第四十六話 日は幽篁に落ちて 瞑色来たる

 少女二人の取っ組み合いの喧嘩は、怒声を聞きつけた疎影と居合わせた下司の二人がかりで引き離された。

 仕事を放り出していたことと、奴隷が下女の娘に逆らったことで、桃漣はまた懲罰房に引っ立てられた。

 しかしそれを見ても、若菜の溜飲が下がることはなかった。

 西跨院の端にある湯屋で汚れを洗い流しても、湯屋の入口で仁王立ちして待っていた母に散々に叱られても、胸の内にあるのは言いようのない焦燥と怒りだった。

 理由は分かっている。


(どうして……どうして私じゃなく、あの女なのよ)


 二人を止めに駆け付けた疎影は、幼い頃から一緒に育った若菜ではなく、桃漣の手を取った。その顔の心配げな様子と、若菜を見向きもしない態度は、興奮していた若菜を一瞬で打ちのめした。


(私は、疎影のためを思ってやったのに!)


 悔しくて涙が出る。桃漣が来てから、何もかもが上手くいかない。

 疎影は、この広い華殿の中でも数少ない同年代の子供だった。

 他にも下司や下人の子供はいるが、四、五歳も年が離れれば既に働き始めていることも多く、共に遊ぶということは少なかった。その中でも疎影は、母親が産後の肥立ちが悪く最期まで寝たきりだったため、自然と一緒に育てられた。

 そのため物心ついてからも共に行動することが多く、すぐ泣く疎影を慰めるのはいつも若菜の役目だった。


 疎影は半花で、子供の頃は特に何かある度に泣いては花を咲かせていた。

 最初こそ驚いたけれど、泣きじゃくる疎影の花を摘むのは嫌いではなかった。淡い紫紅色が可愛らしい小花で、それを小さな花束にして貰ったこともある。


『受け取ってくれるの、嬉しい』


 そう、はにかむように眉尻を下げた疎影の表情を見て、若菜は思ったのだ。

 守らなければ、と。

 疎影は体格も平均より小柄で、口も達者ではなく、何をするにも周囲を窺い、びくびくしていた。

 子供たちの中でも特に鈍臭い方だったのに、五歳になる頃にはもう使い部をさせられていた。いつも下人から嫉妬や嫌悪を向けられ、主人の妾子だというのに誰からも冷たくあしらわれていた。

 中には、半花だからと笑いながら堆肥や汚水をかける者もいた。


『花には肥料やんなきゃな』


 疎影が何かしたわけではない。気の弱い疎影が、誰かに何かを言うはずもない。

 単に、行き場のない鬱憤の捌け口にされていただけのことだ。

 そして、しょっちゅう汚れて帰ってくる疎影を、可哀想とは言っても、誰も慰めたりはしなかった。下手に優しくして、自分まで標的にされたくはなかったからだ。

 それでも若菜が心配して近付こうとすると、怖い顔をした母に止められた。


『駄目よ。あの子は半花なんだから』

『どうして半花だとだめなの?』

『半花は、罪の子だから』


 それが疎影本人の罪や悪評でないことは、幼い若菜にも理解できた。

 それでもその響きはどことなく恐ろしくて、少しずつ疎遠になった。人前では疎影に近付かないように気を付け、話しかけられてもよそよそしく振舞った。

 次第に若菜も仕事を与えられるようになると、更に二人の距離は離れ、話すこともなくなっていった。


(そういえば)


 その頃から、疎影が泣くのを見ていないと、今更ながらに気付く。


「で、でも、それは仕方のないことだし……」

《その通りだ。君に非はない》


 突然、どこからともなく若菜の言葉を肯定する声が聞こえてきた。

 その声は、ここ数日聞こえ始めたものだった。

 声の主は見当たらないのにはっきりと聞こえる声に最初こそ怯えていたが、煩悶する若菜の心に寄り添い、そっと優しく後押しする声が敵であるはずもなく、疑問に思う気持ちはとっくに消えていた。


