第四十話 夜を迎へてたちまちに変ず

 老人は最後に、自分は家務かむ三職筆頭である家令かれいを務める鶯宿おうしゅくだと名乗ったが、今の少女の耳には何も入ってこなかった。

 何も考えられないまま、どこかの建物に入り、どこからともなく現れた女たちにもみくちゃにされながら服を脱がされた。痛い程に洗われ、強引に髪を梳かれた。その扱いは到底、人のそれではなかった。

 だが抗う力も、文句を言う気力も少女にはなかった。

 結局、鶯宿に促されるままに動き続け、気付けば立派な格子戸の前に立たされていた。


「何をされても、粛々と受け入れるように」

「……え……?」


 ぼうっと目の前の木組みを眺めていた少女に、鶯宿が告げる。それがどんな意味かと問う前に、茶杯がひとつ、目の前に差し出された。


「……これは?」

「薬膳茶です。華族に近付きすぎると、その花の香で惑わされてしまう者もいますので……予防薬です」


 言われて見つめてみれば、確かに茶とも深緑ともつかない濃い色の液体が、円筒の器を満たしている。量としては二口ほどだろうから、呑み込めはするだろうが。


(まずそう……)


 だが、これを飲まずに華族の言いなりになるのは受け入れがたい。抗うためならば、不味くとも飲み干すほかない。

 少女は意を決して口を付けた。


(まずい!)


 変な苦みと鼻をつく甘味に舌が痺れる。あまりの不味さに咳き込む少女には構わず、鶯宿が戸の向こうへ声を張り上げた。


「家君様。お連れしました」

「――入れ」


 鶯宿の声に、命じ慣れた声が応える。すると目の前の戸が音もなく左右に開いた。

 薄暗い室がある、と思ったら、背を押された。


「え」


 涙目のままふらりと一歩前に出る。

 途端、背後でぴしゃりと戸が閉められた。


「!?」


 ハッと振り返る。慌てて戸に手をかけるが、まるで錠でもかけたようにびくともしなかった。


「ちょっと、開け……っ」

「煩いな」

「っ」


 背後の暗がりからまた声がし、少女はびくりと口を閉じた。恐る恐る前を向く。

 両側の折れ戸で区切られた室の四隅に置かれた行燈と、背後の明かり障子から淡く射し込む夕日だけが室内を照らす中、朱殷しゅあん色の立派な長椅子に、あの男がゆったりと座っていた。

 少女を買った家君、鴨跖おうせきだ。

 穏やかに細められた暗い緑青ろくしょう色の瞳も、白髪交じりの総髪も、額や口元に刻まれた皺も、奴隷商で見た時と変わらない。だというのに、あの時には感じなかった悪寒が全身を這い回った。

 僅かに感じたはずの親しみは、名残すらない。


(なんなの……気持ち悪い……)


 鶯宿の言った通り、むっとした甘い香りが鼻をつく。思わず足を引いていた。

 それを、かたん、と戸が優しく拒む。

 それを一通り眺めてから、鴨跖は口を開いた。


「少しは見られるようになったな」


 品定めをされているのだ。その視線が、ここでもまた自分の立場を思い知らされる。

 奴隷を買うのは華族に限らず、上流階級や裕福な家庭であれば普通のことだ。その数が富を表しているとも言う。

 だが今の東大陸は西大陸と違って王花が揃い、神魔デュビィも少なく、治安は悪くない。必然的に大陸内での奴隷の供給は減り、近くの魔窟陸や海上王国から連れてくる者が多くなった。

 特に析木州はごん車站えきがあることから他大陸との交流も盛んで、奴隷にも毛色の違う者が多かった。

 そのため近年では、奴隷には過酷な労働をさせることよりも、その器量を愛でたり、蒐集したりする傾向が強くなっていた。

 この鴨跖も、その例に漏れない。


「しかし、その恰好……鶯宿が気を利かせたようだが」


 鴨跖が少女の纏う服に目を留める。少女もつられるように自分の服を見下した。

 体を痛い程洗われている間に、少女の着物は再び捨てられ、見たこともないような服を頭から被せられた。

 筒袖の両腕は前身頃が繋がり、代わりに背中側が開いていて、うなじにある紐で結ぶ形だ。腰から下はふわりと広がって足首まで隠すほど長いが、下には肌小袖も何もない。

 まだ秋に入るかどうかという少し肌寒いくらいの時節だから耐えられるが、冬では確実に凍死する格好だ。

 何より、動くだけで肌がちらちら見えるのが気にかかる。


「まぁ、良いか。もし本物だった場合、余人に見られても困る」


 独白するようにそう結論付けると、鴨跖が少女を手招きした。


「近くに寄れ」


 いやだ、と真っ先に思った。

 だが奴隷にそんな権利のないことも、既に承知している。

 ここで反抗的な態度を取ろうものなら、どんな体罰を受けるか。一生出られないこの華殿で、最初からそれでは良くない。

 それに、逃げれば処刑だ。


「……っ」


 少女は恐る恐る歩み寄った。長椅子の傍らに立つ。

 その首を、どこからともなく伸びてきた植物が絡め捕った。


「!?」


 がたんっと大きな音を立てて、少女の体が床に沈む。何故と目を見開けば、視界に青い花を咲かせた露草があった。


(何で……これが、操花術?)


