第四十四話 涙 暗に零つ
日が過ぎるにつれ、あちこちで囁かれていた
そして。
「島殺し」
それが、桃漣の新たな名前となった。
最初に聞いた時、桃漣はまた懲りずに飛びかかった。
相手は下男で、やはり大人の時の桃漣よりも頭一つ分大きかったが、今度は最初から左手を使って相手の動きを弱め、脛を渾身の力で蹴り飛ばした。そして間髪を容れず、正房に一直線に逃げ込んだ。
正房ならば、下男はそう易々と入ることはできないからだ。
その後にはいつも通り、鴨跖が戻るのに合わせて衣装を替え身形を整え、鴨跖に見られながら日没を悶え苦しんで過ごした後、周りの目を盗んで西廂耳房に衣装を返しに行った。
本当は、その夜だけでも鴨跖の室でお召しを得て、脛を蹴り飛ばした下男からの仕返しをやり過ごすのが賢いやり方だったかもしれない。
だが鴨跖と天青の睦事を聞いていると吐き気が込み上げて、とても実行する気にはならなかった。
(別に……平気よ。木に隠れて進めば)
正房のある正院から西跨院へ行く門は、正房側の西小門の他、西廂耳房の裏側にある中小門がある。
中小門からだと、西跨院の中央に並ぶ奉公人たちの宿舎棟が近いのだ。
だがそんなことは、相手もお見通しだったらしい。
「あの
残照に浮かび上がる西跨院の木々の合間に、見覚えのある下男が苛々しながら辺りを歩き回っていた。どうやら門を見張っているらしい。
(馬鹿じゃないの。ちゃんと仕事しなさいよ)
どこの下男か知らないが、日没前に仕事が終わる部署など少ない。わざわざ上官に言い訳してあの場に何刻もいるのかと思うと、恐怖よりも滑稽さが勝った。
とはいえ、あの様子では草を踏んだ音にさえ反応して突進してきそうだ。
秋も深まった今は落ち葉も多い。しかも桃漣の目的地である奴隷棟は、男女で分かれている宿舎棟の一番奥にある。
どうにか逃げ込めたとしても、奴隷たちに売られればお終いだ。顔以外のあらゆる場所を散々に殴られるだろう。
(根競べ、になるのかしら)
やってられないと、桃漣は小さな体を更に小さくして門の影に座り込んだ。
先に仕掛けてきたのは向こうなのに、何故こちらがこんな我慢を強いられなければならないのか。
『でも、先に突っかかってきたのは榊だし』
不意に、不貞腐れたような幼稚な言い訳が脳裏に想起した。
その刹那に走った胸の痛みに、桃漣はハッと息を呑み、それから膝を抱えて涙を堪えた。
言いようのない後悔が、突然爆発したように胸を締め付ける。
(お母さん……)
曖昧な記憶の中に、確かなはずの母の存在を求める。
知らず、口が勝手に開く。
「……ご、め――」
「あぁ、こんな所にいた。
「っ?」
無意識に零していた言葉に被さるように響いたその声に、桃漣は慌てて白壁に身を寄せた。
一瞬仲間でも呼んだのかと思ったが、その声はまだ声変わり前の少年のものだった。力仕事のできない子供はよく使い走りにされるから、その類だろう。
「な、なんて言ってた?」
「なんてっていうか、佚民さんはどこだって」
「……くそ!」
男の焦った声に門からこっそり顔を出せば、男は慌てた顔をして修理所の方へと走って行くところだった。
(助かった)
ほっと安堵の息をつく。その視界の片隅に、使い走りの少年の姿が見えた。
一瞬、桃漣を見たような気もしたが。
(全く、いい迷惑だわ)
すっかりお尻が冷えてしまったと文句を言いながら、桃漣は堂々と奴隷棟への帰路についた。
◆
その翌日も、翌々日も、佚民に仕返しされることはなかった。
朝は誰もが忙しく、仕事場を離れることなどできないし、日中は正房の仕事を貰えばまず遭遇しない。綺麗な服を着ている間も手出しされない。
それを理解してから、桃漣の生活はぐんと快適になった。
無責任な陰口を言う連中には可能な限り仕返しをした。左手を向け、弱らせて一撃を見舞い、その隙に正房に逃げ込む。
この左手が一体何なのか、桃漣はまるで理解していなかった。だが生存本能が既に防衛機能として受け入れていた。
そして現に桃漣を守ってくれている。その一点だけで、もう疑念も恐怖もなかった。
左手を対象に向ければ、まるで力を奪うように相手の動きを鈍らせることができる。それで十分だ。
けれど鴨跖に知られればまた調べるだの何だと無駄に興味を引くだけだから、極力気付かれにくいようには気を付けた。
お陰で桃漣に近付くと異常を来すなどという噂が立ち、直接攻撃を仕掛けてくる者はぐんと減った。
その分噂が補強され、余計に気味悪がる者が増えたが、周りが静かになったから良しとした。
だがその完璧な仕組みも、半月もしないうちに今度は侍女たちに邪魔されるようになった。
「どこ行った、あの小娘!」
「今のうちに思い知らせてやる!」
今まで散々に桃漣に逃げられていた下男たちが、ここぞとばかりに集まってあちこち探している。
『ここは薄汚い犯罪者の逃げ場じゃないのよ』
正房に逃げ込もうとした途端、目前に立ち塞がった侍女たちの、あの薄ら笑いが何度も蘇ってまだ腹立たしい。
(あの女たち……!)