「……そう、そうよね?」


 背後から聞こえる声の主を探すように、若菜は視線を巡らせる。けれどやはり、あるのは建物や木々ばかり。誰もいない。

 それでも、声は返る。若菜を安心させるように、優しく。


《君はずっと君に出来ることをしていたよ。常に気にかけ、影ながら支えていた。そうだろう?》

「えぇ、その通りだわ。だって疎影は奴隷だし、みんなの前で仲良くしたら、大変だし」

《そうだよ。君まで標的にされかねない。そうなったら、父母が悲しむ》

「でしょ!? 私は間違ってないよね?」

《勿論だとも。間違っているのは、ただ一人》

「……桃漣」


 零れた己の言葉に、ふつふつと怒りが再燃する。

 そう、全ては桃漣だ。あの女が来てから、華殿は少しずつおかしくなっている。

 天青ばかりを寵愛していたはずの鴨跖が何の特徴もない桃漣を召すようになり、古い奴隷たちの間では不満が溜まり始めている。

 ただでさえ不気味で不吉で不満げな桃漣は、どの仕事場に行っても嫌がられていた。

 その上、疎影のように我慢することも知らず、所構わず暴れ回り、不和をばらまく。

 鴨跖に従う家令はそれを、まだ下々のいつもの諍いと見向きもしない。下司たちを束ねる家従も、くれぐれも騒ぎにならないようにというだけだ。

 誰も、桃漣を排除しようとしない。


「全部、あいつのせいなのに……」


 疎影がまた陰で虐められ始めているのも、母や他の女たちが苛々しているのも、若菜がこんな思いをするのも、全部桃漣が悪いのに。


《いなくなるように仕向けたらいいんじゃないか?》

「そうしたいけど、奴隷は家君様の所有物だから」

《でも他の全員も同じように願うなら、君の行為は正義で善行だ。何より、彼を救ってやれる》

「……!」


 それは言われてみればどこまでも当たり前で、けれど若菜だけでは辿り着けない答えだった。

 まるで蒙が啓いたように、踏みとどまっていた理由が消えていく。


「そう、よね……。本当は、みんなもあんな女、早く出ていってほしいに決まってるものね」

《ならあとは実行するだけだ。大丈夫、正義感溢れる君ならできる》

「でも、どうやったら……」

《それなら、ちょうどいい道具がある》

「道具?」


 若菜の問いに、声が嬉しそうに笑う気配がする。

 その気配がまるで企みが成功した子供のように無邪気で自信ありげで、若菜は根拠もなく成し遂げられるような気になっていた。




       ◆




 華殿内での喧嘩は御法度という理由で、桃漣はまた棒叩きの刑を三十回受けた。

 背中の皮は傷付いては再生を繰り返しすっかり固くなっていたが、それでもやはり叩かれた端から皮膚は裂け、血が滲んだ。

 それでも、若菜も同じ罰を受けると思えば、少しは耐えられた。

 はずだったのに。


「え? なんで……何であの子は何もされないの!?」


 膏薬と食事を持ってきてくれた疎影から聞いた若菜の様子に、桃漣は愕然とした。

 喧嘩が御法度というのなら、若菜もまた同じ処罰を受けていなければおかしいではないか。


「それは、熟実うむみ――若菜の母親が、その……」


 疎影は語尾を濁したが、結局若菜が大した処罰を受けていないことは明白だった。

 母親がどう言ったか知らないが、どうせ桃漣を全面的に悪役に仕立てて言い逃れをしたのだろう。


「……信じられない。何で……?」


 桃漣は、じくじくと痛む背中と熱に呆然としながら呟いた。喧嘩を吹っ掛けてきたのはあちらだというのに。


「それは、僕たちが奴隷だから」


 疎影は、仕方がないという風に眉尻を下げた。そんなもので納得できるはずがないと桃漣は荒ぶったが、懲罰房の外は更に厳しい状況になっていた。


「よくものこのこと戻ってこれたわね」


 懲罰房から戻ってきた夜。

 奴隷棟の入口で少女の桃漣を待ち構えていた奴隷たちは、予想以上に桃漣を敵視していた。

 だが痛みが完全に引く前に懲罰房を追い出され、まだ熱で朦朧とする桃漣にとっては、そんな態度に苛立つことさえ億劫だった。


「ここしか寝る場所がないんだから、仕方ないでしょ」


 おざなりに返して、さっさと奴隷たちの脇を抜けようと足を進める。その腕を、両脇から掴まれた。


「は? 何を……ッ」

「だったら、良い場所を紹介してあげるわよ」

「ここよりずっと快適で、家君様のへやよりも愉しいかもしれないわよ」


 訳の分からないことを言いながら、鬼族と獣族の女が桃漣を屋外に引きずって行く。

