第四十七話 欠月昏昏 漏いまだつきず

 下男たちに取り囲まれている時間は、どれ程だったのか。

 次に桃漣が正気付いた時、鴨跖の室の床に座らされていた。

 いつも通りの薄暗い室の中、眼前の長椅子には鴨跖が座り、その傍らには家令の鶯宿をはじめ、家務三職が揃っている。


「……ですから、私が呼ばれて駆け付けた時には桃漣が裸で座り込んでいて、下男たちはそれを遠巻きに見ていたというか」

「見ていただけで、誰も手は出さなかったというのか」

「はぁ、まぁ……その、下男たちが言うには」


 鴨跖の詰問に、家従の好文こうぶんが歯切れ悪く応える。

 室に下男が一人もいないところを見ると、やはり予定調和の話しか聞けなかったらしい。しかしどんなに不可解でも、家従にできる報告はそれしかない。

 鴨跖は、衣服を肩から羽織っただけの桃漣を注意深く観察しながら、深々と大きな溜息を吐き出した。


「火傷痕のことがあるからお主には手を出さずにおいたというに……これはどういう料簡だ?」


 まるで最大限の温情でもかけてやったかのような言い草に、桃漣は信じられず目を剥いた。

 有り余る金で道具を買うように人を買い、興味のない所では羽虫よりも無価値のように見向きもせず。桃漣が「島殺し」と呼ばれ虐げられても放置してきたくせに、一体どこに温情があったというのか。


 だがそれよりも受け入れがたいのは、華族のくせにあんな木っ端な奉公人たちの嘘にあっさりと騙されている点だった。

 普段は大陸を治める長命な華族という、人間を超越した存在として高慢に振る舞い、奴隷を囲い、下人たちなど存在しないかのような態度でいるくせに。


(なんで……華族のくせに、こんな馬鹿みたいな嘘も見抜ないの?)


 初めてここで平伏させられた時から脳裏に刷り込まれ続けていた恐怖心が、はらりと瓦解する。

 こんなものかと、胸中で呟いていた。

 露呈された底の浅さが、今まで桃漣を雁字搦めにしていた恐怖の虚像を少しずつ削り取っていく。打ちのめされて失っていたはずの感情が、まるで蟄虫萌蘇するがごとく、桃漣の中で再び蠢き出す。

 そして気付けば、吐き捨てるような呼気とともに言葉が漏れていた。


「……料簡?」


 あぁ、憎い。


「そんなもの、あるわけないじゃない」


 憎い。


「この私が、男に飢えてるって? 馬鹿じゃないの」


 目に映るもの何もかもが憎い。


「いつ私がここに来たいと言ったの? あんたたちの我欲と都合でここに閉じ込められているだけでしょ」


 ここには、自分たちの愚行を棚に上げ、嫌なことは全て桃漣はきだめにぶつけて満足する業突く張りしかいない。


「そんなことも忘れて、頭の悪い連中の言い分を信じて、良いように踊らされて」


 それを当たり前のように受け入れ、疑いもせずのうのうと平気に過ごしている。


「滑稽だわ。情けなくも奴隷に逃げる理由も分かろうというものね」


 鴨跖が奴隷を買い込むのも、優秀な故君せんだいへの劣等感や、妻からの冷眼傍観から逃げるためだと、皆知っている。

 華族でありながら連中の嘘さえ見抜けず、奴隷相手に威張り散らすしか能のない男。そんな奴にいつまでも怯え、遜り、あまつさえ有りもしない非を認めるど、絶対にしてやるものか。


(結局、どいつもこいつも同じ穴の狢に過ぎない)


