第三章 反舌、声無し
第四十三話 歓声高き処 恨声高し
「また逆らったんだって?」
「頭が悪いにもほどがあるよ」
「記憶がないって、本当かしら」
「そんなのどっちでもいい……こっちに迷惑さえかけなきゃ」
日も落ち切った夜。
奴隷棟の一番端の
額に角を持つ者に、体に花を咲かせる者、獣の耳と尾を持つ者、肌に鱗のある者。
初めて見た時には驚いたが、もう慣れた。そしてその嫌味な口ぶりにも。
夜に奴隷棟に残っているということは、鴨跖のお召しがない――つまりは飽きられた者たちだ。
「結局、珍奇な者を集めてると言いながら、従順な女が良いのよ」
角持つ鬼族の女が言う。
「従順でない女が屈服する過程が好きなんでしょ」
「
頬や首、手の甲が鱗で覆われた女が吐き捨てる。
「あそこを出て、意識がはっきりする瞬間が一番最低……」
指先に咲いた花の花弁を一枚ずつ毟り取りながら、半花の女が嘆く。
奴隷たちは、いつもそうだ。天青にお召しがかかる度、ぐちぐちと文句を言い合う。
(……うるさい……)
昇っては沈む意識の中、桃漣は頭の中だけで耳を塞いだ。聞いているだけで気が滅入る。
棒叩きの傷も癒えないのに鴨跖たちに無体をされたせいで、体中が痛んでまだろくに動かせない。
幸いなのは、時折聞く価値のある情報も混ざっていることだった。
(馬酔木と、木犀草……)
最初は強めの馬酔木を飲ませ、抵抗できないように力を奪う。
一方で木犀草の甘い香りが抵抗感や苦痛を和らげ、弱らされていることに気付きにくくさせる。
その強さを徐々に変化させ、次第に鴨跖の御前では無意識に抵抗できなくなるように仕立て上げる。そういう仕組みらしい。
(何が予防薬よ)
鴨跖に仕える家令の言葉を疑いもせず信じた己が愚かだった。
だがそんな後悔など些事に成り下がるほど、事態は悪い方向へと歪んでいた。
◆
「ほら、あれが……」
「本当なら、大罪人じゃない」
「州軍とかにご注進した方がいいんじゃない?」
背中の痛みが少し引き、仕事を再開したその日。
奴隷棟を出てすぐ、桃漣を見る周囲の目付きが変わったことに気が付いた。
桃漣が行く先々で、奉公人たちが下司や下人の別なく声を潜めて囁き合う。その目は、まるで
(何なの……?)
今までも、新しい奴隷というだけで好奇と嫌悪の視線を向けられていたのだから、もう慣れた。
だが今感じる眼差しは、どこか畏怖と侮蔑さえ含まれているように感じられた。
まるで、桃漣が全ての人間の敵に回ったかのような、圧倒的隔絶。
その理由は、遠巻きにする連中にわざわざ聞かずともすぐ知れた。
「くれぐれも、ここで短気を起こすんじゃないよ」
押し付けられた洗い物を持って行った
桃漣は、身分の上下も考えず顔を顰めた。
「……は? 何のこと、ですか?」
「聞いたよ。あんた、あの
「…………は?」
「島で悪さをして、村八分にされて、それに腹を立てて
「な……」
藪から棒に向けられた言葉に、桃漣はすぐには反応できなかった。
時辰の島という言葉は、前にも聞いた。鴨跖の室で、天青が言っていた。それを桃漣が滅ぼしたから、奴隷となって逃げ出したのだと。
そんなこと、あるはずがない。
けれど何故か声が震えて、いつもの威勢が出てこなかった。
「ちが……私は、そんなことしな――」
「この前も、
「あ、あれは……っ」
「そんな短気で、これから先いくらも生きていけるもんかね。たかだか小さな不満くらい、ここじゃ堪えてほしいもんだよ」
「…………っ」
吐き捨てるように言って、鍋を奪って水仕女が奥に引っ込む。
その背に言いたいことが溢れて、けれど確信がどこにもなくて、桃漣はただ喘ぐように口をぱくぱくさせるしか出来なかった。
違うと叫べるほどの記憶がないもどかしさに、何も知らないのに好き勝手責め立てる連中に何も言い返せない。
そしてそんなようなことが、連日、行く先々で続いた。
「お前、本当は二百歳だって話、どうなんだよ」
「お前を怒らせると人が死ぬんだって?」
「睨むだけで殺せるって下女が言ってたぞ」
「見るな、気持ちわりぃ!」
根拠のない中傷、悪意をぶつけたいだけの侮蔑、存在そのものの否定。下司の子供などからは、顔を見ただけで石や砂を投げられた。
そしてそれは、時が経つほどに興味本位の噂話と混ざりあって、取り留めがなくなっていった。
小さな事実は偏見と好奇心によって勝手に肥大化し、噂は憶測と色眼鏡によって雪だるま式に歪み、誰の手にも負えなくなる。
そして気付けば、謎の多い四大陸――空に浮かぶ
その一つが解明されるかもしれないという、当事者も加害者もない、好奇心の暴力と化していた。
「時辰の島は随分酷い研究をしてたって話じゃないか」
「死なない兵士を作ってたって話だろ」
「死んでも戦う兵士ってやつじゃなかったか?」
「そんなの、もう
「それを知った具眼者が怒って島民を全員殺して回ったんだろ」
「違うよ。あの奴隷がその危ない研究をしていて、具眼者にばれたから島民ごと島を潰したんだろ」
専門家が調べたわけでもない、ただ好き勝手に妄想を膨らませる流言には勿論腹が立った。
それでも、自分のことを言われているうちは我慢できた。
だが。
「あんな小娘一人でそんな大それた研究なんかできるかよ。島の人間全員共犯だろ。神魔の手先に成り下がって」
笑ってそう話していた下司たちとすれ違った時、桃漣は無言で殴りかかっていた。
三人とも力仕事を任される屈強な男たちではあったが、そのうち二人の顎と腹に一発ずつ拳を入れた。だができたのはそこまでで、その後は三人目に取り押さえられて殴り返された。
咄嗟に左手を向けて力が緩んだところを逃げ出そうとしたが、結局騒ぎを聞きつけた家従が来るまで逃げては捕まるを繰り返して終わった。
「来て一月も経たない間に二度も折檻を受ける奴は初めてだ」
上官である家令や家扶と、部下である下司以下との円満な橋渡し役を任されている家従でさえも、頑なに謝罪しない桃漣に呆れ切っていた。
「ここが華殿で、お前が奴隷じゃなければ、強姦された挙句捨てられて野垂れ死んでたぞ。家君様に感謝するんだな」
恩着せがましく言われたが、その後再び三十回の棒叩きを受けることになった。
桃漣は悔しくて涙が出た。
その夜。
「薬、塗るよ」
「っ……」
気絶していた桃漣は、背中に走るびりびりとした激痛で目を覚ました。体はまた十一歳ほどの子供に戻っている。
四方を石で囲まれた中に藁を敷いただけの懲罰房は底冷えして、秋口の今時分では傷と寒さのどちらで感覚がないのか分からない。
(誰……?)
