第四十二話 深淵に臨むがごとく
「六回」
「ゥッ」
「七回」
「ぐゥッ」
「八回」
「アァッ」
釈明は一切聞き入れられることなく始まった鞭打ちに、桃漣は絶対に声など上げるものかと口を引き結んでいた。
けれど無理やり曝け出された背中を打つ良くしなる細い棒は、たった一度で桃漣の白い肌に真っ赤な線を刻み、三度目には血が滲むように肌が裂けていた。
(これを、三十、回……)
淡々と数字が増えていくにつれ、桃漣の意識は徐々に霞むように途切れ始めた。
逃亡した奴隷が死罪になるとは、最低な記憶と共に既に承知している。
けれど桃漣は華殿の外に出たわけではないし、身一つで、金目の物を隠し持っていたわけでも、盗んだりもしていない。
未遂ということと、華殿に来て日も浅いことから、死刑ではなく、棒叩き三十回と、三日間の食事抜きとなった。
『違う! 逃げようなんてしてない! ただ……意識がふらふらして、気付けばこっちに来てただけなの!』
桃漣は何度も説明した。けれど誰も、桃漣の言葉など聞いてはくれなかった。
「十七回」
「ァアッ」
「十八回」
「アァア!」
「十九回」
「ッ……!」
苦鳴と記憶があったのは、そこまでだった。そこから先は、死体が反射で動くような、意味のない作業だった。
そこから丸一日、桃漣は気絶していた。
目が覚めたのは二日目の夕方で、背中が焼けているかのような激痛が走り、最初は何度も気絶しかけた。
夜には水とともに膏薬が差し出されたが、自分では塗れないのだから意味はない。
結局そこから発熱して、一晩中どころか三日目のほとんどを熱にうなされるように過ごした。
食事など、あっても食べられるものではないことなど、知りたくもなかった。
「逃げようとしたようだな?」
「……違います」
まだ背中の痛みが少しも引かないうちからの鴨跖のお召しに、桃漣は脂汗を我慢しながら正房の床に正座していた。
許しが出ていないので、先程からずっと額が床につくほどに頭を下げている。
伸び切った背中がじくじくと痛い。また内着に血が染みてしまうだろう。
「ではなぜ英華門に近付いた」
「だからっ、……」
思わず顔を上げれば、鴨跖の目が細められた。桃漣は奥歯に力を入れながら、何度も説明した言葉を再び繰り返す。
「記憶が、少しだけ戻ったんです。それで、頭がごちゃごちゃして、とにかく走って……気付いたら門があったっていうだけです」
「では、その首飾りについて思い出したか」
「え……? それは……」
首元を指差され、桃漣は困惑しながら首を横に振った。
そういえば、鴨跖が桃漣を買ったのはこの首飾りがきっかけだった。
桃漣もこの首飾りは唯一の
その考えが、滲み出ていたのか。
「では、貢上せよ」
「……は?」
冷たくそう言われても、すぐには何のことか分からなかった。
長椅子に寝そべっていた鴨跖がおもむろに立ち上がり、土下座したままの桃漣の首に手をかける。
何を、と思う前に革紐がぶつりと引き千切られた。
「!? 返して!」
「思い出す努力をしないのならば、持たせておいても意味はなかろう」
「私の首飾りよ!」
「奴隷に所有物などというものはない」
「…………!」
堪らず立ち上がった桃漣の体を、再び露草が床に縫い付ける。それを、柔らかな笑声が嘲った。
「新入りはいまだ己の立場が分かっていないのですね」
「っ」
声のした方をキッと睨み上げる。長椅子の肘掛けに腰を下ろした女が、嫣然と桃漣を見下ろしていた。
鴨跖が、長椅子に戻るなり女の顎をねっとりとした手付きで撫ぜる。
「やはり、
その賛辞に当然とばかりに目を細めるのは、桃漣と同じ奴隷の女だ。
獣族の中でも鳥の特徴を持つ彼女は両腕や背中に羽毛があり、四操術の中でも
