第三十九話 析華殿 幽閉深く

 カラカラと進む獣車の後ろをとぼとぼと歩かされて辿り着いたのは、析木せきぼく州府と書かれた扁額が掲げられた巨大な建物だった。

 門衛が両脇に立つ大きな正門の脇にある通用門を潜り、鮮やかな青の色瓦が並ぶ塀の間を抜け、それぞれに贅と趣向を凝らした門を幾つも通って、奥へ奥へと進む。

 途中から忙しそうに歩き回る官吏が増えてきたと思ったら、そのうちまた人の気配が減り始め、気付けばひっそりとした一角に辿り着いていた。

 目の前に、それまでとは少し赴きの違う、黒塗縁の杉戸がある。


 後で知ったことだが、それは役所である州府と、華族が起居する華殿かでんとを隔てる門だった。

 両側には御錠番おじょうばんと呼ばれる門衛が立ち、州府の長である州司を務める華族が出仕する朝夕にのみ、この杉戸が開かれる。

 それ以外では、何人も立ち入れないのだという。


 その州府と華殿を繋ぐ通路は、鈴のついた駕――鑾駕らんがを獣騎が牽くことから御鈴路おすずみちと呼ばれ、やはり州司しか通れない。

 途中にある常に開放されている階閂門かいさんもんも抜けてやっと、析華殿せきかでんと扁額が掲げられた英華門えいかもんに辿り着く。


(これが、家……?)


 目の前にあるもの、起こることの何もかもに、少女は一々圧倒されていた。

 記憶がなくとも、自分の中にある家屋という単語がこんな風でないことだけは確信できる。

 大陸列車も大きな鉄の箱だったし、車站えき通りの市場も賑々しかったが、この析華殿は何もかも規模が違う。


 ただの玄関のはずの英華門は十人が横に並んでもまだ余裕がありそうだし、その両側に続くつるりとした白壁はどこまでも歪みなく伸び、四隅には天を突くような巨大な奇岩が門番のようにそそり立っている。

 目を見張るのは規模だけではなく、装飾の一つをとってみても、とにかくどこもかしこも精緻で華美だった。門や瓦屋根や柱の至るところに、一度目を留めてしまえばいつまで見てもキリがないような細工や技巧が散りばめられている。

 そしてそれは、英華門を過ぎた後は更に顕著だった。


 まず最初に現れた正房へ続くという大門には、柱に夏至光見命なつにいたるひかみのみことの眷属であり、その鳴き声に魔除けの効果があると信じられる鳴鳴蝉テッティクスと、冬至闇見命ふゆにいたるくらみのみことの眷属であり、死の淵からも蘇ると云われる蘇生鶴イェラノースが、今にも蠢きそうなほど躍動的に彫り出され、鮮やかな彩色がなされている。

 すぐ西側にある小さめの側門は華族以外が使用する通用門とのことだったが、そこにさえ柱の上から下まで精緻な彫り物が施され、目が休まる所がない。

 大門の先にある影壁えいへきなどは、一見手入れを怠ったように蔓が巻き付いているが、そこに彫り込まれている緻密な場面を読み込めば、それも計算の内なのだと分かる。

 黎明を司る天邇日花命あめにのひはなのみことと黄昏を司る深淵夜花命ふかふちのやはなのみことが手を伸ばし合う場面で、そこに蔓と花が寄り添うことで影壁は今にも神々が動き出しそうな躍動感あふれる神話の一場面として完成されていた。


 だが何より驚いたのは、英華門の先の大門前で鑾駕を降りたと思った主人が、脇に建つ門房から現れた小さな輿にまた乗り換えたことだ。


(まだ自分で歩かないの?)