桃漣は、張り付いたように重い瞼をどうにか持ち上げた。灯火のない懲罰房に、篝火の明かりがぼんやりと満ちている。
「あ、目が覚めた? あと、止血布を巻いたら終わりだから」
そう声を上げたのは、今の桃漣と同じか少し年嵩の少年だった。傍らには膏薬と食事の乗った盆がある。
(だれ、だっけ)
見覚えはある。
栗色の髪と瞳をした、少し目尻の下がった柔和な表情。うろ覚えだが、前回薬を渡してくれたのもこの少年だったはずだ。
確か亡母が奴隷で、そのままここで奴隷として使われているのだと聞いた。
父親は、鴨跖。つまり半花だ。
名前は何だったか、と朧な意識で思考を巡らせていると、目が合った。
「
布を巻き終わった少年が、桃漣の物問いたげな視線に気付いてわずかに微笑む。
それは、少し前であれば単に安心を与える程度の、或いはただの社交的仕草だと、気にも留めなかっただろう。
けれど今は、皮肉としか捉えることができなくなっていた。
(笑顔、なんて……大嫌い)
誰かが助けてくれるかもしれない。
誰かは分かってくれるかもしれない。
そんな漠然とした当たり前の希望は、あの島から逃げ出した瞬間から擦り減り続け、最早どこにもなかった。
具眼者も奴隷商も鴨跖も、出会う者はどいつもこいつも桃漣を値踏みし、命を秤にかけ、奪うことしか考えていない。
痛みがじくじくと桃漣を苛めば苛むほど、桃漣の疑心暗鬼も人間不信も悪化していた。
「……憐れんでるの」
浅く短い呼吸の合間に、桃漣は精一杯の力で少年を睨みつけた。
今の華殿に、桃漣の噂を知らない者がいるとは思えない。その上で優しくするなど、自分よりも劣る存在が現れ、優越感でも味わっているとしか思えなかった。
男の奴隷ともなれば、寵愛や優遇などをされることもなければ、下人のように自分の意思で離れることもできはしないのだから。
案の定、少年は苦笑しながらも否定はしなかった。
「もう少し、上手く立ち回ればいいのになとは、思ってるかな」
「余計なお世話よ」
どこか小馬鹿にするような響きを感じ、ぴしゃりと言い返す。痛みのせいで、少しも覇気はなかったけれど。
「仕事だからね」
そう言いながら、疎影が目の前に粥の入った椀を置く。その表情はやはり柔和で、桃漣を更に貶めようとしているようには見えない。
少なくとも、粥や薬を運ぶだけ運んで放置したりはしなかった。懲罰房の中のことなど、誰にも分かりはしないのに。
あまつさえ食事を口にまで運んでくれようという行為に、桃漣は優しさ以外の損得勘定を思い付くことが出来なかった
(仕事、だから……?)
ずっと構えていた気持ちが、僅かに解れる。
その隙をつくように、ずっと燻っていた感傷が口をついて零れていた。
「……怖くないの」
「? 何が?」
「……私の、ことが」
声に出してすぐ、桃漣は後悔した。
奴隷に落とされて、狭い世界に囲われて、折檻を受けても一切やり返せない、夜には子供になる女の、一体どこに恐れる要素があるというのか。
(……馬鹿みたい)
桃漣が本当に恐れるに値する存在ならば、こんな薄暗い藁の上で惨めに打ちひしがれてなどいない。
それを察したように、疎影が笑った。
「君の? どこが怖いの?」
「それは……だから、島を滅ぼしたって、噂とか……」
「滅ぼしたの?」
「違う!……ッ」
直截に問われ、桃漣は言下に叫んでいた。思わず両手に力が入り、背中全体にびりびりと激痛が走る。
「ごめん、興奮させちゃダメだったね」
生理的な涙が滲む桃漣の目尻を、疎影が慌てて余った布で拭う。
それは仕事のうちではないだろうと思ったけれど、桃漣はもう喋る気力もなかった。
疎影が何事か話しているようだったが、また意識が朦朧として、次第に聞き取れなくなる。
そうして、桃漣はまた気を失った。
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