 体を起こそうにも、露草が意思を持って少女を捉えているかのように抗えない。

 床に這いつくばる少女を見下して、鴨跖が言った。


「主人を見下してはならぬ」

「そ、そんな、理由で……?」


 思わず声が漏れていた。

 傍に寄る時に主人よりも頭が高いことが気に喰わなかったということらしい。たったそれだけのことで、こんな扱いを受けるのか。


「鶯宿が教えるものと思っていたが……そうか、今回は確認を急いだか」


 僅かに思案しながら戸の向こうを一瞥する。

 戸の向こうにはその鶯宿が控えているはずだが、気配は微塵もない。たとえ声が聞こえていようとも、入室の呼び声がかかるまでいないものとして振る舞うらしい。


「だが」


 と、鴨跖が視線を少女に戻す。


「その顔は良いな。久しく見ていない顔よ」


 くっ、と鴨跖が顔を歪める。そこに見えた嗜虐性に、ぞっとした。


「さぁ、脱げ。それとも、脱がされる方が好みか?」


 笑みを消して、鴨跖が命じる。今度は、嫌だと思う時間すらなかった。

 全身に絡みついた露草が器用に背中の括り紐を解き、あっという間にあられもない姿にされる。どんなに抗っても露草は手に足に絡みつき、隠そうとする場所を次々に暴いていった。

 二の腕、肩、脇、胸、腹、尻、股の内側……誰にも、親にも見せたことのない場所に、風が、茎が、視線が入り込む。


 少女は初めて味わう羞恥と屈辱に、唇が切れるほど歯を食いしばった。

 奴隷商で受けた扱いとも違う、少女を弄ぶのが目的のような扱いに、頭の神経が切れそうなほどの侮辱を感じる。

 その茎の動きが、ある時点で静止した。


「この火傷痕……これは何だ」

「っ……」


 鴨跖が、先程までの試すような視線を鋭い眼光に変えて問う。それに、少女は目尻に涙を溜めたまま鴨跖を睨み上げた。

 言われるがままに答えたくないと思う気持ちと、ここで更に反抗すれば益々酷い目に遭うという自制心がせめぎ合う。

 だが結局、少女が口に出せる言葉など一つしかない。


「し、らない、です」


 露わになった左肩を持ち上げる露草を睨みつけて、どうにかそう返す。

 実際、左の肩口には大きな火傷痕があったが、そんなものは小さなものを含めれば体中にある。恐らく火事に遭ったことがあるのだろうと、奴隷商も言っていた。

 何故そんなことを気にするのかと、顔に出ていたのだろう。


「花紋を消すには、焼き潰すか、皮膚を剥ぐか、切り落とすかくらいしか方法がない」

「……?」


 鴨跖の説明に、しかし少女は眉をひそめるばかりだった。よく分からないもののために、そんな痛い思いをしたいなどと誰が思うものか。

 だが鴨跖がそれで納得するはずもなく、そこからは火傷痕を入念に見ていった。

 やがて少女が抵抗する気力も失い、声を殺して泣き出した頃、詰まらなそうな嘆息が響いた。


「他に花紋のようなものはないか。だが、この大きさの火傷痕では完全な否定もできんな……」


 それは、最早完全に独り言だった。

 ぶつぶつと、思考を纏めるように可能性を上げては潰していく。そうして最後に結んだ言葉はしかし、あり得ないという、分かり切った答えだった。


「消えた王花とは言っても、西大陸のこと。ここまで流れてくる可能性はあまりに低いか」


 何を期待していたのかは、後になって知った。

 西大陸で三人いなければならないはずの王花の一人が、何十年も行方不明なのだという。最初は西大陸で捜索が続けられ、今では隣の東大陸にも捜索の手が広げられているのだとか。

 そこに、何百年も生きているかもしれない子供が現れた。だから金に物を言わせて手元に置いた。それがもし本当に王花であれば、西大陸に大きな恩を売りつけることができるから。