 既に自宅の敷地内だろうに、どれ程距離があるというのか。

 少女があんぐりと口を開ける間にも輿は影壁を脇から越え、真っ直ぐに横切る水路を渡って現れた見事な建物の中央を通り抜け、どんどん進む。

 建物の終わりには入口が丸くくりぬかれた満月門があり、その先には更に立派な建物が、正面と左右の三方に檻のように並んでいた。奥院だ。


 そこから先は明らかに空気が違うということは、流石に少女にも理解できた。

 円形の池の中央を十字に通る游廊と、その中央に浮かぶように建つ涼亭あずまやのせいだろうか。或いはその奥に建つ、一際屋根が高く立派な装飾の建物が放つ重厚感のせいかもしれない。

 だがそれよりもっと別の鋭い感覚が、少女の足を止めさせた。


(……見られてる?)


 満月門のすぐ左右に建つ、比較的装飾の少ない建物の辺りで視線を止める。一つ一つが小さな庭を持つような風流な造りで、視線はその木々の合間から向けられているようだった。

 掃除夫か、庭師か、或いは奴隷か。

 奴隷商の天幕にいた一月ひとつき程で、すっかり人の視線を察することに長けてしまった。

 特に、悪意ある視線に。


(でも、何で?)


 同じ奴隷ならば、仕事も関心も割り当てが減る分、警戒するよりも歓迎されるのではないだろうか。それとも、新入りが来ると困ることでもあるのか。

 少女が嫌な予感に胸をざわつかせていると、輿に付き従っていた従僕らしき老爺が、足を止めた少女の視線を追った。


「そこは校書所きょうしょどころです」


 そう教えてくれたあと、老人は傍にいた男に何事かを耳打ちし、輿に向かわせる。輿はそれを受けて一度は止まったが、すぐに歩みを再開すると奥の建物へと向かっていった。

 どうやら、この先は奴隷が入っていい場所ではないらしい。


「こちらに来なさい」


 この辺りが新しい住み処になるのかと周囲を観察し始めたところ、老人が少女を呼び寄せる。

 少女は、予測がつかず困惑した。


「あの……私は、これからどこに……」

「あなたは家君いえぎみ様に買われた身です。ですがその身なりを整えなければ、正房にも上がれません」

「せいぼう……」

「家君様と、その曾孫ひひこ様である小若君様のお住まいです」

「いえぎみ」

「それに、あなたに本当に花紋がないかどうか、わたくしの目でも確認しなければ家君様の前に呈上できません」

「かもん」

「…………」


 知らない単語に一々困惑する少女に、ついに老人が押し黙る。一拍の間の後、表情は変えぬまま、もしや、と問うた。


「あなた、華族や奴隷について、知識が乏しいのですか」

「え? あ、多分……」


 乏しいの基準が分からなかったが、当たり前のように語られた単語のどれも正確に理解していないのだから、そうなのだろうと少女は首肯した。

 すると老人は、逡巡するような間を置いてから「ふむ」と頷いた。


「先に、必要最低限の知識だけでも覚えておいてください」


 そこから、突然の説明は始まった。


「まず、あなたを買い取ったのは、東大陸は北端に位置する析木せきぼく州の州司であらせられる華族、鴨跖おうせき様です。州司とは州を治める州府のちょうのことで、華族の長である家君いえぎみ様がなるのが通例です。華族は分かりますか?」


 差し挟まれた問いに、少女は素直に首を横に振った。


「華族も知らないとは……どの島の果てから来たのですか?」

「……分かりません。覚えてない、から」

「もしや、ものを知らないというのは無知という意味ではなく、記憶がないということですか?」

「はい……」


 無知という言葉に内心でかちんときたが、少女は素直に頷いた。

 記憶がないことは知られていた方がいいだろうし、何かの拍子で記憶を取り戻すこともあるかもしれない。

 だが老人は、まるで予期せぬ誤算に苦悩するように眉を跳ね上げ、眉間の消えない皺をぐっと深くした。

 怒られるかと思ったが、それだけだった。あの主人に仕えるだけあって、どうやら鋼の自制心を有しているらしい。

 小さく嘆息すると、再び説明を再開した。


「華族とは大陸十二州をそれぞれ治める十二の一族のことで、花圃かほと呼ばれる特別な花園から生まれ、四世代で州を管理する高貴で長命な方々のことです。生まれながらに花を模した痣のような花紋が体のどこかにあり、花を操る操花術そうかじゅつをお使いになられます」

