第四十五話 相逢うて この心を慰む

「落ち着いた?」


 隣に腰を下ろした疎影が、優しく背を撫でてくれる。それは四つも五つも年上に見える女性にするにはちぐはぐな仕草だったが、桃漣にはどこか心地良かった。


(私、何歳なんだろう……)


 最近は大人ばかりに囲まれて、本当の自分がどちらなのか桃漣自身にも分からなくなり始めていた。

 けれど疎影といると、不思議と本来の年相応な自分になれているような気がする。


「ごめんなさい。あの、ありがとう」

「気にしないで」


 もごもごと小さな声で謝れば、疎影が鷹揚に笑う。

 意地悪も皮肉もなくこんな風に言ってくれれば、自分だって素直になれるのにと、埒もないことを想った。

 それはどこか懐かしさを覚える、泣きたくなるように優しい時間だった。


(ずっと、続けばいいのに)


 離れがたい思いはけれど、叶うはずもない。

 じき鴨跖が戻ってくる時間だったため、桃漣は名残惜しく思いながら疎影と別れた。


 だがその日以来、桃漣は時間を見ては疎影の顔を見に行くようになった。そして疎影もまた、できる限り桃漣が逃げるのに協力してくれた。

 それは、あの島で目覚めて以来、初めて接する優しさだった。


「また喧嘩したの?」

「違うわ。やられたからやり返しただけ」


 手を擦りむき、髪にも落ち葉をつけて現れた桃漣を、疎影が苦笑しながら出迎える。

 最初は西跨院のあの保管庫で会うことが多かった。だが西跨院にはあちこちに桃漣を目の敵にする連中がおり、隠れて手を振ったり挨拶したりするので精一杯だった。

 敵がいなくとも、奴隷の二人が会話をすれば、怠けていると言われるからだ。

 二人は自然と、目を盗んでは東跨院の庭園の片隅に逃げ込むようになった。


 東跨院は元々来客に見せつけることと、主人たちが憩うことの二つの主目的がある。だが今の家君夫妻は庭には興味がないようで、正院の涼亭あずまや以外の園はほぼ苑池所の独壇場だ。