 そうでなくとも、年齢不詳の生き物は高値が付く。

 加えて少女に唯一残された灰玉髄もまた、今や容易に立ち入ることのできなくなった時辰ときの島で時折掘り出される貴重な品物だという。

 時辰の島を再び人の住める場所にしようと考える者もいる中、その奇妙な繋がりは手元に置くに値するのだとか。

 だがその全ては、今の少女には何の慰めにもならなかった。


(かもんとか、おうかとか、知らない……知らないよ、そんなの)


 裸のまま床に転がされながら、少女は惨めに泣き続けた。涙が一つ零れるたびに、力まで抜けていくような気がする。

 まるであの時のようだと、霞がかった頭で思う。抗いようのない巨大なものを前に、無力に泣くしかできない。

 檻の中にいた時のように根拠もなく己を責め嘆く気持ちがまたもたげたが、その深みに嵌るより先に更に最悪な感覚が少女を襲った。


「ぁ……っ」


 ずっと堪えていた悲鳴が、微かな音となって口から漏れる。


(忘れてた……日が……!)


 大陸列車を降りてから、日が沈む度に訪れる体が軋む感覚。骨が溶けるように体が歪み、体中が焼けるように熱い。


「ぅっ……ぐぅ……!」


 玉のような汗が額に浮き、藻掻く度に撫子色の髪が床に散る。それを、鴨跖は汚物でも見るように眺めていた。


「何だ? もしや病持ちか? 聞いていないぞ」


 眉根を寄せる鴨跖の声も、最早届いてはいなかった。逃れるように床板に爪を立てるが、つるつると滑って逃げていく。

 否、違う。少女の腕こそが、縮んでいた。

 手が、足が、胸が、顎が、異常な生体反応に悲鳴を上げるように、蒸気を発しながら圧縮されていく。


「これは……」


 鴨跖が驚愕の声を上げる頃には、床に横たわる少女は十七歳程の大人の体から、十歳前後の子供の体へと変貌を遂げていた。


「……面白い。姿を変えるとは。随分な変わり種だな」


 鴨跖が初めて長椅子から立ち上がり、少女の足元まで歩み寄る。ぜぇはぁと荒い息を吐く少女の肌を、違和感の有無を確認するようにつぅと撫ぜる。


「これを売り込みに使えばすぐに買い手もついただろうに……店主は、もしや知らなかったのか?」

「……っ」


 その通り、少女は奴隷商にいる間、この不可解な現象を誰にも話さなかった。

 世間を知らないというだけでこんな扱いを受けるのに、更に幼い体になるとなれば、更に付け込まれ、もっと酷い扱いになるのは目に見えていた。

 幸いというか、肉体が変化するのは日没と日の出、つまり日が昇っている間だけ大人の体で、日が沈むと子供になるようで、自分の意思ではどうしようもなかったが、隠すことは難しくはなかった。

 檻の隅の暗がりに蹲って、歯を食いしばって堪えていればよかったから。

 けれど。


「王花ではなかったが、これもまた良い珍品だ」


 鴨跖が、思わぬ拾い物をしたとでも言うように顎を撫でる。

 興を引いてしまった。それが吉と出るのか凶と出るのか、背筋に悪寒が走る。


「決めた。お主の真の心根が大人か子供か、儂が見極めてやろう」


 再び長椅子に腰を下ろしながら、鴨跖が新しい玩具を見つけた子供のような喜声を上げる。それから、勝手に話を進めた。


「まずは名前よな。撫子色の髪に蘇芳の瞳……桃漣とうれん。桃漣石の桃漣としよう」

「……とう、れん……」


 まだ整わない呼吸の合間に、与えられた名前を繰り返す。

 まるでしっくりと来ないと、霞む意識の中で少女――桃漣は思った。




       ◆




(また奴隷か)


 鶯宿に追い立てられるように正房に向かう女性の背を木の影から見送りながら、まがきは内心に込み上げる嫌悪感を呑み込んだ。

 金持ちが奴隷を買うのは、よくあることだ。

 基本的な小間使いや雑務は下人に任せるものだが、下人は奴隷と違ってただの平民で、その行動にはある程度の自由が許されている。非人道的な強制は許されないし、いざとなった時の法的拘束力もない。

 その点、奴隷はその一生を金で買うために所有物とみなされ、その扱いは主人の裁量にのみ任される。屋敷は大小の違いはあれどれも閉鎖的で、何があっても外には分からない。

 そのため州の統治者である華族が大っぴらに奴隷を買うことはあまり褒められたことではないが、それでも奴隷のいない華殿などない。


『……っ、たす、け……』

「……ッ」


 掠れて今にも消えそうな、女の子の声がする。年の頃もまるで違うはずなのに、不意に蘇っては籬をいつまでも苦しめる。


(……助けられるかよ)


 籬は女奴隷の背が正房に消える前に踵を返すと、再び校書所に忍び込んだ。

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