 犠牲にした者たちの不幸を食い物にして、張りぼての幸福に溺れ続ける。

 そんな連中に、何故桃漣一人が耐え続けなければならないのか。

 そんな理不尽を、何故黙って甘受しなければならないのか。


「私は、絶対に逃げない」


 キッと顔を上げ、長椅子に坐す鴨跖を睨み上げる。

 そして蘇芳色の瞳を限界まで見開いて、渾身の力を込めて言い切った。


「私は、何一つ悪くない――!」


 その頬を、細く鋭利な葉が切り裂いた。

 青い小花が、蛇が威嚇するように桃漣の視界に首をもたげる。


「――良かろう」


 薄闇に揺らめく灯火をその暗い緑青ろくしょう色の双眸に反射させながら、鴨跖がうっそりと言った。


「お主の無罪を証明するために、その体、隅から隅まで調べ上げてやろう。破瓜はかが確認されればお主は死罪。なければ、お主に似合いの役目を与えてやる」

「……ッ」


 調べる、という単語に、ここに来てすぐ鶯宿にされた様々な屈辱が頭をよぎる。

 そうなってやっと、桃漣は根本的な事実を思い違いしていることを思い出した。


 この土壇場になって桃漣が気付いた現実は、間違ってはいないだろう。華族も人間も、その本質に大差はない。

 だが華族がただの人間と変わりがないと分かっても、桃漣が相対的に見て強くなったわけでは決してない。

 桃漣は左手以外に何の力も持たず、背中の傷は欠片も癒えてなくて、戦う力も逃げる力もない。

 周りは変わらず敵だらけで、操花術に対抗する術などなに一つない。

 現実は少しも変わらず、桃漣は憐れなほど弱いままだということを。




       ◆




 桃漣は力の限り抗ったが、鴨跖の花に再び押さえつけられ、あの日のように服を剥ぎ取られた。

 一糸纏わぬ姿のまま足を開かされ、一番若い家従に秘部を執拗に確認される。その間中、裂けるような痛みと羞恥で桃漣は泣きながら怒り狂った。

 背中の傷は開き、露草で拘束された腕や足のあちこちが赤く擦れて血が滲んで、床は瞬く間に血塗れになった。

 だというのに、桃漣は気絶することさえ出来なかった。散々に侮辱された鴨跖が、決して意識を手放すことを許さなかったのだ。

 やっと解放されたあとには無実が証明されたと言われたが、よくよく考えれば、桃漣が処女かどうかなど、今回のことを証明するのに何の役にも立たない。

 性交をしたかどうかで言えば、どちらも否定しているのだから。

 それでも行われたこの凶行とあの執拗さは、ひとえに桃漣を屈服させるためだけの時間だったといえた。


(最悪……)


 最悪を上回る最悪が、幾らでも現れて桃漣を苦しめる。


(それが、生きるってことなの……?)


 問いはけれど、どこにも向かわず虚しく消える。

 こんな時に、桃漣を庇い、守り、教え導いてくれるはずの家族が、どこにもいないから。


(……お母さん)


 母の優しい否定がほしいと、桃漣は涙を呑み込みながらささやかすぎることを願った。

 そんなことはないと、優しく抱き締めてほしい。

 だが、絶望も希望も、桃漣にはまだあまりに遠かった。


「アレを持ってこい」


 ぐったりと床に横たわる桃漣を嗜虐的に見下して、鴨跖が鶯宿に命じる。

 鶯宿は、家従に桃漣を拘束するよう指示してから、室を出た。

 家従は情けで剥ぎ取られた肌小袖をまた着せかけてくれたが、桃漣の顔を見ることは決してなかった。

 そうして両手足を縛られた頃、鶯宿は戻ってきた。上等な白金造りの透箱すきばこを両手で捧げ持っている。

 鴨跖が、家扶と家従を外に追い出した。

 広く無機質な室に、支配者と被支配者が残される。


「まずは確認だ」


 支配者が淡々と手先に命じる。捧げ持った透箱を開けた鶯宿が、恭しく鴨跖の眼前に中身を示す。

 鴨跖にしては珍しく丁寧な手つきで取り出されたのは、


(な、なに……?)


 見上げる桃漣には、理解しがたい物体だった。

 大きさは鴨跖の右手に収まるほどだが、その色はくすんだ赤紫で、所々脈打つように赤黒い筋が不規則に走っている。形は丸みを帯びた平たい三角形で、頂点は二つに割れて尖っている。反対の底辺には真鍮の飾りが施され、その先はまるで持ち手のように細くなっている。

 何で出来ているかも、何に使うかも分からない、金に物を言わせた悪趣味な作品。

 それを、鴨跖は無言で桃漣に差し向けた。


「……!?」


 その瞬間に全身を貫いたのは、明らかな悪寒だった。

 それも、命の危機を感じるほどの。


「これはグロサだ」


 本能的に後ずさる桃漣に、鴨跖が愉悦を滲ませて指教する。

 だが何を言っているのか、桃漣にはまるで理解できなかった。


「……は?」

高裏原ドゥアトに押し込まれたネオン神族の、世界中に散らばったとされる体の一部。そのひとつだ」


 それを神体具ソーマと呼ぶことを、桃漣は知らなかった。

 使えば術を越えた力を与える代わりに、使用者に呪いが降りかかる破滅の道具。神魔デュビィが探し求め、ネオン神族の手に渡れば高裏原から現世うつしよに舞い戻る力を取り戻すと言われている、神話の残滓。

 だがそんなことを知らずとも、その神体具が放つ禍々しいまでの神力は、桃漣を怯えさせるに十分だった。

 逃げなければ心身を損なうと、本能が告げている。


「いや……っ」


 舌という単語に、目の前の不気味な物体がもう舌としか認識できない。今にも動き出して自分の頬を舐め上げそうで、堪らなく気色悪い。

 鴨跖はそんな桃漣を嘲笑いながら、顔、首、胸、腕……と順々に近付けていく。その度に走る悪寒に桃漣は何度も逃げ出そうとしたが、手足が縛られているせいで少しも効果はない。


「やはり、反応はないか」


 やがて爪先まで終わると、鴨跖はそう独白して離れていった。神体具を木箱に戻す。

 だが桃漣は冷や汗が止まらなかった。呼吸まで荒く浅くなっている。


(何なの……っ? これが、こんな禍々しいものが、神様?)


 桃漣の体が万全であれば、一目散に逃げていた。もう二度と近付きたくない。

 そう願う一方で、まるでそれが呼び水となったように、いつかの具眼者の声が脳裏に蘇る。


『主がこの里の生き残りで、そして、女神の一人だからだ』


 女神。

 何の女神かも、新旧のどの神族かも分からない。実感など微塵もない。

 それでも、既にこの世にいないネオン神族の体の一部だけでここまでの圧迫感を覚えるのなら、女神の一人だという桃漣にも少しくらい人智を越えた力があってもいいではないか。


(本当に私が女神なら、目に映る全てを壊してやるのに)


 けれどそんな力はどこにもない。精々左手で足止めするくらいだ。まるで比肩しない。

 その仄暗い桃漣の思考にはまるで気付きもせず、鴨跖が再び桃漣に視線を寄越す。その手には、今度は絹の敷布が握られていた。


「ならば、やはりこちらだな」


 そう言いながら、再び桃漣に拳を近づける。

 ヒッと思わず悲鳴が漏れる。だが開かれた拳の中、絹の敷布に包まれていたものを見た瞬間、桃漣は時が止まったように魅入っていた。


「これ……」

月石げっせきだ」

「げっせき」


 鴨跖の答えに、桃漣が鸚鵡返しに呟く。

 その名前を知っていると、桃漣は打ち震えた。


(そう、月石……!)


 大陸列車に奪われたのはこの石だ。

 空に浮かぶ弓月ゆづきの欠片で、夜には同じ色に輝く、誰にも見せてはいけないと言われていた、大切な思い出があるはずの月の石。


「返して!」


 思考よりも先に飛び出していた。膝が浮き、次には背中から鶯宿に全体重をかけられる。


「ぅああぁあッ」


 激痛が背中から全身に伝播した。ひび割れた悲鳴が室中に響く。

 その体を、鴨跖が容赦なく蹴り飛ばした。


「ッ!?」

「儂のものを奪おうとは、何と下劣な」

「……ち、が……それ、は、」


 血の味がする唾に咽込みながら、必死に弁明する。

 だが言葉は最後まで言い切れなかった。


(私の石、じゃ、ない……?)


 鴨跖の掌中にある石の形は、記憶にあるものと異なっていた。

 角の形や厚みもそうだが、何より桃漣の月石は、握りしめすぎて角が丸く艶を帯びていた。


「いつまで経っても身の程を弁えぬ奴隷に、この貴重な石を触らせるのは実に業腹だが」


 蹴り飛ばした桃漣の左肩に足を乗せて、鴨跖が憎々しげに顔の皺を歪ませる。


「一度目にしたからには後には引けぬ」


 そう言って、一度は引いた月石を再び桃漣の前にちかつかせる。

 手首を縛られてはいるが、伸ばせば容易に触れられる距離だ。違うと分かっているのに、自然と手が伸びる。

 その様を存分に見下して、鴨跖は嗤った。


「受け取れ」

「え」


 差し出した両手に、月石がぽとりと落とされる。

 今まさに闇夜の中天に迫る弓月と同じ、白金色に輝くギザギザした月の欠片。見た目よりもずっと重くて、ひんやりと冷たくて、何より懐かしい。

 信じられないと思いながら、食い入るように鴨跖を見上げていた。


「く、くれるの?」


 それは、後から思い返せばまだまだ絶望の足りない、愚かで甘い考えだった。


「ハッ」


 鴨跖はまざまざと嘲笑った。


「くれてやるとも。この月石を通して、神体具の呪いをな」

「のろ、い……?」


 何のことか、桃漣にはまるで分からなかった。この清らかささえ感じる石に呪いなど、対極と言っていい。

 だというのに、本能がぞわりと恐怖した。

 目線が、知らず白金の透箱に向かう。


「安心しろ。ないそうだぞ?」

「…………ッ」


 にぃやりと鴨跖が嗤う。

 その時になってやっと、鴨跖の先程の言葉を思い出す。


『お主に似合いの役目を与えてやる』

(それって、まさか……)


 皮肉げな言葉が、それまでに散りばめられた言葉と混じりあって、桃漣に決定的な未来を思わせて心胆を寒からしめた。

 自らの足首に巻き付く重い重い足枷が、奴隷棟よりも更に深く昏い場所に繋がっている未来を。

 絶望には、いつだって果てがないということを。

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