 いつもならこの程度は強引に振り切れるのに、痛みと身長差のせいでろくな抵抗もできなかった。放せと叫ぶだけでも背中が痛む。


「ちょっと……どこまで……!」

「ほら、連れてきたよ。これでいいんでしょ」

「あぁ。あんたらには何もしないよ。ちゃんと黙ってたらね」

「なに、を……」


 頭上で交わされるやり取りに怪訝に顔を上げて、気付く。

 奴隷二人が桃漣を引き渡したのは、数人の下女たちだった。洗水あらい所や掃部かもり所で何度か見たことがある。


「なんで、あんたらが……」


 嫌な予感がする。そしてそれは、目の前にあるのが下男棟だと気付いて、確信に変わった。

 そして同時に、下女たちの考えの浅さに鼻で嗤った。


「奴隷に手を出したら、処罰されるのは下男の方よ」


 どうせ、弱った桃漣を男どもに襲わせようというのだろう。そんなことは冗談でもさせないが、その事実に不利になるのは男どもの方だ。


(入った瞬間盛大に悲鳴を上げてやる)


 そう意気込む桃漣を見透かすように、今度は下女たちが開けっ広げに嘲笑った。


「今夜は下男棟の男全員が証人よ。『奴隷女が慰めてほしさに下男棟に乗り込んできた。自分から服を脱いだが、誰も相手にしなかった』ってね」

「――――」


 くすくす、くすくすと、下女たちが嗤う。悪意の塊のような笑みに、桃漣は頭がくらくらした。

 桃漣が懲罰房にいる間に、この女たちは愉しみながらこの計画を立てたのだ。

 奴隷たちには戻ったらすぐさま引き渡すように脅し、下男には日頃の憂さを晴らす手伝いをしてやるからと口裏を合わせさせる。

 奴隷に手を出せば厳罰だが、奴隷が主人以外の男を誘惑すれば、それもまた厳罰。逃亡に次ぐ重罪だから。

 そしてその時、真実を――桃漣に利になる証言をする者はいない。桃漣は泣訴するほどに嘘吐きと罵られ、追い込まれる。

 単純で幼稚な不正は、容易に成功するだろう。

 また、桃漣にだけ理不尽を押し付けて。


「なんで……」


 誰にともなく問う声が震える。

 最早、全身から抗う気力が失せていた。


「あんたが熟実と若菜を苦しめるからでしょ。奴隷の分際で下女わたしたちに逆らうなんて、あり得ないのよ」

「…………は……」


 いつもなら笑ってやるところだが、笑う気力すらなかった。

 つまりそれは、仲間を守るという大義名分を振りかざして、自分たちの立場を危うくする存在を先に排除したいだけだろう。欺瞞にも程がある。


「二人が味わった屈辱を、あんたも味わうといいわ」


 下女たちが、脱力した桃漣を下男棟の木戸の向こうに押し込む。弾みで両手と膝を擦りむく。だが痛いと思う暇もなかった。

 ひゅぅ、と下卑た口笛と男たちの笑い声が、桃漣の意識を奪う。


「おい、本当に餓鬼になってるぞ」

「色気も糞もねぇな」

「何でもいいから剥け剥け」

「服は破くなよ。辻褄が合わなくなるからな」


 嘲笑、興奮、冷淡、好色。幾つもの気持ち悪い色が混ざって、しゃがみ込んだ桃漣に降り注ぐ。

 嫌な汗が全身にぶわりと浮いた。

 顔をぎこちなく上げれば、下男たちが周囲をぐるりと隙なく取り囲んで、桃漣を見下ろしていた。

 新しい玩具でも見付けたように。


(……怖い)


 冷静な悪意に、鳥肌が止まらない。

 言いようのない恐怖と純粋な疑問が入り混じって、思考が停止しているようだった。

 何故桃漣だけが、こんなにも怖くて惨めな思いをしなければならないのか。

 桃漣が奴隷だからか。

 自分の身を守るために、立場も弁えず立ち向かったからか。

 桃漣に、守ってくれる両親がいないからか。


「なんで……この世は、どこまでも……」


 呆然と呟く桃漣の声など聞こえもしないように、男たちが桃漣の服を一枚ずつ奪っていく。その際に触れる手の荒々しさに、ごつごつと骨張った手の汚さに、怖気が走った。

 ろくな抵抗も出来ないまま、見る間にあられもない姿にされる。けれど、もう恐怖を感じる心も麻痺したように、何も感じなかった。


 ただ、どこまでも闇に堕ちていく感覚だけが残る。

 手をかけるところなどどこにもない、ぱっくりと口を開いた深淵に、桃漣の矮躯はどこまでも吸い込まれていく。

 底の見えない闇は、桃漣を待ち構えていたかのようにゆっくりと呑み込み、足先から順にその身も心も真っ暗な闇に染めていく。


 希望も、未来も、幸福も、そこには何もない。

 何もない。

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