぁ、そっか)


 畳と壺に染みついているのは、長年の吐瀉物と、成す術もなく腐敗した生き物の臭いだと。

 そして何もできなければ、そこに今度は桃漣のものが加わることになる。


(ここって……)


 牢ではなく、墓場だったのだと。


(結局、こんな所で死ぬしかないのかな……)


 死にたくないと思うことすら、気力が働かない。

 何もかもが重くて、薄闇に視界が霞む。

 そう、だから。


「――やぁっと見つけた。そこにいるね?」


 そんな声が聞こえた時、桃漣はついに幻聴が聞こえ始めたと自分に失望した。

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