 疎影はその立場からあちこちの下人にいいように使われている分、所属以外にもあちこちに出入りしているために知れたことだった。


「帰りにやられたの?」

「逃げきれたから平気よ。奴隷棟には下男は近寄れないから」


 奴隷は主人の所有物であり、その宿舎に男が近付くだけでも、邪な意図があると思われ処罰の対象になる。

 衣食住が保証されている上、潰れることもない華殿の仕事は、家業を継げない次男以下の平民にとっては恵まれた仕事だ。食い逸れることもなければ、箔も付く。

 好きでもない奴隷のために華族を敵に回して州に住めなくなる事態など、御免蒙りたいだろう。


「そうだけど……でも正房にいる間は、逃げ場がないだろ?」

「女たちは殺す気なんかさらさらないから、何されてって大したことないわ」


 最近では、正房で何か事が起きれば全て桃漣のせいにされていた。腹は立ったが、同じようにやり返せばいいことに気付けたのは僥倖だった。

 今では、侍女たちに任されている仕事に手違いや不足があるように見せかける小細工は誰より上手いという自負すらある。


「桃漣はすごいね。僕にはとても真似できないや」


 ふんと鼻を鳴らす桃漣に、疎影が関心するように眉尻を下げる。

 実際、鴨跖の妾子で半花である疎影の扱いは、お世辞にも良いとはいえないものだった。

 言葉を理解できるようになるとすぐに働かされ、あちこちで嫌な仕事を押し付けられた。

 十二歳になった今では、いつもいろんな仕事場の一番下の仕事を押し付けられては、一日中あちこちたらい回しにされている。

 男だから容赦なく手が出るし、奴隷だから誰にも逆らえない。逃げ場もなければ、誰も同情などしてくれない。

 生まれた時からこの場所しか知らないなど、憐れに過ぎた。


「疎影の方がすごいわ。こんな陰府みたいな場所で誰かに優しくできるなんて、信じられない」


 年が近いからか、疎影が下女の娘の若菜という少女に話しかけられているのを時々見かける。

 この前などは、手酷く殴られて腫れた頬から花を咲かせていた疎影にたかり、その花をねだっていた。花を摘むのは、裂傷のような痛みが走るというのに。


「優しい……かな。よく分からないや。あんまり深く考えすぎると花が咲いちゃうから、そうならないようにしてるだけなんだけど」


 困ったように疎影が笑う。

 思えば、疎影は初めて会った時から曖昧な笑い顔を貼り付けたようなところがあった。それも、疎影なりの処世術なのだろう。

 半花は感情が揺れると皮膚に花を咲かせるが、華族のような操花術は扱えない。しかも感情が花となって現れる分、平民にも気味悪がられ、肩身も狭い。

 安易に誰かに深入りすれば、半花の寿命を短くさせるだけだ。

 そんな疎影が、自分にだけはこんな風に接してくれる。


(疎影がいてくれるなら、こんな所でも、少しは頑張れる)


 小さな優越感は、桃漣の荒んだ胸の奥を少しだけくすぐったくさせた。




       ◆




 穏やかな日々はしかし、長くは続かなかった。


「疎影に近付かないで」


 東跨院で逢瀬を重ねるようになって一月ひとつきも経った頃、出し抜けにそう言われた。

 振り返れば、例の清女すましめの娘がいた。確か、名は若菜。


「……なに?」


 桃漣は、仁王立ちで威圧してくる若菜に低い声で問い返した。

 まだ日が高い時間であり、桃漣は疎影と同年代の若菜よりも頭二つ分は背丈がある。だというのに若菜は、少しも怯む様子もなく同じ文言を繰り返した。


「だから、疎影に無駄に近付かないでって言ってるの」


 その苛々した様子に、この手のことに経験のない桃漣でも、流石に察することができた。その上で、馬鹿らしいと思った。

 洗濯で汚れた水の入った木桶を足元に置き、腕を組んで応じる。


「疎影がそう望んだの?」

「そんなのどうでもいいでしょ。あんたは素直に目の前から消えてくれればいいの」


 その傲慢な口ぶりに、桃漣は思わずふんっと鼻で笑ってしまった。まるで桃漣が好きでこの華殿にいるような言い方ではないか。

 しかも疎影の行動についての要求だというのに、当の本人の意見はどうでもいいという。

 桃漣はそれ以上は会話をする気にもなれず、軽く手を振ると木桶を持ち直して踵を返した。

 だが若菜は、その先にしつこく回り込んできた。どんっと、わざわざ木桶を持った方の腕を押す。

 反応が遅れた桃漣は、むざむざ中身を地面にぶちまけてしまった。


「ちょっ……何するのよ!」


 汚水を建物同士を繋ぐ道に捨てるのは厳禁だ。また下人や下女たちに怒る理由を与えてしまう。

 だが若菜がその程度の怒号で怯むはずもなく、更に糾弾するために桃漣に真っ直ぐ人差し指を突きつけた。


「聞いたのよ。あんたが疎影を東跨院にわに連れ込んで誑かしてるって」

「はぁ?」


 あまりの偏見の入り方に、桃漣は怒るのも忘れて呆れてしまった。

 疎影と桃漣が時折東跨院に出入りしているのを見かけた者が皆無ではないことくらいは、二人とも承知している。だがその行動がそんな風に取られるとは、心外を通り越して感心すら覚える。


(人を嫌うって、際限がないのね)


 事ある毎に虐め、貶め、辱め、それでも足りないと更に攻撃する。

 そして質の悪いことに、自覚がない。


「疎影は確かに家君様の子供だけど、半花なのよ。奴隷なら奴隷らしく、家君様にだけ媚びを売ってなさいよ」

「私が好きで奴隷になったとでも思ってるの」


 根本が間違っていると、大いに呆れる。だが次の言葉に、桃漣の自制心は呆気なく瓦解した。


「自分の生まれ郷を滅ぼしたりするからでしょ。極悪人が何を言ってるの――ッ」

「私じゃないって言ってるでしょ!」


 ゴッ、とそのエラ骨の張った頬を殴り飛ばす。若菜が目を剥いて後ろにすっ転ぶ。そこからは取っ組み合いの喧嘩になった。

 女子供のやわな拳で、殴り殴られ、髪を引っ張り引き千切り、泥と汚水に塗れていがみ合う。


「あんたが悪いに決まってるでしょ! あんたがここに来たせいで華殿中みんな苛々してるのよ!」

「そんなの知るか!」

「疎影だって、あんたが来たせいで、また虐められだしたんだから!」

「はぁ!? なんの関係があるのよ!」

「どうせ時辰の島だって、あんたのせいで誰も住めなくなったのよ!」

「だから違うって、何度言えば……!」

「ここもきっとそうなる……! あんたがいなくならない限り!」


 とんだ被害妄想だ。

 桃漣は頭に血が昇って視界が真っ赤に染まったような気さえした。

 何の根拠もないくせに。何も知らないくせに!


「だったらさっさと逃がしてよ!」


 この数か月、ずっと押し殺してきた悲痛な叫びが堪らず迸っていた。


「ここから、この常夜とこよみたいに陰気で最低な場所から! 私を!」


 自分が来たことで不和が増えたかどうかなど、知ったことではない。嫌なら自由にしてくれればいい。

 それだけで、全ての問題は解決するのに。




       ◆




「ここにもない、か」


 下男に扮して周囲の目を盗みながら、粗方の建物を調べ終わっても、まがきが求めるものはどこにもなかった。

 耳房じぼうの宝物庫にもないとなれば、やはりあとは正房内の、家君の身近な場所になってくるだろう。そこまで入り込むのは、下男の格好ではさすがに難しい。


「せめて何の神体具ソーマか分かれば、探しようもあるんだけどな」


 籬はある目的のため、もう何年も世界中に散らばっているという神体具を探し続けていた。

 析木せきぼく州の華族が神体具を持っているという話は、最近神魔デュビィ死花屍マヴェットから聞いたことだ。

 そもそも神魔とは未練持つ幽魄ゆうはくを材料に、ネオン神族により生み出される使い魔の総称で、死花屍もそのうちの一つだ。肉体を持たない鬼魄ルアハとは逆に、死者の肉体に鬼魄を入れ込んだ歪な存在。

 その存在理由から、愉悦のためだけに人を惑わす神魔どもだが、一方で死花屍には高裏原ドゥアトに閉じ込められたネオン神族復活のためにその肉体を回収するという使命を持っていた。


 籬に神体具を探すという目的を与えたのもその死花屍で、奴は思い出したようにふらりと現れては、神体具の情報を小出しにしていった。

 時に偵察に、牽制に、或いは籬を囮に使って。

 利用されているということは、嫌になる程分かっている。

 そしてそれが、世界に仇なすに等しい悪行だということも。


(それでも、引き返すことなんかできない)


 何より、ネオン神族の体を高裏原に戻すということは、地上から神体具の禍がなくなることでもある。それは結果的には良いことのはずだ。

 籬は、自分が死んだ後にやってくるかもしれない災禍よりも、自分が生きている間の平和を選ぶと既に決めていた。

 だがそれは、決して真っ当な正義感などではない。


 神体具は、使えば必ず呪われる。

 ある者は心を壊され、ある者は体を操られ、ある者は血を吐いて死ぬ。

 だが呪いを移し替えるための道具と、呪いを代わりに受ける生贄さえあれば、使用者はその禍を逃れることができる。そして神体具を手に入れられる財ある者は、必ず生贄を立てる。


(ふざけるなっての)


 そんなことはあってはならない。身に余る力を望むのならば、身に余る結果も甘んじて受けるべきだ。

 その覚悟もない臆病者が、何の痛みもなく欲望を満たそうという卑怯者が、籬にはどうしても許せない。


「必ず、邪魔してやる」


 苦々しく吐き捨てると、籬は耳房を後にし、また新たな捜索場所を目指してひっそりと歩きだした。

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