「長命って……あのひとは」

「ご主人様、あるいは家君様とお呼びなさい」

「いえ、ぎみ、さまは、幾つなの?」

「家君様は御年二百七十一歳となります」

「に……」


 予想しなかった数字を言われ、少女は思わず瞠目した。


(どう見ても、小父さんと同じくらいにしか……)


 無意識に誰かと比べ、それが誰のことだったかと内心で首を捻る。

 だがその疑問は、立て板に水のように続く説明に追いやられ、あっさり流された。


「あなたがお仕えするのは析木州の華族四世代ですが、今この析華殿におられるのは、家君様と内君うちぎみ様。ひこである若君様とその奥方である姫君様、そして曾孫ひひこでありまだ幼い小姫君様と小若君様です。嫡子である今君様と奥方の妻君めぎみ様は、俗に移動宮廷ミシュカーンと呼ばれる御花大宮おはなのおおみやに出仕し、基本的に不在となります」

「帰ってこないの?」

「いえ。年に数度はご帰郷なさいます。その時に、可能であればまたあなたをご紹介しましょう」


 結構です、と内心では思ったが、少女は賢明にも口を噤んだ。

 州の最高権力者に買われたのであれば他の奴隷が羨むのも道理だと思ったら、仕える相手が実は六人もいると言われ、全く損した気分だった。更に二人増えるなど、聞きたくもない。

 老人が更に続ける。


「あなたはこれからまず体を綺麗に洗い、身なりを整え、正房の家君様の御前に上がります。その後で後房の内君様のへやにお伺いし、御裁可を仰ぎます。それが済みましたら、あなたが使用する棟に案内します」

「外に出たい時は、どうすればいいの?」

「…………」


 言いながら早速歩き出そうとした老人に、至極当然の疑問をぶつける。だが返されたのは、愚か者を見るような冷たい視線だった。


「華族に仕える者は、我々のように正式な官職を与えられている家務三職も、下働きをする下司や下人、奴隷に至るまで、特別な理由がなければまずこの華殿から外に出ることはありません。食事や日用品は州府から届けられ、それ以外の奢侈品でも、必要なものがあれば上に申告し、認められれば受け取ることが可能です」


 後で知った話だが、英華門から伸びる白壁は四方に至り、言葉の綾でなく華殿という世界は閉ざされていた。他の三方の壁にも一応門はあるが、常には封鎖され、やはり許可なく出入りすることは不可能だった。

 唯一の大門も通れるのは州司だけで、それ以外の者が州府と華殿とを行き来する場合には、御鈴路の傍らに並行して伸びる側道そばみちを使用し、大門の西にある小さな側門で出入りするのだとか。

 だが今の少女にそこまでの思考が及ぶわけもなく、強制的に気付かされたたった一つの大きすぎる事実に、呆然と蒼褪めるしかなかった。


「もしかして……私、一生、ここから出られないの?」


 震える声で問う少女に、老人が蔑視と憐憫の混じった声で、慰めというよりも諦めを促すように告げる。


「ここは外の世界とは隔絶された小さな、完結した世界です。外の世界は、最早ないものと思った方があなたのためです」

「――――」


 淡々と告げられ、少女は自分を買った男の言葉の本当の意図をこんな時になってやっと理解した。


『儂の家にこんな狭い場所はない』


 あの檻のように狭い場所はないが、そこが檻でないとは決して言っていなかったということに。

 そしてそれは、幼さゆえに人を疑いきることのできなかった少女の、甘い考えと淡い期待を完全に打ち砕いた瞬間だった。

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