「当然ですわ、家君様。
自慢の羽毛を見せるように着物を着崩している天青は、鴨跖の手を嫌がるどころか、その太腿に艶めかしく手を置き返す。
そのやり取りがいつ見ても気持ち悪くて嫌なのに、そこから漂うむっとした甘い香りに、桃漣はもう頭がくらくらして、まともに思考が働かなかった。
(いつもそうだ……)
ここに来るといつもこの独特な香が焚かれ、長時間いると力が抜けるような、感覚が鈍るような感じがする。入室前にはいつもあの不味い薬膳茶を飲んでいるのに、少しも効いている気がしない。
唯一の救いは、日没時の体が縮まる痛みまで鈍く感じられることだろう。筋肉痛と風邪の発熱を合わせたぐらいの脱力感で済んでいる。
「っ……は、ぁ……」
「ほぉんと、いつ見ても可愛らしいこと」
床に身を投げ出して苦しむ桃漣を、天青がいつものように笑う。
天青は最初の数日こそいなかったが、最近はいつも鴨跖とともにいて変貌する桃漣を見下していた。奴隷の中でも特別寵愛され、最も多く夜伽に呼ばれているからだ。
「お主はどう見る」
「呪いにしか見えませんわぁ。
「そう思うか。子供になる呪いなど、腕か、髪か……やはり、一度神体具の有無を調べねばならんな」
天青の答えに、鴨跖がふむと顎を撫でる。
桃漣は神体具が一体何なのかも、何をどう調べるのかも分からず不安になったが、続いた天青の言葉に全てが吹き飛んだ。
「案外、生まれ郷でも滅ぼして、その罪で奴隷に落とされたのかもしれませんわね」
「――――」
カッと蘇芳色の目を見開き、全身に絡みつく露草を引き千切って天青めがけて投げつける。
「なっ」
天青が羽根を震わせて立ち上がる。その目の前で露草が一気に伸び上がって再び桃漣に巻き付き、その細い首を締め上げた。
「っぅ……!」
「とんだじゃじゃ馬だな」
鴨跖が深々と嘆息する。その前をつかつかと横切って、天青が幼くなった桃漣の頬を全力で張り飛ばした。
「ッ」
「乳臭い
言いながら、更にバチンッと桃漣の頬を叩く。
「聞いたわよ。その首飾り、
バチンッ。
「時辰の島といえば、十二大陸の中でも人の手によって滅ぼされた可能性のある島というじゃない」
バチンッ。
「あんたがあの島を滅ぼしたんじゃないの? その神体具を使って。だったら相当な極悪人ね」
「わ、私は、そんなことしない……!」
頬を殴られる一瞬の合間に、桃漣が消えない怒りに任せて掠れ声を上げる。
その根拠のない反駁を、天青はせせら笑った。
「だったらなんで奴隷の焼き印なんて付けられたのかしら。郷を失いでもしなきゃ、今の世じゃ捕虜にも人攫いにも滅多に遭わないのよ」
バチンッとまた天青が頬を張る。弾みで草の茎が締まり、いよいよ息ができなくなる。
「わたし、は……っ」
声に出来たのはしかしそこまでで、その先は意識が霞み、ただただ深い沼に足を取られるように答えのない記憶の底に沈むだけだった。
目の前で斬りつけられた榊。
飛び散る血と苦鳴。
愕然と瞠目した鳶色の瞳。
けれど、その刃の先が分からない。
その刃を握っていたのは――あの少年を斬りつけたのは、誰か。
(思い、出せない……)
誰かがいた。それは確かだ。
そして、桃漣もまたその場にいた。
それもまた、確かなことで。
(わたし、なの……?)
薄っすら赤く充血した鳶色の瞳が、鮮明に思い出せない涙の色が、少女を責める。
思い出せない記憶が、知らない映像が、忘れているはずの感情を呼び起こす。
(私、が、榊を……殺した――?)
消えた過去に置き去りにしたはずの罪悪感に溺れながら、桃漣は意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます