第四十一話 帰らんと欲するも 道よる無し
奴隷を含む下司や下人の主な活動空間は、大門から満月門までの外院や、奥院から壁を隔てて東西に隣接する
その中でも、特に生活に関わる食事や掃除、灯火や修理などの作業のほとんどは西跨院で行われ、彼らが起居する棟もこちらにある。
奴隷の棟はその中でも正房から最も遠い日当たりの悪い場所にあるが、それでも仕事となれば下人よりも正房に出入りすることが多かった。
主人である家君の世話をするのは男では下司、女では侍女となるが、奴隷はその侍女に混じって家君である鴨跖の起床から就寝までの身の回りの世話、特に主人に顔を見せる機会の多い仕事が割り当てられた。
そのため、給仕や着替えなど、主人の手に触れる者は特にその身嗜みに気を使い、常に美しく着飾ることが求められた。
そのため、奴隷たちは常に日の出よりも早く起床し、質素な食事を済ませると、まず家務三職の暮らす
それぞれの場所の長官である下司でさえも、皆一様の小袖や
桃漣が与えられた仕事は、鴨跖の荷物持ちをする供だった。とは言っても勿論この広くも狭い華殿の内側だけの話であり、捧げ持つのもほとんどが美しく艶出しされた盆の上に載るものばかりだ。桃漣の知る仕事とはまるで違う。
観賞用。
それが奴隷の仕事の本質だった。
秋口の今からは水仕事が辛い
だが桃漣にとっては、鴨跖の視線がいつまでも恐ろしかった。近寄ると微かに匂う香はどこか思考力を奪うように甘く、慣れない桃漣には時に吐き気を催す程苦痛だった。
それでも、朝はまだいい。食事が終わって大門まで見送れば、その後の仕事は他の下人と同じ雑用だ。
苦痛なのは、州府から帰ってくる昼過ぎだ。
着替えて軽食を摂り、華殿での雑務を済まし、午睡を取る。その時に添い寝を命じられるのは、お気に入りか新入りのどちらか。
そして今は、桃漣の番だった。
「お主、思うままに姿を変えることはできぬのか」
箱型の寝台に横たわりながら、鴨跖が問う。
桃漣は西跨院の奴隷棟とは比べ物にならない柔らかな寝台の端でかちこちに体を固めながら、恐る恐る首を横に振った。
「でき、ません」
「呪いの類か」
「え……」
思わぬ言葉を返され、桃漣は瞠目した。
(それって……やっぱり、私は誰かに呪われるほど悪いことをしたってこと?)
奴隷商の檻の中で求め続けた答えが突然目の前に現れたようで、思考が纏まらない。
だが鴨跖は、その反応こそが愉快とでも言うように笑って続けた。
「
「し、知りません……」
「記憶がないのも、或いは悪徳の報いか」
「っ」
顔を蒼くする桃漣を、鴨跖は面白がるように一通り眺める。飽きると寝台から追い出す。
そして日没が近付くと再び呼び出され、体が縮むさまを観察された。
桃漣の苦悶を。
火照る体から滲む汗を。
体が縮んだ後には、体に余る着物の隙間から見える柔肌を。
まるで娯楽のように眺める。
桃漣は最後には、持て余した大人用の服を慌てて掻き合わせ、腰位置にあった長裙を疲労困憊になりながら胸高で結び直す。
するとやっと、「下がれ」の声がかかるのだ。まるで、見せ物は終いとでも言うように。
そうして這う這うの体で叩頭してから正房を出れば、桃漣の一日は終わる。
そこからは一足早く棟に戻ってよいと許しを得ていたが、周囲から突き刺さる視線は酷く居心地が悪かった。
「もう帰るのか。これだから奴隷は」
「奴隷はいいよな。媚びを売るだけで飯が食えるんだから」
「随分お疲れなご様子で。全く嫌味ったらしいったらない」
西小門を潜って西跨院に帰り、
下司には足を引っかけられたり着物を破られたし、下人には石を投げられたり、掃除の残り水をかけられたこともある。酷い時には、それが糞尿だったりする。
最初は顔だけは避けられていた気もするが、それもほんの数日だけだった。
そしてそれは、州司の仕事中である日中にも及び始めた。
「邪魔」
「ッ」
正房の柱を水拭きしていると、突然バチンッと容赦なく頬を張り飛ばされた。桃漣が侍女の行く手を塞いだというのが理由だった。
(ここの廊下、私の室よりも広いのに)
桃漣を叩いた侍女が消えるまで床に跪きながら、心の中で反駁する。
鴨跖が不在の間は、奴隷の仕事は下人の更に下となる。誰もが嫌がる汚れ仕事を押し付けられ、重い物を運び、冷たい水で隅々まで拭き上げる。
その度に、通りがかる者が口で手で、邪魔をする。こんな理不尽が四六時中付きまとう。
しかもその中には、同じ奴隷棟で寝起きする奴隷たちも含まれていた。
「子供に変わるだけなんて、能がないも同じじゃない」
「大して美しくもない子供なんて、いるだけ邪魔よ」
右手の甲に同じ「
考えてみれば道理だ。
主人の蒐集品といえど、その寵には軽重も順序もあるだろう。そして興味が失われれば傍に侍るだけの楽な仕事はなくなり、下人にこき使われ、憂さ晴らしされる最下級の仕事が残るだけだ。
しかも彼らと違い金銭を得ることも、逃げ出すこともできない。惨めな生涯だけが残る。
奴隷の自覚があるからこそ、誰もがそうならないために他者を蹴落としたいのだろう。仲間意識など微塵もない。
(なんで……何で、どいつもこいつも……!)
いまだ思い出せない過去の自分が、こんな仕打ちを受けるほどの悪さをしたのかもしれないという恐怖は、まだ消えてはいない。
だが少なくとも
その確信が、桃漣の中で消えかけていた勝気な性格を徐々に呼び起こしていた。
それでも、自分の素性が思い出せないままでは、華殿を抜け出せたとしても行く当ても何もない。右手の焼き印を隠せなければ、きっとまた人買いに掴まって終わりだ。
次に売られるところは、恐らくここよりももっと劣悪な環境だろう。それくらいの現実は見えている。
(だから、我慢する。……我慢できる)
けれど。
「
洗水所で、饐えた匂いをやっと洗い落とした白磁の壺を壮年の
「やっと? もう少し早くしてくれる? まだ他にもあるんだから」
「……はい」
感謝どころか嫌味をぶつけられ、頷く前に新たな汚れ物を押し付けられた。煤で真っ黒に汚れた雑巾の山だ。抱えるだけで服が黒くくすんでいく。
終わらない仕事と嫌がらせに、どんどん心が摩耗する。
その傍らを、十一、二歳程の子供が駆け抜けていった。
「お母さん、終わったよ!」
弾けるような笑顔で、少女が清女に抱き着く。途端、先程までの不機嫌そうな顔は嘘のように吹き飛び、清女は満面の笑みで少女の頭を撫ぜた。
「早いわね。お母さんの方はもう少しかかるから、先に戻っていていいわよ」
「手伝う!」
「あら、嬉しい。じゃあ、お願いしようかしらね」
下人と違い、下司には家族で働いている者もいる。華殿が閉ざされた空間であるということもあり、下司同士の婚姻は暗黙のうちに推奨されているらしかった。華殿で生まれて、そのまま下司になった者も多いという。
その話を聞いた時、桃漣は怖気が走った。
(信じられない)
こんな最果ての
下人も下司も自由に外出はできなくとも、賃金を貰い、願い出れば
最下層ではない彼らにとっては、衣食住が保証されているここは楽園にでも見えるのだろうか。
桃漣にはまるで理解できない。
だが一番信じられないのは、彼らを見て、羨ましい、と思う自分がいることだった。
(なんで……何でなのよ)
時折目にする母子に、胸が掻き毟られるような苛立ちを感じる。その一方で、絶望的な無力感が押し寄せてきてどうしようもない。
最初は、理由も分からなかった。ただ胸が痛くて、腹が立って、悲しくて、すぐに目を逸らした。それでも聞こえてくる笑い声に、勝手に涙が出た。
それを何度も繰り返して、次第に思い知った。
彼らが当たり前のように笑い合っているのに、自分にはそれが永遠に得られないと、知らず感じているから苦しいのだと。
それからは苛立ちとともに、行方知れずの記憶にまで八つ当たりした。
何故自分は独りなのか。
何故独りで逃げなければらなかったのか。
何故そばに、彼らのような人がいないのか。
何故――。
「若菜が手伝ってくれるから、お母さんとっても助かるわ」
「ほんと?」
汚れ物を抱きしめてふらふらと歩き出した桃漣の背中で、母子が和やかに会話する。言葉の端々から相手を思いやる気持ちが伝わる、何でもない、普通の会話。
けれど次の言葉が聞こえた瞬間、桃漣は雷に打たれたように硬直した。
「じゃあ私、明日もお母さんを助けてあげるねっ」
「――――」
その刹那、桃漣の脳内で落雷が爆発したようだった。
鋭い頭痛が走り、それとともに無数の映像が脳裏を一閃する。
炎、赤色、男、男の子、雨、泥、花、そして。
「お、かあ、さん……を……たすけ……」
言葉が、勝手に零れる。
涙が、勝手に零れる。
それに気付いた少女が、桃漣の顔を見て顔を顰めた。
「……なに? 奴隷が、私のお母さんを見ないで」
汚い物を見る目で、母を背後に庇う。
母も――否、清女もまた桃漣を責めるような、怪訝な目で睨んでいた。
「……っ」
その視線にとても耐えられなくて、桃漣は逃げるように走り出していた。
(いやだ……! そんな目で見ないで……ッ)
あれは母ではない。
そう思うのに、曖昧ではっきりとしない母の記憶に清女の顔が重なって、耐えがたかった。
今まで忘れていたことを、助けられず逃げ出したことを責められているようで、身を切られるように苦しかった。
(違う……違うよ……っ、私、ちゃんと、ずっと……!)
ずっと、走って、足掻いて、逃げて、藻掻いて。
(何も、できてない……)
気付いてはならない事実が勃然と眼前に立ちはだかって、愕然と足を止めてしまった。
(私、こんな所で、何して……)
体中の力が抜けて、汚れ物がぼたぼたと足元に落ちる。それらを踏みつけながら、気付けばふらふらと歩き出してた。
(そうだ。私、お母さんを、助けなきゃ……)
何があったのか、全てを思い出したわけではない。自分の生まれも、この奇妙な体も、首飾りのことも、やはり分からない。
それでも、燃え盛る炎の熱さと降りしきる雨の冷たさの中、母を助けなければならないと逃げ続けたことだけは確かだ。
そして、もう一つ。
(……榊)
目の前で斬りつけられた、同じ年頃の少年の鳶色の瞳だけが鮮明で。
(助けなきゃ……)
たった一つの答えが、桃漣の頭の中を占領していた。
(お母さんを、榊を)
前後に何があったかは思い出せなくても、二人の遺体をこの目で見たのは確かだ。
だから、今さら桃漣が何をしようと、二人を助けることなど不可能だ。
理性ではそう判断できるのに、それでも足を止めることができなかった。
(私が……私が、助けなきゃ)
目に見えない凶刃が背中に迫ってでもいるように、いつの間にか走り出していた。
何をすれば助けられるかも、どこに二人がいるのかも、まるで分からないのに。
(もう、私しか、いないから……!)
そうして、懐かしい足の痛みをじくじくと感じ始めた頃。
桃漣は、大門の門衛たちに取り押さえられた。
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