桃漣は西跨院の木々の間を逃げ回りながら、胸中で毒づいた。
もう二刻近く逃げ回っている。下男は五人にまで増えている。
そろそろ上役どもが文句を言っても良さそうだが、下司もまた桃漣を嫌っている。期待は出来ない。
「いねぇぞ!」
「向こう探せ!」
「ッ」
男たちの声が近付く。桃漣は身を縮こませながらまた次の隠れ場を探した。
(今飛び出したら、見つかる? でも……)
上がってきた息をどうにか整えながら思考を巡らす。隠れているのは太さのある幹の後ろで、奴らが近付いて回り込めばすぐに気付かれる。
(どうしよう……また左手で……)
左手は向けるだけで相手の動きを鈍くすることができる。だが二人以上だと、もう一人に回り込まれる可能性がある。
この弱点に気付かれたら終わりだ。次からは二人以上で襲われ、散々に痛めつけられる。
それに左手を多用しすぎると、その夜に悪夢を見る確率が上がることにも、最近気が付いた。痛くて辛くて苦しい、あらゆる苦痛を混ぜたような悪夢。
痛いのは、苦しいのは嫌だ。たとえそれがただの夢だとしても。
だがそう悩む間にも、男たちはこちらに近付いてきていた。
(蹲ってちゃ、負けるだけよ……!)
意を決して足に力を籠める。その手を取られた。
「!?」
「こっち」
そう言って桃漣を引っ張ったのは、疎影だった。
驚く桃漣の向こうの男たちに注意を払いながら、頭一つ分以上大きい桃漣を更に奥――大門のある南の方へと引っ張っていく。
そうして二人が忍び込んだのは、
「こんなところ……いいの?」
「ここは
薄暗い建物の中を見回す桃漣に、疎影が朗らかに答える。
その言葉の通り、埃舞う室内には真新しい鍬や鎌などの農具や、鉢や壺などの陶器類、何に使うか分からない鉤や棒、大小様々な箱類が所狭しと置かれていた。
どうやら先んじて取り寄せたものの、まだ使われない物の類のようだ。
「でも、ここじゃ逃げ場が……」
一時の隠れ場所にはいいかもしれないが、ここには空間を仕切るものもなく、少し目を凝らせばどの物陰に隠れても見つかってしまう程度の隙間しかない。
「ここに入って」
心配する桃漣に笑いかけて、疎影が足下の一際大きな木箱を指差す。両開きの扉付きで、担ぐための紐らしきものもついている。
確かに、人ひとり分くらいなら入れそうだ。
桃漣は言われるまま両膝を抱えて木箱に入る。どうやって閉めたものかと思っていると、疎影がその扉を塞ぎながらその前に立った。
華族の屋敷にある道具なだけあって、木箱には光が射し込む隙間すらなく、桃漣の視界は完全な闇に閉ざされた。
(暗い)
暗くて狭い場所は、苦手だ。鳥肌が立つほど恐ろしくて落ち着かない。無意識に右手をさする。
そこに、声がした。
「おい、こっちにあいつが来なかったか。島殺しの」
「えっと、奴隷の? さぁ、見てないけど」
「ちっ、使えねぇな」
下男の声に、疎影が空とぼけて応える。それだけで、下男はそこを離れたようだ。どしどしと無骨な足音がすぐに遠ざかる。
だが桃漣の心の臓はいつまでも早鐘を打って、収まることがなかった。
(やだ……こわい、怖い、こないで……!)
怖い男が、この扉の向こうにいる。少しでも息を漏らせば、嗅ぎ付けられて見つかってしまう。
そうなったら、そうなったら――。
「もう行ったよ」
「ッ」
声と共に光が射し込み、桃漣は反射的に身を縮こませる。その尋常でない様子に、疎影が慌てて屈み込んだ。
「だ、大丈夫? 顔が真っ青だ」
眩しい程の光が遮られ、疎影の顔が逆光に沈む。栗色の髪が赤く濁って、それがまるで、喪ってしまった少年に見えて。
「――榊!」
考えるよりも先に飛びついていた。
「えっ?」
驚いた疎影が、受け止めきれず尻餅をつく。倒れた疎影に、桃漣の大きな体が覆いかぶさって、二人の鼻先がぶつかりそうな程近付く。
栗色の瞳に、桃漣の泣きそうな顔が映っていた。
疎影よりも幾つも年嵩の、少女の面影などどこにもない、泣き黒子のあるきつい目付きをした大人の女が。
「あ……」
胸がざわつく。違う、と本能が告げる。
そこに、乱れた足音が踏み入った。
「いま――」
「「!?」」
ガッと音を立てて現れた男に、桃漣と疎影は互いにしがみ付きながら身構えた。
四角い光の中にいたのは、ひょろりと背の高い下男だった。下男が着る小袖に四幅袴を着ているが、見覚えはない。東跨院に宿舎のある苑池所の使い部だろうか。
どちらにしろ、桃漣を追いかけていた連中ではない、はずだ。
だというのに、男の視線が桃漣から離れていかない。否、離せないのは、その鳶色の瞳を凝視する桃漣の方か。
「あの、ここに入り用ですか」
先に我に返った疎影が、桃漣を背に隠すように男の前に立つ。男の視線が切られ、それから何かを探すように辺りを窺う。
「ここに、女の子がいた気がしたんだが……気のせいか」
自分でそう結論付けると、二人には一瞥もくれず保管庫を後にした。
その後には、もう誰の気配もしない。
「は……」
桃漣は知らず詰めていた息を吐きだした。
「大丈夫?」
疎影が心配そうに振り返る。
だが桃漣は、体中を包む冷えた汗に悪寒が止まらなくて、すぐには返事ができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます